では、どうぞ。
そこは、妙に空気が華やいでいる建物だった。
木々や芝生が広がる解放的で広大な敷地、洋風な校舎や関連施設、明るく大らかな校風を表しているかのように朝の太陽の輝きが降り注ぐ場所。
私立アッシュフォード学園、エリア11の中心であるトーキョー租界に所在する学校である。
エリア11のブリタニア人の子女が通う全寮制の名門校であり、中等部と高等部の一貫教育校であるが、その制度や校風以上に大らかな(一部、大らか過ぎるとも)生徒会長の存在が有名だった。
またブリタニア人が優遇される世情を表しているのか、その施設は全てが一流の水準に達している。
お手洗い一つとっても大理石調の床に木目調の個室と、随分と資金がかけられていることが窺える。
「……ふふ……」
そして学園に無数にあるトイレの一つ、教室が集中する校舎とは別の棟にある場所。
早朝のその時間にはほとんど誰も来ないそんな場所に、1人の少年がいた。
彼は温度感知で自動で水を流す水道の前、やはり大理石調のそこに手をついて水が流れていくのをただ見つめている。
金ラインに詰襟の黒い制服は、その少年が学園の生徒であることを示している。
「……我ながら、細い神経だな……」
その少年は、ある種完成された造形を備えていた。
艶やかで整えられた黒髪、光の加減で紫に見える瞳、白人特有の絹のような白い肌。
薄い色合いの唇はどこか皮肉気に歪められているが、それが何故か絵になるのだから不思議だった。
180センチにやや届かない細身の身体も、この場合は少年の持つ気品を保つのに絶妙なバランスを保っていると言って良かった。
「……だが、俺の目的のためには必要なことだ。そして、この世界を」
少年が顔を上げる、そこには鏡がある。
精巧な意匠を施された木製の枠に納められたそこには、やや青白い少年の顔が映し出されている。
少年がそっと左手を伸ばし、自分の顔の右半分を隠す。
するとどうだろう、細められた少年の左の瞳。
瞳の中で、赤の光彩が散ったような気がした。
人間の瞳が輝くなど通常はあり得ないことだが、鏡の中の少年はそれに対して小さく笑みを浮かべた。
「この、鳥籠のような世界を――――」
◆ ◆ ◆
――――ここはまるで鳥籠の外だと、青鸞は思う。
ブリタニア人が住む、租界と言う名の鳥籠の外の世界。
誰からも気を払われず、見られず、安全な鳥籠の中とは対照的な世界。
諦観と絶望と、そして死が当たり前のように蔓延している場所、青鸞はそこにいた。
いつもの高級そうな着物姿では無い、もちろんパイロットスーツでも無い。
むしろ、どこか薄汚れた古着のような衣服に身を包んでいた。
8分丈のパンツに踝までのショートブーツ、袖長のシャツとジャケット、ショートグローブ。
そして後頭部までを覆うキャスケット帽子、その中に長い黒髪を収めている。
「……シンジュク・ゲットー……」
新宿と呼ばれていたそこは、かつて三大副都心の一つとして栄えていた場所だ。
歓楽街であり同時にオフィス街でもあったそこは、今では見る影も無い。
7年前の戦争以降、最新技術で発展していく租界を尻目に放置され――――昨日には、ブリタニア軍による制圧を受けた場所だ。
破壊の上にさらに破壊を乗せた廃墟のビル群、崩れた瓦礫はそのまま放置され、道路の爆発痕や打ち捨てられた戦闘車両らしき残骸、鎮火してそう時間は経っていないだろう建造物。
そしてその上、路地の裏手でドブネズミのように身を寄せ合って蹲る人々。
……幼い頃に見た天王寺のゲットーが思い起こされて、青鸞は顔を顰めた。
「……当たり前だけど、間に合わなかった、か……」
ナリタでキョウト経由で情報を得て、夜を徹して駆け付けて。
そして広がっているのが、目の前のシンジュクの光景なのである。
エリア11総督、クロヴィスによって殲滅命令が出されてより一晩の後の光景だ。
トーキョー租界――あの遠くに見える、白銀の壁の向こう側の世界――のブリタニア政庁は「演習を兼ねた区画整理」などと発表しているが、目の前の惨状を見ればただの虐殺行為だったことがわかる。
瓦礫の間から覗く黒ずんだ人間の腕、壁の側で折り重なるように倒れた日本人達の銃殺体、鼻に付く死臭と異臭。
いったい何人が犠牲になったのか、後から来た青鸞には想像することも出来ない。
「けど、おかしい……どうしてブリタニア軍は、それも総督直属の部隊がシンジュク・ゲットーの殲滅作戦なんて……?」
どうしても何も、現実に起こったことは否定することは出来ない。
だが戦後7年、末端兵が田舎の村々を略奪することはあっても、総督直轄軍がテロリスト討伐以外の理由で虐殺命令を遂行したのは初めてのことだった。
少なくとも、青鸞がナリタに移ってからは。
「しかも、それだけの命令を出しておいて……今は、どこにもブリタニア軍の姿は無い。ボク達としては苦労が無くて有難いけれど……」
ゲットーに軍が駐留することも稀だが、少なくとも規制線や検問、憲兵の見回りくらいはあっても良いはずだ。
しかし、シンジュク・ゲットーにはそれが無い。
だからこそ、青鸞はこうして易々と旧地下鉄線を通ってゲットー内に進入出来ているのだから。
ここまでブリタニアの姿が見えないと、逆に罠を疑いたくなってくる。
「ゲットー深くに入るのが嫌だったのか、最初からそう言う計画だったのか……それとも」
総督が自ら、予定に無かった殲滅作戦を指揮する程の事態。
シンジュク・ゲットーに何かあったのか、他に理由があるのか無いのか。
「ゲットーにいられないくらい、重大な何かが起こった……とか?」
……考えても仕方ない、情報が足りな過ぎる。
頭を軽く振って、青鸞は思考を切った。
ちょうど、その時だった。
「青鸞さま、話を聞ける住民を見つけました。こちらへ」
「……はい、今行きます」
「枢木」の雰囲気と声音へと変わって、青鸞は自分を呼ぶ声に振り向いた。
そしてもう一度、砲撃で倒壊したビルの瓦礫の上からゲットーの惨状を眺めて。
……僅かに目を伏せた後、歩き出した。
◆ ◆ ◆
当然のことだが、青鸞は1人で来ているわけでは無い。
実際にはシンジュク・ゲットーだけでなく、トーキョー租界をも含めて周辺に日本解放戦線系列の人員・協力者・シンパが散っている、情報収集のためだ。
そして青鸞自身、3人の日本解放戦線メンバーと共にシンジュク・ゲットーにいる。
「茅野《かやの》さん」
靴底を削るような足取りで高台から降りると、そこに長い黒髪を一本縛った女性がいた。
袖長の黒のシャツとブーツカットパンツ姿のツリ目の女性で、袖や首元など、衣服の端に薄い傷跡の端が見えることが特徴と言えば特徴だった。
茅野と青鸞に呼ばれた女性は、声をかけられると初めて顔を上げた。
ちなみに、青鸞を呼びにきたのは佐々木である。
昨日、草壁によって青鸞につけられていた女性兵士だ、現在は青鸞の後ろについて瓦礫の上から地面へと足をつけている。
深緑のシャツとカーゴパンツ、サバイバルブーツと言う出で立ちは、軍服とはそうイメージが変わらない。
「青鸞さま」
「茅野さん、凪沙さんはどこですか?」
「千葉は、あそこに」
言葉少なに指を指した先、ある路地の入り口に見覚えのある後ろ姿があった。
路地とは言っても倒壊しかけているビル同士が互いに支え合って出来た空間である、危険度としてはかなりの物だろう。
念のため周囲を窺うが、ブリタニア軍の姿は見えない。
その代わりと言うわけでは無いが、所々に力なく座り込む日本人の姿が……。
「青鸞さま!」
佐々木の声が飛んだ、同時に青鸞は己の身体に覆いかぶさる熱を感じた。
思考がその正体を確認する前に、藤堂道場で学んだ動きが身体を突き動かす。
すなわち肘を相手の鳩尾に当て、衝撃で身を折った相手の襟を掴み、足に引っ掛けるようにして前へと投げ飛ばした。
帽子が落ちて髪が舞うのと同時に、相手を地面に叩き付ける。
意識が身体の動きについてきた時、目の前に男が1人倒れていることに気づいた。
白いYシャツの男で、地面に倒れたせいか砂利で汚れて、しかし日本人だというのはわかる。
前を青鸞が通った瞬間、物陰に蹲っていた男が突然飛びついて来たのだ。
一瞬、痴漢か暴漢かとも思ったが。
「げふっ……ふひ、ふひひひひ……っ」
咳き込んでいるのは投げられたためだろうが、それにしても様子がおかしかった。
絶え間なく含み笑いを漏らして、何事かをブツブツと呟いている。
顔色は青い、いや青さを通り越して土色にすら見える。
目の焦点は合っていない、痩せこけた頬はどうも飢え以外の理由でそうなっているようだった。
「ひひ、ひひひひ……っ、母さん、母さ……ひひひひ、ひひひひひ……っ」
青鸞が呆然とその男を見ていると、彼はのそのそと身を起こした。
それからは青鸞達に目を向けることなく、フラフラとした足取りで別の路地の奥へと歩いて行った。
青鸞が意識をその男から視線を逸らしたのは、軽い金属音を耳にしてからだった。
振り向いて見れば、茅野がしゃがみ込んでいるのが見えた。
サバイバルブーツに何かをしまっている様子だが、それが何かまではわからない。
「青鸞さま、お怪我は?」
「いえ、大丈夫です」
佐々木の心配にそう返して――昨夜に比べて、やや親身のような気がする――青鸞は頭を軽く振った。
生身で誰かと争うのは、ナイトメアや銃で討ち合うのとはまた別の緊張がある。
拾ってくれたらしい帽子を受け取りながら、青鸞は息を吐く。
「さっきの人は……?」
「……おそらくですが」
前置きした上で、佐々木が答えた。
「薬物患者かと、日本人の間である薬物が流通しているとの情報を拝見したことがあります。確か、リフレインと言う薬物だったかと」
「……麻薬……?」
「はい、その理解で間違いないかと」
「あれが……」
もう一度、青鸞は先程の男の背を追った。
良く見れば、彼以外にも似たような人間が路地の奥に幾人も蹲っているのが見える。
誰も彼もが疲れたように座り込み、中には身動きすら出来ない者もいるようだ。
空気が淀んでいる、放置された下水道から漂う汚水の匂いだけが原因でも無いだろう。
だがこれでも、ゲットーの現実の一部でしかないのだ。
リフレインと言う流行の麻薬だけでは無い、食糧不足から来る飢餓、不衛生故の疾病。
加えて言えば、7年前の戦争以後にゲットーで生まれた子供は学校に行けない。
教育を受けられない子供がいると言うことは、将来仮に日本が独立したとしても、そこには生きていく能力の無い人々が溢れている……と言うことになる可能性があると言うことだった。
それは、独立後を考えなくてはならない日本解放戦線にとっては頭の痛い問題だった。
「……時間が、無い」
そう、時間が無い。
キョウトの桐原などは最大あと5年、待つつもりのようだ。
しかしあと5年も経ってしまえば、日本に数千万人いるゲットー住民は取り返しようの無い傷を負ってしまいかねない。
そしてそれは、エリア11においてテロリズムを含む反体制派組織が大きな支持を得られない理由にも直結しているのだった。
つまりゲットーの住民にとっては明日の独立よりも今日の食事と医療であって、それを与えてくれる相手が日本かブリタニアかなどは些細な違いでしか無いのである。
もちろん歴史を紐解けば、飢えた民衆の激発が強大な政権を打倒した事例もあるが……。
「……悔しいな」
青鸞がポツリと呟いた言葉は、ゲットーの現実を知る者なら、そして一定以上の良識がある者ならば誰もが思う感情だった。
同情しているわけでは無い、ただ、悔しい。
たださしあたって、青鸞や日本解放戦線がゲットーの者達に出来ることが無いのも確かだった。
今はまだ、勢力圏内の民衆の最低限の生活を守る力しか無い。
「青鸞、こちらの方が昨日のことを話してくれるらしい」
「はい……うん?」
改めて歩き出した青鸞を路地の入り口で迎えたのは千葉だ、軍服では無く私服姿、9分丈のパンツに覆われた脚線美が強く目を引く。
まさかブリタニア軍がいるかもしれない場所で旧日本軍の軍服は着れないだろう、実際メンバーは青鸞を含めて全員が私服なのだ。
しかし、青鸞は千葉の傍にいる相手を見て足を止めた。
そこにいたのは日本人の女性で、外見の年齢的にはお婆ちゃんと言うべき人だった。
ただ他の日本人と異なるのは、やや元気がある所だろう。
それは別に
「……昨夜の内にブリタニア軍に治療されて、今朝こちらに戻ってきたそうだ」
「治療?」
「は、はぃ……えぇと、あ、アンタ達はどこの人かねぇ……?」
そのお婆ちゃんは、腕を綺麗な三角巾で吊っていた。
点滴か食事かはともかく、他の日本人に比べて健康そうにも見える。
なるほど、最新設備を持つブリタニア軍の治療なら小綺麗にもなろうと言うものだ。
しかし、わからないのは。
(シンジュク・ゲットーで虐殺を行ったブリタニア軍が、どうしてシンジュクの人を助けるの?)
しかもイレヴンと呼んで蔑む日本人をだ、あり得ることでは無い。
とは言え、今はとにかく情報が必要だ。
「驚かせてすみません。ちょっと、お聞きしたいことがあるんです」
だから青鸞は、お婆さんを安心させるように笑顔を浮かべた。
それは相手を安心させて、自分を信じてもらうために作る笑顔。
「枢木」の、笑顔だった。
◆ ◆ ◆
壁の破片やガラス片、空き缶やプラスチックの箱などが散乱しているその部屋は、廃棄されて久しいビルの一室だった。
ビルのフロア一つを使用しているらしいその部屋には照明が無い、代わりに旧式の大型テレビが一つあるが、これも必ずしも電波状態が良いとは言えないようだった。
「はぁ……」
そこに、1人の男がいた。
背の高い大柄な男だ、やや癖のある黒髪を赤いバンダナで上げていて、古い青のジャケットと麻のズボンを着ている。
ただ表情は柔和で、その優しそうな雰囲気が大柄な身体を小さく見せていた。
しかしどうも、男は非常に疲れている様子だった。
今にも脚が折れそうな小さな椅子に腰掛けて、深々と溜息を吐く。
瞼を指先で揉み解しているその姿は、どこか徹夜明けのサラリーマンを思わせる。
それは、ある意味では間違っていない表現とも言える。
「……永田が死んだよ、ナオト。また仲間を死なせて……俺、どうしたら」
机の上の写真立てに向かって、男がそう呟く。
それはもしかしなくとも泣き言だった、写真の中では長髪の日本人らしき男が笑っている。
当然、男に対して何かを答えてはくれない。
その部屋にはそれだけのものしか無いが、だが一つだけ異彩を放っている物があった。
壁に大きくペイントされた、大きな日章旗――――日本の国旗である。
日本と言う国が失われたこの時代、この旗を掲げる組織は一種類しか無い。
反ブリタニア勢力、いわゆるブリタニア軍からテロリストと呼ばれる人々である。
これがあるだけで、男がどう言う組織の所属している人間かわかる。
「扇、ちょっと良いか?」
「あ、ああ、ちょっと待ってくれ」
不意に部屋の外から別の声が響いて、男――扇と呼ばれた彼は、写真立てを置いて目元を拭った
それから了承の言葉を外へ向けて放つと、扇と同じバンダナを巻いた男がそこにいた。
深緑色の髪の男で、扇はほっとした顔を浮かべた。
「ああ、杉山か。玉城あたりかと思ってたよ」
「アイツは寝てるよ、明け方までガタガタ文句言ってたからな」
杉山と呼ばれた男が肩を竦めると、扇は苦笑のような表情を浮かべた。
どうやら、玉城という人物はあまり好印象を持たれている男では無いようだった。
「それで、何かあったのか? まぁ、昨日のこと以上に何かって言うのは……」
「……まぁ、無いな。でも、珍しさなら負けてないかもしれないぜ。俺達に連絡を取ってきた連中がいる、今シンジュクに来てるらしいんだが……」
「もしかして、昨日のあの声の?」
「いや、別件だ」
杉山の言葉に、扇は残念そうに肩を落とす。
どうも何かを気にしている様子だが、この時点ではそれが何かは知りようが無かった。
しかし杉山はさほど気にしていないのか、言葉を続けた。
「それで、どうする? 昨日の今日だし、今更ブリタニアが罠を張ってってのは無い……って思いたいんだが」
「ウチを潰すのに、そんな面倒なことをするメリットは無いさ。それで、どこからの連絡なんだ?」
「それが……」
杉山の口から出た名前に、扇は軽く目を見開いた。
どうやらそれは予想外の名前だったらしく、彼はしばしどうすれば良いのか悩むことになる。
そしてそんな悩み多きリーダーの姿を、杉山はどこか困った奴を見る目で見ていた。
それは、嫌悪とは真逆の感情をこめた目だった。
◆ ◆ ◆
ブリタニア帝国が支配している本国以外の領地、つまり植民地のことだが、これは日本以外にもいくつも存在する。
例えば日本がブリタニア領と化した皇暦2010年の時点で、すでに東南アジアやアフリカなどに10のエリアを有していた。
皇暦2017年現在は中東へ侵攻中であり、その食指は世界中に伸びている。
その植民地政策は「ナンバーズ政策」と呼ばれており、要するに植民地出身者と本国出身者を明確に区別する典型的な植民地政策である。
植民地ごとに振られたエリア番号をとって、植民地出身者を総称で「ナンバーズ」と呼ぶのだ。
例えば、日本人が「イレヴン」と数字で呼ばれているように。
「だが、ここエリア11――――日本では、そのナンバーズ政策は上手くいっているとは言えぬ。何故だかわかるか、
花開く都キョウト、どことも知れぬ場所に存在するその館の一室で、鶯色の和服を纏った老人の声が厳かに響いた。
平安貴族が住むような概観の部屋だが、天井や照明などに近代的な意匠が散見している。
おそらく寝殿造をモデルにした再現住宅であろうが、砂利と岩と木で作られた庭園だけは昔ながらの様式で整備されているようだった。
桐原はその庭園の見える廊下に杖をつき、立っていた。
小柄な老身、しかし胸を張って立つその姿はどこか威厳があった。
顔に刻まれた皺の一つ一つに、日本のこれまでを見つめ続けてきたと言う自負が見え隠れしている。
「――――それはもちろん、我々日本人が誇りと気概を失っていないからですわ」
そんな老人の声に答えたのは、広い部屋の奥で彼の背中を見つめている少女だ。
皇神楽耶、キョウトの一員として名を連ねる少女は、部屋の奥の御簾の向こうで淑やかに微笑んでいた。
薄桃の袴を丁寧に合わせて座る姿はまさに姫のようで、下手をすれば十数メートルは離れている桐原と会話をしている。
「確かに、それもある」
神楽耶の答えが気に入ったのか、桐原がカカカと笑みを作った。
そんな彼を、神楽耶はあくまでもおっとりとした笑みで見つめている。
その視線を感じているのかいないのか、桐原が振り向くことは無い。
「しかし最も重要なのはな、神楽耶よ。日本には我らがおる、これが重要なのだ」
ブリタニアの
もちろん地域的な例外はあるが、全体的に反ブリタニア闘争は小規模で、日本のように全土に無数の反体制勢力が溢れかえるような事態にはなっていない。
ブリタニアの専門家が指摘する理由はいくつもあるが、しかし結局の所、日本が他のエリアと異なっている点はただ一つ。
日本が、世界有数の経済大国であったと言う点だ。
底力と言っても良い、国内に有能な技術者や職業軍人を多く抱え、他のエリアには無いキョウトと言う富裕層が陰で反体制運動を支援している。
人材の層の厚さと資本、それが日本の反ブリタニア闘争の源なのだった。
そしてそれは、ナンバーズで唯一ナイトメアを生産できている人種だという事実が証明している。
「しかし桐原公、それでも我が日本が独立を勝ち取れないのは何故なのです?」
「神楽耶よ、人前で賢さを出さぬのはお前の長所。だが、愚か者のフリをするのもどうかな」
神楽耶の問いかけに苦笑して、桐原は庭に視線を向けたまま。
「シンジュク事変、アレは蜂起の理由付けとしては十分に使える虐殺戦であった」
「そうしなかった理由は?」
「ブリタニア軍が、日本人まで含めて救助活動……まぁ、自分達で虐殺した相手を助けるなど、それはそれで茶番ではあるが……とにかく、日本人まで形だけでも救助したからの。大義名分としては不足だった」
そこで、桐原は廊下の木材を杖先で打った。
乾いた音が、広い庭園に響く。
「ナリタの青鸞には、お前が伝えたのであろう?」
答える声は無い、代わりにカカカと言う老人の笑い声だけが響いた。
7年前の戦争で、余力と気概を残したまま降伏した日本。
その日本の「余力」を結集する時が、来たのかどうか。
時代が動き出した、そういう空気を桐原は感じていた。
数十年間、日本の陰で頂点に君臨していた男の嗅覚がそう告げていたのだ。
「いずれにしても、あの娘が本当の意味で覚悟を問われるのは――――これからよ」
◆ ◆ ◆
青鸞不在のナリタでも、シンジュク事変を受けての話し合いが行われていた。
会議室には片瀬を始めとする幹部達が集まり、日本解放戦線の今後の対応について協議している。
ただ一枚岩の組織では無いため、その議論は酷く不毛な物に見えた。
「ブリタニアに対して、何らかの攻撃的な意思を示すべきだ!」
例によって、最も過激な意見を主張しているのは草壁だ。
意見としては報復論、シンジュク・ゲットーへのブリタニア軍の侵攻を非難する声明を出し、トーキョー租界に対して自爆テロも含めた徹底攻撃を行うべきだと主張している。
ただ彼の意見は多勢を占めることが無いのが常だった、今回もどうやらそのようだ。
「いや、今はまだ早い。チュウブやキュウシュウの組織と連絡を取っている最中であるし、トーキョー租界に潜入する手立ても無い。せめて、トーキョー周辺のゲットーのグループとだけでも連動しなければ」
対して、慎重派はやはり抑制的な論調を選んでいた。
東郷などがそのグループの顔であり、彼らは穏健とまでは行かないが、勝機の見えない戦いをすべきでは無いという主張だ。
シンジュクの同胞を虐殺された義憤は確かにあるものの、それとこれとは別と言う立場だ。
中心にいる片瀬は難しい顔で腕を組むばかりで、決断らしい決断はしない。
「藤堂、お前はどう思う?」
その代わり、いつものように藤堂に意見を求めた。
それに対して、「またか」と言う思いを抱いた人間は1人や2人では無いだろう。
特に草壁などは顔にありありと出している、お前はそれでもトップかと言葉が浮かんで見える程だ。
「……今は、シンジュク・ゲットーの人員からの報告を待つべきでしょう。大義名分を掲げて侵攻したは良いものの、それが間違いだった場合、取り返しがつかないことになる」
一方、おそらく唯一諸派に対して一定の影響力を持っているだろう藤堂も、周囲の期待に応えているとは言い難かった。
昨夜は見事な手腕で草壁らのグループを救って見せた彼だが、だからと言って組織運営に対して積極的になったかと言えばそんなことは無い。
むしろ、これまで以上に慎重になったのでは無いかとすら思える程だ。
そして上がそうである以上、下の人間も同様でないわけが無かった。
各所で小グループが集まり、作業中の噂話から真剣な意見交換まで、様々な形で議論が行われていた。
「ブリタニア死すべし! やはり皆で上層部に直訴して今すぐにも租界に攻撃を仕掛けるべきだ!」
「いや、それこそブリタニアの思う壺だ。ここは臥薪嘗胆の気構えで……」
「そんな臆病なことで、ブリタニア打倒が成せるか!」
「一時の感情に捉われていて、日本独立が成せるわけが無いだろう!」
一部では強硬派と慎重派による肉体的な衝突もある程で、それだけシンジュク事変が日本解放戦線に与えた影響は大きかったと言える。
まぁ、しかしそれはあくまで一部であって、他方では別の反応と言うのもあるのだが。
「山本隊長! 隊長ー!? ……ちょっと
「あぁ……? そんなもん、ヒナが代わりにやっといてくれれば良いじゃんよ」
「良いじゃんよ、じゃない! 皆が真面目にやってる時に……ああ、もう、情けない!」
例えばここに、山本飛鳥と上原ヒナゲシと言うナイトメア小隊の隊員達がいる。
彼らは今、日本解放戦線内の小規模な組織改変・人事異動の対象者であって、正直な所シンジュク事変に対して何事かを話し合うような時間は無かった。
しかし小隊長らしき黒髪の男の首根っこを掴み、ポニーテールのパイロットスーツの女性が引きずっていく様はなかなかに目立つ。
しかもその場所がナイトメアの格納庫ともなれば、嫌でも人の目に留まろうと言うものだった。
そしてその目の1つに、朝比奈がいる。
彼は昨夜使用した自分の無頼の整備に立ち会っている――整備士に使用中のあれこれを報告するのはパイロットの義務だ――わけで、彼自身は割と手持ち無沙汰の様子だった。
「な、何か、いろいろ大変みたいですね……」
「ああ、まぁ、いろいろね」
聴覚補助のヘッドホンを装備した整備士、古川に朝比奈が適当な相槌を返す。
彼は自分の機体の隣に格納されている青の無頼――青鸞の専用機――を見つめながら、確かにいろいろと大変だと改めて思った。
しかしそれはシンジュク事変やブリタニアとの戦いに対する物ではなく、もっと根本的な問題についてだ。
明確な旗印の無い、今の日本解放戦線に対する思い。
主義主張は同じだが、動機や手段を異にする者達の集合体。
事実上の集団指導体制を執っているために、迅速な対応ができない組織体質……それこそ、あの強大なブリタニアに対抗するに不十分では無いか。
ブリタニアに対抗するには、強いリーダーが必要だ。
(僕なんかは、藤堂さんが、って思うんだけどね)
しかし藤堂では嫌だと思っている人間もいるのも確かだ、階級の問題もある。
となると、誰か名目だけでも求心力の高いリーダーを置いて、藤堂がその片腕になるのがベストだ。
求心力、これは何も本人の能力に拠らなくても構わない。
「……~~~~っ」
ガシガシと頭を掻く朝比奈、考えれば考える程に胸の奥がもやもやするのだ。
何故ならこのナリタにおいて、「名目上の求心力」を備えている人間は1人しかいない。
そしてその相手を、朝比奈は全く知らないわけでは無いのだ。
(……けど、藤堂さんはやるよね、たぶん)
悩むだろう、自分を責めるだろう、だが藤堂は戦略的に必要と判断したことは必ずやる人間だ。
まして、「名目上の求心力」に相手が自分からなろうとしている状況では。
日本の、独立を勝ち取るために。
朝比奈は再び青の無頼を見上げると、眼鏡の奥の目を鋭く細めた。
「青ちゃん直属の親衛部隊……か。いよいよ……」
ブリタニアに対する、正規の戦闘を行うべき時点が近付いている。
覚悟の時間。
そう遠くない将来、その時が来るだろうと、朝比奈は確信していた。
そしておそらくその確信は、今シンジュクにいる少女と共有すべき類の物であるはずだった。
◆ ◆ ◆
部屋に入った瞬間、埃っぽい空気が鼻腔を満たした。
ただ普段から地下で生活している青鸞にとっては、それほど過ごし難いと言う程でも無い。
一つ違う点があれば、初対面の人間がそこにいたと言うことだろうか。
「日本解放戦線の千葉だ、情報提供に感謝する」
「あ、ああ……
シンジュク・グループと呼ばれるレジスタンスがある、各ゲットーにはそれぞれ抵抗活動をしているグループがあるのだが、扇と言う男が率いるグループもその一つだった。
一応、各ゲットーの反体制組織は日本解放戦線と協力関係にある。
とはいえ、日本最大派閥の反ブリタニア組織である日本解放戦線と一ゲットーのレジスタンスとでは雲泥の差がある。
だからこそ、急に連絡を受けた扇のグループとしても緊張と警戒を持って解放戦線からの使節をアジトに迎えることにしたのだ。
だがいざ蓋を開けてみると、やって来たのは予想だにしない一団だった。
相手が女性だと言うのは別に良い、扇達のグループにも女性幹部はいる、ただ……。
「んだぁ? 解放戦線ってのはいつからガールスカウトの集まりになったんだよ」
誰もが口にしなかった言葉を口にして、空気を殺した男がいる。
玉城と言う男だ、顎に生やした無精髭が特徴的。
壁際に行儀悪く立っていた彼は、自分達のアジトにやってきた日本人女性3人を不躾にジロジロと見つめていた。
1人は、代表として扇と握手を交わした千葉だ。
彼女は最も階級も立場も高位であるし、威風堂々とした雰囲気もある、代表として申し分無かった。
もう1人は茅野だ、彼女自身は千葉の後ろに立っている――最後の1人の傍にいる形で。
その最後の1人こそ青鸞であり、玉城が突っかかった理由でもある。
実際、どう見ても軍人には見えないのである。
「おい、玉城……」
「うっせぇ! こちとら腸煮え繰り返ってんだよ!」
どうやらかなり虫の居所が悪いのか、仲間の制止も聞く様子を見せていない。
だが実の所、青鸞には彼が次に何を言い出すのか、わかるような気がした。
まず自分の存在に対する嘲笑、そしてその後は。
「……時間が惜しい、情報の交換を行おう」
「あ、ああ」
「無視してんじゃねぇよ、それとも何か? 解放戦線サマは俺みたいなレジスタンスの小物にゃ用は無いってか? けっ、お高くとまりやがってよぉ!」
アジトの床に唾を吐いて、玉城が千葉を睨む。
扇は苦い顔をした、心の中で玉城に「やめろ」と願う。
相手は、これから玉城が言う言葉を全て予測した上で黙認してくれたと言うのに――――。
「昨日、俺らが
玉城の言葉に、青鸞は目を伏せた。
例え、その場の激情に駆られた短絡的な言葉だとしても。
言葉それ自体は、間違いでも何でも無いのだから。
◆ ◆ ◆
――――7年。
7年と言う時間を、どう考えるべきだろうか。
「まだ」7年と見るべきか、それとも「もう」7年と見るべきなのか。
帽子のつばに目線を隠すようにしながら、青鸞は思考する。
7年と言う時間が長かろうが短かろうが、その間にもブリタニアに殺された人間が何十万といるのだ、と。
その事実だけはどうしようもなくそこにあって、日本最大などと持て囃されている日本解放戦線は。
「こっちはゲットーって地獄で命張ってんだよ、仲間だって何人も死んでんだよ、死ぬような思いしてやってんだよ。それを後から来て、情報よこせだぁ? ざけてんじゃねぇぞテメェ!!」
それを、止めることが出来なかったのだから。
日本の独立を、7年経っても勝ち取れていないのだから。
だからこそ玉城の言葉には一定の正しさがあって、周囲の仲間も力尽くで止めようとはしないのだろう。
「お前ら、いつになったらブリタニアを倒してくれんだよ、「解放」戦線なんだろ! 俺らみたいなレジスタンスと違って、ナイトメアだってあんだろ!? だってのにテメェらがチンタラやってったから――――」
ここで青鸞が思い出したのは、意外な人物の言葉だった。
脳裏でがなりたてるように響き渡るその声は、嫌でも記憶に刻まれている。
自身の栄達ではなく、組織と運動への危機感からの叫び。
『我々が何もせず情勢を座して見ていれば、日本中の独立派から疑念の目を向けられましょう。我らは行動し続けることによって初めて、日本の独立を叫ぶことが出来るのですぞ!!』
それは一つの真理だ、感情としては青鸞もその意見に賛成する。
草壁はわかっていたのだ、自分達の掲げる物を守るだけでは衰退するだけだと。
だから多少のリスクをとってでも、「日本ここにあり」と叫ばなければならないのだと。
動かなければ力はどんどん失われ、いずれ誰からも相手にされなくなる。
「だとしても」
しかし、そのような弾劾じみた言葉にいささかのブレも見せない人間もいる。
例えば千葉だ、「四聖剣」の一員として藤堂達と共に数多の戦場を駆けてきた彼女は、今さら玉城の言葉程度で揺らぐ精神など持ち合わせてはいなかった。
「恨まれる筋合いは無いな、特に、貴様のような他人を責めるしか能の無い男には」
「んだと……!」
「玉城、もうよせ」
茶髪にノースリーブシャツの男が、流石に玉城の肩を掴んで止めさせた。
玉城は周囲を見渡すと仲間達が自分を支持しない空気だと気付いたのか、舌打ち寸前のような表情を浮かべた。
だからそれ以上の追及はやめる、やめるが、最後に。
「けっ、俺だってナリタのモグラ連中なんざに期待なんて持っちゃいねぇけどよ」
「……どういう意味?」
この時、初めて青鸞が会話に参加した。
それまで目立たないように千葉の後ろにいたのだが――家柄はともかく、単純に貫禄の問題で――玉城の最後の捨て台詞に、余計な一言に、反応してしまった。
それを見た千葉は初めて頬の肉を動かした、考えたことは一つ――――「若い」、だ。
無視すれば良いものを、青鸞は反応を返してしまった。
同じ土俵に立ってしまった、それは良くない。
無視するでも突き放すのでもなく、付き合ってしまった。
だから思う、若い、と。
感情を目に出してしまうなど、若さの極みだと。
「けっ、どうせお前ら、自分達のことしか考えてねーんだろ」
「違う」
「何が違うんだよ」
「
青鸞には、日本解放戦線と他の抵抗勢力を区別する意思は無い。
共に「徹底抗戦」を掲げる同志であり、同胞であり、日本人であると思うからだ。
もちろん彼女自身も1人の人間であり、日本解放戦線以上に他の勢力を知っているとは言わない。
しかしやはり解放戦線の一員としてナリタにいる以上、その心象は解放戦線寄りになる。
何より、知っているのだ。
ブリタニア軍と何度も正面から戦って、ブリタニアから逃げてくる人々を可能な限り受け入れて、それでも本当に勝てるのか不安に思いながら要塞の補強やナイトメアの整備をして、何度も敗戦を経験しながら僅かな勝ちを拾って、仲間を何人も失いながらも必死で頑張っている、解放戦線と言う組織を。
そこにいる人々を、青鸞は知っている。
「確かに」
自分には、まだ何の実績も無いけれど。
「
無能かもしれない、無駄かもしれない、無力かもしれない。
自分にはまだ、解放戦線の何たるかを偉そうに語れる程の物は無い。
だけど一つだけ、一つだけ……他者に勝るとも劣らない、原始の精神。
「
「枢木」ではなく「青鸞」が漏れて、少し不味いと感じた。
「ボクは、日本人だから」
イレヴンでは無い、日本人と言う意識。
それだけは、他の誰にも劣るものでは無かった。
父、枢木ゲンブが掲げた「徹底抗戦」の看板を継ぐ者として。
「だから
「ガキが、生意気なこと言ってんじゃねぇよ!」
しかしそれは、認められない。
まだ認められない、何の実績も無い小娘の言葉で動くようでレジスタンスは出来ない。
だから玉城は、青鸞のことを認めなかった。
そもそもこんな少女をアジトに送ってくること事態、自分達を舐めてるとしか思えないタチなのだ。
こっちは、仲間が死んだって言うのに。
そしてただでさえ気が立っている所に小娘の反論、だからつい手が出てしまった。
とはいえ流石の玉城も年下の少女相手に暴行を加えるつもりは無かったらしい、解放戦線のメンバーであることもあったのだろう、寸止めで脅かすつもりで手を振った。
しかし詰めが甘かった、青鸞の帽子のつばを計算に入れてなかったからだ。
「玉城ッ!」
流石に扇もこれには声を上げた、だがその時には青鸞の帽子が宙を舞っていた。
帽子が柔らかな音を立てて床に落ちた頃には、長い黒髪が少女の背中に流れ落ちていた。
押さえられていた前髪も揺れて、黒い瞳を幾筋かの髪が隠すような形になる。
だが、玉城から目を逸らすことは無かった。
真っ直ぐ、それだけしか出来ないとでも言うように。
ただ、瞬きすらせずに見つめ続けていた。
(な、何だよ……)
帽子の件の罪悪感からか、若干玉城も腰が引けていた。
ただそれ以上に、自分よりも頭一つ小柄な少女の瞳から、妙に逃げたかった。
逸らしたかったが、それが出来なかった。
何故かはわからない、だが――――引き付けるだけの、何かがあった。
その、瞳に。
不意に、薄い金属が擦れるような音がした。
その音が場の空気を弛緩させた、何事かと全員の視線がそこに向かう。
そこにいたのは茅野だった、千葉や青鸞と共にアジトに来た解放戦線の女性兵。
「へ……」
間抜けな声を上げたのは、誰だったか。
それは茅野が袖長の黒いシャツを脱いでいたからで、何故そんなことをするのかと一同が慌てたが。
「――――――――」
次に来るのは黄色い悲鳴では無く、沈黙だった。
長い沈黙、その原因は……タンクトップから除く、細い腕と背中の肌に刻まれた傷痕だ。
背中の表面の痕は火傷だろうか、随分と深く黒ずんでさえいる、両腕の傷は……ナイフで上から線を引かれ続けたかのような痕だった。
茅野の表情は動かない、ただしばらく後、淡々と衣服を着直した。
傷痕自体は、実は問題では無い。
そんな人間は今のエリア11にはごまんといる、本質はそこでは無い。
本質は。
「……私は、ブリタニアを許さない」
だから、戦う。
それだけを伝えるために、証明するために、茅野は身体の傷痕の「一部」を晒したのである。
そして気まずそうな空気が扇や玉城達に流れる中、青鸞の頭に落ちた帽子を被せる存在が1人。
もちろん、千葉だった。
彼女はやや咎めるような目で青鸞を見ていて、その理由は彼女にもわかっていた。
(茅野さんに、気を遣わせちゃった……)
言葉少なで近寄りがたい雰囲気を持つ茅野であるが、周囲への気遣いは出来る方だった。
だから青鸞は帽子の位置を直しつつ、後でお礼と謝罪をと思った。
ただ、とりあえず今は。
「申し訳ありません、生意気なことを言いました」
言葉の上で謝る、頭は下げない、これは父ゲンブの教えだった。
曰く、他組織の人間に容易に頭を下げてはならない。
日本国の首相に上り詰めた男の言葉だ、一考の価値はあるだろう。
「ただ、若輩者であることを承知で一つだけ。
「……けっ」
興が冷めたのかどうなのか、しかし玉城もそれ以上のことを言うつもりは無いようだった。
最後まで生意気な小娘だとは思ったかもしれないが、それだけだ。
それでようやく、最初に戻れた。
◆ ◆ ◆
その後はスムーズだった、扇がシンジュク・ゲットーで起こった事態を順番に説明してくれた。
まず、自分達がキョウトの指示でブリタニア軍から毒ガスを奪おうとしたこと。
仲間を失ったが、毒ガスの強奪には半ば成功――回収は出来なかったという意味で――その代わり、突如ブリタニア軍が彼らの拠点であるシンジュク・ゲットーに侵攻して来た。
同じ系列の組織だからか、扇は真正直な程に自分達の持つ情報を提供してくれた。
普通、こういう場合は自分達だけの情報をプールし、交換と言う形で取引をするものだ。
しかしどうも扇は性格的にそう言うことが出来ないタイプらしく、実に誠実だった。
正直、レジスタンスのリーダーをやっているのが不思議なくらいである。
その最たる物が、「声」に関する情報である。
「声?」
「ああ、俺達が逃げてる時に通信機から聞こえてきたんだ。勝ちたかったら指示に従えって……従ってみたらブリタニア軍のナイトメアを奪って見せたりして……」
「でもよ、最後には結局ボロ負けだったじゃねぇか! あの白い奴にノされてよぉ、顔も見せず侘びも無し、何が『勝ちたければ、私の指揮下に入れ!』だよ、フカし野郎が!」
ブツブツと文句を言っている玉城はともかくとして、青鸞達としては首を傾げざるを得ない。
扇達が毒ガスを奪って何をするつもりだったのかは置くとしても、ブリタニア軍の行動が良くわからなかったからだ。
扇の話では、最終局面でブリタニア軍が停戦命令を出して終局したらしいのだが……。
ブリタニア側の行動を順序だてれば、こうなる。
まず毒ガスを強奪されたブリタニア軍は総督指揮の下でシンジュク・ゲットーを包囲、イレヴンの生命に紙切れ以下の価値しか置いていない彼らはテロリスト、つまり扇達ごと潰しにかかった。
虐殺戦の開始だ、そして絶体絶命の危機に陥った扇達に指示を与え、一時的に戦況を好転させた声。
最後にはブリタニア軍が虐殺の手を止めて撤退、しかもイレヴンも救助して……。
まぁ、イレヴン救助については「適当に」終わらせたようだが。
(毒ガスの奪還と言う名目なら、わからないでも無いけど……)
青鸞などには、シンジュクにおけるブリタニア軍の行動目的がどこにあるのか見えなかった。
特に停戦命令がわからない、いや、停戦命令はまだわかる。
……どうして、イレヴンも救助しろと? 自分達が虐殺をしていたくせに。
「なぁ、つーかマジであのガキも解放戦線のメンバーなのか?」
何だか全員からスルーされている状況の玉城だが、その疑問は扇達全員が共有するものだろう。
とはいえ公式に聞いてくることも無い、千葉が冒頭で示した符丁は間違いなく解放戦線の物だったのだから、連絡手段に使用したコードもだ。
そして一通りの話を聞いた千葉は、一先ず頷くと。
「わかった、情報提供に感謝する。何か見返りに我々に出来ることはあるか?」
「あ、ああ、実は俺達、昨日の戦いで武器を使い果たしてしまって……」
ここで得られる情報は、ここまでか。
そう思い、思考しつつ、とりあえず青鸞はナリタへ戻ることを考えた。
旧地下鉄線を通ってゲットーの外へ出て、他の潜入員と連絡を取っている佐々木を広い、青木の待つポイントまで行かなくてはならない。
「わかった、ナイトメアまでは無理だが、何とか都合しよう。……そう言えば、シンジュクは紅月と言う男が仕切っていると聞いていたのだが。今は不在なのか?」
「ナオトは……紅月は、前のリーダーは、少し前の戦いで……」
「……そうか、すまないことを聞いた」
「いや、別に……」
……先程の玉城の言葉の余韻があるからか、場に微妙な空気が満ちる。
だが、今度は誰も何も言わない。
扇達は一様に沈痛な表情を浮かべていて、どうやら、紅月ナオトと言う前のリーダーに深い思い入れがあるようだった。
人に対する思い入れ、それは平和な時代では……少なくとも、戦死という形で思うことは無いだろう。
一日も早く戦いの日々に終焉をと思っても、日本の独立が果たされない限りは終わりは訪れない。
そして独立を果たすためには戦いを挑まねばならず、そのせいでまた犠牲が出る。
悪循環、ブリタニアへの抵抗活動に身を置く人間は、大なり小なりその循環の中にいる。
もちろん、その中には青鸞自身も入って……。
「扇!」
青鸞がシンジュクで得た情報を自分なりに頭の中で整理している時、1人の男が部屋に飛び込んできた。
眼鏡をかけたガタイの良いインテリっぽい男だ、彼は部屋に飛び込むとテレビに飛びついた。
「み、南? どうしたんだ、いったい」
「大変なんだよ、良いからこれ……このニュースを見ろよ!」
その男は南と言うらしい、当然だが青鸞達の知らない人間だ。
南は青鸞らのことなど気にもとめていない、よほど慌てているのだろう。
ほどなくして、やや乱れてはいるがテレビに映像が映った。
どうやらどのチャンネルも同じ番組……いや、生放送の会見を流しているようだった。
『クロヴィス殿下は
そして、その言葉が一同の耳に飛び込んで来た。
「薨御って……?」
「死んだってことだよ!」
聞き慣れない言葉を誰かが問えば、興奮したままの南が投げつけるように応じた。
「総督が……クロヴィスが死んだんだ! 昨日の撤退の理由はこれだ、シンジュクでテロリストの凶弾に倒れたってさっき言って――――」
エリア11総督、ブリタニア帝国第3皇子クロヴィス・ラ・ブリタニアが死んだ。
青鸞は一瞬、自分の思考が停止したのを感じた。
7年間、誰もが狙ったエリア11総督の首、それが落とされたと言うのだ。
プロパガンダなどでは無い、そんな馬鹿げた報道はあり得ない。
千葉を見る、彼女は額に皺を寄せる程難しい顔をしていた。
今にも腕を組んで爪を噛みそうな表情だ、悔しいとは思うまい、ただ疑問を感じている顔だった。
そしてその疑問は、おそらくこの場にいる全員が共有している。
すなわち、「誰が総督を討ったのか――――?」。
青鸞たち日本解放戦線を見る者もいるが、少なくとも青鸞は知らない。
『我々は殉死された殿下の御遺志を継ぎ、この困難な戦いに勝利しなければならない!!』
テレビの中では、後ろに紺色の制服を纏ったブリタニア人兵士――おそらく騎士――を従えた男が、演説を行っていた。
青い騎士服に正装のマントを纏った、青みがかった髪の細身の男だ。
報道陣の前で堂々と胸を張っている男は、映像隅の紹介文によれば……「ジェレミア・ゴッドバルト代理執政官」、知らない名前だ。
――――この、数秒後のことを思えば。
この時点での青鸞の混乱など、可愛らしい物だったと考えるようになる。
何故ならこの後、彼女にとって人生最大の衝撃が引き起こされることになるのだから。
『たった今、新しいニュースが入りました――――実行犯! どうやら、実行犯と思われる人物が逮捕、軍によって拘束された模様です! 実行犯は名誉ブリタニア人、元イレヴンの……』
そして、ニュースの映像が切り替わる。
その場にいる全員が、エリア11総督を仕留めた英雄――彼らの視点でだが――の顔と名前を見ようと、身を乗り出していた。
数秒の後、映像付きで「その男」のことが映し出された。
「――――――――……え?」
周囲を銃で武装した兵士に囲まれ、沿道を歩かされて晒し者にされている男。
年の頃は10代半ばを過ぎた頃だろうか、白い拘束衣姿が痛々しい。
ニュースキャスターが呼んだはずの「実行犯」の名前が、何故か青鸞の耳には届かなかった。
千葉が横目で自分を見ていたことにすら、気付くことが出来なかった。
視界が揺れていることに気付く、重度の船酔いでも起こしたかのような眩暈を感じた。
足が一歩下がったことを自覚する、だが不思議なことに感覚が無かった。
帽子をかぶり直していて良かった、でないと。
そうでないと、混乱の感情を象徴するような瞳の揺れに気付かれてしまう……。
『繰り返します、実行犯の男は名誉ブリタニア人、元イレヴンの――――』
最後の記憶は7年前だ、そこで別れた。
だが、忘れるはずが無い。
忘れられるはずが、無いのだ。
幼い頃に好きだった色素の抜けた茶色の髪や、光の加減で琥珀に見える瞳も。
幼年時代の面影を残す顔と細身の身体……こちらは、青鸞も初めて見るが。
しかし間違い無い、間違えるはずも無い。
だから彼女は、数歩を下がってテレビから距離を取りながら。
唇を、ある形に戦慄かせる、音は4つ、それは。
『――――
――――あにさま。
と、幼い頃の呼び名で、呆然と呟いたその声には。
いったい、どのような感情が乗っていたのだろうか……。
採用キャラクター:
相宮心さま提供(小説家になろう):茅野さおり(軍人)。
隼丸さま提供(ハーメルン):山本飛鳥・上原ヒナゲシ(軍人)。
ありがとうございます。
最後までお読み頂きありがとうございます、竜華零です。
ここからどんどんイベントを消化し、ナリタまで一直線です。
ナリタでどんな惨劇を引き起こそうかと頭を悩ませています(え)。
イベント進行に伴い、原作主人公組とは別ルートで原作キャラクターズと遭遇。
この時点ではまだアレですが、将来的には複数のルートを想定。
うちのスザクさんの選択肢次第な所がありますが、頑張りたいです。
というわけで、次回予告。
『今でも、昨日のことのように思い出せる。
白目を剥いて倒れた父様、その傍らで刀を手に立つ兄様。
そして、呆然と立つ自分。
……なのに今、あの人は総督殺しの犯人としてそこにいる。
ボクはあの人に聞きたい、どうして、って。
だから』
――――STAGE5:「トーキョーの 空の 下で」