出撃前の、艤装の点検中のことである。
「―――大丈夫ですか」
電の背後から声を掛けたのは、朝潮だった。
隣いいですか、と呟いてから隣に座ると、気遣わしげに電の顔を覗き込む。節度を重んじる彼女にしては珍しい、距離を詰めた動きだった。
「電さん」
再度の呼び掛けは、却って不自然なほどに角の取れた声色だった。
電は作業の手を止めないどころか視線すら寄越さずに、
「大丈夫なのです。電は電の仕事をするだけですから」
「……電さん」
早口にそう言い切った。言い聞かせるような口調だった。
気遣わしげな表情の朝潮と、視線を交わらせることはなかった。
黙々と艤装を弄る電の傍ら、数分ほども経っただろうか。不意に、朝潮が口を開いた。
「……それ、撃てそうですか」
ぴたり、と電の手が止まった。
視線は依然として睦まない。しかし、朝潮に気分を害した様子はなかった。
いっそ不自然なほどに優しげな表情のまま、
「撃てなくても、誰も責めたりしません。ですから、どうか」
微かに眉を寄せ、逡巡して、
「どうか、ご無事で帰ってきてください」
最後は絞り出すように囁いて、朝潮は立ち上がった。
電は顔を上げることもなく、手元の艤装にじっと視線を注いでいた。
遠のく足音から、電は朝潮が去ったことを知った。
だというのに、電はその場から動けずにいた。
とうに調整の済んだ主砲を手の中で玩び、思索に耽る。
撃てるのかと、朝潮は電に問うた。
およそ味方の成功を疑うことのなかった彼女がそのような問い掛けをしたことは、電の印象に強く残った。
やせ我慢であろうと虚勢であろうと、仲間が出来ると言えばそれ以上は踏み込まない。彼女はそういう人格だった筈だ。
「(……それだけ危うく見えていた、ということなのです)」
手指が白く色を失うほどに、艤装を強く握る。
ヒトならざる握力に、しかし妖精の神秘を湛えた鉄の把手は軋むこともせず、電の手に硬質な感触だけを返す。
細く長く、息を吐く。数えるように、引き剥がすように、指を端から順に緩めた。
「(冷静じゃないのは自覚してるのです。だとしても)」
やらねばならない、と心中で噛み締める。
誰もが待っていろと自分に告げた。休んでくれていいと、気遣わしげに諭してくれた。皆の心遣いはありがたかったし、心配を掛け続けていることには心苦しさもあったが、
「……それでも、これは電の仕事なのです」
意識して声に出す。
煩わしく絡みついていた迷いが一掃される。
それが逃避に過ぎないことは、電自身、ひどく冷静に理解できていた。
少し前のことだ。
突如現れた新型の深海棲艦に、遠征帰りの艦隊が大打撃を被った。
遠征組とはいえ人数の揃った艦隊が、たった一体の深海棲艦に敗北したことは、鎮守府全体に小さからぬ衝撃を与えた。
戦艦の装甲をも安々と抜く非常識な火力と、恐ろしいほどの耐久力を兼ね備えた敵だった。艦娘たちは軽薄な笑みを浮かべたその敵に次々と各個撃破され、艦隊は壊滅の様相を呈した。精鋭ではないとはいえ、練度も低くない艦娘の揃った艦隊が敵一人に蹂躙されたのだ。悪夢としか言いようのない事態だった。
しかし、本当の意味で艦隊に暗い影を落としたのは、艦隊が壊滅してから起きた出来事だった。
戦闘が終わり、死屍累々の海域には殆ど無傷の深海棲艦だけが立っていた。
ひととおり艦娘を無力化してから、深海棲艦は自らが撃破した艦娘に近付き、顔を検分しては他の艦娘の場所に移ることを繰り返し始めた。
その薄笑いに敵意が見られないとはいえ、どの瞬間に攻撃に移るとも解らない。その場では、最も効率的に恐怖を煽る振る舞いに違いなかった。
誰もが順番に巡る轟沈の恐怖に肌を粟立たせていると、件の深海棲艦は大破し蹲る電の前に至り、ぴたりと動きを止め、その顔を覗き込んだ。
間近でそれを認めた電の双眸が、大きく見開かれた。
もう沈んでしまった彼女の面影を湛えた笑みが、そこにあったからだ。
離れた位置からその表情を認めた艦娘は、例外なく凍り付いた。電を含めた彼女らの様子から、残りの艦娘も事態を察したようだった。
接敵した瞬間から、嫌な想像を掻き立てる存在だと、誰もが思っていた。あまりに彼女に似通った顔に、どことなく似た衣服と装備。そして、今しがた見せた笑顔。
それが、電に―――よりによって電に興味を示したことで、いくらかの艦娘は、想像を現実の可能性へと格上げせざるを得なかった。
電の反応は劇的だった。目を見開き、言葉の体を成さない喚き声を上げながら、既に破損して使い物にならなくなった主砲で深海棲艦を狙い続けた。
恐慌に陥り撃てない武器を繰り返し撃とうとする電を、深海棲艦はしばらく興味深げに眺めていたが、やがて踵を返すと、何処とも知れぬ場所へと帰って行った。
後には満身創痍の艦隊と、蹲り泣き続ける電の姿だけがあった。
精鋭部隊であの深海棲艦を撃退すると決まった時、電は強硬に自分を艦隊に含めることを進言した。
もとより撹乱と援護のために数隻の駆逐艦が参加する予定だったが、練度と適性を鑑みて、夕立や朝潮といった艦娘が配される筈だった。
揉めに揉めたが、最終的には電が我を通し、作戦当日を迎えた。
前回の接敵場所からほど近い海域で、空母たちの索敵が開始される。
数分後、隼鷹の放った先遣隊から、見敵を報せる通信が入った。敵艦は単独、フード状の衣服を纏った深海棲艦。
疑いようもなく、目当ての敵だった。
航行すること暫し、水平線に黒い影が見えた。
こちらが目視できるのであれば、向こうも同様だ。こちらの接近に気付いているにも関わらず微動だにしないその姿に、嫌が応にも艦娘たちの緊張が高まる。
緊張と重圧を増す艦隊の雰囲気下にあって、電は自分の心が不気味に凪いでいることを自覚していた。
視線を自らの艦隊に巡らし、それから遠方の敵を見据える。
白い轍を刻みながら海を走る自分たちと、沖合にひとり佇む深海棲艦。何かの比喩のようだと、電は考える。
彼我の距離が縮まる。互いの表情が識別できる段になって、艦隊は大きく散開した。的を絞らせないための策だ。
精鋭とはいえ、力押しで勝てる保証はない。先だって飲まされた煮え湯が、艦娘たちをして慎重ならしめていた。
半円状に展開した艦隊が深海棲艦と対峙する。数の不均衡にも関わらず艦娘の表情は険しく、深海棲艦は余裕の表情を崩さない。そのことが、両者の見通しの程を物語っていた。
無数の砲門を突きつけられてなお、深海棲艦は茫漠とした佇まいを崩さない。
首から上だけを廻らせて艦隊を順繰りに見渡し―――その視線が、電にぴたりと固定される。途端、にんまりと、黒い深海棲艦は笑った。
電が身を震わせる。一瞬と間を置かず、
「電?」
「……大丈夫。わかってるのです」
隣に配置された隼鷹が鋭く発した。少しの調息を挟み、電も応じる。
意図は明白だった。挑発―――相手にそんな気があるかは怪しいにせよ―――に乗るなと、隼鷹はそう言っている。
電とて、それは理解していた。この作戦における最大の不確定要素が自分であることは、出撃する前からわかっていたことだ。
最初は、囮になれるかもしれないと主張した。前回の経験から、あの深海棲艦が電を殺す気はないと判断することもできる、と。当然ながら、そんな都合の良い予測に電の命を委ねられはしないと、心配混じりの反論が上がった。
次に、これは自分の戦いだと、電は感情に訴えた。知らぬ場所で決着が着くのは我慢ならない、最期の瞬間には今度こそ立ち会いたいと。
彼女たちの睦まじさを知っていた艦娘たちには、何も言えなかった。
そうやって皆の同情につけ込んで、無理に出てきたのは自分なのだ。不様を晒す訳にはいかなかった。
ひひっ、と耳障りな笑いが耳を打つ。そのまま脳の奥、意識さえをも掻き乱すような声だった。
奇妙に歪み、生理的な不快感を催させ、……そして、いつかの暖かさを想起させるような、声色。
電のまともな思考が継続していたのは、ここまでだ。
「―――、ッ!!」
視界が狭窄し、目の前の黒い塊しか捉えられない。
混濁したまま白熱して溶けそうな意識とは裏腹に、首から下はひどく冷静に、戦闘行動を開始していた。
何事かを喚き散らしながら、しかし突撃を敢行するでも棒立ちで砲撃を行うでもなく、飽くまでも駆逐艦としての役割に沿った動きを遂行する。
電の陥った恐慌を周囲に想像させるのに、それは充分な歪だった。
すぐさま、場が動く。艦載機が飛び交い、十字に交差する砲火が深海棲艦を襲う。
―――夢から醒めるように、電の意識が実像を結び始める。
どれほど戦っていたのだろうか。周囲を見渡せば、誰も彼もが中破以上の損害を受けていた。
そして、眼前には砲を潰され、満身創痍の深海棲艦が。
その赤い瞳が電を捉え、ひひっ、と耳障りな笑い声が発される。
戦端を再演するような振る舞いに、しかし電の中に、先程のような激情は生まれなかった。
衣服も身体もあちこち欠損させ、体液を流しながら半ば沈む様が哀れだからかもしれない。或いは、勝利に昂揚した自分は、先程のような余裕のなさとは縁遠いからかもしれない。理由はいくらでも考えついた。
今まさに己が欺瞞していることを、電の中の冷静な部分は訴えていた。
……しかし、その内なる声に向き合う気にはなれなかった。疲れたのだ。様々なものに別れを告げるのに、だいぶ疲れてしまった。
撃つことで楽になれるのであれば、撃ってやる。
気怠さを堪えて、主砲を構える。皆の視線が自分に注がれていることが肌でわかり、それがどうしようもなく鬱陶しい。
「さよなら、なのです」
「……ひひっ」
火薬の爆ぜる音。肉の裂ける音。少し遅れて、体液が水面に跳ねる音。
それだけを残して、深海棲艦は沈んだ。
最期の瞬間に正気が戻って、なんて展開はなかった。
そうなればどんなによかっただろう、と電は自嘲する。本当は助けられたかもしれないと自分を責め、悲劇の主役として嘆いたりできたのかもしれない。或いは、今度こそ彼女の死に立ち会えたと、前向きに処理できたかもしれない。
けれど現実は単純で、過酷だった。深海棲艦は深海棲艦として沈み、海の平和は幾許か取り戻されて、それで終わりだ。電の行いには何の落ち度もなく、強敵を皆で打倒したという事実だけが残った。
海は少しばかり平和になるだろう。皆の経験は次に活かされるだろう。こうやって敵を打倒することで、自分たちは勝利に漸近していく。
―――その正しさを認識した瞬間、悪寒に襲われた。
吐き気を催す。
意識が裏返る。
海面に倒れる体を誰かに抱きとめられた感覚を最後に、電の意識は途切れた。
「……連れてくるべきではなかったかも知れないわね」
自身も今回の戦いに参加していた陸奥は、自室で報告書を纏めていた。
電に関する記述を終えて、何度目かの後悔をする。後悔を繰り返すことが、艦娘を取り纏める陸奥の仕事だった。
だが、そうして悩み続け、悔やみ続けることで、自分たちは前に進めている―――
「―――本当に、終わりがあるとすれば、だけど」
見通しの立たない戦いだ。
深海棲艦がどう生まれ、どこから来るのか、誰も知らない。
正面から削り続けることが、果たして戦いの終わりに貢献するものかどうか、誰も解らない。
「(……正確には、解らないふりをしてる、かしら)」
電の恐慌の理由を推察できない艦娘はいない。
彼女が沈んですぐに現れた、あの深海棲艦。彼女の面影をはっきりと宿し、圧倒的な力を持ちながら、なぜか電だけに執着してみせた敵。
演出だとすれば、悪趣味極まりない。とはいえ、深海棲艦にそこまで情緒を読む機能が備わっているのかは怪しいものだ。
あるとすれば、むしろ、
「そう、例えば―――例えば、本能だとするなら」
それは、更に残酷なことだ。
悪意が介在しているなら、まだ救いがある。
だが、たとえば、もし―――思慕の残滓が深海棲艦の攻撃性と絡み合って、あのような発露を成したに過ぎないのであれば。
ああいった形でしか、触れ合えない存在になってしまったとしたならば。
あそこにあったものが、嘗てと形を変えただけの慕情であるのならば。
「神様っていうのも、大概悪趣味なことを考えるものだわ」
形になった書類を机の上に放り出して、陸奥は寝支度を整える。
寝て起きれば、いつも通りの戦いの日常が待っている。
「私たち、何のためにまた生まれたのかしら、ね」
微睡みの中で漏らした声には、純粋な疑問の響きがあった。
・コラ画像だと知ったのはだいぶ後になってからでした。注意力なさすぎですね。
・長いこと放置してたものに手を入れたアレなので、文章の継ぎ接ぎ感がなかなかすごい。
・明白に特定の艦娘を連想させる他の深海棲艦に置き換えることも考えましたが、飽くまでもこれは電のSSでなければならないと考えてそのまま続投。奏功したかどうかは謎。