猫の町・尾道には、猫に関わるスポットも多い。
千光寺山の麓にある
数千体の猫グッズがある美術館や、猫を模したアクセサリーショップ、猫の絵が描かれた板壁や、地面に石を埋め込んで作られた猫の絵……
とにかく、猫、猫、猫尽くしの小路である。浄土寺方面に向かうにはちょうどいいので、千尋もこれまでに何度も通ったことがある道でもあった。
雪之丞が向かったのは、その細道である。
麓側入口、板壁付近で雪之丞が「アーオ」と一鳴きすると、艮神社の境内から、キジシロ猫がぬるりと出てきた。
雪之丞が低い声でニャゴニャゴ言いながら歩み寄る。多分、聞き込みをしてくれているんだろう。
「ワンッ! 頼むぜ、雪之丞」
「少し黙っとれ! ……ニャゴ、ニャゴニャゴ」
急かすロビンに一喝し、雪之丞はなおも話を続ける。
その間、千尋は板壁の絵を見ていた。十匹ほどのディフォルメされた猫が描かれているのだけれど、どの猫も絵の具が剥げ落ちている。
長年風雨に晒されて、こうなったみたいだけれど、どれくらい経てばこうなるんだろう。
なんせ、千尋が小さい頃は、まだ尾道は猫の町といわれていなかった。この絵もそんなに昔からあるわけじゃなさそうなのだ。
そもそも、尾道が猫の町になったのは、いつからなんだろうか……、
「分かったぞ」
雪之丞が話を切りあげて、のそのそと戻ってきた。
「情報屋のフジはさすがじゃの。案の定じゃった。この辺りでは有名な、悪猫のダオって黒猫がおるんじゃがの。そいつが、それらしき物をくわえとったらしい」
「よし、じゃあそいつをぶっとばそう! どこにいるんだ?」
「ダオは縄張りを持たず、いつもそこいらをほっつき歩いとるんで、特定はできん。多分どこかで悪さをしとるんじゃろうなあ」
「じゃあ、悪さしそうな場所を探そう!」
「そんな場所、知らんわい。千尋、どうするんじゃ?」
「今度は、ダオって猫がどこにいるか聞き込んでくれないかな」
「まあ、それしかないの」
一行は、猫の細道を前進した。
山中に伸びているこの道は大部分が木々に覆われていて、青さが宿ってきた三月の葉と、その隙間から差し込む陽光は、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
確かここは、猫の細道という通称以外にも、尾道イーハトーヴ、なんて呼び方もされていたはずだ。
かの有名な作家、宮沢賢治が作り出した理想郷……イーハトーヴ。
いわれてみれば、幻想的なこの小路には、適した名前かもしれない。
そこを喋る猫が先導して歩くものだから、道を抜けたら、猫の事務所か、注文の多い料理店にでも迷い込むような錯覚さえ覚えてしまった。
だが、そんなことはなく、ちゃんと夜咄堂付近の石段に抜ける。
その先の仏塔や広場で雪之丞が鳴くと、その都度猫が現れたので聞き込んでもらったけれど、いずれも空振りだった。
そうこうするうちに、次第に陽も落ちていく。
もしかしたら情報屋のフジのところに、新しい情報が入っているかもしれない。
雪之丞の発案で、スタート地点である艮神社に戻ってみたが、それが幸いした。猫の絵が描かれた板壁で、爪を研いでいる黒猫がいたのだ。
「あっ、悪猫!」
真っ先に気がついたロビンが叫ぶ。
反射的に体を動かしたのは雪之丞で、彼は素早く黒猫に詰め寄った。
なるほど、こうやって板壁の絵の具は剥げ落ちていたんだな、なんて関心をしていたのは、千尋だけだったようだ。
「間違いない、ダオじゃ。ニャゴッ!」
雪之丞が出会い頭に、ダオの鼻へ猫パンチを一発見舞う。
「フギャッ!?」
「ニャゴッ!」
「フギャフギャッ!?」
ダオも一度は反逆的な姿勢を見せたが、雪之丞の二発目で完全に怯んでしまった。
それからは雪之丞のペースで、ダオを抑え込みながらニャゴニャゴと声をかければ、ダオは暴れることもなく、素直に返事をしているように見える。
「やっぱりそいつか? キーホルダーはどこだって?」
興奮気味にロビンがまくし立てながら近づき、千尋も後に続く。
話は終わったのか、雪之丞はなおもダオを抑えつつ、千尋らの方を向いた。
「おう。こいつじゃ。光物なんで玩具にしようと取ったらしい。でも飽きてしもうて、この辺のでかい猫にあげたそうじゃ。……あっ!」
向き直った時に力が緩んだのか、ダオが雪之丞の手をすり抜けて神社の方へと駆けた。
途中で一度だけ立ち止まり「ダオーウ」と大声で鳴いた後、また駆けだして、その姿はすぐに見えなくなってしまう。
「……嘘はついてないからな、じゃと」
「見つかったと思ったら、また猫探しか……」
同じことの繰り返しになってしまって、気が重い。
雪之丞も、尾を力なくだらんと下げている。
ただロビンだけが覇気を前面に押し出して、力強く足踏みしていた。
「よし! じゃー今度は、でかい猫を探そう!」
「続きは、明日にせんか? この辺りは照明がないけえ、暗くなると危険じゃ。こういう時は、急がば回れじゃ」
シズクの人探しに成功した教訓からの発言だろうか、雪之丞がしたり顔で言う。
千尋も同調して頷いたが、ロビンは解せぬようで、首を傾げていた。
「なんでだよ! 急がば急げだよ! 探そうぜ!」
「でも、俺もちょっと疲れたよ。それに、店も長くは空けられないしさ」
「じゃあ、雪之丞だけでも!」
「言うたじゃろ。危険なんじゃ」
「フゴッ……」
いつものロビンの鼻息が、どこか悲しそうに響く。
しかし反論はなく、結局一行は解散したのである。
◇
夜咄堂に、風呂はない。
だが、銭湯で済ませれば解決する問題だ。当時の千尋は家賃を削減する為、承知の上で店に引っ越している。
商店街中央にある銭湯は、ライトグリーンのペンキが風情を生み出していて、昭和の印象が強い尾道商店街ではよく映える。
夜咄堂からは片道十五分なので、立地も悪くはない。……冬になるまでは、そう思っていた。寒い日は急いで帰らないと、湯冷めしてしまうのだ。
完全に考え足らずだったのだけれど、かといって夜咄堂に風呂を増築するような余裕もない。
小走りで帰宅路を行きつつ「どうしたものだろうか」と考えるのは、慣例行事にさえなっていたが、最近ではその機会も減っていた。
多分、寒さが大分薄らいだから、問題を気にしなくなっているのだろう。そして冬にはまた後悔するのだ。
「……もうすぐ四月か。夜咄堂に来て、初めての春だな」
商店街の細路地を、防犯用のペンライトで照らして歩きながら、物思いにふける。
春に控えた茶会が終われば、すぐに初夏。夜咄堂に来てから一年が経過する。
だから、今回の茶会は一年の集大成といえなくもないだろう。
この一年で、嫌いだった茶道に向き合えて、茶人としてのスタートに立てた。
点前や道具も少しは覚えて、技術や知識が身に着いた。
それらに関しては、成長したかもしれない。
……でも、言い換えれば、教科書どおりの茶道を覚えただけ。創意に関しては、まったく考えてこなかった。
このまま創意を持たずに茶会を迎えるわけにはいかないけれど、一体どうすればいいのか分からない。
思い悩みながら歩くうちに、千光寺山の石段を上がり始め、夜咄堂はだんだんと近づいていた。
夜咄堂と猫の細道に分岐する、石畳の三叉路に差し掛かった時に、犬の遠吠えが耳に届いた。
「今の、ロビン……?」
脱力感が充満した鳴き声だ。間違いない。
聞こえてきたのは猫の細道の方だった。固定照明がない猫の細道は、日中以上に異世界への入口の様相を呈していて、足を踏み入れるのはちょっとばかり気が引ける。
それでも鳴き声が気になって猫の細道に進むと、さほど歩かないうちに、細道を行ったり来たりするロビンの姿が見つかった。
「お前、夜になにやってるんだ?」
「あっ、千尋!」
ペンライトに照らされたロビンは、普段にも増して土埃にまみれていた。
返事は聞かなくとも、それだけで大方の予想はつく。
同時に、ロビンの想いの深さが、新たな疑問として浮かび上がってきた。
「でかい猫探し、か?」
「おう」
「でもお前、猫語分からないんだろうに」
「そーだけどさ。じっとしてられないんだよ。……今んところ、猫は一匹も見つけてないんだけれど、この辺うろついてりゃ、何か見つかるかもと思って」
「……一体、なんでそこまで」
「ワンッ! そんなの、決まってんじゃん」
ロビンが、舌を出しながらトコトコと近づいてくる。
足元まで来た彼は、眠そうな瞳で千尋を見上げながら、続きを口にした。
「あの女の子は、俺を可愛がってくれるんだよ。だったらその気持ちに応えたい。ただそれだけの、捻りもなんもない理由だよ」
「見つけられないかもしれないのに?」
「そーだな。結果として見つからないかもしれねー。でもさ、そうしたいんだよ。俺にできることがあれば、少しでもやっておきたいんだよ」
「……ロビン」
俺にできる事があれば。
その一言を聞いた千尋は、ぐわん、と横っ面を殴られたような衝撃を受けた。
必ずしも見つかるとは限らない。でも、行動をやめてしまったら、何にもならない。
だから、失敗を恐れてはいけないのだ。
ただただ、相手のことだけを考えて取り組むべきなのだ。
「……ロビンに教えられるとは、思わなかったな」
「あん。なにが?」
「こっちの話だよ」
中腰になってロビンの頭をワシャワシャと撫でる。
それから千尋は、猫の細道の奥へペンライトを向けた。
「猫探し、俺も手伝うよ」
「ち、千尋!」
ロビンが元気よく足元にすり寄ってきたが、ズボンに泥をこすりつけられてしまう。
口元を歪めながらロビンを払いのけて、千尋も猫の細道を歩き始める。
草むら、塀上、石段の影……あらゆる場所にペンライトを向けて、まずは二往復程するけれども、一匹たりとも猫は見つからなかった。
それでも、千尋とロビンは探すことをやめない。
加えてもう一往復。せっかく銭湯に行ってきたのに、首筋が汗ばんでくる。
更にもう一往復。石段のアップダウンに、明日の筋肉痛の予感が漂ってくる。
……やっぱり見つからない。もしかしたら見当違いのことをしているのかもしれない、と思う。しかし、それでも二人は、でかい猫とやらをひたすらに探し続けた。
「ハアハア、ハア……ったく、どーなってんだよ。猫の細道なんだから、もっと猫がいてもいーだろうにさ。ハア」
息が荒くなってきたロビンが、周囲を見回しながらもぼやく。
「いても、警戒されてるのかもしれないな」
「なー、千尋。でかい猫ってヒントはあるんだから、そこいらの店で聞き込んだらどーだ?」
「無理だよ。この時間はどこも閉店してる」
そう言って、ちょうど近くに会った店の入口をペンライトで照らす。
近所ということもあって、何度か訪れた経験がある所だった。
「ここは?」
「猫グッズがある美術館だよ。福石猫も売られてるんだ」
「福石猫ってなんだ?」
「知らないのか。尾道の町中で、招き猫の柄をした石を見かけたことがあるだろ? あれは、
ふと、自身の説明に引っかかりを覚える。
福石猫は、確か千体以上は点在していたはずだ。デザインも大きさもバリエーション豊かで、中には人間の赤ん坊ほど大きな物もある。
……でかい猫。もしかしたら!
「ロビン、こっちだ!」
ひらめきが走るのと同時に、石段を一目散に駆け下りる。
ちら、と後方を見てロビンがついてきているのを確認しつつ、猫の細道を抜け、艮神社の鳥居近くまで下りてきた。
鳥居の先には広場があり、その先には境内があるけれども、今回用事があるのは、手前の広場の方だ。
浄土寺山に行く時に、艮神社をショートカットするのだけれど、その際に目にしたことがある。記憶が確かなら、広場の一角には……、
「あれだ!」
ペンライトが、ひときわ大きな福石猫を捉えた。
自身もそこに近づきながら、福石猫を中心にしてペンライトの光を旋回させると、微かな反射がある。猫の形をしたキーホルダーの反応だった。
「ワンッ! おい千尋……」
「ああ。キーホルダーだ」
「確かにでかい猫にあげちゃいたが……ちくしょう、あのダオって悪猫、意地悪しやがったな」
「見つかったから良しとしよう。ほら」
ロビンをなだめつつ、キーホルダーを手に取ろうとする。
だが、千尋の手は途中で止まってしまった。
「どーした、千尋?」
「……見てみろよ」
「フゴッ!?」
間近でキーホルダーを凝視したロビンが、裏返ったような鼻声を漏らす。
ガラスの宝石が埋まっていたと思われる目の部分には、ぽっかりと穴が開いていた。
◇
「なるべく早く連れてくるから」と言っていたロビンが、約束どおり山越を連れてきたのは、翌日の夕方だった。
玄関に顔を覗かせた山越だけなら問題はないのだけれど、この日は少々の客が入っていた為に、ロビンまで上げるわけにはいかない。
ヌバタマに店番を頼んだ千尋は、カウンター下の棚で保管していたキーホルダーを袖に入れて、山越へ歩み寄った。
「やあ、いらっしゃい」
「こんにちは。……またロビンに引っ張られちゃって」
「変な犬だよねえ、本当に。……でも、奇遇だね。今日は渡しておきたい物があるんだよ」
変とはなんだ、と言わんばかりにロビンが鼻で小突いてくるが、無視して玄関の外に出る。
袖に突っ込んだ指先は、無意識のうちにキーホルダーの目の穴に触れていた。
……正直なところ、大いに心配ではある。キーホルダーが見つかったとはいえ、完全な状態ではないのだ。
それでも、彼女は喜んでくれるだろうか。ロビンの執念は、実るのだろうか。
微かに眉をひそめつつも、千尋はキーホルダー取り出した。
「確か、キーホルダーをなくしてたよね」
「はい」
「それって、もしかして、これのことかな」
「あっ、これ……」
山越は目を丸くしながら、キーホルダーをそっと手に取った。
「ロビンが見つけてきたんだよ。……残念ながら、見てのとーりで、その時には既に欠けてたんだけどさ」
「……そう。ありがとうね、ロビン」
山越は振り返って中腰になると、ロビンの頭をゆっくりと撫でた。
二度、三度、四度と、何度も何度も。
大好きな女の子に、こうも労われている。
……だというのに。
ロビンは喜ぶことなく、むしろ捨て犬のような目つきで、山越を見上げていた。
「……残念、だったね」
「見つかっただけでも嬉しいですよ」
「ロビン、偉いよね」
「はい。感謝しています。でも……」
山越は、顔を見せぬまま言う。
「これは、貰った物だったんです。……転校しちゃった大事な友達が、お別れの時にくれたんです」
「それが、宝物の理由だったんだ」
「だから、友達に申し訳なくて……」
「………」
掛ける言葉が見つからずに、千尋は黙って少女の傍へと歩いた。
慰めたところでアクセサリーは元に戻らない。罪悪感は、払拭のしようがないのだ。
「あっ……」
ふと、ロビンが少女の手からすり抜けた。
優しく撫でてもらいながら、どういう了見だろうか、と思うが、答えはすぐに分かった。
ロビンと、視線が合ってしまう。身じろぎもせずに、熱い瞳で自分を見上げてくる。
「ロビン……」
普段は饒舌な付喪神の名を呼ぶ。
今は山越がいるから喋らないけれども、それでもロビンの気持ちは伝わってきた。
わざわざ自分を見つめるのだから、自分にしかできない頼みごとがあるのだ。
自分にしかできないこと。
すなわち、夜咄堂の主にしかできないこと。
それが分からないほど、千尋も鈍感じゃない。
「……一つ、提案があるんだ」
視線をロビンから山越に移し、静かに語りかける。
まだ、道具は見繕っていないけれど、なんとかなるだろう。
それよりも、大事なのは気持ちの方だ。
ロビンが昨晩、そう教えてくれたじゃないか。
「……なんでしょうか」
「良かったら今度の日曜、またお店に遊びに来ないかい? 二階の茶室に案内するよ」