桜の花びらが春風に流されてふわふわと舞っている。
庭の小さな溜池にも落ちているけれど、まだ数は少ない。本格的に埋め尽くされるのは来週末だろう。
茶会の準備の手を止め、茶室の窓から桜を眺めていた千尋は、胸の鼓動が異様に高まるのを抑えきれなかった。
いくら事前に準備を整えたところで、桜の具合だけは運次第だ。
その上、今日の題目は花見茶会なんだから、咲いているのといないのとでは、天地の差がある。幸運というべきだろう。
でも、その幸運がプレッシャーになっている。準備も天候も桜も良かった。しかしお点前が駄目、となってしまえば、全てが台無しになってしまうのである。
自分は、どちらかといえば緊張する方だし、また何かドジを踏んでしまう可能性だってあるだろう。その光景を想像するだけで、背筋がピンと伸びてしまう。
この調子じゃ、お茶会まで三時間、ずっと緊張のしっぱなしだ。これで、本当に良いお茶が点てられるんだろうか……。
「千尋さん、何してるんですか?」
柔らかな声が、背後から聞こえてきた。
振り向けば、ヌバタマが炉の中で炭を整えている。
「あれ。いつ入ってきたんだ?」
「ちょっと前からですよ。全然気づきませんでしたよね。どーせ、今日は上手くいくかな、とか考えていたんでしょう?」
「……お前に見抜かれると、なんだか悔しいな」
「千尋さんは心配性ですからね。それくらいは分かります。自信を持って、どーんと構えてください」
「いや、しかしなあ」
「それだけのことをやってきたんですから。茶道歴一年弱とはいえ、もう一人前の茶人ですよ」
ヌバタマは手を止めると、千尋に向き直って、太陽のような笑顔を見せた。
釣られて、自分まで笑いかけたけれども、本当に笑いはしない。その前に、当のヌバタマの笑顔に、雲が差したからだった。
「……どうした? 急にそんな顔して」
「私は、何もしていないな、と思いまして」
「そんなわけが……」
「あるんですよ。シズクさんの人探し……私、シズクさんの力になりたいと思っていたのに、何もできませんでした。全部千尋さんが解決しちゃいました」
「……だからって、他にも」
「他も同じです。集客だってそう。常連さんに助力を頼んだのもです。あとは……」
「なあ、ヌバタマ」
強引にヌバタマの話を遮り、彼女の前に正座する。
座る前にワンテンポ間を作りつつ、それでいて動きに明確な切れ目がない、川の流れのような座り方。ヌバタマが最初に教えてくれたことだった。
「お前は、もっと自分に自信を持っていいと思うぞ」
「でも……」
「でもじゃないさ。最終的に俺が美味しいところを持っていっただけで、縁の下で頑張ってくれたじゃないか。そもそも、俺にお茶を教えているのもヌバタマだろ?」
「そう言われれば、そうかもしれませんね。……しかし……」
「まだ何か?」
「あ。そういう意味のしかしではなく、なんというか……」
ヌバタマが、くすりと笑った。
「……千尋さん、大人になりましたね」
「なんなんだよ、急に」
「ふふっ。前とは比べ物にならないくらい、頼もしくなったと思うのですよ。お茶のお陰でしょうかね?」
「このところ犬と猫を追いかけまわしてばかりだったから、ピンとこないな……。ま、誉め言葉として受け取って……」
ふと、彼女の言葉に引っ掛かりを覚える。
前とは比べ物にならない?
それじゃ、以前は……、
「……誉め言葉なのか? ヌバタマ」
「ご想像にお任せしまーす」
ヌバタマが今度こそ、天真爛漫な笑みを浮かべながら言う。
まったく、やってくれるじゃないか。
「……言ってくれるじゃないか」
目を細めながら嘆息するが、同時に体が軽くなったような錯覚を覚える。
一呼吸で、体内の余計な緊張が抜けてしまったのだ。
……ヌバタマは、そのつもりで言ってくれたのだろうか? いや、違う。彼女の笑みには、裏の気配なんか微塵も感じられない。
「……気が合う、って事なのかね」
「え? 何がですか?」
「こっちの話だよ」
「怪しいですね。教えて下さいよ」
ヌバタマは千尋の腕を掴み、なおも食い下がる。
突然触れられてびっくりしてしまうけれど、払いのけるわけにもいかない。
ただ一方的に腕を揺らされて、その都度、茶会とは別の緊張に苛まれてしまう。
「ねえねえ、千尋さんってば!」
「ほ、本当になんでも……ああ、そうだ、それより面白い話があるぞ」
「とか言って、話をすり替える気じゃ……」
「本当だってば。ヌバタマはさ、ディマジオを知ってるかい? ジョー・ディマジオ。アメリカの昔の野球選手なんだけどさ」
「はい……?」
ヌバタマにとっては訳の分からない名前が突然出てきたせいか、彼女はきょとんとして手を止めた。
ようやく拘束が解かれた腕を引きながら、内心、大いに安堵する。
「そのディマジオさんが面白いんですか? ああ、面白い顔とか?」
「いや、顔はむしろ二枚目だな。マリリン・モンローの旦那さんでもあったし。そうじゃなくて、この人がさ……」
マーシャの一件を思い出しながら、千尋は語る。
茶会の準備の合間を縫って、あの後もディマジオについて調べ続けた結果、遡ること一週間前、ついに答えを見つけたのだ。
その名を茶室で咄嗟に思い出したのは、偶然じゃない。なにせ、彼は……、
「おぉーい、シズク達が来たぞー!」
ふと、階下からオリベの声が割って入ってくる。
二人は思わず顔を見合わせ合ったが、ほんの一瞬のことだ。
「話の続きは……」
「ああ。また後でな」
「楽しみにしてます。さ、行きましょう!」
◇
一階にいたのは、オリベとシズクだけじゃなかった。
助っ人を頼んだ諏訪と岡本も到着済みで、岡本は何やら楽しそうにシズクに話しかけているし、諏訪も時折、岡本に相槌を打っているようだった。
二人とシズクは初対面だけれども、これなら何の問題もなくやれそうだ。
そもそも、岡本は社交的な性格だし、諏訪も大人の男性だ。案ずることはなかったのだろうけれど、こうして目にするまでは、ちょっとだけ心配だったのだ。
「皆さん、おはようございます」
「おー、千尋! いやー、今日は晴れて良かったなあ!」
「いたっ! ちょ、ちょっと……」
千尋が挨拶するや否や、真っ先に駆け寄ってきて肩をグーで小突いてきたのは、岡本だった。
大学の陶芸サークルの先輩である彼女は、茶会の相談を持ち掛けると「よくあたしを頼ってくれた」と、先程と同じように肩を叩いてきたのを、ふと思い出す。
ちょっとだけ痛いけれども、逃げようとは思わない。嬉しそうに肩を叩く彼女の反応が、千尋としてもまた嬉しかったのだ。
「まあまあ、それくらいで……」
代わりに、もう一人の助っ人の諏訪が間に入ってくれる。
彼も岡本と同様に、普段からたまに店を手伝ってくれるのだけれど、その時の諏訪はいつも、今みたく、さりげなく気を遣ってくれている。
「ええ、なんでさ、諏訪っち。一緒に千尋を叩こうよ」
「千尋君、叩いていいかな?」
「諏訪さんに叩かれると本当に痛いんでやめて下さい」
「だよね」
諏訪はにこやかに笑いながら、近くの客席に腰かけた。
一方の岡本は、今度はヌバタマに絡み始める。やっと解放された千尋は、窓際の席でやりとりを眺めていたシズクの前まできた。
「千尋さん、おはようございます」
「ええ、おはようございます。……ゆっくり休めましたか?」
「お陰様で。どうもありがとうございます」
そう言って頭を下げるシズクの動きは、随分と緩慢なように見える。
聞いていた話どおりなら、彼女の体は今日一日しか持たないのだから、無理もない話ではある。
しかし、表情そのものは決して暗くはない。むしろ頬には朱が差していて、瞳もこれまで以上にいきいきとして見える気がする。
この調子なら、きっと持つだろう。
今日の三席目に正客として呼んでいる、小谷の顔を見るまでは、きっと。
「三席目の話は、雪之丞から聞いていますよね?」
「ええ。でも、それよりはまず、ちゃんとお茶席をこなさないと。だって、千尋さんの初めてのお茶席ですもの」
「そうですけれど、俺、初めてって説明しましたっけか」
「それも、雪之丞が。……ふふっ。あの子ったら、毎日のように千尋さんの話をするんですよ。気に入られたみたいですね」
「……意外だな」
「真面目な人が好きなんですよ、あの子は。……私もそうです。好きですよ、千尋さんのこと」
「恐縮です」
違う意味とはいえ、なかなか痛烈な一言に、つい視線を逸らしかける。
だが、すぐに今日が最後なのだと思い立ち、瞳をまたシズクの方へと戻した。
そう、最後なのだ。
静かに微笑んでいる彼女を見れるのも、今日までなのだ。
千尋もまた、シズクのことが「好き」だからこそ、最後という事実は切なさに姿を変えて、胸に押し寄せてくる。
でも、どうにもならないのだ。気持ちを据えるしかない。
「……俺、今日のお茶会は、一生忘れないと思います」
「私もです。……明日が来ようが、尾道を離れようが。今日のお茶会と、千尋さん方にして頂いたことは、きっと忘れません」
二人の瞳が交差する。
だが、すぐにシズクの視線は千尋の背後へと移った。
振り返ると、いつの間にか雑談を終えていたヌバタマと岡本は着席して、千尋を見ている。
ちょうどオリベも、景気付けのお薄茶を人数分盆に乗せて、厨房から出てきたところだった。
これから、始まるのだ。
この六人で開く、初めてのお茶会が。
「あー、えっと……俺が何か言えばいいのかな?」
「千尋さん、お願いします」
と、ヌバタマ。
「分かったよ。じゃあ……みんな揃いましたから、今日の打ち合わせを簡単にしておきましょうか」
「よっ! 待ってました、お点前さん!」
「オリベさん、茶化さない」
ジト目で突っ込みながらも、頬を緩めて全員を見回す。
「えーまずは、今日はみなさん、早くから本当にありがとうございます。水臭いかもしれませんけれど、心から感謝しているんですよ」
「いいってことよ」
「岡本さん、どうも。……さて、各々にはやって頂きたい事は説明済みですけれども、共有の為にも、もう一度話しておきますね。まず、お点前は全席、俺が担当します。で、お客様と話して頂く亭主役にはオリベさん」
「承った。安心して茶筅を倒されよ」
「倒しません」
「ヒャッヒャッ! で、次は?」
「この一階での受付は、岡本さんにお願いします。次の席の方が待機されますので、何かあれば上まで取り次いでください。お白湯も出して頂きますよ。水道水は使わないで下さいね。酒処の西条で汲んだ名水を用意していますから、そちらを沸かして」
「あいよ」
「水屋で、正客以外へのお茶を点てたり、お菓子を並べたりするのは、ヌバタマと諏訪さんにお願いします。本当はもっと人数をかけたかったんですが……」
「一席最大五人の小さな席ですから、なんとかなりますよ。ねっ、諏訪さん」
「うん。分担して必要な作業から取りかかれば、大丈夫だと思う。安心していいよ」
二人とも、千尋よりずっと茶道歴が長いのだし、言葉どおり信頼していいだろう。
二人に目礼して、千尋は最後に、背後のシズクを見た。
「で、水屋のお茶やお菓子をお客様に出す点出しがシズクさん。これも一人だと大変ですけれど、いけますか?」
「大丈夫です。その為に来たのですから」
「よろしくお願いしますね」
力強い返事に成功を確信し、千尋はもう一度全員を回した。
さて、この先はどうしたものか。
……ちょっとクサい気もするけれど、やっぱり言っておくべきだろう。
鼻頭をぽりぽりとかきながら、千尋は話を続けた。
「それと……みなさんに、言っておきたいことが一つ。今日は花見茶会という名目でチケットを配っていますけれど、俺はもう一つ、自分なりの主題を持っています。……一期一会。その気持ちを持ってお客様に接すれば、俺のような駆けだしでも、何かができるんじゃないかと思うんです。……同じ気持ちを、皆に持ってくれとまでは言いません。でも、もし良かったら、胸のどこかに留めておいてください。……そうすれば、みんな笑える。そんな気がするんです」
そう言い切って、深々と頭を下げる。
一つの拍手が耳に届いたのは、頭を下げるのとほぼ同時だった。
ヌバタマの方から聞こえたような気がしたけれど、すぐに続いた全員の拍手にかき消されて、答えは分からなくなる。
ゆっくりと頭を上げた千尋は、まだ鳴りやまない拍手に負けないよう、珍しく大きな声を出した。
「それじゃあ、みなさん、一服差しあげましょう!」