シズクが天に昇ったのは、日付が翌日に変わってすぐのことだった。
千尋とオリベ、ヌバタマの三人が見守る中、彼女は「また遊びに来る」とでも言わんばかりに、軽く手を振りながら、自然と消えていった。
千尋としては当然寂しいのだけれども、一方のシズクが笑顔で去ったのは、決して死ぬわけじゃないからだろう。
オリベとヌバタマとは、何十年後かに、また天界で会えるのだ。……雪之丞が、シズクの最後を見届けずに夜咄堂を去ったのも、それと同じ理由からかもしれない。
彼は、あれから二度と姿を見せには来なかった。シズクが天に還れば、また旅がらすの日々ということなんだろうか。これもまた、寂しい気がする。
「シズクさん、最後まで美しい人でしたね。あーあ、私もあんな大人になれるでしょうか……」
降り注ぐ春の陽光とは対照的に、前を行くヌバタマが、暗い表情でボヤく。
見た目だけなら、まあ、かなわなくはないかもしれない。
しかし、茶道具の話題になると、人が違ったように語りだす一面を知っているだけに、諸手をあげて励ますような気は起らなかった。
ちら、と右隣を見れば、オリベも似たような事を考えているのだろう。声をかみ殺してくっくっと笑っている。
一方の左隣では……ロビンがボケっと、気の抜ける面を浮かべていた。多分、こっちはハナから聞いておらず、食べ物の事を考えているのだろう。
――あれから二週間。
夜咄堂の面々は、珍しく全員で外出し、向島ののどかな歩道を歩いていた。
道端に立っている桜はもう完全な葉桜に変わっていて、五月が近いことを千尋に教えてくれる。
良い春だった、と思う。
あれから何度か、茶会の噂を聞いてやってきた、という客とも巡り合えた。
茶会自体も、この上なく思い入れがあるものになった。
でも、全ては桜と一緒に、過去の出来事と化してゆく。
新たな客に何度でも来てもらえるよう、そして新たな茶席で喜んでもらえるよう、また奮闘の日々となるのだ。
「千尋。帰りにドーナツな」
船着き場でまたもや出くわし、勝手に合流したロビンがフンフンと鼻を擦りつけながら言う。
いつもはバッサリと切り捨てるけれど、今日くらいは大目に見ても良いだろう。
なにせ、今日の目的地を教えてくれた小谷春樹から、言われているのだ。少しでも大勢で墓参りしてくれた方が、父も喜ぶと。
「……じゃあ、一個だけな」
「あー、千尋さん、ズルい! 私の分は?」
くるりと振り返ったヌバタマが、頬を膨らませながら言う。
「ズルいって、犬と張り合ってどうするよ」
「むうう。だって……」
「俺だって小遣いは限られてるんだから駄目だよ。来月野球観戦に行く分がなくなるしさ。そもそも、自分の小遣いはどうしたんだよ」
「あれはもう、駅近くのプリン屋……あ、いえ」
「プリンが、どうしたって?」
「なんでもありませーん」
ほとんど言ったも同然だけれども、突っ込まないのが優しさかもしれない。
「あ、そうです。ねえ、千尋さん?」
そんな周知の状態を理解しているのかいないのか、ヌバタマは大げさに手を打ち鳴らしながら言う。
「今度は何だよ」
「野球で思い出したんです。茶会の朝、野球選手の話をしかけましたよね。あれ、なんだったんですか?」
「ジョー・ディマジオのことか」
そういえば、最後まで説明していなかった。
今度は、ヌバタマが話をすり替える為に、話を切り出したというわけか。
「一期一会は世界共通って話だったんだよ、あれは。もう五十年以上前の話なんだけれど、そのディマジオって選手が、ある時、ちょっと体を痛めちゃったんだ」
「大変。入院しないと。……ああ、病院でお茶を頂いたとか?」
「そーいう話じゃないよ。でも、ディマジオは無理をして試合に出続けたんだ。当然みんなは心配する。休養を勧める。……でも、ディマジオは首を横に振ったんだよ」
ネットで見た、ディマジオの見目麗しい写真を思いだしながら千尋は語る。
もちろん、マーシャは「顔が似ている」と言ったわけじゃないんだけれども、なんだかディマジオには悪い気がしてならなかった。
「そして、こう言ったんだ。『今日、ここで自分を観るのが最初で最後のファンもいるだろう。その人の為に試合に出るのだ』って。……これって、一期一会だろ?」
「確かに、そのとーりだな。海の向こうにも千尋がいたわけか」
話を聞いていたオリベが興味深そうに頷きながら言う。
「大げさな言い方、やめてくださいよ。ディマジオに悪いです」
「むしろ時系列では、ディマジオんが元祖ですから、日本にもディマジオさんがいた、と言うべきですかね。……あ、でそれより先に、一期一会を広めたのは……いえ、待ってくださいよ。そもそもこの考え方は……」
ヌバタマはヌバタマで、延々と元祖を求めて遡ろうとする。
墓参りを前にどっと疲れた気がしたけれど、あまり嫌な疲れじゃない。
まあ、いいさ。
その後も、取り留めもないことを語り合っているうちに、すぐ墓地に到着する。
小谷家の墓を見つけると、千尋はポケットに入れていたベンジン懐炉を取り出し、墓前に供えてから手を合わせた。
小谷匠は、シズクの想いを知らずに、逝ってしまった。
今日はその報告に来たつもりだったけれども、墓の前で目を閉じていると、なんだか余計なことをしている気がした。
きっと、気持ちは同じ。
又聞きの話だけれども、そんな気がしてならないのだ。
「おい、まだ参るのかよ。ワンッ!」
ロビンに吠えられて、現実へと引き戻される。
千尋は目を細めて、足元の雑種犬を睨みつけた。
「うるさいな。色々と思うことがあるんだよ」
「そんだけ拝みゃあ、じゅーぶんだろ? 早く帰ってドーナツ食おうぜー!」
ロビンは前脚をやんやと掲げ、墓地から去ろうとする。
――何かの陰がロビンを捉えたのは、その瞬間だった。
「ニャゴッ!」
「キャインッ! い、いてえ! チクショウ、なんだ……あああっ!?」
陰に殴打されたらしいロビンは、患部の頭を抱えながら悪態をつこうとして、すっとんきょうな声を張りあげる。
影の正体は、大いにいきりたっている雪之丞だった。
「ゆ、雪之丞っ!」
「墓前でなんじゃ、その態度は。しっかり拝まんかい!」
「だ、だって俺、縁もゆかりも……」
「なんじゃあ!?」
「うひい」
雪之丞にすごまれ、ロビンは頭抱えたままの二本足で墓地から飛びだした。
放っておいて人に見られると困るのは、みんな分かっている。嘆息一発の後、すぐにオリベとヌバタマが後を追い、墓地には千尋と雪之丞が残された。
「……はあ」
頭が痛いけれど、確認することがある。
千尋はあの日のように、そっと雪之丞の脇の下に手を突っ込み、自分の目の高さまで掲げて相対した。
「フニャッ? おい、離さんか!」
「雪之丞、お前……尾道から出て行ったんじゃないのか?」
「誰が出て行く言うたんじゃ」
「だって、一期一会を求めて旅するのが、お前の本能なんだろう」
「それはそうじゃ。じゃが……おい、離せと言うとるじゃろ!」
「だって猫だし」
「形は猫でもワシゃあ漢なんじゃ! 愛玩動物扱いはやめんか!」
雪之丞が、まるでロビンのような抗議を口にする。
それ以上愛でるのもかわいそうで、言われるがままに地面に戻すと、彼はギロリと一睨みしながら話を始めた。
「……義理じゃ」
「義理? 俺に?」
「おう。……シズクの件では世話になったからの。しばらくは尾道に残って、恩を返さんとな」
「そんなの、別にいーのに」
「なんじゃい。邪魔か」
雪之丞が吐き捨てるように言う。
だが、声に怒気は感じられない。
むしろ、つまらなさそうというか……寂しそうとも取れる声だった。
義理自体は、嘘じゃないだろう。でも、理由は他にもあるようだ。意外と寂しがりな猫なのかもしれない。
「いーや。大歓迎だよ」
「……ふんっ! ほれ、行くぞ」
雪之丞は尾をフニャフニャとくねらせ、歩きだした。
かくして、夜咄堂には新たな仲間が加わったのである。