花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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此処にしか無い景色 後編

 

 

 

空母組、2回目のジャンケンが終わる。負け残り、大本営役となったのは「ぐ……ッ!」と、恐ろしく低い声で呻いたグラーフだった。命令籤の内容は、『“●、■番の艦娘”は“赤色籤の提督”に、何でも(常識の範囲内で)お願いせよ!』というもの。艦娘側から提督側へと、ある程度の強制力を持って何かを頼めるという内容だった。自身の強化改修や、非番の日に付き合って貰うことだってお願い出来る。単純な命令とは少々毛色が違うこの“命令籤”は、かなりの大当たりに違いなかった。会場が大きくザワつく。

 

 

 ●番の籤を引いていたのは、「あっ、私だ」 瑞鳳。

 ■番の籤を引いていたのは、「やりました」 加賀。

 赤色の籤を持っているのは、「おまたせ!(以暴易暴)」 笑う野獣。

 

 命令籤を引いたグラーフが、申し訳なさそうな顔で黙り込んだ。瑞鳳は満面の笑顔を浮かべ、両手を上げて喜んでいる。「良かったじゃーん!」「良い時に引いたね、さっすが!」と、瑞鳳と一緒に喜んでいるのは飛龍と蒼龍。「ふふ、羨ましいですね」と、赤城も優しそうに微笑んでいる。

 

 一方で加賀は無言のままで、沈痛な面持ちで床の一点を見詰めていた。この場のテンションから弾き出されたかのように、加賀の周囲の温度だけが冷え込んでいる。会場の艦娘達も気遣わし気な視線を注いでいた。翔鶴と瑞鶴、葛城の三人が、加賀に何かを話し掛けていて、何とか元気づけようとしているのが分かった。

 

「おっ、どうしました?(ニヤニヤ笑い先輩)」

 

 すっとぼけたように言う野獣は、そんな様子を明らかに面白がっている様子だ。加賀は黙ったまま、ジトッ……とした視線を返す。しかし、すぐに何を諦めるかのように瞑目して、ゆっくりと大きく息を吐き出した。ついでに、「問題無いわ」と、翔鶴と瑞鶴、葛城に口許を緩めて見せる。後輩たちの気遣いに思わず表情が綻んだのだろう。ただ、その柔らかな表情は一瞬だけのものだった。

 

「何でもお願い出来るというのなら、もう少し誠実さを持って職務に取り組んで貰いたいものね」

 

 瑞鶴達から野獣に顔だけを向けた加賀の表情は、いつものクービューティーに戻っていた。

 

「おう、考えてやるよ(やるとは言っていない)」

 

 野獣も普段の調子で頷いた。加賀が舌打ちをする。しかしそれ以上は何も言わず、自然体に笑う野獣に対して、加賀は不機嫌そうに鼻を鳴らすだけだった。野獣に対して興味を持っていないという意思表示では無く、この男には何を言ってもどうせ無駄であるという事を知っているからこその態度だろう。加賀と野獣の間にある距離感は、長門や陸奥が持つ野獣への距離感とも、また違った種類に見えた。

 

 

「じゃあ次は、私もお願いして良いですかっ?」

 

 黙った加賀に代わり、瑞鳳が声を弾ませて挙手した。野獣が、「おっ、いいゾ~!」と、鷹揚に頷く。瑞鳳は一つ呼吸をしてから、野獣に向き直った。だが、すぐに瑞鳳は視線を泳がせて、「あの、それじゃ、えっと……」と、言い淀む。周りに居る空母艦娘達は、余計な茶々を淹れたり野次ったりすることも無く、瑞鳳を静かに見守っている。それは、会場のどの艦娘達も同じだった。

 

「今すぐっていう、お願いでも無いんですけど……」

 

 そこまで言って、小さく息を吐き出した瑞鳳が顔を上げる。

 

「いつか、都合が悪くない時にでも、私が作った卵焼き、食べて欲しいなって……」

 

 歯切れ悪くも、微かに震える声で何とかそこまで言葉にした瑞鳳は、緊張した様子で頬を染め、上目遣いで野獣を見詰めている。わぁ~……ウチの瑞鳳はホントに可愛いなぁ~……なんて思いながら、少女提督は軽い眩暈を感じていた。「マジっすか(素)」と呟いた野獣は、驚いた表情で瑞鳳を見詰めて居たが、すぐにニカッと笑った。

 

「食べます食べます!(喰い気味) 卵焼き、オッスお願いしま~す!(感謝)」

 

 含みも嫌味も無い笑顔を浮かべた野獣は背筋を伸ばし、瑞鳳に対して誠実そうに頭を下げて見せた。こういう時の野獣の態度に嘘は無い。

 

「そ、それじゃ、野獣提督の都合の良い時に、執務室までお持ちしますね」

 

 赤い顔になって俯きがちに言う瑞鳳は、少女提督には見せた事のない種類の笑顔を浮かべていた。喜びという感情の中に、気恥ずかしさや卑屈さを無理矢理に押し込んでしまおうとするかのような笑みだった。アークロイヤルやガンビア・ベイの時のような騒ぎになることなく、かなり平和にゲームが進む。

 

 

 

 

 

 

 

「可愛い顔が台無しでありますよ」

 

 隣に座るあきつ丸に笑われても、少女提督の表情は渋いままだった。出そうになる溜息を飲み込んでから、鳳翔が淹れてくれた茶を啜る。美味しくて落ち着く。あきつ丸がまだ可笑しそうに笑っている。多分だがコイツは野獣と一緒で、相手にすると付け上がるタイプだ。無視無視。

 

「普段はアレですが、野獣殿も、まぁ佳い男ではありますからな」

 

 あきつ丸が楽しそうに言う。シカトを決め込み、渋い表情のままで黙っている少女提督に代わり、「そうですねぇ」なんて、穏やかな表情の間宮が相槌を打った。鳳翔も微笑みを浮かべて頷いている。少女提督は何も言わず、もう一口茶を啜った。

 

「そう言えば……。少し前ではありますが、野分殿も、野獣殿と二人きりで夜の波止場を歩いておりましたよ」

 

 危うく茶を吹き出しそうになり、少女提督は噎せ返った。「大丈夫ですか!?」と、間宮と鳳翔が心配してくれる。少女提督は咳き込みながら、“へーきへーき”と、頷くことでアピールする。その途中で、あきつ丸を横目で睨んだ。

 

「冗談でありますよ」 あきつ丸は肩を竦める。

 

「ケホッ……。そういう冗談はやめて。びっくりするから」

 

 少女提督が恨めしそうな顔をしても、あきつ丸は笑みを崩さない。寧ろ、楽しそうな笑みを深めるだけだ。しかし、その笑みは少女提督を嗤うものでは無かった。

 

「貴女が、この冗談を驚いてくれる人間で良かったでありますよ」

 

 鳳翔や間宮には聞こえない程度の声でそう呟き、あきつ丸は何かを確かめるような眼で、少女提督を見詰めて来た。少女提督もまた、あきつ丸の言葉の真意を測るように視線を返した。しかし、あきつ丸は何も言わず、唇を薄く歪めるだけで、会場へと視線を戻してしまった。

 

 

 

 

 

 

 

 会場では次の艦種のグループがゲームを始めていた。籤箱の中の籤の数は、艦種別のグループごとに調整され、人数分と等しい番号籤と、それらの番号に対応した命令籤がちゃんと用意されていた。ジャンケンは既に終わっており、籤も引き終わっている様子だ。巡洋艦娘達の中で一人、足柄だけがムスッとした様子で腕を組んでいた。本営役だったのだろう。命令籤の内容が発表される。

 

『“赤色籤の提督”は、“●番籤の艦娘”に“あ~ん”で何かを食べさせろ』

 

 “赤色籤の提督”は、「Foo~~↑」なんて奇声を上げた野獣だった。命令の内容は先程と同じだが、今回は指定される艦娘が一人だけである点に違いがあった。さて、●番の籤を引いたのは誰なのか。

 

 重巡艦娘達を順番に見ていくと、鈴谷だけが異様にソワソワしていた。「そっかー、鈴谷かー、しょうがないなー、あんまり嬉しくないけどなー、籤を引いっちゃったからなー」という、いかにも不本意そうな雰囲気を必死に醸し出している鈴谷は、落ち着きなく視線を泳がせながら唇を尖らせて、自分の髪をくるくると指で弄っていた。野獣が、優しい笑みで鈴谷を見た。

 

「鈴谷はキャンセルするよな?(気遣い)」

 

「しないよ!? なに言い出すの急に!?」

 

 “あーん”される事には興味なさそうな風だったのに、それをパス扱いされそうになっている鈴谷は、必死の形相で野獣に詰め寄った。肩を竦めた野獣が、鈴谷を宥める様に「まぁまぁ」と両手を動かしつつ、傍に居たコック姿の妖精達と短い遣り取りをしていた。その後、妖精達は調理スペースの方へと飛んでいく。妖精達の後ろ姿を見送った野獣はクソ真面目な顔になって、鈴谷にゆっくり頷いた。

 

「やっぱり、鈴谷はイマドキのイケてるギャルだし、悶絶調教くらいじゃないと満足しないかなって……(信頼)」

 

「も、悶絶調教!? いいよそんなの! いらないいらない!!」

 

「いや、しかしですね(食い下がり)」

 

「しかしもヘチマも無いよ! 普通に“あーん”してくれたらいいから!」

 

「あっ、そっかぁ。取り敢えず、スープとかシチューとかで良いかな?(リアクション重視)」

 

「だからさぁ……、熱いよねどっちも? 金剛さんの時みたいにさ、アイスとか在るでしょ?」

 

「そうですねぇ~……(難色)」 

 

 野獣が、不服そうな顔になって腕を組んだ。

 

「じゃあ、麻婆豆腐とか、グラタンならどう? いけそう?」

 

「何が“じゃあ”なのか意味わかんないんだけど……。 結局アツアツじゃん」

 

「ほら、お前さ、前にさ、褒められて伸びるタイプって言ってたよな?(遠い目)」

 

「今それ関係無くない!?」

 

「改二らしいリアクション、ひょろしくね!(鈴谷の図鑑ボイスより)」

 

「ソレやめてよぉ!!(半泣き)」

 

「よし!(ごり押し) ピザは、熱々のチーズ増し増しで良いかな?(情け無用)」

 

「はぇっ、ぴ、ピザ!? って言うか、もうトッピングの話!? 待って待って!」

 

「作りたてだし、美味しいうちに食べないとなぁ?(感謝の気持ち)」

 

 わちゃわちゃと両手を振って慌てる鈴谷に、野獣はニッと笑って見せる。そしてすぐに、携帯端末を取り出して手早く操作する。ほぼ同時だったろうか。妖精達が調理スペースから戻って来た。妖精達は、料理が盛られた小皿や小鉢を抱えて持っている。サイドメニュー的なものなのだろう。おでん、ピザ、マグカップグラタン、麻婆豆腐、茶碗蒸し、串カツ、あとはコーンスープなど、統一性は無いものの、小皿や小鉢に盛られた其々の料理は見た目も綺麗で上品であり、どれも美味しそうだった。

 

 会場の艦娘達から、密度の高い歓声が沸いた。用意されていた大量の肉や野菜を食べつくした彼女達はエネルギーに溢れていながらも、まだまだ満腹の様子では無かった。戦艦や空母達は元より、食べ盛りの駆逐艦娘達にとっても、このままデザートを食べてしまうには物足りなかったに違いない。焼肉用食材を少な目に抑えた分、妖精達が調理する食材に予算を割いたのだろう。怪物の胃袋を持つ艦娘達は、喜んで妖精達の料理を迎えている。

 

 

 

 少女提督も驚いていた。

 

 一般的に妖精達というものは、鎮守府や泊地と言った軍事施設に備わっている“機能”の一種に過ぎない。建設、入渠、工廠での装備の開発や改修など、艦隊を維持する為に必要な部分をサポートする存在だった。そんな妖精達が、あれら全てを調理したものであるという驚きも勿論あったが、焼肉用の肉や野菜を用意しつつ、こんな手の込んだ料理まで準備していたとは。同じテーブルに居た鳳翔や間宮も眼を少しだけ見開き、会場の光景を見詰めている。あきつ丸は喉を低く鳴らすように笑っていた。すぐに会場の其処彼処から、「うわっ、コレ美味しー!」という歓声が上がり、空気が華やいだ。コック姿の妖精達が喜びを表すべく、可愛らしく踊ったり跳ねたりしている。

 

 先程、野獣が妖精達と何らかの短い遣り取りをしていたのを、少女提督は思い出した。あれは恐らく、妖精達が作った料理を艦娘達に大々的に、そしてサプライズ的に披露できるタイミングを計っていたのだろう。そして鈴谷が行う事になった命令内容を見て、そこに便乗したのだ。賑やかになる周囲を見回した鈴谷も、野獣に肩を竦めて見せていた。其処へ、コック姿をした妖精が現れた。手には皿を持っており、綺麗な三角形にカットされたソーセージピザが乗せれられていた。ただチーズの量が明らかに多い。

 

「おまたせ」

 

 爽やかな笑顔を野獣は、コック姿の妖精から皿を受け取ってから鈴谷に向き直る。

 

 

「よし、じゃあ鈴谷のおクチに、アツアツトロトロをぶち込んでやるぜ!(意味深)」

 

「ちょっと言い方ぁ!!!!(赤面)」

 

 怒ったような顔になった鈴谷は、数秒ほど視線を泳がせていたが、観念したように一つ息を吐いた。そして、やはり怒ったような顔のままで野獣を睨む。

 

「ふーふーくらいしても良いでしょ?」

 

「しょうがねぇなぁ~(悟空)」

 

 一体何がしょうがないのか全く分からないが、渋々と言った感じで答えた野獣は、近くのテーブルに置いてあったお手拭きで手を綺麗に拭いた。そして大人しく、鈴谷の前でピザを手に持って構えて見せる。鈴谷がそのピザに顔を近づけ、警戒しつつもふーふーと息を吹き欠けている光景は何ともシュールだ。野獣は「手が滑ったゾ(大嘘)」なんて言って、鈴谷に奇襲を仕掛ける事もなかった。

 

「あーん……」と、鈴谷は口を開けて、ピザに噛り付いた。チーズが伸びる。鈴谷はハフハフと熱そうにしながらも、唇と舌でチーズを器用に絡めとっていた。

 

「どうだぁ~、ウマいか鈴谷ぁ~?」

 

「はふっ、あつ、熱ッ……!」

 

 まだまだ熱の籠るチーズを口の中で咀嚼しつつ、ハフハフと息を吐いて答える鈴谷の顔は赤く、恨みがましい眼で野獣を見ていた。だが、野獣の隣に居る妖精に視線を移した時には、鈴谷はニコッと笑った。

 

「でも、うん……、凄く美味しい」

 

 鈴谷の飾り気のない感想に、野獣とコック姿の妖精が顔を見合わせて、「やったぜ」と、小さく拳を合わせた。

 

 

 妖精は屈託のない笑顔を浮かべ、喜びという感情を小さな拳に乗せて突き出している。それを拳で受け取る野獣もまた、子供みたいに笑っていた。そんな二人の様子を眺める視界の隅の方で、陸奥が少年提督にグラタンを「あ~ん」で食べさせて貰おうとしているのが見えた。ドサクサに紛れた陸奥の抜け駆けに気付いた他の戦艦や空母達は抗議の声を挙げつつも、「じゃあ私も……」と、長蛇の列を作ろうとして更に揉めている様子だった。そのうち、少女提督の方にも妖精達がやってきて、幾つかの小鉢や小皿をテーブルに並べてくれる。

 

「美味しそうだね、ありがとう」

 

 少女提督が妖精達に礼を述べると、はにかんだ様に笑う妖精達がペコリと頭を下げてくれた。間宮と鳳翔がおでんの小鉢を手に取った。少女提督もおでんの大根を貰う。少女提督は再び驚くことになった。よく味の沁み込んだ大根は奥深い味わいで、以前、鳳翔の店で食べたものに負けていない。同じように、妖精達が作ってくれたおでんに舌鼓を打つ鳳翔や間宮も、「これは……、ふふ、私達もうかうかしていられませんね」と、笑みを浮かべて合っている。口許を緩めているあきつ丸は何も言わず、綺麗な茶色に色づいた卵を口に放り込んでほくほくと美味しそうに咀嚼している。

 

 

 

 妖精達のサプライズも成功を見せる中、重巡艦娘達の間で、2回目のゲームが始まった。

 

 

 ジャンケンに負け残ったのは、「うぅぅ……」と、項垂れたプリンツ・オイゲン。

 

 彼女が引いた命令籤の内容は、

『“■番、✖番の艦娘”は“青色籤の提督”に、“おしりペンペン”せよ』。

 

 会場が静まり返る。艦娘達の視線が、ほぼ一斉に少年提督と野獣に注がれた。あきつ丸が「ほほーぅ」なんて、興味深そう呟くのは聞こえた。間宮と鳳翔が、「あらあら……」「まぁまぁ……」と、嬉し恥ずかしそうな声と表情で顔を見合わせている。少女提督は心の中で「あーぁ」と呟いた。見れば、ニヤニヤ笑いの野獣が腕を組み、赤色籤を手に持っている。青色籤を持っているのは、優しげな微苦笑を浮かべる少年提督だった。会場がどよめいた。

 

 ■番の籤を引いていたのは、右手を握り固めて天を突き上げる鹿島。

 ✖番の籤を引いていたのは、赤い顔で半ば放心状態になっている大井。

 会場に居る他の艦娘達が、この二人に羨ましそうな視線を注いでいる。

 

 

「えぇと、こんな感じで良いでしょうか……?」

 

 少し恥ずかしそうに言う少年提督が、お尻ペンペンをされるべく、机に手をついて腰を曲げた。会場の其処彼処から、唾を飲み込む音(迫真)が聞こえた。そっぽを向いている大井は、モジモジして動かない。その間に、鹿島が少年提督に歩み寄り、大きく息を吸い込んで、その豊かな胸を強調するように背筋を伸ばした。

 

「提督さん。私、思うんです」

 

 少年提督のお尻を見詰めながら、鹿島が唇の端をペロッと舐めるのを少女提督は見逃さなかった。

 

「お尻ペンペンって、お仕置きじゃないですか? つまり提督さんは、お仕置きをされるような“何か悪いことをした”っていう、シュチュエーションや設定が必要だと思うんです」

 

 鹿島は難しい事を言い出した。何を言っているんだコイツは、みたいな空気が流れ始める。だが、少年提督が机に手をついていた姿勢を解いて、思案げな顔になって顎に触れていた。彼は真面目な顔で、「そう言われてみれば、確かに……」なんて呟いている。大井が「えぇ……(困惑)」という表情を浮かべていた。普段は沈着で聡明な彼なのだが、急に阿呆になる時があるので、悪い人に騙されないか少女提督は心配になった。

 

「そういうドラマが在っても良いですねぇ!(ロマン派)」

 

 また余計な事を考え付いたのだろう野獣が笑顔を浮かべ、鹿島の言葉にワザとらしく頷いてから、「じゃあこれ(ボイスアプリ)」と、携帯端末を取り出した。野獣が手早く携帯端末を操作すると、『鹿島さん。最近になって、体重増加、感じるんでしたよね?』という、少年提督の澄んだ声が流れた。辛そうな顔になった鹿島が、「スゥゥゥゥ……」と細く息を吐き出しながら、顔の上半分を右手で覆う。その様子からして、鹿島が自身の体重を気にしているのは事実なのだろうことが伺えた。会場に居る他の艦娘達の中にも、似たような仕種を取った者が何人か居た。

 

「あ、あの、そういう、割と心にクるようなボイスはちょっと……。もっとこう、ゲームを進めるにあたって、プレイヤーのテンションを作るようなのをですね……。例えば、その、例えばですよ? 提督さんが、私の部屋から下着をこっそり持ち出していたとか……、そういうトキメキのある味わい深いシュチュエーションをですね……」

 

 鹿島が切実に言葉を紡ぐ途中で、再び野獣の携帯端末から『鹿島さん。最近、お腹がぷよぷよしてきてるの、感じるんでしたよね?』という、少年提督のボイスが再生された。その言葉が少年提督本人のものでは無くても、優しく温みのあるその音声には、威力とでも言うべき無慈悲な何かがあった。

 

『ほわあぁ^~、利くぅ^~……(悲哀まみれ)』

 

 ふにゃふにゃ声になった鹿島が、泣きそうな顔を両手で抑えてしゃがみ込んだ。同じく、会場に居る艦娘達の何人かもしゃがみ込んでいた。

 

「ちょっと。鹿島が立ち直れなくなったらどうするんですか?」

 

 野獣を責める様に睨んだのは大井だ。

 

「あ、あの、僕はそんな事はちっとも思っていませんから、気にしないで下さい」

 

 少年提督は慌てたように言いながら、鹿島の傍に駆け寄る。

 

「ほんとですかぁ……?(震え声)」と、鹿島が少年提督を見上げる。

 

「えぇ。もちろんです。健康的で、健全な活力に満ちた身体をしていると思います」 

 

 鹿島の体が持つセクシーな魅力を無視するのではなく、気付かずに素通りするような彼の言葉は飽くまで清廉で、何処までも嘘が無い。少年提督を見上げていた鹿島が、小さく息を吐き、「そ、そうですよね。提督さんなら、そう言って下さいますよね」と、ほっとしたような、ほんの少しだけ残念そうな苦笑を浮かべて立ち上がる。

 

 

 結局、この“おしりペンペン”については、『少年提督が何か悪い事をした』という余計なシュチュエーションなどは考慮せずに行われることとなった。先程と同じように、テーブルに手をついて、お尻を差し出すような恰好を取っている少年提督のすぐ傍で、鹿島が深呼吸を繰り返している。そんな鹿島の隣では、気まずそうな赤い顔をした大井が、「何をそんなに気合い入れてるのよ」と、掠れた声で鹿島にツッコんだ。

 

「そ、それも、そうですね。ゲームですし、こう、もっと楽しく、リラックスして……」

 

 大井に頷いた鹿島は、少年提督のお尻を凝視しながら、自分に言い聞かすように呟いた。少年提督は苦笑とも困惑ともつかない表情を浮かべていた。会場の艦娘達からは、『はやくしなさいよ!』『羨ましい!』『私と代わってくれ!』『提督の下は脱がせた方がいいんじゃないか?』『おっ、そうだな!(悪ノリ)』という、ヤジにも似た声が飛んでいる。会場に籠る熱気が、さらに密度をましていく。ニヤニヤと笑う野獣は黙ったままで、携帯端末のカメラを起動させ、今の会場の様子を撮影していた。あとで艦娘達を弄るネタにでもするんだろうか。

 

「スゥゥゥ……、それじゃ、行きますよぉ? スゥゥゥ……、いいですかぁ?(ねっとり)」

 

 鹿島は、ふー、ふー、と荒い息を漏らしつつも、精神統一を試みるように瞑目している。

 

「えぇ、お願いします」

 

 お尻を差し出す姿勢の少年提督は、困ったような笑顔で振り向き、鹿島に頷いた。彼の可愛らしくも健気な笑顔は、鹿島の心にどういった作用を齎したのかは定かでは無い。だが、向けられた鹿島には、やはり強烈な効果があったのだろう。

 

 “カッッッッッッッッ!!!!!”と目を鋭く見開いた鹿島は、凄まじい勢いで手を振り上げた。会場に居る全員が、息を止めるのが分かった。「きゃぁ」と、少女提督の傍に座っている鳳翔が、可愛らしい悲鳴を上げていた。間宮もハラハラとした様子で、その光景を見守っている。あきつ丸は忍び笑いを漏らしていて、少女提督は逆に冷静になってきた。

 

 一瞬の、しかし、完全な静寂。鹿島は手首のスナップを利かせ、少年提督のお尻を激しく叩く。と見せかけて、鋭く振り下ろされた鹿島の手は、少年提督のお尻に届く寸前でピタリと止まった。最終的に、お尻をペンペンする為に振り下ろされた鹿島の掌は、少年提督のお尻に、そっ……と添えられただけだった。再び、奇妙な静寂が訪れる。

 

「……えっ?」

 

 少年提督が素の反応を返す。

 

「ありがとうございました……」

 

 鹿島は満たされた表情で、深く、ゆっくりと少年提督に頭を下げた。

 

「えぇ……、貴女、お尻に触れただけじゃない? ペンペンしてなくない?」

 

 急に大人しくなった鹿島に、大井はおずおずと言った感じで声を掛ける。凍り付いた時間の中、頭を上げた鹿島は、凪いだ表情で大井を見た。

 

「いえ、何て言うかもう……、色々と救われたので」

 

 彼女は一体、少年提督のお尻を叩こうとした瞬間に何を垣間見たのだろうか。鹿島の声音や眼差しは、穏やかさを通り越して何処か虚ろだった。さっきまで籠っていた熱量とでも言うべき何かを放出してしまった様子だった。大井は、そんな鹿島を心配そうに見てから、取り合えずといった感じで、「そ、そう……」と、頷きを返していた。そしてすぐに大井は、今度は自分が、少年提督のお尻をペンペンする番になっている事に気付いたようだった。

 

 大井は激しく赤面しつつ咳払いをして、視線を彼方此方に飛ばしまくりながら少年提督の傍に歩み寄る。少年提督は困ったように微笑んでいで、ゲームのルールと役目を全うすべく、律儀にお尻を差し出す姿勢のままだった。

 

「あ、あの……」

 

 自身の緊張や顔の赤さを誤魔化す為か。大井は少年提督に声を掛けたが、その声は震えていた。

 

「なんと言いますか、も、申し訳ありません。こんな事になって……」

 

「いえいえ、謝って貰うような事はありませんよ。ゲームですから」

 

「は、はい。で、では……」

 

 耳まで赤い大井は、出来るだけ少年提督の方を見ないようにしつつ、震える両手をそっと近づけていく。会場から『大井っちー、頑張れー!』と、間延びしながらも芯のある声が聞こえた。北上だった。それに続いて、『せっかくのチャンスだクマ!』『躊躇う事は無いニャ! 揉みくちゃにしてやるニャ!』『ベストを尽くせば結果は出せる!!』と、球磨、多摩、木曾の3人が、大井にエールを送った。他の艦娘達からも、『構うことは無ぇ、やっちまえ!』『出来たら私と変わってくれ!』『ンンンンンン^~~(酔っ払いの奇声)』『早く脱がせろー!』などと怒号も飛び出した。もう無茶苦茶だ。

 

 大井は視線だけで、煩そうに会場を見回してから、邪念を払うように緩く首を振った。そして、精神を統一するように瞑目し、息を吐き出す。大井の動きは素早くも無く、また緩慢でも無かったが、不自然だった。手を動かすというよりも、腕を動かした結果、掌が少年提督のお尻に触れたような、そんな印象を受ける動作だ。冷静な大井は、少年提督のお尻を、両手でポフポフと軽く叩くだけにとどまった。携帯端末で会場を撮影していた野獣が「Foooo~~↑」と声を上げる。

 

「何だよ大井っち、嬉しそうじゃねぇかよ!」

 

 面白がる野獣を、少年提督から離れつつ大井がねめつける。

 

「……『大井っち』って呼ばないで下さいって、前も言いましたよね」

 

「えぇ~? 俺と大井っちの仲じゃん?(不倶戴天)」

 

「は?(殺意)」

 

 大井は一瞬だけ艤装を召還したが、「お疲れ様です」と、ゲームを終えた少年提督に微笑み掛けられて、慌てて抜錨状態を解いていた。

 

『もー大井っちってば、なーに遠慮してんのさー!』

『そうだクマ! もっとこうぎゅー!って、ぎゅー!!ってやれクマ!!』

『いっその事、もう大井が脱ぐニャ! 先手必勝ニャ!!』

『まだロスタイム(?)だ!! 諦めたら其処で終わりだぞ姉貴!!』

 

 球磨型姉妹が、大井へと更なるエールを送る。「脱ぐワケ無いでしょ!!」と、大井が姉妹立へと怒鳴り返すと、会場の艦娘達からも笑いが起きた。その様子を見て、野獣も肩を揺すって唇を歪めていた。少年提督も楽しそうだ。

 

 

 

 

 

 

 少女提督も、いつの間にか笑っていた。それは楽しいという感情から来る笑顔では無く、嬉しいという感情による笑顔だった。北上や大井達が、いや自身が召還した艦娘達が、この鎮守府に馴染み、居場所と仲間を得て、活き活きと感情を発露している事を、改めて嬉しく思ったのだ。艦娘達が其々に違った想いや価値観を抱えながらも、皆がこの光景を願っていることを再確認できた気がした。

 

「帰ってくる場所が在るというのは、有り難いことでありますな」

 

 あきつ丸が眩しそうに目を細め、独り言のように言うのが聞こえた。あきつ丸は脚を組んで、肘をテーブルについて座っている。鳳翔や間宮に背中を向ける姿勢だ。鳳翔達は話をしながら会場を見ている。あきつ丸の呟きは、少女提督にしか聞こえていないようだった。

 

「そうね。……何処でも良いって訳じゃないわよね」

 

 会場の喧噪を見詰める少女提督も、あきつ丸にしか聞こえない程度の声で呟いた。あきつ丸の視線を感じたが、特に反応せずに茶を啜る。この会場に居る艦娘達が身に纏う、華やかで、乱暴で、遠慮の無い熱気が、あきつ丸と少女提督の間にある沈黙を埋めていく。二人の間には冷静や沈着さは混在していても、陰湿さも険悪さは無かった。艦娘達の邪気の無い楽しそうな声が、純粋さを保ったままで実在的に木霊している。そのうち、ゲームを行う艦娘達のグループが変わって、ジャンケンが始まった。次は駆逐艦娘達の番か。

 

 

 

 

 

「駆逐艦は人数が多いからさ、ゲームの回数を増やしてよ」

 

 野獣にそう言ったのは、白熱の『あいこでしょ!!』連打の末に負け残り、しょんぼり顔になっている皐月だ。皐月の言葉に、他の駆逐艦娘達も野獣へと視線を注ぐ。確かに、他の艦種の艦娘達に比べ、駆逐艦娘達の数は多い。その分、大本営役になる確率は低くなるが、命令籤で指定された番号を引ける確立も低くなる。その分、回数を多くして欲しいという事だろう。

 

「(言われてみれば)そうですねぇ~……(思案顔先輩)。此処はやっぱり王道を行く、皐月の意見を採用ですか(応変)」

 

 この決定に異議を唱える者は、他の艦種にも居なかった。まぁ、仕方ないなという空気が流れ、籤の数の調整に入ろうとした時だ。

 

「コレ、人数が多すぎて籤が足りないんじゃないの?」

 

 腕を組んだ曙は言いながら、テーブルの上に置かれている艦娘用の籤箱を睨んでいる。

 

「手は打ってあるからホラ、見ろよ見ろよ!(周到)」

 

 野獣が顎をしゃくって見せたその先を覗いてみると、少年提督が何かを運んでくるところだった。微笑みを浮かべている少年提督は、左右の脇に抱えるようにして2つの籤箱を抱えていた。一方の籤箱には『駆逐艦娘用・番号籤』の文字が、そしてもう一方には、『駆逐艦娘用・命令籤』の文字が記されていた。

 

「人数分の番号籤と、それに対応してある命令籤を用意してあるので、此方を使って下さい」

 

 持って来た籤箱2つを傍にあったテーブルへと置いた少年提督は、駆逐艦娘達を順番に見てから微笑みを深めて見せた。相変わらず、子供っぽく無くて、異様に落ち着き払った笑みだった。ゲームが始まる。駆逐艦娘達は、傍にいた仲間達と顔を見合わせてから、順に籤を引いていく。

 

 

 此処で、ちょっとしたアクシデントが起きる。このゲームで使っている命令籤は、命令の内容を紙に書いてそれを細く畳んだものだ。その為、折ればそれだけ癖がつく。皐月が籤箱から命令籤を引いた時、その手に摘まんでいた命令籤に、別の籤が引っ掛かったままで出て来て、命令籤の外へと零れ落ちたのだ。

 

 野獣は、命令籤は2枚とも有効になるというジャッジを下した。前の大本営ゲームの時も翔鶴が大本営役として籤を引いた時も、誤って2枚の籤を取り出してしまったらしいが、その時も2枚とも有効にしたので、今回もそれに倣うという事だった。

 

野獣が青色籤を引いて、少年提督が赤色籤を引いていた。

 

 

 命令籤は

 

『“青色籤の提督”は、“▲番の艦娘”におしりペンペンせよ!』

『“●番の艦娘”は“赤色籤の提督”に、何でも(常識の範囲内で)お願いせよ!』

 

 

 ▲番の籤を引いていたのは朝風だ。途轍もなく不機嫌そうに眉間に皺を寄せまくり、「はぁぁぁぁぁ~……!!」と、途轍もなく攻撃的な溜息を吐き出している。傍にいる神風と春風が焦ったような笑顔で、松風と旗風が怯えたような笑顔で、そんな朝風を宥めようとしていた。一方で、再び引かれた当たり籤、『お願いせよ!』に対応する●番号を引いていたのは、「しれぇ! 雪風が引きました!」と、少女提督の方を向いて、大きな声で報告をしてくれる無邪気な雪風だ。

 

 天国と地獄と言う言葉が脳裏に浮かんだのは、少女提督だけでは無いのだろう。会場に居る他の艦娘達も、気まずそうな顔をして不自然に黙り込んでいた。野獣は、突き抜けるような青空を思わせる笑顔を浮かべて、噴火寸前の朝風に歩み寄った。

 

「はい、じゃあケツ出せぇ!!(果敢)」

 

 こういう時、空気を読まないと言うか空気を破壊すると言うか、自分の振る舞いを一切変えようとしない野獣が頼もしく見える。睨むようにして顔を上げた朝風が舌打ちをして、「パスで(即答)」と低過ぎる声で答えた。野獣はそれを気にした風でも無く、朝風が予想通りの反応を返したことを笑うように、嫌味無く肩を揺らしていた。

 

「じゃあアレ(ペナルティ籤)」

 

 腰に手を当てて首を傾けた野獣は、唇の端を歪めながら近くのテーブルに置かれているペナルティ箱を一瞥した。不味そうに顔を顰めた朝風が、神風たち姉妹、そして他の艦娘達が見守る中、ペナルティ籤へと近づいていく。

 

 僅かな緊張が会場に走る。一つ深呼吸をしてから、朝風はゆっくりと籤を引いた。ペナルティ籤の内容は、『“青色籤の提督”によるデコピン』だった。つまり、野獣のデコピンだ。会場の彼方此方で、「うわぁ……」とか「あーぁ……」という声が漏れるのが聞こえた。項垂れた朝風が呻いて、野獣が喉を鳴らして低く笑った。

 

 

「はい、じゃあケツ出せぇ!!(エコー)」

 

「なんでよ!? デコピンでしょ!?」

 

「あっ、そっかぁ……、はい、じゃあデコ出せぇ!!(喊声)」

 

「うるさいわね……。出せばいいんでしょ、出せば」

 

 しかめっ面の朝風は、グイッと掌で前髪をかきあげた。

 

「うぉっ眩し!! うぉっ眩しっ!!」

 

 野獣が手で顔を隠し、ワザとらしく怯んで見せた。朝風がまた舌打ちをした。恐ろしい形相になった朝風の顔をまじまじと見つめた野獣は、優しく微笑んだ。

 

「お前のおデコがあんまりピカピカしてるから、お日様が昇って朝が来たのかと思ったゾ♪(小粋なジョーク)」

 

 朝風は、「ふっ」と鋭く息を吐いて、速度も威力も申し分無い前蹴りを野獣の腹目掛けて繰り出した。ブォンと風を切る、豪快な音がした。「あっぶぇ!!(回避)」と、野獣は尻を突き出すような態勢で身を引いてこれを避ける。

 

「あ、お前さ、朝風さ、今、俺のこと蹴ろうとしたよな?(事実確認)」

 

「違うわ。足が滑ったのよ(大嘘)」 

 

「お前のおデコがあんまりピカピカしてるから、お日様が昇って朝が来たのかと思ったゾ♪(小粋な連撃)」

 

「クッソ下らないこと2回も言わなくて良いから。って言うか、私のおデコ、そんな言う程ピカピカなんかしてないから! そもそも光なんて放ってないから!」

 

「じゃあテカテカしてんのかよ、魔法反射装甲みたいによ?(真実への一歩)」

 

「テカってないわよ! 何よ反射装甲って!」

 

「前に松風が言ってたゾ(小粋な飛び火)」

 

 人殺しの顔になった朝風が、松風の方をゆっくりと見た。神風や春風、旗風も、難しい顔で松風を見ていた。「言ってない言ってない!!」と、大慌ての様子の松風は、自身に集まる視線を払うように、両手と首を横に激しく振って否定した。

 

「おいちょっと! 洒落にならない巻き込み方は止めて貰えないか!?」

 

 松風は抗議の声を上げて野獣を睨んだ。「ごめんごめん(謝る気無し)」野獣はひらひらと手を振った。周囲を振り回すこういった無茶苦茶な野獣の態度も、このゲームの一部になりつつあった。会場の艦娘達も白けるのではなく、「またやってるよ」みたいな、悪友の悪癖を笑うような表情を浮かべている。

 

「さて、そろそろデコピンしますか~?(執行者先輩)」

 

 コキコキと首を鳴らした野獣は、改めて朝風の前に立った。今度は、朝風が僅かに怯みかけていた。だが、すぐに朝風は挑むような眼つきになって掌で髪をかきあげて、躊躇うことなくおデコを曝した。勇敢な駆逐艦らしい好戦的なその態度に、会場が沸いた。

 

「おっ、良いねぇ~(称賛)。何処かの“ふふ怖”とは違って、なかなかいい感じじゃん?」

 

 会場に居る巡洋艦娘達のグループの方から、「誰がふふ怖だとテメェ」と言う怒声が上がったが、野獣はそんなものは意に介さない。左手の中指を親指で撓らせ、デコピンをする手の形を作った野獣は、銃の試し撃ちをするみたいに、バチンバチンと何度か指を弾いて見せた。やばい音が会場に響く。かなり痛そうだし、ヤバい感じの音だ。

 

 更に、「よーし、エンジン全開!(情け無用)」と笑う野獣の遠慮の無さが、余計に恐怖を際立たせていた。少年提督が「治癒施術の準備も万端ですので、安心してください」と言った段階で、会場の緊迫感が激増した。周囲の艦娘達が、「やべぇよ……やべぇよ……」と、僅かに身を引くのが分かった。しかし朝風は気丈にも、黙ったままでグッと野獣を睨んでいる。

 

 

「カウントダウンは俺がしてやるからさ!(優しさ)」

 

 場違いな柔らかな声音で言う野獣は、デコピンの形にした左手を朝風のおデコの前で構えた。朝風は何かを言おうとして、やめた。「気を付けろ! カウントの途中で打って来るぞ!!(経験者並みのアドバイス)」と、巡洋艦娘達のグループから声がした。あの声は多分、天龍だ。そんなものはお構いなしに、野獣はカウントを始める。

 

「はい、じゃあ10秒前!!(迫真)」

 

 おデコを曝したままの朝風が、ぎゅっと目を瞑った。

 

「5 !!!(奇襲)」

 

「ちょっ、待ちなさいよ!! 10秒前じゃないの!?」

 

 朝風が閉じていた眼を開けて、驚愕の声を上げる。

 

「4 !!!(無慈悲)」

 

 ニヤニヤ笑いの野獣は、お構いなしにカウントを取る。朝風は焦ったように視線を上や横や下に走らせたが、すぐにまた、ぎゅぎゅぎゅ~と目を瞑って、同じくぎゅぎゅぎゅ~っと、唇も噛んだ。

 

「1 !!!(タイムワープ)」

 

 まともにカウントを取る気など、最初から無かったのだろう。10秒を大幅に短縮し、その瞬間が訪れる。パシャリ。軽い電子音が響いた。野獣のデコピンは止まったまま。

 

「うぇ……?」

 

 長い睫毛を震わせた朝風が、恐る恐るといった感じで開いた。その朝風の前で、携帯端末のカメラを構えた少年提督が立っている。多分だが、朝風の視界には、優しく微笑んでいる少年提督と、その視界の隅の方で、してやったりと笑う野獣の姿が映っていることだろう。眼尻に少しの涙をためていた朝風は、ポカンとした表情で少年提督と野獣、それから、周りで忍び笑いを漏らしている他の艦娘達を視線だけで見てから、顔を真っ赤にした。

 

「ちょ、し、司令官……、な、なにやって……」

 

 状況を飲み込めたのだろう。朝風の声が震える声に答えたのは、ニヤニヤ笑いを浮かべた野獣だ。

 

「Foo~~↑! ビビり顔のお前も中々、可愛いおデコしてんじゃないの~?(いじめっ子)」

 

 完全に面白がっている様子の野獣の手にも携帯端末が握られ、そのディスプレイには、おデコを曝し、ぎゅっと目を瞑って唇を噛んでいる朝風のドアップが映し出されていた。少年提督の携帯端末の画面も同じく、朝風のビビり顔が映っている。

 

「動画も取れたし、鎮守府のT●itterにも上げときましょうね~?(追撃戦)」

 

「やめなさいよぉ!!(半泣き) って言うかぁ!! 司令官も止めてよぉ!!」 

 

 朝風が叫んだのと同時に、少年提督の携帯端末から軽い電子音がした。野獣が、「ホラ、お前も見ろよ見ろよ!(残響)」と笑う。

 

「あっ、僕にも朝風さんの動画が届きました」

 

 まるで、親しい友人から季節の贈り物が届いたような穏やかな表情で、少年提督が携帯端末を操作し始めた。

 

「司令官のバカバカ! 見るな見るなぁ~!! もぉ~~ッ!!」

 

 赤い顔のままで半泣きになっている朝風が、少年提督の肩の辺りをポカポカと叩いている。どんな惨事になるかと思っていたが、結局は微笑ましい景色が出来上がっただけで、滞りなくゲームは進んでいく。

 

 

 

「えぇと……、さっきから考えていたんですけど、お願いごとって難しいです」

 

 命令籤に記されていた、“少年提督に何らかの「お願い」をする”、という内容を実践しようとする雪風は、うんうんと唸るようにして頭を捻っていた。

 

 少年提督は、そんな雪風の前に静かに佇んで、微笑みを浮かべて答えを待っている。その少年提督の傍で携帯端末を操作している野獣も、「別に深く考える必要は無いゾ(アドヴァイス)」と、すぐに答えが浮かんで来ない様子の雪風に声を掛けていた。

 

 

 会場には高揚した空気が籠っているが、時間の流れは穏やかで温かく、雪風を急かさそうとする者は誰も居なかった。先ほど妖精達が用意してくれた料理の全てを既に平らげていた会場の艦娘達は、「ゆっくりで良いよ~」と、デザートを食べながら雪風の答えを暢気に待っている。それは、同じくデザートの間宮アイスを食べている少女提督も同じだった。少女提督が腰かけた席では、鳳翔と間宮もアイスをスプーンで掬っている。あきつ丸はスプーンを噛みながら、雪風の答えを興味深そうな顔で待っていた。

 

 

 

「雪風殿は、一体何をお願いするのでありましょうね?」

 

 あきつ丸がスプーンを噛みながら、少女提督を横目で見て来る。少女提督は視線を返しつつ、「さぁ」と言うように肩を竦めた。純粋な雪風が少年提督に何をお願いするのかは、間宮や鳳翔も気になるようだ。二人が雪風に視線を流している。

 

「あっ、思いつきました! 司令官!」

 

 腕を組んで唸っていた雪風が、ぱっと顔を上げて少年提督を真っ直ぐに見詰めた。雪風は、少女提督のことを『しれぇ』と呼び、少年提督のことを『司令官』、野獣のことを『野獣司令』と呼ぶようになった。余りにも邪気の無い笑顔を浮かべる雪風に怯んだのか、少年提督が僅かに身を引いている。野獣や、会場の艦娘達の視線を集める雪風は、勢いよく頭を下げた。

 

「これからも、しれぇや私達と、仲良くしてください!」

 

 一切の打算が無く、余りにも無防備とも言える雪風の言葉は、熱気を孕む会場に静寂を呼んだ。少女提督は、自分の心臓が痛くなるのを感じた。皆、きょとんとした顔で雪風を見詰めている。少年提督が何度か瞬きをしてから、一瞬だけ苦しそうな表情を浮かべ掛けて、それを隠すように微笑みを深め、ゆっくりと頷いた。

 

「えぇ。もちろんです。僕の方こそ、よろしくお願いします」

 

 少年提督は、一言一言を噛み締めるように言葉を紡ぎ、雪風に左手を差し出し、握手を求めた。子供のように笑った雪風は、少年提督の手を両手で握り返す。少年提督も、ゴツイ手袋をした右手を、両手で握手を返してくれた雪風の、その左手の甲へと、そっと重ねていた。

 

「私達もよろしくね! 提督!」と、会場に居る艦娘の誰かが言った。それに続いて、また違う誰かが「よろしくお願いします! 司令官!」と続いた。次に、また別の、更にまた別の艦娘達の言葉が続いて、彼女達の声が余韻となって連なっていく。途中で、「ひょろしくね!」と、野獣が裏声で続いて、「だからさー! やめてって言ってんじゃん!!」と、鈴谷が情けない声で抗議したところで、艦娘達の間に純粋な笑いが起こっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 笑い合う艦娘達を少し離れた所から眺めていた少女提督は、ただ黙っていた。鳳翔と間宮が、艦娘達に暖かな眼差しを向けていた。雪風が此方を見て、やはり子供のように笑って手を振って来る。少女提督は、自分の胸の辺りで小さく手を振り返す。細い息が漏れた。

 

 

 少女提督は、少年提督や野獣と同じく、“元帥”の称号を持ってこそいる。だが、それは少女提督の戦果に応じて与えられたものではなかった。少女提督は研究・技術分野で評価された人間であり、数ある“提督”達の中でも特殊な来歴だ。それが原因で、どの鎮守府や泊地、基地に居ても疎外感を感じていた。

 

 

 戦艦を召還することも出来ない、脆弱な“元帥”。

 

 

 少女提督は、自身に対するそういった悪評については気にしなかった。だが、自身が召還し、敬意を払っている優秀な艦娘達にまで、自身の悪評がついて回ることに関しては本当に申し訳なく思っていた。ただ、この鎮守府で過ごしていると、矮小な自分自身に対する落胆を忘れる事が出来ていた。疎外感や自己嫌悪も忘れていた。それはきっと、誰をも隔てようとしないこの景色と、そして、この景色を願う艦娘達の御陰である事は間違いない。

 

 

「雪風殿は、いい娘でありますな」

 

 隣に腰掛けているあきつ丸が、首を傾けながら言う。

 

「えぇ、ほんとにね。私には勿体ないくらい」

 

 少女提督は、迷うことなく頷いた。

 

「……貴女に、お願いしたい事が在るのであります」

 

 会場を見詰めたままのあきつ丸が再び、少女提督にだけ聞こえる程度に声を潜める。少女提督は、あきつ丸の横顔を見遣る。

 

「なに、急に。お願いごとって、 あの大本営ゲームの真似事?」

 

「似たようなものであります」

 

 そう言ったあきつ丸の声は、何処か改まった、低い声音だ。普段のお茶らけている風では無い。意地悪そうに間延びした声に、急に芯が入ったような強度を感じさせた。そして、自分たちのことを誰も注目していない事を確かめる為か、数秒ほど黙った。少女提督も何食わぬ顔をして茶を啜り、華やぐ会場を見詰める。少女提督とあきつ丸には、誰の視線も流れて来ていないのはすぐに分かった。

 

「提督殿の事を、見守ってやって欲しいのであります」

 

 あきつ丸の声は平たかった。

 

「雪風が言うように、仲良くしろって事?」

 

「まぁ、そういう意味でもありますが……」

 

 少女提督は、横目であきつ丸を見る。その表情は真剣だった。会場ではゲームが進んでいる。駆逐艦娘達がジャンケンをしていて、「あいこでしょ!の声が響いてきている。

 

「提督殿に“待った”を掛けて欲しい、と言うべきでしょうかな」

 

 其処まで言ってから、あきつ丸は薄く笑う。どこか不吉な笑みだ。あきつ丸の持つ意地悪そうな美貌に、良く似合っていた。少女提督は僅かに目を窄めて、会場に居る少年提督を一瞥した。少年提督は、艦娘達に囲まれつつ、野獣と共に籤を引いていた。

 

「……そういうストッパー役は、野獣に頼むもんじゃないの?」

 

「確かに、野獣殿は頼もしいのですがね。提督殿を止める事はしないでしょう」

 

「どういう意味?」

 

「あのお二人は、二人だけの頑丈な世界観を持っているのでありますよ。……あぁ、一応言っておきますが、別にそういった意味ではありませんよ?」

 

「分かってるわよ」

 

 少女提督は鼻を鳴らして、あきつ丸を半目で見た。あきつ丸の言葉の持つ意味は、だいたい理解出来る。要するにあの二人は、自分達の持つ理想とかビジョンとか、其処に至るまでの過程などを予見しつつ、それに対するコストやリスクも把握し、了承しているという事なのだろう。あきつ丸は薄く笑ったままで、息を静かに吸い込んだ。

 

「向いている方向も一緒で、払う事になる犠牲についても互いが納得している状態とでも言えばいいのでありますかね?」

 

 あきつ丸の声音が普段通りのものになって、愛すべき悪友の馬鹿さ加減を笑って諦めるような響きを宿した。不意に、先程の加賀の表情が脳裏に浮かんだ。温度差こそあるだろうが、あきつ丸と加賀の二人が、野獣に対して抱いている諦観は同質のもののように感じた。それに、少女提督の知っている少年提督と野獣は、あきつ丸の言葉に含まれるイメージに大きくズレていない。自然と少女提督も唇を歪めていた。

 

「お互い、ストップを掛ける立場に無いワケか。……まぁ、傍から見ててもそんな感じよね」

 

「えぇ。それに、何方かが欠ければ、もう片方も消えてしまうような危うさもあります」

 

 それは少女提督も思っていたことだ。光と影というか、表と裏というか。少年提督か野獣の、その片方しか居ないこの鎮守府の光景を想像するのは難しかった。少年提督は、この騒ぎが片付いたあとに深海棲艦達に会いに行く予定らしいし、野獣もそれに付き添うという話も聞いている。彼らが自分自身に課しているものの大きさは窺い知ることは出来ないが、その志が邪悪なものでないことは分かる。

 

 

「じゃあ尚更、やっぱりそういう事を頼むのなら私じゃなくて、不知火とか時雨に頼んだ方が良いんじゃない?」

 

 この鎮守府の艦娘達は皆、人格と自我を持った百戦錬磨の兵ぞろいだが、そんな中でも“不知火”と“時雨”は、他の鎮守府にいる同型の駆逐艦娘達とは一線を画す存在だ。激戦期を戦い、生き残った猛者である。彼女達二人は其々、少年提督と野獣の初期艦だった筈だ。彼らの事を理解しているという点において見れば、ストッパーとしては少女提督などよりも遥かに適任に思えた。だが、あきつ丸は違うらしい。

 

「自分は、貴女にしか頼めない事だと思っております」

 

「えぇ……、何でよ?」

 

「それは勿論」

 

 ニヒルなのに、どこか優しく眼を細めた彼女は、急に椅子を此方に大きく寄せて来て、肩を組んできた。いや、肩を組むと言うよりは抱き寄せられたような感じだった。めちゃくちゃ驚いて、すぐに反応出来なかった。身長差の所為で、少女提督の頬の下あたりに、あきつ丸の豊かな胸が当たっている。何か言ってやろうと思ったが、それよりも先に、あきつ丸が少女提督の側頭部に頬を寄せた。潜めた声を、更に細く隠すように。

 

「この景色の中に、貴女しか“人間”が居ないからでありますよ」

 

 その言葉に、どんな感情が溶け込んでいるのかは分からなかった。

 

 この姿勢では、あきつ丸の表情も見えない。ただ、少女提督にしか聞こえない大きさのその声は、少女提督を不思議と落ち着かせた。視界には、会場で楽しそうに騒いでいる艦娘達と、その中心あたりに居る少年提督と野獣が映っていた。

 

「純粋な人間っていう意味でなら、まぁ、そうかもね」

 

 少女提督は、あの二人が『人間』という種族のカテゴリーから外れている事は理解している。それに、あきつ丸の言葉にも、この景色の中から、誰かを切り取ってしまおうとする意図が無かったから、少女提督は感情を差し挟まず、事実を事実として頷くことが出来た。自分は今、どんな表情をしているのだろう。温度や形の定まらない想いを、何とか言葉にしようとして、あきつ丸と少女提督は黙って会場を眺めた。艦娘達のゲームは騒がしく進んでいる。

 

 

「ふふふ。お二人は仲良しなんですねぇ」

 

 同じテーブルに着いていた鳳翔と間宮が、肩を組んだ少女提督とあきつ丸を見て微笑んでいた。あきつ丸は酔っ払いみたいに笑って、鳳翔達に振り返りながら、少女提督の頭をグリグリと撫でて来た。

 

「自分たちは、マブダチという奴でありますな?」

 

「いや、違うと思うんだけど」

 

 頭を撫でて来るあきつ丸の手を嫌がるように、少女提督が渋い顔で否定する。あきつ丸は「おや、そうでありますか?」なんて、すっとぼけたような表情を浮かべて見せた。その意図的な剽軽さの中にある奇妙な愛嬌は、さっきまで少女提督と話をしていた時の、あきつ丸の不吉さを器用に覆い隠しながら、鳳翔と間宮を楽しませていた。

 

 会場で歓声が上がる。命令籤の内容だったのだろう。優しい笑顔を浮かべている少年提督が、椅子に座った霞の足裏を擽っていた。霞は裸足だ。体をビクビクと跳ねさせながら目に涙をため、声が漏れないように口を両手で押さえている。そんな必死な霞の様子を、「おっ、いいねぇ^~(よくない)」と、野獣が携帯端末で動画撮影を始めていた。酷い状況だが、鳳翔と間宮の視線も、盛り上がる会場に向いた。あきつ丸はそれを確認してから、少女提督と組んでいた肩を解いて、機嫌が良さそうに椅子に座り直した。

 

「我々艦娘では、この景色を何処かに持っていく事も、あのお二人を止める事もままなりません」

 

 あきつ丸の声は、やはり少女提督にしか聞こえない大きさだった。少女提督は口の中を噛んだ。

 

 視界の中にある風景が、裸のままで組みあげたジグソーパズルのように見えて来た。艦娘達一人一人が、そのピースだ。ただ、そのピースは完全には嵌っていない。隙間が在ったり、重なったり、波打ったりしている。不完全でガタガタだ。この全体像を“社会”と言う手で掬いあげようとすれば、バラバラに崩れてしまいそうな脆弱さを孕んでいる。だが、その歪んだ部分を笑って見過ごせる余裕や信頼、或いは愛情が、この会場の喧噪には在った。

 

 野獣に卵焼きを食べて貰えることに対して、嬉しそうに表情を綻ばせていた瑞鳳を思い出す。少女提督は、瑞鳳の感情を否定しない。裏を返せば、艦娘達が抱くことになる負の感情をも肯定しているという事に他ならない。『貴方が、この冗談で驚いてくれる人間で良かったでありますよ』という先程のあきつ丸の言葉が、会場に響く艦娘達の楽しそうな声と混じり合いながら、耳の中で甦る。

 

 

 この会場の喧噪が、決してただのバカ騒ぎでは無いことは、少女提督だって知っていた。

 

 

 艦娘達は、深海棲艦達との戦闘によって齎されえる死や別れとは違う部分で、ちゃんと不安や恐怖を感じている。この時間が無くなることを。帰ってくる場所が無くなることを。少年提督や野獣が居なくなることを。社会から置き去りにされることを。彼女達は、そういった先の見えない未来に対する昏い感情の一切を忘れて、純粋な気持ちでこの瞬間を楽しむために、少年提督や野獣を強く想い、慕い、悪態をついたりして、仲間達と必死に大声を上げている。

 

 瑞鳳が抱いている、人間らしい尊い感情を否定しない少女提督は、艦娘一人一人の誇り高い精神の背後に隠された“人間では無い故の苦悩”を肯定しなければならない。この場合の肯定とは、少年提督や野獣のように、艦娘達の為に社会の観念と戦うことを意味するのではなく、彼女達が抱える不安を癒し、和らげることを意味するのだと思う。それは根本的な解決では無いし、その場凌ぎの気休めかもしれない。でも、一人の人間、一人の提督でしかない少女にとってはそれが限界であることも、きっとあきつ丸も理解している。

 

「出来損ないの艦娘からの、切実な頼みであります」

 

 会場から押し寄せて来る喧噪に寄り添うようなあきつ丸の声は、ひどく頼りなく聞こえた。少女提督は、自身の矮小さを改めて実感し、出そうになる溜息を飲み込んだ。目の前にある血の通った優しい景色を、艦娘達と過ごす濃密な日々を、この鎮守府以外の何処にも持っていくことは出来そうにない。それでも、少女提督は、あきつ丸にだけ聞こえる大きさの声で言う。

 

「まぁ、善処するわ」

 

「感謝するであります」

 

 あきつ丸が、ふっと微笑んだ。優しい眼差しで、少年提督を見ている。

 

「あなたって、“提督LOVE勢”なの?」

 

 以前、金剛が言っていた良く分かるような分からないような単語を思い出して、何気なく聞いてみる。あきつ丸は「どうでしょうなぁ」と曖昧に笑った。酒を飲んでいない筈なのに、あきつ丸の頬が少し赤い気がした。

 










更新が遅くなっており、また誤字も多く申し訳ありません……。
暖かな感想や評価を寄せて頂けることに、いつも感謝しております。
よちよち歩きの不定期更新ですが、何とか完走を目指したいと思います。
今回も最後まで読んで下さり、本当に有難うございました!


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