満員電車、それは社会人になって日々電車を利用するようになった今でも慣れそうにない僕にとっての永遠の天敵。大勢の人にもみくちゃにされる感覚が苦手、というのもあるのだがそれ以前に臭いが苦手だ。間近で臭う香水、加齢臭等で腹を下すことなど日常茶飯事で人々の生活臭が混じりあうとここまで不愉快な臭いになるとは若き日の僕にとっては分かりえないことだった。昔から人の匂いには敏感で、犬のように匂いを辿ることができる芸を持ち合わせていたことから友人や親しい人物からのあだ名はポチだった。
満員電車での臭いは一括りにして人間臭いと僕は言っている。この場合の臭いはニオイではなくクサイと読んでいるのだがどうでもいいことなので置いておこう。
しかし、満員電車の匂いが今日はまた一味違っていたようで不思議と不愉快な香りがしなかった。どちらかというと不愉快なものをすべて掻き消してくれるような、どこか僕を安心させるような、なんとも言えぬとても落ち着く芳香が僕の周囲を満たしまるで匂いの結界にでも包まれているかのようだ。はて、この鼻の奥を突いて止まない芳香を放つ蠱惑的――僕にとってはだが――な人物は誰だろうなと思い首だけ動かし辺りをチラチラと見る。
結局、その人物は何処に居るか分からずのそのままタイムリミットへと到着してしまった。
その翌日のこと再び僕を惑わす、得体も知れぬ妖艶とした――例えるならそう、男を勾引かし手玉にとるような悪女を想像させられる薫りが僕を包み込む。昨日より更に強烈に香る。匂いだけでこのような感想を抱くこと自体僕は滅多にないのだが、過去にも何度か特殊な匂いを持つ人物に会ったことはあった。特定の人物だけが漂わせる特殊な香り、それは香水によって無理に作られたモノでもなく何もしなくとも自然に放つ体臭のようなもの。才能のような存在から安直に才能の香りと僕は思っているが強ち間違いではないだろう。こういった香りを持つ人物は全て才能に恵まれており周囲からは天才と呼ばれていた。
僕にとって一番代表的なのは僕の妹だが個人的に情けないほど己に劣等感を感じさせる存在なのであまり思い出したくない。血の繋がった仲だというのに一体何故これほど容姿にも才能にも差がつくのかと嘆きもしたが今となってはどうでもいい。この僕を包む香りがどこか妹のものと似た匂いに感じるのも思い込みからくるものだろう。だって、彼女は僕の住む場所から数十キロは離れている実家で、僕の記憶が正しければまだ高校に通っているはずなのだから。
何も僕が二十代で若年性アルツハイマーになったわけでもなく意図的に記憶を脳の奥に押し込めて、思い出さないようにしていたらいつの間にかその記憶が霞んで行き、消え去りそうになっているただそれだけの話だ。簡単に言えば思い出したくないことを思い出さないようにしてたら本当に思い出せなくなったよっていう腑抜けた話。
未だに僕の周囲を漂う匂い。この匂いで若干高揚していた気持ちも妹のことを思い出しすっかり治まってしまった。それがいいことなのか悪いことなのか自分のことなのに判断をしかねるがきっといいことなのだろう。僕を惑わせようとするこの香りから守ってくれた記憶の中の妹に人生で最初で最後かもしれない感謝をする。
つまらないことを考えているうちに目的の駅の名が少し鼻が詰まっているかのようなくぐもった声で告げられた。
会社から家に帰って疲れたと溜め息をついた時僅かに満員電車の中での香りがしたような、気がした。匂いがついたのだろうか。
翌日、再び満員電車の中で例の香りがすることに気づく。しかも昨日や一昨日よりも濃く。この匂いを持つ本人が近づいてきているのか? と不意に思うがまさか、と内心で苦笑する。それではまるで僕がこの香りに気づいていているのを知っていてそれでいてわざと近づいてきているようではないか、と自分でもふざけた考えが頭に浮かぶ。僕が人の匂いに敏感なのは友達や家族しか知らなかったはずだ。たまたま、近くに乗り合わせていただけだろう。
僕を惹いて、興奮させるこの香りの持ち主が近くにきたらと思うと背筋がぞっとするのを感じた。一体僕はどうなってしまうのかという愚かな期待、探求心と恐怖心が僕の胸の内を支配する。今までに嗅いだことのないよう強烈な、この匂いの虜になっているのが自分でもわかった。匂いフェチ、と昔友人に言われたことがあったがその時僕は人より匂いに敏感なだけで匂いフェチではないと否定した。だがしかし、間違いではないのかもしれない。
ただの匂いにここまで興奮するなんて僕って本当は匂いフェチだったんじゃ、と思い始めてきた。いや、まだそうだと決まった訳ではない、諦めるな僕。
この日は何故か駅から降りても匂いが取れなくて悶々とした気分で一日を過ごした。何故だか家にも強烈に匂いが染み付いていて風呂に入っても匂いが取れなくて困った。特にベッドには一段と強烈に匂いが染みていて寝るときまで謎の香りに包まれたまま寝ることになったので困った。そして更に困ったことに、何故だか分からないが股間の愚息が元気に暴れまわり、将軍様となっていたので鎮めるのに苦労した。さすがの僕でもここまで、可笑しな状況になると物事の異常性が見えてくる。正体の分からぬ恐怖が僕を襲い、若干震えながら夜を過ごした。
しかし不思議なことに翌日からぱったりと匂いが途絶えた。それはもう微かな香りすら漂わぬほどに。前までどおりの香水と加齢臭が雑じった人間臭い香りが懐かしく感じられ、都会っ子が田舎の淀みのない澄んだ空気を吸い込むかのように思いっきり息を吸い込み、腹を壊した。
その翌日も例の香りが漂わなく、家からも消え去りどこか懐かしい存在になった。まだ、嗅がなくなって数日だというのに懐かしいだなんて僕も大分染められていたんだなと内心、独り言つ。嗅がなくなれば、それはそれでまた悶々とした気分になりまた嗅ぎたいと思ってしまう。まるで中毒の症状かのようだ。匂いフェチはフェチでもあの匂い限定だったのやもしれんな、と今になって思う。
いつまでも未練たらたらで居れば仕事に支障が出るのは確かで、早く脳内から消し去ろうとするが中々、消えてくれるものではなくその日一日悶々とした欲求不満と言うのだろうか、変な気分で過ごすことになった。
それから一週間、悶々とした気分は取れなくそればかりか悪化するばかりでついには仕事でヘマをしてしまった。今まで一度たりともヘマなどしたことが無く、ヘマをしてしまったという事実は僕にとっても、社員にとっても衝撃的でいつも世話になっている上司の人から少し休めと言われ仕事の量を減らしてもらった。やはり上司さんには頭が上がらない。そしていつもより早く帰れることになり、いつもは仕事詰めで働いている時間帯に電車へ乗るという行為はとても新鮮だった。
僕の家は至って普通のアパートで、なんとなく家賃が安くそれでいてある程度広いし、大学からも近いからと適当な理由で場所を選んだ結果ここだった。今になって親に迷惑をかけたものだと思ったがその親は優秀な妹に感けきりだったので僕のことなどあまり気にしていないだろう。
最初のほうは大学とバイトを両立して生活費を稼ぐのは大変だったけど慣れれば、楽しかった。そして何より比較されることのない人生はきらびやかに輝き、ありきたりだがモノクロの世界に一気に色がついたように感じた。
今、僕は幸せなのだろう。大嫌いだった妹も居ないしその妹と比較もされない。趣味というものも見つけて仕事も大変だけどいい上司に出会って多少だが友人も居る。何かと絡んできた妹であったがもし会いに来られては困ると引っ越し先は教えて居ないし両親にも口止めをしておいた、両親が死にでもしない限り当分会うこともない。
ふと、家の玄関を開ける時鍵が掛けられていないことに気づく。泥棒か、閉め忘れか分からないが泥棒だなんて今時大丈夫だろうとそのまま扉を開けた。家の明かりはついていない、しかし玄関には見慣れない靴がある。それに家の中からは何故だか満員電車の中で嫌というほど嗅いだ例の匂いが強烈に漂ってきていて軽くクラりと、倒れそうになる。部屋を間違えたかと思うが玄関にある予備の靴は僕のだし間違えていないのは確かだ。背中にたらりと冷や汗が滴るのが分かる。この状況だというのに、同時に待ち遠しく思っていた香りを嗅ぎ興奮している自分をどこまで能天気なんだと情けなく思う。そしてこの匂いが濃くなれば濃くなるほど、懐かしい匂いが混じっていることに気づく。いや、まさか、アイツはこんな匂いなどではなかったハズだ。
違う、違うと脳内で否定するも正直な自分の嗅覚と記憶はヤツの匂いだと言い張る。それを否定するかのように慌てて靴を脱ぎ、謎の侵入者の正体を確かめるべく自分がいつも寝たり、飯を食べたりする生活空間に向かった。
暗闇の中でよく見えないが誰もいない……隠れたのか? と思い足を進めようとすると後ろから抱きつかれ押し倒される。必死に抵抗をするも押さえつけられ、頬を殴られる。――しまった、完璧にマウントを取られた! 力も強いし抗えない。そしてそいつはマウント状態のまま、抱きついてくる。息が荒く、まるで飢えた獣かのように匂いを嗅がれ、首筋を舐められる。こいつ、変態か! そいつから発せられる匂いを直に嗅いでしまい、一瞬にして体の力が抜けた。その匂いに何も抵抗できず、自分の体が快感に震えるのが分かる。
――まずい、まずい、まずい! このままでは喰われてしまう、直感というか、本能がそう言っている。
僕の両腕を押さえつけたままソイツは顔を上げる。暗闇に目が慣れ、ソイツの顔が見えるようになる。嘘だ、と口から言葉が零れ落ちるが心のどこかの僕は正体に気づいていたのだろう、あまり驚愕はしなかった。自分が正体に気づき嘘だ、と言ったのではなく僕にとってのありえない事実にたいして嘘だと言ったのだ。
ソイツから過去に獰猛とした、猛禽類などの相手を捕らえ捕食するという意志を連想させられるかのような瞳で見つめられてそれに恐怖していたことを思い出す。
僕の上でソイツは息を荒くしつつ、僕が過去に恐怖を覚えた瞳と一寸も変わらない――いや、昔より狂暴になったよう感じる瞳を僕に向けた。
許してくれ、と情けなく請うがソイツは僕にたいして微笑むとそのまま覆いかぶさった。