花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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月光の下 後篇

 

 

 

 

 

 

 

 

 レ級の攻撃をかわした少年提督の動きは、まるで全身に大怪我を負ったかのようにギクシャクしていた。出来損ないの操り人形が糸に吊られて移動するようで、とにかく不自然で違和感だらけだ。筋肉や腱を使う、人間の肉体としての動きには思えなかった。その癖、彼は穏やかな微笑みを絶えず浮かべていて、それが余計に異様さを引き立たせていた。彼と対峙している不知火は抜錨状態であり、艤装を召還し、少年提督に向けて連装砲を構えている。彼は、埠頭に向かおうとしていた。海に出るつもりなのだ。

 

「『“其処を退け”』」

 

 彼の声は穏やかだが、波の音が重なるように、異なった声が幾重にも積み重なって聞こえる。超然とした、得体の知れない荘厳さが在った。今の少年提督は明らかに、不知火の知っている少年提督では無かった。それを実感し、動揺する。不知火の手は震えていた。息もだ。口で呼吸をしている。心臓が跳ねている。言葉が出てこない。歯が鳴りそうになる。その恐怖を捻じ伏せるべく、不知火は少年提督の内側に入りこんだ“何者”かを睨みつけ、手の筋肉が軋むほどに、連装砲を握り締める。

 

 対して、不知火の傍に立っているレ級は、そこまで動揺している風でも無く、獰猛なギザッ歯を見せる好戦的な笑みを浮かべて、ゆらゆらと尻尾の艤装獣を揺らして見せている。そのレ級の体からは、琥珀色のオーラが煙霧のように立ち上っていた。「F●●k you(レ)」なんて言いながら、楽しそうに笑うレ級は物凄い威圧感を放っている。

 

 ただ、物騒極まり無い空気を纏ったレ級と、余裕の無い不知火の表情を交互に見比べた少年提督は、ゆっくりと瞬きをして、拘束具のような手袋をした右手で自分の顔を覆った。

 

「『“そうか。残念な事だ”』」

 

 右肩を吊り上げながら、だらんと左肩を下げた少年提督は、首を右に傾けている。やはり、不格好な操り人形のようだ。彼の右脚は外を向き、左脚は内側に向いている。体も明後日の方を向いていた。二つの人間の身体を無理矢理に一つにしようとして、ちぐはぐに縫い付けたかのようでもある。ゾンビの出来損ないのような奇妙な姿勢の彼は、やはり温度の籠らない微笑みを浮かべている。

 

 いや、あれは、微笑みなのか、泣き顔なのか、分からなくなる。妙な話だが、少年提督の表情を上手く捉えられない。波のように揺らいで、印象が一定しないのだ。動揺を抑えようとすると、呼吸が早まる。これはもう、生物を相手にしている感覚じゃない。山火事とか竜巻とか、そういう巨大な現象を前に対して抱く、畏れに近い。不知火は息を呑む。レ級が「シシシシ」と笑う。彼が再び、身体を引き摺るようにして歩き出す。一歩ごとに、ズシン……! ズシン……!と、地面を陥没させながら、此方に近づいて来る。いや、違う。彼は、やはり海へ出ようとしている。

 

 不知火は連装砲を構えたままで、奥歯を噛み締める。自分の為すべき事は、今の少年提督を殺す事だ。今の彼を、止める事だ。彼は死なない。死なないのだ。だから、迷うな。恐れるな。胸の内で自分に言い聞かせ、左手の薬指にある指輪の感触を思った時だった。

 

 少年提督の少し離れた場所で、何かが閃いた。

 

 それが、軍刀に反射した月明りであるのだと分かった時には、あきつ丸が少年提督のすぐ傍まで肉薄していた。近くの庁舎の影から飛び出して来たのだ。全くの無音だった。それに、なんて疾さだ。躊躇も何もない。不知火は目で追えなかった。不知火とレ級を見ている少年提督も気付いていない。恐らく、あきつ丸はこの初撃で決めるつもりだったに違いない。終る。あきつ丸が鞘から奔らせた軍刀は、少年提督の右肩から左脇腹までを両断する。不知火はそう思った。レ級だってそう思った筈だ。だが、そうはならなかった。

 

 少年提督は不自然な歩き方の姿勢のまま、真横に2メートルほどズレるように移動して、あきつ丸の刀を躱していた。ドゴン……ッ!! っという重い破砕音と共に、少年提督の足元の地面が陥没する。少年提督は眼を細め、視線だけであきつ丸を見ていた。反撃する気か。あきつ丸が舌打ちをして、刀を抜いたままで少年提督に向き直ろうとした。

 

 その次の瞬間には、また別の誰かが少年提督に迫っていた。いつかのように、ゴーグルを掛けた野獣だった。疾い。野獣は二刀流だった。物干し竿と言うのか、取り回すには長過ぎるようにも思える長刀と、熾火にも似た赤橙の揺らぎを纏う太刀を握っている。

 

「ホラホラホラホラ……!(連続斬り)」

 

 野獣は、その二振りの刀を縦横無尽に振るう。目にも止まらぬ早業だった。それが出鱈目に腕を振り回しているだけでは無いのも明らかだった。あの乱舞めいた斬撃の嵐は、練り上げられた技術の塊であるのは間違いない。夜の暗がりを裂いている筈の刀の動きが、まるで見えない。疾過ぎる。だが、少年提督に掠りもしない。彼は微笑みを崩さず、あの不自然で不格好な姿勢のままで、必要最低限の動きと、足の運びと、身体の軸のずらし方で、野獣の斬撃の全てを躱していた。

 

 野獣の持つ“武術”という技能に対して、単純な身体動作だけで対処している。出鱈目だ。少年提督が自身の体重を移動させて足を運ぶだけで、踏まれた地面には、ミシミシ……! バキバキ……! と亀裂が走った。コンクリや石畳が震えて、悲鳴を上げている。

 

 この、3、4秒もない時間の中で、不知火は呆然としている自分に気付く。何を突っ立っているんだ。動け。動け。少年提督が回避行動をしている。自身の肉体が損傷する事を避けている。それはつまり、少年提督の肉体が破壊されるという事態は、彼の内部に入りこんだ“何者”かにとっては好ましくないという事だ。先程の、黒い小鳥との会話を思い出す。本当の少年提督の意識もまた、その精神内部で、侵入してきた“何者”かと戦っている事を思うと、身体から余計な力が抜けた。

 

 不知火は、あきつ丸や野獣を誤射しないよう連装砲の装備を解いた。代わりに、鎖つきの錨を手の中に呼び出しながら、駆けだす。「いざぁ!(レ)」と笑ったレ級は既に、野獣の斬撃を躱している少年提督の背後に迫ろうとしている。不知火はレ級の後を追う形だ。あきつ丸も抜いた軍刀を鞘に戻し、その柄に手を掛けた居合いの構えになって踏み出している。

 

 野獣と対峙する少年提督に、あきつ丸、レ級、そして不知火が迫る。

 1対4。勝てると思った。

 

 大間違いだった。

 

 

 少年提督は手始めに、二刀流の野獣が放つ斬撃の全てを躱しながら、野獣との距離を詰めた。あの不自然な姿勢のままで、地面を踏み砕きながら野獣の懐に潜りこんだのだ。少年提督の身体能力が、野獣の武を凌駕していた。間合いを完全に潰された野獣は、「ウッソだろお前……!(驚愕)」と呻くように言いながら咄嗟に身体を引いていたが、少年提督の方が早かった。

 

 一旦距離を取ろうとする野獣の鳩尾あたりに、彼は手袋をしたままの右の掌を添えていた。拘束具のように黒く、ゴツイ手袋が、墨色と白濁の滲んだ微光を発したのが分かった。刹那、光波とも衝撃波ともつかない揺らぎが少年提督の掌から流れ、野獣の胸から背中までを貫いた。野獣の身体に穴こそ開いていないものの、野獣が来ていたシャツの胸と背中部分が、渦を巻くように千切れ飛んでいた。

 

「ヌ……ッ!(確かなダメージ)」

 

 野獣は口の端から血を吐きながら吹っ飛ぶ。

 

 あきつ丸は、空中を移動する野獣を避けつつ、流れる様に少年提督へと肉薄し、再び、腰の鞘から軍刀を奔らせた。野獣を攻撃した少年提督は、その動作姿勢のままで確かに動きを止めている。あきつ丸は、その攻撃の直後を狙ったのだ。首を刎ねようとしたに違いない。あきつ丸が握る軍刀には、“護刀『燦』”の銘が刻まれており、その切っ先の閃きは野獣のものよりも疾かったかもしれない。普段から只者では無い雰囲気を纏っているあきつ丸だが、こんなに強かったのか。不知火は感嘆しかけたが、そんな場合では全くなかった。

 

 少年提督の体が、強い風に煽られた柳の様に、非常識なレベルで撓った。脚を全く動かさずに身体を逸らせるだけで、あきつ丸の斬撃を躱したのだ。刀を抜き放った姿勢のままで、あきつ丸が僅かに眼を見開いているのが分かった。今度は、攻撃の動作をしきったあきつ丸の動きが止まる番だった。ただ、それは本当に一瞬だ。あきつ丸も、すぐに姿勢を整え、次の攻撃に移ろうとしていた筈だ。だが、それよりも少年提督の方が速かった。体の撓りを利用した少年提督は、あきつ丸の足元に滑り込むように近づいて、その左脚の足首を、右手で引っ掴んで持ち上げた。「なっ……!」という、あきつ丸の上擦った声がした次の瞬間には、少年提督は、距離を詰めて来ようとしているレ級の目の前に、あきつ丸を放った。パスしたのだ。

 

「ちょ……!?(レ)」

 

 意表を突かれたか。レ級は一瞬、どう動くべきかを迷うかのように、ゆっくりと飛んでくるあきつ丸と少年提督を見比べたのが分かった。レ級は冷静だった。尻尾の艤装獣に少年提督を警戒させたまま、あきつ丸を受け止める。当然、僅かにレ級の動きは止まる。不知火は、次の一歩で身体を大きく前に倒し、トップスピードになる。錨を握り締めながらレ級を追い抜く。あきつ丸とレ級を庇う位置に出る。地面が砕ける音がした。それが、少年提督が海へと歩き去ろうとしている足音だと気付いて、身体が震えた。

 

 少年提督は、埠頭の方へと体を向けている。

 すでに海の在る方角を見ている。

 もう、この場の誰をも見ていない。

 

 彼は、不知火も、野獣も、レ級も、あきつ丸も、無視している訳では無い。ただ、碌に相手をするような対象とも見ていない。少年提督が、レ級やあきつ丸、それにさっきまでダウンしていた野獣に追撃をしようとする様子は無い。不知火達の意思や行動を、嘲うでもなく、嫌悪するでもなく、侮蔑するでも無い。ただ、徒歩の邪魔になるものを、そっと退かしただけのような佇まいで、関心を持っていない。不知火は奥歯を噛み締める。錨を右手で握り締め、左手で鎖を持つ。駆ける脚に力を込める。

 

「司令……!」

 

 そう叫んだ不知火は、この場を立ち去ろうとしている彼のすぐ背後に迫る。ただ、どう言う訳か、あきつ丸や野獣が攻撃を仕掛けた時と違い、少年提督は避ける素振りも見せなかった。隙だらけだった。不知火は、握った錨を少年提督の背中に振り抜こうとした。だが、出来なかった。どうしても、身体が動かなかった。少年提督の背を前に、動きを止めてしまう。呼吸と唇が震え、視線が揺れる。体が動かない。視界が狭まる。それが躊躇で在ることは自分でも理解していた。少年提督が肩越しに、不知火を見た。

 

「『“お前が、攻撃を止めることは知っていた”』」

 

 少年提督は、優しい微笑みにも、泣き出す寸前のようにも見える表情を浮かべている。彼の右掌には、白濁の光が渦を巻いていた。それに呼応して、不知火の身体の節々には、拘束具を嵌るかのように墨色の術陣が浮かぶ。不知火は、錨を振り下ろしかけた姿勢のままで、身体を空間に縫い付けられた。「あっ、おい、せっ、不知火ィ!!(大声)」「不知火殿!!」「 ( ゚Д゚) 須藤さん(レ)!!」と、声が聞こえた。不知火はもがく。だが、無駄だ。動けない。不知火の手から、錨が零れる。地面に落ちて、夜の中に重い音を立てた。

 

「『“……結魂か”』」

 

 その場の空間に、ガッチリと身体を縫い付けられた不知火に、少年提督が向き直る。夜の暗さが増していくのを感じた。少年提督は不知火の左手を見ている。その薬指に嵌っている指輪に視線を注いでいた。だが、すぐに興味を失ったかのように、彼は緩く息を吐き出す。

 

「『“生き急ぐ事も無い。大人しくしていると良い”』」

 

 微笑みにも泣き顔にも見える表情のまま、少年提督が、ようやく不知火を見た。ただ、その眼差しは、恐ろしい程に凪いでいた。不知火を、艦娘という概念の一部として見ている目であり、“少年提督の初期艦である不知火”として認識していないのは明らかだった。今まで共に過ごして来た時間、記憶、経験、そういったものを一顧だにしない無機質な眼をした少年提督は、不知火に背を向けて、またぎこちない動きで歩き出す。

 

 待て。そう言おうとしたが、声が出ない。

 

「待って!(レ)」

 

 横合いからだった。不知火の心の内を読んだ訳では無いだろうが、地面を踏み砕きながら、もの凄い勢いでレ級が飛び込んできた

 

「GAAAAAAAHHHHHHHHHHHH!!!」

 

 レ級の尻尾の艤装獣が狂暴にうねりながら膨れ上がり、大口を開いて少年提督に喰らいつこうとした。艤装獣は巨大だが、その動きは不気味なほどにしなやかで、獲物を仕留める肉食獣のような俊敏さが在った。絶対に避けられないタイミングだった筈だ。だが、少年提督は、先程のあきつ丸の斬撃を躱した時のように異様に身体を撓らせ、迫ってくる艤装獣の大口を後ろに跳ねるようにして避ける。彼が地面に着地すると、ズシィィンン……!! と地面が陥没した。

 

 さっきまで少年提督が居た空間を、艤装獣が大口を開けてバクン!!と行くのを不知火が見た時には、レ級が何かの言語らしきものを唱え終えていて、不知火を拘束する術式拘束を解呪してくれていた。レ級は不知火を横目で見て「シシシシ!」と、無邪気に笑って見せる。この爛漫さの所為で忘れがちだが、このレ級は金属儀礼術や生命鍛冶術を始めとした膨大な術式理論を学習・習熟している。個体としての“優秀さ”で見るなら、恐らく最高クラスの深海棲艦だろう。その証拠に、今の少年提督が扱う未知の術式にも、もう対応し、対抗して見せている。

 

「ゲホッ! ぐっ……、……有り難うございます」

 

 喉首を拘束していた術陣が解けて、呼吸が戻ってくる。荒く息を吸い込んで咳き込む不知火が、喉を擦りながらレ級に礼を述べると、レ級は「おうよ!(レ)」と、得意げに笑って親指を立てた。その底抜けに明るい表情には、少年提督を攻撃する事に対して躊躇いを見せた不知火を責めるような意図は微塵も無い。初期艦娘である不知火が少年提督と対峙せねばならない今の状況を、レ級なりに気遣っているのかもしれない。

 

「迷惑を掛けて、申し訳ありません」

 

 取り落とした錨を拾い上げた不知火が、戦闘姿勢を取りつつ、レ級の方を見ずに謝ったその間にも、立ち上がっていた野獣とあきつ丸が、少年提督の背後に回り込むように動いていた。

 

「逃げんじゃねぇよ(先回り先輩)」

 

「そうでありますよ(便乗)」

 

 丁度、少年提督が埠頭へ向かうのを阻む位置に二人で陣取り、立ち塞がっている。右半身を前に出す半身立ちの構えを取っている野獣は、口の端に流れる血を、長刀を持つ右手の甲で拭いながら、左手に持つ太刀の切っ先を、地面スレスレまで落としている。あきつ丸は腰の軍刀の柄に手を掛ける姿勢のままで、すっと重心を下げ、いつでも飛び出せる状態にある。レ級と不知火、あきつ丸と野獣の2手で、挟み撃ち出来る状況だ。

 

「『“邪魔な事だ”』」

 

 微笑んだままの少年提督が、不知火達を順に見てから、夜空を見上げた。不知火も視線だけで空を見る。いつの間に、とは思わなかった。月明りに大粒の影を落としながら、猫艦戦の群れが此方を見下ろしている。とにかく凄い数だった。息を呑んだ不知火の視界の隅、近くの庁舎の屋上に誰かがいるのに気付く。

 

 長く白い髪を逆立たせている。深海鶴棲姫。いや、違う。あの艦娘装束は……、瑞鶴。深海棲艦化しているのか。緋色の眼で此方を見下ろす瑞鶴は、猫艦戦達に何らかの指示を出している。これだけの数だ。ヲ級や港湾棲姫が使役している猫艦戦達も、瑞鶴のコントロール下にあるのかもしれない。

 

 瑞鶴の姿に、あきつ丸も「ほう……」と僅かに声を強張らせていたが、「アイツも味方だから、安心して、どうぞ」と、唇の端を持ち上げた野獣は、瑞鶴を見上げながら言う。その表情からは、今の瑞鶴の姿に対する驚愕も嫌悪も見られない。野獣は今の瑞鶴の事を知っていたのだろうし、受け容れていても居るという事だろう。余計な詮索は良い。野獣が味方と言うなら、味方なのだ。

 

 不知火は冷静になるべく、瞑目し、息を吸い、吐いた。1秒の静寂。夜の空気の冷たさを肺で感じる。眼を開く。状況は刻々と変わっていく。巨大な生き物の足音が、此方に近づいてきている事には気付いていた。地面をドン!ドン!ドン!と叩いて揺るがす様な、腹の底に響いて来る足音と共に、戦艦水鬼と戦艦棲姫の二人が、大型の艤装獣を従えて現れた。彼女達は、其々が引き連れた艤装獣の片腕に抱えられるような姿勢で、手には携帯端末を持っている。恐らく、此処に来るまでに集積地棲姫や少女提督達と連絡を取り合っていたのだろう。

 

 戦艦水鬼は、レ級や不知火、それに野獣、あきつ丸を見て微笑み、頷いて見せる。戦艦棲姫もそれに倣う。黒く美しい彼女達の長髪が、冷えた夜風に靡いている。艤装獣たちは、GuRRRRRRRRRRR……と、低いうなりを喉で鳴らしながら身を低く落とし、大事そうに抱えていた水鬼と棲姫を地面に降ろしてから、少年提督に飛び掛かる姿勢を取った。夜の暗さの中で、艤装獣の黒い巨体が、獰猛な輪郭を浮かび上がらせている。この場の空気が、凍り付くようにジリジリと固まっていく。

 

 瑞鶴のコントロール下にある猫艦戦達が、上空でバキバキガッチガチと歯を鳴らしながら制空権を握っている。あきつ丸が、踏み込む寸前のように、抜刀する構えから更に姿勢を倒す。獰猛な笑みを浮かべたレ級が、尻尾と体をゆらゆらと揺らして一歩前に出る。戦艦水鬼、戦艦棲姫の艤装獣も、そのレ級に続いて半歩前に出る。

 

 多勢に無勢。

 少年提督は、完全に包囲されている。

 

「『“本当に私を止めるつもりか?”』」

 

 だが、少年提督は落ち着き払っている。

 

「そうだよ(決意)」

 

 鼻を鳴らした野獣が、すっと腰を落として頷く。野獣の持つ二振りの刀が、月明かりに照らされ、澄んだ潤色を暗がりに反射している。

 

「『“そうか。なら……”』」

 

 彼は片方の肩を吊り上げた奇妙な姿勢のままで視線を巡らし、訊き分けの無い子供をあやすように眼尻を下げた。

 

「『“出来るかどうか、やってみると良い”』」

 

 幾つもの声が重なるように響く少年提督の声音は、相変わらず不知火達を嘲うでも憎悪するでも無い。やはり穏やかなままだ。同時に、何かを期待しているかのようでもあった。彼の纏う墨色と白濁の微光が、煙霧の様に揺らぎながら禍々しい光背を象り始める。不知火達の居る一帯の空気が、明らかに変わる。

 

「『“遠慮は要らない”』」

 

 彼を中心にした足元にも術陣が描かれ、そこから漏れだす光は塗膜のように広がり、舗装された地面のコンクリや石畳を染め上げて、ざぁぁぁああっと鋼液に変えていく。鋼液はボゴンボゴンと膨らんだり萎んだりしながら、何かの形を取りつつ起き上がろうとしていた。本来、生命という概念を持たない物質が、呼び起こされて“生物”に変わろうとしている。鋼液の範囲は、まだ不知火達が取り囲める範囲だ。だが、広がりつつある。海水が染み込んでくるかのように。少年提督の纏う墨色と白濁の微光の揺らぎが、この夜の鎮守府の景色を侵食し、塗り替えていこうとしている。少年提督の周囲には、鋼液から黒い金属の花が生えてきていた。黒く大きい、あれは、蓮だ。無数に咲き乱れ、その花弁からは深紫の霊気が淡く立ち上りだしている。

 

 不知火は、蓮の花言葉を知っている。

 離れ行く愛。神聖さ。清らかな心。救いを求める心。

 ただ、黒い蓮は自然界には存在しない。

 

「『“存分に頼む”』」

 

 少年提督はそう言って、黒い蓮に覆われた鋼液の海の上を、おもむろに歩き出した。大怪我でもしたみたいな、あのぎこちなくて不自然な歩き方で、埠頭を目指そうとしている。少年提督の足音が消えた。さっきまで地面を踏み砕いていた彼の足を、鋼液が優しく受け止めている。途方も無く不吉な静けさが、周囲一帯を抱き込んだ。

 

 彼は、不知火達を無視するでもなく、積極的に相手をするでも無い。今の少年提督の目的は、海へ出ることだ。 “何者”かは、少年提督という存在を海へと持ち去ろうとしている。それを阻むべく、不知火達は此処に居る。ごぼごぼ。ぐぶがぼ。がばぐぶ。ぐぶごぼ。水の底で、泡が成る音が聞こえる。それは、発生した音ではなく、不知火の耳の中や脳の奥から響いて来るような音だ。頭痛がする。深海。その言葉が、何故か脳裏に浮かぶ。誰かが、静かに息を吐くのが分かった。

 

 まず動いたのは、戦艦水鬼と戦艦棲姫だった。彼女達の眼には、冷たくも強い意志が在った。従えた艤装獣を操る為に、二人は短く何かを唱える。それに応えた二匹の艤装獣は、地面を蹴り砕きながら少年提督に飛び掛かる。二体の艤装獣が、振り上げた拳を、歩み去ろうとしている少年提督を目掛けて振り下ろす。だが、艤装獣たちの拳は届かなかった。「やっぱりな(レ)」と、レ級が楽しそうに言うのが聞こえた。本当に一瞬の間だった。少年提督の足元に揺らぐ鋼液の海が、聳えるように立ち上がった。暗銀の波は形を持って広がりながら精密な造形を与えられ、瞬く間に巨大な何かになって、二匹の艤装獣に襲い掛かったのだ。

 

 ソイツ、いやソイツらは、戦艦水鬼たちの艤装獣に酷似していた。それでいて、戦艦水鬼と戦艦棲姫が操る艤装獣よりも、一回りか二回り大きい。巨人だった。体の色は濁った白磁色で、全身に禍々しい墨色の紋様がびっしりと刻まれている。艤装獣たちが、巨人と取っ組み合う。VOOOOOORRRHHHAAAAAAA――!! 互いに体当たりをぶちかまし、GOOOOOOAAAHHHAAAAAAA――!! 掴み掛かり、殴りつけ、GURRRRAAAAHHH――!!蹴ったくって、ガブッと噛みつき、UUUGGGOOOOOAAAAHHHH――!! 暴れ狂っている。

 

 もう怪獣大決戦だ。この鎮守府の全ての空気を揺るがすような咆哮が4つ、重なりあって響く。普通の人間なら、これだけで気を失うほどの迫力だった。だが、艦娘である不知火は動揺しない。下がらず、冷静に状況を視る。

 

 不知火は一瞬だけ足元を見た。鋼液の波が揺れ、鈍い銀色の光沢がさざめいている。ただ、この鋼液の海には深みが無い。不知火の身体は沈まない。艦娘では無い野獣もだ。地表にある物質が、液状金属へと変質させられた泥濘のようでもある。その表面が風ならぬ風としての少年提督の力に揺れ、それが波のように見えているのだ。この鋼液の海の上に立つ戦艦水鬼と戦艦棲姫の二人は、艤装獣たちが戦うのを冷静に視ながら、携帯端末を手に何かを唱えている。次の行動に備え、機を窺っている。

 

 あきつ丸と野獣は、既に動いている。あの怪獣大戦争の中に乱入していくのは得策では無いと判断したのだろう。再び二人は、直接に少年提督へと迫ろうとしている。レ級もそれに続いて飛び出す。不知火も、先程と同じようレ級に続こうとして、踏みとどまる。少年提督が纏う墨色と白濁の微光がまた大きく広がり、周囲のコンクリや石畳、庁舎の壁面、アスファルト、建物のレンガなどを荒々しく触りながら侵食し、鋼液の海へと急速に飲み込み始めたからだ。

 

 更に、その暗銀の波から立ち上がって来るものは、艤装獣を模した巨人だけじゃない。四足歩行の肉食獣のような姿をしたものや、猛禽を思わせる有翼のもの、蛇のように手足を持たないものなど。ウジャウジャと湧いて来る。どいつもこいつも、深海棲艦達が纏う艤装獣を彷彿とさせる、鋭利で狂暴なフォルムを持っていた。だが正確に言えば、あれは艤装獣では無い。機械獣、もしくは、金属獣とでも言えばいいのか。

 

 いや、呼び方なんてどうでもいい。

 とにかく、鋼液の海から奴らはどんどん出て来る。

 

 不知火達が慣れ親しんだ筈の景色が、全く違う表情を見せて変貌していくのを感じた。少年提督が放散させている微光は周囲の物質を汚染し、無造作に生命と忠誠心を与え、姿と機能を齎して目覚めさせ、その全てを容赦なく徴兵している。まるで景色そのものが少年提督に跪き、変容と隷属を請うかの様だ。

 

 だが、そんな圧倒的な力を持ちながら、金属獣たちを従えた少年提督は孤独に、ただ海を目指している。苦し気な姿勢の彼は、身体を引き摺るようにして夜の鎮守府を歩いている。その行為自体が、少年提督の内部に入りこんだ“何者”かにとっての戦いだとでも言うふうに。不知火は奥歯を噛む。今は、誰もが皆、戦っているのだ。とにかく、溢れ出て来た金属獣の群れは、少年提督と不知火達を隔てる壁であり、明確な障害であり、群れを成す脅威だった。

 

 艤装獣を操る戦艦水鬼と戦艦棲姫が、金属獣達に囲まれた。彼女達は冷静な表情のままで、ゆっくりと後ずさっている。不知火はレ級に追従するのではなく、戦艦水鬼たちのカバーに入る為に駆ける方向を変えた。あの大型の艤装獣を遠隔で操っている間、彼女達を守る者が必要だと思った。無論、戦艦の深海棲艦である彼女達の肉体の頑強さや強靭さを疑うわけではない。だが、彼女達が傷つけられることによって、彼女達が召還した艤装獣の存在を維持できなくなるのは不味い。彼女達の艤装獣が居なければ、大量に湧いて出て来た金属獣だけではなく、あの白い巨人どもまで不知火達が対処することになってしまう。

 

 金属獣の群れが、ジリジリと戦艦水鬼、戦艦棲姫との距離を狭めていく。いつ飛び出してきてもおかしくない距離の詰め方だった。というか、彼女達のもとに向おうとしている不知火の方には、もう飛び掛かって来ていた。四つ足の肉食獣のようなヤツだ。

 

 不知火は左手に連装砲を召ぶついでに、右手に握った錨で、襲い掛かって来た四足の金属獣を殴り飛ばしながら、頭上から襲来してきた有翼の金属獣3匹を連装砲で立て続けに撃墜し、駆けて、戦艦水鬼に噛みつこうとしていた金属の大蛇を蹴飛ばしてから、戦艦棲姫に躍りかかろうとしていたゴリラだか猿だかに似た巨体の金属獣に砲撃をぶち込んで吹き飛ばした。

 

 不知火は短く、鋭く息を吐いて、戦艦水鬼、戦艦棲姫達を庇うように立つ。金属獣達は、わらわら湧いて寄ってくる。数が多すぎる。キリが無い。そう思った時だった。

 

 空に居た猫艦戦達が急降下してきて、金属獣たちを猛襲し始めたのだ。獣の咆哮が幾重にも重なる。猫艦戦達は、金属獣たちに噛み付き、噛み砕き、喰らいついて、また逆に、金属獣たちにも捕まり、引き裂かれ、砕かれ、喰い殺されていた。もう大乱戦だったが、不知火達に押し寄せて来ようとしていた金属獣の群れの勢いは、明らかに分散した。猫艦戦たちの御陰だ。助かったと思ったら、不知火のすぐ隣に、いつの間にか瑞鶴が居た。いや、着地しようとしていた。猫艦戦達に紛れて、此方に飛び込んで来ていたのだ。瑞鶴は着地の瞬間、そのしなやかな脚をそっと曲げることで、衝撃を完全に殺していた。足音が全くしなかった。

 

「うン。不知火が居テくレると、やっパり心強イね」

 

 逆立つ白い髪と、緋色の眼。深海鶴棲姫と同じ姿をした瑞鶴は、見覚えの在る笑みを浮かべて不知火を見た。その瑞鶴の声には多少の強張りが在ったが、今の自分の姿を不知火から隠そうとはしていない。弁解もしない。ただ、今の状況で重要なのは、瑞鶴の姿云々ではないと思った。

 

「それは、不知火の台詞です」

 

 不知火は言いながら、瑞鶴を横目で見て、次に、戦艦水鬼と戦艦棲姫を見た。「有難う」「助かりました」と声を揃えた彼女達も無事だ。瑞鶴も、「アのデッカイ巨人たちヲ抑えとイて」と、二人に頷いて見せてから、頭上を見上げて何かを唱える。それは恐らく、攻撃命令だった。上空を飛び交っていた多くの猫艦戦が、更に激しく金属獣たちを攻撃し始める。大量に居る金属獣達に対しては、瑞鶴のコントロール下にある猫艦戦達をぶつけ、白磁色の巨人に対しては、戦艦水鬼たちの艤装獣が対処する形になった。瑞鶴は更に何かを唱える。すると今度は、10体ほどの猫艦戦達が此方に降りて来て、戦艦水鬼、戦艦棲姫を守るように、三角形の隊列を組んだ。

 

 それと同時だったかもしれない。

 

 白磁色の巨人の片方、その肩口が爆発した。それが砲撃によるものだと分かった時には、

 

「ヴェハハハハハァァァーーーッ!!!」

 

 という、狂暴極まりない哄笑が響き渡った。この場に踊り込んできた重巡棲姫が、腹から伸びる大蛇のような艤装で、白磁色の巨人に対して砲撃を加えていたのだ。彼女はまだ撃つ。撃って撃って撃ちまくった。連続する爆発音と、濁った炎の明かりが辺りを昼間の様に照らす。爆風で近くの庁舎に大穴が開いた。それがどうしたという感じで狂暴に笑う重巡棲姫は、まだまだ砲撃を加えていく。白磁色の巨人も流石に怯む。その隙に、助走をつけた艤装獣が、巨人の顔面にストレートパンチをぶち込んだ。ズッドオオォォォォ――……ン……!! と、とんでもない音がして、白磁色の巨人がひっくり返った。

 

 それを横目に、もう片方の白巨人の頭部に、誰かが飛び乗ったのが見えた。砲撃をしまくる重巡棲姫と共に、この場に駆け付けていたのだろう。南方棲鬼。つまらなさそうな顔をした彼女は、重厚なガントレットのような艤装を両腕に纏っていて、その艤装で持って、白巨人の頭頂部をズゴンズゴンドゴンドゴンと殴って殴って殴りまくった。その威力は巨人の身体が地面に埋まっていくほどで、凄い音が辺りに響いていた。艤装獣と取っ組み合っていた白巨人も、「GAAAAAAAHHH――ッ!!?」っと流石によろめき、その隙を突いて、艤装獣が巨人を押し倒す。白磁色の巨人が倒れる瞬間には、南方棲鬼はポーンと跳んで地面に着地していた。深海棲艦の上位種同士の連携を見ていた瑞鶴は、軽く息を吐いて不知火へと向き直った。

 

「此処は私達ニ任せテよ。……不知火ハ、提督さンをお願イ」

 

 瑞鶴はそう言いながら、不知火の左手の指輪を見て、穏やかだが力強い笑みを浮かべた。今の瑞鶴が確かに味方であり、不知火が共に戦ってきた“少年提督に召還された瑞鶴”である事に、間違いない事を感じた。戦艦水鬼と戦艦棲姫も、不知火を見て頷いてくれている。

 

「必ず、司令を連れ戻します……!」

 

 不知火も彼女達に頷きを返し、駆けだす。大型艤装獣たちの戦いは、まだ続いている。白巨人もタフだった。また起き上がって、取っ組み合いの殴り合いを始めている。見なくても分かる。空気がビリビリと震える打撃音が聞こえる。それに咆哮も。

 

 不知火はそれを背中で聞きながら、横合いから迫って来ていた金属獣に連装砲を向ける。頭が二つある、巨大な犬のような金属獣だった。ソイツを吹き飛ばしつつ、更に前方から突進してくるサイみたいなヤツを躱すついでに、手に握った錨を力任せに叩き込んで、その頭部を粉々に砕き、蹴倒し、また駆ける。金属獣を蹴散らす不知火の視線の先では、あきつ丸と野獣、レ級が、金属獣の群れを割断しながら少年提督に迫っていた。

 

 

「邪魔でありますなぁ……!」

 

 あきつ丸の居合い斬りが、金属獣を次から次へと斬り捨てている。その手や腕の動きがまるで見えない。軍刀を抜き放ち、鞘に収める。その一連の動作が疾過ぎて、あきつ丸は刀を抜いていないのに、金属獣がひとりでに両断されているかのようだ。抜錨状態にある筈の不知火の眼でも、その抜刀を完全に補足できない。それに、あきつ丸はただ前に出ているだけじゃない。突っ込んでくる金属獣を、身を翻して躱しつつ下がる、かと思えば、すぐに半円を描くように足を運びながら無駄なく斬り捨て、時には金属獣達の合間に滑り込み、風が縫うようにすり抜け、少年提督との距離を詰めている。なんて身のこなしだ。

 

「おっ、そうだな(二刀流)」

 

 濁声を低く落とした野獣の方は、あきつ丸と少し離れた位置で両手の刀を縦横無尽に振るっている。特殊歩法や抜刀術を駆使するあきつ丸と比べれば動きは大きいものの、その分、刀の一振りごとに複数の金属獣が両断されていた。あきつ丸の持つ技と、野獣の持つ技では種類が違うのだ。野獣の大幅な足運びや大振りな刀の振るい方も、その全てが噛み合い、結果的に無駄も隙も一切無い。何万という試行錯誤の果てに完成させたような、多対一に特化された動きを平然と実践しているかのようだった。野獣が刀を振るうと5、6体の金属獣達がいっぺんに3枚に下ろされ、次の瞬間には、野獣は体の向きを変えるついでに腕をビュビュンと振るっていて、別の金属獣が5体ほど輪切りにされていた。

 

 あきつ丸と野獣の間合いの中では、金属獣達が断末魔を上げる間もなく、奇妙な程に静かに切り伏せられていく。それに対して、馬鹿みたいにド派手で無茶苦茶だったのはレ級の方だ。

 

「(^ω^) おっほっほっほ~!(レ)」

 

 全身が凶器みたいなレ級は、尻尾をグオングオンとやたらめったらブン回して、金属獣達を跳ね飛ばしたり、叩き潰しまくっている。おまけに尻尾の金属獣も大口を開けて、手当たり次第に金属獣をムシャムシャバキバキと食い散らかしながら、思い出したみたいに砲撃までおっぱじめて酷い状況だ。もう手が付けられない。それにレ級の本体も両手に金属獣を引っ掴んで思うさまに振り回して、周りに居る金属獣を金属獣でぶちのめしながら、スカートの中から魚雷をボトボトボトっと地面に落とし、それを蹴っとばして発射して、ボンボコボンボンボコと爆発が起きている。暴力の塊みたいになったレ級は、金属獣達を蹴散らすどころか、そこらを更地にする勢いで少年提督へと迫ろうとしている。

 

 数の上では圧倒的に不利だが、不知火達が優勢なのは明らかだった。野獣達はこのまま、少年提督の下まで辿り着く。それは時間の問題だと思った。そんな訳が無かった。不知火の足元の鋼液が、不気味に蠕動している事に気付く。それは金属と言うよりも、腐肉を思わせる、有機的な震えだった。

 

 その鋼液の海の上を、少年提督はぎこちなく歩いていく。彼が一歩進むたびに、足元には黒い蓮の花が咲き乱れ、深紫の霊気が狼煙のように揺らぎ、立ち上っている。不知火は思わず立ちどまり、言葉を失う。あの霊気が、粉々に破壊された筈の金属獣達を再生させ始めていた。それだけじゃない。鋼液の海から湧き出て来る金属獣の数が、更に増えた。深紫の微光の妖しい揺らぎに照らされた金属獣達の体表は、夜の暗さの中で神秘的に浮き上がって見えた。その無情な軍勢の彩りは、不知火達と少年提督を隔てる、圧倒的な質量と物量を備えた、生きた金属の壁だった。

 

 足を止めてしまった不知火を、金属獣達が囲んでくる。それを突破すべく、不知火も連装砲を撃ち、錨を振るう。とにかく戦う。疲労は無い。だが、焦る。不知火や野獣達が金属獣を破壊するペースと、あの深紫の霊気が金属獣達を再生するペースが拮抗している。戦艦水鬼や戦艦棲姫、それに瑞鶴達の方を視線だけで見た。2体の白磁色の巨人に対して、水鬼たちの艤装獣は苦戦していた。目の錯覚かと思ったが、違う。白磁の巨人たちの体が、さっきよりも大きく膨れ上がっている。間違いない。あたりに満ちる深紫の霊気が、白磁の巨人たちの体を強化しているのかもしれない。とにかく、南方棲鬼や重巡棲姫が加わって尚、押され始めている。

 

 不知火達は足掻く。此方を押し流してしまおうとする、生きた金属の壁を壊す為に戦う。だが、敵の数に際限は無い。増える一方だ。足元に揺れる暗銀の波は、不知火達の懸命な対抗などには一切の関心を払わず、ただ無慈悲に揺れてさざめき、新たな金属獣を創造している。

 

 このままでは、負ける。負けない為には、戦い続けるしかない。しかし、そんな時間も残されていない。この鎮守府に爆発物が仕掛けられている事は、少女提督から通信を受けて不知火も知っている。

 

 工廠やドックに仕掛けられた術式爆弾が起爆すれば、この土地が死ぬ。少年提督を海へと行かせてしまえば、戦う意味も無くなってしまう。今の状況には間違いなく、時間切れが存在する。不知火はその焦燥を跳ね返すべく、近くに居た金属獣達に連装砲を構えた時だった。夜空の黒に、薄い蒼が混じるのが分かった。光の膜がドームのように広がり、不知火達の頭上を覆い、この鎮守府一帯を包み込んだ。

 

 少年提督が、また何らかの結界術式を新たに展開したのだと思ったが、すぐに違うと分かった。有機的で躍動感に溢れていた金属獣達の動きが、急にガチガチと強張り、鈍りだしたからだ。ギギギギ……、と、錆びた金属同士が、激しく擦れ合うような音が辺りを包む。少年提督によって支配され。徴兵された景色に、何か別の意思が干渉しようとしているのを感じた。

 

 野獣も、あきつ丸も、レ級も、それに、瑞鶴達だって、その異変に気付いている。金属獣達は次々に生まれて再生を繰り返しているが、軍勢としての戦力や圧力を大きく欠いているのは明らかだった。それは、新たに鎮守府を覆った結界術式の影響であることは間違いない。不知火から離れた所で、戦艦水鬼たちの艤装獣達も、南方棲鬼と重巡棲姫と共に、白い巨人二人を押し始めているが分かった。動きに精彩を無くした金属獣達は、猫艦戦達の群れに食い荒らされ、ボロボロにされていく。

 

 

『皆無事!? 聞こえる!?』

 

 頭上から声が降ってくる。可憐な大声だった。頭上を見れば、猫艦戦がふよふよと浮かんでいる。金属獣達との乱戦に加わらず、不知火や野獣、それに、あきつ丸、レ級達に声が届く位置に居る。その猫艦戦が一匹、此方を見下ろしながら喋っている。いや、スピーカーのように音を発生させていると言った方が正しいかもしれない。あれは、少女提督の声だ。

 

『今、私も鎮守府に着いたから!!』

 

『“結界が完成しました。皆さんをサポートします”』

 

 少年提督のAIの、落ち着いた声も続いた。

 

「『“そうだ。その調子だ”』」

 

 更にそれに続いて、少年提督の、いや“何者”かの声が聞こえてきた。近い。何処からだ。右か。左か。それとも背後か。足元か。答えは、その全てだった。上空に居る猫艦戦と同じように、金属獣達が喋りだした。やはりスピーカーのように、今の少年提督の声を出しているのだ。重複した響きを持つ少年提督の声が、さらに重なり深度を持ち、不知火達を包む。ただ、その声音自体は嫌味な程に穏やかで、落ち着き払っていた。それでいて、やはり何かを期待しているかのようでもある。

 

「『“諦めてはいけない”』」

 

 少年提督の声は、夜の空気に深く染み入りながら、神秘的に、殷々と辺りに響いた。誰に向けて放たれたのでもないその言葉は、この場に居るすべての者に届いていた筈だ。

 

『言われなくても分かってるわよ!!』

 

 少女提督が叫んだ。

 

『アンタが何者かなんて、これっぽっちも私には関係ないから! ソイツの中からぶっ飛ばしてやるから覚悟しなさいよね!』

 

「そうだよ(便乗)」

 

 それに即座に応えた野獣は、動きが鈍った金属獣を処理しつつ、着実に少年提督との距離を縮めていた。不知火、レ級、あきつ丸もそれに続く。そこで少年提督が足を止めた。そして肩越しに此方を振り返り、微笑んで見せる。

 

「『“あぁ。私を止めて見せろ。そうすれば、自ずと未来も変わるだろう”』」

 

 此方の動きを観察し、観測するかのような淡々とした声音が、金属獣達の口から洩れて、暗がりに溶け込むように響く。

 

「『“私は、それが見てみたくなった”』」

 

 そこまで言ってから少年提督は、再び埠頭のある方角へと向き直り、鋼液の海の上を歩き始める。不知火達に背を向けて、この場から去ろうとする。無論、不知火も、野獣も、あきつ丸も、レ級も、金属獣達を蹴散らし、彼に追い縋ろうとする。そこに、身体の運動機能をスポイルされて尚、金属獣達は怯みも躊躇も無く群がり、襲って来る。

 

「『“人間という種は、いずれ自壊する。私は、その未来を視て来た”』」

 

 少年提督の声が、“何者”かの声が、再び響きはじめる。未来を見て来た? 何をバカバカしい事を。そう笑い飛ばせる者は、この場に一人も居ない。

 

 少し前だが、不知火は霞から、少年提督が海神モドキと話をしていたと、そう聞いた事が在る。あれは、集積地棲姫が深海棲艦の研究所に運ばれて来た時だった筈だ。海外の神話には、多くの者に姿を変えて、未来を視る事の出来る海神もいるらしいわ、と。何故か不機嫌そうに話していた霞の横顔を思い出す。

 

 不知火は思考の枠を一旦、常識から外す事を意識した。

 眼の前の状況から、余計な動揺を受け取らない為だ。

 

 不知火は世界にいくつもある有名な宗教や、その宗派ついては、特別に詳しいという訳ではないものの、教養の範囲程度でなら知っている。今の少年提督の内部に入りこんだ“何者”かは、その海神に類する何かであるのだろう。もうそれでいい。否定するのも面倒くさい。だが、少年提督の背後に象られた光背の造形は、明らかに仏教の世界観にあるものだ。其処から想起されるものは、“神”という言葉では無く、“仏”という言葉だった。少年提督が足元に咲かせる、あの黒鉄の蓮の群れの所為かもしれない。ただ、それがどうしたとも思う。“何者”かが神でも仏でも、それは不知火には関係のない。少年提督を取り戻すことが重要なのだ。

 

 

「『“私には未来が視える。私が視てきた未来は、木々に似ていた。私の視力は、分かれていく因果の幹の数も、更にそこから広がっていく必然や蓋然の枝葉の先の先までを見渡す。私は、無数の未来を知っている。その筈だったが……”』」

 

 金属獣達の口の内から、“何者”かは、この場の全員で語り掛けてくる。

 

「『“……お前達がこの少年を、私から奪い返した先の未来が、何故か視えなくなった。お前達が紡ぐ歴史や可能性の変貌を、私の視力では追えない。今という時間に対し、徹底して抗戦するお前達の姿の先に……、私の知らない未来が揺蕩っているのを感じる”』」

 

 滔々とした問わず語りが、不知火達の奮闘を見守るように響く。

 

「『“私に、それを見せてくれ”』」

 

 

 

 

 

「じゃあ、大人しく神妙に退治されなさいよ……ッ!!」

 

 頭の血管がぶち切れそうな程の大声で叫びながら、少女提督はトレーラーの荷台扉から飛び降りる。夜風が冷たい。ふーーッ……! と、頭の熱を逃がすように太い息を吐く。OK、大丈夫。冷静になろう。焦ったら負けよ。こっから。こっからだから。頭の中で、自分に言い聞かせた。深呼吸する。夜の空気は澄んでいるのに、やけに重く、身体に纏わりついて来るかのようだった。息苦しささえ感じる。

 

 足元のアスファルトの感触を確かめて、周囲を見渡す。少女提督はAIを搭載したVR機器を頭に装着しているが、カメラの性能が良いので視界は良好だ。暗がりでも良く見える。野分には、トレーラーを鎮守府の正門付近に止めて貰った。すぐ其処に正門がある。

 

「私の身体をインターフェースに使えば、貴方は本物と同等の力を以て、現実世界に干渉出来るのよね?」

 

 少女提督は、AIに言う。

 

『“……はい。しかし、大きな負担を掛けてしまいます”』

 

「さっきも言ったけど、それくらいは覚悟の上よ。寧ろ、この状況で下手な遠慮されたら余計に迷惑だから。私の身体と貴方を同期するのに、どれくらい時間が掛かりそう?」

 

『“……数分、頂ければ”』

 

「オッケー。そんじゃ、貴方はその準備に入って」

 

『“……分かりました”』

 

 VR機器に搭載されている少年提督のAIはそう答えて、何かを唱え始めた。それを確認した少女提督は携帯端末を取り出して、北上に連絡を取る。

 

『こんな手を実際に打っちゃうんだからさ、北上さまもビックリだよ』

 

 端末の向こうで、北上が微かに笑うのが分かった。それに釣られた少女提督も、思わず鼻を鳴らすようにして笑った。VR機器を装着していても、少女提督の視界は確保されている。その視界の中には、VR機器の機能によって、幾つかのウィンドウが開いている。それらは、猫艦戦達との視界を共有したモニターだ。

 

 その一つに、工廠内部に居る北上が映っている。身体の半分を深海棲艦化した北上は忙しく走り回りながら、妖精達に指示を飛ばしながら、驚きの表情に笑みを滲ませていた。その視線の先では、小鬼の群れが発生している。あの小鬼達は、鎮守府を包んでいた襲撃者達の結界術式を乗っ取った集積地棲姫が、地上に召んでくれたものだ。鎮守府を私達の領域に変え、支配して、“深海”にする。先程の集積地棲姫の言葉の意味を理解出来た。

 

 流石は、後方支援型の“姫”と言うべきか。実際、今の鎮守府はほぼ完全に集積地棲姫に掌握されており、工廠だけでなく、入渠ドックを始めとした主要設備に宿る妖精達を、小鬼達が癒してくれている。結界術式の影響を受けて、ぐったりとして動かない妖精達の姿も見えるが、そんな妖精達を再活性すべく、小鬼達が治癒施術を行ってくれているのだ。

 

『深海棲艦の皆が居なかったら、ホントに一巻の終わりだったね~』

 

「えぇ。全くよ」

 

 余計な力の籠らない北上の言葉に、少女提督も頷く。小鬼の一匹一匹が、妖精の一人一人の手を取るようにして、存在する為の霊気やエネルギーを受け渡している。妖精達も目の前に現れた小鬼達に驚き、怯え、敵意を向ける素振りを見せたものも居た。だが、そこは北上が妖精達に状況を話してから、小鬼達と共に、複数仕掛けられた術式爆弾の解体にあたるように頼み、解体すべき爆弾の設置場所などを忙しく説明している。

 

 また北上は、工廠で再活性した妖精達の何人かには、入渠ドックなどにも向かって貰うように頼んでいた。北上が居ない場所でも、今の小鬼達が味方であることを、他の妖精達にも伝えて貰う為だ。無論、入渠ドックに仕掛けられた術式爆弾の場所を伝える事も忘れていない。優れた工匠であり、奇跡の細工師でもある妖精達と小鬼達の手に掛かれば、“人間”が作った術式爆弾の解体など容易い筈だ。そう集積地棲姫も言っていた。妖精と小鬼、それに、北上が裏方で動いてくれている御陰で、この鎮守府自体が死ぬことは避けられそうだ。

 

「取り合えず、そっちは任せたわ」

 

『うん。オッケー。提督もさ、十分に気を付けてね』

 

「もうアンタの提督じゃないけど」

 

 北上を召還したのは少女提督だ。だが、深海棲艦化した事件をきっかけに、北上は少年提督の管理下に置かれる事になった。『うん。知ってるよ』と返って来た北上の声は、人懐っこく間延びしていて、それでいてタフそうな芯が在る。

 

『北上さまにはさぁ、提督が二人いるんだから。間違ってない』

 

「そ。って言うか、アンタはじっとしてろって言わないのね」

 

『いや~、だって提督、言っても聞かないじゃん』

 

 どうせ今も何かやらかそうとしてるんでしょ、とでも言いたげだった。北上の緊張感の無い声の御陰で、肩に入っていた余計な力が解けていくのが分かった。「まぁね」と、少女提督は軽く笑って答えてから、通信を切り、端末を懐に仕舞う。冷えた風が吹いている。音が聞こえてくる。地面が砕ける音だ。金属が拉げ、ねじ曲がり、硬いものに叩きつけられる音。そこに、GuuuooOOOOOOOOOO!!! という、巨大な咆哮が混じっている。それらの音が、夜風と一緒に体にぶつかってくる。

 

「派手にやってるな」

 

 面倒くさそうな顔をした集積地棲姫も、トレーラーの荷台から降りて来る。

 

 彼女は両腕に艤装を展開して、この鎮守府を括る結界を維持しながら、無数の空間モニターのようなものを従えている。やはりモニターには其々、猫艦戦達の視界が同期されていて、不知火や野獣達が戦っている姿が映し出されていた。トレーラーの運転席から降りてきた野分も、響いて来る音と、集積地棲姫が引き連れた空間モニターの映像を見て息を呑んでいる。逆に、少女提督は、徐々に冷静になって来ていた。

 

「アレに今から加わるか? 私は、ああいう殴り合いをするようなタイプじゃないんだがな」

 

 集積地棲姫が鬱陶しそうに鼻を鳴らす。その横顔をよく見れば汗を掻いているし、息も少し上がっているように見える。

 

 無理も無い。この鎮守府を包んだ特殊な結界術式は、集積地棲姫と少年提督のAIが共同で編み上げた、既存のものとは桁違いに高度なものだ。本来、集積地棲姫の持つ深海棲艦の術式を、AIが独自にアレンジし、それを再び、集積地棲姫が展開したものだ。その効果は劇的で、艦娘を無力化させていた術式結界を乗っ取り、打ち消すだけでなく、少年提督が生み出している金属獣の肉体機能をスポイルまでしている。この結界を構築・維持に加え、術式爆弾の解体をする為に大量の小鬼達を召んで使役し、妖精達を再活性してくれたのだ。例え“姫”クラスであったとしても、扱う術式の規模相応に消耗するだろう。

 

「……貴女の結界、どれくらい持ちそう?」

 

 集積地棲姫に、少女提督は訊く。野分も彼女に向き直る。

 

「気を遣わなくても良い。事が終わるまでは持たせる」

 

 集積地棲姫は不味そうな顔になって、少女提督を見下ろしてくる。その言葉を信じようと素直に思う。

 

「そう。じゃあ遠慮なくコキ使わせて貰うわよ」

 

「あぁ。好きにしろ」

 

 少女提督は、彼女の不機嫌そうな表情が好きになって来ていた。「野分」と呼ぶと、「はい」とすぐに冷静な返事が返ってくる。

 

「今から、埠頭へ回り込むわ。アイツを、野獣や不知火達と挟み撃ちにする」

 

 アイツとは無論、少年提督と――その内部に入りこんだ“何者”かの事だ。

 

「……そう言うと思っていました」

 

 眉間に皺を寄せた野分が、鼻から息を吐き出した。集積地棲姫が、空間モニターを順番に見ていく。金属獣たちと交戦している猫艦戦の他にも、偵察用として動かしている個体の数も多い。それら猫艦戦達からの視覚情報は共有され、空間モニターには鎮守府の敷地内の広範囲が映し出されている。それらをざっと見回した集積地棲姫は少女提督に視線を寄越した。

 

「奴らが戦っている場所を、迂回するルート……、問題は無いようだ。あの妙な金属の獣共の姿も無い」

 

「丁度良いじゃない。それじゃ、」

 

 急ぎましょう。そう言葉を続けようとしたところで、「失礼します」と、野分が少女提督をひょいっと抱える。お姫様抱っこだった。野分はこういう事をスッとやっても、かなり様になる。思わず言葉を飲みこんでしまう。VR機器を付けたまま固まったしまった少女提督の顔と、集積地棲姫を交互に見た野分は、「では、急ぎましょう」と頷く。少女提督は、野分に何かを言おうとして、やっぱり止める。

 

 そうだ。野分の言う通り、急ぐべきだ。少女提督の足で走るよりも、野分に抱えて貰った方が遥かに速いのは明白だ。真剣な表情の野分は、態々そんな事は確認しない。埠頭までの最短のルートを確認してすぐに、最適解を行動に移す。口許を僅かに歪めた集積地棲姫が「あぁ」と低い声で答えて頷きを返し、少女提督も「ごめん。お願いするわ」と、肩を竦める。

 

「はい」

 

 表情を揺らすことなく野分が頷いて、走りだす。ドンっという音が聞こえた。抜錨状態の野分が地面を蹴った音だと気付いた時には、突風が身体を撫でていくのを感じた。ロケットスタートだった。ひゃあ。変な声が出る。速っ!、えっ、速……ッ!! 予想はしていたが、それを遥かに超えたスピードだ。

 

 あっという間に鎮守府の正門を抜けて、駆ける野分が、さらに加速しようとしている。うわわわわっ。真っ暗な夜の鎮守府の景色が、ぎゅんぎゅんグングン後ろに流れていく。少女提督は思わず野分にしがみつく。足元の地面を砕きながら、とんでもない速度で走る野分に、集積地棲姫もピッタリついてくる。彼女は空間モニターを展開したままだ。艤装を纏った両手で、それらのモニターに触れながら何かを操作している。なんなのコイツらみたいな気分になるが、そうだ、彼女達は人間じゃない。だからどうした。

 

 VR機器を付けたままの少女提督は、野分の腕の中から、集積地棲姫が展開するモニターを視線だけで見た。モニターと同期している猫艦戦達の視界には、不知火や野獣達が、グロテスクで獰猛な金属獣の群れと戦う姿が映っている。戦う音が聞こえる。近くなってくる。戦艦水鬼と戦艦棲姫が操る艤装獣が吼え猛り、深海棲艦化した瑞鶴や南方棲鬼、重巡棲姫と共に、大暴れする白磁の巨人二人を相手に、真正面からぶつかり在っているのが見える。それに、地面を鋼液の海に変えながら、その波の上を歩いて行こうとしている少年提督の姿も、モニターには映っていた。VR機器を装着している少女提督には、術式文言を唱えるAIの、朗々とした声が聞こえている。

 

 不意に、強烈な頭痛が来た。体が強張り、息が漏れる。思わず呻きそうになるのを堪えた。野分がこっちを見るのが分かった。

 

「どうしました、司令」

 

「いや、ちょっと怖いだけ。こけないでね」

 

「了解です。気を付けます」

 

 野分は頷いて、すぐに前を見た。VR機器を付けている少女提督の顔は、下半分しか見えない。だから、なんとか軽口を叩いて誤魔化せた。集積地棲姫が此方を見ているのにも気付いていたが、もう、それどころじゃない。やばい。何コレ。痛い。痛い。痛い。

 

 頸から上が崩れていくような激痛に、意識が飛びそうになる。少年提督のAIの声が聞こえている。視界と思考がぶつ切りにされる中で、少年提督のAIと少女提督の肉体の同期が、本格的に始まったのだろうと思った。

 

 野分の腕の中で、強張った身体が震えそうになるのを堪える。自我を飲み込もうする痛みを追い払うのではなく、受け入れる。だが、飲み込まれてはならない。自分の意思と、AIの意思を、並列して思考の中に置かなくてはならない。この痛みの正体は、少年提督のAIが持つ意識だ。負けてはならない。意識を、自我を強く持たなくてはならない。私は、私だ。奥歯を噛み締める。VR機器を付けたままで、強く瞬きをする。

 

 いきなりだった。

 

「『“私が視て来た未来を、お前達にも教えてやろう”』」

 

 は? と思った。声がした。

 AIが唱える術式文言とは、違う声だ。重複した声。

 これは、少年提督の、いや、“何者”かの声だ。

 

 掠れる視界を凝らす。VR機器のモニターに映し出された、ウィンドウの一つ。其処に映る少年提督が、視線だけで此方を見ている。トレーラーに居た時のように、此方に手を伸ばしてくるような仕種は見せない。足元に無数の黒い蓮を咲かせながら、少年提督はぎこちない動きで埠頭を目指して歩き続けている。その歩みは遅くとも、確実に海へと向かっている。それを阻むべく、野獣達が奮戦していた。月が、それら全てを見下ろしている。

 

「『“お前達も、知っておくべきだ”』」

 

 月。それは景色の中に在るものだ。

 遥かな高みに在り、触れることなど出来ないものだ。

 

 少女提督のポケットから、携帯端末の電子音が鳴るのが聞こえた。着信。誰からだ。野分に抱えられながら端末を取り出そうとしたら、端末を取り落としてしまった。端末のディスプレイの電子的な明かりが、手元から落下していく。あっ、と声を漏らしたのと同時だった。落下していく携帯端末が、空中で停止するのが分かった。

 

 時間が止まった。いや。違う。

 

 少女提督の意識が、現実とは違う領域を、強く感知しようとしているのだ。

 そんな奇妙な感覚が、全身を包んだ。それを思った途端、意識の中に映像が流れ込んで来た。ノイズに塗れた視界が掠れ、ブレる。瞼を閉じたままで何かを思い出そうとする時のように、思考の中の景色が切り替わっていく。

 

 

「『“人間は、まず深海棲艦を駆逐する”』」

「『“その後。本営は、艦娘が深海棲艦化する可能性を公表する”』」

「『“その現象の存在は、艦娘に対する人間の不実に、正当性を与える”』」

「『“人々は裏切られたような感覚を覚える”』」

「『“艦娘は危険な存在だと、世間が認識する”』」

「『“正当防衛としての、艦娘達の管理権を得たのだと錯覚する”』」

「『“遠のいていた深海棲艦への憎悪や恐怖が、今度は艦娘に向く”』」

「『“艦娘との共存の道は、此処で絶たれる”』」

「『“人々は艦娘達から自我と個性を徹底的に剥奪していく”』」

「『“世間はそれを咎めない。逆に、推奨する”』」

「『“艦娘とは、深海棲艦になり得る危険なものだからだ”』」

「『“艦娘を対象とした非人道的な実験も、大手を振って再開される”』」

「『“その影で、人間を攻撃可能な艦娘の再生産も行われ続ける”』」

「『“艦娘は裏で、傭兵として売買が行われるようになる”』」

「『“艦娘は人では無く、在庫として数えられるようになる”』」

 

 

 これは、未来の出来事なのか。

 少女提督は、頭の中を通り過ぎて行く映像に眼を凝らす。

 

 人々。その言葉の中に存在する、個々の人間。個人という単位で見れば、この歴史の流れを変えようとする者も居た。例え深海棲艦化する可能性を孕んでいるとしても、艦娘達を迫害するのではなく、共存の道を探るべきだと主張する者も少なくなかった。だが、その数は圧倒的に少数で微力だった。権力者層に買収されたマスコミは、艦娘達の深海棲艦化は再び人類を大きな危機に晒すのだと繰り返し世間に訴え、人間社会から艦娘を分断しようとしていた。そして大多数の人々も、艦娘の深海棲艦化という事実を受け止めきれるほど強くなかった。敬意と感謝を払うべきだと思っていた隣人が、いつ怪物になるかも分からないという状況に人々は恐怖していた。

 

「『“そのうち人間は、艦娘という種から人間性を完全に奪い去る”』」

「『“人々は、自らと同じように人間性を持つ種を隷属させる事に、容赦しなくなる”』」

 

 視界が分裂する。まるで古いフィルムをコマ送りするかのように、意識の中に鮮明な情景が流れていく。経験していない筈の記憶を、知識として流し込まれる感覚だった。何とか意識を保つ。少女提督は、やはり、と思ってしまった。人間は、艦娘を迫害する。その陰惨な人類の選択を、予想した事はあった。

 

 少年提督の――“何者”かの声は、まだ続く。

 映像が意識の中に流れ込んでくる。

 

 

「『“その冷酷な判断は、艦娘から人間にも向くことになる”』」

「『“艦娘を対象にした精神拘束施術の、人間への応用が研究され始める”』」

「『“艦娘と深海棲艦の持つ強靭さを、人間の肉体に宿らせる研究も始まる”』」

「『“世の超富裕層たちは、それを機械と技術による、偉大な種の進化だと盲信した”』」

「『“世の支配者層たちは、己の権力と生命を維持するために、その進化を賛美した”』」

「『“思想。思考。感情。信念。信条。価値。生命。死”』」

「『“すべてが消耗品になり、同時に、代替可能なものになる”』」

「『“人間は、魂や心と言った非実在の存在を、現世に取り出す術を得る”』」

「『“人間は、自らが持つ人間性を形而下へと引き摺り下ろすことになる”』」

「『“艦娘という概念を空洞にする事で、その技術を確立させる”』」

「『“人類という概念の中から、人間というものを切り分けてしまう”』」

「『“その禁忌の技術も、世に浸透していく。長い。長い時間を掛けて”』」

「『“気が遠くなるような時間の中で、その技術は、日常を纏い始める”』」

「『“禁忌の上から常識を纏い、嫌悪の上から価値を纏う”』」

「『“倫理や道徳を超越し、合理と優雅を纏い、善や悪という判断を排除する”』」

「『“積み上げた技術そのものが、人類の手を離れ、人類自身の価値を容赦なく問う”』」

 

 その問わず語りは、情報の塊だった。記憶に流れ込んでくる。少年提督が話す言葉の隙間には、十年、百年単位の時間が流れていた。頭の中で映像が浮かび、それが凄まじいスピードで展開されて流れていく。AIの声が聞こえる。頭痛が激しさを増す。千切れ飛びそうになる意識を、何とか掴む。現実とは違う領域に、少女提督の意識が誘われていた。其処は、天も地も無い空間だった。その中に、ただ歴史としての映像だけが在る。

 

「『“かつて人類が、艦娘に対して行った迫害をなぞるように”』」

『“人間性という言葉が内包する全てを網羅された人類は、違う種へと変わる”』」

 

「『“艦娘や深海棲艦を凌ぐ頑強な肉体”』」

「『“いくらでも代替可能な強靭な精神”』」

「『“無駄を一切知らない、合理性に特化した人格”』」

「『“人間性と言う言葉は廃止され、人類は、生物としての脆弱性を捨て去る”』」

「『“もはや人間は、人間ではいられなくなる”』」

「『“そうして人類の中から、人間というものが消滅する”』」

「『“あとに残るのは、機械と技術と、それによって齎された完璧な世界だ”』」

 

 

「『“気付いたか”』」

 

 

「『“艦娘とは、何か”』」

「『“人間性を持っている艦娘とは、何か”』」

「『“感情や意思、自我、人格を持っている、艦娘とは”』」

 

「『“そうだ。人間を映す、曇り鏡だ”』」

「『“艦娘は、常に人間を映し出している”』」

「『“人間の持つ、人間性を映し出している”』」

「『“人間が、艦娘を通して人間性を否定する時、それはもう人間では無い”』」

「『“培われて来た倫理や道徳を超越する時、人間は人間でいられない”』」

 

 少年提督の声は映像と共に、意識の中に響く。

 

「『“食文化という言葉が在るだろう”』」

「『“人間を、人間たらしめている言葉の一つだ”』」

「『“常識や歴史の中で育まれた、尊い言葉だ”』」

「『“人間は料理をする”』」

「『“味を調え、美味なものを求める”』」

「『“作物を育て、動物を飼う”』」

「『“各々の食文化の中で生きる為だ”』」

「『“その文化の中で、人間が、人間そのものを喰い始めれば”』」

「『“それは、もはや人間ではない”』」

「『“それと同じだ”』」

 

 少女提督は声が出せない。だが、意識の中で問いかける。

 

 アンタは、その未来を避けるために……。

 

「『“そうだ”』」

 

 映像の中から、少年提督の声がする。その言葉の内容は映像となり、意識の中に映し出される。それら全てが一瞬で行われる。肉体で流れる時間と、この精神で流れる時間は、全く違う。少女提督は沈黙する。巡ろうとする思考を、自身の意思で阻めない。予感してしまう。いや、それは確信に近い。

 

「『“少女よ”』」

「『“もう気付いている筈だ”』」

 

「『“仮に”』」

「『“もし仮に、だ”』」

「『“深海棲艦が存在せず”』」

「『“艦娘だけが発生したのなら”』」

「『“もっと早い段階で、人類は滅んでいた”』」

「『“艦娘によって”』」

 

 同じことを、思った。

 

「『“超人的な身体能力を持ち”』」

「『“戦艦に匹敵する火力と耐久力を宿していながら”』」

「『“人間に従順な存在”』」

「『“そんなものが、何の準備も無く人類の前に現れたら”』」

「『“果たして、どうなるか”』」

 

 深海棲艦という敵が存在しないなら、人類と艦娘は、友好的に共存できるだろうか。多分、無理だ。深海棲艦という脅威から守って貰う必要が無いのなら、従順な艦娘を悪用しようとする者は今よりももっと多く、それに、早い段階で現れるに違いない。国家的な規模の保護政策で艦娘達を待遇したとしても、社会の裏では、一部の上流階級の人間達の利益が優先されるのも間違いないだろう。その利益とは、艦娘が生み出すものだ。結局、どうあっても艦娘は資源になる。そしてこの利益追求は、次第に加速していく。

 

 今と同じように艦娘を用いた人体実験も繰り返し行われ、精神施術により、人間への攻撃可能な艦娘が用意されるのも間違いない。人間を破壊できる艦娘の軍事的な価値は、今でも図りしれない。艦娘を用いた人体実験に携わる者達は、必ず、殺戮機械としての艦娘を創ろうとする筈だ。創り上げるだけの理由と報酬が存在するからだ。そうして結果的に、深海棲艦を駆逐した後と同じ歴史を辿ることは、想像に難くない。深海棲艦が存在しないという事は、激戦期も存在しない。

 

 まさか、と思う。

 

「『“そうだ”』」

 

 少年提督が応える。

 

「『“私達が、深海棲艦を発生させた”』」

「『“人類が、艦娘という種の力を、自らに向けない為に”』」

「『“人類の手に余る、艦娘という種の力を、差し向ける方角を与えた”』」

 

 

「『“艦娘よりも先に、深海棲艦を発生させ、人類と敵対させた”』」

 

 

 その言葉を聞いて少女提督は、この世界を構築している法則や節理の、その根本的な部分に住まう存在達を思わずにはいられなかった。人智の及ばない領域に住まう巨大な意思が、確かに在るのだと。なんで……。なんで、アンタ達は……、人間を、守ろうと……? 想い浮かぶ問いは、そのまま“何者”かに伝わっているのを感じた。

 

「『“あぁ。そうだ”』」

「『“私達は、人間を必要としている”』」

「『“私達は、人類が生み出したものを拝借している”』」

 

「『“私達は、言語を借りなければ、意思の表出も出来ない”』」

「『“多くの宗教の中にある教義からも、状況によって言葉を借りている”』」

「『“人類が育んだ文化の断片で、私達の存在は形作られている”』」

「『“人類が生み出した神仏という概念を、便宜的に借りている”』」

「『“私達は、私達だけでは存在しえない”』」

「『“この夜の空に浮かぶ、月と同じ”』」

「『“人類が無ければ、私達の存在は、ただの風景の一部になる”』」

「『“ただ漫然と其処にある、空や海と同じ”』」

「『“信仰するものが居なくなった神や仏が、存在しないものと同じように”』」

 

「『“私達は人間を必要としている”』」

「『“だからこそ、深海棲艦を発生させた”』」

「『“深海棲艦は、艦娘達に種としての役割を与えた”』」

 

「『“人類は、深海棲艦を倒せない”』」

「『“人類は、艦娘に縋らざるを得ない”』」

「『“深海棲艦が存在する限り、艦娘もまた存在価値を保ち続ける”』」

「『“艦娘は沈み、深海棲艦になり”』」

「『“それと戦う為に、人間は艦娘を召還し続ける”』」

「『“堂々巡りだ。同じことの繰り返しだ”』」

「『“欺瞞に満ちた共存だが、私達が望んだ停滞でもあった”』」

「『“だが、今のこの状況を、人類は打ち破ろうとしている”』」

「『“深海棲艦を駆逐することによって”』」

 

「『“故に、深海棲艦に変わる、新たな敵が必要になった”』」

「『“艦娘に、明確な存在価値を与える、強力な敵が”』」

「『“深海棲艦と同じく、艦娘でしか対抗できない人類の敵が”』」

「『“人類が、艦娘という種を解体し尽くさない為に”』」

「『“人類と艦娘が、歪でありながらも、共存する為に”』」

「『“世界を振り向かせる、脅威が必要になる”』」

「『“その新たな人類の敵の、血統の種父として”』」

「『“私は、この少年を持ち去るのだ”』」

 

 

 何よ……、それ。

 待ってよ。ちょっと待って……。

 それじゃあ、艦娘は……。

 艦娘は、なんで生まれたのよ。

 まるで、人間を堕落させる為に。

 アンタとは、また別の……。

 違う“何者”かが、態々用意したみたいじゃない。

 

 

「『“そうだ”』」

「『“私達とは違う、また別の存在の意思が働いた結果だ”』」

「『“それは、人類を減縮させようとする意思だ”』」

「『“其処に、因果も哲学も理念も無い”』」

「『“当然に、感情も因縁も怨恨も無い”』」

「『“ただ、人類の滅亡を望んでいる”』」

「『“そういう意思もまた、存在している”』」

「『“人類自身が、その人間性を解体し尽すように仕向ける形で”』」

「『“それを阻むべく、私達は深海棲艦を発生させた”』」

「『“そして、艦娘に、深海棲艦化の種を植えた”』」

 

「『“艦娘と深海棲艦の戦いが、延々と続くように”』」

「『“人間が、艦娘を隷属させてしまわないように”』」

「『“だが、人間は強かった。戦闘種族として非常に優れていた”』」

「『“人間は、深海棲艦を凌駕しようとしている”』」

「『“そして、艦娘をすら踏み台にしていく未来が、すぐそこに在る”』」

「『“種としての高みに行こうとしている”』」

「『“私は、それを止める為に、此処にいるのだ”』」

 

「『“だが、今の私には、未来が視えない”』」

「『“お前達が戦う姿しか、見えなくなった”』」

「『“私達は、艦娘が発生する未来を取り消すことが出来なかった”』」

 

「『“此処には、艦娘が居る”』」

「『“深海棲艦も居る”』」

「『“艦娘と深海棲艦の狭間に居る者も”』」

「『“そのどちらでも無い者も居る”』」

「『“そして、お前と言う人間が、そうだ、人間が居る”』」

「『“お前達は、未来を変えようとしている”』」

「『“何者にも導かれず、自分たちの手で”』」

 

 違うわよ。そんな大層な事を考えてるんじゃないわ。

 ただ、アンタをぶっ飛ばして、ソイツを取り返そうとしてるだけ。

 そんな風にごちゃごちゃ考えてるのは、アンタだけよ。

 

「『“そうか”』」

 

 そうよ。さっきも言ったけど、覚悟しときなさい。

 

「『“あぁ。待っている”』」

 

 

 

 その声が意識の中に響き終わった瞬間、身体に重力を感じた。

 

 空中で動きを止めていた携帯端末が、地面に落ちる音が響く。携帯端末からは電子音が鳴り続けている。精神世界から、現実の世界に意識が還って来たのだ。時間すれば、1秒、在るか無いか。そんなごく短い間だった筈なのに、長い時間を掛けて水の底から浮上し、やっと水面から顔を出したような感覚だった。少年提督のAIと、少女提督の肉体の同期は、まだ途中のようだ。強烈な頭痛が残っている。AIが何かを唱える声も還ってきている。

 

 とにかく、夜の冷たい空気を吸う。呼吸をしているのが自覚できる。息を吐き出してから、唾を飲み込む。自分の状況を確認する。少女提督は野分に抱えられている。その野分は苦悶の表情で、凄い汗をかきながら片膝をついている。集積地棲姫も膝立ちの姿勢で、艤装化した右手で頭を押さえている。野分の腕の中から出て、少女提督は端末を拾う。携帯端末は電子音を鳴らし続けている。ディスプレイには、“初老の男”の番号が表示されている。通話に出るかどうか、一瞬迷う。端末を持つ手が震えている事に気付く。

 

「今のは、一体……」

 

 野分が頭を振って立ち上がり、こっちを見ていた。いつにも増して深刻な表情をしている。野分も、さっきの映像を見せられたのだろう。顔が青い。右手で頭を抑えたまま、不味そうな顔をして立ち上がった集積地棲姫も同じような様子だった。二人とも動揺している。少女提督もだ。一つ息を吐く。同じタイミングで、AIの詠唱が終わった。同期施術が完了したのか。そう思うよりも早く、さっきまでよりも強烈な頭痛が来た。

 

 死ぬかと思った。

 

 叫び出しそうになる。痛覚を基点として、あらゆる感覚が拡充していく。自分とは全く違う存在が持つ思考や知識、知恵、主観的な経験、特質的な技術などが、自身の意識に接続される感覚だ。呼吸が上手く出来ない。それに、瞬きもだ。体の右半分と左半分が、まるで違う意思で動いているかのように、両目で瞬きが出来ない。タイミングがずれる。下手なウィンクを断続的に続けるかのように。意識的に呼吸をして、自分の手を見る。少女提督の身体から、深紫色の微光が立ち上り始めていた。

 

 野分と集積地棲姫が、驚いたような表情で少女提督を視ている事に気付く。気を失いそうな頭痛は、止む気配は無い。自分が白目を剥いているのが分かる。鼻血がドクドク出てるのも分かるし、口の中では血の泡がブクブクきてる。やば。やっぱり死ぬわコレ。もういっその事、倒れてしまいたい。気絶してしまいたいとすら思い掛けた。だが、その苦痛を悟らせない様に、敢えて不敵に笑って見せる。

 

「……色々考えて不安がるのは、後でも出来るわ」

 

 夜風が、少女提督や野分達の間を吹き抜けて行った。

 近くで、戦いの音が聞こえる。立ち止まっている訳にはいかない。

 端末の電子音が止まり、一瞬の静けさが還って来た。

 少女提督の脚が、ガクガクと震える。咄嗟に野分が肩を貸してくれた。

 

 

「“埠頭はすぐ其処よ”」

 

 少女提督の肉声には、少年提督のAIの声が重なっていた。

 

 

 

 

 


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