青鶯ではなく、青鸞、これで「セイラン」と読みます。
難しい漢字ですが、改めてよろしくお願い致します。
そして初挑戦、「本編開始前の話」をプロローグの次に持ってきます。
プロローグの2年後くらいの、主人公のお話。
では、どうぞ。
「父様……ッ……!!」
少女が飛び起きた時、布団と共に朝の雫が散った。
何かを追い求めるように上半身を起こしたのは、10歳に満たない小さな女の子だ。
20畳は超えているだろう流麗な絵が描かれた襖に覆われた部屋には、一組の布団しか無い。
彼女がいるのは、その布団の上だった。
額や鼻の頭に浮かんだ汗は薄暗い中でも光って見えて、それは頬や首筋を通って背中や胸、腰へと流れ落ちていく。
剥き出しの鎖骨や肩甲骨のあたりに長い黒髪が張り付いていて、敷布団は女の子の小さな身体の形に汗の跡がついていた。
彼女は何も身に着けていない……素肌を晒して、生まれたままの姿で布団に
「は、ぁ……ふ……」
夢か、と思った次の瞬間、自らの汗の冷たさで意識を急速に回復させた彼女は、自分の額に手を置いてクシャリと前髪を掴んだ。
その指の間からは、汗とは異なる水分が流れ落ちている。
夢、だが、現実の記憶。
「……父様、父様……父様、ぁ……」
もう片方の手で自分の身体を抱くようにして身を丸める、まるで何かから身を守るように。
こうして見ると、周囲を取り囲む襖の壁は彼女の心の壁のようだった。
何者にも崩せない、彼女だけの城塞、防壁――――そして、牢獄。
「……ぅ、して、どうして、どうして、
繰り返し問うた言葉、しかし答える相手はもう目の前にはいない。
どこにもいない。
だから彼女は動けない、あの場所の、あの屋敷のあの部屋から。
あの時間から、身動きが取れなくて――――。
「まぁ、大変」
その時、城塞のように思われていた襖の一つがあっさりと開いた。
女の子が目元を拭って顔を上げれば、そこにいたのは同い年くらいの女の子だった。
長い黒髪にぱっちりとした目、平安貴族が着るような和服と相まって和人形のようにも見える。
「もう、セイラン。服を脱ぎながら寝る癖、直さないとダメって言われてますのに」
「カグヤ」
「はい、って、あら、凄い寝汗。朝ご飯の前にお風呂を先に致しましょうか?」
カグヤと呼ばれた女の子は、おっとりと首を傾げながらセイランと呼んだ女の子に近付いた。
良く見れば布団の周辺に、まるで押しのけられたかのように白の襦袢や下着が散乱している。
どうやら、セイランと言う女の子が寝ている間に脱ぎ散らかしていたらしい。
そうして近付いてきたカグヤの腕を、セイランが掴む。
「あら?」
「……ッ」
やはりおっとりと首を傾げるカグヤに、セイランが抱きついた。
いや、縋りついたと言った方が正しいのかもしれない。
そんな様子で抱きついてきたセイランを、カグヤも抱き締め返す。
同い年なのに、何故か母と子のように見えてしまう絵だった。
「セイラン?」
「……カグヤは」
「はい?」
「カグヤは、いなくならない……? どこにもいかない? 私を1人にしない……?」
「はい」
意味不明な問いかけに、しかしカグヤはにっこりと笑って頷いた。
「セイランは私のお友達ですもの、ずっと一緒ですわ」
「ほんとう?」
「はい」
カグヤの笑みに何を見たのか、セイランはほっと息を吐いた。
そしてしばらくそうしていたのだが、裸のセイランは寒かったのか、くしゅんと可愛らしいクシャミをした。
それにカグヤはクスリと笑って、身を離した。
「さぁ、風邪を引いてしまいますわ。早くお風呂を入れてもらいましょう」
「うん……あ、カグヤ」
「はい?」
「ご、ごめんね、朝から……」
どこか恥ずかしそうに頬を染めて、布団の上で両膝を揃えて、モジモジしながらセイランがそう言った。
それに対してカグヤは、何故か胸を押さえて顔を背ける。
具合が悪いとかそう言うことでは無く、こう、堪らなくなってそうしたと言う風だった。
「か、カグヤ?」
「い、いえ、ええ! 大丈夫、大丈夫です、お友達ですもの、気にしなくて大丈夫ですわ、ええ」
「そ、そう? カグヤは優しいね」
「そ、そんなことは」
「ううん、カグヤって……母様みたいにあったかいよ」
その発言に、カグヤは非常に微妙な表情を浮かべた。
「あ、あの……それって私が大人っぽいってこと? それとも……?」
「カグヤ?」
「あ、ああ! 他意が無いなら! 無いなら良いのですわ!」
「カグヤ、本当に大丈夫なの?」
「ばっちりですわ!」
何がばっちりかはさっぱりだが、いずれにせよ、セイランは笑った。
襖を開けるという、ある意味で象徴的なことをしたカグヤの前で。
◆ ◆ ◆
セイランとカグヤは、家の中にいることが多い。
学校にも行かないし、そもそも人と会うことすらなく、生活の全ては無表情なお手伝いさん達によって何もかもが用意されている。
きゃーっ、と、そんな静かな空間に甲高い悲鳴が上がった。
それはカグヤが上げたもので、特に危機に陥ったためのものでは無い。
両手を合わせて、目の前の女の子を見て興奮している様子だった。
そこにはセイランがいる、こちらはカグヤと違ってどこか困ったような顔をしていた。
「似合いますっ、似合いますわセイランっ、可愛いですわーっ」
「う、うーん……」
薄桃の袷に、薄紫の帯、白の袴に和風のケープ。
平安貴族のように幾枚もの布を重ねたその衣装は、カグヤとお揃いの物だった。
一方でカグヤはと言えば、両手合わせからのピョンピョンジャンプへと移行している、かなり興奮している様子だった。
「これ、何だか厚着なのにスースーするね。何だか落ち着かないかも」
「あら、気に入りません?」
「うーん……何だかフリフリ多いし、ヒラヒラするし、あちこち緩いし、運動したら解けそうであんまり好きじゃないかな」
裸で寝ていた人間が言うことでは無いが、実際頼りない布地だとセイランは感じていた。
しかし感想を述べた次の瞬間、何かが崩れ落ちるような音が響いた。
「そ、そんな……私とお揃いが嫌なんですの……?」
「え」
「そう、そうですわね……初めてのお友達だからと騒ぎすぎたんですわね……ぐすっ、ご、ごめんなさぃ……」
「う、ううん! これ凄く可愛いよねっ。初めて着たけど、ボク好きだよ。それにボクも、その、お友達とこういうコトするの、初めて、だし……」
「初めて同士! 大親友ですわね!!」
あれ、さっきまで泣いてなかった?
そう首を傾げるセイランだが、胸に飛び込んで来たカグヤのにっこにこ笑顔を前には些細なことと思うことにした。
実際、家柄的にも状況的にも、対等の友達と言うのが初めてなのは事実だった。
……いや、外国と言うことならかつて2人いたか。
最も、あの2人との付き合いは数ヶ月で途絶えてしまったが。
今は、どこで何をしているのかすら……。
「カグヤさま、セイランさま!」
「まぁ、ミヤビ。そんなに駆けてはしたないですわよ」
「す、すみませっ、でも、お客様で……!」
床の上にセイランを押し倒しているカグヤが言っても、説得力は皆無だった。
ミヤビと呼ばれた少女は――同い年くらいだが、割烹着姿の――慌てた様子でやってきた、そしてその理由は彼女が何事かを言う前に自分の足でやってきた。
「ほっほっほっ、仲が良さそうじゃの、2人共」
「まぁ、桐原公。おいでになるなら事前に言ってくれれば……」
「いやいや、ちょっと寄っただけでな。おい……」
鶯色の和服に身を包んだ小柄な老人が顎で示すと、黒服の男達が何人か部屋に入ってきた。
彼らはいくつかの漆塗りの長箱を抱えており、それを次々と運び入れていく。
合計3つ、黒服の1人が箱の蓋を開くと、そこには。
「まぁ!」
カグヤが歓声を上げる、そこには色とりどりの反物がいくつも納められていて、博多織と箱に金箔で刻まれていた。
現在ではほとんど手に入らない織物であって、貴重な品であった。
金額にすれば、庶民の想像を遥かに上回るだろう。
「こんな立派な物、頂いてしまってもよろしいんですの?」
「もちろんじゃ、2人で仲良う分けるのじゃぞ」
「はい、ありがとうございます、桐原公」
ほっほっほっ、と上機嫌に笑う桐原、その和服の袖を引く者があった。
それはカグヤと同じ服装に身を包んだ女の子であって、つまりはセイランであった。
彼女はどこか求めるような瞳で桐原を見上げていた、桐原の和服の袖を掴んで。
桐原は皺くちゃの顔を歪めるように笑うと、杖を持っていない方の手でセイランの頭を覆った。
「セイラン、セイラン、貴女もお礼を言わないと」
「う、うん、桐原の爺様、ありがとうございます」
「おお、良い良い。ついでじゃからの、ついで、ほっほっほっ」
人の良さそうな笑い声をカカカと上げる桐原、それは一見、和やかな雰囲気に見える。
しかし桐原の後ろにずらりと並ぶ黒服の集団が、何もかもを台無しにしていると言っても良かった。
セイランは育ち柄そう言う人間達を多く見てきたので、それ程の拒否感は無いが。
だから彼女は、桐原の手を頭に置かせたまま。
「桐原の爺様、どこかへ行かれるんですか?」
「うむ、復旧したオオサカの環状線を見に行くのよ」
「カンジョウセン……」
たどたどしく呟いて、桐原を見上げるセイラン。
何が面白いのか、カグヤもその横に並んで桐原を見上げ始めた。
それを受けた桐原は、ふむと首を傾けた。
顎先を落として考え込むその目が、やや細められたような気がする。
何かを考え込むような目だが、見定めるような目にも見える。
揃いの和服に身を包んだ2人を見やって、しかし不意にカカカと笑う。
彼は身を屈めるように2人を見ると、皺くちゃの顔を歪めて。
「一緒に来るかの、面白いものなど無かろうが」
「まぁ、電車ですわね。楽しみです、ね、セイラン?」
「……迷惑では、ありませんか?」
不安げに問い返して、それに桐原が頷きを返すと、セイランの顔に笑みが灯った。
◆ ◆ ◆
かつて大阪環状線と呼ばれた場所に轢き直された、モノレール線。
ブリタニア政庁の施策によって地下鉄の廃棄が決定された今では、大阪近隣を繋ぐ唯一の鉄道系輸送手段であると言える。
最近になってキョウト資本によって復旧されたそのラインに、一つきりの車両で走る物があった。
モノレール、しかし明らかに一般用では無い車両だ。
内装も凝った意匠やシャンデリアで飾られており、とてもではないが物資輸送用にも見えない。
それも当然だろう。
この車両はいわば個人所有の物で、名目上はオオサカ・ラインの視察で走っている物なのだから。
「――――桐原の爺様」
その車内に、幼い声が響く。
声を受けるのは座席に杖をついて座り、鶯色の和服を着た老人だった。
桐原の前に座るのは、もちろんカグヤとセイランだ。
黒髪に和服と、一見すると双子にも見える女の子達だが、しかし2人の気質が全く異なるというコトを桐原は良く知っていた。
現に先ほどまでは、カグヤがほとんど一方的に電車について話をしていたのだが……。
「あれは、何ですか?」
今、口を開いているのはセイランだった。
彼女は豪奢な座席の上でピンと背筋を張り、顔を窓の外へと向けている。
そこに広がっているのは、廃墟だ。
かつては賑わった繁華街だったのだろうそこは、空爆の跡地のように寂れている。
今にも倒壊しそうなビル、瓦礫に覆われ車の通行など望めない道路、スモッグが漂っているかのような淀んだ空気……それが、距離のあるモノレールの車内からでもはっきりわかってしまう程に荒れた土地。
そして最も目を引くのは、まばらに見える人々の姿だった。
車内からは止まって見える外の風景の中、それらの人々は絵画のようにも見える。
「アレはの、天王寺のゲットーよ」
「ゲットー?」
「日本人の居住区じゃ、大阪の……オオサカ租界、ブリタニアの者共が自分達の居住区から叩き出した者達が暮らす場所じゃな」
老人が答えながら手を振る、するとSPの1人が運転席に通信を繋いでモノレールを停めさせた。
ガタン、と揺れて停まるモノレールの中、1人の老人と2人の女の子が窓の外を見ている。
日本人の――彼女達の同胞の――暮らす場所を、ただ見ている。
反対側の窓の向こうには、オオサカ租界と呼ばれる場所が遠くに見える。
銀色に輝くソーラーパネルや外壁の白銀の輝きが、
翻って、今、自分達の眼下に広がる光景は何なのだろう。
「…………ゲットー」
停車した車両の中、米粒のように小さい人々の姿は……打ちひしがれた人間のそれだ。
ボロ布のような服を着て、浮浪者のように彷徨い、ゴミ捨て場を漁り、力なく路地に座り込んで、道端で誰が倒れようと気にすることも――――いや、その懐から何かを奪おうと群がる人々。
何かを諦めたような顔で、ただ生きているだけの人々。
日本人。
「…………租界、ブリタニア」
――――「あの日」から、セイランの時間は止まったままだった。
辛すぎる現実から、事実から逃げるように奥の院へと走って、全ての心の時間を止めて。
それでも夢だと逃げ切ることも出来なくて、思い出すのは昔のことばかりで。
「あの日」に失われた父の理想、兄の剣、そしてずっと昔に失った母の温もり。
全ては過去、取り戻しようも無い。
それは寂しくて、辛くて、逃げ出したくて、だけど自分と言う存在から逃げることなんて出来なくて。
後を追うことすらも、出来なくて。
「…………取り戻す」
過去を? 違う、そうじゃない。
父母はいない、兄は去った、残されたのは自分の身一つ。
けれど、父がしようとしたことだけはまだ、この世界に残っていることをセイランは信じていた。
それを否定するものの一つが、目の前のゲットー。
日本人から「日本」を奪った
父が最後に語った言葉は、日本人に語った言葉は何だ?
――――セイランは、それを知っている。
(――――だから)
窓の外、ゲットーを見つめるセイランの瞳が鋭く細まる。
もう、1人で泣く朝は嫌だから。
「あの日」の夢に苛まれるのは、嫌だから。
だから。
「桐原の爺様」
固い声で、セイランが再び老人に言葉を投げる。
老人は顎先に手を添えて、値踏みでもするかのような顔で彼女を上から下まで見つめる。
セイランはそれを真正面から受け止めて、むしろ見返して。
「ボクを、ナリタに行かせてください」
ナリタ、その単語に老人は眉を動かし、カグヤが視線を横へと向ける。
2人の視線を受けたセイランは、しかし微動だにしない。
「……行って、どうする」
「もちろん」
10歳の女の子がするには、聊か不似合いな表情と雰囲気を漂わせて。
「父様の跡を継ぎます、ボクが父様の全てを受け継いで、父様がするはずだった事をやり遂げます」
ほぉ、と笑んだ老人の顔に浮かんだ表情は、どう表現すれば良いのだろう。
歓喜か、皮肉か――――いずれにせよ、女の子を値踏みするように見つめていた桐原は、愉快そうな顔で頷きを返した。
それは了承の頷き、そしてセイランの行く末が決定されたことの証でもある。
「よかろう、お前に枢木家の全てをやろう。必要な物、事は全てわしが整えてやろう」
「ありがとうございます、桐原の爺様」
「しかし、わかっておるのか――――お主が歩もうとしているのは、修羅の道ぞ」
桐原の問いかけに、セイランは胸に手を当てて頷く。
「父様のために……そして、爺様や父様、日本人の全てに泥を塗ったあの人の代わりに。ボクが……いえ」
閉じた目を開き、前を見て。
父がおそらく、自分に望んでいたことを重ねるように。
「
「…………よかろう」
カカカ、と引き攣ったような笑い声を上げて、桐原は杖先で床を打った。
それを合図に、再びモノレールは動き出す。
物静かに動き出した車両の窓から、セイランは再び窓の外へと視線を向けた。
桐原は、口元を三日月の形に歪めてそれを見つめていた。
「カグヤよ、お前には皇の家をやろう。枢木の新たな当主と共に、キョウトの血を残す方法を探るが良い」
「……はい」
「とはいえ、お前達の存在は最低5年は隠さねばなるまいな……できれば10年、まぁ、それだけ時間を置けば片瀬や藤堂も力を蓄え、我らの根回しも功を奏し、ブリタニアの者共の治世にも隙があろう。その時こそ、反抗の……」
そんな言葉を耳に入れながら、セイランは外の景色を眺め続けていた。
ゲットー、日本人が暮らす貧困区。
そこで暮らす人々のことを想い、そして彼らをそこに押し込めた者達のことを思い、そうなることを防ごうとした父のことを願い、そして……それを奪った者のことを、考えて。
枢木家の新たな当主の、セイランの戦いが、この日この時この瞬間から。
今から、始まったのだった。
そして、そこからさらに5年の歳月が流れた時。
――――青き姫の全てが、始まる。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
寝違えました。
おかげで今、私は塗炭の苦しみを味わっています、背中上部がかなり痛いです、ビキビキします。
ちなみに次回からは、主人公は漢字表記になります。
成長したということで、そうしているわけですが……カタカナ表記の方が読みやすいかなぁ、とも思います。
いかがでしょう、カタカナ表記の方が良いということであれば、感想やメッセージで教えて頂けると幸いです。
それでは、失礼致します。