花盛りの鎮守府へようこそ   作:ココアライオン

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エピローグ 1

 

 

 

 

 

 

 

 

 海の底から水面へと体が引き上げられるかのように、ゆっくりと意識が浮上してくる。身体の感覚は在る。潮の香りがする。それに、微かな風の動きを肌に感じた。自分が仰向けに横たわっていることが分かる。手を動かす。脚も動く。身体を起こそうとすると、頭の奥が鈍く痛んだ。瞼も重いが、青白い光を感じた。懸命に目を開ける。ぼんやりとした視界は狭い。

 

 不知火は、自分が生きていることを理解するのに少しの時間が必要だった。

 

 此処は何処だろう。掠れた視界の中に目を凝らす。少し遠くに、ごつごつとした岩肌が見える。岩の天井だ。洞窟という陳腐な言葉が、じんわりと沁み出してくるように頭に浮かぶ。上半身を起こす。体に痛みは無かった。むしろ、違和感を覚えるほどに軽い。修復・治癒術式の施術を受けた時などよりも、遥かに身体に活力が満ちている。頭の奥の鈍痛だけが妙に現実的だった。

 

 不知火は自分の体を眺めてから、気付く。不知火は、岩肌の上に直接寝ていたのではない。木材を組んで作られた寝台だった。そこに敷かれた、簡素だが清潔なマットの上に不知火は横たわっていたのだ。今更になって岩肌の天井を見上げると、象牙と琥珀色の微光を放つ術陣が描かれていた。術陣から降りくる微光は明滅しながらこの空間に溶け込み、空気の清潔さを保ちながら、艦娘の肉体を活性化させる霊気を溢れさせている。このドームの中に居る限り、不知火の肉体は病魔や衰微に侵されることはまずないだろう。状況的に、細心の注意を払って不知火を安置しようとする何者かの意思が窺えた。

 

 此処は何処なのだという思いが、より強まる。掠れる視界を更に動かす。

 

 暗がりの奥に、岩肌の壁があるのが分かった。どうやら此処は、トンネルのような狭い洞窟ではない。形としてはドーム状だ。それなりに広く、明かりが在る。青白い光が、松明よろしく岩肌に点々と灯り、淡い明滅を繰り返している。その非物質的な光の揺らぎは、陽の光を水面に透かしたかのように不定形な波模様を岩肌に映し出しており、このドームの洞窟内に幻想的な雰囲気を作り出していた。

 

 そこで、ハッとする。青白い光の揺らぎに誘われるようにして、最も近い記憶が立ち上がってくる。深海棲艦と戦闘していた記憶だ。レ級の姿が思い浮かぶ。「シシシシ!」と肩を揺らして、独特な笑い方をするレ級だった。確か自分は、撤退する仲間たちの殿となって、レ級を引き付けたのではなかったか。そうだ。シーレーンを行く船団の護衛に就いていた自分たちの艦隊は、深海棲艦と遭遇したのだ。

 

 思い出された記憶はすぐに鮮明になり、戦闘時の緊張が鼓動の中に蘇った。重なる砲撃音と、うねる波の飛沫、味方の怒号が耳の奥で木霊し始める。息が速くなる。目を瞑って、掌で顔を覆う。もう一度、自分の身体を見下ろす。戦闘で負った筈の傷も肌から消えていて、艦娘装束を汚していた筈の血や汗の汚れも無く、破れた形跡も無い。肉体も衣服も新品に生まれ変わったかのようだった。混乱しかける頭の中で、落ち着けと自分に言い聞かせながら、改めて記憶を辿る。

 

 船団の乗組員に犠牲者は無かった筈だ。少なくとも不知火が思い出せる範囲では、戦場となった海域から離脱できるよう、仲間の艦娘達が動いていたし、被害は無かった筈だ。不知火達の艦隊の艦娘は、撤退する船団を護衛する者と、深海棲艦達からの追撃を阻む者に分かれた。

 

 相変わらず、遭遇した深海棲艦達からは殺意や敵意は見られなかった。だが、以前よりも彼女達は、遥かに強くなっていた。深海棲艦達の練度が上がったとでも言えば良いのだろうか。海の方々で出現する深海棲艦達は、明確に統率の取れた動きを見せるようになるだけでなく、個々の再生能力も段違いに上昇しており、艦隊としての隙が全く無かった。それなのに、彼女達の砲撃は艦娘に決して命中しないような出鱈目な方向へ放たれることが殆どであり、深海棲艦の艦載機もふらふらと飛んでいるだけの的のような風情が在った。

 

 深海棲艦達には、不知火達を駆逐し、船団に追撃を仕掛けるようとする意思が見えなかった。それも珍しいことでは無かった。深海棲艦達は戦うためではなく、自分たちの存在を示すために出没しているのではないか。あの戦闘中に、そんな余計な思考が過ったのは恐らく、疲労が溜まっていたからだ。深海棲艦の足止めとして残った艦娘達が撤退すべく転進し、不知火がその殿を務めた時だった。深海棲艦の艦隊の中からレ級が突出して来た。

 

「シシシシ!」と子供みたいな笑顔を浮かべるレ級は、他にも艦娘が居る中で、不知火だけを見ていた。その目つきはまるで、遠くから古い友人に似た誰かを見つけ、いや、もしかしたら友人本人なのではないかと見詰めてくるような、緊張感の無い期待と高揚が窺えたのを覚えている。

 

 撤退する仲間の殿を務め、レ級を引き付けるべく戦闘を開始した不知火は、すぐにレ級の砲撃を喰らうことになった。普通なら回避できた砲撃だったし、反応もしていた。しかし行動が遅れたのは、やはり疲労のせいだろうと思い返すのと同時に、自分の左半身が粉々になる瞬間の生々しい映像がフラッシュバックした。「ちょ!? 嘘ぉ!? (レ)」などと、攻撃を受けた不知火よりも、レ級の方が大いに焦っていたのも思い出す。

 

 不知火は、自分の両手を眺めてみた。

 血の通う肌の色をしている。傷も無い。

 

 自分は、あの時に死んだ筈だ。でも、今は生きているのは間違いない。生き返った? 何故? どうやって? 何が起きている? 思考の中に次々と疑問が浮かんでくるが、分からないことばかりだ。深呼吸をする。瞑目し、再び過去の記憶に目を凝らそうとするが、自分の身体がレ級の砲撃によって砕かれるところまでしか見えなかった。

 

 背後の、少し離れたところから硬い足音が聞こえてきたのはその時だった。ベッドから飛び降りて振り返る。岩肌の壁面に大穴が開いている。その向こうに、通路代わりの空間があるのだろう。足音は其処から響いてきている。巨体を誇る軍馬の蹄が、石畳を重く叩きながら踏みしめているかのような、それでいて、幼い子供が軽やかにスキップを踏むかのような足音でもある。近づいてくる。深海棲艦か? 

 

 息を潜め、その足音の動きを探っていた不知火は“抜錨”し、艤装を召ぼうとした。しかし、出来ない。“抜錨”状態になれない。気を失っている間に、不知火の肉体が何らかの処置を受けたのか。焦る。だが、それも一瞬だった。冷静になる。退路を探す。このドーム状の岩部屋に、出口は一つしかない。足音が響いてくる穴だけだ。逃げ場はない。武器も無い。積極的に戦闘を行うよりも、まずは大人しくして見せるべきか。不知火が殺されていない今の状況を見るに、すぐに戦闘にはならないのではないか。

 

 不知火の頭の中で思考が巡る。だが、“抜錨”も出来ない状態では、どうあっても先手は取れそうにない。様子を見るしかないのか。不知火はスッと重心を落とす。汗が頬を伝う。覚悟を決める思いで、一つ呼吸をした時だった。壁面に空いた穴から、ソイツがひょこっと顔を出した。

 

「(^ω^) お! (レ)」

 

 レ級だ。起き上がっている不知火を見て、フードの奥で無邪気そうな表情を浮かべている。暢気な笑顔だ。安堵と喜びが見える。それは、不知火が回復したことに対してだろうか。馬鹿な。余計な考えを頭から振り払い、不知火は内心で舌打ちする。

 

 レ級が相手ならば、一対一で勝てる見込みは無い。もしも戦闘になれば、どうにか隙を見つけるか作るかして逃げるしかない。しかし、“抜錨”もせずに逃げ切れるのか。すぐにでも動き出せるよう姿勢を落としたまま唾を飲み込む不知火に対して、レ級は明確な敵意も殺意を向けるでもなかった。襲い掛かってくることも無い。それどころか、ガバっと頭を下げて見せた。

 

「スマン! (レ) 許してや、城之内(レ)」

 

 一瞬、何が起こっているのか理解できなかった。もしや自分は、深海棲艦から謝罪を受けているのか。不知火は、そんなまさかという思いで、目の前で頭を下げるレ級を見詰める。言葉が出てこない。レ級は、硬直する不知火をチラリと見上げてから、もう一度、「すみましぇん! (レ)」と深く頭を下げてみせる。

 

 レ級の行動を、どう捉えればいいのか分からない。深海棲艦が、艦娘の心配をするなど在り得ない。不知火は今までの常識に従い、そう考えた。だが、不知火に対して轟沈必死のダメージを与えてしまったレ級が、酷く焦った声を出していたのを頭の端で思い出す。自分の身に起こっている状況が上手く理解できない。

 

「『“……もう眼を覚まされたのですね”』」

 

 レ級に気を取られているうちに、別の何者かが穴の向こうから現れた。不知火は全身が総毛立つのを感じた。こちらにゆっくりと歩み寄ってくるのは一人の青年だった。黒い提督服を着ている。さらにその上から、複雑な文様が描かれた白地の法衣を纏い、フードを目深く被っている。顔の下半分までしか見えない。彼の、形の良い唇が微笑みを作っている。優しい微笑みだ。不知火に対する害意は微塵も見えない。それでも、不知火は後ずさってしまう。

 

 不知火は、己の戦意が折れる音を生まれて初めて聞いた。

 

 目の前の青年は、違和感の塊だった。浅い呼吸をする不知火が瞬きをするたびに、波が念々と姿を変えるように、彼の印象も変わる。姿は変わらないのに、彼は少年にも、少女にも、老人にも見える。とにかく一定じゃない。口許に微笑みを湛えたままの彼は、周囲の時間や法則を解体しながら無理矢理にこの場に存在を割り込ませているかのような不自然さと、何者にも触れ得ない超越的な雰囲気を同時に纏っている。恐れよりも、畏怖を覚えた。内臓が縮まる感覚だった。

 

「『“御身体に不調はありませんか? ”』」

 

 彼の声には、幾人もの声が十重二十重に残響するかのような、深い響きを湛えている。不知火を見ているレ級は嬉しそうな表情のままで、何も言わない。青年も不知火を見詰めてくる。息が詰まった。何とか唾を飲み込む。不知火は、自分が何かを喋る番なのだと理解する。沈黙を貫くべきかとも思ったが、黙っていても状況が見えないことも確かだった。

 

「……何者だ」

 

 不知火は青年の問いには答えず、自分の声が震えるのを抑えながら訊く。暢気な表情のままのレ級が手を頭の後ろで組み、不知火と青年を見比べている。青年が、「『“何者か……、ですか”』」と、何かを思案するかのように顎に手を振れた。この場で緊張しているのは不知火だけだ。

 

「『“僕はもう、何者でもありませんが……、そうですね、強いて言うのであれば”』」

 

 其処まで言った彼は、レ級を一瞥した

 

「『“彼女達の……、深海棲艦の提督、とでも言えば良いのでしょうか”』」

 

「おうよ! (レ) それで合ってるわ! (レ)」

 

 レ級が頷き、「シシシシ!」と笑った。青年も微笑みを浮かべる。一瞬だけ、フードの奥に覗いた彼の瞳は、紫水晶のような玲瓏な光を湛えていた。

 

「『“先ほどと同じ質問をさせて貰いますが、御身体に不調は在りませんか? ”』」

 

 深海棲艦の提督だと言う青年は、レ級に見せる穏やかな微笑みを崩さないままで不知火に向き直った。重複した響きを宿した彼の声は不吉でありながらも、年老いた医師が患者を心配するかのような、落ち着いた優しさに満ちていた。不知火を欺き、何らかの罠に誘おうとする意思は見えない。或いは、わざわざ駆け引きを行うような相手と見做されていないだけなのかもしれない。不知火は、自分が必死に抱こうとしている反抗心が酷く無意味に思えた。

 

「……身体に不具合はありません」

 

 この青年に従順さを見せるつもりも無かったが、虚言を弄する意味があるとも思えず、正直に答えた。

 

「元気になったお(^ω^)! そうなったお(^ω^)!」

 

 はしゃいだ声を出したレ級は、トテテテと無警戒に不知火に近づいてきた。思わず身構えてしまう。レ級は不知火の頭から爪先までを、怪我が残っていないかを確認するように眺めてから、また「シシシシ!」と笑った。青年も頷く。

 

 

 素直そうに言う青年を、不知火は睨む。

 

「……貴方が、不知火を助けたのですか?」

 

 自分は死んだ筈だ。だが、生き返った。それは、目の前の青年の仕業であることは間違いないのだろう。

 

「『“僕たちは、貴女を敵だと思っていませんから”』」

 

「それは、どういう……」

 

 不知火が言いかけたところで、傍に居たレ級が不知火の手をグイグイと引いてきた。「晩御飯、一緒に食べような? な? (レ)」と、楽しそうに言うレ級の無邪気さは、不知火が漲らせている警戒心を軽々と飛び越えてくる。その手を振り払う間も、当惑を見せる暇もない。というか、すごい力だ。

 

「なっ、待っ、待って下さい!」

 

 踏ん張ろうとするが、“抜錨”状態になれない不知火では、レ級に抗う術などもとよりない。まるで腕白な大型犬を散歩に連れ出した少女が、手にしたリードごと犬の力に引っ張られていくかのように、不知火はレ級に引き摺られていく。場違いな長閑さを醸し出すレ級の御蔭で、不知火の制止を求める声は洞窟内に虚しく響くだけだった。その様子を見ていた青年がフードの奥で、懐かしい景色に息を漏らすような、微かな笑みを零す気配が在ったが、不知火は振り返ることも出来ないまま洞窟の通路へと手を引かれていく。

 

 レ級の勢いに負けて手を引かれるままの不知火の後を、青年はゆっくりと付いてくる。洞窟内の通路には、先ほどのドーム状の部屋と同じく、明かりとしての青白い光が連なっていた。空気が澄んでおり、風の流れを感じた。それに、大きな気配も。この洞窟の出口が近く、其処に、他の深海棲艦が居るのだろう。それが“鬼”や“姫”クラスの上位体であることも予想出来る。知らず、唾を飲んでいた。

 

「“そう身構えなくとも大丈夫ですよ”』」

 

 穏やかな青年の声が、背後から聞こえる。楽しそうなレ級に手を引かれたままの不知火に、返事をする余裕は無い。気配が近くなってくる。坂道になった通路の向こうに暗がりが見えた。それが、雲の無い夜空であることに気付く。星が瞬いている。雲は無い。この洞窟の出口だ。レ級に連れられて外に出る。森、というよりも、林の中に出た。洞窟を振り返ってみる。その入り口は、岩山にぽっかりと口を開けた洞穴といった風情だった。草木の持つ緑の匂いを、潮風が乱暴に運んできた。周りの木々が揺れ、その奥に波の音が聞こえる。近くに海があるのが分かった。

 

「ん、……目が覚めたのか?」

 

 洞窟から出てすぐに、横合いから声を掛けられた。難しそうな表情を浮かべた重巡棲姫だ。手に、ストローの付いた容器を持っている。ファストフード店でジュースが入っているものによく似ているが、その中身はジュースなどでは無いのだろうと予想できる。

 

 思わず体を強張らせて身構えそうになる不知火の前で、「そうなんでーちゅ! (レ)」とレ級が嬉しそうな声を出した。能天気そのものと言ったレ級の様子を一瞥した重巡棲姫は、不知火を視線だけで見てから、「……お前もエライ目に遭ったな」と、気の毒そうに言ってくれた。少なくとも、不知火を排除しようとする敵意は感じなかった。

 

 深海棲艦の資料の中で見た重巡棲姫は、その目つきも狂暴で、大蛇のような艤装も禍々しく、恐ろしい存在にしか思えなかった。だが、眠そうな眼でストローを口に咥えて、ズゾゾゾ……と容器の中身を啜っている目の前の重巡棲姫の姿からは、同じような印象を抱きにくい。むしろ、親近感すら覚えそうになる。

 

「『“彼女の肉体と精神の同期が、僕の視た未来よりも早まったようです”』」

 

 何も言えないままの不知火の背後で、青年が言う。

 

「で、どうするんだ?」

 

 重巡棲姫が青年に目を向ける。

 

「この不知火をドロップ艦として艦娘達に渡すには、明後日の昼頃なんだろう? 意識が戻っているというのは不味いんじゃないのか?」

 

「『“問題はありません。明日は戦艦水鬼さんを旗艦として、予定通り出撃してください”』」

 

 青年は、まるで誤差を楽しむかのように軽やかに重巡棲姫に答える。迷いがない。「まぁ、提督が言うなら、それに従うだけなんだがな」と、重巡棲姫はストローを口から放して、軽く鼻を鳴らした。

 

「あぁ、それと、そろそろ夕飯ができるぞ」

 

「『“呼びに来てくれたんですね”』」

 

「提督が居る時は全員揃ってからイタダキマスをするんだと、ほっぽのヤツが五月蠅いんだ」

 

「『“分かりました。……では、行きましょうか”』」

 

 不知火が肩越しに振り返って見た青年の微笑みは、やはり優しいものだった。不知火達は、重巡棲姫を先頭にして林の中を歩く。足元の地面には細かい砂の感触がある。すぐ近くが砂浜なのだろう。不知火達は林の中を歩いていく。木々の間を縫うように、青白い光の球が宙に漂いながら連なり、眩しすぎない程度に周囲の暗がりを照らしている。そのおかげで、夜の林の中であっても完全な暗がりに飲み込まれている訳ではない。

 

 これらの光球を展開しているのは、やはり背後に居る青年なのだろうか。殆どバラバラであった不知火の身体を再生し、蘇生させるような治癒術式を扱えるのであれば、照明代わりの術式を編み出すなど容易いに違いない。不知火がもう一度、深海棲艦の提督を名乗る青年へと、肩越しに背後を振り返ろうとした時だった。

 

「『“そう言えば、今日の夕飯は……”』」

 

 青年が長閑な声を出した。

 

「餡掛けチャーハン! (レ)」

 

 今まで黙っていたレ級が、ここぞとばかりに力強い声を出す。

 

「全然違うぞ。カレーだ」

 

「えぇ!? なんで!? (レ)」

 

「何でって……、食材が手に入ったからだろうが」

 

「『“カレーは苦手ですか? ”』」

 

 重巡棲姫とレ級が言い合っているうちに、青年が不知火に訊いてくる。レ級に手を引かれるままの姿勢で青年に振り返ったが、なんと答えればいいのか分からなかった。深海棲艦に捕まっている状態で、カレーが苦手かなどを訊かれるなど、余りにも想定外で現実感が無い。

 

「いえ、苦手ということは……」

 

 不知火は上手く答えることが出来ず、青年から視線を外そうとした時だった。青年の右手の甲に、複雑で禍々しい、幾何学的な紋様が刻まれていることに気付く。その黒い紋様を見た一瞬あとに、2年ほど前の暴走事件を思い出した。レ級に手を引かれるままの不知火が思わず、フードで上半分が隠れた青年の顔を凝視してしまったのと同時だったろうか。

 

 不知火達が歩いてきた林が途切れて、広々とした浜辺に出た。潮風が不知火の頬を強く撫でて行く。黒々とした海が波音を運んでくる。砂浜に明かりが在る。今までの見てきたような光球によるものではない。炎の揺らぎだった。夜の浜辺の真ん中で、火を焚いている者が居る。野外用の調理器具らしきものが幾つか、焚火の周りに見えた。不知火が今の状況でなければ、家族連れが浜辺でバーベキューでも楽しんでいるように見えたかもしれない。だが、今の状況ではそんな筈はなかった。砂浜に映る幾つかの人影が、此方に向き直る気配が在った。

 

 やはり、深海棲艦達だ。

 

 戦艦棲姫に、戦艦水鬼、それに、集積地棲姫や港湾棲姫、北方棲姫が、焚火の周りに置かれた岩や巨大な木の幹らしきものに腰掛けている。他にも、南方棲鬼、空母ヲ級、空母棲姫の姿もある。空母棲姫だけが、他の深海棲艦たちから少し離れた場所に腰掛けていた。何処か居心地が悪そうに見える。

 

 彼女達の視線が不知火に流れ込んでくるのが分かった。不知火は歩きながら、薄く、長く息を吐きだす。あれだけの戦力を前に隙を作るか見つけるかして逃げ出すなど、どう転んでも不可能だ。改めて死の覚悟をする。潮の香りに、カレーの匂いが混ざる。焚火に近づくと、その火でカレーを煮込んでいる鍋があるのが分かった。それに、木組みに吊るされた大きめの飯盒が幾つか並んでいる。まるっきりキャンプの食事風景だ。

 

「『“お待たせしました”』」

 

 青年が穏やかな声で彼女達に言うと、深海棲艦達が立ち上がり、敬礼に似た所作を行おうとした。青年はそれを、少し慌てた様子で「『“あぁ、座っていてください”』」と制する。戦艦棲姫が、そんな青年と不知火を見比べて微笑みを見せた。

 

「……目を覚まされたのですね」

 

「おうよ! (レ)」

 

 レ級が胸を張り、「何でお前が偉そうなんだ?」と、重巡棲姫が続いた。青年は戦艦棲姫に一度頷いてから、他の深海棲艦達を見回す。

 

「『“彼女をドロップ艦として、艦娘の皆さんのもとへと戻って貰う予定は変わりません。明後日には、幾つかの艦隊がこの島を包囲し、上陸してくるでしょう。そのタイミングで、彼女を発見して貰いましょう”』」

 

「……つまり、私達はいつも通り、適当なところで撤退すれば良いんだな?」

 

 脚を組んで朽木に腰掛けた集積地棲姫が、くいっと眼鏡のブリッジを押し上げながら冷静な声で言う。青年が顎を引いた。

 

「『“そうなります。いつも無茶ばかり言って申し訳ありません”』」

 

「いちいち気にするな。私はレ級と違って、腕力にモノを言わせるタイプじゃない。相手を打ちのめすより、距離を取る方が気楽な性分だ」

 

 軽い笑みを混じらせて言う集積地棲姫に続き、北方棲姫が「撤退戦! ほっぽ得意!」と両拳を力強く掲げるポーズを取った。「では、退路の確保と、艦娘の追撃を払うための殿は、私が」と、困り眉を作った港湾棲姫が片手を挙げ、もう片方の手で北方棲姫の頭を撫でる。港湾棲姫の腕は巨大なガントレットのように狂暴な形状をしているが、北方棲姫の頭を撫でる彼女の手つきは非常に優しく、北方棲姫も気持ちよさそうに目を細めていた。

 

 港湾棲姫と北方棲姫のほのぼのとした空気が伝播し、暗がりの浜辺の雰囲気が、ふんわりと和らいだ。「私も、港湾の補助につきます」と、ヲ級がひっそりと微笑む。

 

「えぇ。お願いします」

 

 青年が頷くと、南方棲鬼が軽く鼻を鳴らした。

 

「相手にする艦娘の数が一段と多いな。轟沈レベルのダメージを負わせてしまうと、今回のように回収するのが困難だ」

 

「皆で注意を払いましょう」

 

 戦艦水鬼が南方棲鬼の言葉に続き、この暗がりの浜辺でも炯々と輝く赤い瞳で、この場に居る全員を順に見た。

 

「OK! すみませぇん! (レ)」

 

 レ級は敬礼のポーズを取ってから、もう一度不知火に頭を下げた。それに倣うようにして、空母棲姫以外の他の深海棲艦達も揃って、頭を下げて見せた。その景色に面食らいながらも、不知火は必死に状況を理解しようと頭を回転させる。

 

 彼女たちが、不知火に大きな損壊を与えてしまったことに対して、誠意をもって詫びてくれているのだろうというのは察することが出来た。ただ、察することが出来たところで、不知火にはそれに応える言葉が見つからない。今まで殺し合って来た相手が突然、傷を負わせて申し訳ないと謝ってきたら、まずは何らかの企てを疑うだろう。

 

 不知火は深海棲艦達を順に見る。彼女達に、不知火に対する敵意は見えない。いや、駆逐艦一人など、殺意を向ける必要すらないと判断されているのだろうか。混乱してしまう。少し離れた所に居る空母棲姫も、奇妙なものを見る目で此方を見ていた。不知火が立ち尽くしていると、くぅぅ……、という可愛らしい音が聞こえてきた。重巡棲姫からだ。お腹が鳴ったらしい。不知火に頭を下げたままの彼女の頬が、少し赤いような気がする。

 

「カレー! 食べよう!」

 

 がばっと顔を上げた北方棲姫は、もう待ちきれないと言った風に、この場の全員の顔を見回してから、キラキラと瞳を輝かせて青年を見詰めた。青年は緩く息を吐き出してから北方棲姫にゆっくりと頷いて「『“……では、食事の時間にしましょうか”』」と、微笑みを深めた。

 

 

 

 本当に、どんな経験をするか分からないものだと思う。

 

 まさか深海棲艦と肩を並べてカレーライスを食べる日が来るなんて、考えたことも無かった。不知火は手の中にある大きめの皿に盛られたカレーを見詰める。シーフードカレーだった。大きめの具がゴロゴロと入っている。本格的だ。カレーをよそい分けていた青年の姿は、さっきまでの超然とした雰囲気を掻き消すほどに所帯じみていて、妙に似合っていた。

 

「このカレーの材料は……、一体どこから……」

 

 思わずというか、気付いた時には不知火は、隣で岩に腰掛けている集積地棲姫に訪ねていた。

 

「あぁ。シーレーンで乗り捨てられた船の中から拝借したんだ。腐らせるのも勿体ないだろう?」

 

 集積地棲姫は手にしたスプーンでカレーと米を掬い、ふーふーと息を吹きかけながら暗い海の彼方を一瞥してから、不知火を横目で見た。蒼い光を湛えた彼女の瞳の中で、焚火の橙が揺れている。幻想的な色をしていた。

 

「ついでに言えば、船体や積み荷なども解体して、私達の物資として使わせて貰っている。お前たち艦娘が船の回収をしに来るまで、幽霊船として放置しておくことも考えたんだが、海にとっては有害でしかないからな」

 

 そこまで言った集積地棲姫は、カレーライスを一口食べる。「美味いな」と零した彼女の顔は僅かに綻んでおり、食事を楽しんでいるのが分かった。そんな集積地棲姫の様子を凝視していると、彼女が怪訝そうに視線を返して来た。

 

「どうした? 食べないのか?」

 

「いえ……」

 

 不知火は手の中にあるカレーに、再び視線を落とした。

 

 艦娘はシーレーンを行く船団を護るが、深海棲艦と遭遇して戦闘になった際、砲撃の流れ弾が船体にあたり、航行不能になる船という話は珍しくなかった。そんなときも、艦娘達が深海棲艦を引き付け、その隙に乗組員たちは同じ船団の船に移り退避することが出来ていた。人的被害は今まで出ていなかった筈だ。航行不能に陥った船はそのまま乗り捨てられていたが、集積地棲姫の言葉を信じるなら、そういった船の冷蔵・冷凍機材に残されていた食材を使い、このシーフードカレーを作ったということだ。

 

「普段から、こういった食事をしているのですか?」

 

 不知火が再び集積地棲姫に訊ねると、彼女は緩く首を振った。

 

「普段からという程、頻繁ではない。海水から塩を作ったり、魚を採って食べることもあるがな。料理と呼べるようなものを作るの稀だ。まぁ、本音を言えば、美味なものなら毎日でも食べたいんだが」

 

 ちなみに、この皿もスプーンも私が作ったんだ。そこまで言い終えた集積地棲姫は、さらに一口、二口とカレーを口に運び、美味しそうに咀嚼する。自身の身体が持つ“味わう”という機能を存分に堪能している様子の彼女は、ペロッと唇の端を舐めてから、不知火の顔と、不知火の持つカレーを見比べた。

 

「艦娘の中には食事に興味がない者達も居るそうだが、お前もそうか?」

 

「……そうですね。あまり、重要な要素とは思っていません」

 

 不知火が答えると、「そうか。そう考えるのも、別に悪いことではないな」と、集積地棲姫は一定の理解を示した上で、「だが、知識と経験は多くても損はない」と言葉を繋いだ。

 

「食べたくないなら食べなくてもいい。どれだけ残ろうが、どうせレ級あたりが全部平らげてしまうからな。だが折角だ。良いことを教えてやろう。カレーは暖かい内に食べる方が美味いんだ」

 

 集積地棲姫は自分の経験を語る口振りで言う。

 

「ついでに言えば、最初の一口が、一番美味い」

 

「……果物でも食肉でも、最初の一口が最も甘く感じるというのは聞いたことがあります」

 

「なんだ、知っているのか」

 

「ついでに言えば、食事の経験も在ります」

 

「なら話が早いな。冷めないうちに食べると良い」

 

 唇の端を持ちあげた彼女は言い終わると、またカレーを食べ始める。不知火は周りに視線を動かした。他の深海棲艦達も行儀よく姿勢を正し、美味しそうにカレーを食べている。いや、空母棲姫だけがカレーを食べていない。

 

 彼女はまるで不可解なものを見詰める顔になって、手にしたカレーの皿を睨み、時折、周囲の仲間たちの様子を視線だけで窺っている。見るからに食事の経験が無いことが見て取れる。また、くぅぅ……と、可愛らしい音がした。お腹が鳴る音だ。不知火は反射的に重巡棲姫に視線を向けてしまう。ご機嫌な様子でカレーにパクついていた彼女は、不知火の視線に気づいて物騒な表情を作り、「何だ?」と、威圧的な低い声を出した。食いしん坊キャラと思われることが気に喰わないのかもしれない。

 

「いえ、何も……」

 

 重巡棲姫から視線を逸らしながら答えつつ、先ほどの音が空母棲姫から出たものであることに気付く。港湾棲姫とヲ級が、空母棲姫に何かを話し掛けている。どうやら、スプーンの使い方を教えている様子だ。そこに、リスみたいに頬を膨らませた北方棲姫が近づいて行って、「カレー、美味しい!」と力説している。さきほども感じたことだが、空母棲姫だけが、明らかにこの場に馴染んでいない。

 

「アイツは、つい最近になって私達と合流したんだ。正確には、人間たちの研究所から帰って来たという方が正しいんだが」

 

 不知火が興味深そうに空母棲姫を見ていることに気付いた集積地棲姫が、小声で教えてくれた。そういえばと思う。ここ数年の間で、各地の深海棲艦研究所で立て続けに不可解な事故が続き、保管していた深海棲艦の上位体が逃げ出す事件が続いていたのを思い出す。

 

「……あれも、貴女たちが……?」

 

 集積地棲姫は肩を竦めてから、「いや、提督の仕業だ」と言う。焚火の傍に横たわった朽ち木に腰掛けた青年を一瞥した。彼は何も食べていない。ただ微笑みを湛えて、この場の景色を見守っている。

 

「表向きには事故ということになっているがな。実際のところは、提督が一人で研究機関に出向いて、深海棲艦達を解放して回っているんだ」

 

「それは……、深海棲艦の研究施設を虱潰しに襲撃しているということですか……」

 

 不知火は無意識のうちに唾を飲み込んでいた。

 

「襲撃なんて物騒なものじゃない。出迎えさ」

 

 不知火の言葉を否定するように、集積地棲姫は緩くスプーンを振る。

 

「提督は人間社会の表と裏の両方で、強力な影響力を持つ人物との繋がりが在った。本営上層部や政治家を含めてな。そういう権力の源泉を司る者達と、人間であった頃の提督の間にどんな取り決めがあったのかは、私も詳しくは知らない。だが、権力者や支配者、指導者階級の人間達は、今も提督との取り決めを遵守しているのは間違いなさそうだ」

 

「そんな……。それでは、捕えていた深海棲艦達が逃げ出しているのは……」

 

「全部、提督の予定通りのことだ。幼稚な表現ですまないが簡単に言えば、闇の組織から各地の研究所に命令が来るワケだ。“深海棲艦の上位体を、事故に見せかけて海に逃がせ”とな」

 

「信じられない」

 

「無理も無いな。上流階級の人間達は、世間を欺く嘘を作り出すのが得意だ。事故を演出する現場では、もっと複雑で繊細なシナリオが用意されている。存在しない人間が書類上でだけ処罰されているのも、それが大きなニュースにならないのも、別に珍しいことでもないんじゃないか」

 

「その話が本当なら、人間社会の裏側は深海棲艦と繋がっているということになります」

 

「まぁ、そうなるな。だが、私達が鎮守府に居る頃から、上流社会には私達との繋がりを求める者達は多かった筈だ。感謝さえされることだってあったぞ」

 

 何でもないことのように言う集積地棲姫を、不知火は横目で睨む。

 

「やはり貴女たちは、あの、花盛りの……」

 

 不知火がそう言いかけたところで、集積地棲姫が、「おっ」と興味深そうな声を出した。彼女は空母棲姫の方を見ている。不知火も途中まで出ていた言葉を飲み込み、彼女の視線の先を追う。空母棲姫が難しい表情を浮かべて、港湾棲姫と北方棲姫を交互に視ながらも、ぎこちなくスプーンを動かし、カレーを一口食べようとしていた。緊張を漲らせた彼女の様子には、美人女優がテレビ番組で、えげつないゲテモノ料理を初めて口にするかのような風情があった。

 

 空母棲姫は目をきつく閉じ、カレーを口に含んだ。もぐ……、もぐ……、という感じで咀嚼してから、とんでもない衝撃を受けた顔になって目を見開き、手の中にあるカレーを凝視し始めた。「何ダ、コレハ……、タマゲタナァ……」と、呼吸も瞬きも忘れた様子の彼女を見て、港湾棲姫と北方棲姫も何処となく嬉しそうに顔を見合わせている。

 

「一口目は美味いだろう?」

 

 凍り付いたように動きを止めた空母棲姫を見て、集積地棲姫が楽しげな声で言う。

 

「お前の皿には、提督が厚切りの牛タンを盛ってくれているだろう。冷凍されていたものだが、美味いぞ」

 

 唇の端を僅かに持ち上げた南方棲鬼が続いた。

 

「んんっ!?」

「嘘ォ!? (レ)」

 

 素で驚いた声を出したのは重巡棲姫とレ級だった。二人は自分たちのカレーの皿と空母棲姫のカレー皿を見比べてから顔を見合わせ、何か言いたげに青年の方を見詰め始めた。いや、見詰めるだけでなく、何かをアピールするように手に持ったカレー皿と青年を交互に見た。オヤツを必死にねだる超大型犬のような彼女達に、青年は口許だけで苦笑を浮かべている。

 

「お前らはこの前に存分に、と言うか、私の分まで喰っただろうが」

 

 眉間に皺を寄せた南方棲鬼が溜息を吐いた。

 

「今日は我慢して、空母棲姫に譲るべき」

 

 ヲ級も険しい表情を浮かべている。やんちゃで聞き分けのない妹達を諭すかのように言う二人の言葉に、「そうだな……」「仕方ないね……(レ)」と、重巡棲姫とレ級は再び顔を見合わせ、しょんぼりと肩を落とした。ちょっと寂しそうな表情を浮かべた二人だったが、すぐにカレーを食べることに夢中になっている。

 

 空母棲姫は顔を上げ、神妙な表情を作って見せるものの何も言わず、すぐにまたカレーを食べ始める。言葉を発しないのは、喋ると口の中の風味が逃げるとでも思っているからだろうか。そんな空母棲姫を見守りながら、深海棲艦達がそれぞれに寛いだ雰囲気を共有し、カレーを一緒に食べている。暗がりの浜辺を照らす焚火の明かりは、時折吹いてくる海風に揺らぎながらも、この場の空気を優しく暖めていた。穏やかな時間が流れている。

 

 今までに想像したことのない光景だった。

 

 ぼんやりしながら、不知火も一口、カレーを食べてみる。美味しかった。妙な懐かしさを感じるのは、一度死んで蘇ったからだろうか。空腹を覚える心理的な余裕は無かったが、カレーが美味しいと思う程度には冷静になっている自分の状態を理解した。

 

「コレガ、“美味”トイウ感覚カ……」

 

 カレーを食べていた空母棲姫が、深い実感をそのまま零すかのような声を出した。空母棲姫の言葉遣いは、他の深海棲艦達に比べて片言に聞こえる。一つ一つの言葉を確かめながら発音しているかのようでもある。

 

「オ前達ハ、イツモ、コンナ美味イ物ヲ食ベテイルノカ?」

 

「そう頻繁ではないけれど」「えぇ、時々ね」

 

 空母棲姫にゆったりとした口調で答えたのは、戦艦棲姫と水鬼だ。二人は既にカレーを食べ終えている。彼女達の上品な佇まいと静かな貫禄の中には、空母棲姫の持つ緊張や警戒を解そうとする優しさが窺えた。

 

「調理をするのは、その時々で違うな。確か、この前は私が海鮮パエリアを作った」

 

 カレーを食べ終えた南方棲鬼が、記憶を辿る顔つきで会話に混ざる。

 

「牛丼が食べたい。アレは腹だけでなく、心も満たすな」

 

 切ない表情になった集積地棲姫が、ふぅ……と息を漏らした。

 

「ぱえりあ、ぎゅうどん、ト言ウ物モ、美味イノカ?」

 

 空母棲姫が真剣な表情をつくり、他の深海棲艦を見回して訊く。「美味い!」北方棲姫が大袈裟に頷いた。「えぇ、とても」「うん。美味しい」ヲ級と港湾棲姫がひっそりと微笑む。他の深海棲艦も、誰も否定の言葉を口にしなかった。

 

「その美味いものを作り出す技術や知識は、滅ぼすより、学ぶほうがずっと良い」

 

 並々ならぬ情熱を滲ませる声で言う重巡棲姫は真剣な表情をつくり、カレーのおかわりを青年に要求していた。青年はカレーの鍋をゆっくりと掻き混ぜながら、重巡棲姫の皿を受け取っている。そこに、「俺もー! (レ)」とレ級が続く。年の離れた優しい兄が、キャンプについてきた妹の世話でもしている風情がある。

 

 人間社会の中で育まれて来た食文化に敬意を払う彼女達の様子に、空母棲姫は、未だ経験したことのない世界や分野に想いを馳せるような目つきになり、揺れる焚火に視線を移した。そしてすぐに、重巡棲姫やレ級と同じように、そっと皿を青年に差し出して見せた。

 

 食事が終わると、レ級が2組のトランプを持ち出して大富豪が始まった。楽しそうにはしゃぐレ級と、そのレ級の底抜けに明るい空気に引き摺られた他の深海棲艦達も、満更でもなさそうにゲーム興じている。焚火の明かりを頼りに行われるトランプゲームは、高級で優雅な遊戯とは程遠いものだったが、其処に居る者達の距離を縮める娯楽としての純粋な盛り上がりを見せ、それはもう、まるっきりキャンプの夜の様相だった。

 

 

 

「……生きていたのですね」

 

 トランプゲームに興じる深海棲艦達を、少し離れた場所から見詰めながら、不知火は隣に立つ青年に訊ねた。青年は答えず、深海棲艦達を見守っている。涼やかな波の音が、二人の間に在る沈黙を攫う。不知火は、青年の言葉を待つ。視線を上げると、雲も疎らな夜空に星々が瞬いている。此方を見下ろし、何かを囁き合っているかのようだった。

 

 暗がりの空から降りてくる夜風が、不知火の肌を撫でていく。不知火の髪や肌に、潮風によるべたつきは無かった。汗をかいている感触も無い。自分の身体が、常に清潔に保たれていることに気付く。不知火を蘇生させるに際して、何らかの特殊な防御術式が施されている事は推察できた。トランプゲームに興じる深海棲艦たちの身体にも傷や汚れも無く、その瑞々しい肌を見るに、彼女達もまた不知火と同じような術式が施されているのだろう。

 

「『“世間的には、死んだということになっていますが”』」

 

 

 隣に立つ青年が、響いてくる波音に声を添えるように言う。青年はゆったりとした足取りで浜辺を歩き、波打ち際に近づく。微笑みを浮かべた青年の右手の甲には、やはり、幾何学的な文様が脈打つように明滅している。

 

「その姿は……? 2年前のニュースで見た貴方の姿と、今の背格好では差が在り過ぎます。そんなに成長する筈が……」

 

「『“僕も、見た目通りの人間ではありませんから”』」

 

 不知火をはぐらかすかのような物言いだが、それは真理を突いているとは思った。確かに、彼は人間などでは決してない。目に見える姿形など、彼にとっては全く無意味なものなのだろう。この青年こそが、2年前に世界を震撼させた少年提督であることを確信する。

 

「……貴方は、何をしようとしているのですか?」

 

 単刀直入な訊き方だったが、もう不知火には、今の状況の何をどう訊ねれば良いのか分からないでいた。深海棲艦の攻撃を受けて沈んだと思ったら、どういう訳か蘇り、その後に深海棲艦からカレーを振舞われ、今は彼女達が楽しそうにトランプゲームをする姿を見詰めているのだ。理解できないことの連続での中で、恐怖や緊張といった感覚が麻痺している。

 

「『“未来を変えたいと思いました”』」

 

 青年は法衣のフードの奥から海を見詰めながら、言う。

 

「『“その為に、深海棲艦の皆さんの力をお借りしているんです”』」

 

 そこまで言った青年は、不知火に向き直った。顔の下半分しか見えないが、彼は穏やかな微笑みを浮かべたままだ。不知火は、かつてのニュースの映像を思い出す。部下の艦娘達に悪辣な言葉を浴びせかけていた少年提督と、今の青年の言動が上手く繋がらない。

 

 2年前の暴走事件は、艦娘売買の容疑によって世間から注目を集めていた少年提督が、部下である艦娘の全てを剥奪する命まで受けるほどに追い詰められ、最終的に、特別捕虜として預かっていたという深海棲艦を率いて起こしたものだと聞いている。また事件のその後、少年提督が関わったとされる凄惨な悪徳の数々が表沙汰になり、彼は歴史の裏で暗躍し続けていた怪人として、世間にも認識されていた。ただ、この青年を目の前にして話をしてみると、ニュースで見たあの少年提督と同一人物であるとは思えない。

 

「未来を変える……?」

 

「『“えぇ。僕は未来を視ることが出来るのですよ”』」

 

 本気か冗談か分からない口調で言って、青年が微笑みを深めて見せる。

 

「『“この眼が、悲劇的な未来を僕に見せたのです”』」

 

「そ、そんな馬鹿な」

 

 掠れた声を返した不知火は、その荒唐無稽な話に顔を顰めるよりも先に、広大無辺な自然に纏わる神秘に触れたような気分になった。

 

「『“あぁ、少しだけ失礼しますね。……ここからは遠いですが、夜戦で大きな損傷を負った方が居られるようです”』」

 

 青年は暗い海へと向き直り、朗々と何らかの文言を唱え始めた。読経にも似た彼の声の響きが、波音と潮風に混ざっていく。青年が右の掌を海に翳す。掌や腕に刻まれている幾何学紋様が象牙と琥珀色に明滅し、彼の掌の中に光が灯された。彼の足元の砂浜にも、複雑な術陣が浮かび上がってきている。

 

「『“艦娘の方が1人、それに、深海棲艦の方が1人……”』」

 

 青年は暗がりの海の、遥か先を見据えている。彼の掌に灯された象牙と琥珀色の光は、まるで花弁が風の中に散るかのように、暗い海の波間へとふわりと落ちた。光は黒々とした波間に冴え、折り重なる波の飛沫に溶けながら、遥かな水平線へと延びて繋がり、海全体に広がっていく。暗い海が青年の唱える声に応え、彼の持つ神秘的な力や現象を受け取り、それを波に乗せて何処かへ運び去っていくかのようだ。

 

 トランプゲームに没頭している深海棲艦達は此方の様子に気づいていない。いや、もしかしたら、深海棲艦達にとっては見慣れたというか、全く特別な光景なのではないのかもしれない。彼女たちの暢気な歓声が聞こえる中で、不知火は瞬きを忘れて、青年を見詰めていた。

 

「今のは、何を……?」

 

「『“応急処置ではありますが、遠隔で治癒術式を行いました。後ほど防空棲姫さんが、負傷した艦娘の方を此処まで連れて来てくれるので、本格的な治癒再生施術を行うのは、その時になってからですね”』」

 

 未来の時間を眺めながら、自分のすべき行動を確認するかのように青年は言う。不知火も暗い海の向こうを見遣るが、戦闘の気配はおろか、砲火の光すら見えない。不知火の目に映る黒く広大な海は黙したままで、夜空に浮かぶ月の明かりを受け止めているだけだ。ただ、この目の前の青年には、全く違う景色が見えているに違いない。

 

「不知火の身体をここまで完全に修復したのも、貴方なのですね」

 

 殆ど反射的に訊いてしまってから、不知火はハッとする。自分は一度死んで蘇ったのだ。それが、この目の前の青年の仕業だとするならば、艦娘の轟沈数0、深海棲艦の撃沈数0という現在の異様な状況も、妙に納得できてしまう。息を呑みそうになる不知火には気づかない様子で、青年は事も無げに顎を引いた。

 

「『“艦娘の方々を撃沈させてしまうような戦闘は極力避けて貰っていますが、砲撃を行う海戦では、どうしても事故のような形で大きな損傷を与えてしまう場合はあります。同じように、深海棲艦の誰かが、大きな損傷を与えられる場合も”』」

 

 不知火は眩暈と共に、レ級との戦闘を思い出す。確かレ級は、不知火に砲撃を命中させてしまい、酷く焦っていたのを思い出す。

 

「艦娘も深海棲艦も誰一人沈まない、不自然極まりない今の戦況は全て、貴方の仕業だったワケですか」

 

「『“端的に言えば、そういう事になります”』」

 

 青年の温和な微笑みに、反魂という言葉が脳裏を過る。つまりこの青年は、遍く戦場で沈みかけた艦娘や深海棲艦の肉体を再生させて、再活性を齎し、潮水に失われていく筈だった人格と命を修復してきたのだ。その途方もない御業の規模は、不知火では捉えきれない。ただ生物の限界を超えた規模の術式を軽々と扱う彼にとっては、この海そのものが巨大な入渠施設なのだろう。この青年の前ではどのような生命であれ、朽ちることなく、何もかもが瑞々しく蘇るのではないだろうかと思えた。波音がやけに大きく聞こえる。足元の地面が、波に攫われていくかのような感覚がジワジワと這い上がってくる。

 

「不知火達は一体、何の為に戦っているのですか……? この戦況の停滞は、何の意味が……?」

 

 夜風に触れる不知火の声は、頼りなく震えていた。ひどく寒い。気づけば、不知火は青年を見詰めていた。不知火は無意識のうちに、己が抱く疑問の全てに対して、この青年は答えを持っているのではないかと期待していたのかもしれなかった。

 

「『“この停滞の本質は、深海棲艦との戦争に対する人々の意識に、大きな変化を齎すための時間を作り出すものです。悲劇の未来を回避する為に、不可欠な時間でもあります”』」

 

 その期待が、あながち間違いでもなさそうであることが、不知火の動揺や混乱を鎮めてくれる。

 

「『“悲劇を回避した更に未来において、僕は、深海棲艦の皆さんが勝利する未来を観測していません。そして、人類側が勝利する未来もです。勝者は居ません。そして、敗者も”』」

 

 未来を語る彼の口調は、高名な年代史家が、歴史の移り変わりを解説するかのようだった。勝者が居ないということは、深海棲艦と人類との戦争は、いずれ停戦を迎えるということなのだろうか。何度目か分からないが、そんな馬鹿な、と思う。そもそも、未来を見通すなどと言う話自体が荒唐無稽であり、今からでも、彼の話した内容は全て出鱈目だと考えるべきなのか。口を噤んで俯いた不知火を見て、青年が小さく息を漏らすのが分かった。

 

「『“艦娘の皆さんと深海棲艦の皆さんが、同じ百貨店で買い物をするようになると言ったら、貴女は信じますか? ”』」

 

「……そんな未来が来るとは、到底思えません」

 

 顔を上げた不知火は、しかし、青年の方を見ずに、夜の海へと視線を向けて答える。

 

「『“えぇ。無理もないと思います。しかし、時代が変わるということは、価値観や常識が変化することです。人類の文明が歩んできた時間を考えれば、何が起きても不思議では在りません”』」

 

 穏やかに語る彼の声音は超然とした神秘に満ちていた。だが、その神聖さの奥には、血の通った温もりが感じられた。不知火は、じっと青年の横顔を見詰めてしまう。

 

「部下の艦娘達に罵詈雑言を浴びせかけていた人物の言葉とは思えませんね」

 

「『“あぁ。い、いえ、あれは……、その”』」

 

 何かを思い出す口調になった青年は、不知火へと顔を向けかけて途中でやめた。彼がフードの奥で左の頬を指で掻いている。今まで彼が纏っていた、相手に緊張と畏怖を強いるような超然さが、ふわりと消えた。代わりに、困ったように言葉を探す、人間らしい頼りなさが漂ってくる。

 

「『“あれは、演技なんです。本心とは真逆のことを言ったんですよ”』」

 

 中途半端に俯いた彼が、フードの奥で照れ笑うのを誤魔化すような微苦笑になったのは、その雰囲気からも明らかだった。彼は手短に、あの日の暴走事件の背後にあった真実を不知火に語ってくれた。

 

「『“今の人間社会が、艦娘の深海棲艦化現象を受け入れてなお、艦娘の皆さんと共存する道には、深海棲艦の存在が不可欠でした。未来を変えるためのこの戦況の停滞には、今……誰もが必要だったのです”』」

 

 微苦笑を浮かべながら静かに言い切る彼の声の中には、自身の行動を肯定する開き直りも、他の道を選べなかった遺憾さも無かった。何もかもを諦めた上での、消去法的な選択を後悔するでもない。ただ、自分の運命を粛々と受け入れる無私の決意だけが在る。

 

 もう、どれだけ明るい未来が訪れたとしても、“少年提督”が赦される未来は存在しない。“少年提督”は、赦されない存在として歴史に残り続ける。だが、彼はそれを望んでいる。人間も艦娘も深海棲艦も存在する未来に於いて彼は、過去の悲劇の中から人類に問いかけ続けるのだ。『人類至上主義が極まれば人間性が窮まり、僕のようなヤツが再び現れるぞ』と。

 

「聞いておいてなんですが……、そんなことを、不知火に話してしまっても良いのですか?」

 

「『“えぇ。……この夜の記憶は、一応、消させて頂きますから”』」

 

 青年が申し訳なさそうに言うのは、なんとなく予想が出来ていた。フードの奥で僅かに顔を俯かせた彼が、短く文言を唱える。すると、砂浜に立つ不知火の足元と、不知火の額の前に術陣が象られた。暗がりの海から吹く風の中に、術陣の澄んだ微光が淡く塗されていく。術陣から漏れる象牙と琥珀色をした光の粒子は、夜空の星々とささめき合うように明滅しながら、不知火の身体を優しく包んでくる。ザザザ……、と波の音が一際大きく聞こえた。不知火は、目の前に黒々と広がる海を見詰める。

 

「貴方が居る限り、この海から真実を持ち帰ってくる艦娘は居ないというワケですね」

 

「『“僕の生存を確定させる証拠は何も残していませんが、まだ時間が必要ですから。僕もこの場所から『良い世、来いよ』と、願い続けるつもりです”』」

 

「……この停滞の中で、生きる意味を見つけるのは簡単ではありませんね。記憶を消される前に訊ねておきたいのですが、この戦争は結局、いつまで続くのでしょう?」

 

「『“期間を明言することは難しいですね。強いて言うならば、そうですね……、僕が終わったと言うまで、でしょうか”』」

 

「恐ろしいことを言いますね」

 

「『“何事にも誤差はありますし、僕は独善的ですから。実のところ、今こうして貴女と会話をしている時間すら、僕は観測できていませんでした”』」

 

「貴方が観測した大方の流れから逸れていないのであれば、誤差というには些末な事態でしょう」

 

 言ってから、不知火は一度、深呼吸をした。或いは、その些末な誤差の集積こそが、未来なのもしれないと思った。視線を上に上げる。青年の編んだ術陣から漏れる光の向こうに、大きな月が浮かんでいる。丸くはない。僅かに欠けた月だ。黙ったままで此方を見下ろしている。広大な景色の一部である月の存在感は、この青年によく似ていると思った。

 

 他者からの理解を拒むでも受け入れるでもなく、ただ煌々と在り続ける。摂理や法則の奥に住まう神々が、その姿を見せずとも、存在と力を示し続けるかのように。

 

「……不知火は、もう一度、貴方に会えますか?」

 

 不知火が訊くと、青年は遥か遠くを見渡すように再び海を見遣った。数秒の無言の間を、波音が埋めていく。この1秒、そして次の1秒を、不知火は確かに生きている。不知火は、不知火として通過している。だが、眼の前の青年は、全く違う時間の中にいるのだと思えた。

 

 青年が不知火に向き直り、微笑みを浮かべる。同時だった。不知火の身体から力が抜けた。彼の編んだ術式によるものだと理解する。降り終えた雨の水が流れて、乾き、消えていくように、この夜の時間は無かったことになる。声が出ないまま、砂浜の上に崩れ落ちる。寸前に、体を誰かに受け止められた。横抱きに抱えられている。青年だ。不知火は青年の腕の中から、霞んでいく視界で彼を見上げている。彼の形の良い唇が動く。

 

「『“えぇ。会えると良いですね”』」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おい!! 起きろ!! 死んでる暇なんて無ぇぞ!!」

 

 乱暴な声が聞こえてきた。

 聞き覚えのある声だ。

 これは、確か、天龍型1番艦の……。

 そうだ。天龍の声だ。

 揺れを感じる。

 

 目を開けると、此方を見下ろしてくる天龍と目が合う。自分が、艤装を展開している天龍改二に抱えられているという状況に気付く。顔を動かす。不知火を抱えた天龍は、浜辺から海へ出ようとしている。空は晴れているものの雲が在り、陽射しも柔らかい。緩やかな風が頬を撫でていく。同時に、砲撃音が響いてきた。近くで戦闘が行われているのだと理解する。

 

 戦闘。自分も、戦闘に参加しなければ。そう思うが、上手く“抜錨”出来ない。艤装も召べない。身体が思うように動かない。痛みや倦怠感は無いのに、身体が酷く重い。唇を噛む。そもそも自分は、何故、天龍に背負われているのだ。何が起きているか分からない。

 

「無理をしてはいけません。恐らくですが、貴女の身体には“抜錨”を妨害するエフェクトが掛けられています」

 

 すぐ隣から声、自分と同じ声が聞こえてきた。不知火改二だ。天龍の腕の中で、何とか動こうとしている様子を見て、声を掛けてきたようだ。改二の彼女が、肩に触れてくる。

 

「戦闘は不知火達に任せて下さい。今は、貴女の生還こそが最優先です」

 

 落ち着いた低い声で言う彼女に、頷くしかなかった。“抜錨”も出来ないのであれば、戦闘の邪魔にしかならないのは自分でも分かる。了解しましたとだけ答え、不知火は天龍改二の腕に体を委ねた。

 

「聞き分けが良いな」

 

 唇の端を釣り上げた天龍改二は暢気な声を出しながら、浜辺から波打ち際へと走りこんで、そのまま滑るように波の上へと飛び乗っていく。凄いスピードだった。身のこなしや視線の配り方にもまるで無駄が無い。不知火改二も、懐から携帯端末を取り出しながら、全く遅れずに横に並んでくる。この二人が相当に練度の高い艦娘なのだろうと分かった。

 

 折り重なって響いてくる砲撃音を聞きながら、天龍改二と不知火改二は、ぐんぐんと沖へと向かっていく。戦闘の気配が遠ざかっていくのは明白だった。天龍改二の腕の中から少し体をひねり、自分が倒れていた浜辺を振り返る。大きくは無い島が、遠ざかっていくのが見える。あの島は、深海棲艦の拠点か何かなのか。そんな事すら分からない今の自分の状態がもどかしい。

 

 必死に記憶を辿ろうとするが、上手くいかない。戦闘の記憶だけがぼんやりと浮かんでくるだけだ。「シシシシ!」という笑い声が聞こえる気がした。レ級。そうだ。レ級と戦って、それから……。だめだ。分からない。思い出せない。苛立ちを隠すように強く目を閉じると、不知火改二が、浜辺で倒れている不知火を回収したと、何処かに報告をしている声が聞こえた。

 

 不知火改二が持つ携帯端末からは、他にも一名の艦娘を回収したという内容に続き、防空棲姫を含む深海棲艦の上位種の撤退を確認したという音声も聞こえてきた。不知火改二たちは、今から他の艦娘とも合流するようだ。合流ポイントの確認を取っているのが聞こえる。頭上を見上げると、空母艦娘の艦載機たちが飛んでいた。制空権も完全に奪っている様子を見るに、あの島を中心とした戦闘は、艦娘の勝利であることは間違いなさそうだった。

 

 

「この海域一帯に陣取っていた深海棲艦達も、一斉に撤退を始めているようです」

 

 携帯端末を仕舞いながら、不知火改二は誰かを探すような目つきになって周囲を見渡した。天龍改二も視線を周りの海へと巡らせてから、先ほどまで居た島を見遣る。

 

「いつもの展開だ。こうも撤退を繰り返されると、……最初の頃の、アイツの指揮を思い出すな」

 

 目当ての誰かを見つけられなかった軽い落胆を誤魔化すように、天龍改二は鼻を鳴らした。「えぇ。懐かしいですね」と続いた不知火も、溜息なのか深呼吸なのか分からない息を吐いた。その後に在った無言の間は束の間のことで、「……まぁ、何にせよ」と、すぐに天龍改二が、腕の中に居る不知火を見下ろして来た。

 

「お前に大きな怪我が無くて何よりだ。お前の仲間も随分心配してたしな」

 

 快活に言う天龍改二のその言葉が、本心から来る言葉であることはすぐに分かった。深海棲艦の脅威が去ってもなお艤装を解かない彼女の笑顔には、不知火を護り通そうとする力強さが満ちていたからだ。自分が護られる立場にあることを理解すると同時に、混乱も収まってくる。自分がドロップ艦として回収されている状況であることも、ようやく飲み込めてきた。

 

「聞いたぜ? 殿を引き受けてレ級とやり合ったんだろ。ガッツ在るぜ」

 

「……ありがとう御座います」

 

 不知火は腕の中からではあったが、頭を下げる。すると、天龍改二が擽ったそうに笑って、隣に居る不知火改二を横目で見た。

 

「お前も、こんくらい素直だと良いのによ」

 

「それは此方の台詞ですよ。昔のホラー映画を見た夜に、『フフフ、怖いか?』とか言って、トイレに行くのを誘いに来るのは、本当に如何なものかと思います」

 

「あれはな、俺が秘書艦やってるときに、野獣が勝手に見始めたんだよ。アイツ、執務室に私物のクソデカモニター置いただろ? あれの試運転だとか抜かしやがってよー」

 

「経緯はどうでも良いんですよ。素直さの話です。『フフフ、トイレに行くのが怖いか?』の後に、せめて、『俺は怖い』と素直に付け足してくれれば、まだ可愛げもあるのですが……」

 

「うるせぇんだよお前はよ」

 

 場違いで緊張感の無い会話を続ける彼女達には、実際には全く隙が無く、自然体のままで死線を潜っていく歴戦の兵としての貫禄が在った。

 

「それでよ……、お前が戦ったって言うそのレ級なんだが、その……、なんだ、変わった笑い方してなかったか?」

 

 不意に天龍が、久しく出会っていない友人を思い出すような顔つきになって、不知火を見下ろしてくるのが分かった。

 

「こう、子供みたいに肩を揺らしてよ」

 

「えぇ、シシシシと、歯を見せる笑い方をしていましたね。それだけは覚えています」

 

「……やっぱそうか。悪い。変なこと訊いたな」

 

「あのレ級を知っているのですか?」

 

「まぁな。俺も何度かやり合ったことがある」

 

 天龍改二が言うと、「腐れ縁というヤツですね」と、不知火改二が言葉を繋いだ。

 

「……ただ、他の事は何も思い出せないので」

 

「構わねぇよ。怪我も消えて健康な身体で還ってくるなら、誰も文句なんざ言わねぇさ」

 

 天龍改二が笑いながら言う。自分がドロップ艦として生還した事実を、不知火は改めて実感した。抜け落ちた記憶は、どうしても思い出せない。何か、とても重要なことを忘れている。そんな気がしてならない。もどかしく思った時、不知火改二と天龍改二が、誰かとすれ違った。天龍の腕の中に居た不知火は、視界の端に、一人の青年の姿を捉える。黒い提督服の上に、複雑な文様が描かれた白い法衣を纏った彼は──。

 

 不知火はガバっと体を起こし、海の上を見回す。

 だが、遮るもののない波の上には、誰もいない。

 

「ん? どうした? 潜水艦か?」

 

 天龍も警戒して周りを見るが、敵影は無い。不知火改二も周囲を見回してから、視線を上げた。深海棲艦の艦載機の姿は無かった。艦娘が勝利を収めたあとの、平穏な海の景色がそこに在るだけだ。現実の時間が流れる青い世界が、ただ渺茫として広がり、不知火達を包んでいる。

 

「深海棲艦の姿は在りませんね。十分な索敵も行ってくれていますから、合流ポイントまでは安全の筈ですが……」

 

 不知火改二が再び携帯端末を取り出そうとしている。「油断はしてないつもりだぜ」と、天龍改二が鼻を鳴らして、雲が流れていく蒼い空を見上げた。

 

「今夜も晴れそうだな。月が見れるぞ」

 

 

 










 たくさんの暖かなメッセージを寄せて下さり、本当に有難う御座います! シリアスな話ばかりで申し訳ありません……。114514字は無理そうですが、次回更新があれば、もっとギャグ寄りな話にも挑戦出来ればと思います。
 もう普通の風邪もひけない、体調も崩せないような日々が続いておりますが、皆様もどうか、お体にはお気をつけ下さいませ。今回も最後まで読んで下さり、ありがとうございました!

 

 
 

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