竜娘の異世界旅行記   作:ガビアル

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十五話

 切り立った岩肌。

 きっと満潮の時には足元あたりまで海の水が満ちるのだろう。眼下の黒々とした岩の間には小さなプールが幾つも出来ている。潮の香りが強く立ち、湿気った海からの風が髪を揺らした。

 硬い岸壁。いや、硬そうな岸壁……というべきか。

 手をかざす。

 触れると岩肌が波打ち、手を飲み込んだ。

 まるで手応えがない。

 ゆらゆらと手を揺らしてもまるで手応えがない。

 

「なあ、エフィ、早く入ったらどうだ」

「……フレッド、おれはたまにお前の大物っぷりに驚く」

 

 喋る犬に連れられやってきたのはアルノーの郊外、南岸のごつごつとした岩場になっている場所だった。

 むろん買い物をした帰りだったので途中で宿に荷物は置いてきたのだが。

 人家からはかなり離れており、人の姿も釣り人の影をたまに見かけるのみ。やがて歩くにつれ、その人影すらも見あたらなくなった。

 ひょいひょいと身軽に岩肌の上を歩く犬、その時折振られる尻尾を追いかけるように続いていくと、唐突に、何でもない事のように、大きな岸壁に犬がめり込んだのだ。

 

 手が触れても平気そうなので、頭を突っ込んでみると、風景は普通に洞窟の入り口のようだと判る。そろそろと後退してみると、普通の岸壁が目の前に現れた。

 

「なんだ……こりゃ。立体映像?」

「また訳の判らん言葉を。あんたみたいな存在も居るんだ。魔法じみたことの一つや二つあってもおかしくあるまい」

「いや、そりゃそうなんだけど、お前ずぶといなあ」

 

 ぶちぶち言いながらその岩肌の中に身をくぐらせる。

 やはり中からは全く普通の洞窟の入り口にしか見えない。

 先行した犬が暇そうに欠伸をし、首筋を掻いていた。

 フレッドもおれに続いてのっそり入り、かなり広い洞窟を見て目を輝かせる。

 

「おお、これは中々良い雰囲気だな」

 

 奥を見ると、どう考えても光が入らなさそうな洞窟なのに、うっすらと明かりがさし、岩肌が見える。ヒカリゴケらしい苔がところどころにこびりつき、ぼんやりとエメラルドのコントラストを添えていた。

 どこかで水が滴っているらしい、耳を澄ますと反響する水音が聞こえる。

 犬は無言でまた歩き出す。

 その後を続きながら、洞窟の内部を見ていると、何となく懐かしい気分も湧いてきた。

 知っている?

 時折降って湧いたように出てくる妙な感じ、それが身をもたげたような気がする。

 

「ほう……光源があるのでなく、壁そのものが明るいのか」

「みたいだなあ、元々そう作られたような感じだ。発光する石?」

「エフィは判るのか?」

「んー、判るっていうか何と言うか、何となくそう思う程度だけど」

 

 直感で感じたものでしかないのだが、ごつごつとした岩石、それ自体は元からあるただの岩だが、たぶん「一時的な来客のための照明」に使うためだけにその存在ごと書き換えた。

 感じたままに頭で整理してみたが、とんでもない無茶苦茶だ。

 まだSF的な何かが出てくるとか魔法的な何かが出てくるとかの方が普通っぽい気がする。

 やがてくねくねと曲がりくねった洞窟を歩いてゆくとあからさまに整えられた通路に風景が変化した。

 足元は石畳が敷かれ、天井を支える石柱には、ただ興味深いから持ち帰った、としか思えないばらばらの趣味の彫刻が埋め込まれている。煌々とした明かりは紛れもない太陽のもの。なのにその明かりは天井にはめ込まれた一部の壁が発光しているもののようだった。

 広い空間、サッカー場でも悠々作れるんじゃないかというくらい広い空間に出た。

 庭園のようになっているそこは、池があり、畑があり、犬が走り、猫が寝そべり、馬が暢気に草を食べている。虫がさざめき、蛇が木々に絡みつく、ブナに絡みついたヤドリギは丸々と繁り、小鳥はその上で喧しく喚き立てる。

 不自然な空間の中に「野」としか言いようの無い風景があった。

 壁には無軌道極まりない彫刻が飾られ、天井からは太陽の光が眩しく照らし出している。

 案内してくれた犬は用は済んだぞ、と言いたげに、おんと一声吠えると、少々小柄な白い犬の元へ走っていってしまった。

 

「こりゃあ……さすがにたまげたな」

「惜しい、これでさらに驚かなかったらお前人間かとツッコんでるところだった」

「方法は?」

「シャイニングとローリングどっちがいい?」

「どちらも致死の臭いがしてならん」

 

 そんな冗談を交わしつつ、その庭園じみた空間に設置されている道に沿って歩き始める。

 きょろきょろと見回しながら何となくお客になった気分で歩いていると、雑木林の曲り角を抜けた先の広間に人の姿が見えた。

 長い、青黒いとさえ言えるほど艶やかな髪を持つ男。

 中肉中背、病人かと思うほどの白い肌。

 その男はこちらに顔を向けた。目を閉じているのに視られている気がする。

 ふわりと右手を揺らし、纏っている麻のローブの袖が舞う。

 

「久しい訪れだ、翡翠の。歓迎しよう」

 

 言葉は朗として響いた。低くも高くもない、それでいて染みわたる声。

 

「汝の趣味……人の真似、というのもそう悪くない」

 

 そんな事を言い、翻って手を向ければ、木々に囲まれた広間に、素朴な木のテーブルと椅子があり、テーブルの上には山盛りの果実を乗せた篭に多種の木の実、そんな食卓に似つかわしからぬ装飾過剰な銀の杯と陶器の壺が置いてあった。

 男性はゆるりと卓に着き、おれやフレッドにも着席を促した。

 何となくどういう相手か本能で理解して、頭で理解できず、妙な気分になりながらもフレッドに、大丈夫だと頷いて、男の向かいに座った。

 男は表情を表に出すことを知らないように、無表情で杯に葡萄酒を注ぎ、こちらに回してきた。

 乾杯の音頭を取る事もなく、男はぐいと一息で飲み干す。

 

「……ふむ、飲まぬのか?」

 

 杯の葡萄酒は芳醇な香りに満ち、なかなかのモノだとは判る。一口含み、口の中をくぐらせ、おもむろに飲み込んだ。後味も悪くない。

 けれども、あれだ。基本的にこう、ワインの味なんか判りゃしない、懐かしいとは思うけども。隣でフレッドが目を輝かせて飲んでいるが、自分自身の感想と言えば。

 

「ん……うん。美味い?」

 

 ちょっと微妙なモノになるしかなかった。

 

   ◇

 

 結論から言ってしまえば。

 この男、麻のローブをゆるりと纏った目を瞑ったままの男は、この地に住む竜だった。

 黒曜の、なんて呼ばれていたらしい。竜に名はなく、人がいつからか例えて呼ぶようになった名、それを便利とし呼び名にしているらしい。

 しかしえらくあっさり対面したものだった。いや本当に。

 肩すかしでも食らった気分ではあった。

 アルノーで竜にまつわる話があるというので来てみればまさか当人、いや当竜から直々に招かれるとは……

 性格は無機質にして人とは遠く離れたもの。

 長年の観察で、人がどうすればどう反応するかも知り尽くしているものの、結局それを思い出すのが億劫になっているらしい。ずさんというか、天然さんというか。

 何だかんだで打ち解け、ナッツを食ったりなどしながら、話しているうちに、おれの事情に話が移ってきた。

 

「まあ、ざっくばらんに言っちゃえば気付けばこの体だったんだけど」

「……おい、いいのか」

 

 フレッドが微妙に頬をひきつらせながら小声で言う。が、嘘をついても意味のない時ってあると思うのだ。

 それに多分、直感ではあるけど嘘を言う事に意味がない。

 黒曜の男は思い出したかのように、こくりと頷き、さもあろうと言った。

 

「汝は脱皮の際、つねにそうだ。記憶の引き継ぎはあと百年も経てば滞りなく済むだろう。ただ、そうだな……此度の脱皮はどうも外面と内面が合っておらぬように見える。不都合でも起きたか?」

「……色々聞き逃せない言葉が他愛もなくぽんぽん出てきているんだけど、おれって脱皮する生き物だったのかやっぱり」

 

 竜とか爬虫類っぽいとは思っていたものの、まさか本当に脱皮するなんて。いや、こんな妙な存在である以上、その脱皮ってのもこう文字通り皮を脱ぎ捨てるようなもんじゃないのだろうけど。

 

「──ふむ。記憶もなくば、自分が不具合を起こしているかも判らんか。また面倒なものよ。そうさな、汝の記憶を覗き見ても良いか? 何かの助けになるやもしれん」

 

 思いのほか、この男は協力的な言葉をくれた。

 記憶を覗く……うん、まあ、出来るというなら出来るんだろう多分。

 逡巡したのは数秒だった。

 小さく溜息を吐き、黒曜の男にそれを頼む。やり方を聞くと、血を媒介とするらしい。ワインの入った杯を前に出し、血を垂らせという。

 

「何とも魔法っぽいというか、儀式めいてるというか」

「律を作り我らを使い易いよう仕立てたのは神共であるが、本来我らは契約であり人の言葉で言うなら魔法そのものだろう。汝もその本質では理解しているはずだ」

 

 そうなのだ。男がその血の混ざったワインに何ぞや力を働かせた事に……妙に違和感が無い。いや、あるのだけど。それが解らない。不思議な感覚。

 ……まあ、それはそれとして、さっきからファンタジーでロマン溢れる言葉がぽんぽん飛び出ている。おれ自身、不思議生物極まりないとは思っていたけど、まさか神さまも関係しているとか。いるのか神様。どんな顔しているのだろう。

 男は、そのワインを一息に飲み、しばらく首を傾げたのち、おもむろに一つ頷いた。

 おれは何か解ったかと、ちょっと真面目な気分になり、その開かない目を見つめる。

 隣でフレッドが飲んだくれと化して、いやこれは良いと言い、かぱかぱ葡萄酒を飲む。何となく腹がたち、服の下で畳んでいた片羽をもっそり出して頭をはたいておいた。

 

「めくれ上がって色々見えているぞ」

「むしゃくしゃしてやった、今も後悔していない」

 

 見物料の代わりにもう一発はたいておく。どこぞの酒場の店主の言によれば、肌見せるだけでも金になるらしいのだ。誘われた事も何度かあった。見せ物になる気もないが。

 それで、と黒曜の男に話を促すと、そんな目の前のふざけ合いなど気にもせず頷き、話し始めた。

 

「本来、自らで引き継ぐものだが、記憶の前渡しをしておこう。まず──今の汝の状態はその隣に居る人間との契約に括られているがゆえ、食事の代価に『なんでもする』と言っただろう。その上、付けられた名前により、さらに深く結びつけられた。その人間が存命の間は、以前の汝の姿のままであろう」

 

 ……聞いた情報を整理する。いや、それ以前に解らない事だらけなのだが。

 

「以前のおれ……ってどういう事?」

「脱皮以前の事よ、これも前倒しになってしまうが。思い出すがよい、翡翠の。汝は人を好み、人を核とすることで脱皮を繰り返して存在してきた竜よ」

 

 唐突に──地震にでも揺られた気がした。

 その情報は、早すぎた。少なくとも、おれの身には早すぎた。

 しかし理解する、理解できてしまう。記憶が開かれる、道が開かれ嫌が応にも手に知を取る。僅かでも開かれた門から止めどなく情報が流れ込み、自身の境界をあやふやなものに──

 

「あ、ああ。そうだ。お、れはそういうモノだった」

 

 この姿は前代のモノ。前代の保っていた姿形、彼は脱皮と形容したが、まさにそれ。今表に出ている人格もかつての人であった存在と翡翠の竜の混ざり込んだもの。

 

「……ぐ、く……ぁ」

 

 頭痛を感じてテーブルに突っ伏す。違う、頭痛じゃない。人の名残から頭痛と感じているだけでこれは違う。ただ知の奔流を受け止める下地がなく、それなのに解放してしまって。

 あやふやになる。

 視界が視界と感じられない。

 感覚が感覚と感じられない。

 自分が自分と感じられない。

 時間の流れすら感じられない。

 因果が理解できない。

 法則が理解できない。

 そして額に冷たいものが触れ──唐突に鎮まった。

 

「今の汝でそれに耐える事はできん、入滅するところだったな」

 

 男の長い指がおれの額に触れていた。きっと短い時間の事だったのだろう、隣のフレッドは杯を傾けた状態で固まっている。

 

「おい、大丈夫かエフィ、いきなり様子がおかしくなったようだが」

「……ああ、ちょっと死にかけた」

「……そりゃまた。竜なんてものになると言葉で死ぬのか」

 

 フレッドが呆れた様子を隠さずにそんな事を言う。まあうん、信じられないだろうそりゃ。

 額から指が離れる。もう先程の記憶の奔流は感じられない、本来の竜の保つ膨大な情報は封じられ、曖昧な記憶になっている。おれは大きく安堵の息を吐いた。

 

「感謝する、曖昧にだけど原因も理解した」

「構わぬ、多くが滅び、残っているのも数少ない我らだ。在りたいのなら在らせるのみ」

「あー、滅びたというとやっぱりその理由は」

「律により括られた我らだ、世への関心が無くなれば自然、無くなる」

 

 なるほど、と何となく頭の横から覗いている角をこんこんと叩く。

 ひとまず自分の状態については何となく把握した、なぜ不具合が出ているかも。

 しかしまあ今の自分の状態、色々ちぐはぐな自分。それがまさか。

 

「盛大な自爆だったとは思わなかった……」

 

 光る天井を見上げ、溜息を吐く。何となく煤けた気分になっていた。

 

   ◇

 

 精神的に色々すり減った気分を味わいながら、黒曜の竜の住み処を後にする。洞窟の外は既に暗く、むしろ洞窟の中の方がほのかに明るい。穏やかな海に映る月が妙に幻想的だ。

 

「しかし、良い酒だった。食い物も素朴にして最高の味、まさかあれほどの物に出会えるとはな。王侯貴族ですらあんなものは口に入れられはせんだろう」

 

 ひたすら飲んで食っていたフレッドは上機嫌だ。さらにはこの男、黒曜の竜相手に臆面もなくねだって、お土産に葡萄酒を瓶ごと貰ってしまった。おれはといえば、記憶が暴走した影響か、得た知識を整理するのに一杯一杯で、食べる余裕すらなかったのだけど。

 

「──で、口は挟まなかったが、収穫はあったんだろう?」

 

 フレッドが愉快げに言う。いや、長生きはするものだ、なんて爺臭い言葉をそえて。二十三歳とか言っていたがやはり嘘だったか。ひっくり返して三十二歳なら頷ける。

 おれは月夜の中、潮臭い磯で石を蹴り飛ばし言った。

 

「ああ。あった。有りすぎた」

 

 正直持て余す。一度に情報が与えられすぎた。こんなに一気に与えられてしまうと困惑しか浮かばない。

 アルノーの街の明かりに誘われるようにゆらゆらと歩きながら、言葉を紡いだ。

 翡翠の竜。人を好み、人に依存する事により、人と混ざり合いながら存在する事を選んだ竜。

 神隠しだか判らない間にこんな世界に飛ばされ、至極簡単に死にかけたおれに「生きたいか?」と問いかけたモノ。その存在に恐怖するおれを見ながらただ淡々と、当たり前であると言い切ったモノ。

 何てことはない。翡翠の竜とは人の皮を次々と新たに被り直しながら存在するたぐいのモノだった。その一番新しい皮が今のおれ。

 問題が起こったのは外に飛び出したからだろう。記憶を呼び起こされたから判る。あの目覚めた洞窟の奥には自分の身を整えるための用意があった。本来なら自らが思う姿形に変化し、地脈の上で失った力を回復させつつ、百年余りの時間でもって記憶の移行も行われるはずだった。

 外に飛び出し、無闇に力を使い果たし、通りがかりの人間と約束を交わし、名前を貰うなんて事がなければ──の話だけども。

 食欲が増大するのは当たり前だった。何分燃料がない。竜の体は大出力大排気量だ、燃費も極めて悪い。地脈の力を長い年月溜め込み、やっと本来の力を出せるモノだ。猪男をやっつけた時のような無茶をもう一度すれば力を使い果たして死滅する。

 その辺りをかいつまんで説明すると、フレッドは頬を掻き、少し気まずげに言った。

 

「話を全て把握できたわけでもないが、名は余計だったか?」

「んにゃ、気にするな。元々竜の存在自体、ほとんど主体性無いし」

「無いのか?」

「生きたいと願った死にかけの人間に自分の全てをあげてしまう程度には。おれはまだそこまで擦り切れてないけど、あと五百年もすれば存在に飽きて誰かに命をやっちゃうかもな」

 

 根本的には現象に近いものらしいのだ。生物というより力の吹き溜まり。性別以前に限りなく生き物から遠ざかっていた。

 

「……でだ、黒曜の奴がちょっと口にしてたけどな、なんというか、竜は契約に強く縛られるんだ」

「む、ふむ? ほう……」

 

 一応言っておかないといけないので言ったら、フレッドはニヤニヤと嫌らしい笑みを浮かべて顎を撫でている。どうやら思い当たったらしい。

 

「おれは最初に『何でもする』という事で契約しちゃったからな、それが一番強い括りになってる。うん、まあ、なんだ……そういう事みたいだ」

「ほーう、なるほど、なるほど。つまりエフィは俺の命令に一切そむけないと」

「まー抜け道はあるけど、基本的には」

「つまり夜伽を幾ら命じても問題ないわけか」

「……異種間性交はどうかと思う。あとおれの自意識は曖昧ってもやっぱり男だからな」

 

 一歩距離をとる。いつものからかい文句だろうけども、一本釘も刺しておいた。もっとも、口で言う程拒否感があるわけでもなく、どちらかというと無関心に近い感覚かもしれない。その辺は記憶を色々引き出せたおかげでますます面倒臭い事になっている気がしないでもない。興味で、とはいえ、一代前、三代前の記憶はその……うむ。かなり、あれだ。うん、アレなんだ。実感はなくとも自分がイタしている記憶があるというのはどうにも奇妙な感覚だった。

 しばし考え、やっぱり面倒臭くなって考えるのをやめる。

 

「あ、そういえば。いつぞやフレッドがしてたユルヴァ山の竜の話だけどな、あれ、三代前の竜の話だったっぽい」

「……実話だったのか?」

「おお、雪の中で狩人がひっくり返っててさ。それも縁かと思って拾って帰った。話上手で良かったんだけど段々厚かましくなってきたんで辟易して、宝石一塊持たせてほっぽり出した記憶がある」

「それはまた──」

 

 フレッドもさすがにその帰結には困ったのだろう。珍しく絶句した。

 詳細を聞いても良いかというので聞かせた。

 実の所何ほどでもないお話。

 出会いと別れ、人の間ではよく交わされてきたもの。

 

「ほお、そうか。実のところ男は一冬過ごしたつもりで一年を」

「感覚なんて朧なもんだしな、外と切り離された快適な場所で日夜喰っちゃ寝していればそうもなる。まあ、もしかしたら当時の竜の影響受けて時間感覚もズレたかもしれないけど」

「む? 影響……か、それは普通の意味でなく、呪いか何かのようなものなのか?」

 

 どういったものだかの想像が及ばないのだろう。夜目にも判る困惑げな顔をしてフレッドは言う。

 どういった説明をして良いものか、ちょっとばかり悩み、ありのままに伝える事にした。結局知識は有っても、それを生かす知恵がないのだ。そのままに言う他ない。

 

「んー。多分一番重要な事言ってしまえば、竜ってな『どうとでもなる力の塊』なんだよ、その近くにいる生き物は影響を免れない。自分がそう在りたいように成長するんだ。こう……急激な進化をさせるというか、進化の系統樹にお手軽に干渉できるというか。頭良くなりたいと思えばなるし、力が強くなりたいと思えばなる。もちろんそれだって限界もルールもありはするんだけど」

「……む、仕組みはよく判らんが。ただ、そうするとさしずめ先程の犬なんぞは頭を良くしたい、とでも思ったのか?」

「フレッド、犬の思う頭が良くなりたいってのは人間のそれとはちょっと違う。多分、誰かともっと通じ合いたいって思いがあったんだと思う。大体、言葉って何気なく使ってるけど凄いんだぞ」

「ふむ……」

 

 顎に手をあて、目を細めると、開いている左手でわしっとこちらの頭を掴む。

 目を閉じ、口の中でぶつぶつと何やら呟き、ゆっくり目を開け、やがて残念そうな顔になった。

 

「何も変わった感じが無いな……」

「えーとな……おれは何でも願いを叶えるランプの精じゃないからな。それにその影響が一番強く出るのは子供のうちだし、もっといえば自分のねぐらでもない場所で周囲に与える影響なんて微々たるもんだよ」

「……ミアが子猫の癖に妙に物わかりが良いのは?」

「あれは……うん。つまりあれが竜に影響されて、微々たるものながら変化し始めたって状態、まだ軽いけど」

「ほー、いずれはさっきの犬のようにエフィを主と呼ぶようにでもなるのか」

 

 おれは自分の頭をがしがしと掻く。

 いずれ故郷の砂漠にと思っていたというのに、やっちまった、ってやつなのだ。ミアがこれからどうなるかは実の所まったく判らない。

 

「いや、多分主とか言っててもあれは犬の方で勝手に言ってるんだと思う。ほら、犬ってそういう群れを作るところがあるし。あいつはそうした主従関係とか無頓着だしな。あの空間にしても、多分力に惹かれて集まった動物達の求めに応じてるうちにああなっただけだろうよ」

 

 ほーう、と気のない返事を返してのんびり歩を進めるフレッド。

 月明かりと潮騒の中、何気なく、といった感じで口を開く。

 

「──で、これからどうする?」

「む? どうするって?」

 

 ふん、と小さく笑い、フレッドは肩をすくめた。

 

「別段俺はあんたを縛るつもりも何かやらせるつもりもない。お仲間がやっと見つかったんだ、ここにしばらく住まうって選択肢もあるんじゃないか?」

 

 なるほどそれは……何ともコイツらしい。

 ただその気遣いは嬉しくとも、的を大きく外している。

 

「なあ、フレッド。竜ってな根本は同じでも、例えばさっきの奴とおれとじゃ犬と猫くらいに違うみたいなんだ。たまに懐かしくなってふらっと会う事はあっても、近くに住むってのは無い」

「ふむ、そういうものか」

「そういうもんだ。ついでに言えばお前と旅するのは楽しい」

 

 言うと、フレッドはどこか幼い子供が驚いたような顔できょとんとしてこちらを見た。

 何となく釣られたようなぽかんとした顔になるのを自覚しつつ言う。

 

「なんだよフレッド、面白い顔して。お前にとって悪い事だったか?」

 

 フレッドは、一秒も経たぬ間に顔を戻し、普段通りの余裕げな笑みを浮かべている。

 くく、と含み笑いをし、夜空を見上げる。

 

「なに、悪くない。そういうのも悪くないさ」

「ならいいだろ、おれも記憶を読めるようになったっていっても、性格変わるわけじゃないし、今まで通りでさ」

 

 フレッドはふん、と鼻を鳴らし、星の瞬く夜空を見上げた。

 明日は雨になりそうだ、と呟き、少し足を早める。

 その背を追いながら、ぼんやりとかつての自分、死にかけた人間であった時の自分を思い出す。

 ぼやけた記憶も今でははっきりとしている。

 日本に住んでいたはずの自分、何がきっかけでこちらに迷い込んだのか──

 体の中に眠る記憶を紐解く。百科事典を読む感覚に近い。翡翠の竜なんて名前で呼ばれる以前、律に括られ竜として在る以前より継がれてきた億年を超える集合記憶野。

 なるほど、と頷いた。

 こっちとあっち、つながりはあるらしい。昔から数は少ないものの、迷いこんできた者はいるようだ。ただし、それも記憶の中にあるのは話を又聞きした程度だったが。考えてみれば環境が似すぎているし、案外、こちらもあちらも起源は同じものなのかもしれない。

 あちらでは失踪扱いになっていることだろうか。そして唐突に行方知れずになってしまった子供に父や母は嘆いているのだろうか。

 存在としての根っこがこちらに移ってしまったせいか、記憶をはっきり思い出せた今も「帰りたい」とは思えない。

 

「行く河の流れは絶えずして……」

 

 どこかで聞いたような一節が思い浮かび、後が続かなかった。

 どうにもこうにも、記憶がはっきりしてもなお、悲しいとか、寂しいとか、そんな感情は浮かんで来ない。潮風の漂う夜気の中に溜息を一つ落とし、無常だなあ、と口の中で呟いた。


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