花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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花盛りの鎮守府へようこそ

 

 

 

 

 

 

「今日も平和ね~……」

 

 執務室にソファの上で仰向けに寝転んだ少女提督が、皮肉交じりに言うのが聞こえた。先程、執務机の上に積まれた書類の殆どを片付けて休憩に入った彼女は、手に新聞を持ち、ぼんやりと紙面を眺めている。

 

「平和なら良いことじゃない」

 

 今日の秘書艦である霞は、彼女にコーヒーを淹れながら答える。彼女は甘いコーヒーが好きだ。いつものように、角砂糖を3つとミルクを用意する。カップから昇るコーヒーの香りを、窓から吹いてくる柔らかい風が揺らした。今日は晴れている。心地よい風だった。肩越しに少女提督を見ると、彼女は眠そうな眼をして、欠伸を噛み殺していた。ここ最近は徹夜が続いているからだろう。

 

「眠いんだったら、ブラックにする?」

 

「ブラックは苦いよ。甘いヤツが良いな」

 

 霞がソファテーブルにコーヒーを置くと、身を起こした彼女は小さく笑顔を浮かべて、「ありがと」と礼を述べてくれた。ただ、彼女の声には疲労の色が浮かんでいる。

 

「仕事はある程度片付いたんでしょ?」

 

 言いながら、霞もソファに腰掛ける。少女提督は読んでいた新聞紙をソファテーブルに置いてから、カップを手に取った。

 

「うん。霞の御蔭で、溜まってた書類は処理できたかな~」

 

 一口だけブラックのままのコーヒーを啜った彼女は、苦そうに顔を歪めたあと、すぐに角砂糖を3つとミルクをコーヒーに投入した。「ブラックなんて、何処が美味しいのかしら」などと呟きつつ首を傾げ、スプーンでカップを掻き混ぜる少女提督は、大きな難題を前にしたかのような不可解そうな表情をしている。その様子がなんだか可笑しくて、霞は少しだけ笑った。

 

「あれ? 霞の分は?」

 

 少女提督が顔を上げる。霞は肩を竦めて見せた。

 

「私は、あんまり喉も乾いてないから」

 

「そうなの? じゃあ、お腹とか空いてない? お菓子でも探して来ようか?」

 

「そこまで秘書艦に気を遣わなくても良いわよ」

 

「いや、何か申し訳ないわね。私だけコーヒー用意して貰って」

 

 どこか窮屈そうに言ってから、少女提督は甘くなったコーヒーを一口啜って、ソファに凭れ掛かって大きく伸びをした。パキパキと骨の鳴る音が、彼女の首や肩から軽く響いた。デスクワークで体が硬くなっているのだろうと思い、「マッサージでもした方が良い?」と、霞が両手の指をにぎにぎと動かして見せると、少女提督は小さく笑った。

 

「いいっていいって。霞こそ、そんなに気を遣わないでよ」

 

 少女提督は凭れていたソファから体を少し前に倒し、またコーヒーを一口啜った。執務室に寛いだ雰囲気が流れる。霞は、少女提督がソファテーブルに置いた新聞を手に取ってみた。一面には、読者の不安をたっぷりと煽るように「深海棲艦の出現率、更に増加」という文字が大きく踊っていた。記事の文を目で追うが、特に目新しい情報はない。『依然として深海棲艦の数は増えてはいるが、海に近い町々や重要なシーレーンの安全は、艦娘達の活躍により強固に守られている』といった旨の内容だった。

 

「……多分だけどさ、その記事、本営が書かせたんでしょうね」

 

 少女提督が胡散臭いものを見る目で、霞の手の中にある新聞を見ていた。

 

「“深海棲艦の数は減ってないけど、我々には艦娘が居るから大丈夫! 安心して下さい! ”っていう、世間に対するアピールよ。きっと」

 

「そう言われてみれば、なんか恩着せがましい感じがする」

 

 霞は苦笑しながら、新聞をパラパラと捲ってみる。他の紙面でも、深海棲艦の発生率増加に関わる記事が続いていた。出そうになる溜息を飲み込む。紙面に目を落としながら「……確かに、今日も平和ね」と、思わず皮肉を込めて零してしまった。コーヒーを啜っていた少女提督も、小さく肩を竦める。

 

「まぁ、こういう本営の情報操作も、人や国を落ち着かせるのに必要なんでしょうけど」

 

「実情を正直に書いたら、世間が大騒ぎになるわよ」

 

「恐慌まで引き起こしたりして」

 

 軽く笑ってから少女提督がカップを置いた時、また風が吹いてきた。

 

「今日は天気も良いわね」

 

 窓の外に向けられた彼女の眼は、自身の記憶を振り返るように動きを止めていた。霞も少女提督の視線を追いように、窓の外を見た。突き抜けるような蒼い空が見える。雲も無い。飲み込んだ筈の溜息が、無意識に漏れていた。瞳が潤んでくる。それが涙にならないように堪えるのにも、もう慣れた。霞はゆっくりと瞬きをしてから、嫌みったらしい程に青い空の向こう側に、生々しい感触の残る記憶を辿る。

 

 

 少年提督が暴走事件を引き起こして2年経つ。

 

 

 あの事件の後、世間は大きく揺れた。なにせ、深海棲艦から自分たちを守ってくれる筈の艦娘が、深海棲艦化する現象を目の当たりにしただけでなく、人間の中から深海棲艦化する者まで現れたのだから、人々の動揺は大きかった。

 

 テレビのワイドショーでは少年提督の暴走事件を連日取り上げ、多くのコメンテーターが熱の籠った議論を交わしていた。ほぼ全てと言っていいニュース番組でも、深海棲艦の研究を専門とする者や、他国の“提督”なども呼ばれ、艦娘の深海棲艦化についての意見が飛び交った。本営はと言えば、これらの深海棲艦化現象については今まで確認できておらず、そういった公式の記録は全く無いと、一貫して主張した。つまり、自分たちも初めて遭遇した事態であり、真相の究明に努めるという姿勢を取り続けた。要するに、シラを切ったのだ。

 

 

 無論、本営は世間から強烈な批判を浴びることになった。そんな中で、『艦娘を社会から隔離し、兵器としての完全な品質管理の下で運用すべきだ!』という意見も、世相の中から挙がり始めた。『あの深海棲艦化した瑞鶴を解剖して、ことの真理を解明しろ!』、『いや、解剖実験を行うなら、あの鎮守府の艦娘全員だ!』などと言う過激な声もそれに続いた。人々の安全を守ると言う名目のもとで力と熱の籠ったそれらの意見は、世間の人々の良心を押し流してしまいかねない勢いが在った。

 

 

 ただ、艦娘達の尊厳を蹂躙することを厭わない、こういった意見に対して『今まで命懸けで戦ってきてくれた艦娘達に対して、そんな卑劣な掌返しが在るか!』と、真っ向から対立する集団が現れた。以前、この鎮守府の秋刀魚祭りの時に協力してくれた漁師達だった。艦娘達を“モノ”として扱う風潮が出来上がることを阻止すべく、彼らが各地の漁師たちを集めて本営に直訴しに向かった時には、大きなニュースとして取り上げられた。

 

『艦娘の嬢ちゃん達に、どれだけの人間様が救われたのか理解できないヤツなんて居ないだろ!』『助けて貰ったら、恩を返すのが人の道だろうが! それを、利子を付けて恩返しするどころか、奴隷みたいに管理するだと?』『おい、ふざけるんじゃねぇぞ! そんな事をしてみやがれ! 人間なんて滅んだほうがマシだったって、歴史の中で証明しちまうことになるぞ!』『じゃあどうすんだ? 決まってるだろうが! 今から、俺達全員で考えるんだよ! 嬢ちゃん達が命を懸けて戦って来たように、俺達も命懸けで、知恵を出し合うんだよ!』『部外者なんて地球上に一人も居ねぇぞ! 何もかも、こっからだろ!? 俺たち人間がよぉ、艦娘の嬢ちゃん達に何が出来るのかを真剣に考えるのは、此処からが本番だろうが!』『それを放棄して、艦娘の嬢ちゃん達の未来に蓋をしようとするんじゃねぇ!!』

 

 取材しに来たカメラに取り囲まれた漁師たちが、レンズに向かって指を突きつけて、そう叫んでいたのを思い出す。彼らは一人一人、霞にも見覚えのある顔をしていた。誠実さと使命感を帯びた彼の言葉は、浮足立った世間の人々の弱り切った心を強く叩いた。まるで熱した鉄に重たいハンマーを振り下ろしたかのように、彼らの言葉は加熱していく世論を打ち据えて火花を散らし、様々な議論を呼び起こして火をつけた。

 

 ただ、漁師である彼らの言葉が真摯な重みを伴い人々に届いたのは、マスコミ関係者や憲兵を、身を挺して守った瑞鶴や雷たち、それに、私情に流されることなく少年提督の撃滅を遂行した不知火の徹底された正義が在ったからであり、人々の味方であろうとした、この鎮守府の艦娘達全員の姿が在ったからこそだった。

 

 

 一方で、国中の憎悪や忌避の感情が最終的に流れ込んだのは、やはり少年提督だった。

 

 本営は、少年提督が過去に指揮、指示したとされる冷酷無比な作戦や人体実験の内容を精密に調査し、公表することを、世間の人々から求められた。そうして表沙汰になったのが、少年提督自身が準備していた記録書類の山だった。記録の中では、艦娘の精神を隷属させる精神支配術式の理論をはじめ、捨て艦法などの非道な戦術や、思考や自我を砕いた艦娘を奴隷として売買するといった非道な行為は、少年提督が先頭に立って行っていたということになっている。

 

 数々の記録から見えてくる少年提督は、『普段は温和で優しく、道徳の主体として艦娘たちの人格を社会全体にアピールしているが、実は裏で多くの艦娘たちの肉体を解体し、精神を破壊し、そこから得られる利益を貪る魔人』であったし、実際に今の世間にはそう認識されている。だから、あの暴走事件が起きる直前にマスコミが挙って取り上げていた艦娘売買についても、少年提督が関わっていたのは間違いないとされている。

 

 そして何よりも人々の忌避感と恐怖を煽ったのが、暴走した少年提督が、“深海棲艦の徴兵”を可能にする術式を扱っていたことだった。あの事件の日も、少年提督が深海棲艦を完全にコントロール下に置いて艦娘達と対立していたのは、国中の人間が目撃している。人類の宿敵を率いる者が現れたという事実は、社会の中に大きな波紋を呼んだ。第2、第3の“少年提督”が現れる可能性を、人々は恐れた。

 

 本営はこうした人々の恐怖を取り除くべく、バラバラになった少年提督の死体を回収し、それが再生も復活もしないことを確認した上で、『深海棲艦の精神制御は、あの少年提督だけが扱えるもので、他の人間が使いこなすのは不可能である』と、すぐに発表しているものの、信用されているとは言い難いのが実情だった。

 

 社会の中で渦巻いた少年提督と本営に対する、こうした義憤や疑念の大きさはそのまま、艦娘達に対する人々の罪悪感に繋がった。艦娘達に行われてきた非道な行いをどのように詫びて、どうやって向き合っていけばいいのかを考える時代が訪れようとする気配が在った。ただ、そんな悠長で暢気な時代は、実際には訪れなかった。

 

 その理由は単純で、少年提督の暴走事件以降、深海棲艦の発生率が世界中で跳ね上がったからだ。深海棲艦の目撃情報や発生情報が、激戦期の頃を上回る勢いで増えて増えて増えまくっていく様子を見れば、人類の優勢が容易く覆されるのは誰でも予想できた。

 

 深海棲艦という目に見える脅威が、その勢力を増していくのを敏感に感じとった人々にとっては、もう少年提督が暴走した真相を追求する場合では無かった。艦娘達が深海棲艦化するリスクを考慮した上での、新しい艦娘の運用構造を検討することも、その構造を社会の中で安全に実践する為の法整備を行う余裕も、当然のことながら無くなっていった。人類優勢であった時には余裕綽綽であった本営も、急激に勢力を増していく深海棲艦に対しては、鎮守府を前線基地とした今までの艦娘運用の形態を維持するのが精一杯だった。

 

 そんな中で、更に問題が立ち上がって来た。新しい艦娘の召還が、どの鎮守府でも殆ど不可能になったのだ。ほぼ同時期に世界中で起きたこの現象は、隠匿するには余りにも大き過ぎる問題だった。どの国の軍部も世間に隠す努力はしたものの、呆気なく露見することとなった。この時期は、激戦期の頃に人々が抱いていた絶望が、社会の中で明確に蘇っていた。焦燥と不安が一気に広がり、恐慌寸前だったあの頃の世間の空気は、今でも霞は鮮明に思い出せる。

 

 そこまで来てようやく、人々は根本的な原理に立ち戻った。

 

 深海棲艦に、人類は対抗できない。艦娘に頼らざるを得ない。人類には、艦娘しか居ない。例え艦娘が深海棲艦化する可能性を秘めていたとしても、艦娘に縋るしかないことに改めて気付いた。歴史の裏側で虐げられてきた艦娘達に、護って貰うしかないのだと。結局、人類優位のあとに訪れた“新しい時代”は、深海棲艦を撃滅した人類が、艦娘という新たな種を、人間社会の中へと導いていく共存の時代などではなかった。

 

 全くの逆だ。

 

 勢力を増していく深海棲艦の脅威に怯える人類が、艦娘達の前に跪き、赦しと庇護を請う時代になったのだ。今や艦娘は、社会的な意識の上で、人間よりも“上”に位置している。

 

 

「そう言えば、今日よね。コロラド達が此処に着任するのって」

 

 ぼんやりと窓の外を眺めていた少女提督が、思い出したかのような声を出して霞を見た。

 

「えぇ。彼女達が到着するのは、まだ時間はあるけど」

 

 霞は答えながらソファから立ち上がり、秘書艦用の執務机に置いたままだったファイルを手に取る。そこから今日のスケジュールを取り出して、少女提督に手渡した。

 

「一日の予定を把握しきれてないなんて、珍しいわね」

 

 言いながらソファに座り直した霞に、「研究所と執務室で交互に徹夜すると、曜日感覚が狂ってくるのよね」と、少女提督は生意気そうな苦笑を浮かべた。弱音も吐かない強かな彼女に良く似合う、ニヒルな笑みだった。

 

「深海棲艦の研究にも火が付いてるものね。……やっぱり、向こうも忙しい?」

 

「まぁね。優秀な“助手”達にも逃げられちゃったし」

 

 コーヒーを啜った少女提督は、去って行った誰かを懐かしむような表情になった。彼女の言う“助手”達が、集積地棲姫や港湾棲姫、それに、戦艦水鬼などであることは、霞にも分かった。

 

「もう2年経つけどさ、あの時にドローンで集められた映像を提供してくれっていう話はまだまだ在ってね。今まで用意していた資料と一緒に、纏めないといけなくてさ。これが膨大な量でね~……。ホント、猫の手どころか、深海棲艦の手でも借りたいところよ」

 

 彼女達を思い出しているのだろう少女提督は、遠い眼差しでコーヒーカップを見詰めている。その優しい沈黙に誘われた霞も、“姫”や“鬼”クラスの深海棲艦達が、秘書艦見習いとして職務をこなしていた日常を思い出す。最後まで霞たちと戦っていたレ級が、去り際に残して行った能天気な笑顔が印象に残っていた。そこまで昔のことでもないのに、やけに懐かしく感じるのと同時に、寂しさが胸の内側を掠めた時だった。

 

 執務室の扉がノックされた。

 

「ん、空いてるわよ」

 

「失礼する」

 

 扉を開けて入って来たのは日向だった。手に分厚いファイルや書類の束を持っている彼女は、ソファに腰掛けてコーヒーカップを手にしている少女提督と、新聞を手にした霞を交互に見た。それから、肩を竦めるようにして笑みを浮かべる。

 

「休憩の邪魔をしてしまったようだな」

 

「別に構わないわよ。仕事も大方終わったし」

 

 全く悪びれずに言う日向に、少女提督はひらひらと手を振って見せた。

 

「そうか。野獣に比べて、仕事の速いことだ」

 

 落ち着いた笑みを湛えた日向は、手にした書類の束やファイルを少女提督に手渡す。「ん、あんがと」と礼を述べる少女提督は、コーヒーカップをソーサーに一度置いた。彼女は手渡された書類の束にパラパラと目を通し、ファイルを開いた。中には写真が並んでいる。そのどれもが、あの暴走事件の日に撮影されたドローン映像のものだと分かった。写真には注釈がびっしりと付いており、少年提督が扱った深海棲艦コントロール用の術式を解析しようとする為の書き込みが並んでいた。

 

 それを確認している少女提督は、詰まらなさそうな顔だ。用意している研究資料が、あまり価値を持たないことを理解しているかのようだった。どれだけ研究結果を積み上げても、少年提督の持つ生命鍛冶や金属儀礼の奥義を汲み尽くせる者など居ないだろうことは、恐らく、少女提督が最も理解しているに違いなかった。

 

 日向たちの持っていた端末にインストールされていた少年提督のAIは、端末ごと破壊されている。彼女達自身が、その事件が終わったすぐ後に破壊したのだ。少女提督が管理していたAIも沈黙したまま自己崩壊を起こしていると聞いた。少年提督にまつわる全てを回収しようとした本営も、彼の分身であるAIの回収までは間に合わなかった。少年提督の真意を知る者は、この世に残っていない。

 

 少年提督と過ごした時間が頭を過りそうになって、霞がゆっくりと瞬きをしながら、想起されそうになる想い出を頭の中から追い払おうとした時だった。ソファテーブルに置かれたコーヒーカップを見詰める日向が、「……いい香りだな。霞が淹れたのか?」と、興味深そうな表情を浮かべていることに気付いた。

 

「ええ。そうだけど。アンタにも淹れてあげようか」

 

 冗談半分で霞が言うと、「ん、いいのか?」と日向は嬉しそうな声を出した。こういう落ち着きのある無邪気さや人懐っこさは、日向の魅力の一つだろう。少女提督が、霞と日向の遣り取りを眩しそうに見詰めながら、細く息を吐きだすのが聞こえた。

 

「前から言いたかったんだけど、アンタ達って仲良いわよね」

 

 手にしたファイルをソファテーブルに置いた少女提督が、微笑みを浮かべながら言う。日向は霞を一瞥してから少女提督に向き直ると、「ふふん」と鼻息まで聞こえてきそうな表情を作り、胸を張って見せた。

 

「あぁ。まぁな。羨ましいだろう?」

 

「仲良くは無いわよ」

 

 霞は半目で日向を見遣る。「えっ」と日向が意表を突かれたように霞を見た。

 

「私からすれば親友と言って差し支えない距離感だと思うんだが」

 

「いや、何処がよ? 私とアンタの間、めちゃくちゃ壁あるでしょ?」

 

「なにを馬鹿な」

 

 遺憾そうに言う日向の態度が、どこまで本気か冗談なのか分からない。霞との言い合いを楽しんでいる風情すらある。霞が不味そうに顔を歪めると、「そういう風にお互いに遠慮の無いところとか、仲良さそうに見えるんだけどな」と、コーヒーを啜った少女提督が苦笑を見せた。

 

 以前、霞が日向に人質として利用され、目の前で少年提督を殺されかけたこともあるのは、少女提督も知っている。だから、今の霞と日向に距離感の中に、かつては敵対していた者同士が、互いに手を取り合う瞬間を目撃するような感慨を抱いているのかもしれない。ただ霞自身も、日向のことを憎み続けるほどの情熱を持てなかったのは事実だ。それは霞だけではなく、他の艦娘達にしても同じだったことだろう。

 

 この2年間の時間は、激戦期を超えるほどに濃密だった。少年提督を失ったことを悲しむ暇すらなかった。深海棲艦の爆発的な急増は、平和ボケしかけていた人間社会を激しく動揺させた。その巨大な揺らぎに否応なく飲まれた霞たちには、少年提督と過ごした時間を思い、あの時、あの頃にこうしておけばと、暗い後悔をゆっくりと味わう余裕は無かった。ただただ海へと出撃し、深海棲艦達を退けるだけの毎日だった。

 

 艦娘としての使命を帯びた戦闘の日々は、霞たちの心の時間を無理矢理に押し進めてくれた。海の上で艤装を操っている時は、余計な思考が追い出されていた。戦闘は選択の連続だ。選ばれたジュースを正確に吐き出す自動販売機のような、感情を伴わない冷徹な判断と思考は、虚無感と虚脱感に苛まされる霞の心を埋め尽くしてくれた。“艦娘としての自分”が、“個人としての霞”の心を支えてくれたのは間違いない。少年提督との日々を思い返し、懐かしみながら、自分自身の心に空いた穴をゆっくりと埋めるように悲しむことが出来るようになったのは、本当に最近になってからだ。

 

「……お代わりは?」

 

 ソファから立ち上がりながら少女提督に訊くと、彼女は「お願いするわ」とカップを渡してくれた。霞が日向と少女提督のコーヒーを用意している間、少女提督は日向と、何やら話をしている。内容についてはよく聞こえなかったが、断片的に聞こえてくる単語から、近いうちにある大規模作戦についてだろうことが分かる。

 

 少年提督の暴走事件の少し前に、日向や川内、神通の3人が、“この鎮守府で召還された艦娘”であるという記録も捏造されていたのは分かっている。この3人は事件の後、他の鎮守府に転属する予定だった。少年提督からは、そういう手筈になっているのだと彼女達も告げられていたらしい。

 

 ただ、未来を予見していた筈の少年提督の計算がどこで狂ったのかは定かでは無いが、日向達を受け入れる筈だった鎮守府、と言うか、“過激派”の提督の殆どが蒸発してしまったのだ。本営や“黒幕”たちの思惑が絡んでいるのだろうが、とにかく日向達は行き場を失い、結局、この鎮守府の所属し続けることになった。

 

 最初の頃は日向や川内、神通のことを危険視する艦娘は多かったものの、彼女達の練度や強さを疑う者は居なかった。事実として、海の上で彼女達の活躍に助けられた艦娘も少なくなかった。命を預け合う時間が続くなかで、彼女達にまず歩み寄ったのは龍驤だった。他者を恐れず侮らない龍驤が間に立つことで、日向達と他の艦娘達との距離は縮まりながらも、余計な摩擦を生まない程度の適切な距離感へと収まっていった。

 

 

 

 

 

 

「うむ。やはり、霞の淹れるコーヒーを、……最高だな」

 

 霞の隣に座った日向はコーヒーを一口啜ってから、ご満悦な様子で言う。

 

「それはどうも」

 

 素っ気なく答える霞は、横目で日向を見る。あの襲撃事件の夜も、日向とはこうして隣り合って座っていたのを思い出す。あの時の霞は人質であり、日向は襲撃者だった。少年提督を脅すために霞の太腿を握り潰して来たのは、目の前に居る日向で間違いはない。未来視の力を持っていた少年提督は、今の鎮守府の景色すらも見通していたのだろうか。

 

「どうした? 私の顔に何か付いているか?」

 

「別に……。ただ、アンタも変わったなと思っただけ」

 

「そうだな。人は変わるものだ」

 

「前は自分のことを道具だ何だのと言ってた癖に」

 

 この日向に見られる変化は、かつての赤城に似ていると時雨が言っていたのを思い出す。人間性を獲得したというよりも、元々備わっていた感性が花開き、感情を覚え、日々の些末なことにも楽しみを見出していく成長を経験していると言ったほうが正しいのかもしれない。

 

「2年あれば、考え方だって変わるさ。まぁ……」

 

 コーヒーを片手に目を細めた日向はそこまで言って、テーブルの上の新聞紙を手に取る。日向が見ている記事の一つには、今の艦娘達の社会的な立場における内容が書かれていた。『ブラック鎮守府の根絶』の文字が付随した記事だ。写真も載っている。そこに目を落としていた日向は軽く鼻を鳴らし、新聞紙をソファテーブルに軽く放る。

 

「世間の方では、考え方だけでなく身の振り方も変えざるを得ない者も、少なくなかったようだ」

 

 自嘲的な笑みを薄く浮かべた日向は、何かを思い出す目つきになって窓の外に顔を向ける。霞は視線だけで新聞紙の記事を見た。此処に載っている『ブラック鎮守府』というのは、かつて日向が所属していた鎮守府なのではないかと言う考えが頭を過る。日向の言う身の振り方を変えざるを得ない者というのは、ブラック鎮守府の提督なのか、それとも、以前の日向のように、ブラック鎮守府という過酷な環境を望んだ艦娘たちのことを差すのかは判然としなかった。

 

「どの鎮守府の運営にも民間の眼が入るようになって、影でコソコソするのは難しくなったからね。最近は、それぞれの鎮守府の過去の運営状況の調査も始まって来てるし」

 

 少女提督が、日向の持ってきた書類にもう一度目を通しながら言う。

 

「艦娘達に過酷な運用を強いてきた提督連中にとっては、戦々恐々として夜も眠れない時代になったでしょうね」

 

「政府や軍部が絡んでくる類の悪徳を、あの少年提督は表に引き摺り出したんだ。しかも、その殆どが艦娘に関わる内容だったからな。そういう時代になるのも必然と言える」

 

 落ち着いた低い声で言う日向は、窓の外へと向けていた視線を少女提督へと移した。

 

「本来なら絶対に露見しないような軍部の裏側まで、これでもかと明るみに出てきたからな。実験材料や木偶にした艦娘の正確な数は発表されていないが、艦娘に護って貰わねばならない人間達にとっては、さぞ居心地の悪かったことだろう」

 

 日向の低い声音には、少年提督への敬意を払いつつ、人間至上主義が崩壊しつつある今の世間の様子を意地悪く揶揄するような響きが在った。「でしょうね」と、日向の視線を受け止める少女提督は肩を竦めて見せる。

 

「つまり、あの少年提督が招き入れた時代は、人間の罪悪感を刺激する時代というワケだ」

 

 日向は言いながら、また何かを考えこむように視線を落とした。「……酷い言い草ね」と、霞は鼻でも鳴らしてやろうと思ったが、上手く出来なかった。話題に挙がった少年提督の存在感は、今でも霞の心を動揺させる。

 

「彼がどんな未来を視てたのかは知らないけど、まぁ……、深海棲艦を容赦なく撃滅して、艦娘達まで吊るし上げて搾取するような時代が来るよりは100倍マシよ」

 

 お代わりしたコーヒーを一口だけ啜った少女提督は、日向と霞を見比べてから、ふっと微笑んで見せた。疲れが色を付けたその微笑みには、頑張り過ぎて体を壊した同僚を思い出すような、やるせなさに満ちていた。

 

「あの少年提督は私達にも言っていたよ。いや、正しく言えば、彼のAIだがね。『人間が覇道と進化を窮める道では、その人間性が形而下に引き摺り下ろされてしまう』と」

 

 黙り込んでいる霞の代わりに、緩く息を吐き出した日向が口を開いた。

 

「艦娘を用いた人体実験や捨て艦法で死んでいった艦娘達は、表向きには『艦娘の報国』という形でしか知らされなかった。少年提督が居なければ、彼女達の悲劇は秘匿されたままだったろう」

 

 本心を語る顔つきの日向は、少女提督の方も、霞の方も見ない。カップの中に揺れるコーヒーを見詰めたままで、滔々と言葉を紡いでいく。

 

「あの少年提督が、あらゆる悪徳の黒幕として泥を被ってくれたお陰で、無残に使い捨てられた彼女達にも意味が与えられたんだ。存在すら無かったことにされていた彼女達の無念が、歴史の表に出てきたことは人々の心を少なからず動揺させた。罪悪感を呼び起こしたのも間違いない。今の時代を作り出した一因になっている筈だ」

 

 日向は肩の力を抜くような息を漏らし、少女提督と霞を見た。

 

「決して救われることの無かった彼女達の魂にも、あの少年提督は手を差し伸べたのだと、私は思っている。まぁ、少々好意的過ぎる解釈かもしれないが」

 

「別に良いんじゃない。アイツの行動をどう捉えたって」

 

 少女提督が何かを言う前に、霞は眉間に皺を寄せて言葉を滑り込ませる。

 

「アイツが何を考えてるか分からないなんて、今に始まったことじゃないし」

 

 まるで、今も彼が何処かで生きているかのような口振りになってしまったのは、霞の精神や感情に流れる時間が、2年という時間の経過に追いついていないからかもしれない。少年提督の話題がこれ以上挙がるのを拒みたいわけでは無かったが、霞は自分の表情がどんどん不機嫌になっていくのが分かった。

 

 それが、泣き出すのを我慢するときの自分の癖であることは、少年提督が居なくなったこの2年の間に気づいた。横隔膜が震えて、鼻の奥がツンとしてくる。呼吸が揺れて、涙の気配が混じりそうになる。不味いと思うのと同時だったろうか。日向の懐から軽い電子音が響いた。

 

「ん、すまない」

 

 日向は携帯端末を取り出して、画面を確認した。メッセージが届いていたようだ。日向が端末を操作している間に、霞はそっと洟を啜り、何事も無かったかのように薄く息を吐く。沈黙が訪れる執務室の空気を擽るように、また緩い風が吹いてきた。少女提督は窓の外へと視線を向けている。今の霞の様子に気付かないフリをするためだろうが、今は有難かった。そのうち、日向を懐に仕舞った日向が、カップに残っていたコーヒーを名残惜しそうに啜ってから、「御馳走になった」と手を合わせて、ソファから立ち上がった。

 

「誰かから呼び出しても在った? 何か問題でも起こしたんじゃないでしょうね?」

 

 少女提督が冗談めかして言うと、日向は笑みを堪える顔になって緩く首を振った。

 

「何も問題は無い。龍驤からのメッセージだ。“たこ焼きを焼くのを手伝って欲しい”と在った。何でも、コロラド達を迎える為の宴会を開くと、急に野獣が言い出したらしくてな。そうなると、『龍驤特製のたこ焼き』は外せないという話になったそうだ」

 

「宴会って……、どこで?」 

 

 霞は眉間に皺を寄せながら日向を見上げた。

 

「この鎮守府を修繕した時に、広々とした“庭”を勝手に野獣が作っただろう? 食堂の裏手の、あそこだ。執務は殆ど片付いていないが、会場の設営と料理の下準備はほぼ完璧らしい」

 

「そういう段取りだけは良いのよね、野獣」

 

 感心と呆れが半々程度に混ざった顔で、少女提督が小さく笑った。宴会の準備自体が出来ているということは、間宮や鳳翔、伊良湖たちには前もって話を通しておいて、妖精さん達には会場を作るための資材を渡していたという事だろう。

 

「前から思ってたけど、あのバカってさ、提督とかじゃなくてイベント業界とかの方がよっぽど適正あるんじゃない?」

 

 霞は投げやりに言う。

 

「そうかもしれないな。だが、野獣ほど、この鎮守府の提督に相応しい男も居ないだろう」

 

「言えてるわ」

 

 他人事のように笑った少女提督に対して、「もちろん、貴女もだ」と、日向は嫌味の無い微笑みを見せる。少女提督は一瞬だけ微妙な表情を浮かべたが、何も言わず、すぐに肩を竦めた。日向はもう一度、霞にコーヒーの礼を述べてから執務室を後にして、龍驤の手伝いに向かった。少女提督と霞の二人になる。また少しの間、沈黙が在った。新しい“日常”の時間が流れているのを感じる。少女提督が欠伸を漏らした。

 

「それ飲み終わったら、仮眠でも取ったらどう?」

 

 感傷に流されたくなくて、ワザと声の調子を軽くしたようとして、失敗した。声が揺れる。今の鎮守府には、確かに新しい“日常”が流れている。あれから2年経った。それでも、霞の心の中には瘡蓋が疼くような悲しみが残り続けている。その悲しみ自体が、『人の味方であって欲しい』という少年提督の願いを遂行し続ける霞という“個人”を、保証してくれているようにも思えた。

 

「そうしようかなと思ってたけど、今寝ちゃうと、起きられそうにないわ。顔だけ一回洗ってこようかな」

 

 少女提督は渡されたスケジュールと腕時計を順番に見てから、また大きく伸びをした時だった。窓の外から、また暖かな風が吹き込んできて、執務室の空気をゆっくりと掻き混ぜた。迷い込んだ風は執務室を温めながら、すぐに外へと走り去っていく。疲れを恐れない無邪気な子供が、元気よく走り回り、すぐに別の場所に興味を惹かれて、飛び出して行くかのようだった。少し遅れて、桜の花びらが舞い込んできて、ソファテーブルに置かれた、写真ファイルの上にふわりと落ちた。

 

 少女提督が執務室から出ていく。執務室に残された霞は、テーブルの上に桜の花びらに手を伸ばし、写真ファイルごと手に取る。2年前のあの日を移した写真が収められているファイルは、ずっしりとした重さが在った。勝手に見ては不味いだろうかと思ったが、今日の秘書艦である霞ならば別に構わないだろうと思い、ファイルを開く。

 

 そこに並んだ写真を見て、息を呑む。震える指先から記憶が生々しく蘇り、熱された粉塵と潮の匂いを感じた。身体から汗が滲んでくる。額にツノを生やした少年提督の姿がある。彼と戦う艦娘達の姿も。血塗れなった自分の姿も。深呼吸をする。唇を噛む。ページをめくっていく。写真の脇には注釈が並び、びっしりと文章が並んでいる。それを目で追おうとした時、また風が吹いてきた。

 

 数枚の桜の花びらが舞い込んでくる。そのうちの一枚が、ある写真の上に落ちた。ひらひらと軽やかに舞って落ちてくる花びらを目で追っていた霞は、呼吸が止まりそうになった。陽に透けて澄んだ桜の色の、その下に、霞たちが今まで見落としていたものが映り込んでいたからだ。堪えていた感情が、堰を切っ溢れ出す。あ、あぁ……。情けない声が漏れた。視界が揺れてくる。目の中に溜まってくる涙を、ごしごしと乱暴に腕で拭う。爆発しそうになる心を何とか抑えつけながら、執務室の窓の向こうを睨んだ。この桜の花びらの動きさえ、少年提督は未来に視ていたのだろうか。霞はソファテーブルを蹴飛ばす勢いで立ち上がり、ファイルを抱えたままで執務室を飛び出す。

 

 

 

 

 

 

 

 不知火は鎮守府の廊下を歩きながら、窓の外を見遣る。雲の無い空の蒼と、陽の光が揺蕩う波の碧が溶け合う水平線を見詰めて、眼を細めた。海には“神”が居る。“神々”と言ったほうが正しい。その神の一人が、未来視の力を持った“周到と誤差の神”であることを不知火は知っている。いつかのように、手袋をした左手の薬指に触れた。そこには、ケッコン指輪が嵌っている。手袋越しの指輪の感触に、過ぎて行った時間を想う。気付くと、彼の執務室の前に居た。

 

 ノックをする。返事は無い。失礼します。心の中で言いながら扉を開ける。少年提督の執務室は、彼が居なくなってからも残されていた。流石に彼が扱っていた書類や書物などは全て回収されているし、ソファ、テーブルなどの家具も取り払われている。ただ、彼が使っていた執務机だけが残されていた。

 

 当初は妖精さん達に頼んで全ての家具を分解した上で壁紙も取り換えて、完全な空部屋にするように本営からの指示が在ったらしいが、それを妖精さん達が強く拒んだ。野獣と少女提督も、その指示には従おうとはしなかった。少年提督が抱いていた思惑を辿るのに必要な物品を提供したのだから、これから少年提督の執務室をどのように使うのかは、この鎮守府の判断に任せて貰えるように進言していた。これが受理された背景には、恐らくだが、野獣の先輩や後輩の存在も大きいのだろうと思う。

 

 

 殺風景な執務室に入り、後ろ手にそっと扉を閉めたところで、誰かが居ることに気付く。開け放たれた窓の横だ。彼女は腕を組んで壁に凭れ掛かり、窓の外を眺めている。改二の艦娘装束を身に着けた瑞鶴だ。何か考え事をしていたのだろう。ぼんやりと遠くを見ていた彼女は、不知火の方を視線だけで見てから、はっとした顔になった。

 

「全然気付かなかった。いつの間に入って来たの?」

 

「今ですよ。ノックもしたのですが……、外した方が良いですか?」

 

「いいよそんなの」

 

 瑞鶴は姿勢を変えないままで笑みを浮かべてから、「むしろ、私の方が外した方が良い?」と、気遣わしげな表情になって不知火を見た。不知火は首を振る。

 

「いえ、大丈夫です」

 

「ん、そっか」

 

 短く言葉を交わし、瑞鶴はまた窓の外へ視線を戻した。不知火も窓の近くに歩み寄る。少年提督の執務室からも、海が見える。この窓からの見る景色は見慣れていた筈だが、いやに懐かしく思う。

 

「そういえば、あとで宴会があるみたい」

 

 窓の外を見たままで瑞鶴が言う。

 

「艦娘囀線で、野獣司令が言っていましたね」

 

 不知火も、窓の外を見たままで答えた。

 

「宴会ではなく、花見なのでしょうが」

 

「確かにね。この鎮守府だと、どこで宴会やっても花見になる」

 

 瑞鶴は笑いながら、視線を窓の下に落とした。鎮守府内の舗装胴脇や植え込みには、今や無数の花が咲いている。咲き乱れていると言ってもいい。しかも、春夏秋冬、其々の季節に咲く花が一斉に花を咲かせているのは、美しくも異様な光景ではあった。桜の花びらが舞う中で、背の高い向日葵が元気よく上を向いているのだ。子供が描いた絵のような不自然な景色だが、澱みや邪気がない。歪だが澄んでいて、悪意が無いのだ。

 

 少年提督が不知火に撃破される直前、彼は、天空に巨大な術陣を描き出していた。この地球そのものを包み込んでしまう程の規模の、あの術陣効果こそが、世界各地で艦娘が召還不能になる現象が起こっている原因なのではないかと少女提督は考えているらしかった。ついでに、深海棲艦の爆発的な増加もだ。この鎮守府の土地を覆う霊気に異常をきたし、四季や時間といった概念にバグを起こしたのも、少年提督の仕業に違いないとも言っていた。

 

 ただ、彼が齎したのだろう鎮守府の霊気異常は、悪い結果を呼ぶことはなかった。妖精さん達に活力を与え、この土地に生命力を溢れさせている。そして、この鎮守府だけが、いや、この鎮守府という土地と、野獣が揃えば、艦娘召還が可能であることが分かっている。

 

 野獣に対する評価も大きく変わった。艦娘達と共に立ち、少年提督と深海棲艦に立ち向かった元帥として、少女提督と野獣は世間から熱烈な支持を集めている。当初、少年提督と共に艦娘たちの人間性や社会性を訴えるべく活動してきた野獣も、裏では何かの悪事に手を染めているのでないかと睨まれていた。だが、少年提督の悪徳が次々と明るみになる中でも、野獣に結びつく容疑や記録が出てくることは無かった。野獣に関して分かったことと言えば、野獣が清廉潔白であり、強いて言うならば、激戦期の頃に肉体改造を受けた強化兵の一人であることぐらいだった。

 

 ただ、野獣が表に出て、世間に何かを言うようなことは殆ど無かった。その機会の悉くを、本営が潰していた。余計なことを言われたくなかったのだろう。本営としても、英雄として担ぎ上げられている野獣は、世相の不安を取り除くために役立つと考えたからだろうが、悲劇の戦士としての野獣の無罪を宣言し、この鎮守府を存続させることを決定した。

 

 少年提督と死別することになった野獣が、どのような想いであったのかは推し量れない。だが野獣は、不知火達の前では今までの“野獣”であり続けてくれていた。悲しみを隠し、苦悩や後悔を見せない野獣の姿からは、この鎮守府に所属する艦娘達を支えるために自分を落ち着かせようとする懸命さと、己の心を殺す冷静さが窺えた。

 

 

「……でも、宴会とか、こういうイベントも久しぶりだね」

 

「そうですね。皆、忙しかったですから」

 

「野獣さんなりに、私達のことを労ってくれてるのかな」

 

「恐らく、と言いたいところですが……。自分が騒ぎたいだけかもしれません」

 

 不知火が言うと、瑞鶴が小さく笑った。

 

「まぁ、それでもいいか。野獣さんが率先して羽目を外してくれたら、私達も余計な気を遣う必要もないし」

 

 そう言いながら遠くの海を見遣る瑞鶴は、誰かを探すかのような目つきだった。不知火も、瑞鶴の視線を追うようにして、海を眺める。ただ、そこには茫洋とした青い世界が在るだけで、誰かを見つけることなどは出来そうになかった。千変万化する波間の揺らぎだけが、陽の光の煌めきを反射しながら連なり合い、水平線の彼方へと続いている。

 

 暫くの間、不知火と瑞鶴は無言で海を眺めていた。風の音と波の音が、遠くに聞こえている。不知火はそっと息を吐きだし、執務室の中に視線を巡らせた。彼の面影を探すつもりはなかったが、どうしても彼が居た頃の時間を思い出してしまう。そこで、足元に丸い染みがあることに気付いた。点々とついた黒い染みは、水滴を落としたもののように見えた。乾きかけている。

 

「……私が此処に来た時にさ、金剛さんが居たんだよ。ちょうど、不知火が居る場所に立っててね」

 

 瑞鶴が優しい声で言う。不知火は「あぁ、そうでしたか」と、納得した。多分、金剛は泣いていたのだろう。この染みは、彼女の涙の雫が作った痕なのだと思った。今でも、少年提督の執務室に訪れる艦娘は多い。それは、少年提督との思い出を暖め直すことで、自分の心から悲しみが去って行ってしまわないようにする為であったり、本来なら在った筈の少年提督との時間を、自分の中でだけでも何とか確保する為だった。この執務室で泣き崩れる大和やビスマルクの姿が在ったのは、不知火も知っている。艦娘達の時間は進んだが、そこに感情が追いついていない者は少なくなかった。

 

 恐らく、不知火もそうだ。

 

 少年提督が死んだという実感は、この2年間の間で自分に馴染んだ。涙を流したのは、少年提督に最期の砲撃を加えた、あの時が最後だった。不知火の心は悲しみを乗り越えたと言うよりは、悲しむことを拒否したのかもしない。泣くことが出来なくなった。ただ、悲哀に関わる感情の動きは鈍ったものの、仲間の無事を願い、作戦の成功を喜ぶことは素直にできた。陽炎からは「無理をしていないか」と心配された。少年提督を討ったことを責めてくる者は皆無であったし、不知火の事を気にかけてくれる優しい艦娘ばかりだったが、不知火は自分がひどく冷血な存在に思えていた。

 

「自分を責めてない?」

 

 瑞鶴が訊いてくる。今更な問いだが、此方を見る瑞鶴が心配そうな表情を見ると、その言葉には心が籠っているのが分かった。「えぇ。大丈夫です」と、不知火は少しだけ笑みを浮かべて見せる。

 

「ならいいんだ。変なこと訊いたね。ごめん」

 

「いえ。お気遣い、感謝します」

 

 礼を述べてから、気付く。瑞鶴のツインテールの左側の、その先端の方だ。髪が白い。不知火の視線に気づいた瑞鶴が、「あぁ、これ?」と、自分の髪の毛先を触る。

 

「前に出撃した時にさ、他の鎮守府の子がピンチだったの。だから、ちょっと無理して助けようとしてさ、深海棲艦化したんだけどね。ちゃんと戻らなくなっちゃって」

 

 瑞鶴は自分の毛先を見ながら、参っちゃうよね、と顔全体を強張らせるようにして笑った。不知火はそんな瑞鶴を見詰めたままで、ゆっくりと首を振る。

 

「深海棲艦化しても、仲間であることは変わりありません」

 

 不知火の声に手を引かれるようにして頬の強張りを解いた瑞鶴が、懐かしむような眼差しを向けてくる。

 

「提督さんにも言われたよ。私は私だって」

 

 少年提督の暴走事件により、“深海棲艦化する艦娘”として、瑞鶴は世間からの注目を一身に集めていた。深海棲艦化した瑞鶴は、艦娘と言う種を、ある意味で存亡の危機に追い込みかねない存在だった。とにかく瑞鶴を解剖・分解・解体し、そのメカニズムを解明するのが、今の人類の最重要課題だと騒ぎだす者も多かった。

 

 だが、深海棲艦の勢力が増していく中で、“花盛りの鎮守府に所属する瑞鶴”を失うというのは、戦力的に見ても相当な痛手であったのも確かだった。本営としても、瑞鶴を解剖するか、そのまま運用するかの判断に大いに迷ったようだが、結局、瑞鶴はそのまま艦娘として運用される流れとなった。

 

 瑞鶴を危険視する声は確かに根強くあるが、それ以上に、人類の裏切り者である少年提督を打ち倒した不知火達の姿が、『艦娘は人類の味方である』という印象を世間に深く刻み付けていた。この2年間、瑞鶴を艦娘として運用することに関して大きな反論が世間から出てこなかったのは、仮に瑞鶴が深海棲艦として暴走したとしても、艦娘達は動揺を見せずに私達を護ってくれるだろうと、人々が判断した証拠だった。ただ、不知火にしてみれば、艦娘の庇護を受けねば深海棲艦の脅威から逃れられない人類による、都合の良い卑劣な掌返しに思えないことも無かった。

 

「不知火はさ、どう思う? 今の戦況って言うか、戦果って言うか、深海棲艦達の様子って言うかさ……」

 

 瑞鶴は、また海の方へと目を向けた。風が吹いてくる。

 

「えぇ。深海棲艦から、殺意や敵意が消えたのを感じます」

 

「だよねぇ。……まぁ、そんなことは大っぴらには出来ないんだろうけどさ」

 

 苦笑を漏らしながら言う瑞鶴は、大きく伸びをしてから、窓の枠に肘をついた。不知火も息を吐きだす。

 

「激戦期に匹敵する深海棲艦の出現率の中で、轟沈した艦娘が0人など、余りにも不自然ですから。『深海棲艦を退け、勝利を重ねている』という報道は嘘ではありませんが、実情は隠さざるを得ないのでしょう」

 

「ついでに言えば、深海棲艦を撃沈させた数も、ほぼ0。戦ってるけど、戦ってないって感じだよね」

 

 瑞鶴は、「さっき言ったけどさ。他の鎮守府の子を……、あぁ、如月ちゃんなんだけど」と、先ほどと同じように自分の髪の先を弄りながら、記憶を辿る顔つきになる。

 

「やっぱり深海棲艦側も、決定的なトドメを刺そうって感じじゃなかったな。殺気が無かったよ。相手は戦艦タ級だったし、その気なれば、いつでも如月ちゃんを撃沈させることが出来たと思うんだよね。でも、しなかった。まるで、戦ってるフリをしているみたいに」

 

 不知火は頷く。

 

「それは不知火も思います。どれだけ殺意を籠めても、まるで相手にされていないような感覚が在ったのは、一度や二度ではありません」

 

「そうなんだよね。私達の方が圧倒的に不利な状況でも、最終的には、深海棲艦達が撤退していくしさ。シーレーンが守られてるって言うか、そもそも、深海棲艦側にシーレーンを破壊しようとする意思が見えないんだよ。ちょうど、あの時の猫艦戦達みたいにさ」

 

 気味悪そうに言う瑞鶴は、眼を細めて海を睨んだ。

 

「不知火たちは、手加減されているのかもしれません」

 

 窓枠に肘をついたままで、瑞鶴が顔を傾けてきた。思い当たる節がある表情の瑞鶴は、不知火の言葉を待っている。不知火は頷いてから、海を眺める。恐らく自分も、誰かを探すような目つきで海原を見ているのだろうと思う。

 

「あの日、海へと還って行った戦艦水鬼達が、他の深海棲艦達に指示を出しているのかもしれません」

 

「……不知火もそう思う?」

 

「えぇ。在り得ない話ではないと思っています。この2年間での艦娘の撃沈数0、深海棲艦の撃沈数0というのが、そもそも荒唐無稽です。これが仕組まれたものでないのなら、もはや不自然を通り越して神秘的と言えるでしょう」

 

「だよねぇ。やっぱり提督さんが、そういう風に彼女達にお願いしてたのかもね。“艦娘とは戦っても沈めないであげて下さい”ってさ」

 

 瑞鶴は海へと視線を戻して、ふっと笑みを零しながら言う。その声音には、ずっと自分の中で抱えていた希望的観測を、ようやく誰かと共有できた安堵と喜びが在るのを感じた。不知火も、知らず知らず口許が緩んでいた。

 

「司令なら言いそうですね。それに強靭な彼女達なら、司令の無茶なお願いも難なく実践できます」

 

 憶測に過ぎない話だが、今の深海棲艦達の奇妙な行動の中に、少年提督の面影が垣間見えるのは事実だった。今の艦娘と深海棲艦との停滞を少年提督が仕組んだのだとすれば、彼は、『力による受容』を深海棲艦側から実現したということになる。では、この停滞が何を意味しているのか。それを考えるのは、恐らく人類の役目なのだろうと思った時だった。

 

 不知火と瑞鶴の懐から電子音がした。同時だった。二人で顔を見合わせてから、端末を取り出して確認する。艦娘囀線のポップがディスプレイに表示されている。“コロラド達が到着した”という長門のメッセージがあり、宴会会場に集まるように呼びかける内容の書き込みも続き、それに応える艦娘達の返事が寄せられていた。『霞~、もしかしてファイル持ってった~?』という、少女提督の暢気な書き込みが、妙に浮いている。

 

 

「私達も行こうか。あっ、そう言えばさ、知ってる?」

 

 瑞鶴が携帯端末を仕舞いながら窓を閉めて、不知火を見た。

 

「今日はウチに来るコロラドさんなんだけどさ、野獣さんに一目惚れしてるらしいよ」

 

「えぇ……」

 

 不知火は思わず、素で困惑した声を漏らしてしまう。

 

「それは、何と言うか……、今の戦況にも負けないぐらい神秘的な話ですね」

 

「噂なんだけどね。何でも、野獣さんが戦ってる映像を見て、それでさ、気に入っちゃったんだって」

 

 窓に鍵を掛けながら言う瑞鶴も苦笑を浮かべていた。

 

「最近、時雨がヒンヤリした空気を纏ってる時が多かったでしょ? アレ、コロラドさんから野獣に向けて、頻繁に通信が入ってきてたからだ、って鈴谷が言ってた」

 

「……それで結局、野獣司令はコロラドさんとコンタクトを取ったのですか?」

 

「飛龍さんの話だと、一回も取ってないみたい。野獣さん、日常的に執務とかサボりまくってるから、そもそもコロラドさんから来る通信のタイミングが全部合わなかったんだって」

 

「わが鎮守府の提督ながら、とんでもないロクデナシですね……」

 

「しかも、ここからまだ話が続くんだけど、コロラドさんの通信が野獣に繋がらないのは、鎮守府に訪れた重要人物と話をしているだとか、とにかく仕事が立て込んでて時間が取れないみたいな体で、コロラドさんに話を通してあるみたいでさ」

 

「悪質過ぎませんか……? 誰がそんな事を……?」

 

「長門さんと、陸奥さんみたい。ほら二人とも、コロラドさんと同じBIG7じゃない? やっぱり、コロラドさんの幻想を壊さないための、優しい嘘って言うのかな」

 

「では、今しがた到着したと言うコロラドさんは、まさか……」

 

「うん。野獣さんのことを『毎日の激務にも一切手を抜かない、立派で模範的な軍人』みたいに思ってる筈だよ。前に、蒼龍さんが通信端末越しにコロラドさんと話をしたことあるんだって。その時にコロラドさん、『野獣提督に、はやく逢いたいわ』って言ってたらしいし」

 

 目を伏せた瑞鶴が気の毒そうに言う。

 

「長門さん達の優しい嘘も、悲劇の種にしかならなかったワケですか……。悲しいなぁ……」

 

 不知火と瑞鶴が、少年提督の執務室をあとにしてすぐ、また携帯端末が断続的に鳴った。艦娘囀線だ。確認すると、『もう既に花見を始めてる奴が居るんだけど』という、曙の書き込みと共に、動画が張られていた。

 

 その動画には、見ごろになった桜の木々が並ぶ、食堂裏の広場に設置された宴会会場が移されていた。美しく色づいた桜の花びらが舞い散る風流な景色のド真ん中で、海パンとTシャツ姿の男が、両手に持った缶ビールを交互に飲んでいた。野獣だ。動画の中の野獣は撮影している曙に気付き、両手に持った缶ビールを交互に飲みながら近づいてくるところで動画は途切れた。……ホラー動画かな? 不知火は絶句しながら端末を懐に仕舞いなおしたところで、瑞鶴と目が合う。

 

「コロラドさん、大丈夫ですかね? この動画の男が、コロラドさんの頭の中に居る野獣司令を上書きしてしまうと思うと、居た堪れないのですが……」

 

「まぁ、“花盛りの鎮守府にようこそ”って感じだよね」

 

 瑞鶴が肩を竦めながら笑った。その笑顔の奥に、何の含みも憂いも無いのはすぐに分かった。つられて、不知火も笑ってしまう。こんな風に純粋な笑顔を取り戻せるなんて、2年前には誰も思わなかったことだろう。

 

「不知火!! 瑞鶴も!!」

 

 大きな声を掛けられた。背後からだ。瑞鶴と一緒に振り返ると、霞が走り寄ってくるところだった。脇に大きめのファイルを抱えた彼女は、まさに血相を変えると言った様相だ。ついさきほどの艦娘囀線の、少女提督の書き込みを思い出す。ファイルを持って行ったかと、霞に問う内容だった筈だ。だが、今の霞の必死な様子からは、のんびりと艦娘囀線を覗いているということもなさそうだった。

 

「やっと見つけた……!」

 

 霞は不知火と瑞鶴に追いつくやいなや、すぐに脇に抱えていたファイルを開こうとして、ぐっと思いとどまるように動きを止めた。そして、真剣な眼差しで不知火と瑞鶴を見た。霞の瞳には潤むような光が蹲っていた。

 

「二人に、見て貰いたいものがあるの」

 

 一度唾を飲み込んで喉を震わせた霞は、自分を落ち着かせるように言う。

 

「……このファイル、アイツが暴走した日に撮られた映像から、術式解析とかを行う為に写真に変換されたものみたいなんだけど」

 

 霞の言葉に、不知火と瑞鶴は身構えてしまう。身体が強張り、2年前の景色が頭の中に蘇り、口の中が急速に乾いていくのを感じた。不知火は咄嗟に、霞がファイルを広げようとするのを拒みそうになるが、その霞の声音や眼の色の中には、大きな高揚と喜びを察することが出来た。そのおかげで、過去への忌避感よりも好奇心が勝った。それは、無言で不知火と目を合わせて来た瑞鶴も同じだったようで、二人で一緒に、霞が手にしたファイルを覗き込んだ。

 

「これよ……」

 

 声を震わせた霞は、ある写真を指差して見せた。そこに映っているのは、あの日、最後まで暴れていたレ級が逃げて行こうとしているところだ。あの時のレ級は、追い詰められているように振舞いながらも、その実、十分な余力を持って戦場の中を立ち回っていた。その証拠に、霞が指差した写真の中でもレ級は、追撃を仕掛けようとする艦娘たちを大きく引き離すバックステップを踏み、乱戦の場を離れようとしている。

 

 この場面は、あの日の戦闘の、本当に最後の最後、終わりの場面だ。艦娘達の勝利が確定した場面であり、術式解析で扱うような場面でもなければ、わざわざ確認しなおすような場面でもない。そもそも、肝心の少年提督は不知火によって撃破されているのだから、この場面の映像から汲み取るものなど何もない。展開された術式も映っていないから、他の写真のように注釈も一つも付いていない。空白の一枚だ。だから、見落とした。

 

「あっ!」

 

 まず声を上げたのが瑞鶴であり、不知火もすぐに息を呑んだ。レ級の尻尾の艤装獣の、牙の隙間だ。艤装獣が何かを咥えている。炎と粉塵に隠れていて見えにくいが、よく見れば、それが人間の腕であることが分かる。幾何学文様の入った右腕と、右手だ。少年提督の右腕である。

 

「最後まで、レ級がアイツの隣に居たのは意味が在ったのよ」

 

 掠れて震える声を出す霞は、自分が笑いながら涙を流していることに気付いていないだろう。

 

「アイツ、前に言ってたわ。僕の身体は塵になっても復活するって。だから、最後の最後に、自分の体を回収してくれるヤツが必要だったのよ。こっちに残されたアイツの死体は、全部再生も復活もしてない。でも、レ級が持ち去った右腕から、アイツが生き返る可能性は十分に在るわ!」

 

 この写真に写っているものを理解するのに、時間が掛かった。

 

「曙のお願い、ちゃんときいてくれたんだね。提督さん」

 

 霞に負けないぐらい声を震わせた瑞鶴が、不知火の肩を抱いてくる。茫然と写真を見詰める不知火は、曙の叫びを思い出す。『何処か遠いところで適当に死んじゃえ』と曙は叫んでいた筈だ。その言葉とは反対のメッセージを籠めれば、『何処か遠いところで何とか生き延びろ』となるのだろうか。

 

 そうか。彼は。生きているのか。そう思った瞬間、視界がぐちゃぐちゃに歪んだ。パタパタと音を立てて、ファイルの上に涙が落ちる。溢れて止まらなくなった。揺れる視界の中で、写真の中に居るレ級が、バックステップを踏む姿勢の指先で、ドローンに向かってピースサインを取っていることにも気づいた。フードの奥にあるレ級の視線も隠れてはいるが、明らかにカメラを見ている。

 

「私さぁ、カメラ目線はNGって、南方棲鬼にぶん殴られたんだけど」

 

 瑞鶴は洟を啜り、懐かしい笑い話を披露するような明るい声をだした。

 

「じゃあきっとレ級の奴も、南方棲鬼に殴られたんじゃない?」

 

 霞が笑って、涙を腕で拭った。一番泣いているのは不知火だった。止まっていた時間と感情が一気に動き出し、今の日常に追いついてくるかのような感覚だった。感情をコントロールできない。それでいいと思う。人間だって、感情のコントロールなど出来ない。心の中に湧き上がってくる悲しみを、喜びに変えたりできない。ただ対処するだけだ。自然と、不知火達は抱き合っていた。少年提督が生きている。これを知ったらきっと喜ぶだろうという仲間たちが、あの時から一人も欠けることなく、この鎮守府に居ることが嬉しかった。不知火はそれを幸福に思う。

 

 もちろん、コロラドや新しく着任してくる艦娘たちに大っぴらに伝えることではない。少年提督はこれからも、残忍で冷酷な魔人として語り継がれるだろう。人々の記憶の中にある逸話の中で、人類の裏切り者として暴走を繰り返すだけだ。悪人として死ぬとはそういうことなのだろう。彼の積善の余慶として艦娘達が受け取る時代の恵みが、彼の優しく思慮深い人格を、世間の認識の中に恢復させることも無い。彼は永劫に赦されない。

 

 それでも、彼が生きてくれていることは嬉しかった。そして、不知火も生きている。この鎮守府の艦娘達も、全員だ。だから、バッドエンドではない。ハッピーエンドに向かう途中なのだと信じたい。この日々が続いていくことは間違いないのだ。左手の指輪を想いながら涙を拭う不知火の懐で、艦娘囀線に書き込みが在ったことを知らせる電子音が、また何度か響いた。

 

 










今回の更新で、一応の完結とさせて頂きたいと思います。
皆様からの暖かい応援に支えて頂くだけでなく、完結まで見守って頂けた私は、本当に幸福でした。エピローグ的な話を一つか二つ、更新できればと思います。

今は本当に大変な状況ではありますが、どうか皆様も健康にお気をつけ下さいませ。
今回も最後まで読んで下さり、本当にありがとうございました!

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