「はあ~。これが
遠目でテントを見た時には風情に欠ける気がしたものの、係りの者は皆和服を纏っているし、
長椅子の傍では、二メートル以上はあろうかという、大きな朱塗りの傘が添えられていた。
茶釜や、釜の炉となる
それらが、茶室の緊張感ではなく、開放感のある屋外の風に包まれている。
野点とは、野の天然空間と、茶の洗練された空間が融合した、実に不思議な世界だった。
陽が大分落ちていて、もうすぐ茶席も閉じるからだろうか。他に客はいなかった。
この世界を一人締めできたのなら、少しは気分良く茶も飲めただろう。
だが、客はおらずとも、千尋は一人ではなかった。
「野で茶を
千尋の傍に座るロビンが、千尋を見上げながら言う。
「おい、他の人に聞かれるぞ。喋りたかったらワンワンで我慢しろ」
「ワンワン」
「それで良し」
「ワン」
ロビンをたしなめた所に、ちょうど菓子器を運ぶ役の
おっとりとした顔つきの中年の女性で、身のこなしもどこか緩やかである。
彼女は、慣れた手つきで、陶器の菓子器を長椅子に置いてくれた。
その菓子器の上に乗っていたのは、和菓子であって、和菓子ではない。
……そこには、
「……綺麗だ」
千尋は思わず感嘆の言葉を漏らす。
菓子器に乗っていたのは、寒天の生菓子だ。
小さな立方体の寒天が、白あんの周りに無数に付いている。
寒天は青色、紫色、桃色に彩られていて、夕陽の中では輝いてさえ見えた。
六月という季節に相応しい、見ているだけでも清涼感を感じる菓子だった。
「紫陽花、という名前の和菓子です。そのままですねえ」
点て出しが、ほんのりと笑って名を教えてくれる。
「そうか。紫陽花の季節ですもんね」
「ええ。梅雨が来て花が散る前にお召し上がり下さい」
「ははっ。そうさせて頂きます」
女性の冗談に思わず笑顔になりながら、菓子器を手に取る。
瞬間、指先に訪れた感覚に、千尋は思わず目を見開いた。
「冷たい……」
「あら、冷たすぎましたでしょうか?」
「いえ、そういうわけでは」
千尋は自分の指先を見つめながら呟く。
「これ、もしかして器を……」
「ええ。冷やしておきました。ではお茶をお持ちしますので、ごゆっくり……」
去り行く女性を呼び止めて、何故、と聞きたい気持ちに駆られる。
だが、答えは既に体感していた。
指が心地良いのだ。
夕方とはいえ、六月中旬の陽気はほのかに暑い。
その熱気を、指先に伝わる冷気が相殺してくれる。
冷たさは実にささやかなものであったが、心まで涼しくなった気がした。
紫陽花を頬張ると、白あんの重い甘味が味覚を支配した。
口内で潰れるように広がる触感も心地良く、美味という他ない。
千尋は上機嫌になりながら、遺された菓子器を見つめた。
素朴な姿だからこそ、鮮やかな紫陽花を引き立ててくれる、良い
残念ながら、千尋にはその菓子器の良さが分からない。
だから、というわけでもないのだが、千尋は菓子器の意匠とは別の事を考えていた。
(……もしかして、この心地良さの為に、ヌバタマは器を冷やせと言っていたんだろうか……)
菓子器を見つめたままで、今日の稽古を思い出す。
稽古の不調と日暮れへの焦りに気分を悪くして、店を飛び出した事を思い出す。
ヌバタマの稽古には、それなりの理由があったのだ。
だというのに、自分は感情に任せるままに行動し、彼女の心中を慮ろうとしなかったのだ。
彼女は、怒っているだろうか。
もしかすると、もう稽古を付けてくれないだろうか。
そうだとしても、謝らなくては……。
「なっ、なっ。俺が言った通りだろう?」
自責の念に駆られている所へロビンがまた喋り出したが、聞き流す。
しかし、続けて発せられた言葉については、そうはいかなかった。
「おっ……おい千尋。偽JCがいるぜ。見た目だけ十五歳の女がいる」
「随分な言い草ですね」
ロビンの言葉に対して、やや離れた所から返事が返ってきた。
聞き覚えのある、穏やかで、それでいて芯の強い声。
声の主を視界に捉える前に、誰が発したものなのか分かってしまった。
「ヌバタマ……」
「探しに来たんですよ。もう」
視線の先にいたヌバタマは、露骨に顔を背けながらそう言った。
◇
「ヒャッヒャッヒャッ! ロビンが茶道の極意と来たか。ウッヒャッヒャッ!」
一日の営業を終えた
客席で寛ぎながら今日のロビンとの出来事を話すと、オリベは腹を抱えながらひたすらに笑い続けた。
「……あいつ、やっぱり極意なんか知らないんですか?」
「そりゃあそうだよ。茶道具の
その点、あいつは生まれてすぐに野良犬になったんだから、知っているわけがないさ。
ロビンは犬型で、当然茶道なんかできないから、そこは、まあ、可哀想かもしれんが」
「むう……」
楽しそうなオリベとは対照的に、千尋は口をへの字に曲げる。
行き当たりばったりの言動から察してはいたのだが、改めて『あいつは茶を知らぬ』と言われれば、やはり面白くはない。
「俺、あいつにドーナツも奢らされましたよ」
「ほう。大方、女の子を探しに連れられたついでだろう?」
「当たり。よく分かりましたね」
「その趣味は嫌いではないからね。私もいつか同行したいものだ。ヒャッヒャッ!」
オリベがまた笑う。
だが、今度はその笑いはすぐに引っ込んでしまった。
千尋の隣に座るヌバタマが、嗜めるようにぎろりと睨み付けたからだ。
それを受けたオリベは、大きく開けた口をすぼめて、誤魔化すように口笛を吹き始める。
「まったく、オリベさんったら」
「ははは。まあ、まあ……」
この子も、なかなかに苦労性のようである。
そんな事を思いながらヌバタマをなだめると、彼女は視線を露骨に逸らしてきた。
やはり稽古の件で怒らせたのかもしれない。
だがその割には、顔色には怒気が見られなかった。
「そうそう、まあまあ、そう怒ってはいかんぞ。
それに、良いじゃないか。極意とまではいかないが、千尋は
「和敬清寂……?」
「うむ。茶道の心得とされる禅語だ」
オリベの口調が真剣なものになる。
千尋も居住まいを正し、頷いて言葉の先を促した。
「和敬清寂とは、調和。敬愛。清廉。静寂……とまあ、そんな言葉の集合体だな。
四文字一つ一つが茶道と深く関わっているのだが、千尋は今日、そのうちの和を学んだのだよ」
「和……調和、ですか。具体的には?」
「うむ。千尋は今日、偶然見つけた野点席で、器の冷たさに感じ入ったそうだね」
「はい。その……」
ちらとヌバタマを横目で見ながら、言葉を続ける。
「……ヌバタマの稽古にも、ちゃんと意味があったんだな、と思いました」
「うむ。その様に相手の意を理解しようとするのが和だ。
ヌバタマも、千尋が店を飛び出した後『どうしたんだろう』とおろおろして、千尋を気に掛けていてな。
結局、いてもたってもいられずに、探しに出かけたのだが、これもまた和だな」
「オ、オリベさんっ!」
今度は声を上げつつ、ヌバタマがまたオリベを睨みつける。
だが、オリベはまるで子供の様にアカンベエを返し、その表情のままで千尋に向き直った。
「千尋や。話の続きだがね」
「真面目な話でしたらその顔は止めて下さい」
「うむ」
止めてくれた。
「この子は確かに付喪神だし、茶道歴も長い。
だが、まだまだ生後十五年。心はそれ相応なのだ。
だから、お前の事情を考えられずに自分の調子で稽古を進めようとした。
お前もまた、ヌバタマの意図を理解しようとせずに、稽古を飛び出した」
「………」
「だが、互いの立場や考え方を理解しようとすれば、つまりは『和』の心があれば、問題にはならなかった。
これが、今日お前が学んだ事だ」
「和、ですか……」
言葉をかみ締めるように何度か頷きながら呟く。
「要するに、相手を気遣えって事ですよね。
話を聞いただけだと、そう難しそうじゃないんですが……」
「ああ。だが実践するとなると、これが極めて難しい。
茶道の極意とは、当たり前の事なのかもしれんな。
当たり前の事を当たり前にこなせてこそ、本物の茶人というわけだ」
「……なんだか、深い話ですね。オリベさん、ただ漫画読んで笑うだけの人じゃなかったんだ」
「そうだろう? 千利休の言葉をパクったからな! ヒャッヒャッヒャッ!」
どうにも、よく分からない人なのであった。
「ま、そう深刻に捉える事はないぞ」
オリベが笑うのを止める。
「二人とも若いんだから、多少の衝突はあるさ。
でも、後からちゃんと相手を思いやったのだから、今はそれで良い」
「……はい」
「ヌバタマは、千尋を心配して探しに出た。
千尋だって、ほれ。あの紙袋こそが思いやりの証だろう?」
オリベが、会計棚に置いた紙袋を指差した。
「そういえばあの紙袋、どこかで見たような……」
「ああ……あれだよ。……海沿いのドーナツ店」
ヌバタマの疑問に、千尋はぶっきらぼうな口調で答える。
同時に、ヌバタマが何度も顔を背ける理由が分かったような気がした。
あれは、やはり怒りではなかったのだ。
今まさに、自分が感じている感情……気遣いからくる照れ臭さなのだ。
「その……稽古抜け出して、悪かったからさ。お詫びにドーナツ買ってきた。
俺とオリベさんが一個ずつ。ヌバタマは抹茶味を二個な」
「に、二個も!」
ヌバタマの声が喜色に満ちた。
対照的に、顔付きの方は神妙で、千尋に折り目正しく頭を下げる。
「お土産、ありがとうございます。
……私もごめんなさい。何か大事な用事があったんでしょう?」
「……そうだな。女の子のナンパ程じゃないけどな」
笑って答える。
だが、行き先は教えない。
他の者ならともかく、オリベとヌバタマに教えるつもりはなかった。
家族を全滅させた茶道に対して、複雑な感情を抱いてる為に、口外したくないという事情はある。
だが、それだけではない。
父の死を未だに悲しんでいると知られると、ヌバタマらが自分自身を責めるのではないか、と千尋は思っていた。
他の家族はともかく、父は茶道具を守って亡くなっている。
その死を自分が嘆いていては、茶道具の付喪神である二人が気に病むかもしれない。
だから、千尋は、笑って答える。
「ほら、ドーナツ食べようよ。コーヒー入れるからさ」
それよりも今は仲直りだ、と千尋は思考を切り替える。
だが、ヌバタマは面白くなさそうに頬を膨らませた。
その行動の意が分からず首を傾げると、ヌバタマはビシッと指を突き立ててきた。
「千尋さん、そこはお抹茶を点てるからさ……でしょう」
「ええっ? 仕事以外では勘弁してほしいんだけれど……」
「日中のお稽古も半端でしたから、その続きにちょうど良いですよ」
「あれ、まだ終わってなかったの?」
「もちろんです。もちろん終わってはいませんが……」
ヌバタマが言葉を切る。
膨らんでいた彼女の頬が、ゆっくりと萎んだ。
「……ドーナツに免じて、それは明日にしましょうか」
ヌバタマは、ようやくにっこりと微笑んでくれた。
やはり、役得かもしれない。
気がつけば、千尋も似た様な笑みを浮かべていた。