花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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いつもお付き合い下さり、また誤字報告などで支えて下さり、本当に有難うございます。
更新が遅れるだけでなく、修正しきれていない誤字も多く、ご迷惑をお掛けしております……。

艦娘一覧については、もう少しお時間を頂きたく思います。
重ね重ね申し訳ありません……。





潦に踏む現未

 梅雨に入り、今日は朝から雲が広がっていた。昼には曇天の暗さが増して、夕刻頃にはもう、雨が降り始めた。ただ、雨足自体は強くはなかった。風の無い、優しい雨だった。今日の秘書艦である春風は、和傘をさす彼の隣を歩いて居る。相合傘と言うやつだ。近い。本当に彼のすぐ傍を歩いて居る。今までに無い近さだ。体温すら感じられると思うのは、単に春風自身が緊張しまくっているからだろう。ドキドキしながら舗装道を歩く。呼吸が僅かに早くなる。なんだか、イヤに熱い。気のせいか。春風は唇を小さく舐めて湿らせて、視線だけで彼の横顔を見た。彼は落ち着き払った面差しのままで曇った空を見遣り、緩く息を吐いている。遠くを見るような目つきの彼は、春風の視線に気付いた。此方を向いて、目許を緩めた。

 

「今日は雨のお蔭でしょうか。昨日よりも涼しくて、過ごし易いですね」

 

 そう優しげな声で言いながら、彼は一度和傘を見上げて、また春風へと微笑みを向ける。異様なほど落ち着いているのに、何処か年相応な子供っぽさが垣間見える表情だった。澄んだ雨音とも相まって、彼の笑みと声音には酷く艶っぽく、蠱惑的だった。思わず見詰めてしまいそうになる。「は、はい……、ぃえ、その……」と。緊張していた春風は、ほんの少し声を上擦らせつつ、咄嗟に視線を逸らした。彼が、春風とは反対側の肩を濡らしていることには気付いていた。春風が濡れないよう、傘を春風に寄せてくれているのだ。その事について礼を述べねばと思うのだが、どうもタイミングが掴めない。しとしとと降る雨が、和傘を持つ彼と春風の距離を、ぐっと縮めている。緊張して、上手く言葉が出て来ない。

 

 春風は、自分を落ち着かせるように視線を斜め下へと戻し、濡れた舗装道を見ながら歩く。こんな状況になっているのにも理由が在る。先程まで、少年提督と春風は工廠に居た。何人かの艦娘への“改修強化”施術を彼が行う為に、足を運んだのだ。今はその帰りであり、雨の降る中を二人で執務室へと戻る途中であった。

 

 

 

 

 春風は、先程までの経緯を思考の端で思い出す。執務室から工廠へと赴き、艦娘達へと施術を向う前には、既に空を暗く厚い雲が覆っていた。当然、春風も彼も、傘を用意して工廠へと向おうとしていた。しかしである。丁度その頃、執務室へと報告書を持ってくる者が居た。あきつ丸だ。彼女は少年提督に対して、慇懃無礼と言うか遠慮が無い。ただ、彼とあきつ丸はかつての激戦期からの付き合いで、気の置けない仲であることは間違いなかった。そうでなければ、「あぁ、そうだ。提督殿。これから野獣殿に誘われて釣りに行く予定なのですが、傘を貸しては頂けませんか? 自室に戻るのも面倒ですしなぁ……」などと、これから傘を持っていこうとする彼に言える筈が無い。そもそも、野獣にしたって今日が非番ではなかった筈だ。それが一緒に釣りに出かけてくるなどと、これから野獣のサボりに付き合うと堂々と宣言しているのと同じだ。雨の日はよく釣れる、という話は聞いた事もあるが、ここまで開けっぴろげだと大胆と言うか無茶苦茶だ。

 

「提督殿は、これから春風殿と共に工廠に向われるのでありましょう? であれば、もしも雨が降ったとしても、春風殿の和傘で相合傘をしてくればよろしいではありませんか? ねぇ? そうは思いませんか? 春風殿」

 

 あきつ丸は悪びれずに勝手な事をのたまいつつ、春風の方へと向き直った。

 

「えっ、あ、あの……」

 

 突然に話を振られた春風は、慌てて彼とあきつ丸を見比べた。あきつ丸は、甘えるような、目尻を下げた笑顔を浮かべていた。白い手袋をした両手を合わせて、『お願いします』のポーズまで取って見せた。そんな仕種も、あきつ丸がすると不思議と嫌味では無かった。茶目っ気のあるお姉さんみたいな感じだ。悪意が無い。だから春風も、少々戸惑ったものの、何とか頷きを返す事が出来た。

 

「勿論、私は構いません。その、あ、あい……、相合傘でも」

 

「おぉ! 流石は春風殿! 話が分かりますなぁ! 助かるでありますよ^~」

 

 あきつ丸は快活に笑って、礼を述べつつ春風に頭を下げた。何でもズケズケと物を言うあきつ丸だが、こういう飾らない気さくさとも素直とも言えないところは憎めない。彼も、頭を下げるあきつ丸を見て微笑んでいた。しょうがないなぁみたいな、困ったような、優しげな苦笑だった。そして、彼から黒色の蛇の目傘を拝借したあきつ丸は、執務室を出て行く際に春風に向き直り、意味深な感じにウィンクして見せた。もしかしたらと思う。あきつ丸は彼が使う傘を借りる事で、今の状況を意図的に作ろうとしていたのかもしれない。今にして思えば、報告書を持って来たタイミングだって都合が良すぎる気がする。

 

 

 

 

 そんな事を考えていると、彼がまた少しだけ歩みを緩め、春風の方へと歩みを寄せて来た。いきなりだったから、息が詰まる程にドキッとした。艦娘に対する彼の距離感は独特だ。警戒や緊張を持たない。自然体と言うか。無用心で、隙だらけだ。無防備すぎる。それでいて、不思議な遠さのようなものを感じさせる。彼は微笑んだままで、すまなさそうに眉尻を下げていた。

 

「すみません、春風さん。歩くのが早かったですか?」

 

「ぃっ、いえっ! そのような事はありません……。ありがとうございます」

 

 春風は慌てて首を振り、何とか微笑みを返した。彼が春風の歩く速さに合わせてくれているのにも気付いて居た。こういう気遣いや向けてくれる信頼が真摯だからこそ、他の艦娘達も其処に惹かれるのだろう。彼は春風に微笑みを深めて見せてから、また前へと向き直った。

 

「予報では、明日から雨が続くようです」

 

 呟くように言った彼は、空へと視線を向けた。暗い雲が覆う空を見上げる彼の表情は、まだ微笑んだままだった。だが、もう春風に向けて居た微笑とは、違う種類の微笑みだった。眼帯をしていない左眼は細められ、少しの憂いを帯びた眼差しになっていた。彼と肩を並べて歩く春風も、澄んだ雨音を聞きながら、その視線を追う。雨が降り来る空は、雲を湛えて黙したままだ。茫漠と広がっている。優しい雨が、舗装道を叩いていた。「梅雨に入ったようですし、ぐずついた日も多くなりますね」春風は短く応えつつ、隣に居る彼に視線を戻す。

 

 

「……執務で目を通された書類に、何か気になる事でも?」

 

 今日の秘書艦であった春風は、朝から彼が分厚い書類と資料の束を、険しい貌をして読み込んでいたのを知っている。普段とは少し様子が違ったから気になっていた。だから、聞いてみた。出しゃばった事を聞いている気もする。しかし、すぐ近くに肩を並べる今ならば、彼が応えてくれそうな気もしていた。春風の問いに、彼は空を見上げながら緩く息を吐き出して見せた。そして、足元に視線を落とす。

 

「近いうちに、また大きな作戦が始まるかもしれません。『深海棲艦達に大打撃を与えよ』と、そう通達が来ていました」

 

 俯き加減のままで歩きながら、彼はゆっくりと瞬きをした。そして春風へと顔を上げて、悲しげに微笑んだ。先程の工廠での強化改修施術も、その作戦に向けての準備の一つだったのだろう。春風も深く頷きを返す。

 

「誓って、奮戦させて頂きます」

 

「はい。しかし、必ず帰って来て下さい」

 

 真摯な貌の彼に、春風は深く頭を下げる。そんな短い遣り取りだったが、それで十分だったからだろう。沈黙が続いた。海からの波の音も遠い。和傘を叩く雨音が強く聞こえる。春風は足元を見た。並んで歩く二人の足元を、雨水が流れていく。溜まること無く、地を伝い、這い、蹲りながら、音も無く、何処かへ流れていく。そしてまた何処かで空へと昇り、雲と濁り、雨と成り、還り降る。そんな雨水の行方と、人間や艦娘や深海棲艦達が縺れ合う今の戦いも、何処か似ているように思えた。ただ、虚しいとは思わない。恐ろしいとも思わない。其処に感情を差し挟むことが無益であることを、春風は知っている。艦娘達の境遇や、深海棲艦達の行く末などは、春風の予想や力の及ぶ話では無い。

 

 ただ、先程も雨空を物憂げに見詰めて居た彼は、変わろうとしない世界に、心を痛めてくれているのだろう。彼が理想として持つ、『人類と艦娘と深海棲艦達の共存』は、はっきり言って現実的では無いと思う。しかし、そんな青臭い理想を、誰一人として目指す者が居なくなる事を思うと、少々背筋が冷たくなる。現実主義と合理主義は、時に冷酷な正論と強烈な火力を持って弱者を捻じ伏せる。もしも。未だ終わりが見えないこの戦いに、人類が勝利した時。「私達は、どうなるのでしょう……?」

 

 

 ぽつりと。春風の口から、自然とそんな言葉が漏れた。隣に居た彼は、一瞬だけ足を止め掛けた。止め掛けただけで、立ち止まりはしなかった。すぐに春風の歩く速さに合わせてくれる。ただ、少しだけ相合傘の距離が離れた。傘は春風を雨から守っている。その分、彼の反対側の肩をまた濡らした。彼は視線を落としながら、緩く首を振る。

 

「戦いが終わった後の事は、……僕にもまだ、皆さんに何も確約出来る事が無いのが現状です」

 

 彼は正直に、すまなさそうに言葉を紡いだ。

 

「ぃ、いえ、此方こそ、妙なことを口走りました。申し訳ありません」

 

 慌てて春風も首を振って見せて、間を埋める様に彼に歩を寄せた。彼が濡れぬように。二人で傘に入れるように。彼は、またすまなさそうに、静かな笑みを浮かべた。艦娘達が人間の社会で平穏無事に暮らせる為の、法整備や社会的な制度もまだまだ不完全なままだ。無論、まだ戦いは続いているし、近々には再び大きな作戦も在るだろうという状況だ。人類が優位に立っているとは言え、社会の構造や世論の改革を本格的に始められるほど、暢気に構えてはいられないのも事実だ。だから、彼がすまなさそうにする道理は無い。誰が悪いとか、誰の所為だとか、そんな話では無い。彼はしかし、また一つ、小さな溜息を零した。

 

「……僕は、深海棲艦の皆さんに対して『力による受容』を目指したいと、そう本営に提言したことがあります。上層部の方々にも、共感を得られた手応えを感じました」

 

「しかしそれも、一時だけでした」と。彼は難しい貌のままで、眼を伏せた。

 

「実際は、今の本営の方々は深海棲艦の皆さんを、『変質と隷属のもと、人類によって再利用を受けるべき存在』としか見なしていません。……本営の方々にとっての深海棲艦とは、もはや海洋資源の一つでしかない様です」

 

 春風は口を噤み、彼が語る言葉を黙って聞いていた。一致団結して危機や困難に立ち向かう姿勢こそが、人類の強さだ。しかし同時に、容赦や寛容さを持たなくなる。種の存亡において、人類は何処までも冷徹で利己的になれるのだろう。深海棲艦との共存などという彼の理想は、今の人類の理念とは大きくかけ離れている。「僕の理想が、幼稚で現実感の無いものだという事は理解しているつもりです。しかし、もしも……」彼はまた、寂しそうな笑みを浮かべた。

 

「この戦いが終わって尚、敵対してきた深海棲艦だけで無く、今まで人類を支えてくれた艦娘の皆さんをすら、まだ都合の良い道具としか見れないのであれば……。僕達は、こうして春風さんと肩を並べて歩く資格すら失うでしょう」

 

 春風は彼の苦しげな微笑みに、胸が痛んだ。彼は本当に、人類や艦娘や深海棲艦の未来を慮り、憂慮してくれている。悲しそうな、難しい貌をした彼は、春風から視線を逸らすと、また雨空を見上げた。そしてまた、何かを思案するように黙り込む。再び沈黙が続く。無言の間に冴える雨音を聞きながら、暫く歩いた。濃い暗雲が、暗い空を覆っている。静かな雨は勢いこそ増してはいないものの、まだまだ止みそうに無い。春風は、そっと息をついた。

 

 

「……司令官様は、雨がお嫌いですか?」

 

 不意にそう問うた春風に、彼はまるで意外なことを聞かれたかのように二度ほど瞬きをして見せた。そして、何かを思案するかのように視線を落とす。

 

「すみません……。“晴れ”や“雨”の日について、好きか嫌いかを考えた事がありませんでした」

 

 そう呟いてから、彼はまた少しの沈黙を返してきた。好きか、嫌いか。その日の天候などといった身近なことに意識を持っていないのは、何となく彼らしい。或いは、そういった日常の中に芽生える筈の“感性”や、“感情の記憶”についての不自然な欠落こそが、彼が受けた異種移植のアフターリスクなのだろうか。春風は、彼の眼帯と右腕をチラリと見遣った。彼は、春風の視線に気付いていたようだが、特に何も言わなかった。代りに、また雨の空を見遣る。

 

「春風さんは、雨の日がお好きなのですか?」

 

 そう聞いてくる彼の声音は、やけに深い響きが在った。雨音の中に在っても、やけに耳に残る。何かを思案しているかのような。それでいて遠くを見る様な目つきの彼は、春風を見ようとはしない。雨は、強くも無く、弱くも無い。ただ、しとしとと降っている。濡れた空気が心地よい。春風は小さく息を吸い込んでから頷いて、再び彼の視線を追った。

 

「はい……。苦手な方も多いですが、傘が似合うこの梅雨の季節が、大好きなんです」

 

 雨の空を見上げる春風の横顔を、今度は彼が見詰めて来た。真っ直ぐな春風の言葉に、彼なりに何かを感じたのかもしれない。“好きである”という感覚は、春風が感情を持っているからこそ持ちえるものだ。そして其処には、“個性”としての差が産まれ、フォーマットされている筈の春風の感性や価値観にも“個”を形成し、確立させる。“彼によって召還された春風”は、“他の提督が召還した春風”とは違う。春風がこうして人格を育むことができるのも、彼が艦娘達に“個”を見出し、大事にしてくれるからこそ。

 

 肩を並べる資格が無いなどと、そんな事は無いだと。そう伝えたかった。だが、上手い言葉が見当たらなかった、思いつかなかった。だから、こんな些細な日常の中にある感性や感覚、感情の発露が出来ることに、彼への感謝を込めたつもりだった。伝わっただろうか。わからない。彼に向き直り、「駄目でしょうか……? 」と、遠慮するみたいに言葉を付け加えた春風に、彼はまた目許を緩めて見せた。

 

「いえ……。駄目なんてことは、決して無いはずです」

 

 そして、今度は雨の降る空では無く、手にした和傘を見上げた。そう言葉を漏らした彼は、此処では無い何処か見据えるのでは無く、茫漠とした未来の輪郭に眼を凝らすでも無い。春風の和傘を見詰めている。

 

「この和傘を打つ雨音は、とても涼やかで心地よく思います。……僕も、この季節を好きになってみたいです」

 

 彼の微笑みと言うか、眼差しから憂いが薄れて、また温もりが戻ってきた。隣にいる春風には、そう見えた。そんな彼の横顔を見詰めて、春風はきゅっと唇を噛んだ。彼は普段から深慮の内に篭り、新たな儀礼術の確立や、艦娘や深海棲艦達の境遇、これからの作戦や、本営や世論への接し方などについて、膨大な思考を廻らせている。“魔人”などと影で呼ばれるようになった来歴の中で、彼は人間では無くなった。色んなものを失った筈だ。それでも尚、彼は、春風にとっての日常の中にある些細な楽しみを理解し、共感し、共有しようとしてくれている。嬉しさと同時に歯痒さを感じた。

 

「司令官様は、物事を難しく考え過ぎです」

 

「そ、そうでしょうか」

 

「何かを好ましく思うことは、定義を持って結論付けるものでは無い筈です」

 

「ぅ、……確かに、仰るとおりだと思います」

 

 彼は少々バツが悪そうに、眉尻を下げた。困ったような、しかし、明るさのある純朴な笑顔だった。春風も少しだけ可笑しそうに笑う。同時に、雨音にあわせて胸が軋むのを感じた。

 

 以前、たまたま食堂で一緒になった霞と話をする機会が在った時の事だ。霞は言っていた。彼は、“今じゃない、そして此処じゃない場所ばかり見ている”と。春風もそう思う。彼は、艦娘や深海棲艦のために、社会の中にある人々の理念や世論を変えようと日々苦心してくれている。いわば、世界を変えようとしている。余りに途方も無い取組みだ。その目的の達成のために、彼は子供の体では足りないものを、理知や狂気、情熱と正義感で補ってきた。今も、その最中である。雨の中を歩く彼の意識は、つい先程も、世界を変えることに向いていた筈だ。

 

 渺茫とした遥かな未来や、曇るばかりの遠い空でも無く、もっと近くに眼を向けて欲しい。世界を変えるよりも先に、彼自身にも変化が在って欲しいと思う。ほんの少しだけでいい。我が侭で、子供っぽくていい。いつも遠くを見ている難しそうな貌も、憂いを帯びて思案するその眼差しも、向ける方向がこうして少し違えば、彼だってこんな風に笑えるのだ。「でも、そうですね……」。春風は言いながら、ぎゅっと、胸のあたりで手を握った。

 

「この季節が好きになられた時には、またこうして雨の中を、……一緒に傘を差して歩いて下さいませんか?」

 

 春風は、彼の方をチラリと窺いながら言葉を紡いだ。彼は雨空をまた一度見て、微笑みながら春風へと視線を寄越した。

 

「僕の方こそ、よろしくお願いします」

 

 彼の声音は深く、やはりよく通った。その表情も、心無しか先程よりも柔らかく見える。そんな彼に、春風が頷きを返したときだった。雨音の中に、電子音が響いた。彼の提督服の懐からだ。携帯端末のコール音である。

 

「お持ちします」

 

 彼が端末を取り出して電話に出られるように、春風は彼から和傘を受け取ろうとした。そっと差し出された春風の手を見て、彼は微笑んで頷いた。「すみません」と一言、彼は春風にことわって、手にしていた和傘を優しい手付きで手渡してくる。春風は、それを両手で受け取った。春風の手と彼の左手が、僅かに触れる。ひんやりとした手だった。それなのに、触れた春風の手には切ない熱さが残る。早くなる鼓動を鎮める様に、春風はゆっくりと唾を飲み込んで、彼に微笑みを返した。

 

「少しだけ失礼しますね」

 

 彼が、懐から取り出した端末のディスプレイを操作し、耳にあてた。春風は唇を頻りに噛みながら、視線を地面に落とす。雨水が流れている。雨もまだ止まない。この涼しさが、顔の熱さを冷ましてくれれば。彼の電話が終わるまでに、乱れた心を落ち着けたい。だが、無理そうだった。心臓が飛び出すかと思った。

 

 彼は、右手で携帯端末を持っており、左手が空いている。その左手で、和傘を持つ春風の手を握って来たのだ。そして、和傘を春風の方へと寄せて、少しだけ傾けた。恐らくは、彼が濡れぬようにと傘を寄せ、春風が自分の肩を雨に晒していることに気付いていたからだろう。いきなりの刺激に眼を見開いて何度も瞬きする春風に、彼は端末を耳にあてて通話をしながら、目許を緩めて見せる。咄嗟に、春風は顔を隠すようにして会釈をした。

 

 そして、頬が緩んできそうになるのを必死に堪えている内に、彼の通話が終わった。長かったような、短かったような。全然落ち着かなかったから、すぐ傍にいるのに彼がどんな会話をしていたのかすらよく覚えていない。静かに深呼吸をする春風に、彼は端末を懐へとしまいつつ、「……先輩からでした」と、ちょっと困ったような笑みを浮かべた。

 

「何でも、これから雨が続くということで、てるてる坊主でも作らないかと」

 

「ふふ……、野獣様が仰りそうなことですね」

 

「はい。今は釣りから戻られて、あきつ丸さんと御一緒のようです」

 

 笑みを零した春風から、彼は傘を受け取って、また空を見遣る。

 

「雨の日を好きになろうとしていたすぐ後に、てるてる坊主を作ろうと言うのも、……何だか妙な感じです」

 

「では、晴れの日もお好きになられれば良いではありませんか」

 

 春風は冗談めかして、しかし、少しだけ硬い声音でこたえる。『雨の日を、好きになろうとしていた』。その彼の言葉には、自身も変わりたいという想いの様なものを感じた。

 

「確かに、……選り好むこともありませんね」

 

 重い過去を持ちつつも、そう微笑みながら呟いた彼の感性は、まだ死んでなど居ないのだと。春風は胸中で願いながら、また彼と並んで歩きだす。僅かに濁る雨を踏みながら、彼の近くに寄り添うべく。和傘が繋ぐ僅かな隙間を、またほんの少しだけ春風は埋める。「司令官様の肩が濡れています」。春風は俯き加減で、小さく言う。彼は、自身の右肩をチラリと見てから、まるで今気付いたかのように苦笑を浮かべて見せた。

 

 

 

 

 

 

 さぁて、どうしたものかなぁ、コレ……。鈴谷は、何とも言えない表情を浮かべたままで、少年提督の執務室に居た。他には、あきつ丸、金剛、鹿島、加賀、そして、野獣が、重厚な応接用のソファに腰掛けて、てるてる坊主を製作中である。少年提督も自身の執務机の上で、てるてる坊主を黙々と作っている。材料なんかは野獣が用意して持参したもので、高価そうなソファテーブルの上には既に何個か完成したてるてる坊主が置かれている。鈴谷も、もう既に三個目のてるてる坊主の製作に取り掛かっているところだ。……なんでこんな事になったんだろう……(遠い目)。鈴谷は溜息を堪えて、ちょっと前まで記憶を遡る。事の発端は、仕事をサボって雨釣りに繰り出した挙句、埠頭で足を滑らせて海に落っこちた野獣が、『あ~つまんねぇ(身勝手)』と。防水対策も完璧な携帯端末で、艦娘囀線に書き込んだのが始まりだった。

 

 

『これからは、暫く雨の日が続きますよ』と、誰かが言った。『てるてる坊主でもつくろっか』と、また誰かが続いた。そして、『あ^~、良いッすねぇ^』と、野獣がこの書き込みをピックアップしたのだ。当然、長門や陸奥からは、『お前は仕事をしろ!』と突っ込まれていたものの、今日の野獣の秘書艦である加賀が、ほぼ片付けてくれていた。非番であった鈴谷も加賀を手伝うべく執務室に足を運んだのだが、もうする事が無かった。気を遣わせてごめんなさい。そう苦笑を浮かべつつ短く詫びてくれた加賀に、鈴谷も微苦笑と共に、「いえいえ。此方こそ、お役に立てず申し訳ないです」と答えたのも先程だ。

 

 

 そんな鈴谷と加賀の下に帰って来た野獣は、ずぶ濡れの体を洗う為にシャワーを浴び、何処からか用意した材料や道具を手に、少年提督の執務室に向ったのだ。鈴谷達も、その野獣のあとに着いてきて今に至る。あきつ丸は、野獣よりも一足先に少年提督の執務室に向っていたらしく、途中ですれ違った金剛と鹿島に声を掛けたところ、是非一緒にてるてる坊主を作りたいという事で参加したらしい。もう何と言うか無軌道極まりないのだが、そんな無茶苦茶な展開の中でも、少年提督の今日の秘書艦である春風は盆を手に、皆にお茶を用意してくれていた。凄く申し訳無い気分になる。

 

 

「いやぁ、春風殿が淹れてくれたお茶は美味ですなぁ! 五臓六腑に染み渡るでありますよ^~」

 

 ソファに深く座りなおしたあきつ丸は、手渡された湯吞みを傾けてずずず~と茶を啜ってから、おっさんみたいに溜息を吐きだした。

 

「あぁ^~、うめぇな!(御満悦)」

 

 あきつ丸に続き野獣も茶を啜って、一息ついている。春風は微笑んで、二人に静々と頭下げてみせる。奥ゆかしい仕種と落ち着いた雰囲気の所為だろうか、駆逐艦娘じゃないみたいだ。凄く品があって、佇まいが美しい。少年提督と微笑みを交し合い、茶托と湯吞みを渡す春風の様子も、とても絵になると言うか。まるで良く出来た貞淑な幼妻の様だった。少年提督の不思議な貫禄や沈着に、春風の上品さが華を添えている。鈴谷は、ちょっとだけニマニマしてしまう。う~ん。割と良い感じじゃない? いや。いやいや。少年提督は誰とでもあんな感じだったろうか。難しいところだ。ただ、鹿島と金剛、そして加賀の方は、鈴谷の様にニマニマする余裕が無さそうだった。

 

「金剛さん、私……、私、羨ましい……っ!!」

 

「ワタシも羨ましいヨ……っ! Teacher鹿島……!!」

 

 先生……っ! 俺、くやしいよ……っ! みたいなノリの鹿島と金剛は半泣きになりつつも、てるてる坊主をせっせと作りながら、羨望の眼差しで春風を見ている。この二人、何故かウマが合うようで、よく一緒にいるのを見かける。鹿島は比叡や榛名、霧島とも仲が良く、食堂や鳳翔の店へと共に出かけることも多いと言う。今日も、あきつ丸に出会うまでは、金剛と鹿島は間宮に行く途中だったらしい。

 

「…………流石に、気分が沈みます……(ボソッ)」

 

 一方で加賀の方は、もの凄く元気が無かった。というのも、加賀は彼の下に所属している艦娘では無い。故に彼は、自身の所属下にある金剛や鹿島達に比べて、加賀との接し方についてはより気を遣っている。彼は、誰も特別扱いしない。向けてくれる真摯さや優しさには変わりない。その筈だ。しかし加賀としては、彼との距離は多少なりとも感じる筈だ。勿論、彼が加賀を遠ざけるというか、進んで距離を置こうとしている訳では無い。ただ、礼節に重きを置いているだけの話だ。まぁだからこそ、野獣の下に所属している加賀が、今の彼と春風のような距離感になるには、まだ時間が必要になるのは間違い無いだろう。長い道のりになりそうだ。加賀はその事について憂いているのだろう。三人の思惑が混ざり合う応接スペースは、切なげな呟きと重い溜息が交じり合っている。そんな空気を知ってか知らずか。

 

「いやぁしかし、今日の雨は良い雨でありましたなぁ~」

 

 また茶をずずず~っと啜ったあきつ丸は、面白がるようにそう言ってソファに座りなおしてから、ニヤニヤと笑いを浮かべた。執務机に腰掛けた少年提督と、その傍の秘書艦用の机に戻った春風を見比べた。

 

「やはり相合傘の効果でありますかなぁ。提督殿と春風殿の距離が、こう、グッ^^と縮まって見えるでありますよ^~」

 

 あきつ丸が発した、“相合傘”というパワーワード。これに過剰反応した金剛と鹿島は、作っている途中のてるてる坊主を引き千切った。どうやら変な力が入ったのだろう。加賀の方は意識でも遠のいたのか。白眼を剥いて、ふらっ……、と体を後ろに倒した。ソファに凭れかかって3秒程は、作り掛けのてるてる坊主を手に、ピクリとも動かなかった。

 

「加賀さん! 加賀さん!!」

 

 鈴谷は慌てて加賀に近付き、肩を揺すった。加賀は意識をすぐに取り戻したが、焦点の合わない視線を宙空に彷徨わせつつ、「あぁ、もう駄目……、ほら、ほら、……はぁ~……もう駄目よ、……もう……ね……ほら……」と、うわ言のように妙な呟きを始めた。やばい。重傷だ。しかし、そんな優秀な秘書艦の重篤ぶりなど意に介さず、野獣も似合わない爽やかな笑顔を浮かべて、あきつ丸に頷いた。

 

「おっ、そうだな。確かに見える見える、初々しいぜ☆(慈しむ眼差し)」

 

「でありましょう~?」

 

 あきつ丸はニヤニヤ笑いを深めて、野獣と頷き合う。

 

「いえ、そ、そのような事は……」

 

 一方で、好奇の視線に曝された春風の方は、秘書艦用の執務机に腰掛けたままで、手にした盆で顔の半分を隠して視線を泳がせている。その目許や頬に朱が差していた。明らかに動揺している。ただ、肝心の少年提督の方は、いつも通りだ。きょとんとしている。そして金剛と鹿島、加賀は、戦々恐々とした様子で、春風と少年提督を何度も見比べている状況だ。三人共、打ちのめされたような貌である。此処で、あきつ丸が更に場を混ぜ返しに掛かる。

 

「提督殿、如何でありましたかな? 雨の中、御二人でしっぽりと過ごした時間は?」

 

「Fooooo↑!!(賑やかし先輩)」

 

「いや二人共さぁ、そうやって場を混ぜ返すのホント止めない? 困ってるじゃん」

 

 鈴谷は二人を諫める。面白がって何て聞き方をするんだ、この二人は。ただ少年提督は、相変わらずの落ち着き払った微笑みを浮かべて、あきつ丸に視線を向ける。丁度そのタイミングで、彼が作っていたてるてる坊主が完成した。彼が机の上に置いたそれは、シンプルなニコニコ顔をした、小柄なてるてる坊主だった。

 

「……えぇ、春風さんの和傘に入れて貰い、色々とお話をさせて頂きました」

 

 執務机に腰掛けた彼は、あきつ丸から視線を外した。そして何かを思い出すように、雨に曇る暗がりを窓の外に見遣る。

 

「僕が雨を好きになった時には、また雨音を傘で聞きながら一緒に歩こうと。そう約束して貰いました」

 

 穏やかな表情を浮かべた彼は、窓からあきつ丸と野獣へと視線を返した。あきつ丸は肩を竦めながら、「そうでありましたか」と、何処か満足そうに唇の端を持ち上げる。さっきまで茶化していた野獣も、低く喉を鳴らすようにして小さく笑った。彼は、やはり乱れない。ブレない。それでも無感情では無い。彼の声音には、確かに春風と過ごした先程の時間を、大切にしようとする想いが滲んでいた。彼と一度眼を合わせた春風の方も、静々とまた小さく会釈をしていた。春風の表情には、変化は余り無かった。ただ、微かに緩められた目許は、とても嬉しそうだった。

 

 そんな暖かな場の様子を横目に見ながら、鈴谷も手元のてるてる坊主を完成させた。そして軽く息を吐く。ふふっと、思わず微笑が漏れた。まぁ、そうだよね~……。少年提督には、そういう浮ついた話は全然無い。周りが白熱して空回りしているのが常だ。ただ、こういう平和な時間も、ほのぼのとしていて良いと思う。こういう時間を犠牲にしてまで、守らなければならないものがあるのなら、それは幸か不幸か。ふと、そんな思考が鈴谷の脳裏を過ぎった時だ。

 

「テイトクゥー!」

 

 馬鹿みたいに真面目くさった貌になった金剛が、居住まいを正して立ち上がり、ビシィっと挙手をした。突然の事に、春風はビクッと肩を跳ねさせる。鈴谷だってそうだ。あきつ丸と野獣も、なんだなんだ? と、金剛を凝視する。金剛は執務机の彼に向き直り、真剣な眼差しで彼を見詰めた。

 

「その、……ワタシも相合傘の予約とか出来ますカ!!?」

 

「えっ」

 

 訳の分からない事を言い出した金剛に、彼が素の反応を返した。次の瞬間には、鹿島と加賀も猛然と立ち上がり、二人は同時に挙手をした。

 

「わっ、私も、ぉ、あの……っ、ぉあっ……、お願いしまうっ!!」 

 

 必死な様子の鹿島も、唇をぎゅうぎゅうと噛んで、彼を見詰める。

 

「何か相談? 良いけれど(意味不明)」 

 

 加賀の方は、少々錯乱気味なのか。「えぇと……」と、流石の少年提督も困惑顔を浮かべた時である。

 

「おっと……。もうこんな時間ですな、提督殿。そろそろ、向われた方がよろしいのではありませんかな?」

 

 あきつ丸が、自分の腕時計を一瞥して言う。少年提督の方も、心得ているという風に頷いてみせるだけだった。彼は執務机から立ちあがって、引き出しから重要そうな書類を取り出して小脇に抱える。足元に置いてあったのであろう革鞄を手に、この場に居る全員を順番に見て、頭を下げた。聞けば、彼は今晩、鎮守府の近くに設けられた深海棲艦の研究施設にて、少女提督と会う予定があるという。勿論、荷物を見れば分かるが、仕事の話だろう。

 

 今日の秘書艦である春風もその予定は把握していたらしく、送って行こうとした様だ。秘書艦用の執務机から立ち上がろうとする春風を手で制した彼は、「あとは、僕一人で大丈夫ですから。今日は、お世話になりました」と、微笑んだ。これで、秘書艦としての春風の仕事は終わりだ。春風の表情は少し寂しげに曇りかけたが、すぐにまた微笑んで、深く礼をして見せた。本当に良くできた奥方のようだ。金剛や鹿島、加賀の方は、置き去りにされた子犬みたいな顔をしている。ソファに座ったままで、野獣は足を組み替えて軽く手を振った。彼も会釈を返して、執務室を後にした。さっきまでの騒がしさの所為か。彼が居なくなってから、ほんの数秒。少々の寂然さと言うか、静寂が降りる。かと思ったら、別にそんな事は無かった。

 

『そろそろ夕食のお時間ですよ』

 

 本当に突然だった。何処からか、少年提督の声がした。もの凄く親しみの篭った優しい声音だった。鈴谷だってドキッとしてしまう。春風がキョロキョロと周りを見渡しているが、当然、彼の姿は無い。一体何処から……? 金剛や鹿島、加賀が、眼つきを鋭くして索敵するみたいに周囲へと視線を巡らせる中。

 

「時間が経つのは早いものでありますなぁ」と。

 

 てるてる坊主を造り終えたあきつ丸が、腰をトントンと叩きながらソファから立ち上がる。そして、懐から携帯端末を取り出した。ディスプレイを操作すると、『お疲れ様です。あきつ丸さん』と、再び彼の音声が流れた。金剛と鹿島、加賀の三人が無言のままで、あきつ丸の手元を凝視している。全員の眼つきがえらくマジで、ちょっと怖かった。鈴谷が軽く身を引いていると、隣に座っていた野獣が唇の端を歪めた。

 

「まだ試作段階だけど、なかなか良い感じじゃん?(自画自賛)」

 

「えぇ。ノイズも在りませんし、提督殿の声もクリアであります」

 

「ねぇゴメン、野獣。それ、何……?」

 

 鈴谷は嫌な予感がしつつも、隣に座る野獣に聞かずにはいられなかった。金剛達の視線が、一瞬だけ鈴谷に集まる。よくぞ聞いてくれたみたいな眼差しだった。「まぁ、システムボイスつうか、アラームボイスって言うか、簡易的なボイスアプリだゾ(仕様説明)」と。そんな金剛達を順に見た野獣は、顎を撫でながら携帯端末を取り出して、似合わないウィンクをして見せる。

 

「前も音声データを集めて加工したりしてたから、そのデータの流用も多少はね?(テヘペロ先輩)」

 

「それって、彼の許可も得てるの?」

 

「当たり前だよなぁ? 音声データを配布するのは艦娘限定だし、悪用する奴なんて居ないからね(意地悪な笑み)」

 

「要するに、おはようからおやすみまで、提督殿の可愛いショタボイスが案内してくれるという訳でありますよ」

 

 あきつ丸は何処か得意げに言いながら、携帯端末を手早く操作する。自分で音声パターンを構築する事が出来るのだろう。数種類の少年提督ボイスが再生され始めた。

 

『おはようございます。あきつ丸さん。今日もよろしくお願いします』

『こんにちは。あきつ丸さん。昼食の時間ですね』

『こんばんは。あきつ丸さん。今日もお疲れ様でした』

『お風呂の時間ですね。えっ、一緒にお風呂に?』

『あ、あの……、あきつ丸さん、そ、其処は自分で洗えますから、あぅっ……!』

『うぁ……! だ、駄目です……! そんな、は、激しくされたら……っ』

『あっ、あっ……、ぅぅう……、待って、くださ……、な、何か、出ちゃ……!』

 

 ピッ、と。あきつ丸は其処で音声を停止させた。

 

「とまぁ、こんな感じで、彼のボイスが一日を彩ってくれる訳であります」

 

「ちょっと待って、駄目な奴でしょコレ……」

 

 あきつ丸はしれっとした顔で何事も無かったかのように説明を終えようとしたが、鈴谷がすかさずツッコむ。野獣の方は「おぉ^~、良いねぇ^~」など言っているが、良いワケが無い。いや、金剛や鹿島、加賀の三人は、まるで新時代の幕明けを目の当たりにしたような貌をしている。少し離れた所に居る春風は無言のままで、貌を真っ赤にして俯き、モジモジしている。まともな反応をしているのは春風だけだ。もうなんなの、この空間。鈴谷がこめかみを押さえていると、野獣が笑みを浮かべて頷いて見せた。

 

「好きなように台詞を作れるのが醍醐味なんだからさ(良い笑顔)。ホラホラ、春風もやってみたいだろ?(闇への誘い)」

 

 そう言い終わるが早いか。野獣は、少し遠くでもじもじとしている春風に声を掛けつつ、手にしていた携帯端末を操作する。

 

「よし! じゃあ、春風の端末にもアプリをぶち込んでやるぜ!(強制インストール)」

 

 すると今度は、春風の懐からも少年提督の音声が流れ出した。恐らく、“元帥”称号の権限で、春風の持つ端末にアクセスして操作したのだろう。

 

 

 

『おはようございます。春風さん。今日も可愛らしいですね』

『こんにちは。春風さん。大好きですよ』

『こんばんは。春風さん。今夜はずっと一緒に居たいです』

『春風さん』『春風さん、可愛い』『可愛いですよ』『春風さん』

『好きですよ』『春風さん』『素敵ですね』『春風さん』『春風さん』

 

「はわぁぁあ!? あぅっ……、あうあう……っ!!?」

 

 少年提督の優しい音声は、容赦無く流れる。真っ赤な貌の春風は、大慌てで自分の端末を取り出して、わちゃわちゃと操作して何とか止めようとしている。そりゃあ、いきなり大音量であんなボイスが連射で流れ始めたら慌てもするだろう。何とか音量を下げてミュートにして対処したようだ。心底ホッとしたように胸を撫で下ろしている。可哀相だからやめたげなよ。鈴谷が野獣にそう言おうとしたら、金剛と鹿島、加賀が、其々に端末を取り出していた。皆一様に、真剣な表情で頷いている。えぇ……(困惑)。鈴谷が反応に困る中、野獣もワザとらしい真面目くさった表情を浮かべて見せた。

 

「お前らにもインストールさせてあげたいけど、ちょっと卑猥な目的で使われそうなんだよなぁ……(渋い貌)」

 

「いやいやいやいや……、もうこれ以上無いくらい卑猥な音声を構築してる人が既に居るんだけどそれは……(尻すぼみ)」

 

 鈴谷は思わず、あきつ丸と野獣を見比べてしまう。だが、あきつ丸は肩を竦めて見せるだけであり、野獣はもう聞こえない振りを決め込んで金剛達に向き直っている。なんて奴らだ。野獣は芝居がかった溜息をつきながら、金剛達を順に見て、更にもう一度溜息を吐き出した。二回目の溜息は、やたら深い、残念がるような溜息だった。

 

「なんですか、その反応は?(半ギレ)」

 

 野獣の失礼な反応に、加賀は眉間に皺を寄せ、右眼を窄めつつゆっくりと首を傾けた。聞く者を震え上がらせるような声音だった。相当おっかない。鈴谷だってビビるし、少し離れたところに居る春風も、ビクッと肩を跳ねさせていた。金剛と鹿島も、何か言いたそうな貌で唇を尖らせている。気の抜けた様な笑みを浮かべているのはあきつ丸だけだ。

 

「まぁまぁ、そう怒んないでよ。そうカッカされると、話が出来なくなっちゃうからさ。お前のデビュー曲、バッチリ岬でも歌って落ち着いて、どうぞ(優しさ)」

 

「そんな曲を歌った記憶はありません(ストレスゲージ上昇)」

 

「あれ、ハレンチ岬だっけ?(すっとぼけ)」

 

「加賀岬です(全ギレ)」

 

 低い声で言った加賀は、すっと野獣との距離を詰めて、向う脛にトーキックを叩き込もうとしたようだが空振りに終わる。もう予想していたのか。野獣が「あっぶぇ!(緊急回避)」と、身を引いてかわしたのだ。舌打ちをした加賀も良い感じで暖まっているようだが、「あ、あのっ……!」と、声を上げた鹿島だって、言いたいことがあったようだ。

 

「私達は別に、提督さんをイヤらしい眼で見たりしてないって言いますか、その……。心と心の繋がりを大切にしたい、って言うんですかね? こう、体の繋がりでは無くてですね? やっぱり、提督さんから頂いた人格や精神性を尊重して行こうと、思ってる訳でして……」

 

 鹿島は言葉を選ぶように視線を彷徨わせつつも、しっかりとした声で言葉を紡ぐ。

 

「ボイスアプリについても、全然イヤらしい思いは無くてですね? ぇ、え、あの……その、ぇ、えっちな台詞をつくろうとか、色んなシチュエーション別に甘い台詞を囁いて貰おうとか、そんな事はこれっぽっちも考えて無いと言いますか……、だから、その……、私達の、敬愛する提督さんのお声を身近に聞きたいっていう、ピュアな気持ちしか無いので……」

 

 歯に物が詰ったと言うか、若干、語るに落ちているような部分もあるような気もするが、何とかかんとか、鹿島は其処まで言い切った。金剛と加賀もすかさず、「そうだヨ(金剛)」、「そうですよ(加賀)」と連撃便乗をキメつつ、顔を見合わせて深く頷きあっている。

 

「ワタシなんてテートクを想うあまり、毎日夢の中に現れるテートクと、114514回は添い寝をしていますカラ(狂気の淵)」

 

「私も毎夜の夢で、少なくとも364364回ほど、彼と共にお風呂に一緒に入っていますよ?(ポセイドン)」

 

「わ、私だって、1919810回くらい、提督さんに耳舐めマッサージをして貰ってます!!!(超越的接触)」

 

 三人は其々、全然ピュアでは無い自分の夢の内容を暴露し終わった。そして手強いライバルを賞賛するような、「なかなかやりますね……!」的な貌で、お互いに不敵な笑みを見せ合っている。(本格的♀烏合の衆)

 

「忙しい夢だなぁ……(畏怖)」

 

 どの辺りがピュアなのか理解に苦しむ鈴谷が、思わず素の感想が漏らした時だ。春風が気まずそうな顔で此方の様子を見守ってくれている事に気付く。何だか申し訳無い気分になった鈴谷は、野獣達には見えない角度で、両手を合わせて見せた。勿論これは、『もう少しで帰るから、時間とらせちゃってゴメンね』のポーズだ。秘書艦の春風は、先程も執務室の戸締りを任されていたはずだ。『こんな馬鹿な遣り取りしてないで早く帰ってくれないかな……』とか思われていても文句は言えない。ただ、春風の方は、いえいえ、と言った風に、優しく微笑んでくれた。何て良い娘なんだろう。鈴谷は軽く感動した。

 

 それに比べてさぁ……。鈴谷は春風に軽く頭を下げた後、憮然とした半眼で野獣へと視線を移す。野獣は、やはり芝居がかった腹の立つ真面目貌のままで鹿島達を見つめつつ、「……たまげたなぁ」と、感心したように呟いた。

 

「思考がこんだけ淫気に支配されてて、よく正気を保ってられるよなぁ(暴言)」

 

「知性ある精神というものは、欲望による自我の超越が可能という訳でありますか……(新たなる境地)」

 

 野獣とあきつ丸は言いながら、すっとぼけた様な神妙な表情で顔を見合わせる。

 

「あ、あれっ!? 今もしかして、途轍もなく失礼なこと言われてませんか!?」

 

 鹿島が凄いショック受けている隣で、「酷い言い草デース!!!(義憤)」と、金剛が野獣達の前に躍り出る。「流石に許せません(カットイン)」と、加賀も並び立つ。こういうのを捌くのに慣れた様子で、野獣はまぁまぁと、両の掌を上げて二人を宥める様に言う。

 

「じゃあ、お前らが本当にピュアかどうか、ちょっと簡単なテストしてみるってのはどうっすか?(心理への挑戦)」

 

 野獣は不敵な笑みを浮かべて、手にした携帯端末を操作し始める。

 

「アイツがさぁ、お前らの誰かに恋でもして、そっから付き合うことになると仮定するゾ(究境の想定)」

 

 もの凄い事を言い出した野獣はついでに、「春風も見てないで、こっち来て」と、皆のお茶のお代りを用意しようとしてくれていた春風を手招きした。春風はギクッとしたような貌になったが、恐る恐ると言った感じで、「あの……、春風にも何か……?」と、歩み寄って来てくれた。金剛達と並んで立った春風は、可哀相なくらい不安な様子だった。一方で、金剛達3人の眼の色が明らかに変わった。本気の眼だ。野獣が肩を竦める。

 

「飽くまで仮定だからね(重要)。100歩、いや、1000歩……、あぁもう面倒くさいから、11451419193643641810100081歩譲って、アイツがお前らに恋心を抱いた時の話だから」

 

「譲り過ぎィ!!」 鈴谷が叫ぶのと同時に、春風も軽く吹きだしていた。

 

「Haaァァ^~~~aaaaanNNNNnんんん!? どうしてそんなに歩を譲って貰う必要が在るんデスかぁ~!!?(セイロンティー)」

 

 心底納得行かないという風に、若干キレ気味の金剛も続いて叫んだ。

 

「そうですよ!!(便乗) 月までだって約38万キロなのに!!」

 

 鹿島も半泣きで抗議する。

 

「私達と彼との距離が、まるで遥か彼方の星々を指すような言い方は非常に不服です」

 

 半ギレのままの加賀は殺人オーラを纏いつつ、低い声で言いながら眼を窄めた。

 

「だから、仮の話だって言ってんじゃねーかよ……(辟易)。ちょっと落ち着けよ、ハレンチ」

 

「加賀です(怒髪天)」 加賀がゴリゴリと奥歯を鳴らした。

 

「まぁ細かい話は、取りあえず今は置いといてだな……(議論展開)」

 

 野獣は肩を竦めて、見えない何かを押しやるような仕種を取った。

 

「まったく細かい話ではありませんが……!(プッツン五秒前)」

 

 憤怒に塗れた加賀を前に、押しやられた何かを受け取ったのは、くっくっく……、と可笑しそうに薄く笑っているあきつ丸だ。それに釣られたのか。傍に居た春風も、肩の力が抜けたみたいに小さく笑った。余計な力みも嫌味も無い、自然な笑みだった。その邪気の無い微笑みに気勢を殺がれたようで、加賀も「ふぅぅ~……!」と威圧的な溜息を吐き出して、腕を組んでそっぽを向いた。野獣も、また喉を軽く鳴らして笑う。

 

「はぇ^~……、デデン岬の殺人フェイスも、少女を笑顔に出来るんすねぇ^~……(しみじみ)」

 

「加賀です……! もう勘弁なりません(艤装展開)、今ここで煙にして上げるわ(制空権確保)……!」

 

「おう、撃ってこい撃ってこい!!(会戦)」

 

「駄目だってばぁ~!>< 此処は、野獣の執務室じゃないんだよぉ!」

 

 大慌てで鈴谷が仲裁に入り、あきつ丸が「はっはっは!!」と大笑して、金剛と鹿島も、やれやれみたいに肩を竦めていた。ふふふっ……、と、春風もまた笑みを零す。こんなにも騒がしい執務室の窓の外は、まだ雨が降り続いている。吊るされたてるてる坊主が見上げる空は、月も星も見えず暗くて近い。今日は予報通り、雨のち雨だ。

 











今回も最後まで読んで下さり、有難うございました!

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