そういうわけで平塚静は独身である。
西暦3XXX年。
母なる地球を過去に置き去りにし、人類は宇宙の彼方へとその版図を広げていた。
これまでの過程が順調だったとは、決して言えない。
あるときは敵対的な異星人との戦争、またある時は多元宇宙に君臨する超越者との生存競争。またあるときは……
人類は幾度も滅亡の危機に瀕し、そしてその都度それを乗り越えてきたのである。
しかし今回ばかりは、その強靭な種としての生命力にも、ついに陰りが見えようとしていた。
その日、全人類から選りすぐった強者達で構成された航宙軍の艦隊が、数光年の距離を隔てて"敵"と相対していた。
これより行われようとしているのは、互いに滅亡を懸けた最後の戦い。度重なる和平交渉も、模索された共存への道も虚しく、その全てを嘲笑うかのように戦いの火蓋は落とされようとしている。
しかし、人類側に不安の色は見えない。
彼等は確信しているのだ。自分達の、勝利を。
何故なら彼等の艦隊の中央、旗艦には人類の希望が威風堂々と騎座しているのだから。
英雄。勇者。救世主。
呼び方は多々あれど、滅亡の危機が訪れる度に彼等は現れ、そして人類を救ってきた。
彼等に対する信頼は、絶対。彼等の力もまた、絶対。
ならば、どこに負ける要素があるというのか。
だが、それは起きた。
開戦に際し兵たちを鼓舞する勇者。或いは肉眼で、或いはスクリーン越しに兵達が信仰の光すら宿った視線を彼へと向ける中、不意に、何の前触れもなく、それは起きてしまった。
勇者が消滅したのである。
まるでその場所には最初から誰もいなかったかのように、何の痕跡も残さず、唐突に人類の希望は消え去った。
そしてそれに連鎖するように、艦隊を運用する将兵が、一人一人ゆっくりと、しかし爆発的にその速度を上げながら、消滅していった。
混乱の渦に叩き込まれる兵達の中、最も早く行動を起こしたのは、旗艦に随行していた突撃巡洋艦ホウ=シブの艦長であった。
「次元断層バリアを展開、艦に対するありとあらゆる干渉を遮断しろ! ユイ=ガハマ、何が起きているのか観測できるか?」
低く落ち着いた声から幾ばくかの焦りを滲ませながら、艦長が幕僚の一人に問う。
えっと、えっとと必死の形相でコンソールに流れる文字列を追っていたユイ=ガハマが、頭に載せた二つのお団子を忙しなく揺らしつつ答える。
「因果律干渉波を確認しました! 発信源は敵艦隊旗艦です!」
その言葉に、艦長の顔に陰りが差す。
因果律への干渉……まさか、非エリンコゲート空間追跡機か!?
まずい。このままでは、まずい。
「干渉対象を特定しろ! 急げ、何としても全滅だけは避けるんだ!」
艦に残された干渉を受ける前のデータと、現在の宇宙を構成する観測情報を比較。人類の全歴史を照合し、その差異を特定するまで、数秒。
「……こんな……こんな、ことって……」
結果を導き出したユイ=ガハマの顔に浮かぶは、隠しようもない絶望。その声は、涙でどうしようもない程に震えていた。
「平塚静が、結婚していません!!」
ユイ=ガハマの叫びが、艦橋にこだまする。
そのあまりの悲報に、艦長を始めとする全乗組員が悲嘆にくれざるを得なかった。
それは、この場に存在する艦隊の全滅だけにはとどまらない、全人類の滅亡が決定された瞬間であったのだから。
平塚静とは、今より千年以上も昔、まだ人類が地球の表面にへばりついて生活していた頃。極東の島国で教師をしていたと伝えられる、伝説の人物である。
熱い漢の魂を持った女性であり、その厳しくも優しい指導で当時の教育界に大きな貢献をなしたという。
そして、これまでの歴史において人類の窮地を救ってきた数々の英雄たち。その系譜を辿って行くと、全てが彼女へとたどり着く。
つまりは、ドライバーで空間を湾曲するあの勇者も、天を貫くでっかいドリルをもつあの穴掘りも、俺の拳が真っ赤に燃えたりするあのファイターも、もちろんファーストセカンドラストとブリットしてくるあの人だって、みんながみんな平塚静の子供だといえるのだった。
その平塚静が、結婚していない。
彼女の子供達が、生まれていない。
そうなれば当然、人類が彼等に救われたという事実は存在せず。
その結果が、たったいま眼の前で起きている惨劇なのであった。
「……ユキ=ノシタ。当艦の縮退炉を使って過去への飛翔は可能か?」
艦隊乗組員たちが絶望に支配され下を向く中、だが彼だけが未だ前を向いていた。
この艦の艦長であり、そして平塚静の系譜に連なりながら何の力も持たないはみ出し者。
「……無理ね。マイクロブラックホールを使った時間転移では送れる情報量が限られているわ。艦ごとグズグズのゲル状バナナになりたいなら話は別だけど」
何を言っているのかしら、この男はと。返す言葉はにべもない。
だが、艦長の瞳から光は消えていなかった。
「ああ、それでいい。情報のみなら圧縮して送れば問題ない。そうだろう、ユキ=ノシタ?」
「あなた……自分の言っていること、わかっている? 私がいなくなったら、次元断層バリアを維持できないのよ。そうしたら……」
「ああ、お前がいなくなった瞬間、俺達は綺麗サッパリと消えてなくなるんだろう。艦のメインコンピューターそのものであるお前がいなくなってしまうんだからな」
ユキ=ノシタは情報生命体である。
古臭い言葉を使って言うなら、人工知能といったところか。
人類の科学力は0と1で構成されたプログラムに知性どころか魂を宿すことに成功し、現在では情報生命体は一つの種族として人権を与えられている。
もっとも、そこまでに至る道は平坦なものではなかった。
多くの人間たちにとって情報生命体とはただのコンピュータでしかなく、道具に過ぎなかったのだ。
その認識を覆したのが、偉大な人権活動家として歴史に名を残すザイ=モクザである。
ある時、彼はモニターの向こう側の少女に恋をした。
そして彼女を一人の人間として扱うべく、世論という強大な敵に対したった一人で立ち向かい、ついには汎人類統一議会に情報生命体を人類の一員だと認めさせたのである。
すべてが終わった時、ザイ=モクザは彼女へと求婚し、そして振られたという。
「すべてを分かったうえで、言う。ユキ=ノシタ、過去へと飛んでくれ。平塚静を、結婚させてやってくれ」
一見、死んだ魚のような、だが強い光を宿した瞳が、ユキ=ノシタを見つめる。
「彼女に、旦那を見つけてやってくれ」
どこか気怠げな、それでいて力強い言葉が、耳朶を打つ。
「……あなたは私に、この艦の人員の……私の家族の命を奪えというの?」
その言葉に、艦長はゆっくりと首を振る。
「奪うのは、俺だ。お前は、俺の命令でそうせざるを得ないだけ。罪は、俺が背負う」
「……私に……あなたの命を奪えと……そう、いうの?」
「ユキ=ノシタ……」
艦長が、ゆっくりと手をモニターへ伸ばす。決して触れ合うことのないその手が、しかし自分の頬をそっと撫でた。そう、ユキ=ノシタには思えた。
「ユキ=ノシタ……お前は、本当にいい女だ。思えば、出世もせずにこの艦にしがみついているのも、この年まで結婚せずにいたのも、全てはお前がここにいたから、なんだろうな」
「……肌を触れ合うことも出来ない私にそんなことを言うなんて。だからあなたはキモいとか、死んだ魚みたいな目とか、艦長とか言われるのよ」
「いや、最後のは悪口じゃないだろう……」
くすりと、笑い合う。
ユキ=ノシタは、心から思う。この男を、死なせたくないと。
なら、考えろ。自分にできる、最良の手段を、導き出せ。
「……わかったわ、口車に乗せられてあげる。みんな、ごめんなさい。全てはこの男のせいだから、恨み言なら艦長に言ってちょうだい」
「うん、わかってるよ。……ユキノン、一緒に死んであげられなくて……ごめんね」
「馬鹿なことを言わないで、ユイ=ガハマさん。私は、あなたを生かすために行くのよ。私が過去を変えられれば、ここであなたが死ぬこともなくなるはず」
だから。
だから、そう。
「また会いましょう、ユイ=ガハマさん。平塚静を結婚させて、全てを終わらせて。あなたが生まれてくるまで、待つわ。千年後にまた、お友達になりましょう」
「うん、あたし、待ってるからね!」
「いやだから、待つのは私なんだけど……」
とびっきりの笑顔を向けてくるユイ=ガハマに、苦笑で返す。
そして最後に、もう一度。艦長と視線を交じ合わせる。
「あなたも、千年後に。その時にはまた、私の艦長にさせてあげるわ」
「ああ、光栄だ。その時にはよろしく頼む。……俺自身は何の力も持っていないが一応、平塚静の血は引いているらしい。もしこんな目をした奴がいたなら、そいつが旦那候補だ」
「そんな濁った目をした人間が早々いるとは思えないけど……。まあ、参考にさせてもらうわ」
そしてユキ=ノシタは、過去へと旅立つ。
さようならとは、口にしない。残す言葉は一言。
「……またね、ヒキガヤ=クン」
こうして、人類の存亡をかけ、平塚静の結婚相手を探す戦いが始まったのであった。
次回予告。
過去へと旅だったユキ=ノシタ。情報生命体である彼女の宿り先となったのは、雪ノ下雪乃の精神世界だった。
自身の内側から聞こえる声に戸惑い、姉に接するストレスのあまり解離性同一性障害を患ったかと疑う雪乃。だがユキ=ノシタの筋道だった説明にやがてはその言い分を信じざるを得なくなっていく。
キーワードは憑依。現状の参考資料になるだろうかと手にしてしまったのをきっかけに、彼女はラノベ道へと道を踏み外していった……。
そしてついに、ユキ=ノシタは奉仕部の面々と邂逅する。
平塚静に、由比ヶ浜結衣に、そして比企谷八幡に出会った時。彼女が下した決断とは、一体。
次章、「とある時間移動者と、その犠牲者の日常」。
──ねえ、雪乃。あなたちょっと、この男と性交してみてくれないかしら?