花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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本日は晴天なり

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 少女提督は執務机に腰かけて、自分の前髪を弄っていた。前までは黒髪だった筈だが、一部が白くなっている。あの襲撃の夜からだ。少年提督のAIと意識を同期して、大規模な施術式を扱ったのが原因なのは明白だった。体に負担が掛かりまくって寿命が縮み、それが体のバロメーターである髪に出てきたのだろう。ただ、体調自体に問題は無いし、仕事にも支障のないことだった。染めようかとも思ったが、面倒だからまぁいいかと放置している。

 

 自分の白髪を見ていると、同じような少年提督の白髪が思いだされた。最近の彼は、随分と出張を重ねている。その間、彼の配下にある艦娘の運用は、不知火が預かる形だった。ただ、流石は激戦期を戦い抜いた猛者ぞろいの艦隊であり、任務や遠征での失敗は一つもなく、彼女たちは仕事を完璧にこなしている。執務に関しても、少年提督しか扱えないものを除き、全て処理済みにして彼の帰りを待っている状態である。

 

 野獣の方はといえば、今日もどこかでサボって釣りでもしているのだろう。艦娘囀線で長門がキレ散らかしていたので、やはりいつも通りと言える。大規模な作戦も無事に終え、今日も鎮守府は一応の平穏と日常を送っている。それが惰性であったとしても、貴重な時間に思えた。

 

 

 

 少女提督は一つ息を吐いて、手元にある地方新聞を広げた。野獣が取り寄せてくれたものだ。そこには大きく“艦娘達との交流”の文字が在り、カラーの写真が幾つか並んでいる。写っているのは、農作業着に身を包んだ艦娘達と、農家の人々が共に働く姿だった。少し前に行われた、艦娘達を農村に招くというイベントの記事である。

 

 このイベントに参加にしたのは、駆逐艦娘と海外艦娘が主体だった。これは本営からの指示もあったようだ。小、中校生や海外の学生が、田んぼで稲刈りの体験をしているという景色は、自然学習や観光の面から言っても、珍しいものではない。だから、日本的な農業を学び、体験しているのが駆逐艦娘と海外艦娘であれば、ある種の『艦娘を友好的に演出しようとする意図』が、そこまでワザとらしくならないのでは無いか、という期待が在ったのだろう。ただ、記事で紹介されている写真は、本営のそういった打算的で狡猾な考えを微塵も感じさせないだけの誠実感と臨場感に溢れていた。

 

 

 

 まず、記事の最初の写真には、農作業着に身を包んだアイオワやウォースパイト、それにリットリオが鎌を手に稲を刈っている姿だった。彼女たちは農作業着を、まるで一つの完成されたファッションのように着こなしていながらも、地元の農家の人々から浮くこともなく、その労働の景色の中に溶け込んでいる。写真から見るに、彼女たちが居る田んぼは、その土地の地形、道幅の狭さなどが原因で、コンバインのような農業機械が入っていけない場所にあるようだ。突き抜けるような青空の下、彼女たちの眼差しは真剣ながら、瑞々しい体験を喜ぶ笑顔が浮かんでおり、その頬には透明な汗が伝っている。

 

 別の写真に視線を移すと、コンバインを高級外車のように軽やかに操縦するリシュリューとアークロイヤルの姿が映っていた。農業車両を動かすための免許を、この日の為に軍部の特殊講習・訓練によって取得した彼女達は、その怜悧な蒼い眼で稲穂が風に揺れる波を見詰めている。農業という職業が持つ本来の高貴さを、余すことなく体現するかのような凛とした佇まいを見せている。

 

 有り余る元気を体中から発散させる駆逐艦娘達は、稲刈りだけでなく畑仕事の手伝いもしていた。年配である農家の人々から鍬や鋤の使い方を教わる彼女たちの姿は微笑ましく、写真の中にも優しい雰囲気が溢れていた。続く写真では、陽炎や不知火、それに皐月、長月、霰、曙たちが、耕作が放棄されていた畑地を耕そうとしている場面だった。

 

 背が高く育った雑草を長月が刈って、残ったものを皐月が毟り、霰がそれらを集めてコンテナで運んでいる姿が映っており、また別の写真には、頬を軽く土で汚した曙が陽炎と共に、乾いて固くなった土に鍬を打ち込む姿があった。その後ろの方からは、不知火が重い肥料袋を肩の上に幾つも積み上げて運んできている。

 

 続く写真には、一応の作業が終わったあとか、昼休憩のものなのだろう。農家の人々と艦娘達が、おにぎりを手に談笑している。おにぎりを頬張り目を輝かせている暁とビスマルクの姿を、嬉しそうに眺める農家の人々の様子を見るに地元の米であることに違いなさそうだ。地元の主婦から大粒の氷が入ったコップを手渡され、そこに茶を注いで貰っているグラーフとローマの姿も、なんとも言えず長閑な風景に馴染んでいた。

 

 米が美味しいということは、その米で作る酒もまた美味なのだろう。農作業服のおじさん達に混じり、一升瓶から酒を注いで貰っているポーラの姿も映っている。喜色満面のポーラのふにゃふにゃ笑顔は幸せそうで、気持ちよく酔っぱらったポーラが普段のように服を脱ぎださないかとハラハラした様子のザラも、ポーラの後ろの方に写っている。

 

 取材に来ていたテレビ局のクルー達にも、この地域で採れる野菜を使った料理を振舞っているのは鳳翔と間宮、それに伊良湖だ。彼女たちは地域に伝わる伝統的な野菜料理を教わり、それをまた違ったアプローチで調理してみせた。つまりは、洋風や中華風へのアレンジを加えたのだ。彼女たちの料理を食べてみて、その美味しさに驚いているのはクルーだけではなかった。鳳翔、間宮、伊良湖の3人が地元の主婦たちと微笑みを交し合い、何かを教えあうような様子の写真もある。それは見るからに料理の話題で華やぎ、それぞれに持つ情報を交換しあっているのが窺えた。

 

 少女提督はゆっくりと息を吐きだしてから、もう一度、新聞紙の上から下までをじっくりと眺めた。それらの写真のどれもが奥行きを持ち、色彩を備え、少女提督の五感を捉える。活き活きとした労働のリズムの中になる艦娘達の息遣いが聞こえてくるかのようだ。眺めている少女提督の肌に炎天の暑さと、草の匂いの混じった風の感触を想起させた。艦娘達と地元の人々の活力に満ちた笑い声や掛け声が聞こえてくるような気さえして、自然と笑みが零れる。

 

 

「あぁ、前のイベントの記事ですね」

 

 新聞を眺めることに夢中になっていると、すぐ隣で懐かしむように言う声がした。秘書艦娘である野分が、淹れたコーヒーを執務机に置いてくれたのだ。野分は目元を緩めて、新聞に載っている写真を順に見ている。新聞紙を広げたままで、そっと息を吐いた。コーヒーの香りが、興奮状態にあった少女提督の感覚をゆっくりと沈めてくれる。

 

「当日はめちゃくちゃ暑かったみたいね」

 

「でも、天気には恵まれました」

 

「そうとも言えるわね。どう、楽しかった?」

 

「はい。とても有意義な時間でしたよ」

 

 腕時計を見ると、ちょうどオヤツの時間だった。「いつも淹れて貰って悪いわね。ありがとう」と礼を述べてから、少女提督はコーヒーを一口飲む。美味しい。息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出した。野分は「何を仰います。これくらいで」と、苦笑交じりで此方に答えながら秘書艦用の執務机に戻り、すぐに仕事を始めようとしている。生真面目なことだ。

 

「少し休憩したら?」

 

「私は、仕事を終わらせてから休憩しますので」

 

そう言って優しくも爽やかな微笑みを見せる野分に、少女提督は軽く肩を竦める。

 

「それは休憩とは言わないわね」

 

「では、キリのいい所まで進めてから休憩をいただきます」

 

 小さく苦笑を浮かべた野分が、秘書艦娘用の執務机に積まれた書類に向き直ったのと同じが、少し遅いタイミングだった。少女提督の執務机の上に置かれたタブレット端末が、短い電子音を鳴らす。メールが届いた。初老の男からだ。心臓が僅か跳ねるのが分かった。呼吸が一瞬だけ止まる。野分が視線だけで此方を見ている。それには気づかないふりをして、少女提督は手にしていた新聞を机の端に置き、コーヒーを一口啜る。それから伸びをし、欠伸をかみ殺すフリをして見せた。今しがたタブレットに届いたメールが、特に気になるものでは無かったことをアピールするかのように。

 

「コーヒーのカフェインが効いてくるのって20分後くらいだっけ?」

 

「えぇ、確かそうだった気がします。15分程度の仮眠の前にコーヒーを飲むと、スッキリと起きることが出来るという話も、聞いたことがありますね」

 

「へぇ、今度試してみるわ。個人差はあるんでしょうけど」

 

「眠いのでしたら、今から試してみては如何ですか? 急ぎの仕事は片付けた筈ですし」

 

「そうしたいけど、溜まってるメールも処理しなきゃなのよね」

 

 少女提督は眠気に耐えているふうを装いながらコーヒーを啜り、タブレット端末を操作する。初老の男からのメールを開く。内容は、本営上層部の老人たちや、襲撃事件の黒幕達が何かを企てているのかについてだ。少女提督が初老の男に調査を頼んだものである。

 

“近いうちに、そちらで管理している全て深海棲艦の引き渡し命令が下る”。

“同時に、少年提督と野獣提督には全艦娘剥奪命令が下される”

“艦娘を剥奪した後、彼らを飼殺す準備も進めている”

 

 

 要点を絞れば、そういう内容が纏められていた。軽い眩暈を覚え、コーヒーの味が分からなくなる。だが、自分を落ち着かせるために、いつものペースで啜る。取り乱しても仕方がない。冷静さが必要だ。のたうつ程の焦燥感や、叫びだす程の絶望感はあったが、こういった状況が社会の裏側で進んでいることは予想していた。ただ、無ければいいなと願っていたが、叶わなかった。それだけの事だ。そう自分に言い聞かせながら、メールにもう一度目を通す。

 

 

 

 

 

 “あの襲撃事件から逃げ帰って来た一人の提督が、深海棲艦を引き連れた少女提督と遭遇したという報告が在った。深海棲艦を手懐け、襲撃部隊を退けたというのだ。それが事実であるとすれば、これは深刻な問題だ。何せ、人類の天敵を味方に付ける者が現れたという事に他ならない”

 

 “だが調べてみれば、少女提督は技術分野での活躍は著しいが、武勲によって元帥となった者ではないことが分かった。提督としての適性が低い少女提督が、強大な深海棲艦を率いることが出来ていたのは、何かカラクリがあるのでは無いかと考える者と、少年提督のAIが開発されていたことを指摘する者が現れた”

 

 “そこで本営上層部や黒幕達は、開発されていた少年提督のAIを少女提督が無断で使用し、深海棲艦のコントロールを得て、襲撃者たちへと差し向けたのだと推察している。危険視すべきは少女提督ではなく、少年提督AIの方だという認識だ”

 

 “少女提督に対しては、何らかのペナルティも予定していた。だが、少年提督と野獣を始末した後、残された艦娘達をどこに預けるかという問題を解決するためには、少女提督の存在は有用だった。”

 

 “野獣達の下に居る艦娘は、すべて人格を持っている。複雑な感情を備えている。これらは兵器として致命的な欠陥である。だが、艦娘達のスペックを大幅に引き上げるのも、この感情である。フォーマットされた人格だけを残し、思考と感情を破壊した木偶の艦娘をいくら集めても、あの鎮守府の艦娘達の戦力には到底及ばない。野獣提督から艦娘を剥奪した後、その艦娘達をどのように制御するかという問題は非常に大きい”

 

 “今の人類優勢を維持するためには、あの鎮守府の艦娘達の存在は必要不可欠だ。そして人格を持つ艦娘達を最高の水準で運用するには、提督との信頼関係が構築されていることが前提となる。新しい提督を野獣の代わりに送り込んだところで、艦娘達に信用され、信頼されるのは至難だろう。そうなれば、あの鎮守府の艦娘達は今までのような大きな戦果を挙げるだけのスペックを維持しづらくなるのも必至だ”

 

 “この観点から、少女提督を残し、少年提督と野獣提督から剥奪した艦娘達を彼女に運用させようとしている”

 

 

 タブレットを見詰めたまま、少女提督はコーヒーをまた一口啜り、小さく息を吐いた。胸に渦巻く焦燥感をゆっくりと飲み込む。気付けば、手元に置いてあった新聞紙をぎゅっと握っていた。新聞紙には皺がより、少女提督の手汗を吸って表面を微かに波打たせている。新聞紙に載っている写真には、野分も映っていた。写真の中の野分は、農家の人々と笑顔を交し合いながら稲の束を運んでいる。

 

 その人々の温もりに満ちた光景と、タブレットに表示されている文面の内容が、同じ現実の中で同時進行している事実も、やはり予想できていた。覚悟もしていたつもりだ。だが、今の少女提督は、明確に打ちのめされていた。違う二つの世界があって、それを交互に覗き込んでいるかのような錯覚を覚える。飲み下した筈の焦燥感が、絶望を伴って喉元にせり上がってくる。奥歯を噛んで目を閉じて、両瞼を指で揉んだ。また、野分の視線を感じる。今の自分の動揺を取り繕うように、再び欠伸を堪えるフリをして感情を飲み込む。

 

気付けば、コーヒーを飲み干していた。

 

「ご馳走様。……やっぱり、ちょっと寝てくる」

 

 少女提督は椅子から立ち上がって伸びをする。無意識に新聞紙を畳んで、丸め、握りこんでいた。タブレットにロックを掛けて、執務机の引き出しにしまう。手が震えそうになるのを堪える。野分が此方を見た。

 

「わかりました。あと、私に出来る仕事があれば」

 

「あぁ、良いって良いって。急ぎの仕事は済ましたし、あとは自分のペースでするからさ」

 

少女提督は軽く手を挙げる。

 

「もしかしたら、一時間くらい帰ってこないかも。その間に野分の仕事が終わっちゃったら、もう今日はあがってくれていいからさ」

 

 心配そうな表情を浮かべた野分は、何かを言おうと視線を一瞬だけ揺らした。だが、「……分かりました」と、すぐに立ち上がって敬礼を見せてくれた。恐らくだが野分は、少女提督の下に届いたメールの内容が、大変な内容であることも察している。それでも何も言わずにいてくれるのは、少女提督への信頼だろうか。それとも、艦娘の身では決して力の及ばぬ領域の話なのだろうと諦め、余計な詮索をすることを避けたのか。それは判然としなかった。

 

 いつまでも頼りない自分が不甲斐なく、心苦しく思う。

 

 少女提督は執務室を出て、自室に向かう。

 窓からの陽の光が、廊下の空気をのんびりと暖めていた。

 青い空は高く、嫌味ったらしいほどに天気がいい。

 早足に歩きながら、携帯端末を取り出す。

 

『情報が集まるのに少し時間が掛かってしまってね』

 

 初老の男への通信は、すぐに繋がった。

 

『此方で調べられることは、粗方調べたつもりだ』

 

「ありがとう御座います。何から何まで助けて頂いて」

 

『いや、礼を言われるほどの事では無い。むしろ、この程度しか役に立てず、申し訳ないと思っているよ。相手も巨大でね。これ以上の深入りは、私にも出来なそうにない』

 

 初老の男の声は低く、物騒な貫禄と威厳に満ち、重厚な威圧感と誠意に溢れている。この声が、不法や非法とは関係の無い領域で、少女提督と裏社会を繋いでいる。端末の向こうで、『……君の睨んだ通りだ』と零し、一つ息を吐きだした。

 

『本営上層部や黒幕達は、少年と野獣を飼い殺そうとしているのは間違いない。彼らを力づくで抹殺するのは諦めたようだがね』

 

「はい……。今回の大規模作戦で、人類優位が揺るぎないものであると確信したのでしょう。優秀な提督である彼らを排除しても、艦娘達さえ居れば、現状に大きな影響は無いだろうと判断したのだと思います」

 

『しかし、艦娘を剥奪するなどという命令は、随分と強引だ』

 

「恐らく、彼らは簡単には従わないでしょう。私には思いつかないような対抗策を用意している可能性もあります」

 

『確かに、あの二人なら何かをやってくれそうな気がするが……、少し気になることが在ってね』

 

「……気になること?」

 

 少女提督は端末を持ち直しながら、周囲を見回した。廊下には少女提督以外、誰もいない。端末の向こうで初老の男が誰かと話をするのが聞こえた。よく聞き取れなかったが不穏な雰囲気であることは分かった。

 

『本営上層部の老人たちは、今まで行ってきた非人道的な活動記録の改竄と偽造を始めているようだ。艦娘の人体実験に関する記録はもとより、艦娘達の精神や思考を制御する術式開発などのね』

 

「そ、それは、やはり……」

 

『あぁ。そういった実験や研究の主導者を、あの少年と野獣に仕立てあげる肚なんだろう。実際に実験を行った者達については、架空の名前を記録書に載せることで守り、その現場を指揮した者の名前を彼らのものへと書き換えている、という話だ』

 

 少女提督はその場にへたり込みそうになるが、足に力を籠めて踏ん張る。こちらを押し潰そうとする絶望を、何とか跳ね返そうとする。

 

「し、しかし、改竄や偽造された事実が隠蔽されているとしても、そういった凄惨な実験記録が表に出れば、本営も世間からの信頼を失います」

 

『確かに、本営も厳しい眼で見られることになるだろうね。……だが、“艦娘を用いた実験が、ある特定の鎮守府と施設で秘密裏に行われていた”という形で発表されたなら、話は変わってくる。確かに本営は責任を負うことになるが、世間からの非難をまともに浴びるのは』

 

「人体実験を行っていたとされる鎮守府と、それを指揮した人物……」

 

『あの少年と野獣提督、それに、君の居る鎮守府、ということになる。記録と世間の中ではね』

 

 少女提督は壁に凭れ掛かる。体から力が抜けていく。

 

 改竄・偽造された記録が出回れば、少年提督と野獣は、表向きは人間と艦娘の共存を目指していながら、裏では艦娘達の体を切り刻み、調べ、データを揃え、それを金に換えようとしていたのだと世間に広まる。この鎮守府の艦娘達が先頭に立ち、人間性のアピールを社会に続けてきた成果もあり、身勝手な欲望に翻弄された艦娘たちに対し、世間は強い憐憫と同情を向けるだろう。同時に、少年提督と野獣は、世間から見て許されない大罪人として認識されることになるのは明白だった。

 

 そうなれば、少年提督と野獣が、艦娘たちを運用する『提督』ではいられなくなるのも疑いようがない。世間から吹き上がる義憤は、非人道的な実験が繰り返された忌むべき場所としてのこの鎮守府を、実質的な閉鎖、解体へと追い込む。それだけではなく、野獣たちと協力関係にあった者達にも疑いの目が向けられることになる。つまり黒幕達は、この艦娘剥奪命令に大人しく従わなければ、少年提督や野獣だけでなく、彼らの活動に関わった全ての人間を巻き込むぞ、と脅迫しているのだ。

 

 無論、艦娘を用いた凄惨な実験が行われていた事実については、本営も責任を負うことになる。世間からの信頼を大きく損なうことになるだろう。これは黒幕達にとっても相当な痛手である筈だ。終戦後、人々を導く立場に立ちたい本営と、その本営の威光のもとで利益を貪ろうとする黒幕達は、世間的にクリーンでなければならない。だからこそ、深海棲艦の襲撃に見せかけた少年提督の暗殺と、野獣の遺体の回収を企てたのだ。

 

 だが、その襲撃事件が失敗に終わった今、黒幕達は、本営が泥を被るリスクを選択した。艦娘に対する友好的なムードが世間に広まる中で、艦娘を用いた凄惨な実験の記録を公表することを厭わなくなった。黒幕達も、出し惜しみをするのをやめたのだ。

 

 それに、世間から失った信頼を取り戻す方法は、比較的簡単に用意できる。もともと過激派の提督達が用意していたシナリオを流用するだけでいい。つまり、艦娘が人間を襲う事件を意図的に起こし、艦娘という種が、実はいつ暴走するか分からない危険な存在であるというイメージを社会に植え付け、それと同時に、艦娘達の深海棲艦化現象の研究報告を発表すれば、最終的に人々は本営を頼らざるを得なくなる。世間からの信用を回復させるシナリオとしては粗末なものかもしれないが、それを実現させうる黒幕達の巨大な影響力の前では、この鎮守府は無力だ。

 

 思わず、長い息が漏れる。

 窓から見える空が、やけに青い。吐き気がする。

 

『それと、……あの少年も、黒幕のうちの数人とコンタクトを取って、何かをしようとしているようだ。つい最近も、テレビなどのメディアに強い力を持った者とも接触している』

 

「えっ、彼が?」

 

 一瞬、思考が止まった。

 確かに、最近はやけに出張が多かったのは確かだ。

『黒幕達の弱みになるようなネタを掴み、協力するように脅したのか、君たちを裏切る準備をしているのかは定かではないがね。彼もどうやら、改竄や偽造がなされている記録の類にアプローチしているようだ。残念ながら、詳しいところまでは調査できなかった。私も、本格的に“奴ら”と敵対するわけにはいかないのでね』

 

「……彼は、黒幕達の不正を暴こうとしているのでしょうか?」

 

『その可能性もあるが、あるいは……』

 

初老の男は、そこで言葉を切った。慎重に言葉を選んでいるようにも、浮かんだ考えをそのまま少女提督に話すことを躊躇したようにも思えた。言葉の続きを待つが、初老の男は、『いや……』と、言葉を濁す。

 

『彼の目的はハッキリとは分からないが、君なら直接本人に訊くこともできるだろう』

 

「本当のことを話してくれるとは思えませんが」

 

『あぁ、その可能性も高い』

 

 初老の男の声が僅かに弾んだ。端末の向こうで、苦い表情で笑みを浮かべているのが分かった。少女提督も、少しだけ笑う。今の状況に参りきっているがゆえの苦笑の類だ。『まぁ、しかし』と言葉を続けた初老の男の声は、低く、鋭さを増していた。

 

『黒幕達の持つ力は、政治的に見ても、経済的に見ても、とてつもなく巨大だ。影響力の塊で、手の出しようがない。だが、どれだけ巨大であろうと、理念ではなく利益で繋がっている以上、一枚岩ではないことは間違いない。終戦後の権力を巡って、黒幕同士で牽制しあい、足を引っ張りあうようなことも当然あるだろう。そこに、あの少年が付け入る隙があるのは事実だ。……少年の動向には気をつけた方がいい』

 

 

 

 初老の男との通話を終了してから、少女提督は廊下の壁に凭れ掛かり、自分の足元を見詰めていた。これから何をすべきかを考えようとするが、上手くいかない。思考が働かない。視界の焦点がぼやけ、曖昧になる。何度か強く瞬きをする。深呼吸をする。顔を上げる。後頭部を壁につけて、窓の外を眺めた。やはり空は晴れ、海は青く、両者はこちらに無関心のままで、漫然と広がっている。どこか遠い世界に、たった一人で置き去りにされたような心細さを感じた。蹲りたくなる。

 

 手の中にある端末に視線を落とす。ほとんど無意識だったが、回線を野獣に繋いだ。なかなか出ない。普段なら舌打ちでもしただろうが、今はそんな気力も無かった。あまりにも大きな衝撃を受けると心の機能がマヒするという話は聞いたことが在る。多くのものを一遍に失うと、それを悲しむ感情よりも先に現実感が抜け落ちるせいだろうか。今の自分の状態がそれなのかもしれない。そんなことをぼんやりと思っていると、回線がつながった。

 

 

 

 

『おっ、どうしました?(波音混じり)』

 

「話したいことがあるのよ」

 

 携帯端末の向こうで、野獣が釣り竿のリールを巻く音が聞こえる。やはり、いつものように埠頭か何処かで釣りを楽しみ、仕事サボりに勤しんでいるらしい。こんな時に何を暢気な事をやっているんだコイツは。流石に頭に血が上りそうになった。ただ、そうはならなかったのは端末の向こうの野獣が『もしかして、本営とか黒幕のことについてッスか?(お見通し先輩)』と、落ち着いた声を出したからだ。

 

「アンタ、知ってたの」

 

『当たり前だよなぁ?(王者の風格) 俺も色々と情報は集めてるんだからさ』

 

「そういえば、本営上層部にはアンタの先輩だか後輩だかが居るんだっけ。で、アンタの人脈を駆使して、何か打てる手はあるワケ?」

 

 結論を急ぐ少女提督に対して、野獣は一瞬だけ黙ってから『そうですねぇ……』と、間延びした声を出した。野獣がなんと答えるのかは、もう半ば予想は出来ていた。

 

『(俺達に出来ることは、基本的にはもう)ないです』

 

「でも、何か……」

 

『確かに、何か出来ることを探したいっていうのは、わかるねんな。そのキモチ(優しさ)。でも、黒幕どもと繋がってる本営上層部が、過去の人体実験記録を表に出す覚悟を固めた以上、もうどうしようもないゾ。俺とアイツを排除するために、持ってる権力とコネを遠慮もクソもなく全部使ってくるとか、あぁ^~、たまらねぇぜ!(反吐)』

 

「彼は、……黒幕達の何人かと接触してるみたいよ」

 

少年提督が何をしようとしているのか、野獣なら知っているかもしれないと思った。その予想は当たっていた。

 

『アイツは、記録の改竄とか偽造の妨害をしようとしてるみたいですねぇ。黒幕どもは、“過去の凄惨な実験は俺達が先導して行っていたもの”って形に持ち込みたいんだから、その為に揃えようとしてる書類なり記録なりの数を減らして、少しでも説得力を削りたいんでしょ? (俺もソーナノ。できる範囲で協力してるけど、どこまで有効なのかはわから)ないです』

 

「何よ、出来ることがあるんじゃん。私に手伝えることは?」

 

『ないです(断言)』

 

「なんでよ」

 

『俺らが今やってることは、マジで悪あがきだゾ。そんなものに付き合わなくていいから(良心)』

 

「でも」

 

『お前には、此処の艦娘どもが帰ってくる場所に、ちゃんと居て貰わないとなぁ!(希 望 を 託 す)』

 

「あきつ丸にも似たようなこと言われたわ。どいつもこいつも勝手なことばっかり言うわね。じゃあ訊くけど……、今の状況、艦娘の皆にどう話すつもりよ?」

 

『世の中には知らない方が良いってこともあるし、まぁ、多少はね?(幸福の側面)』

 

「それ本気で言ってる? 皆に黙ってるつもりなの?」

 

『そうだよ(鷹揚) 前みたいにこの鎮守府が襲撃されるってんなら、すぐにでも準備を始めるけどさぁ……。黒幕の狙いは、あくまで俺とアイツなんだからさ。俺らが大人しくしてれば、艦娘の奴らには危害は無いんだから、もう答えは一つだよなぁ?(名探偵)」

 

 少女提督は野獣の緊張感の無さに苛立つよりも、その暢気さが心強くも在り、同時に、動揺させられた。どうしてコイツには、こんなに余裕があるのだろう。いや、違う。この野獣の落ち着きぶりは、自分のすべきことや出来ることを全てやり尽くした上での、達観と諦観からくるものなのだろう。

 

『これ以上、アイツら巻き込んだらアカンねんな(しみじみ)』

 

 端末から聞こえる野獣の声には、正義を為すために尽力した満足感も、善良な意思を全うしようとする己への肯定も無かった。ただ、自らに訪れる残酷な未来を受け入れるための、冷静な覚悟と決心があった。自身の命を脇に置いてでも艦娘たちを第一に考えようとする野獣の姿勢に、少女提督は何を言うべきか分からなくなる。その沈黙を埋めるように、何かが水面を跳ねる音がした。野獣の釣り竿に魚が掛かったのだ。

 

『Fooo!↑↑ 今日は釣れますねぇ!(大漁先輩)』

 

 携帯端末をクーラーボックスに置く音がした。スピーカーが、野獣の居る埠頭の音を拾う。魚を釣り上げる音。波と風の音も聞こえる。少女提督は何を言うべきか分からないまま、また窓の外を見やる。空は青いままだ。野獣と過ごしてきた時間を思い出す。コイツはサボり魔で、いつも釣りばっかりしてたなぁ。懐かしさを感じている場合ではないが、そんな風に思ってから、気づいた。あぁ。そうか。こいつ、今までも執務室から抜け出してサボってたんじゃなくて、本当は……。

 

「……艦娘の皆に聞かせたくない話は、そうやってサボって釣りに行くフリしてやってたのね」

 

野獣はすぐには答えなかった。

 

「いろんな人に連絡取り合って、アレコレやってたんでしょ?」

 

『ん、何のこったよ?(すっとぼけ)』

 

 野獣は認めようとしない。だが、少女提督は確信した。執務室で殆ど仕事をしていない、ということは、執務室とは違う場所で何かをしていたということだ。少し前の艦娘囀線でもそうだったが、自分がサボっているのだと信じ込ませるために、この男はワケの分からない艦娘図鑑機能を作ったりしたのではないか。艦娘からの顰蹙を買うことで、事態の深刻さを隠し、この鎮守府の日常が翳るのを防いでいたのではないか。面倒で不器用な気遣いだが、この野獣という男が“野獣”でいるために必要なものに違いない。

 

『お前が何を言ってるのかちょっと分からないけど、まぁ、この話はアイツらに黙っといてくれよな~、頼むよ~(親心)』

 

「いいの? 時雨とか鈴谷とか悲しむんじゃない? それに、赤城も加賀も……、」

 

 言いながら少女提督は、自分の指揮下にある瑞鳳もまた、悲しむだろうと思った。それに少年提督の艦娘達だってそうだ。

 

『騒いでもどうしようもないことだし、多少はね? それに、俺達もわざわざ大人しく殺さたりしないんだよね。先輩と後輩に頼んで逃げ道も確保してあるし、その後の隠れ家も用意してあるから、安心!(万全)』

 

「加賀に言われなかったら、アンタ、何かやらかすつもりだったでしょ?」

 

『なんのこったよ?(エコー)』

 

「そりゃ、本営上層部の人なら、アンタたちに新しい戸籍でも何でも用意できるのかもしれないけどさ。……下手したら、みんなと別れの挨拶すらまともに出来ないかもしれないわよ」

 

 遠征や出撃任務に出向いている艦娘達にいたっては、最後の挨拶どころか顔を合わすことすらできないかもしれない。

 

『しょうがないね(覚悟済み)』

 

 その言葉から感じられる野獣の穏やかさには一切の綻びがなく、揺るぎもしない。少女提督が何をどう言おうと、この野獣という男は決心を翻すことは無いだろう。手に力が入った。クシャっと音がする。手の中にある新聞の感触が、ようやく甦った。皺がよった紙面には、先ほどと変わらずに艦娘達が映っている。艦娘達と笑いあう人々の姿が映っている。

 

 少女提督は大きく息を吸う。

 少年提督と野獣は、巨大な力の前に敗北する。

 屈従せざるを得なくなるだろう。

 

 だが、彼らが実践した“人々と艦娘の共存”という理想が破れた訳ではない。彼らの理想は、他の鎮守府の提督達の心にも情熱の根を下ろしつつある。それは間違いなく、この鎮守府の艦娘達自身が、人々との距離を縮めるための活動を、真摯に積み重ねる姿があったからだ。鎮守府祭りも、秋刀魚祭りも、テレビ出演も、この新聞に載る農業体験でも、彼女たちが誠実であり続けたからに他ならない。

 

 もしも黒幕達が、少年提督と野獣を表舞台から排除したとしても、その彼らの理想は、誰かの心の中に残り続けるだろう。終戦を迎え、艦娘の深海棲艦化現象が発表されたとしても、その悲劇的な事実を何とか乗り越え、艦娘と共存しようとする人々が現れるかもしれない。それが余りにもか細い希望であり、現実性も可能性も極めて低いことであることも理解している。深海棲艦に対する世間の憎悪は、まだまだ遠ざかりそうにはない。それでも野獣は、その可能性に賭けようとしているのだ。

 

 この野獣という男は、実は少年提督よりも遥かに理想主義者だったのだと、少女提督はようやく分かった。だが、もう他に手がないことも確かだった。現実に打ちのめされても、窓から見える空の青さは変わらない。海の蒼さも揺るがない。あの襲撃事件の夜に、見せられた未来を思う。あれから未来は変わったかもしれない。だが、細部が形を変えただけで結局は、艦娘たちが人間の奴隷になるかもしれない。

 

 黒幕達は、そういう道に人類を進めようとしている。自分たちを守ってくれた筈の艦娘達の人間性を破棄し、打倒した深海棲艦を磨り潰すように利用する未来が、すぐそこまで来ている。万事が研ぎ澄まされていく中で、人類はどうなるのだろう。

 

『まぁ、俺に出来るのは此処までだって、はっきりわかんだね(献身の果て)』

 

 端末の向こう側で、海を眺めて立ち尽くす野獣の姿が見えた気がした。野獣も少年提督も、諦めたのではない。この鎮守府の艦娘達を守るために、立ち止まらざるを得なくなった。艦娘たちの未来を、世間の人々に預けるしかなくなった。

 

 今の本営の命令に逆らえば、少年提督と野獣を大罪人として仕立て上げる情報が流れ、今まで協力関係にあった人々にも多大な影響が出る。つまり、非人道的な実験を行っていたあの鎮守府を通じて“艦娘の売買”に関わっていたのではないか、という嫌疑がかけられる。その証拠の捏造も可能な黒幕達にとっては、裁判で有罪を量産することも可能だ。

 

 つまり黒幕達は、少年提督や野獣、それに艦娘の人間性を信じてくれた善良な人々を人質に取った。今まで艦娘達が積み上げてきたものを破壊するのではなく、もっとも卑劣な方法で利用することを選んだのだ。もはや、対抗する術も無い。それだけのことだ。私には何が出来るのだろう。少女提督が自らの心に浮かんだその問いに答えを出すよりも、この世界の動きは速く、より残酷だった。

 

 

 この2週間後。野獣たちの鎮守府に、憲兵が押し掛けてくることになる。深海棲艦の引き渡し命令と共に、少年提督と野獣の管理下にある全艦娘の剥奪命令と、不知火と天龍、時雨と鈴谷の解体・破棄命令が下されたのだ。

 

 

 

 

 









 今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございます!
 広げた風呂敷を出来るだけ畳もうと、見苦しくジタバタしている状態ですが、見守って頂ければ幸いです……。
 また、誤字報告で助けて頂くことばかりで、本当に申し訳ありません。
 読者の皆様にはご迷惑をお掛けしております……。

 何とか完走できるよう頑張りたいと思います。
 いつも応援して下さり、本当にありがとうございます!
 


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