尾道茶寮 夜咄堂   作:加藤泰幸

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第十六話『花見茶会 その一』

 桜の花びらが春風に流されてふわふわと舞っている。

 庭の小さな溜池にも落ちているけれど、まだ数は少ない。本格的に埋め尽くされるのは来週末だろう。

 茶会の準備の手を止め、茶室の窓から桜を眺めていた千尋は、胸の鼓動が異様に高まるのを抑えきれなかった。

 いくら事前に準備を整えたところで、桜の具合だけは運次第だ。

 その上、今日の題目は花見茶会なんだから、咲いているのといないのとでは、天地の差がある。幸運というべきだろう。

 でも、その幸運がプレッシャーになっている。準備も天候も桜も良かった。しかしお点前が駄目、となってしまえば、全てが台無しになってしまうのである。

 自分は、どちらかといえば緊張する方だし、また何かドジを踏んでしまう可能性だってあるだろう。その光景を想像するだけで、背筋がピンと伸びてしまう。

 この調子じゃ、お茶会まで三時間、ずっと緊張のしっぱなしだ。これで、本当に良いお茶が点てられるんだろうか……。

 

「千尋さん、何してるんですか?」

 柔らかな声が、背後から聞こえてきた。

 振り向けば、ヌバタマが炉の中で炭を整えている。

「あれ。いつ入ってきたんだ?」

「ちょっと前からですよ。全然気づきませんでしたよね。どーせ、今日は上手くいくかな、とか考えていたんでしょう?」

「……お前に見抜かれると、なんだか悔しいな」

「千尋さんは心配性ですからね。それくらいは分かります。自信を持って、どーんと構えてください」

「いや、しかしなあ」

「それだけのことをやってきたんですから。茶道歴一年弱とはいえ、もう一人前の茶人ですよ」

 ヌバタマは手を止めると、千尋に向き直って、太陽のような笑顔を見せた。

 釣られて、自分まで笑いかけたけれども、本当に笑いはしない。その前に、当のヌバタマの笑顔に、雲が差したからだった。

 

 

「……どうした? 急にそんな顔して」

「私は、何もしていないな、と思いまして」

「そんなわけが……」

「あるんですよ。シズクさんの人探し……私、シズクさんの力になりたいと思っていたのに、何もできませんでした。全部千尋さんが解決しちゃいました」

「……だからって、他にも」

「他も同じです。集客だってそう。常連さんに助力を頼んだのもです。あとは……」

「なあ、ヌバタマ」

 強引にヌバタマの話を遮り、彼女の前に正座する。

 座る前にワンテンポ間を作りつつ、それでいて動きに明確な切れ目がない、川の流れのような座り方。ヌバタマが最初に教えてくれたことだった。

 

「お前は、もっと自分に自信を持っていいと思うぞ」

「でも……」

「でもじゃないさ。最終的に俺が美味しいところを持っていっただけで、縁の下で頑張ってくれたじゃないか。そもそも、俺にお茶を教えているのもヌバタマだろ?」

「そう言われれば、そうかもしれませんね。……しかし……」

「まだ何か?」

「あ。そういう意味のしかしではなく、なんというか……」

 ヌバタマが、くすりと笑った。

「……千尋さん、大人になりましたね」

「なんなんだよ、急に」

「ふふっ。前とは比べ物にならないくらい、頼もしくなったと思うのですよ。お茶のお陰でしょうかね?」

「このところ犬と猫を追いかけまわしてばかりだったから、ピンとこないな……。ま、誉め言葉として受け取って……」

 

 ふと、彼女の言葉に引っ掛かりを覚える。

 前とは比べ物にならない?

 それじゃ、以前は……、

 

「……誉め言葉なのか? ヌバタマ」

「ご想像にお任せしまーす」

 ヌバタマが今度こそ、天真爛漫な笑みを浮かべながら言う。

 まったく、やってくれるじゃないか。

「……言ってくれるじゃないか」

 目を細めながら嘆息するが、同時に体が軽くなったような錯覚を覚える。

 一呼吸で、体内の余計な緊張が抜けてしまったのだ。

 ……ヌバタマは、そのつもりで言ってくれたのだろうか? いや、違う。彼女の笑みには、裏の気配なんか微塵も感じられない。

 

「……気が合う、って事なのかね」

「え? 何がですか?」

「こっちの話だよ」

「怪しいですね。教えて下さいよ」

 ヌバタマは千尋の腕を掴み、なおも食い下がる。

 突然触れられてびっくりしてしまうけれど、払いのけるわけにもいかない。

 ただ一方的に腕を揺らされて、その都度、茶会とは別の緊張に苛まれてしまう。

 

 

「ねえねえ、千尋さんってば!」

「ほ、本当になんでも……ああ、そうだ、それより面白い話があるぞ」

「とか言って、話をすり替える気じゃ……」

「本当だってば。ヌバタマはさ、ディマジオを知ってるかい? ジョー・ディマジオ。アメリカの昔の野球選手なんだけどさ」

「はい……?」

 ヌバタマにとっては訳の分からない名前が突然出てきたせいか、彼女はきょとんとして手を止めた。

 ようやく拘束が解かれた腕を引きながら、内心、大いに安堵する。

 

「そのディマジオさんが面白いんですか? ああ、面白い顔とか?」

「いや、顔はむしろ二枚目だな。マリリン・モンローの旦那さんでもあったし。そうじゃなくて、この人がさ……」

 マーシャの一件を思い出しながら、千尋は語る。

 茶会の準備の合間を縫って、あの後もディマジオについて調べ続けた結果、遡ること一週間前、ついに答えを見つけたのだ。

 その名を茶室で咄嗟に思い出したのは、偶然じゃない。なにせ、彼は……、

 

 

「おぉーい、シズク達が来たぞー!」

 ふと、階下からオリベの声が割って入ってくる。

 二人は思わず顔を見合わせ合ったが、ほんの一瞬のことだ。

「話の続きは……」

「ああ。また後でな」

「楽しみにしてます。さ、行きましょう!」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 一階にいたのは、オリベとシズクだけじゃなかった。

 助っ人を頼んだ諏訪と岡本も到着済みで、岡本は何やら楽しそうにシズクに話しかけているし、諏訪も時折、岡本に相槌を打っているようだった。

 二人とシズクは初対面だけれども、これなら何の問題もなくやれそうだ。

 そもそも、岡本は社交的な性格だし、諏訪も大人の男性だ。案ずることはなかったのだろうけれど、こうして目にするまでは、ちょっとだけ心配だったのだ。

 

 

「皆さん、おはようございます」

「おー、千尋! いやー、今日は晴れて良かったなあ!」

「いたっ! ちょ、ちょっと……」

 千尋が挨拶するや否や、真っ先に駆け寄ってきて肩をグーで小突いてきたのは、岡本だった。

 大学の陶芸サークルの先輩である彼女は、茶会の相談を持ち掛けると「よくあたしを頼ってくれた」と、先程と同じように肩を叩いてきたのを、ふと思い出す。

 ちょっとだけ痛いけれども、逃げようとは思わない。嬉しそうに肩を叩く彼女の反応が、千尋としてもまた嬉しかったのだ。

 

「まあまあ、それくらいで……」

 代わりに、もう一人の助っ人の諏訪が間に入ってくれる。

 彼も岡本と同様に、普段からたまに店を手伝ってくれるのだけれど、その時の諏訪はいつも、今みたく、さりげなく気を遣ってくれている。

「ええ、なんでさ、諏訪っち。一緒に千尋を叩こうよ」

「千尋君、叩いていいかな?」

「諏訪さんに叩かれると本当に痛いんでやめて下さい」

「だよね」

 諏訪はにこやかに笑いながら、近くの客席に腰かけた。

 一方の岡本は、今度はヌバタマに絡み始める。やっと解放された千尋は、窓際の席でやりとりを眺めていたシズクの前まできた。

 

 

「千尋さん、おはようございます」

「ええ、おはようございます。……ゆっくり休めましたか?」

「お陰様で。どうもありがとうございます」

 そう言って頭を下げるシズクの動きは、随分と緩慢なように見える。

 聞いていた話どおりなら、彼女の体は今日一日しか持たないのだから、無理もない話ではある。

 しかし、表情そのものは決して暗くはない。むしろ頬には朱が差していて、瞳もこれまで以上にいきいきとして見える気がする。

 この調子なら、きっと持つだろう。

 今日の三席目に正客として呼んでいる、小谷の顔を見るまでは、きっと。

 

 

「三席目の話は、雪之丞から聞いていますよね?」

「ええ。でも、それよりはまず、ちゃんとお茶席をこなさないと。だって、千尋さんの初めてのお茶席ですもの」

「そうですけれど、俺、初めてって説明しましたっけか」

「それも、雪之丞が。……ふふっ。あの子ったら、毎日のように千尋さんの話をするんですよ。気に入られたみたいですね」

「……意外だな」

「真面目な人が好きなんですよ、あの子は。……私もそうです。好きですよ、千尋さんのこと」

「恐縮です」

 

 違う意味とはいえ、なかなか痛烈な一言に、つい視線を逸らしかける。

 だが、すぐに今日が最後なのだと思い立ち、瞳をまたシズクの方へと戻した。

 そう、最後なのだ。

 静かに微笑んでいる彼女を見れるのも、今日までなのだ。

 千尋もまた、シズクのことが「好き」だからこそ、最後という事実は切なさに姿を変えて、胸に押し寄せてくる。

 でも、どうにもならないのだ。気持ちを据えるしかない。

 

 

 

「……俺、今日のお茶会は、一生忘れないと思います」

「私もです。……明日が来ようが、尾道を離れようが。今日のお茶会と、千尋さん方にして頂いたことは、きっと忘れません」

 二人の瞳が交差する。

 だが、すぐにシズクの視線は千尋の背後へと移った。

 振り返ると、いつの間にか雑談を終えていたヌバタマと岡本は着席して、千尋を見ている。

 ちょうどオリベも、景気付けのお薄茶を人数分盆に乗せて、厨房から出てきたところだった。

 これから、始まるのだ。

 この六人で開く、初めてのお茶会が。

 

「あー、えっと……俺が何か言えばいいのかな?」

「千尋さん、お願いします」

 と、ヌバタマ。

「分かったよ。じゃあ……みんな揃いましたから、今日の打ち合わせを簡単にしておきましょうか」

「よっ! 待ってました、お点前さん!」

「オリベさん、茶化さない」

 ジト目で突っ込みながらも、頬を緩めて全員を見回す。

 

「えーまずは、今日はみなさん、早くから本当にありがとうございます。水臭いかもしれませんけれど、心から感謝しているんですよ」

「いいってことよ」

「岡本さん、どうも。……さて、各々にはやって頂きたい事は説明済みですけれども、共有の為にも、もう一度話しておきますね。まず、お点前は全席、俺が担当します。で、お客様と話して頂く亭主役にはオリベさん」

「承った。安心して茶筅を倒されよ」

「倒しません」

「ヒャッヒャッ! で、次は?」

 

「この一階での受付は、岡本さんにお願いします。次の席の方が待機されますので、何かあれば上まで取り次いでください。お白湯も出して頂きますよ。水道水は使わないで下さいね。酒処の西条で汲んだ名水を用意していますから、そちらを沸かして」

「あいよ」

 

「水屋で、正客以外へのお茶を点てたり、お菓子を並べたりするのは、ヌバタマと諏訪さんにお願いします。本当はもっと人数をかけたかったんですが……」

「一席最大五人の小さな席ですから、なんとかなりますよ。ねっ、諏訪さん」

「うん。分担して必要な作業から取りかかれば、大丈夫だと思う。安心していいよ」

 二人とも、千尋よりずっと茶道歴が長いのだし、言葉どおり信頼していいだろう。

 二人に目礼して、千尋は最後に、背後のシズクを見た。

 

「で、水屋のお茶やお菓子をお客様に出す点出しがシズクさん。これも一人だと大変ですけれど、いけますか?」

「大丈夫です。その為に来たのですから」

「よろしくお願いしますね」

 

 力強い返事に成功を確信し、千尋はもう一度全員を回した。

 さて、この先はどうしたものか。

 ……ちょっとクサい気もするけれど、やっぱり言っておくべきだろう。

 鼻頭をぽりぽりとかきながら、千尋は話を続けた。

 

 

「それと……みなさんに、言っておきたいことが一つ。今日は花見茶会という名目でチケットを配っていますけれど、俺はもう一つ、自分なりの主題を持っています。……一期一会。その気持ちを持ってお客様に接すれば、俺のような駆けだしでも、何かができるんじゃないかと思うんです。……同じ気持ちを、皆に持ってくれとまでは言いません。でも、もし良かったら、胸のどこかに留めておいてください。……そうすれば、みんな笑える。そんな気がするんです」

 

 そう言い切って、深々と頭を下げる。

 一つの拍手が耳に届いたのは、頭を下げるのとほぼ同時だった。

 ヌバタマの方から聞こえたような気がしたけれど、すぐに続いた全員の拍手にかき消されて、答えは分からなくなる。

 ゆっくりと頭を上げた千尋は、まだ鳴りやまない拍手に負けないよう、珍しく大きな声を出した。

「それじゃあ、みなさん、一服差しあげましょう!」


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