花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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 生存報告的なシリアス回が続いており、申し訳ありません……。



別れ道の前で

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 霞が秘書艦となったその日、客人として二人の男が鎮守府を訪れてきた。少年提督が呼びたてたらしく、一人はでっぷりと肥え太った中年の男で、もう一人は肥えた男の秘書らしき男だった。二人とも高級そうなスーツを着こなしており、手首に光る腕時計や履いている靴にしても、他者を遠慮なく威圧する類の上品さを備えていて、彼らが社会的に見ても非常に高い地位にいる人物であることが窺えた。ただ、少年提督の執務室の、その応接スペースのソファに腰掛けた彼らは今、ぎこちない作り笑いを懸命に浮かべていた。見ている霞が滑稽に思うほどに、彼らは青い顔に大量の汗を浮かべて身体を強張らせている。

 

 一方、そんな彼らと向かい合いソファに座っている少年提督は、穏やかな表情のままで泰然としており、静かな威厳と穏やかな貫録を纏っていた。少年提督にそんなつもりは全く無いのだろうが、彼の超然としたその態度が、客人である男達が着込んでいた威風を呆気なく引き剥がして圧倒し、完全に飲み込んでいる。もう少年提督は、拘束具めいた眼帯も手袋もしていない。彼の右手に黒く刻まれた幾何学紋様には、脈を打つように深紫色の微光が緩く走っており、淡い明滅を繰り返している。何かの回路を彷彿させる規則的なその光の強弱は、少年提督が“見た目通りの人間”では無いことを物語っている。

 

 男達は何か話さなければと視線を泳がせているが、少年提督の存在感に押しつぶされて沈黙を余儀なくされている。そんな様子だった。会話が途切れ、執務室には不穏な静寂が漂っていた。つい先程、少年提督が彼らに淹れたコーヒーが、ソファテーブルの上で湯気をくゆらせている。少年提督が息を一つ吐く。

 

「雨の日が続きますね」

 

 落ち着き払った声でそう言った少年提督は、ゆったりとした仕種で窓を見遣る。こういった話し合いの場の作法として、彼は簡単な世間話によって空気を解そうとしたに違いない。だが、太った男が肩をビクつかせ、メガネの男が息を詰まらせるだけで、話が膨らんでいくことは無かった。再び沈黙が訪れ、男達の浅い呼吸音だけが執務室の淀んだ空気に混ざる。彼らが少年提督の挙動の一つ一つに対し、警戒し過ぎるほどに警戒し、気を張りつめているのは明らかだった。

 

 ただ、その理由について霞は、この男達が訪ねてくる前に少年提督本人から聞いて知っていた。この太った男は、あの夜の襲撃事件の“黒幕”達の、そのうちの一人なのだと。少年提督は感情を表に出すことなく、普段と変わらない柔らかな表情で霞に教えてくれた。

 

 正直、耳を疑った。いったい、どうやってこの太った男の素性を暴き、鎮守府に呼び出すことまで出来たのか。それに呼び出した目的は何なのか。訊きたい事が山ほどあった。だが、それを問い質すには勇気が必要だった。これから、“黒幕”達の内の一人が、この鎮守府にやってくる。その事実に対し、混乱と憎悪に振り回されそうになる霞に比べて、命を狙われた本人である筈の少年提督の態度が余りにも従容としていたからだ。結局、霞は、「……分かったわ」と、秘書艦娘としての最低限の言葉を返すのがやっとだった。

 

 今の執務室を世界から切り離すかのように、大粒の水滴が窓を叩いている。

 ソファに腰掛けた少年提督が、男達に向き直った。

 

 

「コーヒーは苦手でしたか?」

 

「あぁ、いや、そんなことは無いんだがね」

 

 太った男は少年提督に話し掛けられて無視することも出来ず、強張った笑顔を貼り付けたままで、ソファに座らせた身体を揺すった。太った男はコーヒーを見て、すぐに視線を彷徨わせて唾を飲み、言葉を詰まらせる。毒でも盛られているのではないか警戒しているのだろう。狼狽する太った男は、コーヒーカップには手を付けないままで少年提督に向き直った。

 

「どうして、私を招いてくれたんだね?」

 

 恐る恐る少年提督の顔色を窺うように、太った男が眉尻を下げる。どうして、と言った男の声は震えており、明確に怯みが在った。

 

「私の個人的な番号にキミから連絡が来たときは驚いたよ。用向きも話さず、一人で鎮守府に来てほしいだなんてね」

 

 太った男は、その時の状況を可笑しそうに話すことによって、今の状況そのものが重大な事態ではないのだと自分に言い聞かせているようでもあった。無理に笑顔を作って会話を広げようとする必死さがあった。途中でハッとした顔になり、「あぁ! ぃ、いやっ! キミのことを無礼者だなどというつもりは無くてね!」と、慌てた顔になって手を振ったりしている。秘書であろう眼鏡の男は、自分の上司が少年提督の機嫌を損ねてしまわないかを恐れるように、強張った眼で太った男を見ている。

 

 霞は唇の端を強く噛んだ。

驚いただと? それはそうだろうと思う。

 

 日向が少年提督の頭部を大型拳銃で破壊、殺害したというリアルタイムの報告は、この鎮守府を襲撃した実働部隊から“黒幕”達にも在った筈だ。だが、実際には少年提督は生きており、暗殺は失敗に終わっている。あの夜のことの詳細を知らない“黒幕”達にとっては、何が起きたのかさっぱり分かってないのが現状だろう。そんな中で、暗殺の対象となった少年提督から直接のコンタクトを迫られた太った男は、今の状況に当惑し、恐怖しているに違いなかった。霞は何も言わず、ただ二人を睨むようにしてこの場を見守る。

 

「呼びつけてしまうような形になって、申し訳ないと思っています」

 

 穏やかな声で言う少年提督の視線が、太った男を捉えた。

 

「実は、お願いしたいことが在ったのです」

 

 執務室の空気が硬直する。

 

「わ、私に?」

 

 太った男の顔から愛想笑いが消え、頬が引き攣り、瞬間的に緊張を見せた。霞も少年提督へと視線を向ける。

 

「はい。こうして直接顔を合わせなければ、出来ない話もあります」

 

ソファに腰かけていた鏡の男が唾を飲む。

 

「僕は、貴方と敵対したくないと思っています。こうして態々、僕のもとを訪れてくれたのですから」

 

 少年提督は微笑みを崩さない。太った男は少年提督の眼を見ないままで、ほっとしたような笑顔を浮かべる。

 

「あぁ。私は、キミの味方だ。キミと対立するつもりなど毛頭無い。嘘じゃない。あぁ、ただね、“一人で鎮守府に来てくれ”とキミには言われていたが、こうして秘書を連れてきたことは許してほしい」

 

 少年提督に敵意を向けられていないことに安堵したのだろう。太った男は肩の力を抜いて、ソファに凭れた。その隣に座っていた秘書の男は黙ったまま、余裕の無い無表情で頭を下げる。

 

「許すも何も。僕は、お二人を信頼していますよ」

 

 静かな口調で言ってから、少年提督はコーヒーを一口啜った。彼の微笑みは揺らがない。太った男はハンカチを取り出して額や首筋の汗を拭い、ようやくリラックス出来るというように息を吐き、ソファに深く身体を預け直した。秘書である眼鏡の男も、長い間潜っていた水中から顔を出した時のように、静かにだが、大きく息を吸い込んでいた。二人は、自分たちが少年提督の害意や憎悪の外に居る事を知って、あからさまに安心して見せている。

 

「それで、私に頼みたいということは?」

 

太った男が頬の肉を揺らし、親切そうに言う。

 

「と言うよりも、なぜ、私に?」

 

 媚びを含んだその声音は湿っぽく、気色悪かった。少年提督に恩を売り、あわよくば彼の懐に潜りこんでしまおうという肚が霞には透けて見えた。知らず、唇を噛んでいた。霞は意識して、身体から力を抜いて静かに、深く呼吸をする。この男達に対する殺意が、自分の中に満ちて来る。それを逃がすことに努める。握り込んだ拳を解いて、掌の汗をスカートで拭う。少年提督はコーヒーの最後の一口を啜ってから、カップをソーサーに置いた。

 

「貴方の管理下にある研究所のいくつかで、僕の生体データを元にした“僕のコピー体”を造ろうという実験・研究が行われているという話を耳にしました」

 

 柔らかく言う少年提督の言葉に、執務室が静まり返る。彼は微笑みを崩さない。泰然としている。一方で、太った男は笑みを貼り付けたままで声と息を詰まらせて、脂肪の付いた頬をビキビキと引き攣らせた。秘書の男も唾を飲み、身体を強張らせるのが分かった。霞は息を飲む。窓を閉めている筈なのに、空気がうねるのを感じた。その透明なうねりは、ソファに座る男達を探るように纏わりつき、締め上げている。

 

「それは、だ、誰から……」

 

 眼を泳がせる太った男は、顎と頬を震わせて、何とか笑みを浮かべている。笑みを浮かべることによって、自分の身を守ろうとしているかのようだった。少年提督は口許の微笑みを絶やさずに眼を細め、二人の男性の名前を口にした。霞はその名を聞いた事が在った。以前、この鎮守府に訪れていた、初老の男と中年の男の名前だった筈だ。彼らの名前を聞いた太った男は眼を見開き、顔に貼り付けて居た笑みを情けなく崩した。

 

「き、キミは……、あの二人と昵懇なのか」

 

「えぇ。お世話になっています」

 

 太った男の問いに、少年提督は軽やかに答えた。霞は少年提督を見詰める。彼の声音には、少年提督自身が持つ人脈をチラつかせることで、太った男を威圧し、威嚇しようとする意思は微塵も含まれていなかった。「まだまだ僕は世間知らずなので、迷惑をかけてばかりですが」と、自嘲交じりの冗談を付け足したりするのを見るに、寧ろ、不穏さを孕みつつあるこの場の空気を少しでも解すために、ゆったりとした態度を取っているように霞には見えた。少年提督は先程、自分の命を狙った筈のこの男達と敵対したくないと言っていたが、それは偽りの無い本心なのだろう。

 

 太った男は、何とか自身の威厳を保つために口許を歪めて、眉を上げようとしている。必死に笑顔を作ろうとして、失敗している。その隣に座る秘書は、俯きがちに視線を彷徨わせて、頻りに眼鏡の位置を指で直していた。二人とも少年提督の眼を見ないまま、また脂汗を掻き始めている。

 

「……既にご存知だと思いますが、僕達の鎮守府は少し前に、大きな規模での襲撃を受けました」

 

 少年提督は何か試すように、話題を変えた。

 

 太った男は「あぁ、し、深海棲艦達に襲われたんだろう?」などと上擦った声で、すっとぼけた相槌を打つ。「世間には、そう公表されていますね」と、ゆっくりと瞬きをした少年提督が頷く。霞はその時、秘書の男が切羽詰まった表情になって、スーツの懐に手を伸ばそうとしている事に気付く。

 

 刃物か、いや、銃か。霞はすぐに動けるように抜錨状態になる。艦娘である霞は、例えこちらに殺意を向けて来る人間であっても攻撃はできない。秘書の男に組み付くことも出来ない。だが、少年提督の前に出て、盾になることならば出来る。

 

 

「実際は違います。僕達は深海棲艦にではなく、人間社会の勢力によって襲われました」

 

そこまで言った少年提督は寂し気な表情を浮かべ、太った男を静かに見る。

 

「貴方は、その勢力に連なる人物の一人ですよね?」

 

 だから、貴方と話がしたかったのだと。申し訳なさそうに言う少年提督の声は、執務室に残響する雨音にそっと混じり合うだけで、太った男を非難し、糾弾する響きは無かった。だが、太った男の笑みが完全に崩れ、「わ、私は……」などと、今まで以上に声を震わせ、余りにも今更過ぎる大きな動揺を見せていた。

 

 秘書の男が少年提督を睨みながら、ソファに腰掛けたままの姿勢を少しだけ前に倒した。何らかの覚悟を漲らせた彼からは、すぐにでもソファから立ち上がり、懐から銃を取り出そうとする気配が漲っていた。その秘書の男の動きに合わせ、咄嗟に少年提督の前に飛び出せるように、抜錨状態の霞も微かに姿勢を落とす。全員が黙り込む時間が数秒あった。雨が窓を叩く音だけが響く。

 

 そのうち、太った男が息を大きく吐き出して、スーツの懐に右手を差し込んだ。やはりと言うべきか、この男も銃を持ち込んでいたのかと、霞は鼻を鳴らしそうになる。太った男は何も言わない。ただ、少年提督を見る眼つきを変えた。その眼差しには、「こうなったら、しょうがない。もうしょうがないな」という開き直りから来る大胆さと、残酷な冷静さが在った。

 

「僕を殺しますか?」

 

 少年提督は気遣わしげな表情で、太った男と、男の秘書を見比べる。

 

「……あぁ。前と同じように、全て揉み消す。まぁ、前よりも面倒なことになるが、どうにかなる」

 

 太った男が、首の贅肉を揺らして頷く。

 

「最初から、こうしておくべきだったのかもな」

 

 太った男は慣れた手つきで懐から銃を取り出し、少年提督に突き付ける。それを見た霞の脳裏に、あの夜の光景がフラッシュバックする。大型拳銃を構える日向が、視界の隅に浮かんだ。次に、頭部を銃弾で砕かれて倒れていく、少年提督の姿が見えた。霞の頭の芯が熱くなる。奥歯を噛み潰すほどに顎に力が入り、太った男を睨む自分の眼差しに明確な殺意が滲むのが分かった。

 

「おい、お前。動くな」

 

太った男が、霞を一瞥した。

 

「余計な事を考えるなよ。俺がこの鎮守府に居る事は、他の“連中”も当然知ってる。俺に何かあれば、“連中”も動く。そういう段取りなんだよ」

 

 太った男は、早口で言う。“奴等”とはつまり、“黒幕達”の事だろう。霞は舌打ちを堪え、男を睨む。太った男は強張った眼をギラつかせ、少年提督と霞を交互に見ている。先程までの丁寧な物腰を捨て、一人称が「俺」となった男の態度は威圧感を振りまくもので、それが堂に入っていた。これが、本来のこの男の姿に違いなかった。

 

「くだらない真似でもしてみやがれ。お前ら全員、廃棄処分にしてやるからな」

 

 太った男は、自分を無理矢理に落ち着かせるような声で言う。それは霞だけではなく、少年提督に対しても明確な脅しだった。やはり、艦娘達は人質になってしまう。これは避けられない。忌々しい事だ。霞は太った男を睨み付けたままで、ゴリゴリと奥歯を噛み締める。少年提督が首を傾け、霞の方を見ているのに気付いたのはその時だ。

 

 彼は霞の動きを制止するように、そっと左の掌を見せていた。彼は「大丈夫ですから」とでも言うように、ひっそりと目許を緩めている。何をそんなに落ち着いているのよ。霞は苛立ちながらも、僅かに身体を前に倒したままで止まる。動かず、少年提督と男達を見比べるだけに留まった。

 

 異様な程に落ち着いている少年提督は、霞に小さく頷いてから男達に向き直り、「やはり貴方は、本営上層部の方々とも繋がりが在るのですね?」と、突きつけられた銃口を見ながら、悲しそうに眉を下げる。「当たり前だろ」と言い放つ太った男の方は、獰猛な笑顔を浮かべた。先程までの窮屈そうな笑みではない。他者を踏み躙ることに慣れた、傲岸不遜な笑みだった。

 

「俺達が此処で何をどうしようが、そんなモンは関係ない。防犯カメラの映像も艦娘の証言も全部、まとめて握り潰せるんだよ。そうじゃなきゃ、こんな所にわざわざ来るか」

 

「……なるほど。残念ですが、言われてみればそうかもしれません」

 

少年提督は寂しそうに頷く。

 

「でも、艦娘の皆さんを廃棄処分することは不可能ですよ。今の平和を支えているのは、彼女達です。それを本営は知っています」 

 

「なら、お前の初期艦娘を廃棄に追い込んでやる。不知火とか言ったか?」

 

 太った男が唇を吊り上げた。霞は少年提督を見る。少年提督が不知火を信頼していることは霞もよく知っているし、不知火もまた少年提督を深く慕っている。二人はケッコンも済ませていた筈だ。その不知火を廃棄処分にしてやると言われても、ソファに腰掛けたままの彼は、哀しげな息を薄く吐き出すだけで、怒りや憎悪といった感情を発露しない。

 

 それは、不知火への愛情が希薄であるが故では無く、太った男の言葉を脅しとして受け止めていないからだろうか。或いは、艦娘達が破棄される事など無いと、あらかじめ知っているかのようでもある。その少年提督の泰然とした雰囲気に引き摺られ、霞も落ち着いて来た。雨音に隠すようにして静かに息を吸い、吐いてみる。心が静まっていく。それと同時に、少年提督を護ろうとする自分の行為を疑問に感じた。

 

 少年提督が頭部を破壊されても、まるで何事も無かったかのように再生する場面を思い出す。少年提督は死なない。死ねない。この現実世界の“層”から離れ、超常の領域に踏み入っている。果たして、そんな少年提督を護ろうとする行為に、どれほどの意味が在るのだろう。今の少年提督に、艦娘達は何が出来るのだろう。自分の胸の内に生じたこの疑問は、霞の心を少なからず削り、身体に籠っていた力を奪う。立ち竦みそうになりながらも、霞は太った男を観察してみる。

 

 太った男は大量の汗を掻いている。焦っているのか。秘書の男も同じだ。強張った眼をしていて、銃を持つ指先が震えていた。自分達は少年提督よりも優位に立っているのだと主張し、余裕を装い、勢いに任せて、この場を切り抜けようとしている。そんな風に見えた。

 

「それに今日は、あの厄介な野獣とかいう奴も此処には居ない。つまり、俺達を咎められるヤツは、この“花盛りの鎮守府”には居ないって事だ。お前の生体データも十分過ぎるほどに集まったしな。いい加減、目障りなんだよお前は」

 

 太った男は微かに息を弾ませ、自分に言い聞かせるように言う。少年提督はゆっくりと瞬きをして、息を吐いた。

 

「……貴方は、僕のクローンを造ろうとしているそうですね」

 

 少年提督のその問いに、秘書の顔色が変えた。そこまで知っているのか、という表情だった。太った男は一瞬だけ眼を見開いて表情を歪めたが、すぐに鼻を鳴らして唇を歪めた。

 

「だったらどうした?」

 

「僕の身体に宿った不死を再現しようとするのは、お勧めしません」

 

「黙れよ。死ぬよりマシだ。生きていた方が良いに決まっているだろうが」

 

太った男の瞳が揺れ、その声にも今までにない切実さが混じったのが分かった。

 

「僕に銃を向けているという事は、貴方はやはり、不死というものを勘違いしているようですね」

 

少年提督は諭すような口調で続ける。

 

「不死という概念が、老衰や病魔からの解放を意味するのは間違いないと思います。しかし、それは同時に、此方の都合で終わることが無い、永久的な生命活動の強制を意味します」

 

 太った男は何かを想像したのだろう。片手で銃を構えたままで一瞬、目を泳がせてから唇を噛んだ。少年提督に視線を戻した男の表情には暗い翳が差し、困惑と後悔、それに焦燥と絶望が浮かんでいた。「そんな馬鹿な事があるか」太った男は、何かを必死に否定しようとするかのように唾を飲み込んで、大きく頭を振った。

 

「不死という言葉の本質は、死なないのではなく、死ねないという点です」

 

少年提督も悲しそうに眉を下げる。

 

「僕の肉体は塵になっても、すぐに再構築されます」

 

「……嘘をつくなよ」

 

「いえ、事実です。つい先日、試しました」

 

 少年提督の言葉は全く冗談には聞こえず、何の諧謔も含まない冷酷な事実なのだろうと思わせるだけの、落ち着いた貫録だけが在った。秘書の男が目を剥いて少年提督を見ている。霞も思わず、少年提督を凝視した。太った男の銃を握る手が、無力に震えている。

 

「ですから、不死などというものには、近づくべきではありません」

 

「それは親切心のつもりか。お前に何が分かる」

 

 鼻の周りに皺を刻んだ太った男は、自分の焦りに急かされるようにして、銃の引き金を引こうとしている。「少しだけ、貴方の来歴について調べさせて貰いました」少年提督は怯まず、ソファに座ったままで男を見ている。

 

「激戦期の頃の貴方は、艦娘の皆さんや深海棲艦を用いた人体実験や、其処から発展していく技術については特に興味を持っていなかった。僕の生体データを集め、それを基にした人体改造の計画を始動させたのは、最近になってからですよね」

 

 気遣わしげな少年提督の声は、太った男の表情を再び崩した。

 

「……それは、ご息女の為にですか?」

 

「黙れ!」

 

 太った男は歯を剥き、荒々しく3度、4度と引き金を引くが、妙なことに、銃弾が発射されることは無かった。カチンカチンと金属音が響くだけだ。霞は飛び出し、少年提督の前に出ようとするが、やはり少年提督が手で制してくる。秘書の男が唇を引き結び、太った男が握った銃を困惑の眼で凝視している。その間にも、「お前も撃て!」と、太った男が秘書に向って喚く。その命令に頷いた秘書が、手にした拳銃を少年提督に突き付けようとした時だった。

 

「うわぁっ!!」

 

 秘書の男が悲鳴を上げる。彼は銃を脇に投げ捨てて、そのままソファに尻餅をついた。太った男も「なっ!?」と驚愕の声を漏らし、銃を手放した。二人が手に握っていた銃が微光を纏い、姿を変え始めたのだ。彼らの手から離れた銃は、床に落ちるまでに輪郭を暈し、光の粒となってうねり、有機的な造形を持ち始めていた。

 

 霞は、少年提督の右掌から深紫の光が淡く漏れていることに気付く。彼の纏う光は、金属や造物に新たな姿と機能、忠誠と主観を与え、徴兵する。瞬く間に生命を宿された二つの銃のうちの一つは、床に落ちる前に空中で、金属の大百足となって床でのたうち、すぐにギチギチギチと不気味な音を立てながらソファテーブルを乗り越えて、少年提督の脚から左の肩口へと這い上る。残るもう一つの銃も、金属の大蜘蛛となって床を這い、少年提督の右太腿まで這い上がった。生々しさを持って動く百足も蜘蛛も、どちらも30センチはあろうかという大きさだ。

 

 太った男と秘書の男は眼を見開き、呼吸も瞬きも忘れて蟲と少年提督を見詰めている。霞もその光景に驚きこそしたが、怯むことなく冷静に受け止める事が出来ている自分に気付く。造命の宗匠。彫命の職工。少年提督が持つ、幾つかの二つ名が脳裏を過った。

 

「僕は、貴方に何らかの復讐を行う為に、此処までお越し頂いたのではありません」

 

 自身の身体に張り付く大百足と大蜘蛛に左手でそっと触れながら、少年提督は緩く首を振った。

 

「少しだけ、僕の話を聞いていただけませんか?」

 

 そこまで言ってから、少年提督は短く文言を唱えた。彼の右腕に燻る深紫の光が脈動し、揺らぎ、煙霧のように蜘蛛と百足に伝う。その光によって輪郭を解かれていく蜘蛛と百足は、再び姿を変えながら床に転がり落ちた。太った男と秘書の男が呆然とその様子に目を奪われているうちに、金属が新たな造形とともに鳴き声を上げた。今度は、子犬と子猫だった。どちらも美しい灰色の毛並みをしている。数秒の出来事だったが、それは蟲から動物への生まれ変わりであり、転生という言葉を連想させる。

 

 子猫は音も無くしなやかに動き、ソファに腰掛けたままで硬直している秘書の男の隣へと飛び乗り、丸くなって眠ろうとしている。秘書の男が声にならない悲鳴を上げた。尻尾を振る子犬は、太った男を見上げながらその足元まで走り寄り、無邪気にじゃれつこうとしていた。

 

「先に俺に質問させてくれ。……なぜ、俺に目をつけた」

 

 深く吐き出す息と一緒に掠れた声を出し、太った男は何もかもを観念したかのように項垂れ、力なくソファに身体を落とした。少年提督が扱う術式を前に、もはや抵抗や反抗を企てている様子は無かった。霞は抜錨状態を解いて、静かに深呼吸をする。先程まで拳銃だった筈の子犬が、太った男に尻尾を振り、じゃれついている。太った男は疲れきった顔になって足元の子犬と目を合わせてから、少年提督に向き直った。

 

「俺と似たような事をやっているヤツなんざ、お前を狙った“連中”の中にだって幾らでも居るだろう? その中で、なんで俺を此処へ呼んだ?」

 

 太った男はその子犬の頭を撫でてやる。太った男の掌に押され、子犬の毛並みが動いた。本物の犬と変わりない。秘書の男は、さっきまで拳銃だった筈の子猫が、自分の太腿に喉を擦りつけて来ること怯えながらも、少年提督と太った男を見比べている。

 

「貴方だけが、人を救う為の研究を率いていたからですよ」

 

少年提督は口許を少しだけ緩めた。

 

「僕の生体データや培養された細胞が多くの研究所に出回り、それを基にして、肉体の強化や再活性する術の模索が始まっていることは、僕も知っています。老いた身体を若返らせるだけでなく、超人的な肉体へとアップグレードさせる技術は、そのまま巨大で魅力的な市場になるでしょう。それに加えて、僕の遺伝子の売買も、近々始まるという話も聞きました」

 

 静かな声で語る少年提督の淡々とした様子に、霞は寒いものを感じた。艦娘達の遺伝子情報は売買の対象になっているという話は、かなり前に聞いた事はある。恵まれた遺伝子によって恣意的に肉体を設計しようという思想や、それによって莫大な利益を発生させようという計画なども、特に珍しいわけでも新しくも無いだろう。だが、それらが確かな現実味を帯び、今の人間社会に劇的な影響を及ぼそうとしていることを、少年提督の落ち着いた態度が雄弁に物語っているように思え、不気味だった。

 

「本営直属の研究機関では、そういった市場が出来上がる事を見越した、“商品”としての肉体改造施術の開発に力を注いでいるのが現状です。……その中で貴方だけが、単純に不死を求める研究を続け、僕のクローン体を造り出すという結論を早急に出していました。利益を求めず、市場に背を向け、特定の病魔を撃退する為の研究を続けていた。だから、お会いしたかったのです」

 

「……よく調べているな」

 

 太った男は自嘲するような、破れかぶれの笑みを浮かべた。疲れた笑みだった。

 

「他の奴等は、研究の成果を金に換えたがっている。なら、今の権力者の老人たちに媚びるのが一番手っ取り早い。倫理や世間体への懸念から表沙汰にはならないだろうが、安全に若返る方法の確立は利益に直結する。超富裕者層からの催促が後を絶たない分野だからな。表に出ようが出まいが関係なく、莫大な金が動く」

 

太った男は片手で頭を抱えて項垂れ、絞り出すように息を吐き出した。

 

「人間の肉体を再活性させることで、損傷や傷跡を癒すことは出来る。だが、身体に根深く居付いた病魔を払うことは出来ない事が分かった。逆に、病魔自体を活性させてしまう。若返るついでに寿命まで引き延ばす技術は、金にはなるが、娘の命を救えん。肉体の修復と活性よりも、……新しい身体が必要だった」

 

「それで、僕の身体をコピーして造り出し、そこに娘さんの脳を移植しようとしている訳ですね」

 

 少年提督が語った内容に、霞は思わず表情を歪める。太った男は答えず、黙り込んで床を見詰めている。その沈黙が、肯定を意味しているのは明白だった。太った男の心の中で、自分の娘への愛情や愛情と、それを失うことへの焦燥と絶望が混ざりあった強い感情が渦巻いているのは、霞にも分かった。その激情に衝き動かされたこの男は、少年提督のコピー体の生産と、そこに記憶と意識を移植するという、狂気の領域に可能性を求めたのだろう。

 

 秘書の男が唇を舐めて湿らせている。何かを喋り出そうとする雰囲気があった。もしかすると、この秘書の男は、太った男の息子か、兄弟なのかもしれない。よく見れば、どことなく雰囲気が似ている気がしないでもない。太った男と秘書の男を霞が見比べていると、太った男が忌々しげに抱えた頭を掻いた。

 

「幾つもの研究所に腕利きの医者やら学者やらを集めて、娘を救うために研究させているが、それにも金が要る。だが、娘には時間の猶予が無い。なりふり構っていられなかった。娘が死ぬ前に、娘の意識を別の身体に移植するしかないと、そう結論付けた。不可能に近いが、やるしかない。そうしなければ、娘の自我は永遠に失われるんだ」

 

血でも零すように言葉を紡いだ太った男に、少年提督は眉尻を下げて、悲しそうに微笑んだ。

 

「貴方は、本当は優しい人なんですね」

 

「優しいものか。……お前は娘のことについても、もう調べているんだろう」

 

そう言葉を続ける男の声と呼吸は、警戒心と諦観に震えていた。

 

「えぇ。貴方が、何とかして病魔から家族を守ろうとしているという事も、僕を殺すことで、貴方の研究を援助しようという話があったことも、調べさせていただきました」

 

少しだけ声を引き締めた少年提督の後ろで、霞は拳を握る。

 

「この鎮守府を襲撃した方々の中には、艦娘の皆さんの肉体を拘束するための術式発生装置を扱うための技術者も多く居ました。彼らは……」

 

「あぁ。お前の考えている通り。俺が用意したんだ」

 

 少年提督の問いに対して、すんなりと答える太った男を見ていると、霞は再び、自分の心の中に、憎悪が燃え立ち始めるのを感じていた。

 

 この太った男は、自分の娘を助けようとして、その為に、少年提督を抹殺する襲撃事件に加担していたのだ。それに、この男が先程まで見せていた怯みや焦りは、少年提督に“黒幕”であることを暴かれて復讐され、娘を救うことが出来なくなることに対してのものに違いなかった。愛する娘と過ごす安らぎの時間を理不尽に奪われる悲しさを知っていながら、それを他者になら強いることが出来る利己的な傲慢さに反吐が出る。

 

 だが同時に、大切な者を想う深い愛情と、他者を闇に葬ってしまおうという冷酷さが、一つの心の中に同じタイミングで混在し、互いに矛盾しないことも、人間という種の強さなのかもしれないと思った。こういった強烈な感情は、それを抱える人間に理性や自制を振り切ることを促す。加減や常識といった概念を欠落させ、良心を麻痺させる。この人間の容赦の無さは、人類最大の敵である筈の深海棲艦を撃ち滅ぼし、味方である筈の艦娘達すら飲み込もうとしている。

 

 艦娘とは、人間にとって何なのか。その軍事力にアイデンティティを括りつけられた艦娘という種は、艦娘の存在価値を保証する深海棲艦が滅びるときに、共に消え去るべきなのか。霞は俯き、握っていた拳を解きながら、視界の焦点がぼやけるのを感じた時だ。

 

「……世間に公表されてはいませんが、ご息女の病を治す方法はあります」

 

 少年提督が、静かに言った。窓を叩く雨音が、遠のくような気配があった。執務室を、この世界から隠してしまうかのように。

 

「なんだと?」

 

顔を上げた太った男の眼には、僅かな希望と共に、暗く深い猜疑の色が滲んでいた。

 

「僕達のような“提督”や妖精さんが、艦娘の皆さんに行う治癒施術の応用になりますが」

 

 少年提督は、太った男の表情や心の強張りを解すかのように、穏やかな声音で言う。彼は、かつて鎮守府に訪れた初老の男にも愛娘が居て、この太った男と同じ病に苦しんでいたこと、そして極秘にではあるが、今ではその病を寛解させることにも成功しているのを説明した。それを聞いた太った男は、顔色を変えて身を乗り出す。

 

「それは本当なのか!?」

 

 真剣な眼で少年提督を見詰める男の足元には、灰色の犬が相変わらずじゃれついている。「えぇ。……ただ、倫理面や世間体への懸念から、まだ公表されていないことですが」と、少年提督が一つ頷く。

 

「医術では不可能でも、僕達“提督”が扱う術式治癒と、深海棲艦が扱う術式治癒を組み合わせることによって、幾つかの難病にも対処が可能になりつつあります」

 

「まさか、そ、それは、つまり……」

 

 思わずと言った様子で、秘書の男が言葉を挟んできた。興奮しているのか、眼を見開き、息を微かに弾ませている。少年提督は秘書の男に頷いてから、太った男に向き直った。

 

「そうです。激戦期の頃から、本営の上層部を始めとした権力者の方々が望んでいた、『提督が扱う術式の“人間への応用”』……、それを半ば実現していると言って良いでしょう。この鎮守府には、僕と先輩の他にも、とても優秀な技術者としての提督が居ます。彼女の地道な研究と、それに、……深海棲艦の皆さんも、協力してくれました」

 

 太った男と秘書の男は、鎮守府の傍に建てられた、あの大規模な深海棲艦の研究施設を思い出したのだろう。少年提督の話す内容について、ある程度の納得と理解を示すように何度か頷いてから、何かを考え込むように俯いた。

 

「お前は、俺が盗聴器を持っている可能性を考慮しないのか?」

 

 俯いたままの太った男は、視線だけで少年提督を見詰めた。敵意のある声の響きでは無かったが、正直なところ、それは霞も考えていたことだ。太った男がこの場での会話を持ち帰り、それを“黒幕”達に提供するのではないかと疑っていた。もしかしたら、今も現在進行形で盗聴され、それを何処かで“黒幕”達が聞いているかもしれない。だが、少年提督は「盗聴されたところで、僕やこの鎮守府に大きな影響はありません」と微笑み、緩く首を振って見せる。

 

「貴方の協力が得られないのであれば、それもまた仕方のないことだと考えています」

 

 この太った男と協力関係を結ぶことは、少年提督にとって、数ある選択肢のうちの一つに過ぎないのだろう。少年提督は、この太った男に対する関心を見せても、執着を全く見せない。一貫して害意も敵意も向けようとしない。適切な距離と敬意、そして礼節が在るだけだ。その彼の態度に対して、太った男や秘書の男が感じたのは、泰然とした神秘的な貫録か、それとも老獪な狡知か。

 

「お前を始末しようとした連中どもは……、いや“俺達”は、お前のことを恐れている。“個”としての高みに上り詰めたお前のことを、未来の人類にとって、計り知れない脅威を装填した爆弾だと捉えてな」

 

太った男は、少年提督の正体を見極めるように眼を鋭く窄めた。

 

「……お前は、魔人などと呼ばれるようなさまになってまで、何がしたいんだ?」

 

 秘書の男も、太った男と同じように少年提督を凝視している。少年提督は微笑みを崩さず、ゆっくりと瞬きをしてから、太った男の眼を見詰め返した。

 

「貴方と同じです。大切なひと達の為に、出来ることをしたいだけですよ」

 

 少年提督の声は雨音と共に、執務室に染み入りながら響いた。この場の緊張を解き、濯いでいく。

 

「秘匿され、世間に公表されていない技術の恩恵を受けられるのは、本当に限られた方々だけです。こうした今の状況は、道徳に悖るでしょう。ですが、その技術によって救える命があることの偉大さに代わりはありません。……これを」

 

 言いながら少年提督は、懐から名刺を取り出し、ソファテーブルの上にそっと置いた。所属、連絡先が幾つか記されているだけで、特に変わったところのないものだ。名刺の名にも見覚えがない。そのことは霞に、この鎮守府の“外”に伸びる少年提督の人脈を覗かせた。太った男は訝し気にその名刺と少年提督の顔を見比べている。

 

「……なんだ、これは」

 

「その名刺にある本営直属の研究施設でなら、ご息女を治療できると思います」

 

 太った男は眼を見開いた。そして、宙から零れ落ちる恵みの雫を慌てて掬い上げるかのように、ソファテーブルの上に置かれた名刺を手に取った。秘書の男も腰を浮かせ、太った男の手の中にある名刺を覗き込んでいた。

 

「その名刺を僕から受け取ったことを伝えて頂ければ」

 

 そこまで少年提督が言うと、太った男が勢いよく顔を上げて、「娘にも、治療を施してくれるのか」と震えた声を繋いだ。少年提督はひっそりと頷く。「……なぜ、こんなことを」と、秘書の男が疑わしいものを見る目で、少年提督を睨んだ。

 

「私達は、貴方を殺そうとしたのだ。なのに、なぜ……。施しを与える代わりに、要求を飲めという取引のつもりか?」

 

 秘書の男の言葉に引き摺られ、太った男の顔にも警戒が浮かんだ。少年提督は、「いえ、そんなつもりは毛頭ありません」と、二人の視線を受け止めたままで緩く首を振って見せる。

 

「何の見返りもなく、娘を助けてくれるのか」

 

 太った男が手にした名刺をぎゅっと掴みながら、少年提督を見ている。

 

「僕は、だれかの命を取引の材料にしようなどとは思っていません。ただ、今の段階では秘匿された禁忌の技術でも、それによって誰かが救われる可能性があるのであれば、僕の出来る範囲で協力したいと思ったのです」

 

「……俺達がお前の要求を飲まず、協力を拒否したとしてもか」

 

「はい。それとは関係なくです」

 

 静かな声で言う少年提督の声と表情には、善を為した満足感や優越感はなく、恩を着せるような圧力も無かった。自身が持つ人脈によって太った男を甚振り、その自尊を砕こうとする悪意も見せない。一切の見返りも求めず、ただただ手を差し伸べているだけだ。「青臭くて幼稚な偽善に思われるかもしれませんが」と自嘲を込めて、彼はそっと目許を緩める。

 

「僕も、大事なひと達を守るために必死ですから」

 

 だから、家族を何とか守ろうとする貴方がたの気持ちも、少しくらいは理解できるつもりです。そう続けた少年提督は、肩越しに霞の方を見てから、太った男に向き直った。男もまた、少年提督と霞を交互に見て渋い表情になる。

 

「お前にとっての家族は、そうか……、その艦娘たちか。“花盛りの鎮守府”らしい」

 

「蔑称らしいですが、その呼び名のことを僕は気に入っているんですがね」

 

「そうか。実りの種が出来るのは、全ての花弁が散った後だがな」

 

霞は、自分の鳩尾あたりをぎゅっと押し込まれたかのような苦しさを感じた。胸が詰まる。

 

「あぁ、タゴールの言葉ですね」

 

少年提督は笑みを深める。

 

「“歴史というものは、虐げられた者たちの勝利を辛抱強く待ち、望んでいる”。……確か、彼の言葉にはそんなものもあったと思います」

 

 

 太った男が一度俯いて息を吐き出し、また顔を上げて少年提督を見詰めた。次の瞬間だった。太った男が、名刺を持っていない方の手をソファテーブルに伸ばした。そして、置かれたままだったカップを湯呑のように引っ掴んで、ぬるくなったコーヒーをゴクゴクと飲み干して見せた。何事かと思い、霞は眼を瞠る。秘書の男も驚いた表情を浮かべて、太った男を見ている。コーヒーを飲み終えた太った男は、カップをソーサーに置いて少年提督に向き直った。

 

「冷めて苦みが強く感じるが、うまいな」

 

太った男は、文字通り苦い顔をしていた。

 

「もう一杯、淹れてくれないか」

 

 その言葉に、少年提督の笑みの種類が変わった。彼の静謐な微笑みに、喜びが色を付けたのだ。少年提督と太った男の間に、遮るものが何もなくなったのを霞は感じた。

 

「えぇ。少しだけ待っていてください」

 

僅かに声を弾ませて、少年提督がそう答えたのと同時だったろうか。

 

「……私の分も、お願いできますか」

 

 秘書の男もコーヒーを飲み干して、軽く頭を下げた。

 

 霞は何も言えないままで、その光景を見ていた。さっきまで毒でも盛られているのではと警戒していたコーヒーを飲み、お代わりを要求するのは、太った男達が少年提督に対する何らかの信頼を向けたということなのだろう。それをすんなりと受け容れる少年提督のお人好しさには、呆れを通り越して苛立ちが募る。

 

 少年提督はソファから立ち上がり、コーヒーを淹れる準備を始めた。その背中に向けて、どうしてそんなに甘いのだと叫びそうになる。自分を殺そうとした者達の一部を、そんな簡単に赦していいのか。私達の気持ちはどうなるのだと。そんな言葉を抱えながら俯き、唇を噛んでいた時だ。

 

「すまなかった」

 

 太った男が、ソファに座ったままで霞にそう言った。いや、もしかしたら、太った男が少年提督へと言葉を発したタイミングで、偶然にも霞と眼が合っただけなのかもしれないが、とにかく、太った男は謝罪の言葉を口にした。

 

「解体破棄するなどと言って、申し訳ないことをした」

 

 太った男の言葉は、霞の感情を激しく揺さぶった。そんなことを謝りだすこの男に、激しい憎悪を抱かずにいられなかった。謝れば許されると思っているのか。霞の感情は爆発しそうになる。気付けば抜錨状態になっていた。

 

 殺したり傷つけたりできずとも、艤装まで召還して完全な敵意を太った男達に向けずに済んだのは、太った男にも家族がいるという事実を再認識したからだ。本当に、ギリギリのところで踏みとどまった。霞は奥歯を噛みしめ、太った男の方を見ずに、「いえ。問題ありません」とだけ答える。無礼な物言いだったかもしれないが、太った男はそれ以上、何も言ってこなかった。

 

 少年提督も、太った男と霞の遣り取りを静かに見守るだけだった。無論、霞が満腔の敵意を漲らせ、太った男に向けて罵声や恨み言をぶつけようものなら、何らかの反応を見せたのだろうが、その必要も無いと判断したに違いなかった。少年提督がコーヒーを用意するまでは沈黙が続いたが、険悪さは無かった。コーヒーの香りと共に緊張が解け、執務室にも弛緩した空気がようやく流れる。

 

「それで、……お前は、俺に何をさせたいんだ? 誰かを殺せば良いのか?」

 

 そう言って目に力を込める太った男は、少年提督の要求を飲み込む覚悟を決めたに違いない。自暴自棄に付着した大胆さからくる開き直りではなく、恵みを求めて縋りつこうとする神に、捧げなければならない供物を窺うような神妙さがあった。秘書の男もソファに座ったままで居住まいを正す。灰色の猫が「にゃあ」と一つ鳴いて、秘書の男の太腿に飛び乗り、ごろんと丸くなる。二人分のコーヒーの用意を済ませた少年提督が、太った男に振り返った。何を言い出すのかと霞も緊張したが、彼は穏やかな苦笑を浮かべて緩く首を振った。

 

「いえ、そんな物騒なことをお願いするつもりはありませんよ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少年提督が男達に頼んだ内容は、“激戦期の頃に行われていた、艦娘や深海棲艦、それに生きた人間を用いた実験記録や、捨て艦戦法などを用いた作戦記録などが何処に保管されているのかを調べて欲しい”ということだった。それを調べてどうするつもりなのか、という太った男の質問に対して少年提督は、「本営に対する大きな牽制になります」と、落ち着いた笑みを湛えて答えていた。それが嫌に印象に残っている。

 

 ふと、野獣のことが思い浮かんだ。野獣は今、自身の先輩や後輩と共に、艦娘たちと世間との距離を測り、共存の道を模索し続けている。それは政治家や民間団体を相手に交渉と協力を重ねながら、世界に散らばっている希望を拾い集めていくような地道な活動だ。一方で少年提督は、“黒幕達”を相手取り、社会の闇のど真ん中に分け入っていこうとしている。少年提督と太った男との遣り取りを思い返すと、そんなふうに思えて仕方なかった。

 

 

 

 霞は俯き、雨粒に叩かれる足元の舗装道を見詰めながら歩いていた。今は、太った男達が帰るのを見送ったあとで、工廠へ立ち寄る途中だった。雨脚は強くもなく弱くもない。暗い空から粛々と降り続き、鎮守府を濡らしている。少年提督と太った男達の遣り取りを思い返していると、蛇の目傘を持つ手に力が入った。秘書艦娘用に、彼が買ってくれていたものだ。前を歩く少年提督の背中を見詰める。彼も傘をさしている。特別に注文でもしたのだろう、春風と同じ柄の和傘だ。

 

 ただ奇妙なことに、少年提督と、少年提督が差した和傘は、この雨の中にあっても全く濡れていない。本来、それは在り得ないことだ。地面には雨が跳ね、水溜まりが出来上がっているの。少なくとも、濡れていない個所などは無い。それなのに、彼が履いている革靴には雨粒一つ付着していない。

 

 まるで世界が、彼という存在を容赦なく拒んでいるかのようでもあるし、彼自体がこの雨に濡れる景色の一部に溶け込んでいるかのようでもあった。ただ、そんな異様な光景を前にしても、「アンタさ、別に傘なんて差さなくてもいいんじゃないの?」なんて軽口を言える程度には、ここ暫くのあいだで霞も慣れていた。

 

「そうかもしれません。でも、折角ですし」

 

 照れ臭そうでもあり、少々バツが悪そうでもある笑みを浮かべた少年提督が、歩を緩めて霞を振り返った。

 

「それに、僕は雨の日が好きなんですよ」

 

「へぇ。初めて聞いたわ。じゃあ、晴れの日が嫌いなわけ?」

 

霞が彼に追いつき、並んで歩く。

 

「いえ、そんなことは無いですよ。晴れの日も、曇りの日も好きです」

 

「なにそれ。全部好きなんじゃない」

 

 雨音の中で聞く少年提督の言葉は冗談なのか本気なのか判然としない。

 

「春風さんに教えて貰ったんです。何かを好きになるということは、理屈ではないと」

 

「ふぅん。そんなこと言われたのね」

 

「えぇ。物事を難しく考え過ぎだ、とも言われました」

 

 彼は力なく浮かべた笑みには自嘲と自省が混じり合っていた。「まったくその通りじゃない」と霞が鼻を鳴らして見せると、彼は微苦笑のまま「すみません」と零した。雨の中に頼りなく響いた彼の声からは、自身の欠点を自覚しながらも、それを克服する為の努力を放棄する諦めが感じられた。霞はどう答えていいのか分からず、相槌を打つのも遅れた。少年提督が何かを言い掛け、一度それを飲み込む気配があった。沈黙を雨音が埋める。彼が何かを言おうとしている。言葉を促すように、霞は隣を歩く彼を見た。

 

「……今まで当たり前であったことを、とても愛おしく感じるようになったんですよ。いや、感謝するようになったと言った方が正しいのかもしれません」

 

 少年提督は霞を横目で見てから、暗い空を仰いだ。相変わらず、少年提督の持つ傘には雨粒が落ちていない。出来の悪いコントのように寒々しくて、不穏だった。一方で、霞の持つ傘を雨が叩く音は、嫌味ったらしいほどに大きく聞こえる。雨を降らす世界は、霞を絶対に無視しないし、逃がしてはくれない。

 

「日々の些事に無頓着であるよりは、そっちの方が謙虚で良いわ」

 

 霞は歩く速度を落とさず、横目で少年提督を見詰める。彼も歩きながら、「前向きに心を入れ替えた結果として謙虚になったのならば、確かにそうだと思います」と、雨雲が詰まった空から視線を落とした。

 

 

「自分で自分のことを分析するのは得意ではありませんが、僕の場合は、生物として当たり前である筈の“死”というものと無縁となってしまったことが原因ですよ。謙虚とはほど遠いものですよ」

 

彼は濡れた地面と、全く濡れていない自分の靴の爪先を見つめている。

 

「水や空気があることに、僕は感謝したこともありませんでした。在って当たり前だと思っていましたから」

 

 しかし、今は違う。彼には、当たり前である筈のものが大きく欠落したのだ。不死という超常の前では、正論も暴論も意味を為さない。今の少年提督は、一人一種族だ。その孤独は恐らく、積み上げて来た日々の営みをこの上なく愛おしく見せることだろう。

 

「……だから今になって、晴れの日や雨の日が好きになったってわけね」

 

「傲慢なことだと思いませんか」

 

 霞は、どう答えるべきか分からなかったが、無性に苛立つのを感じた。少年提督が自身を卑下する理屈を、どうしようもなく破壊したくなったのだ。霞は息を吸ってから、横目で少年提督を睨んだ。

 

「良いことを思い付いたわ」

 

「えっ」

 

言葉とは裏腹に不機嫌さを隠そうともしない霞の視線に、少年提督が目を僅かに見開いた。

 

「この鎮守府の襲撃を企てた“黒幕”達を全員、アンタと同じように不老不死にしてやれば良いのよ。奴等のお望み通りにね。不死になったアンタの苦痛を分け与えてやればいい。そうすれば“黒幕”達にとっても、自分の日常を見詰め直す良い機会になるわ」

 

 その乱暴な物言いに、最初は少々驚いた様子だった少年提督も次第に笑みを浮かべた。披露された悪戯の内容を面白がるような、少年提督にとっては珍しく、悪ノリを楽しむ笑顔だった。

 

「“黒幕”の皆さんも、晴れの日や雨の日に、感謝するようになるでしょうか」

 

「アンタの理屈で言えばね」

 

 霞は鼻を鳴らしてから、持っていた傘を少しだけ下げて、彼の持つ和傘の中へと入りこむ。遠慮せずに、ぐっと少年提督に顔を近づけた。彼が少し驚いた表情を見せて身を引いた。霞はそれを逃さず、傘を持っていない方の手で人差し指を突き出し、「今のアンタみたいにウジウジ悩んで、見せ掛けだけでも謙虚になるんじゃないの」と、少年提督の鼻の先を3回つついた。彼は眼を丸くして何度か瞬きをし、そのままの表情で霞を見詰めていたが、すぐに笑みを浮かべた。

 

「それは、うん、いい考えだと思います。しかし……」

 

 突然だった。本当に、なんの前触れも無かった。

 

 言葉を切った少年提督は完全な無表情になって、ぐいっと霞の顔を覗きこんで来る。今度は霞が身体を後退させる番だった。少年提督の紫色の無機質な瞳に、自分の顔が映し出されている。雨音が遠ざかっていく。無論、そんな筈は無い。だが、少年提督が纏い始めた超常の雰囲気が、霞の持つ感覚の全てを鷲掴みにしたのだ。

 

「『“その不老不死を一般化する過程で、間違いなく人間という概念は消滅する”』」

 

 少年提督の声の背後には全く違う者の声が十重二十重に響き、波折りのように深く重なっていた。この世界に非ざる者の声だ。懐かしくすら感じた。恐怖も無かった。心の底から気に食わない知人と出くわしたような不愉快さが胸に渦を巻く。彼との話の間に割り込んでこられたことに本気で苛立った。

 

「久しぶりね。元気そうで何より」

 

 遠慮も配慮もなくその苛立ちに任せ、霞は眉間に皺を寄せて少年提督の胸倉を掴んで押し返す。彼は、――彼の内に取り込まれた“何者”か――は、抵抗を見せない。軽口を叩きながらも霞は歯を剥いて少年提督を睨むが、彼は無表情のまま、左右の瞼をちぐはぐのタイミングで瞬きさせるだけだ。

 

「『“この少年によって齎される技術の進化は、人間という種の繁栄に貢献しない”』」

 

“何者”かは無表情のまま、朗々と告げる。霞と会話をするつもりは無いのだろう。表情にも声音にも、コミュニケーションを取ろうという意思が感じられない。

 

「『“お前の考えは、優れた案とは言い難い”』」

 

「あのさぁ、そんなの言われなくても分かってるわよ」

 

「『“何?”』」

 

「冗談に決まってるでしょ」

 

「『“そうなのか?”』」

 

 “何者”かが不思議そうな顔をする。纏う雰囲気に全くそぐわない間抜けな反応だった。遠慮も配慮も無く、霞はもう一度鼻をならした。

 

「ねぇ、アンタみたいなカミサマ達って、ひょっとして馬鹿なワケ?」

 

「『“可能性は否定できん”』」

 

「はぁ~、……あほくさ」

 

 ピントのずれた反応に呆れた、といよりも疲れてきて、霞は掴んでいた胸倉を乱暴に放した時だ。彼は手にしていた和傘を取り落とした。見れば、無表情だった少年提督が表情を歪めて、左手で顔を抑えたまま俯いた。そして、自身の精神内部に存在する“何者”かと、少年提督自身の自我を同期させるかのように、二度、三度と短く何かを唱えながら、頭を振る。頭痛や眩暈を払うような仕種だった。

 

 降り続いている雨は、相変わらず彼を無視したままだ。いや、畏れて、遠巻きに様子を窺うように彼を避けている。彼が手放した傘だけを遠慮がち濡らしていた。頭を抱えた彼に、霞は駆け寄ろうとした。だが、深呼吸をした彼がゆっくりと顔を上げて、頼りない笑みを浮かべる方が早かった。

 

「……すみません。もう大丈夫だと思います」

 

 掠れかけた声で言う少年提督の体からは、あの夜の襲撃の時のように淡い燐光が漏れ出し、捻じれ、立ち昇ろうとしている。ただ、その光の色は深紫色ではなく、琥珀と象牙色が混じり合う、美しい煌めきに満ちたものだった。琥珀色の光は降りくる雨粒を捉えて宝石のような反射を生み出し、象牙色の光は彼の足元で燻る潦を伝い、明滅する帯を引いていた。

 

 そのうち、彼の体から溢れ出した光は、雨水を伝いながら大きく膨れあがり、霞の目の前の空間を飲み込む。空中の雨粒と流れる雨水が一斉に金属へと変質し、姿を変えていく。それは間違いなく奇跡と呼びうる現象に違いなく、不意を突かれた霞は立ち尽くす。

 

 金属となって集まった雨粒が、生物に生まれ変わり、一斉に動き出した。あれは、魚だ。魚の大群だ。大きなものも、小さなものもいる。雨の降る中空を泳ぎ回る魚の群れは、集まっては揺らぎ、その姿を何匹もの鯨や、鮫、鯱、あるいは海豚などに変えながら、少年提督の周囲を泳ぎ回った。少年提督も軽く驚いた表情を浮かべながらも、宙を軽くかき回すように指先をくるくると回し、魚の群れの動きを操ろうとしていた。少々慌てている少年提督の指先にも、琥珀と象牙の色が灯っている。

 

 どうやらあの様子では、この魚の群れが突然に造り出されたのは、彼の意志とは全く関係のない現象のようだ。では、誰の意思なのか? 恐らくだが、誰のものでもない。これは事故だ。少年提督が自身の内側に抑え込んでいるものが溢れ、それが周囲の物質に生命を与えてしまったのだ。

 

「……えぇと、もう、大丈夫だと思います」

 

 さっきと同じようなセリフを口にした少年提督は、ぎこちない笑みを浮かべている。まるで、水の入ったコップを不注意で倒して中身を零してしまい、慌てて後片付けを終えたような、気恥ずかしさと申し訳なさが入り混じった笑みだった。中空を自在に泳ぎ回っていた魚や鯨や鯱、それに海豚などが、ようやく少年提督の指の動きに従うようにして大人しくなり、彼の周りをぐるりと遊泳しはじめている。

 

 

 少し離れた場所からそれを眺めている霞には、まるで目に見えない巨大な水槽が目の前に現れ、その中で、少年提督が魚たちと優雅に戯れているかのようだった。目の前の景色に目を奪われ、その場に立ち尽くしながらも、霞は鬱陶しそうに眼を細めて奥歯を噛み、舌打ちを堪えた。この神秘的であると同時に非現実的な光景の只中にある彼の、一体何がどう大丈夫なのかを問い詰めたい気持ちだったが、そんなことをしても何の意味もないことも分かっている。いちいち驚くのも不毛だ。そう自分に言い聞かせる。

 

「なら良いんだけどね」

 

 霞はワザと声を太くして答えて、地面に落ちた和傘に近づく。この少年提督が大丈夫と言うのならば、大丈夫なのだ。そう思うしかない。仮に大丈夫じゃなくても、霞が彼のために出来ることなど多寡が知れている。霞は艦娘だ。軍属の戦力だ。種族としての役割と居場所が在る。

 

 彼の手から零れたことによって、和傘は彼の持つ超常からも離れ、霞の居る“層”へと戻って来ていた。彼の手の中にあった時には全く濡れていなかった筈だが、今では舗装道を力なく転がり、雨にその全身を曝している。己の機能を取り戻し、黙々と表面で雨を弾いている。誰の手の中になくとも、徹底的に傘は傘だ。それは全く自然なことであり、当然のことだ。だが、そこに揺るがない力強さと、設計された機能美を感じた。一切の迷いも疑いも無く、自分の使命を全うできるその姿に、今の霞は羨望に近い感情を抱きそうになった。開かれたまま転がる和傘の柄を掴み、拾い上げる。ようやく雨に濡れた傘は、霞の手の中で胸を張るかのように堂々として見えた。

 

 私も、こんな風にならねばならない。アイデンティティを軍事力に括りつけられた艦娘である自分も、誰かの為にではなく、己自身の矜持の為に、戦いという役割に自分の存在を預けなければならない時が来る予感が在った。広がった和傘の鮮やかな色の向こうに、雨雲がぎっしりと詰まっているのが見えた。

 

「さっきみたいなの、割と頻繁にあるの? だったら、業務に支障をきたすわよ」

 

 霞がつっけんどんに言いながら、和傘を渡そうと少年提督に近づいた時だ。彼の周りを泳いでいる魚たちが、人懐っこく霞にも近づいてきた。喉や首筋の後ろ、頬や二の腕、太腿などを啄ばむように口を寄せてくる。それも数が少なければ「くすぐったい」で済むかもしれないが、大群で来られると鬱陶しくてかなわなかった。逃げようとしてもついてくる。

 

「だぁぁ! もう! 邪魔くさいわねっ!」

 

 両手に傘を持ったままの霞は、宙を泳ぐ魚たちに追い掛けられる。それを見た少年提督が可笑しそうに笑った。

 

「なに笑ってんのよ!」

 

「あぁ、いえっ、すみません」

 

 霞に怒鳴られ、慌てて少年提督が宙をかき回すように右手の人差し指を振った。すると魚たちは霞を追いかけるのを止めて、再び少年提督を囲むようにして泳ぎ始める。ほっと息を吐いた霞は憮然とした表情を作り、「んっ!」と、少年提督へと和傘を突き返した。

 

「……もう一回聴くけど、本当に大丈夫なワケ?」

 

 何でもないふうを装うつもりでも、声が震えた。少年提督は霞から和傘を受け取り、濡れもしないくせに大事にそうに持っている。ただ和傘の方は、少々不満げに見えるのは霞の気のせいだろうか。彼は「えぇ。すみません」と、霞の問いには曖昧に頷き、ただ柔らかな表情を浮かべている。

 

「まぁ、さっさと工廠に行きましょう」

 

沈黙が続くのが嫌で、霞は顎で歩くように促した。

 

「アンタ、私との約束、ちゃんと覚えてる?」

 

 霞と少年提督が並んで歩くと、雨を縫うようにして魚の群れも付いてくる。肩越しに振り返ってみると、自分が海の中を歩いているかのように錯覚してしまいそうだった。少年提督も背後を振り返り、雨に沈む鎮守府を眺めていることに気付く。彼の眼差しには、まるで今の景色を見納めるかのような憂いと寂しさを含んでいた。

 

「クマさんの下着のことを、誰にも言わない……、だったでしょうか?」

 

「ほっ、なっ! ちっ、違うわよっ!! 黙って此処から居なくならないって約束よ!!」

 

 霞が叫ぶと、魚たちがぶわっと離れた。少年提督は少しだけ苦しそうな笑みを浮かべ、霞から視線を逸らした。それを誤魔化すためか、周囲を泳ぐ魚たちをあやすように右手を動かす。「えぇ、僕は居なくなったりはしませんよ」と、霞の方を見ないままで、少年提督は答えた。雨脚が微かにだが強まり、鎮守府を包もうとする暗がりが深みを増した。空にぎっしりと詰まった雨雲が、こちらを見下ろしている。

 

「……そう」

 

 霞も、短く答えた。この少年提督は、あの太った男たちを泰然とした貫禄で飲み込んでしまうくせに、こういう時につく嘘は本当に下手だと思った。ただ、その下手糞な優しさは、自身の決断を決して翻さない頑なさの裏返しなのだろうとも思う。傘を握る手に力が籠った。

 

「私もね、タゴールって人の言葉を一つだけ知ってるわ」

 

霞は、雨が流れていく足元を見つめながら言う。

 

「“人々は残酷だが、人は優しい”、だったかしら」

 

「えぇ。確か、そんな言葉も在ったと思います」

 

彼が視線を向けてくる気配と同時に、あの太った男の姿が思い出された。

 

「アンタは、まだ人?」

 

「……いえ、違いますよ」

 

少年提督は自虐も迷いもない、穏やかな声で言う。

 

「まぁ、そうよね」

 

 霞も、そう言うより無かった。空を見ると、隙間なく詰まった雨雲が此方を窺うように見下ろしている。予報では明日は晴れるらしいが、この調子では明日も雨ではないか。霞は雨空から視線をずらし、彼の持つ和傘を見遣った。彼の手の中に戻った和傘は、再び彼の纏う超常の内側に取り込まれて雨から遠ざかり、また濡れることが出来なくなっていた。和傘は彼の手の中で俯き、何処か悄然として見える。自身の機能を果たせず、彼の役に立つこともない状態だ。その姿が、今の自分に深く重なって見える。雨脚がまた強くなった。

 

 








 


 いつも読んでくださり、また暖かく応援してくださり、本当にありがとうございます!
 誤字報告までいただき、本当に皆様に助けていただいております……。

 完結を目指し、何とかよちよち歩きを続けていきたいと思います。
 話数としては、あと数話程度に纏められればと考えております。
 不定期更新ですが、またお付き合い頂ければ幸いです。

 今回も最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました!

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