花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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今回は閲覧注意回かもしれません、
いつもご迷惑をお掛けして申し訳ありませんです……。


深海

 

 

 

 

 

 艦娘囀線での龍驤の書き込みがあってから、少しの時間が在った。侵入者達が何らかの準備を精密に整えているような、不穏な空白だった。加賀は、自分が何者かに担がれているのが分かった。まるで荷物のように、肩に担がれて揺られている。意識に靄が掛かっている。視界が掠れていてハッキリとしない。自分は、人質か何かに利用されようとしているのか。僅かに首と視線を動かす。鎮守府のセキュリティや電気系統を抑えられたようだ。廊下は暗く、設置されている電灯は消えていた。窓から差し込む月明りは、侵入者たちの影を作っている。その数は2つ。黒いボディスーツで身を包んでいる。体つきのシルエットから、それが女性であることが分かった。彼女達は、顔の下半分を黒いマスクで隠している。加賀を担いでいる方は武装をしていないようだが、もう片方は、腰に刀らしきものを佩いている。

 

 彼女達は一切の足音を鳴らさずに廊下を移動している。疾い。それに、その頭が全く上下していないことに気付く。廊下には、他にも何人かの艦娘達が倒れていた。死んではいないようだったが、加賀と同じく身動きが殆ど取れていなかった。侵入者の二人は、そんな艦娘達を一顧だにせず、無暗に傷つけることも無かった。狙いは、やはり野獣と少年提督か。

 

 加賀は、身体に力を入れようとする。侵入者の手から逃れようとする。だが、それは無駄だった。加賀の体は、その意思通りには全く動かない。侵入者の肩の上で僅かに震えただけで、それは抵抗にはなり得なかった。声も出ない。喋ることも出来ない。艦娘としての身体能力を発揮すべく、“抜錨”状態になろうとするが、それも出来なかった。これが、何らかの術式の影響であることは間違いない。月明りの廊下の、その景色だけが流れてく。侵入者たちが、野獣の執務室に近づいているのが分かった。ただ、それが分かったところで、今の加賀は笑えるほどに無力だった。その事実を否定しようと、震える呼吸を漏らしながら体を動かそうとする。

 

「無駄だよ。動けないって」

 

 加賀を担いでいる方の侵入者が、加賀の方を見ないまま、走りながら言う。

 

「大人しくしていて下さい」

 

 加賀を担いでいない方の侵入者もまた、加賀の方を見ない。

 

 彼女達の声は、何処かで、しかし確実に聞いた事のある声だった。廊下を駆ける彼女達は、野獣の執務室の近くで足を止めた。暗い廊下に、微光が灯っているのが分かった。誰かが居る。そう思った時には衝撃があった。加賀は、自分が床に投げ出され、転がり、廊下にうつ伏せになったという事を理解するのに5秒ほど掛かった。背中と肩を打った鈍い痛みがあった。視界が霞みかけるが、そこで気付く。

 

 執務室の前の廊下に居るのは、野獣と時雨だった。野獣は、革ベルトのようなもので日本刀を腰と背中に吊っていて、廊下の床に片膝立ちになっている。片手で携帯端末を耳に当てて、もう片方の手で、倒れている時雨に治癒術式を扱っている状態だった。恐らくだが、艦娘囀線の龍驤の書き込みを見た野獣も、すぐに動いていた筈だ。あの状況からして、携帯端末で何処かに連絡を取りながら、執務室の傍で倒れていた時雨を介抱しようとしていたに違いない。野獣の行動は迅速だったかもしれないが、侵入者たちの大胆さがそれを遥かに上回っているのを感じた。

 

 

「お前(達)は誰だよ?(野獣の眼光)」

 

 野獣は低い声で言いながら、横向きに倒れている時雨を守るように、すっと前に出る。時雨が、途切れ途切れに何かを言おうとしている。だが野獣は、それには応えない。「お前らの所為で鎮守府が、あーもう滅茶苦茶だよ。分かる? この罪の重さ(敵意)」と、低い声で言いながら帯端末を手早く操作し、もう片方の手は背に吊った長刀の柄に添えられていた。対して、倒れる加賀を足元に立つ侵入者達は、臨戦態勢を見せない。

 

 

「その端末を捨てて、両手を挙げてよ」

 

 さっきまで加賀を担いでいた方の侵入者は、野獣に数歩分だけ近づく。特に気を張った風では無い。そしてもう一人の侵入者は、倒れている加賀に近づいて刀を抜いていた。月明りを薄く吸ったその切っ先が、倒れている加賀の首元に突き付けられる。それを見た野獣が僅かに身を沈めたのが分かった。加賀を助けようとしたに違いない。同時だった。

 

「言っとくけど、これは脅しじゃないから」

 

 鈍く、硬いものが砕ける音が廊下に響いた。加賀は微かに呻く。野獣が息を詰まらせた。刀を持っていない方の侵入者が、加賀の右膝を踏みつけて、砕いたのだ。倒れたままで苦し気な表情の時雨が、加賀を見ていた。

 

「余計な動きをしたら、“この加賀さん”を殺すよ。殺した後は、また違う艦娘を殺すね。私達の仲間はまだ鎮守府に潜んでるから。連絡して、一人ずつ殺して貰う」

 

 加賀の膝を踏み砕いた侵入者は、落ち着いた声音で言いながら携帯端末を取り出して見せた。

 

「私達の言葉に大人しく従ってくれれば、これ以上、艦娘には手を出さない。そう命令されてるんだ」

 

 野獣は、今まで見せた事の無い表情で、侵入者2人と加賀を見比べた。野獣の、その逡巡が気に入らなかったのか。侵入者は「どうすんの?」と言いながら、今度は倒れている加賀の右肩を踏み砕いた。加賀は、漏れそうになる呻きを飲み込む。骨が砕ける音が、激痛と共に抜錨も出来ない体内に籠る。

 

「おっ、そうだな……(降伏)」

 

 のたうつ事も出来ない加賀を見た野獣が、手にした携帯端末を地面に捨てて、無防備に両手を挙げた。

 

 

「やっぱり貴方みたいな提督には、こういうのは効果的だね」

 

 侵入者は冷静な声で言う。うつ伏せのままの加賀は唇を噛みながら、視線を動かす。野獣を見る。野獣は、今まで見た事の無い表情で、加賀を見ていた。ただ、狼狽えたりはしていない。

 

「……俺は何をすれば良いんですかね?(覚悟完了)」

 

「取り合えず、その背中の刀を捨てて貰おうかな」

 

 侵入者の声には、殺気も敵意も無い。そして、隙も無い。うつ伏せに倒れる加賀には、野獣との侵入者達の間にある距離が、酷く離れて感じる。それは多分、この距離が、野獣には全く有利には働かないからだろう。そしてそれは、大きく息を吸ってから侵入者に向き直った野獣も理解している筈だった。

 

 

「ん、おかのした(唯々諾々)」

 

 野獣はゆっくりとした動作で、太刀を床に置いた。その最中にも、加賀の首筋には刀の切っ先が触れていた。皮膚が微かに斬れて、血が喉を伝い、床に滴る。

 

「うん。じゃあ次は、……その腰の刀で、自分の心臓を貫いてよ。貴方が死ぬまで、私達は、貴方に近づかない」

 

 侵入者の声は、どこまでも冷静だ。何かを哀願するような顔をした時雨が、床に手をついて、何とか体を起こそうとしている。だが、その肩や腕がぶるぶると震えているだけだった。右膝と右肩を破壊された加賀も立ち上がれないまま、視線だけで野獣を見る。

 

「俺を殺すんなら、頸とか頭とか潰した方が早く無いっすか?(過る疑問)」

 

 野獣は、侵入者の二人を見据えながら腰の刀に手を掛けていた。野獣の凪いだ眼は死んでいない。侵入者達の隙を伺うように、油断なく、沈着だった。其処には明確に、この状況を打破しようとする意思があった。「まぁ、そうなんだけどね」と、侵入者が抑揚の無い声音で言う。

 

「貴方の死体はね、綺麗なままで回収しろって言われてるんだ。首から上は特に」

 

「あっ、ふーん……(察し)」 野獣は鼻を鳴らす。

 

「そう。だから、心臓」 

 

「あっ、そうだ!(唐突) アイツのところにも、お前らみたいなのが遊びに来てるんですかね?」

 

「……その質問は、時間稼ぎか何かのつもりですか?」

 

 今まで黙っていた、加賀の頸元に刃を突きつけている方の侵入者が、冷気のような声で言う。場の空気が張りつめる。時雨が唾を飲み込む音が聞こえた気がした。加賀も、自分の頸に触れる冷たい感触が強くなるのを感じた。切っ先の刃が、更に皮膚を裂いている。冷えた沈黙があったが、それを破ったのは携帯端末を持つ方の侵入者だった。

 

「別に、時間稼ぎでもいいよ。それに応える人は居ないんだから」

 

 それは、明らかにこの場の緊張を解す為の言葉だった。刀を持っている侵入者を宥める様な響きがあったし、同時に、野獣を讃える響きもあった。

 

「こんな状況だけど、貴方は良い眼をしてるよ。何か策でもあるのかな。私達の隙を伺ってるね。“この加賀さん”を見捨てるつもりも無いみたいだ。でも、抵抗しても無駄だって、分かり易く教えた方が良い?」

 

 そう言うと、侵入者はおもむろに顔の半分を隠していたマスクを外して見せる。暗がりの廊下に晒された侵入者達の素顔に、時雨が目を見開いていた。加賀も息を詰まらせる。野獣だけが、詰まらなさそうに鼻を鳴らした。

 

「貴方には選択権なんて無いよ。勿論、私達にもね」

 

 月明かりを横顔に浴び、冷静な笑みを湛えているのは艦娘、川内だった。そんな馬鹿な。今のこの鎮守府は、艦娘の肉体をスポイルする何らかの術式の影響下にある筈だ。実際、加賀や時雨を始め、この鎮守府の艦娘の殆どが行動不能に陥っている。それなのに。何故、この川内は動けるのか。何らかの特殊な調律を施されているとしか思えない。

 

 

「私達も、今回の黒幕……いや、黒幕達って言った方が良いんだろうけど、それが誰かなんて、全く分からない。軍属の人間だけじゃない、色んな業界の指導階級の人間の思惑や要求が複雑に絡んでるんだよ。だから、この襲撃の為に色んな人間が用意されてる。この事件の全貌の、その一切を握り潰す準備をしている人間も居るし、鎮守府のセキュリティを抑える人間も居れば、こうやって……」

 

 川内は言いながら、うつ伏せに倒れている加賀を、顎で指す。

 

「艦娘達を無力化する為の術式を、広範囲で発生させる技術者も居る。ついでに言えば、この鎮守府に一般人が寄らないよう、公安の人間に協力して貰って交通規制も敷いてある。分かるかな? この鎮守府は、もう機能してないんだ」

 

 野獣に向き直る川内は、この圧倒的な状況でも、全く油断をしていない。隙が無い。野獣も動けない。

 

「貴方が稼ごうとする時間に、応える者はいない。碌に動けるのは、貴方と、もう一人の少年提督だけなんだよ」

 

 時雨が何とか上半身を起こし掛ける姿勢で、野獣と川内を見ている。もう一人の侵入者もマスクを外した。神通だった。彼女の眼は冷静だが、ひどく醒めているように見えた。神通は、加賀の喉首に刃を向けてまま、野獣に向き直る。

 

「艦娘である私達なら、戦闘になって髪や睫毛、血液、それに皮膚などが残っても問題ありません。仮に、私達が此処で殺されようと、残るのは艦娘の死体だけです。所属艦娘の記録など、『黒幕』である者達の手に掛かれば、幾らでも改竄出来るでしょう。『一体何処で、誰が召還した川内と神通』かなんて、絶対に分からない。この事件と一緒に、簡単に隠蔽されます」

 

 神通の冷たい声は研ぎ澄まされた刃物のようで、暗がりの廊下によく通った。「私達の“提督”も、それこそ末端の末端だろうし、私達に至っては、数にも入らない駒みたいなものだからね」と、川内が言葉を繋ぐ。つまり、と加賀は思う。野獣が此処で川内達を捕らえた所で、その背後に居る存在には繋がる線は、もう消されているという事だ。彼女達は本当に文字通り、“駒”として存在している。神通が、野獣が床に捨てた携帯端末を一瞥して、緩く息を吐く。

 

「貴方がその端末で何をしようとしていたのかは分かりませんが、もう間に合いませんよ。外部に連絡を取っていても、その記録が残っていても、全ては世間に出る前に揉み消されます。ただ、私達は貴方の肉体を回収したい。だから、貴方に抵抗されるのは絶対に避けたいのです。これは、一つの取引だと思って頂きたい」

 

 神通は言いながら、加賀に突き付けていた刀を一度引いた。そして音も無く、加賀の左肩へとその切っ先を埋め込み、貫通させ、さらに手首を2、3度返して、加賀の左肩の内部を抉り、破壊する。加賀はうつ伏せのまま、「ぅ、あ……っ!!」と呼吸とも呻きともつかない、掠れた苦悶の声を上げながら、野獣がすっと態勢を沈めるのが分かった。加賀を助けようとしたに違いない。だが、野獣は動けない。川内が、携帯端末を持っている。彼女が他の仲間に連絡を取れば、また別に艦娘の体が刻まれるのだろう。野獣の顔は、慙愧に歪んでいる。

 

 

 川内と神通は、徹底的に野獣に近づかない。

 近接戦闘を得意とする野獣の、その間合いの外から、野獣を殺そうとしている。

 

 

 加賀は、今の己の無力さに押し潰されそうになる。それは、野獣の背後で上半身だけを起こそうとしている時雨にしても同じだろう。呼吸を震わせる加賀の首元に、血に濡れた刀の切っ先が、再び突きつけられた。

 

「我々の目的は、貴方の死と、そして肉体の回収です。艦娘達には、出来るだけ傷を与えないよう“命令”されています。しかし、必要最低限であれば、攻撃を加える許可を得ています。必要最低限とは、“貴方が死ぬ”までです。必要であれば、艦娘を何人でも殺します。先程も言いましたが、これは脅しではありません」

 

 神通は事務的な口調で言うが、それ故に有無を言わさない冷徹さが在った。「“抜錨”状態の艦娘は確かに頑丈だけど、そうじゃない時は、まぁ人間と其処まで変わらないからね」と言いながら、川内が携帯端末を耳に当てる。それは、他の仲間に連絡を取り、加賀達と同じように身動きが取れない艦娘達に、いつでも危害を加える準備が出来ているというポーズに他ならない。

 

「妖精と修復材、それに治癒施術なんかを扱える提督が居れば、艦娘の肉体は再構築されて復活する。腕や脚や内臓が吹っ飛んでいてもね。でも、“抜錨”状態ですらない艦娘の頸を撥ねたり、その頭まで潰したら、流石に蘇生は出来ない」

 

 川内は冷静なままだ。この圧倒的な状況に、慢心も愉悦もしない。自身の任務を遂行する上で、必要な分だけ情報を出している。それは、鎮守府に居る艦娘の、その殆どを人質に取られている野獣に対する、冷酷な交渉に違いなかった。くぐもった銃声が、立て続けに十数発響いたのはその時だった。少年提督の執務室の方からだ。青ざめた顔の時雨が、唇を震わせて息を潜めていた。加賀も、自分の血が冷たくなっていくのを感じた。耳の中で、銃声の余韻が不吉に木霊している。

 

「……アイツは、どうなるんですかねぇ?」

 

 ゆっくりと呼吸をした野獣は、携帯端末を耳に当てたままの川内に訊く。川内は、「アイツ……? あぁ、少年提督の事?」と、やはり冷静な眼で、野獣を見詰めた。その間にも、川内が持っている端末からは、誰かの話し声が聞こえる。それは川内への連絡に違いなかった。

 

「貴方と同じように、艦娘達の代わりに死んで貰っただけだよ。……たった今ね。死体を回収しろっていう命令は受けてないから、念入りに死んで貰ったんだ」

 

事実を事実として、川内は答える。少年提督が死んだ。それは圧倒的な現実として、この場にいる全員に訪れる。野獣が稼ごうとする時間は、空虚に霧散していく。観念するように薄く息を吐いた野獣は、川内と神通を見てから、加賀を見た。そして静かな面持ちで腰の太刀を抜いた。その刀身に刻まれた、聖剣“月”の銘が、野獣の手の中で月光を鈍く反射している。野獣は太刀を右の逆手に持って半身立ちになり、その切っ先を自身の左胸に当てた。余りにも迷いの無いその所作には、凛とした佇まいがあった。

 

「一つだけ確認しとくゾ(死出の前に)。お前らはさっき、“俺が大人しく従えば、これ以上は艦娘に手を出さない”って言ったよな?(一千の問い)」

 

 野獣は、自身の心臓を太刀で貫く姿勢を崩さずに、川内と神通を交互に見た。その武人然とした野獣の気迫に、二人が僅かに怯むのが分かった。だが、すぐに川内が頷いて見せる。

 

「うん。そういう“命令”だから。私達の意思とは関係なく、逆らえない。理由もはっきりしてるよ。此処の鎮守府の艦娘達の練度が、本当に高く評価されてるからさ。その純粋な戦力を削りたくは無いんだろうね。人類優位とは言え、深海棲艦との戦いはまだ続く訳だから」

 

 今の状況と川内の言葉に矛盾は無い。加賀は両肩と右膝を破壊されているが、これは治せる。戦場に戻るまでの修復は十分に可能だ。これだけ痛めつけられても、加賀の持つ戦力としての価値は損なわれていない。ただ、この抵抗出来ない無残な姿が、野獣という男を追い詰める為に必要だったのだ。更に、鎮守府に居る艦娘達を人質に取ることで、野獣の抵抗を封じている。

 

 微かに体を強張らせた川内に続いて、神通が頷く。

 

「戦わずに貴方を無力化し、尚且つ、貴方の肉体に出来る限り損傷を残さない為の、その取引の材料として艦娘達を無力したのです。貴方が我々に従ってくれるのであれば、私達が此処の艦娘達に干渉する理由がありません」

 

「……まぁ、襲撃者の言う事だし、信じて貰えないかな?」

 

 川内が言葉を繋ぐと、野獣は大きく息を吐き出した。

 

「信じようが信じまいが、俺に選択権は無いってハッキリ分かんだね(託す者)」

 

 そう言った野獣の声は、全く震えていなかった。適切に乾いていて、その表情も落ち着いている。受け容れざるを得ないものを、静かな覚悟と共に受け止めようといているのが分かった。

 

 今の状況で、野獣に出来ることは殆どない。無論、艦娘達を見捨てて動くことも出来ないことは無いが、野獣という男がそれを選択しないことは加賀も分かっていた。もう、こうするしかないと野獣が判断する事も、加賀だって殆ど分かっていた。冷徹になりきれない野獣という男の甘さを知っているし、此処に居る艦娘達は、そんな野獣を必要としていた。

 

 無念だった。加賀は動けない。ぶちぶちと唇を噛みちぎる。艦娘に対する野獣の優しさや思いやりが、こんな風に利用されてしまう世界が憎い。その世界を動かしている人間達の欲望や利益といったものが憎い。「ぅ、ぅ、ぅ、ぅ、あ、あ、あ、あ、あぁ……!」と、眼に涙を浮かべた時雨が、呼吸が千切れる程に体を震わせている。何とか立とうとしている。それでも、無駄だ。加賀と時雨は、人間達の企みの前に、ただただ無力だった。

 

 侵入者達は動かない。野獣に近づかない。野獣の間合いに入らない。野獣に対するその沈着な殺意と敬意は揺るがない。人質によって動けない野獣は、自身の心臓に太刀の切っ先を突き付けながら、ほんの少しの笑みを湛え、時雨を見て、加賀を見た。次の瞬間だった。一息だった。野獣は、そのまま自分の心臓を太刀で刺し貫いた。

 

 アー逝キソ……(死の淵)

 

 ゴホッと血を吐きだした野獣は、その場に片膝をつく。時雨が、獣のような呻きを挙げる。加賀は、ただ茫然と見ていた。あっという間に、野獣の足元には血の池が出来上がる。左胸から太刀を生やした野獣は、自分の足元を見ている。静かな眼をしていた。何かを思案しているのか血の匂いが、暗い廊下に薄く流れる。侵入者達は、まだ動かない。野獣が完全に死ぬまで、近づかない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 深海棲艦研究施設の地下フロア。其処に拵えられた研究室にて、少女提督は携帯端末を耳に当てながら、爪を噛んでいた。鎮守府に居る誰とも、その通信が繋がらない。秘書艦として隣に居る野分も、鎮守府に居る姉妹達に連絡を取ろうとしているようだが全て空振りしているようだった。艦娘囀線を見ても、龍驤の書き込みが最後である。“元帥”の権限を持って、鎮守府のセキュリティシステムにアクセスしてみたが、それも沈黙していた。監視カメラの映像を確認し、鎮守府の状況を把握することも不可能だった。本営には救援の要請はしてあるものの、到着するまでの時間を考えれば期待はできない。

 

 

 この研究施設の所長には、鎮守府が何らかの襲撃を受けている事はすぐに、正直に伝えた。所長は職員達が恐慌を起こさずに避難させるために、『危険なガスが漏れている』というアナウンスを行ってくれた。軍属の施設に身を置いている職員達の動きは素早く、貴重な資料や実験サンプルなどを手に、既にほぼ全員が研究所から脱出している事は、警備にあたっていた兵士から先ほど教えて貰っている。本来なら少女提督もこの場から離れるべきなのだろうが、少年提督や野獣、それに艦娘達を置いて逃げる事は出来なかった。空調の利いた研究室は静まり返っている。少女提督は深呼吸をして、手にした携帯端末を睨んだ。

 

 恐らく、この襲撃の首謀者は、艦娘を人間として扱う事を忌避する上層部の一部と、それに共感した過激な提督連中だろう。最近は特に、社会の中での艦娘達の活躍が目立っていたし、艦娘達に対する世間の表情も、より優しくなった。それをどうしても認めたくない者達が居る。艦娘達の人格と個性を人々に強く訴える野獣と少年提督を、目の敵にしている者達の存在が頭に浮かぶ。ああいう人間達の中には巨大な権力との繋がりを持つ者も多いし、そういった社会の闇に掛かれば、鎮守府という狭い空間の中で何が行われようと、揉み消すのも容易いに違いない。どういった形であれ、政治的な力が働くだろう事は想像できる。

 

 ただ、艦娘に対する最近の世相の流れは、本営の意図的なものだった筈だ。多くの艦娘達に活躍の場や、人々との交流の場を用意したのも本営だった。艦娘と世間との距離が縮まれば縮まるほど、いつか『艦娘達の深海棲艦化』という事実が表に出た時の衝撃は大きくなり、人々が抱く恐怖と失望も深くなる。そういった効果を本営は期待しているのだろうと少女提督は考えていた。結果的、将来的に、艦娘達を道具として扱うことが、公然と許されるような価値観を生み出す為の布石のようなものだと。

 

 しかし、過激派の一部の者達は、こういった本営の迂遠なやり方に不満を抱いているのか。艦娘達を『人間と変わらないもの』と捉え始めた今の社会が、例え本営の目論見通りであっても認められずに暴走しただけなのか。無論、今は考えても答えは出ない。少女提督は爪を噛む。

 

「駄目だ。野獣にもアイツにも、やっぱり繋がんない」

 

 顔を上げた野分が、真剣な表情で少女提督を見た。

 

「ハッキングと言うか、私達の端末が外部から干渉されているという可能性はありませんか?」

 

「鎮守府のセキュリティがダウンしてるから、私もそう思ったんだけど……。可能性は低いかも。私の端末は本営にも繋がったし、此処の警備員にも繋がったからね」

 

 苦々しく言った少女提督は眉間に皺を刻み、視線を落とす。少年提督や野獣、それに少女提督が使っている端末は、当然のことながら本営の管理下にあるものだ。何者かがこの鎮守府に存在している端末のシリアルを全て把握し、それらの機能を遠隔で殺している事を想定するのであれば、携帯端末は使い物にならなくなっている筈だった。なら、理由は他にある。

 

「しかし、鎮守府に居る野獣司令や艦娘達と、全く連絡が取れない状態というのは……」

 

「そうなのよね」

 

 少女提督は乱暴な手つきで端末をデスクに置いて、床を睨みながら爪を噛む。ジリジリとした焦燥が心を焼く。侵入者と対峙しているかもしれない少年提督や野獣はともかく、鎮守府に居る艦娘達の、ほぼ全員と連絡が取れないのは何故だ。練度の高さから見ても、こんな短時間で彼女達全員が行動不能になるなんて事は、まず考えられない。理由がある筈だ。それこそ、何か外的な干渉を受けているのでは無いか。とにかく、まずは鎮守府の内部で何が起きているのかを把握する必要が在る。

 

「……今から、鎮守府に戻るわ」

 

「待って下さい」

 

 少女提督は研究室の扉に向かおうとするが、その行く手を阻むように野分が立ち塞がった。野分は険しい表情で首を振る。

 

「危険過ぎます」

 

「どいてよ、野分」

 

「駄目です。もしも司令に何かあれば、姉妹達に申し訳が立ちません」

 

「『これは命令だ』って言いたくないんだけど」

 

「なら、私が鎮守府に行きます。司令は、どうか此処に居て下さい」

 

 一分一秒を争う状況だが、だからこそ、少女提督と野分は睨み合う。少女提督はゆっくりと息を吐いて、視線を落とす。

 

「……ごめん。ちょっと頭を冷やすわ」

 

 野分の言う通りだ。冷静にならなければならない。艦娘囀線で龍驤が書き込んだ通り、野分は『自身の提督』を守れる場所に居るのだ。地下フロアの通路にはセキュリティの一つとして、外敵を遮断する為の強固なシャッターも備えられている。此処は比較的安全な場所なのは間違いない。だが少女提督は地下フロアから出て、わざわざ危険な鎮守府に戻ろうと言うのだから、野分が険しい表情をするのも無理は無い。

 

 だが、どうしても自分だけが安全な場所でじっとしていることは出来ないと思った。この場所で、自分に出来る事は何だと考えようとする。何か無いかと、少女提督は視線を巡らせる。自問自答する。何か。何かある筈だ。自分に出来る事が。何もない筈がない。野分が神妙な顔で佇んでいる。探せ。考えろ。こういう時、野獣はどう動くか。少年提督は何を思うか。彼らは今、どのような状況にあるか。少女提督は床を睨んだままで爪を噛む。

 

 

 次の瞬間だった。

 

 デスクに置いていた少女提督の携帯端末が、pipipipiと電子音を発した。着信だ。少女提督と野分は一瞬だけ顔を見合わせて、少女提督はすぐに端末を手にとった。ディスプレイには≪あきつ丸≫の文字が表示されている。端末を通話状態にして耳に当てると、端末の向こうであきつ丸が息を潜める気配がした。

 

 

『無事でありますか? 今、何処に?』

 

 抑揚のない、ゆっくりとした声だった。酷く落ち着いている。普段のあきつ丸の声とはまるで違うが、今はその冷静さが頼もしい。

 

「地下の研究所よ。傍には野分も居るわ」

 

『それは良かった。事が終わるまでは、其処で大人しくしていて下さい』

 

「そっちはどうなってるの?」

 

『かなり絶望的な状況ですなぁ。ほぼ全ての艦娘が行動不能であります』

 

「……どういう事?」

 

『皆、意識は在るのですがね。自力では立ち上がるどころか、喋ることもままならない状態でありますよ』

 

「それって」

 

『えぇ。艦娘達を対象に取る、何らかの術式の影響を受けているのは間違いありませんな』

 

 あきつ丸の言葉を聞いて、少女提督の脳裏に“艦娘の強制弱体化・解体術式”の報告書の内容が過った。まさかと思う。あの術式自体は複数の艦娘を対象に取れるが、鎮守府全域に効果を及ぼすような規模での運用は想定されていなかった筈だった。仮にそれが可能であったとしても、術式を広範囲に展開する為には多数の“提督”の存在が必要になる。いや、術式の効果を増幅させる何らかの装置を用いれば、少数の人間でも今回のような規模での運用を実現できるのかもしれない。そこで、ふと気づく。

 

「ちょっと待って。あんたは何で無事なのよ」

 

 そうだ。艦娘を対象に取るのであれば、あきつ丸も皆と同じように行動不能に陥っていなければならない。あきつ丸が、端末の向こうでほんの少しだけ笑うのが分かった。

 

『前も言ったでありますが、自分は“出来損ない”の艦娘でありますからな』

 

 あきつ丸の声音には、自嘲も自尊も無い。適度に乾いていて、やはり冷静だ。以前の大本営ゲームの時も、あきつ丸は自分自身を“出来損ない”だと言っていた事を思い出す。少女提督は、一つ呼吸を置いた。

 

「……要するに貴女は、純粋な艦娘じゃないって事ね」

 

『えぇ。御陰で、体に違和感が在って万全とはいきませんが、まぁ、大丈夫であります』

 

 事実を事実としてだけ認識するように努める。あきつ丸の過去は気になるが、それを詮索している場合ではない。

 

「こっちで出来る事は?」

 

『いや、在りませんな。其方で身を隠していて下さい』

 

 つき放すような言い方のそれは、間違いなく、少女提督を思ってのことだった。

 

「でも……!」

 

『襲撃者の狙いは艦娘では無く、提督殿と野獣殿であります。これは間違いないでしょう』

 

 少女提督は息を呑む。

 

『つい先程、黒いボディスーツを着込んだ侵入者達が、加賀殿を担い野獣殿の執務室に向かうのを見ました』

 

 傍に居る野分が、少女提督が握る端末を睨むように見ている。

 

『それと他にも、襲撃者であろう武装した女の姿が幾つか。……彼女達は、身動きの出来ない艦娘達の傍に立って、辺りの様子を伺っていましたな。或いは、何らかの合図を待っているかのようでもあります』

 

「要するに人質じゃない。……状況はホントに最悪ね」

 

 少女提督は吐き捨てるように言う。あきつ丸の話を聞いている限り、鎮守府に居る艦娘達の殆どは行動不能で、襲撃者達の脅威には成り得ない。それに連れて行かれたという加賀も、人質として利用されるのは間違いないだろう。

 

『ただ……、襲撃者達の数、それに様子を見るに、殆どの艦娘達は見逃すつもりなのでしょう。陸の上で艦娘が大量に殺されるような事があれば、今の世間は見逃しません。どういった政治的な力が動くのかは分かりませんが、襲撃者達にしても、“揉み消せる範囲内”でしか動けないという訳でしょうな』

 

 軽い眩暈を憶えた。また爪を噛む。結果的にこの襲撃は、世間の顔色を窺っている本営の首を絞めているように思える。

 

『其方にいる野分殿も、この術式の効果範囲に入れば動けなくなる。鎮守府に戻ろうなどとは思わないで頂きたい』

 

 あきつ丸は抑揚の無い声のままで言ってから、また軽く笑った。

 

『ご存知ではないでしょうが、提督殿と野獣殿は自分たちに何かあった時の為に、我々の管理者として貴女を推薦しているのですよ。そして、それは本営にも受理されています』

 

 少女提督は、一瞬、あきつ丸が何をいっているのか理解が遅れた。

 

「な、によ、それ……」

 

 それはつまり、少女提督ならば、少年提督や野獣の艦娘達を率いていても、本営の脅威にならないと判断されているという事だ。艦娘達の活躍が世間で注目される中では、提督を不自然に失った艦娘達の存在というのは悪目立ちする。特にこの鎮守府の艦娘たちはテレビに出たり秋刀魚祭りをしたりして、世間との距離も近いから尚更だ。艦娘の剥奪命令などは、本営がその気になれいつでも出せる。だが、この襲撃事件が世間の中で大きく取り上げられる前に握り潰すには、宙ぶらりんになった艦娘達を迅速に受け容れて、艦娘達が居るべき場所に仕舞い込んでくれる存在が必要になる。要するに、それが少女提督という訳である。

 

『もしも、提督殿や野獣殿が居なくなっても……、貴女が居れば、この鎮守府は死なない。 我々の帰ってくる場所は、貴女が居れば存続する。良いですか? 我々の帰る場所とは、“提督”の居る場所なのですよ。つまり、貴女なのです』

 

 あきつ丸の声は、優しかった。端末を握る手が震える。以前の大本営ゲームの時、あきつ丸は言っていた。『帰ってくる場所があるというのは、良いものでありますなぁ』と。少女提督は拳を握って、息を吐く。何か言ってやろうと思ったが。言葉が出てこない。唇からは震える呼吸が漏れるだけだった。『では、頼みましたよ』と、端末の向こうで、あきつ丸がまた優しく笑うのが分かった。そしてすぐに、通信は途切れた。頭に血が上っていくのが分かった。いったい、何が“頼みました”なのか。

 

 此処で、ただ嵐が過ぎるのを待っていろと言うのか。

 鎮守府に居る少年提督や野獣を、黙って見捨てろと言うのか。

 残された艦娘達の為に、私は生き残れと。

 

 確かに、それは正しいのだろう。頭の中の冷静な部分は、それを分かっている。少女提督は今、自分が此処に居る偶然を理解している。合理的に判断するのならば、あきつ丸の言う通り、じっとしているべきだ。だが、それを納得できるかどうかと言うと、笑えない。少女提督だって、少年提督や野獣と共に、あの鎮守府で過ごして来た。彼らの傍に居たのだ。舌打ち混じりに端末を乱暴に操作しながら、少女提督は「冗談じゃないわ」と低い声で呟く。

 

「司令……」

 

 野分が低い声を掛けてくる。

 

「野分。私さ」

 

 少女提督は野分を見据える。

 

「此処で動かなかったら多分、一生後悔する。だから悪いんだけど、我が儘言うね」

 

 野分が険しい表情で何かを言おうとした時には、端末が繋がる。

 

『……そろそろ、貴女から掛かって来るだろうと思っていた』

 

 端末の向こうから聞こえる“初老の男”の声は、やけに低く聞こえた。

 

「こんな時間に申し訳ありません」

 

『いや、構わない。急を要する状況なのだろう』

 

 初老の男は、もう既に鎮守府が襲われている事を知っているような、凄みのある、落ち着いた口ぶりだった。少々面食らったが、話が早くて助かる。少女提督は一つ呼吸をして、野分を一瞥した。難しい顔をした野分は黙っている。会話の邪魔をしようとする様子は無い。野分と眼が合うと、彼女は何かを諦める様に俯き、額に手を当てた。

 

「鎮守府が襲われています。恐らくですが、狙いは――」

 

『あぁ。分かっている。彼らが狙われているのだろう。本営上層部の連中も、一枚岩では無い』

 

 初老の男が鼻を鳴らす。

 

『娘の恩を返す時のようだ。……私に出来ることがあれば、何でも言ってくれ』

 

「はい」 

 

 少女提督は、大きく息を吸ってから携帯端末を両手で持つ。

 

「これから私達が行う全ての事を、この事件と共に隠蔽して貰いたいのです」

 

『何をするつもりだね?』

 

「今から私は、深海棲艦達を再活性した上で、彼女達と共に鎮守府に向かおうと思います」

 

『……なるほど』

 

 端末の向こうで、初老の男が低く笑う。傍に居る野分が、今までに見たことない表情を浮かべ、目をまん丸に見開いて此方を見ていた。それを無視して、少女提督は言葉を続ける。

 

「私がやろうとしている事が、狂気の沙汰であることは理解しています。そもそも、スポイルしている深海棲艦達を再活性したところで、言う事を聞いてくれる保証なんてありません。もしかしたら、再活性した瞬間、私はあっという間に殺されるかもしれない。いや、殺されるだけじゃ済まないかもしれません」

 

 少女提督は、自分の声が震えて来るのが分かった。

 

「しかし、深海棲艦達が暴れて“元帥”である私が死ねば、地下のフロアをロックするセキュリティは確実に作動します。もともと、“姫”や“鬼”を捕虜として捉えておくために設計されたフロアですから、再活性した彼女達がどれだけ強力な個体であろうと、彼女達が地上に出る事は不可能です。それに、此処の深海棲艦達は特殊な調律を受けて、リモートで解体施術を行えるようになっています。地下に閉じ込められた彼女達を、遠隔で再びスポイルすることも可能です」

 

 溺れる最中に呼吸を求めるように、頭の中にある言葉を捲し立てる。吐き出された少女提督の声は、哀れなくらい切実な響きを伴って研究室の白い壁に響いた。社会の闇に通じる大穴に向けて、大声で祈りの言葉を叫んでいるような気分だった。

 

「もしも地上に出てから彼女達が暴れ出しても、此処の研究施設の職員達は、既に全員が避難を終えています。深海棲艦達が海に逃げたとしても、リモート解体を行えば、艦娘の脅威となることは無い筈です。もう一度だけ言わせて下さい。殺される危険が在るのは私だけです。私は、どうしても彼らを助けたいんです。もう、これしか無いんです……!!」

 

『…………』

 

 端末の向こうでは、初老の男が黙り込んでいた。野分も、僅かに呼吸を乱しながら、端末を縋りつくように持つ少女提督を見詰めている。

 

『……分かった。此方も手を尽くそう。時間が惜しい。君は移動してくれたまえ』

 

 少女提督が持つ端末の向こうから、初老の男の、喉の奥で笑うような低い声が響いた。しかし、それは嘲う為の嗤いでは無かった。少女提督が見せた覚悟に対する感嘆を含むものだった。端末の向こうで、『こうなるだろうと思っていた。今夜は、何処も彼処も忙しくなるな』と、初老の男が微かに笑う。底知れない響きが潜んでいて、鳥肌が立った。

 

『もしも貴女が失敗しても、その責任を追う者の用意はしてある。何も心配しなくても良い。健闘を祈るよ』

 

 この携帯端末の向こうでは、少女提督が今まで関わった事の無いような、途方も無いほどに深く巨大な闇が立ち上がろうとしているのを感じた。そしてその闇は、これから少女提督と並走しようとしているのだと思った。余りにも頼もしく、恐ろしい。だが、今の鎮守府の状況を引っ繰り返すには、その力が必要だった。善良さや道徳などとは遠く離れた場所に存在する力と、そして、その力の行使を覆い隠す暗闇が。

 

 深海棲艦達を、味方として再活性する。

 この無法と不道徳は、人間社会の闇が肯定する。

 今は正義など必要ない。

 

 

「司令」と、傍にいた野分が、怒ったような顔で近づいてきた。

 

「……本気ですか?」

 

「勿論。これしか無いのよ」

 

 少女提督は野分に短く答えながら、デスクの上に用意してあったVR機器とタブレット端末を脇に抱える。VR機器には、≪少年提督のAI≫を載せてある。このVR機器を装着すれば、“提督”としての適性の低い少女提督であっても、深海棲艦達の再活性は可能だ。ただ、彼女達が暴れ出した時に、それを止めるだけの規模の術式を編むことは出来ない。これは賭けだ。少女提督は、これから命を賭ける。身体が震える。武者震いだと自分に言い聞かせる。恐怖を跳ね返す。

 

「野分、今まで有難う」

 

 少女提督が野分に向き直る。

 

「此処で別れて、貴女は安全な場所へ――」

 

「司令……!!」

 

 野分の低い声が、早口で捲し立てようとする少女提督の言葉を遮る。野分は本気で怒った顔で少女提督を見ていた。

 

「私も行きますよ。何を言っているんですか」

 

「えっ、でも……」

 

「でもじゃないですよ。自分はやりたい放題する癖に、私にだけ逃げろなんて、よく言えますね」

 

 野分は呆れたような溜息を吐き出して、少女提督からタブレットとVR機器を引っ手繰るようにして奪い、研究室の扉に向かう。その途中で、「最後まで付き合いますよ。当然です」と、野分は肩越しに振り返って来た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 艦娘囀線での龍驤の書き込みを見た時、霞は朝潮達と共に食堂に居た。すぐに廊下へ飛び出したものの、其処で倒れ込んで動けなくなった。それは、他の艦娘達も皆同じだった。何らかの術式によって肉体がスポイルされているのは分かった。何とか立ち上がろうと体を震わせている時、「すまないな。一緒に来て貰おう」と、誰かに声を掛けられた。低く、落ちついた女性の声だった。それが侵入者のものである事には、すぐに気付いた。

 

 侵入者は長身だった。黒いボディスーツに身を包み、拳銃と軍刀らしきものを装備していて、顔の下半分を黒い特殊なマスクで隠していた。侵入者は物騒な雰囲気を纏っていたが、彼女の目許は柔らかく思慮深そうで、優しそうな印象さえ与えるその眼差しが、酷くちぐはぐだった。彼女が霞を抱える手つきも、場違いな程に丁寧だった。

 

 抱えられて、暗がりの廊下を移動している間に、仲間の艦娘達が地面に転がっているのを見た。伏したままの艦娘達は、他の侵入者達に大型の拳銃を向けられていた。侵入者達は皆、黒いボディスーツを着ていた。侵入者達は艦娘を手荒に扱ったりはしていない。慎重な様子で、一定の距離を取っている。殺意や害意を感じない距離の取り方だった。霞は、自分の心臓に鈍い痛みを感じた。身動きの出来ない艦娘達が、人質に取られているのは明白だった。

 

 今まで少年提督や野獣が抗おうとしていた“現実”というものが、この鎮守府で過ごす日常の中に侵入し、それを呆気なく崩壊させていく。その光景を、呻く程度しか出来ない霞は、ただ見ている事しか出来なかった。そのうち、強烈な倦怠感と虚脱感に、鈍った体の感覚を根こそぎ持っていかれる感覚があった。

 

 

 あれから、どれくらいの時間が経ったのだろう。

 

 霞は今、ソファに座らされていた。少年提督の執務室のソファだ。

 

 執務室の中は薄暗い。電気が消えている。非常用の卓上ランプが点いているだけだ。窓は開いているが、空気が澱んでいるのを感じた。霞の隣には、黒いボディスーツを纏った侵入者が立っている。侵入者は大型の拳銃を持ち、銃口を霞の頭に向けていた。拳銃にはサイレンサーなどは装着していない。つまり、仮に銃声がしようとも、それは問題にならない程度に、この鎮守府は制圧されているという事だ。状況は多分、今までにない程に最悪だ。

 

 霞の向かいのソファに、少年提督が座っている。

 

 侵入者の女が穏やかな声音で、ソファに座るように彼に指示したのだ。彼は大人しくそれに従った。静かな表情を浮かべている少年提督は、これから起こる全ての事を受け容れる覚悟を終えたように、恐ろしい程に落ち着き払っていた。霞はソファに座ったままで、正面に座る少年提督を睨む。

 

 何をそんな風に落ち着いてんのよ。さっさと逃げなさいよ。なんでまだ執務室に居るのよ。今日の夜は、深海棲艦の研究施設に行く予定だったじゃないこのグズ。そんな風に言ってやりたいが、声が出ない。薄く息が漏れるだけで言葉にならない。今の霞は、少年提督を守れない。それどころか、この状況での霞の存在は、少年提督の行動を縛るだけだ。悔しさと申し訳なさで、不覚にも涙が零れた。それを拭うことも出来ない。体が動かない。涙で暈ける視界は薄暗く、何もかもがぼやけて見えた。。

 

「……君には、此処で死んで貰うことになっている」

 

 霞に銃を突きつけたままの侵入者の女は、ゆったりとした声で言う。抑揚の無い声には、不思議な貫録が在った。この女は、少年提督を殺すことに対して微塵も躊躇しないだろうと思わせるだけの、冷たい迫力があった。霞は息を絞り出す。力を込めて、ソファから身を起こそうとする。だが、腕や脚、背中の筋肉、そして、呼吸が震えるだけだった。動けない。動けない。

 

「だが、その前に……。君と少し話がしたいんだ。良いかな?」

 

 侵入者の女は、少年提督を見詰めながら、霞の隣に腰を下ろした。良いかな、などと訊いてはいるが、それを拒む権利など今の少年提督に無いことは明白だった。冷徹な銃口は、ずっと霞を向いたままだ。少年提督は、侵入者の女と霞を視線だけで見比べてから、ゆっくりと瞬きをした。その刹那、彼の胸の内にどのような逡巡と判断があったのかは、霞には分からない。

 

「はい。……僕で良ければ」

 

 少年提督は、いつもと変わらない声と、温度を纏っている。ただ執務室の暗さが増したような気がした。霞は、視線だけで侵入者の女を見る。「うん。ありがとう」と、場違いな程に穏やかな女で応えた女は、マスクの下で薄い笑みを浮かべた様だった。

 

「随分と悠長な事をしているなと、そう思っているかい?」

 

「いえ。それだけの余裕を生み出せる状況を、貴女達が作りだしたという事でしょう」

 

「あぁ。迅速、という訳ではなかったけどね」

 

 女の声には微笑みが混じっている。少年提督の懐から、pipipipiと電子音が鳴った。暗がりに無機質に響く。携帯端末に誰かからの通信が入ったようだ。だが、少年提督は動かない。動けない。霞に銃口が向いているからだ。少年提督は自分の胸元を見下ろしてから、正面に座る女を見据えた。女が緩く息を吐く。

 

「出て貰っても問題は無い。この状況は覆らないさ」

 

「……外部がいくら騒いでも、今の貴女方には関係ないという事ですね」

 

「あぁ。私のすべきことは、頃合いを見てキミを殺す事だけだ。今は、その時を待っている」

 

「……僕に銃を撃てば、弾丸などの証拠が残りますが」

 

「構わない。深海棲艦の細胞から金属を造り出し、それを特殊な加工を施して弾丸にしてあるそうだ。この夜の出来事は世間に出ることは無いだろうが、万が一、表に出るような事があっても、キミは深海棲艦に殺された事になる。少なくとも、世間が知る事実は、そうなる。証拠など無意味だ。此処に真実などない」

 

「最初から、全てを握り潰すつもりなのですね」

 

「まぁ、そういう肚らしい。……キミは」

 

 女は興味深そうに少年提督を見詰める。

 

「随分と落ち着いているね。可愛げが無い」

 

 動けない霞は、完全に人質だった。少年提督の動きを縛り付ける為の存在だった。霞は、自分に苛立つ。怒り、焦り、悔しさなどが入り混じった感情が、次第に恐怖へと変わっていく。恐ろしい。自分が死ぬよりも怖い。この状況が、世界が、霞を置き去りにして進んでいこうとしている。待ってよ。待って。お願いだから。霞は何も出来ないまま、何かを喪おうとしている。世界が、奪っていこうとしている。

 

 

 少年提督が、表情の無い顔で頷いた。

 

「よく言われます」

 

「その態度も、私なんかよりも、遥かに余裕が在るように見えるよ」

 

 女はソファに凭れ、銃を持っていない方の手で携帯端末を取り出した。それは、霞たちが使っている者と同型のものだ。女は携帯端末のディスプレイを手早く操作しながら、表示されている時計を確認した。

 

「既に、この鎮守府の艦娘達は沈静化してある。……それに、軍属の職員達が居ないことも確認済みだ」

 

 その動作の間にも、女には全く隙が無い。

 

「私がこの端末で指示を出せば、この鎮守府に転がっている艦娘達を順に殺す準備も出来ている。だから、余計な事はしない事だ。……さて」

 

 女は携帯端末をソファテーブルの上に置く。ディスプレイには、幾つかの機器と通信している状態が表示されている。何人かの声が聞こえる。『こちら、準備整いました』『こちらもです』『こちらは、もう少し掛かります』『術式陣の出力は、安定しています』『救援部隊が此方に向かっているとの情報が入りました』『予想よりも早い』『通信の遮断はしておくべきでしたね』『いや、問題は無い』『そうだ』『もう間に合わない』『状況は、我々が完全に掌握している』

 

 複数の声が折り重なっている。そのどれもが冷静だった。

 

「……まだ少し時間があるようだ」

 

 女は、ゆったりとした声で言いながら霞に身を寄せて来た。そして、銃口は霞に向けたままで、空いた方の手で霞の太腿に触れる。左の太腿だ。女の手には、黒い軍用手袋がしてある。ごわごわとした感触が在った。霞は視線だけで女を睨む。次の瞬間だった。その女の手が、霞の左の太腿の筋肉を握り潰した。まるで、豆腐を握り砕くように。繊維が千切れる音と、骨がへし折れる鈍い音がした。途轍もない怪力だ。この女は、人間じゃない。咄嗟に理解する。こいつ、艦娘だ。激痛に、身動きが出来ないままの霞は呻く。眼を眇めた少年提督が、咄嗟に立ち上がろうとした。

 

「動くな」

 

 女が、低い声で言う。

 

 霞の左太腿を破壊した女の手が、霞の頸に掛かる。女の黒い手袋は、血で濡れている。その血が、霞の喉を濡らしている。少年提督は霞を見てから、女を見た。少年提督の眉間には、深い皺が刻まれていた。霞が初めてみる表情だった。あれは、怒りか。女が小さく笑う。女の手が、指が、霞の喉首に食い込む。大型拳銃の銃口が、少年提督に向く。女がゆっくりと呼吸をする。執務室の暗がりが、蠢いたように感じた。

 

「さて。これで、私の言葉が口先だけのものではないと言う事は理解して貰えたかな」

 

 女の声が遠い。痛みで視界が掠れる。霞は息を潜める。

 

「もう一度確認しておこう。君が大人しくしてくれれば、艦娘達を無駄に殺すような真似はしない」

 

 女の声は、酷く落ち着いている。

 

「……分かりました」

 

 少年提督が息を吐いて、視線を落とした。彼は霞の方を見ない。霞は、自分の呼吸が震えている事に気付く。この執務室の闇が、囁くようにして霞を取り囲んでいる。少年提督を塗り潰そうとしている。息が詰まる。

 

「物分かりが良いな。ますます、可愛げがない」

 

 女が微かに鼻を鳴らした。少年提督が、静かな眼で女を見る。

 

「今の世相を鑑みれば貴女方も、艦娘の皆さんを政治的に殺すことは避けたい筈です」

 

 彼は霞の方を見ない。霞の太腿の傷ならば、修復材や治癒施術によって治る。問題は無い。そう自分に言い聞かせているかのように、彼の声は平たく潰れていた。

 

「僕と先輩だけを狙うのであれば、貴女方は世間から隠れる事も出来るのでしょう。今日の事も、軍属内部での権力を巡る諍いの一つに過ぎなくなる」

 

「まぁ、そうなるな」

 

 深味のある女の声は、執務室の暗がりによく通った。

 

「ここの艦娘達がいくら声を上げようと、もう世間には届かない。キミと野獣という男さえ黙らせれば、全ては闇の中だ。なぁ……キミは、こうなる事を予想していたのだろう?」

 

「……えぇ、ある程度は」

 

「だから君たちは、世間というものを艦娘達の味方に付ける為に動いていた。人格を持つ艦娘達の存在を、社会の中に大きく映し出した。そしてその影響は、本営も無視できない大きさになった。ここ最近では、特にそうだ。本営までもが主体になって、艦娘達の人間性をアピールし始めている」

 

 何かを確かめる様に、女は朗々とした声で言葉を紡ぐ。

 

「世間も、艦娘達を人間として認めようとしている。今ではそういった思想が多数派だ。人々は艦娘を社会に迎え入れる為に、法整備に着手し、世界の枠組みを作り変えようといている。社会という器を、より広げようとしている。ただ……それが、欺瞞に満ちた擬態である事も、君は知っている筈だろう」

 

 少年提督は無表情のままで、女を見詰めている。女は霞を一瞥した。

 

「艦娘を人間として認めるという事は、今までに人類が艦娘達にしてきた事を認めるということに他ならない。艦娘達の人格・思考の破棄に始まり、人体実験の材料化、捨て艦法……挙句、木偶になった艦娘を金持ち相手の慰み者にして、私腹を肥やす者まで居るのが現状だ」

 

 優しそうな眼をしている女は、ゆったりとした声音で言いながら、その手に力を込めた。霞の頸が軋む。

 

「これらは世相に対する、軍部が抱えた最大のタブーだ。本営は、これらを明るみに出さない為に、“艦娘の深海棲艦化”という現象で、艦娘の過去と未来に蓋をしようとしている。それは明白だ。今の艦娘を歓迎するムードは、深海棲艦と戦う艦娘と人間達との間に、余計な摩擦を生まない為の一時的な方便に過ぎない」

 

「えぇ。分かっています」

 

 彼は頷く。

 

「世間が持つ道徳や倫理というものから、艦娘の皆さんを切り離す為の手段を揃える為に、本営が裏で躍起になっている事も僕達は知っています。そしてそれを、完全に阻むことが難しい事も。……社会は、いつか必ず、人間では無い者を排除しようとするでしょう」

 

 少年提督の声は微塵も揺るがずに、しかし、何処か空虚に、執務室の暗がりに沁み込んでいく。この部屋の闇が蠢くのを感じた。

 

「あぁ。そうだ。キミ達が積み上げてきたものは、全て無に還る」

 

 眼を細めた女が、少年提督を見詰める。

 

「キミはそれを知っていながら、戦うことを止めようとしなかった。だからこうして、目をつけられた」

 

 尋問のような響きを持ち始める女の声は、何処までも真剣だった。誤魔化しを許さない鋭さが在った。同時に、何かを求めているかのようでも、確かめるかのようでもあった。女は、少年提督の目を見ている。

 

「キミは、何の為に此処に居る?」

 

 彼は、その女の問いにすぐには答えなかった。女も黙った。闇が蠢いている。霞は唾を飲み込んだ。この空間にあるすべてが、彼の言葉を待っているかのように静かだった。世界が冷えていく。少年提督はゆっくりと瞬きをしてから、女が突きつける銃口を静かに睨んだ。

 

「……僕に出来る事を、するためです」

 

 やはり、彼の声は揺るがない。其処には、独善的な嘘臭さも無い。何処までも澄み渡っていて、濁りが無い。目前に聳える死というものに対してのその潔癖さは、聖人の持つ穢れの無い博愛などでは無い。霞は少年提督を凝視する。眼帯をしていない、彼の左眼を見る。その蒼み掛かった昏い瞳の中に蹲っているものは、深い絶望と静謐の中で育まれた優しい狂気であり、苦行主義にも似た使命感だった。女が一つ深呼吸をした。その吐息は震えていた。

 

「そうか。うん……。悪くは無い答えだと思う。良くも無いが、だからこそ共感できる」

 

 そう言って、女が微笑む気配と、銃を持つ手に力を籠める気配がした。

 

「何となくだが、キミはそんな風に答えるだろうと思ったよ。そうだな。結局、私達には、それしかない」

 

 執務室の闇が、また濃くなる。ソファテーブルに置かれた、女の携帯端末から音声が漏れている。

 

『遅くなり申し訳ありません。こちらも、準備整いました』『問題は無い』『我々が撤退するまで、まだまだ余裕が在る』『順調と言って良い』『餓鬼の方のターゲットは殺せ』『野獣の方は回収しろ』『術陣効果の継続予定時間を短縮します』『撤収の用意に掛かれ』『油断はするな』『忘れるな。艦娘の強制弱化術式の解除は、我々が完全に撤収してからだ』『状況は、我々が完全に掌握している』

 

 女は携帯端末から漏れて来る音声には応えないままで、少年提督を見据える。彼は、人間では無い。だから艦娘は、彼を殺せる。そう。人間を殺せない艦娘は、世間的には人間である彼を殺せるのだ。恐らく、少年提督が最も避けたかったその構図が、この執務室の暗がりの中に現れていた。人類と艦娘の共存という彼の理想は、彼自身の存在によって、それを根底から揺るがす光景の中で壊死しようとしているように見えた。

 

 

「キミが何と言おうと、私達は兵器であり、道具だ。そう生まれた。戦う為に此処に居る。そして、いつか消える為に此処に居るのだと。決して、人間と並び立つ為では無い。そう思ってきた。それが、私達が存在する理由なのだと信じていた。余計な事を考えるべきではないと」

 

 言いながら、女はマスクを外す。女は、やはり艦娘――日向だった。

 

 

「だが、少しだけ考え方が変わったよ。いつかは消えていくからこそ……。何かの役割を背負い、使命を果たそうとする意思の遂行の中に、私達の幸福が在ったのだろうな」

 

 この場に全くそぐわない優しい眼をした日向は、柔らかく微笑んでいた。まるで、暁の水平線に輝く波を、そっと振り返って眺めるように。現在という時間が、この日向の過去に光を当てたかのように。自身を兵器であり、道具であると信じ、それを貫こうとする彼女の純粋さに報いるのは、使役者である人間では無く、世間に根を張る価値観や常識でもなく、艦娘自身なのかもしれないと思った。

 

 この会話が終わる時、日向は銃を撃つだろう。その確信が在った。霞は渾身の力を振り絞り、腕を持ち上げる。自分の頸を掴んでくる日向の腕を、両手で掴む。力の籠らない手で、必死に、縋るように。日向は、そんな必死な霞を横目で見ただけで、特に反応を示さない。悔しい。自身の役割を果たすのが存在理由なのだとしたら、今の霞は、一体何なのか。艦娘ですらない、不完全な何かではないか。

 

 少年提督は、真剣な表情になって日向を見ている。

 

「……貴女は今、幸せですか?」

 

 彼は、銃口を突きつける日向に問う。霞は叫び出しそうになる。この期に及んで何を。何を言っているのよ。このグズ。こんな時に。何を心配してるのよ。自分の。自分の命を。もっと大事にしなさいよ。貴方を守ろうと必死になってる私が、ピエロみたいじゃない。今までずっと遠くばかりを見て来て。こんな最後の最期になってまで、自分でも、私達でも無く、自分を殺そうとしている相手を慈しむなんて。理解出来ない。馬鹿。クズ。

 

 でも、だからこそ。此処の鎮守府の艦娘達は彼に惹かれたのだ。彼を守ろうとしたのだ。彼の下で戦おうとしたのだ。霞だってその命を、彼に捧げようと決心したのだ。彼は、最後の最期まで、彼で在り続けている。そんな彼を、この鎮守府の艦娘達は必要としてきた。霞は息を震わせる。涙越しに彼を睨む。ねぇ。アンタ、生きようとしなさいよ。何を諦めてんのよ。やめてよ。謝るから。謝るから、生きようとしてよ。私を見なさいよ。そう強く念じる霞の心の熱が、新しい涙になって頬を伝う。言葉が浮かんでくる。

 

 

 この少年は、愚か者だ。

 

 彼は、変わらなかった。誰も、彼を変えられなかった。世界も、変わろうとしない。霞は、少年提督は、日向は、この世界が浮かべる冷酷な表情の、その一部でしかない。余りにも無遠慮で無造作な運命は、平等に、無差別に、霞たちに残酷な選択を迫っている。“世界”という言葉の中に隠れ潜む、巨大な何かが、この場を見下ろしているのを感じた。執務室を囲み、蠢く闇の中で、此方を見ている。霞は、それが憎い。霞にとっての大事な全てを奪おうとしていくその“何か”を、この世界ごと破壊してしまいたいと強く願う。不意に、深海棲艦という言葉が意識を通過する。

 

 もしも霞が深海棲艦だったなら、その“何か”と、堂々と対立出来るのだろうと思った。艦娘としての在り方に迷うことも無く、世間の目も、未来も、何もかもを無視して、自分の欲望を100%、余す事なく開放出来る。私達を突き放そうとする巨大な何かを、この敵意によって振り向かせる事が出来る。霞の内に渦巻く憎悪を、誰にも遠慮することなくこの世界に振り下ろすことが出来る。生まれて初めて霞は、深海棲艦になりたいと思った。此処が深海なら良いと思った。それはこの場限りの、都合の良い現実逃避ではなくなる予感が在った。霞はこの世を、人間を、終生、憎むだろう。涙で滲む視界は暗いままだが、厳然として冷酷だった。

 

「あぁ。……キミに会えて良かったよ」

 

 大型拳銃を少年提督の眉間に突き付けながら、日向が穏やかな微笑みを浮かべた。

 

「最後に、何か言い残す事は無いか」

 

 やめて。やめて下さい、お願いします。お願いします。身動きの出来ない霞は、そう願う。祈るしかない。静かな表情のまま、少年提督が霞を見ている事に気付いた。少年提督は無防備に立ち上がる。銃口に、その身を毅然と曝す。彼は、恐れを見せない。いや、恐れを知らないのか。

 

「霞さん」

 

 彼が、霞を呼んだ。彼は、悲しそうに微笑んでいた。

 

「約束を守れず、申し訳ありません」

 

 霞のよく知っている、優しい声だった。霞は、その声に応えることも出来ない。彼が眼を閉じる。分厚い沈黙が辺りを包んだ。数秒の静寂は、霞には永遠にも思えた。この1秒を彼が生きている。次の1秒も、彼が生きていた。その2秒後、銃声が響く。彼の身体が、空中を移動する。吹っ飛んでいく。彼のしていた眼帯が千切れ飛び、床に落ちた。彼は仰向けに倒れる。日向は歩み寄り、彼の頭部に何度も、作業的に銃弾を撃ち込んだ。銃口から吐き出された濁った閃光が、執務室の闇を照らす。

 

霞は目の前が真っ赤になるのを感じた。日向が携帯端末に何かを言いながら、霞をソファに寝かせた。日向は少年提督の死体を暫く見詰めてから、この場を去ろうとした。殺してやる。霞は呼吸を編むようにして呟いた。絶対に殺してやる。殺してやる。待て。殺してやる。

 

「なに……」

 

日向が硬い声を出して、立ち止まる気配がした。ソファに寝かされたままの霞は、視線を動かす。妙だった。日向は霞を見ていない。彼の死体を見ている。霞もそこで気付いた。彼が立ち上がろうとしている。いや、立ち上がると言うよりも、まるで薄い煙が立ち上るように、操り人形が糸で吊られるように、不自然な動きで身体を持ち上げられている。

 

険しい表情になった日向が、片手で銃を構えながら、もう片方の手で軍刀を抜いた。暗がりの執務室に、彼を中心として術陣が浮かび上がる。破壊された彼の頭部が、再生を始めていた。ぐぶぐぶがばごぼ。がばぐぶごぼぐぶ。水の中に、泡が鳴るような音が響いている。霞は、その音を聞いた事があった。霞は、瞬きも忘れて彼を見ていた。彼は、僅かに宙に浮いている。あっという間に、彼の頭がもと通りになる。彼は床を見ながら、何度も瞬きをしている。肩や首を回している。何かを思い出すように、遠い目をしている。まるで少年提督の中に全く違う何かが入り込み、彼の身体や記憶、もっと言えば、彼の存在や人生の着心地を確かめているかのような、余りにも不気味な仕種だった。

 

がばごぼ、ぐぶぐぶ。ぐぶごぼがぼごぼ。くぐもった泡の音がする。彼の足元に浮かぶ術陣は、光背のように伸びて広がり、暗がりに線を引いていく。彼は何かを唱えている。金屑の経。鉄屑の経。その左眼は昏くて蒼く、彼の右眼は暗くて紅い。彼は、いや彼の中に居る何者かが霞を見た。そして彼の顔に、見る者の背筋が凍るような笑顔を作った。いや、もしかしたら泣く寸前の悲しさを湛えた表情だったのかもしれない。

 

『此処が深海だ』

 

彼の口から響く声は、海鳴りにも似た太い濁り滲ませていた

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 












最後まで読んで下さり、有難う御座います!
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年内更新は難しいかもしれませんが、また皆様に読んで頂けるよう頑張ります。

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