花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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 他の艦娘達と一緒に早めの夕食を済ませた鈴谷は、ちょっと用があるからと断って、野獣の執務室に向かっている。鎮守府の廊下は静かだった。鈴谷の足音だけが、弾み、逸るように響いている。食事中に覗いた艦娘囀線では、今日の秘書艦である長門がキレ散らかしており、野獣が昼間の仕事をサボっていたらしい事が分かった。よくある事だ。そしてこういう時、野獣は夜遅くまで一人で仕事をすることが多かった。その場合、秘書艦を付き合わせる事は殆どない。今、野獣は一人で執務室に居るのだろうと思うと、少しだけ胸が高鳴った。

 

 

 鈴谷は最近、演習や出撃に出ることが多かった為、野獣と顔を合わせて話をする機会が少なかった。勿論、作戦内容なんかについては言葉を交わすことはあるが、それは仕事上での報告や連絡の域を出ておらず、事務的で無機質なものだった。まぁ鈴谷も、野獣と何か特別に話をしたい事があったという訳でもないし、どうしても一緒にやりたい事がある訳でも無かった。それなのに、最近の忙しい日々の中、野獣と一緒に過ごす時間がちょっと取れなかっただけで、無性に寂しくなり、早く会いたいと思っている自分が何だか気恥ずかしかった。

 

 野獣の方はどうなのだろう、と思う。鈴谷に会いたいとか、思ったりしてるのかな……。例えば野獣も、一人で執務室に居る時には優しい眼になって、携帯端末で鈴谷の写真を見てるとか……? それから、窓の外に目を遣りながら、「鈴谷……」とか名前を呼んでみたりして……? そんな事を想像しながら歩いていると、鈴谷は自分の頬が緩んでくるのを感じて、慌てて首を振った。何この妄想、恥ずかしい……。息を吐き出しつつ、鈴谷は表情を元に戻すべく、両手で頬をむにむにと揉んだ。

 

 廊下の窓を見ると、薄暮れの鎮守府は澄んだ飴色に染まっていた。この景色に流れる穏やかな時間は、鈴谷の心にも流れている。何も要らないから、この時間がずっと続いて欲しいと思う。野獣の執務室が見えてきた。野獣の執務室の扉が僅かに開いて、廊下に白い光を一つ伸ばしている。鈴谷は扉に近づき、軽くノックした。

 

 

「おっ、入って、どうぞ!(いつもよりちょっと掠れた声)」

 

 中から返事が帰って来たので、鈴谷は「失礼しまーす」と、一応の敬礼と共に執務室の中へ入る。同時に、ちょっと驚いた。執務室の隅の方で、VR機器を頭に付けた野獣が立っていて、コントローラーらしきものを握っていたからだ。コントローラーは一般的なゲーム機に付属しているパッドのような形ではなく、細長い棒状をしている。あの姿勢とコントローラーの構え方は、完全に釣りをしている時のものだ。執務を放ったらかしで、釣りゲームでもして遊んでいたのか。ちょっと苦笑を漏らしそうになったものの、執務机の上に積まれた書類の山の殆どが、既に処理済みであるらしい事に気付く。どうやら、仕事自体は片付けた後のようだ。野獣が自分の時間を過ごしているところを邪魔したのなら、悪い事をしたと思った。

 

「お疲れさま」

 

 取り敢えずと言った感じで鈴谷が柔らかく声を掛けると、野獣はVR機器を装着したままで鈴谷の方を見て、口許を歪めた。

 

「鈴谷もお疲れナス!」

 

「もしかして、趣味の時間だった? お邪魔だったら帰るけど……」

 

 出来るだけ何でもない風に言おうとしたが、ちょっと声音がしょんぼりしてしまった。ちょっと卑怯だったかもしれない。野獣が、「いや全然!(気遣い無用)」と、軽く笑ってくれたものの、その言葉を誘導してしまったかもしれないと思うと後ろめたい。しかし、野獣と一緒に過ごす時間が生まれたことの喜びは、そのネガティブな感情に勝っていた。

 

「ん、そっか。ありがと」

 

 自然と笑みが零れる。

 

「礼なんて別にいいゾ~☆」

 

 釣竿を持つ姿勢のまま、野獣は肩を竦めてVR機器を指さした。

 

「どうせコレも、VRスケベDVDを見てるだけなんだからさ(告白)」

 

「えぇっ!? そのコントローラーと姿勢で!?」 

 

 鈴谷の満たされたような笑みが、驚愕で消し飛ぶ。廊下を歩いていた時の、『実は野獣も鈴谷に会いたくて、切ない時間を過ごしていたのでは?』なんていう想像は、一切の現実味を帯びることなく微塵に砕かれた。やるせない気持ちに押し流され、身体から力が抜けそうになる鈴谷に視線を返した野獣は、「うん(素)」と暢気な笑顔を浮かべている。

 

 

「釣りのゲームか何かじゃないの、それ……?」

 

 困惑しつつも鈴谷は、野獣の前方に拡がる空間を凝視した。勿論、そこには何もない。鈴谷には何も見えない。だが、野獣には何かが見えているんだろう。うぅ……、何だろうこのキモチ……。半泣きになりそうになるのを堪え、鈴谷は唇を尖らせる。

 

「あの、何かゴメン……。めっちゃプライべートな時間に、その、お邪魔しちゃって……」

 

 何だか、ちゃんと言葉が出てこない。「やっぱ、今日は帰るね……」と、いじけたみたいにそっぽを向いて言う鈴谷に、「嘘だよ(いつもの)」と、野獣は喉を鳴らすように低く笑った。

 

 

「鈴谷の言う通り、釣ゲーをしてるトコだゾ。あっ、そうだ!(天才の閃き)」

 

 野獣は頭に装着しているVR機器に触れて何かを操作をした。それは多分、一時的にVR機能を中断する為のものなのだろう。野獣はVR機器を頭に付けたままで執務机に近づいて、コントローラーを机の上に置いた。そして、その引き出しの一つを引いて、中から何かを取り出した。それは、野獣が使用しているものと同じ形状のVR機器と、釣竿型のコントローラーだった。仕事で使う机の中に、一体何を忍ばせているのか。鈴谷がツッコもうとするよりも先に、野獣がVR機器とコントローラーを鈴谷に渡して来た。

 

「まずウチさぁ、もう一組、コントローラーあるんだけど……やってかない?(気さくな誘い)」

 

 そう聞かれると、断れなかった。特に断る理由も無いし、寧ろ、野獣がやっているゲームの内容には興味があった。

 

「わ、同時プレイ出来んの? やるやる!」

 

 鈴谷は受け取ったVR機器を頭に着けてから、棒状の特殊コントローラーを握り、野獣の横に立つ。VR機器の中にある視界は、まだ真っ暗だった。

 

「ねぇ、野獣、こんな感じで良い?」

 

「おっ、そうだな!(スイッチON)」

 

 鈴谷の隣に居る野獣が、鈴谷の頭に装着された機器の、その横の方にある何かを操作したのが分かった。すると、まるで瞼をゆっくりと開けて視界が広がるようにして、鈴谷の目の前に別の世界が広がっていった。

 

 

 其処は、山深い渓流だった。

 

 岸としての岩場には瑞々しい木々が茂っていて、その枝葉の間を通った陽光が足元を照らしている。流れる川水は何処までも澄み渡っていて、川底の苔の濃淡までも艶めいて見える。視界を少し上げると、陽の光を受けた木々の葉が、ほんのりと緑色に透けて揺れていた。その向こう側には、緑に覆われた山が見える。更にその向こうには青く晴れた空が遥か彼方まで広がっていて、全力で伸びをしたくなるような開放感を与えてくれた。川の流れる音に混じり、遠くから小鳥達の声も聞こえる。それに続いて、葉擦れの音が周囲の空間を渡っていく。吹いていない筈の風を感じた。心地よい風が緑の匂いを運んできたのだと錯覚するほど、この景色には瑞々しい生命力と美しく清らかな存在に溢れている。

 

 

「ふわぁぁあ……」と、周囲を見渡した鈴谷は、感嘆の声を漏らしてしまう。

 

「このバーチャル世界の出来栄え、ほら、見ろよ見ろよ!(どことなく誇らしげ)」

 

 鈴谷の隣で、野獣が唇の端を持ち上げる。普通、こういう場所で釣りをするのならば、それに相応しい恰好がある筈だが、野獣の姿は執務室に居るときと変わらない。海パンとTシャツ姿のまま、魚籠も玉網も持っておらず、釣竿を肩に乗せるように持っているだけだ。鈴谷も同じだった。二人は普段通りの恰好のままで、この山深い渓流に立っている。それが、この真に迫る景色が仮想現実であることを証明していた。

 

「いや、想像以上の臨場感って言うか、ホント凄いね、これ!」

 

「ダルォ!? 仕事サボりまくってでも、このフィールドを作った甲斐がありましたよ~(超笑顔)」

 

「や、そういうのはちょっと聞きたくなかったかな……、何か冷静になってきちゃう……」

 

「まぁ、細かい事は良いから!(威風堂々)」

 

 職務放棄寸前の行為の、いったい何が細かい事なのか。鈴谷には理解出来ない感性だが、まぁ、野獣はこういう男だ。鈴谷は軽く笑う。それは苦笑の類だったが、今まで野獣と過ごして来た自分には、よく馴染む表情だと感じた。同時だった。ふと気づく。先程までコントローラーを持っていた鈴谷の手にも、釣竿が握られていた。

 

「ねぇねぇ、コレどうやんの? ちょっと難しい感じ?」 

 

 鈴谷は手の中で釣竿を握り直す、それに合わせて、糸の先にある鉤が揺れた。

 

「平気平気! スゲー簡単だから! 投げたい場所を見ながら、竿を適当に振れば良いゾ(取説先輩)」

 

 野獣は川へと向き直りながらそう言って、手にした釣竿を振って見せた。野獣は鉤に餌を付けていなかった筈だが、宙に細く光る糸の先、その鉤に何かが差し通されているのが分かった。あれは、イクラだろうか。いつの間にと思ったが、これが仮想現実の中の出来事であって、ゲームであることを思い出す。餌がオートで付けられていても不思議では無い。

 

「こんな感じ、かなっ?」

 

 鈴谷は息を吸ってから、竿を両手で握り、軽く振った。中空で鉤に餌が現れる。野獣と同じく、イクラだった。その鉤は対岸の傍にある深みへと正確に落ちて、冷たい川の水に冷やされながら沈んで行った。野獣が、「おっ、良いねぇ~(称賛)」と、鈴谷が鉤を投げ込んだポイントを見ながら言う。鈴谷も何だか照れくさくなって、「へへへっ」と笑った。

 

 ゲームであるこの釣りに、技術的なものは関係ない。それは全て機械側が調整してくれるものだ。だから、釣りに対して本格的に向き合っているような人にとっては退屈でつまらないかもしれない。だが、鈴谷のような釣りの素人にとっては、この雰囲気を味わおうと素直に思えば、十分に楽しめるものだと、野獣の笑顔を見て思った。岩が並ぶ岸に並んだ鈴谷と野獣は、当たりが来るのを待つ。

 

 

「ねぇ、野獣。此処ってさ、どんな魚が釣れるの? 岩魚とか?」

 

「おっ、そうだな! あとは大物のマグロとか、カジキですねぇ!(海の幸)」

 

「ガバガバ過ぎィ!? そんなの急に掛かったら引きずり込まれたちゃうじゃん!?」

 

「ゲームだし、まぁ、多少(の無茶な設定)はね?(遊び心)」

 

「実装されてる超絶グラフィックに比べて、設定されるべきリアリティが貧弱過ぎるでしょ……」

 

「理不尽っていう観点から言えば、現実だって似たようなモンだルルォ?(暴論)」

 

「そんな身も蓋も無い……」

 

 鈴谷が困ったように言うと、野獣は喉を低く鳴らすようにして笑った。そして釣竿を片手に持ち、もう片方の手で携帯端末を取り出す。

 

「あっ、おい、鈴谷ぁ! 今からちょっと設定弄るけど、何か付けて欲しいオプションあるかぁ?(気配り先輩)」

 

「いい予感がしないんだけど……、オプションて何があんの?」

 

「色々ありますねぇ! 例えばギャラリー用のモブを表示して、釣りの大会気分も味わえるゾ(ウキウキ先輩)」

 

「へぇ~、ちょっとやって見てよ」

 

「よし! じゃあぶち込んでやるぜ!(映像データ)」

 

 威勢よく言いながら野獣が携帯端末を操作した。が、周囲の景色には何の変化も見られなかった。美しい自然の風景が広がっているだけだった。川の流れる音と、小鳥の鳴き声が響いている。あれ、何も起きてない……、何も起きてなくない? そう思いながら辺りを見わした鈴谷は、自分のすぐ背後に、見知らぬオジサンがブリーフ一枚で佇み、微笑みを浮かべている事に気付いた。「ぎゃあ!」と素の悲鳴が漏れる。

 

「ちょ、ちょっと!! めっちゃビックリしたんだけど!!」

 

 危うく尻餅を付きそうになった鈴谷は、ブリーフのオジサンから後ずさりつつ野獣を睨む。

 

「もっと他にあるじゃん!? 明らかに釣り大会の恰好じゃないよこのオジサン!」

 

「ファッション的にいえば、四捨五入すればイケてる方でしょ?(謎理論)」

 

「……このオジサン、パンツ一丁なんだけど何処を四捨五入すんのコレ」

 

「この景色にも馴染んでるから、まぁ多少(のカジュアル)はね?」

 

「いや、違和感と存在感の塊なんだけど……」

 

「じゃあ、その微笑みオジサン、鈴谷の背後に固定配置しとくから(宣告)」

 

「しなくて良いよ! こんなんずっと後ろに居られたら凄い消耗するよ! 釣りどころじゃなくなっちゃう!」

 

「森の妖精とでも思えば、そう気にはならないゾ(アドヴァイス)」

 

「無理だよ……、オジサンにしか意識がいかないもん……」

 

「しょうがねぇなぁ~(悟空)」

 

 野獣は不満そうに言いながらもオジサンを消して、代わりに、この空間の季節を弄ったようだ。瑞々しい緑をしていた木々の枝葉が、仄かな橙と鮮やかな朱色のグラデーションを作り始める。暖かな色を身に纏った葉が舞い落ちてきて、足元の岩場を彩った。秋だ。鈴谷は視線を上げる。空が、さっきよりも高くなった気がする。この季節変更のオプションだけで良いのでは……? という質問を野獣にしようと思った時、鈴谷の竿に当たりが来た。

 

 野獣が川面を見て、「おっ、マグロか!?(面白がる顔)」と、テンションを上げる。「げっ、マジで!?」と、顔を強張らせた鈴谷の方は軽く悲鳴を上げそうになったが、身体ごと持っていかれるような、怪物じみた強烈な引きじゃない。でも、強い。「おっ、やべぇ! 大物だな!(歓声)」という、溌剌した野獣の声が聞こえる。仮装現実であっても、確かに糸を伝い、竿を握る手に届いて来る、魚の活力と息吹。初めての経験に、鈴谷は自分が興奮しているのを感じた。唇をペロッと舐めて、竿を引く手に力を籠める。鈴谷の鼓動に水音が応える。透き通る川の水と木漏れ日を纏う魚体が、水面の上で燦然と翻るのを見た。

 

 

 

 

「これは……、山女魚じゃな?」

 

 鈴谷は、自分で釣り上げた魚の糸を掴む恰好で持ち上げ、ちょっとした感動を味わいながら眺めていると、傍まで来ていた野獣が膝立ちになった。魚体の大きさを測るつもりのようだ。野獣は何かを取り出そうとして、それが存在しないことに気付いたように「あっ、そっかぁ(失念)」と呟いていた。本当ならスケールメジャーでも使うつもりだったのだろうが、此処は仮想空間のゲーム内である。メジャーの代わりに、手の指で適当な尺を作った野獣は、山女魚の体をざっと図った。

 

「だいだい25(センチ)……、やっぱ大物だな!」

 

 野獣は膝立の姿勢のままで笑って、「やりますねぇ!(健闘を称えて)」と、右手を挙げた。

 

「鈴谷って、釣りの才能あるかも」

 

 鈴谷も笑って、野獣の右手を、釣竿を持っていない方の手で叩こうとしたが、糸を持っているので無理だった。それを残念に思った時には、鈴谷が釣り上げていた山女魚の魚体は既に粒子となって、この景色の中に解けていこうとしていた。仮想現実なりの『キャッチアンドリリース』なのだろう。山女魚が消えた後には、鉤だけが糸の先で揺れていた。それを確認してから、鈴谷は野獣の右手を、ちょっと強めに自分の右手で叩いた。野獣の手は、仮想現実では無い。実在する温度があって、ヒリヒリするほどに、皮膚に触れる感触があった。鈴谷が現在感じている高揚もまた、その胸の内に確かに存在している。

 

 鈴谷と野獣は、釣りを続ける。今度は野獣にも当たりが来た。鈴谷にも、また大物が掛かった。その現象自体は、ゲームとして設定されているものだったのかもしれない。だから、水面下の魚体と対峙する瞬間に感じた興奮や緊張は、多くの人を魅了する『釣り』の面白さの、その断片的なものでしかないのかもしれないが、それでも鈴谷は、この時間を楽しむ事が出来た。それは多分、野獣と一緒だったという要素も大きいだろうと思う。ふと、テレビか何かでも聞いた事のある、ありきたりで陳腐なフレーズが頭に浮かぶ。

 

 食事は、何を食べるかでは無く、“誰と”食べるか。

 旅行は、何処に行くかでは無く、“誰と”行くか。

 

 それは、真実だと分かった。

 

「野獣ってさ、何処か行きたいトコとかある?」

 

 曖昧な問いだが、何となく聞いてみたくて、釣竿を持ったままの鈴谷は横目で野獣を見る。川の流れる音と、小鳥たちの声が響いた。秋色に染まった枝葉の隙間からは、和らいだ陽の光が漏れている。その燦きに誘われるように、野獣は川面から視線を上げて、「そうですねぇ~……(思案顔先輩)」と、指で顎のあたりに触れる。少ししてから、野獣は穏やかな表情で鈴谷を見詰める。

 

「僕はやっぱり王道を往く、ソープ系、ですか(覇王の威光)」

 

「サイテー! あのさぁ、鈴谷の質問の意図はさぁ……そういうんじゃないんだよね?」

 

「おっ、そうだな!(頷き) でも、特に行きたい所なんて無いからね、しょうがないね」

 

「……ふーん。そっか」

 

「鈴谷はどうだよ?(質問はコミュニケーションの基本)」

 

「えっ」

 

 鈴谷は野獣に向き直る。野獣の方はもう川面を見ていて、玄人っぽく竿を揺らしていた。野獣が黙っているので、鈴谷が何かを喋る番だと気付く。ただ、自分の行きたい場所というのは咄嗟に出てこなかった。頭の中から候補を見つけるべく、さっきの野獣と同じように視線を上げて考えようとするものの、この鎮守府では無い何処かに行こうとするイメージが、ネガティブな印象として鈴谷の思考を阻んだ。

 

「鈴谷も、……あんまし無いかな」

 

 結果、帰って来た自分の質問に対し、そんな風に面白味にかける答えしか出来なかった。深く考える事を恐ろしくも思った。この質問は、今の楽しい雰囲気にそぐわないものだったのではと、ちょっと落ち込みそうになる。ただ、野獣は「あっ、そっかぁ(奇遇)」と、穏やかな表情で頷いてくれた。

 

「じゃあまず、行きたいトコを探してみますかぁ~、oh^~?」

 

「探すって……、このVR機器に、旅行雑誌でも読み込ませでもするの?」

 

「まぁ、似たようなモンだゾ(不敵な笑み)」

 

 そう言いながら、野獣は釣竿を肩に乗せるようにして片手で持ち、空いた方の手で携帯端末を操作する。

 

「まずこのVRさぁ、他の仮想風景にもアクセス出来るんだけど、……飛んでかない?(世界旅行)」

 

 少年のように言う野獣の声に引かれて、鈴谷も挑むように笑って見せた。「面白そうじゃん」と、自然と言葉が漏れる。鈴谷は、野獣という男に振り回されるのでは無く、それに追従して応答できる艦娘になりたかった。野獣の真似をして鈴谷も、釣竿を肩に凭れさせるように持つ。それを確認した野獣が携帯端末を手早く操作した。

 

 すると、鈴谷達が存在していた世界が、光の線となって解け始める。

 

 濃く茂っていた木々も。暖かく色づいた枝葉も。そこから零れた木漏れ日の揺らめきも。空も。山も。地面も。微光を放つ粒子へと分解されて、何処かへ運ばれていく。鈴谷は足元を見る。その下には底の見えない暗黒が広がっていた。頭上にも、無限遠の虚無が広がっている。鈴谷の脳裏に、夜の海が想起された。寒気を感じて、唾を飲む。そのうち、また別の光の粒子が鈴谷達の周囲に降り積もりながら、違う景色を象っていく。再び空と大地が生まれる。平面的な風景に、実在感としての奥行きが齎された。

 

 

 順繰りに、日本のものでは無い風景が鈴谷の目の前に現れていく。

 それは、世界遺産の数々だった。

 

 野獣と鈴谷は、フィレンツェの歴史地区や、アンコールワット、マチュピチュ、ピラミッド地帯、モン–サン–ミシェル修道院など、仮想空間に構築された世界各地の色々な場所へ訪れた。どの場所の風景も緻密であり精巧であり、こういうVRのデータは文化遺産の保護的な側面もあるのかもしれないと、現実的な思考が鈴谷の頭を過った。同時に、野獣と鈴谷が、こんな風に何処か遠くへ出かけることは、多分この先、ずっと無いだろうという予感もしていた。色んなものを置き去りにするようにして、風景は無慈悲に切り替わっていく。

 

「やっぱり俺の執務室も、ヴェルサイユ宮殿風にするかな~、俺もな~(果てしなきエレガンス)」

 

「そんな事したら、また長門さんにどやされるよ……」

 

 野獣は、相変わらず馬鹿な事を言う。鈴谷はそれにツッコむ。鎮守府の日常の中に居る二人は、この世界各地の風景に悲しいぐらい溶け込めていなかった。変容していく世界に取り残されたまま、その時間の上を滑っているような感覚だった。だが、そんな事には気づかないフリをしながら、鈴谷と野獣は、世界を巡る。胸を締め上げてくる心細さなど、実は何の問題も無いんだと開き直ろうとした。鈴谷はこの束の間の旅行の中で、憂鬱な予感を何とか思考の外を押しやろうとしていた。

 

 

 

 

 

 

「おっ、これで最後だゾ」

 

 夕暮れの万里の長城。その城壁の通路の上に、鈴谷と野獣が立っている。此処がVR世界旅行の終着点らしい。終始、野獣は楽しそうだった。そして、何処か無理をしている様にも見えた。野獣の声が、いつもより少し掠れている所為かもしれない。

 

「今まで廻ったトコ、全部行ってみたくなったよ」

 

 城壁の縁に立った鈴谷は、遠くを眺めながら言う。それは正直な思いだった。靴音が響く。石を踏む音。遥か遠くまで広がる景色と、其処を渡ってくる風の匂い。鮮烈な夕陽の眩しさ。その全てが仮初であっても、此処に居る鈴谷の鼓動は、何処までも本物だ。この感情は、鈴谷のものだ。鈴谷だけのものだ。それがどんな経緯で生まれたものであっても、それを宿したものが人間でなくても、心や想いは、誰のものでもない。私は、野獣と一緒に、色んな所に行ってみたい。

 

 

 でも、それは叶わないんだろうな。

 

 

「おっ、そうだな(同じ方向を見ながら)」

 

 野獣の落ち着いた声音は、やっぱりいつもよりも掠れて聞こえた。二人で景色を眺める。今だと思った。これは確信だった。今、言わなきゃいけないと思った。

 

 

「あのさ、野獣」

 

 自分で思っていたよりも、随分と硬い声が出た。その所為だろう。「おっ、どうしました?(怪訝)」なんて、野獣にしては珍しく身構える様な表情を浮かべていた。それが何だか可笑しくて、鈴谷は緩く手を振った。

 

「いや、そんな真剣な話をするわけじゃないんだけど……、ん~、でも、真剣な話って言えば、真剣な話かな」

 

「どっちだよ?(素)」

 

「じゃあ、その中間って事にしよっか」

 

 鈴谷は、どんな表情を浮かべて良いのか分からず、少し迷ってから結局、困ったような笑顔を浮かべた。

 

「終戦後の鈴谷達が、どうなるかって言う話なんだけどね」

 

 横目で見る野獣の表情が、ほんの少しだけ強張ったのが分かった。鈴谷はそれに気づかないフリをして、また景色に視線を戻した。自分は今、どんな表情をしているのか分からなかった。ただ、どうしても伝えなきゃいけない事があった。だから、一つ呼吸をして、震えて来る喉で唾を飲む。野獣の方を見る。この話は、笑ってするべきだと思った。真面目な顔でするべきじゃない。冗談めかして、何でも無い風を装って、この日常の中に溶かし込んでしまおうと思った。

 

 

「世間がどんな選択をしたって、鈴谷は、野獣を責めることなんて無いから」

 

 でも、出来なかった。鈴谷は、やっぱり困ったような、ぎこちない笑顔を浮かべるのが精いっぱいだった。真剣な話だけど、まぁ鈴谷的には、全然気にしてないからさ~。そんな態で、言うべきだと思っていたのに。全然、出来なかった。でも、声の震えは収まっていたと思う。ただ、何かを言おうとした野獣が、明らかに言葉を詰まらせるのが分かった。

 

「いやっ! 鈴谷達の未来を悲観してる訳じゃないよ!? 」

 

 沈黙が訪れるのが恐ろしくて、鈴谷は慌てて言葉を繋ぐ。

 

「でも、その何て言うのかな……、これって、凄く難しい話じゃん? そもそもさ、艦娘が人間社会の中に入っていくにはさ、法律だとかで滅茶苦茶細かい決め事が一杯あってさ、それを一つずつ厳密に定めていく仕事とかも山みたいにあるだろうし、それは、何か一つにでも綻びがあったら上手く行かなくなるような、とんでもなく精密な事だろうしさ!」

 

 鈴谷は、自分の左手の薬指に嵌っている指輪を意識した。

 仮初の景色の中にあっても、鈴谷の心は本物だ。

 

「……上手く言えないんだけどさ。鈴谷達は、これから社会っていう巨大な意識によって、色んな選択肢を通過する事になるワケじゃん? それってやっぱり、どう転んでもギリギリの綱渡りだと思うんだ。その綱の幅をさ、何とか大きくするために、野獣とかが死ぬ気で知恵絞って、鈴谷達と色んな人達との間に立ってくれてさ、超頑張ってくれてるって、鈴谷は知ってるよ。でもさ、こんなことは言うべきじゃないんだろうけど、社会とか世間が相手なんだし、どうやったって、その綱が途中で切られちゃう可能性もあるし……。それってつまりさ、鈴谷達はさ、……鈴谷達でいられなくなる可能性もあるワケじゃん?」

 

 

 そうなったら、鈴谷は世界を呪うだろう。

 難しい貌になった野獣から目を逸らさず、鈴谷は左手を強く握る。

 

 野獣が、鈴谷を、鈴谷にしてくれた。この鎮守府で関わった誰もが、鈴谷を、鈴谷にしてくれた。そして、また鈴谷も、艦娘である誰かを、“個”としての誰かにしていたのだと思う。でも、その日常は、いつか終わりが来る。人間は、深海棲艦達を相手に優勢を維持している。社会が享受する平穏は、より頑丈になった。深海棲艦を圧倒しつつある艦娘達は、守って来た人間達によって、その存在を問われることになる。息が上手く出来なくなってきた。

 

「でもさ、もしもだよ? もし、そんな時が来たってさ、鈴谷は、野獣を責めないから」

 

 ちょっとずつ視界が揺れて来る。険しい表情をした野獣の顔が滲み始める。不味いと思った。溢れそうになる何かを言葉に変える。「他の娘たちはどうかっていうのは、今は置いといてさ」と、冗談っぽく言う為に、震えそうになる喉に力を籠めた。この何気ない日常でしか伝えられない言葉だ。間に合わなくなる前に、言っておきたい。轟沈とは全く違う形で、もう二度と会えなくなるような別れの時になって、あの時言っておけばよかったと後悔したくない。

 

 

「少なくとも鈴谷は、絶対に野獣を恨んだりしないよ」

 

 笑え。笑うんだ。

 

「うん。言いたかったのは、まぁ、これで全部かな」

 

 嘘だ。言いたい事は、まだある。まだあるよ。まだあるんだよ、野獣。鈴谷は、ずっと鈴谷でいたいよ。野獣の傍で、鈴谷でいたい。私達の為に色々と頑張ってくれて、ありがとう。しんどい事、一杯させちゃって、ほんとごめん。でも今は、それは言うべきじゃないと思った。言わなきゃいけないと思うことはともかく、言いたいことを言うと泣いてしまいそうだったからだ。鈴谷は自分に嘘を吐きながら、自分がちゃんと笑えている事に安心した。

 

 そんな鈴谷を見詰めながら、野獣もまた苦笑を浮かべていた。疲れた笑みだった。ありがとナス。多分、野獣は、そう言ったのだと思う。らしくない掠れた声で、いつもよりも小さな声だったから、鈴谷もちょっと自信が無い。野獣が、続けて何かを言おうとした時、鈴谷達が居る景色が歪み、解け始めた。夕陽と空が消え、視界が暗闇に染まる。3秒ほど暗がりを眺めていたが、VR機器がその映像を終了させたのだという事に気付く。

 

 鈴谷は被っていた機器を脱ぐ。其処に在るのは、山深い渓流でも、仮初の世界でも無い。慣れ親しんだ、野獣の執務室だ。安心する。腕時計を見ると、結構な時間を野獣と過ごしていたようだ。窓の外も、もう真っ暗である。VR機器を脱いだ野獣は、何処か思い詰めた様子で、視線を下げて床を見ていた。

 

「いや、何かさ、遊んでたら喉乾いた……、喉乾かない?」

 

 今は沈黙が怖くて、鈴谷はワザとらしいほどに明るい声で言いながら、執務室の端に備え付けられた冷蔵庫へと向かう。野獣が顔を上げ、鈴谷に向かって何かを言おうとしている気配を感じたが、気付かないフリをした。普段通りの自分を意識する。もう難しい話は終り、閉廷。野獣が勝手に持ち込んだものである冷蔵庫を開けると、中には缶ビールが詰め込まれていた。

 

「わ、ビールしか無いじゃん!」

 

 鈴谷は野獣に振り返って、笑う。

 

「奥の方よく見ろよホラ、他のモンも入ってるだルォォ!?」

 

 野獣も笑って、鈴谷の隣まで歩いてきた。それから、冷蔵庫を占領する缶ビールの群れの中に手を突っ込んでゴソゴソガチャガチャとかき混ぜていたが、その途中で、何かを諦めるようなクソデカ溜息を吐き出した。野獣は一本のペットボトルを取り出し、鈴谷の方を見た。

 

「アイスティーしか無かったけど、良いかな?(いつもの)」

 

「うん。ありがと。ごめんね」

 

 差し出されたペットボトルを受け取って、鈴谷は笑ってから洟を啜った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「どうぞ、司令」

 

 少女提督が携帯端末のディスプレイを眺めて苦笑を浮かべていると、優しい表情を浮かべた野分が、熱いミルクコーヒーを淹れてくれた。

 

「あー……、ありがとう」

 

 少女提督は、手にした携帯端末を机の上に置いてカップを受け取る。時刻は深夜の1時を過ぎた頃だった。窓の外には、雲の無い夜空で星々が瞬いていた。

 

 この鎮守府に来てから、“研究・技術者”として仕事をすることが増えた。そして、深海棲艦達に対する認識が変わったのを実感している。少女提督の役割は、深海棲艦と人間の間に立つことだった。深海棲艦達の持つ力は、人間の手に負えないものだ。彼女達が扱う法術をそのまま人間に適応することは難しい。しかしその巨大で異質な力には、大きな可能性が秘められている。医用工学、生命工学への応用を経ることによって、深海棲艦達の持つ法術は、人間を救う事が出来るようになる。

 

 先日の、初老の男の涙を思い出す。彼の娘への治療は、名だたる名医達と、少年提督と、そして数名の深海棲艦の協力の下で既に行われた。これは世間には公表されていないが、娘は快復に向かっている。一度だけ初老の男から連絡があり、非常に丁寧な礼と共に、「何かあれば、いつでも声を掛けてくれ」とも言われた。恐ろしいほどに真剣な声だった。それに対して少女提督は、曖昧な返事をしただけだった。それに続いて中年の男からも、「また近い内に会えないか」と連絡あった。金の匂いを嗅ぎ取ったのだろうか。まぁ、とにかく最近は色々とあって、“提督”としての仕事を溜めてしまい、こうして徹夜で書類の山を崩しているところである。それに付き合ってくれている野分には申し訳ない気分だった。

 

 

「野分も、もう終わってね……、残りはやっとくからさ」

 

「いえ、最後まで付き合いますよ」

 

 疲れた様子を見せず、野分は微笑んでくれた。本当に頼りになる。「いつもゴメンね」と謝ってから、出そうになる欠伸を噛み殺してミルクコーヒーを啜る。肩の力がすっと抜けるような、ちょっと甘くて、ホッとする味だった。美味しい。疲れと緊張が解れて、溜め息が漏れた。その姿が、酷く疲れているように見えたのだろう。此方を心配そうに伺う野分の視線を感じた。再び漏れかけた欠伸を飲み込み、少女提督は苦笑を漏らす。

 

「仕事をサボりたくなる野獣の気持ちが、今ならちょっと分かるかも」

 

「奇遇ですね」

 

 そう言った野分も、秘書艦娘用の執務机に積まれた書類を一瞥してから「私もです」と、少女提督と同じように微苦笑を浮かべた。つまらない冗談が心地良い。もう一口ミルクコーヒーを啜ろうとすると、野分が、執務机の上に置かれた携帯端末のディスプレイに視線を流して、優しい表情を見せた。

 

「あぁ、昨日の……、良く撮れてますね」

 

 少女提督は「でしょ?」と笑う。

 

 携帯端末には、握り箸で牛丼を食べる北方棲姫が映っていた。地下捕虜房にある談話室のテーブルに座った彼女は無邪気な笑みを浮かべていて、その口許には御飯粒がついている。北方棲姫の後ろには、同じく牛丼を手にした集積地棲姫が唇をペロッと舐めている姿も見える。彼女達が食べている牛丼は、少年提督が地下の研究施設のキッチンスペースで作ったものだ。

 

 深海棲艦達の戦闘能力をスポイルしつつも、彼女達が持つ超然的な力を封じる器としての肉体を調律すべく、少年提督は定期的に地下捕虜房に出向いている。昨日もそうだった筈だ。彼はその仕事の合間に、深海棲艦達と一緒に料理を作ったりしていた。彼は深海棲艦達に対する教育に熱心だった。秘書艦見習いの中で社会的な常識を学ばせるだけでなく、生活における知恵や知識にも、彼女達に触れて貰おうとしていた。その為の食材を多量に持ち込んでいくのは野獣らしく、地下の捕虜エリアの一室に専用の業務冷蔵庫を運び込み、エリアの一部が厨房に改造されている事にも昨日気付いた。野獣と言う男の無茶苦茶さは知っているつもりだったが、その縦横無尽な振る舞いは場所を問わないという事を改めて実感した。

 

 少女提督と野分も、昨日は夜まで地下の研究施設にいたので、少年提督が作った牛丼をご馳走になったのだが、少し悔しいが、確かに美味だった。少年提督は、作り方は野獣に教わったのだと言っていた。談話室に集まった他の深海棲艦達も、彼が作った牛丼を美味しそうに食べていたのを思い出す。携帯端末に映し出されている北方棲姫は、その時に少女提督が撮ったものだ。

 

 

「そういえばさ、瑞鳳はもう、野獣に卵焼き持って行ったの?」

 

「えぇ。一昨日の昼頃だったと思いますけど、野獣司令の執務室に向かう姿を見ましたよ」

 

「は~……瑞鳳は青春してるなー……」

 

「あの、微妙に辛そうな表情ですね」

 

「や、そんな事は無いよ? 私はさ、瑞鳳を応援してるよ?」

 

「……その相手が野獣司令だと、ちょっと思う所がある感じですか?」

 

「うん」

 

「即答ですね」

 

 野分は小さく笑う。少女提督は、「そういう野分はどうなの?」と、冗談っぽく訊いてみた。野分は意外なことを訊かれたかのように「えっ」と、何度か瞬きをして見せた。

 

「いや、だから、野分から見てさ、野獣ってどうなの?」

 

 少女提督の興味深そうな視線を受け止める野分は、いつもの真面目な思案顔になって俯き、顎に手を当てる。

 

「非常に高い身体能力と鋭い観察眼を持った、優秀な“提督”であると思います」

 

 少女提督の質問は冗談を含む軽いノリなのに、野分から帰ってくる答えは彼女の表情と同じくらい真面目なものだった。少女提督が“提督”として初めて彼女を召還した時から、野分はずっとこんな感じだ。野分の言葉は率直であり、誠実である。会話をする相手の軽口や冗談にはツッコみを入れたりするものの、彼女自身の口から出る言葉には、そういった遊びが極端に少ない。

 

「まぁ、それはそうなんだけど……。聞きたいのそういう事じゃなくて。端的に言えば、野分にも気になる相手が居るのかなと思って」

 

 訊いてみると、「特には居ませんよ」と、野分はまた微苦笑を浮かべた。

 

「ふ~ん……。じゃあそういうひとが居て欲しいって思う時は?」

 

 

「恋愛というものに興味が無いワケではありませんが、あまり意識したことがありません」

 

「そっか。うん。何か、野分らしい答えでほっとした」

 

「どういう意味ですか……」

 

「いや、淹れてくれるミルクコーヒーはいつも美味しいし、私とケッコンして欲しいなって」

 

「はいはい」

 

 つまらない冗談につきあってくれた野分は、優しい微苦笑を崩さずに手元の書類を広げていく。仕事に戻ろうとする野分を横目に見てから、少女提督も手元のファイルを開いて視線を落とした。

 

 幾つかの書類が纏められていて、艦娘を対象とした『“抜錨”状態の無効化術式』、『強制弱化・解体術式』の研究報告の内容が目についた。艦娘を強化する為の施術式については研究が進んでいるものの、その対極にある“艦娘を弱体化させる”研究というものには関しては、最近まで殆どなされていなかった。そもそも提督という存在は、召還した艦娘達の自我を奪い、忠実な道具に変える事を容易く行うことが出来たし、戦場に出す艦娘を弱体・無力化するメリットも無かった。便宜的に『鎮守府』と呼ばれる各地の基地でも、管理できる範囲を超えて召還されてしまった艦娘達は、人格と思考を破壊されて人体実験に回されて来た。人類が追い詰められていた激戦期の頃は、次から次へと艦娘達が召還されていたので、こういったケースは特に多かった。そして艦娘達自身も、そういった現実を冷静に受けとめられる程に、艦娘という種族は人類に抵抗する術を持っていなかった。

 

 そういった背景が存在する中で、今になって本営は“艦娘の弱体化”を躍起になって進めようとしている。その狙いを予想することは容易かった。本営は、深海棲艦達との戦いが終わったあとの事を想定している。

 

 深海棲艦達よりも人類が優位に立ち、仮初ではあっても平穏な時間が社会に流れるようになったのは間違いない。海を戦場にしたこの戦いにも、決着らしきものが見えようとしている。世間はそんな風に思っている。艦娘達の人権を訴える団体の声も日増しに大きくなって来ているし、艦娘達を人間の社会へと迎え入れる為の、その法整備も進んでいる。終戦を迎えれば、軍属から離れる艦娘達も出てくるのは間違いない。それを、今の社会が望んでいるからだ。そうなれば、艦娘達は各々の“提督”の手から離れる。社会との新たな接点を得る。彼女達は、ある種の“個”としての自由を手に入れる事が出来るようになる筈だ。

 

 だが、本営はそれを許そうとはしていない。例え人類を救った艦娘であろうとも、人類と同等の存在として、この社会の中に並び立つことを拒む意図が、少女提督の持つファイルの内容からは透けて見えた。本営は、艦娘達が海では無く、社会の前に立った時の事を想定している。

 

 

 艦娘の深海棲艦化現象。

 

 終戦を迎えた艦娘達の未来を考える上で、これは無視できない。だからこそ本営は、この事実を公表するタイミングを慎重に見計らっている。少女提督の想像は、悪い方へ悪い方へと流れていく。艦娘を対象とした弱体施術式の研究は、『命令によって、人間を攻撃可能な艦娘を作る』という、かつての狂気じみた研究内容を思い出させた。

 

 

 平和になった社会の何処かで、艦娘が人間を攻撃し、殺害し、惨殺したとする。それが仮に極めて例外的な事象であっても、超人的な肉体能力を誇る艦娘が、一般の人間を殺傷する事実が世間に示されれば、艦娘を巡る世相は一気に変わる筈だ。

 

 人間にとって艦娘という存在は危険なものになる。この仕組まれた悲劇によって、艦娘達は、人間にとっての隣人でも恩人でもなくなる。そして深海棲艦達と同じく、人間による変質と支配を受けるべき存在だと見做され、全ての艦娘達は確立された弱体化施術式によって無力化される。人間という種族の前に、艦娘達は跪くことになる。艦娘達の人権も尊厳も否定するような、今まで以上に隷属的な関係も世間の中で是とされることになるだろう。艦娘と世間というものの距離は、大きく広がる。本営は大手を振って艦娘達の存在を掌握し、艦娘一人一人が完全に管理される。そうして、道徳や倫理という観念から艦娘が十分に遊離したタイミングで『艦娘の深海棲艦化』という事象を世間に公表すれば、艦娘は事実上の深海棲艦として世間に認識されるだろう。そうなれば次は……。

 

 

 そこまで考えた少女提督は、目をきつく閉じて息を吐き出した。瞼を指で抑える。安易で陳腐な想像が頭の中で勝手に膨んでいくなかで、“深海棲艦との共存”という言葉が、少年提督の落ち着き払った微笑みと共に脳裏を過る。

 

 

 何もかもが引き返せないところまで来ているような、生ぬるい焦燥感を胸の奥に感じた。コキコキと背中と肩の骨が鳴る。横目で、艦娘用の執務机に座っている野分を見た。彼女は、真剣な眼差しで書類の文字を追っている。自分の職務に真摯に向き合っている。軍属の身で背負う役割が、この世界と野分を繋げている。それは圧倒的に強固であり、野分を“艦娘”たらしめる特別な意味を持っているのも間違いなかった。社会の中に艦娘を招き入れるという事は、この繋がりを希薄にすることだと思う。深海棲艦の脅威が遠ざかりつつある今の社会が、艦娘達への感謝を込めてそれを望んでいたとしても、それは良くも悪くも、今までの彼女達の存在意義を曖昧にすることになるのではないだろうか。

 

  それは同時に、“艦娘”という巨大な認識の中から、目の前にいる“野分”という“個”を取り出し、肯定することと同義であると思う。終戦を迎えた後、“艦娘”として命を懸けて戦ってくれた彼女に釣り合うだけの、本当に相応しい居場所や役割といった、厳粛な対価があるべきだ。それすら否定しようとする本営が憎い。その憎悪は連鎖的に、社会全体にまで向きそうになる。

 

 だが、少女提督は、その感情を飲み込まなくてはならない。少女提督の目に社会が映る限り――、その社会を守る為に艦娘達が使命を果たしている限り――。少なくとも今は。世間の人々が艦娘を必要している今は、少女提督も、その役割の中で使命を果たさねばならない。戦いはまだ終わっていないのだ。だがその事実こそが、人間社会での艦娘の存在を、世間に保証させている。終戦という言葉の背後には、艦娘という種が通過することになる人類の選択が待っている。

 

 結局のところ艦娘達は、深海棲艦と同じく、社会の隙間へと追いやられるしかないのではないか。出口の見えない思考が諦観へと着地しそうになって、少女提督は軽く頭を振った。正しいと思える答えは出ない。ただ、艦娘達の深海棲艦化という厳然として聳える巨大な問題に対して、非道であっても何らかの回答を用意しようとする本営は、世間の人々が願う“平和”というものに対して誠実なのかもしれない。

 

 少年提督や野獣、それに、此処の艦娘達は間違いなく、“艦娘”というものと世間との距離を縮めて来た。それは絶対に無駄では無いと言い切れるし、そこに費やされた時間は何よりも尊いものだった筈だ。しかし、艦娘や社会が抱えた現実を前にすると、それはこんなにも儚く脆いものなのか。呼吸が震える。悔しくて仕方なかった。仕事をサボりたくなる野獣の気持ちも分かる。少女提督は、先程の自分の言葉を思い出して、その言葉の半分を、心の中で取り消した。分かるワケが無い。野獣が、どれだけの想いを込めて世間の観念と戦ってきたのかなど、簡単に“分かる”なんて言っていいものじゃない。唇を噛む。不意に、少年提督の顔が浮かんだ。彼は微笑んでいる。

 

 

「あの、司令……、ご気分でも優れませんか? やはり、もうお休みになられた方が……」

 

 心配そうな野分の声が聞こえて、少女提督は天井を仰いだままで深呼吸をしてから、大きく伸びをした。首を左右に曲げながら、野分に視線だけを向ける。

 

 

「んん~、大丈夫だって。ちょっと眠いだけ。ほんと大丈夫だから」

 

 

 野分にそう言いながら、少女提督は手にしたファイルを一旦閉じて横へと退かし、他の書類に手を伸ばす。野分は何かを言いたそうに口を動かしていたが、結局は何も言わず、仕事に戻った。初期艦である彼女には、心配と苦労ばかり掛けて申し訳なく思う。私は、彼女に何をしてあげられるのだろう。何を返せるのだろう。そしてこの自問も、今までで何度目なのだろう。世界は然るべき段階を踏んで、仕組まれた悲劇を待ちながら、設計された未来へと進んでいく。少女提督は、机の上に置いたままの携帯端末を一瞥した。そのディスプレイには、牛丼を手にした北方棲姫の笑顔が映し出されている。

 

 激戦期から今まで、人類は艦娘達に犠牲者を強いるような無茶な鹵獲を行いながら、凄惨な生体実験を繰り返し、深海棲艦に関する途轍もなく膨大なデータを採取してきた。しかし、それらのデータを全て駆使したとしても、握り箸で牛丼を美味しそうに食べる北方棲姫のこの笑顔を網羅する事は出来ない。それだけは間違いない。しかし人類はこれからも、そういった目に見えないもの全てを形而下に置いて、価値を定め、優劣を決めていくのだろうと思う。その結果として深海棲艦だけでなく艦娘達までをも踏み躙りながら、人類は何を仰ぐのか。出口の無い思考が巡る内に、気付けば携帯端末がスリープモードになっていた。ディスプレイに映し出されていた北方棲姫の笑顔は消えて、真っ暗な闇が在るだけだった。

 

 

 











今回も最後まで読んで下さり、有難うございます!
いつも応援して下さるだけでなく、とても貴重な御指摘も寄せて頂いて、本当に感謝しております……。

内容も更新も亀のような速度ですが何とか更新を続けつつ、完走を目指したいと思います。
次回からもシリアス色が強くなると思いますが、皆様のお暇潰しにでもなれば幸いです。






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