Fate/AntiGod 作:グラビティ
突然言うのもアレだが、私は一人の女性として聖女――ジャンヌ・ダルクという女性を尊敬していた。
男が大頭する世の中において神の声を聴き、フランス解放のために立ち上がり、疾風の如く戦場を駆け抜け、勝利をもたらした。その最期こそはまさに悲劇的であったけれど……同じ女性として、そんな彼女をかっこよく……誇らしく思う。……まぁ、しがない一般女性でしかない私が何を上から目線で言ってんだって話にはなるんだけれど。
彼女についてもっと知りたいと思った私は彼女に関する書物を読みふけり、果てには実際にフランスに訪れ、彼女の残した足跡を実際に辿ってみたこともあった。
おかげで気が付けばフランス史やフランスの地理については現地の人にも負けない知識を身に着けていた。日常生活程度のフランス語であるなら話せるくらいだ。その知識がこれから私が送っていくのであろう平凡な人生でどれだけ役に立つのかは置いとくとして。
そう……平凡な人生。
何の取柄も才能もない、平凡な私が送る人生はきっと何の変化もない平凡な人生なんだろうと、そう思っていた。
そんな私の平凡な日常の変化は、本当に唐突なものだった。
ある日寝て、目を覚ましたら、私の居た場所は自分の家ではなく、どこぞやの民家だったのだ。
慌ててベッドから飛び起きた。ここはどこなんだとパニックに陥った私は転がるように家を飛び出した。
そして広がるは全く身に覚えのないのどかな緑の農場。しかしその光景がどこか私の記憶を刺激した。最近、私はこれによく似た光景を目にしたことがあったのだ。
白い石造りの民家はどこか見覚えがあった。――若干の真新しさはあるものの間違いない。私がジャンヌの足跡を追ってフランス観光に訪れたときに見たジャンヌ・ダルクの生家(現存するのは母屋の一部だけだったが、判断するには十分だった)そのものだったのだ。
当然のことながら意味が分からなかった。
何がどうなっているのか、理解ができなかった。
家を急に飛び出した私を追って現れたのは一人の金髪が美しい女性とその夫であろう紫の瞳を持つ男だった。
彼らは途方に暮れた様子の私を見て、朗らかに笑いながらこう告げてきたのだ。
――こんな朝早くから急に飛び出して、何をしてるんだ、ジャンヌ?
時間が止まった気がした。
今、なんて?
今目の前の全く見知らぬこの人物たちは私を見てなんと言ったのか?
ジャンヌと、そう言ったのか――?
家に入るよう促された私はされるがままに朝食の席についた。
朝食の席には母親であるイザベル・ロメと父親であるジャック・ダルク、さらには四人の子供たちがいた。
ジャクマン、ジャン、ピエール、カトリーヌ。その性はもちろん父親と同じダルクであり。
ジャンヌと呼ばれた私はすなわち、ジャンヌ・ダルク――。
夢だ。これは夢だ。
気が付けば私はブツブツとそう呟いていた。
あるわけがない。私があのジャンヌ・ダルクその人になってしまうだなんて。
大体、ジャンヌが生まれたのは1412年の1月6日、現代から数百年も遡った過去のことだ。
時間逆行なんて現象あるわけがないし、そもそも時間逆行では私が別の人物として目覚めていることについての説明がつかない。
つまりこれは夢以外の何物でもないのだ。
夢だ。夢だ。そう呟き続ける私を見て、ジャンヌの母親であるイザベルは体調でも悪いの? と額に手を当ててきた。彼女のひんやりとした手が妙に心地よかったのは今でも覚えている。
結局、その日私はそのまま再び寝かされた。
私があんまりにも青白い顔をしていたので、今日は家の手伝いをしなくてもいいということになったのだ。
兄弟たちはそんな私を見ていいなーと言ってきたが、その時の私にはそんな彼らの言葉に反応していられるほどの余裕はなかった。
その時はただ、ひたすらに眠ればまた全て元通りに戻っているはずだと、ただそれだけを念仏のように心のうちで唱えながらベッドに寝かされた私は目蓋のカーテンを降ろした。
結果だけ先に言うと、再び目が覚めても何もかもが変わっていなかった。
おはよう、体調はもう大丈夫かしら? と優しく問うてくる母親のイザベルと。
元気になったら、手伝ってもらうからな、ジャンヌと言ってくる父親のジャック。
絶望的なまでに何も、変わってはいなかった。
しかしまだ私があのジャンヌ・ダルクとなってしまったと決まったわけではないのだ。
同姓同名の人物だってことだってありうるわけで、今、私が私の意志で動かしているこのジャンヌ・ダルクがあの聖女であるジャンヌ・ダルクであるという確証はないのだ。
できればこの日も休みたかったが、二日連続で休んでしまうというのはなんだか申し訳ない気持ちがあったので(感覚的には居候させてもらっている感覚だ)、その日は私も働くことになった。働くといってもそう大層なことではない。イザベルやカトリーヌと共に家の洗濯物を洗って干したり、農具を担いで農場の整備を行ったりと、子供でも……初見の私でもこなすことができる単純な作業ばかりだった。
頭の片隅でこの現状に対して思考を凝らしながらダルク家の手伝いをこなす日々が数日続いた。人と言うのは慣れればどうということはない生き物で、恐ろしいことに私もまた数日のうちにその生活に馴染むことができてしまっていた。元より私がジャンヌ関連でフランスに馴染みが深かったというのも大きかったのかもしれない。
家族や村の人間からそれとなく様々な話を聞き、情報を収集しているうちに今私が住むこの村がドンレミ村であることや、世の中が戦乱で荒れていることなど、私にとって好ましくない話をたくさん聞いた。
ドンレミ――後の世では
そして戦乱というのはおおよそ間違いなく百年戦争だろう。イングランドとフランスがその土地と王位を巡って争った歴史上においても最も長期間であり、凄絶な戦争であるということに。
これらの情報が私に何をもたらしたかというと、これでまた私があのジャンヌ・ダルクであるという可能性が一つ高まってしまったということだ。
なぜならジャンヌ・ダルクはドンレミ村の出身。そして神の啓示を聞き、戦乱――百年戦争に巻き込まれていくことになるからだ。
私があのジャンヌ・ダルクであるはずがない――。
確信に近い確証を得ても私はそう思っていた。
平凡な私が彼女のようにフランスを救うことなどできるはずもないというのは言うまでもないことだが、それ以上にあったのは恐れ。
なぜなら彼女――ジャンヌ・ダルクは史実通りに進むのならば、シャルル七世を戴冠させた後のコンピエーニュの戦いで捕虜として捉えられ、異端審問にかけられた後に処刑されるのだ。
私のようなジャンヌ・ダルクマニアでなくても火あぶりの刑に処せられた彼女の最期は耳にしたことがあるだろう、それくらいに有名な最期だ。
もし私があのジャンヌ・ダルクであるのなら――忠実通りに歴史が進むのなら――私は最期は火あぶりにされるのか?
そんなの嫌だ……恐い。恐くて恐くて堪らない。
毎晩、ベッドで縮こまって震えた。思わず涙をこぼしてしまったこともあった。
心の中でずっと祈り続けた。どうか明日にでもどこか別のところから本物のジャンヌ・ダルクが現れて、この戦乱の世を終わらせてくださいと。
私をただのジャンヌ・ダルクであらせてくださいと。
私にとって唯一の心の拠り所だったのは、本来の彼女であるならば聞いたとされる神の啓示が、私にはいつまで経っても聞こえてくることがなかったことだ。
神様や天使をこの目で見たことがなかったため、実際にジャンヌが体験したものがどのようなものであるかは検討もつかないが、少なくとも声は聞いていない。
つまり、それが私にとって私があのジャンヌ・ダルクではない唯一の心の拠り所だったのだ。
そうしている間にも戦乱の世はますます激化していった。
フランスの領土は焼き払われ、イングランド軍の魔の手がこの辺境の地まで伸びてくるようにもなった。
――ジャンヌは……ジャンヌは何をやっているの!?
気が付けば私は誰にというわけでもなくそう問いかけるようになっていた。
この世のどこかにいるはずの本物のジャンヌ・ダルクはまだ、フランス解放のために立ち上がっていないのかと。
(見つめるべき現実に目をそむけて。)
それから間もなくして、ついにドンレミ村にも敵の魔の手が及び――。
家が焼き払われ、破壊の限りを尽くされた。
ジャックとイザベルは子供である私たちを逃がすためにイングランドの兵に立ち向かっていって槍に胸を貫かれて殺された。
私はひたすら森の中を走っていた。
ほかの皆とは戦場の混乱で離ればなれになってしまった。
今はただ走って逃げるしかない。
逃げなければ――殺される。
殺されてしまう。
「アッ!」
小石に躓き転んでしまった。
慌てて立ち上がろうとするが、右足に焼けるような痛みが走り、地面に倒れこんでしまう。
見ると、そのふくらはぎには一本の矢が深々と突き刺さっていた。
「あ……ああ……」
痛みはなかった。
それ以上に目の前に迫りつつある大人の男たちが恐かったから。
「ああああああああ!」
涙が溢れた。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
もはや頭の中はそのことしか考えられなくなっていた。
「許して……もう、許してよぉ……!」
一体誰に対する懇願なのか。そんなこともわからないままに。
そんな私の懇願も虚しく。
「あ」
私は死んだ。
+++
「うああっ!」
胸を槍で貫かれ、死んだ私はあろうことか再び自宅のベッドで目覚めた。
本来の私の自宅ではない、ダルク家のベッドだ。
意味が分からなかった。
たしかに自分は死んだはずなのに、どうしてこう生きていられるのか理解ができなかった。
そして驚いたのが、殺されたはずのジャックもイザベルも生きていたということ。
寝汗びっしょりの私を普段通りにおはようと言って出迎えてくれた。
――夢……だった、の……?
夢にしてはあまりにもリアルだったが。
そして相変わらず、自分がジャンヌという少女になってしまっているというこの夢は覚めないのかと思ったが。
とにかく、心のうちにあったのは安堵だった。
夢でよかった。
皆、生きていてよかったと。
それから私はやがてそのことを忘れて、普段通りの生活に戻っていった。偶に悪夢にうなされることはあったが、家事を手伝い、その合間にこれからの自分のことを考える生活に――。
それから間もなくして、フランスの領土は焼き払われ、イングランド軍の魔の手がこの辺境の地まで伸びてくるようにもなった。
――ジャンヌは……ジャンヌは何をやっているの!?
気が付けば私は誰にというわけでもなくそう問いかけるようになっていた。
この世のどこかにいるはずの本物のジャンヌ・ダルクはまだ、フランス解放のために立ち上がっていないのかと。
見つめるべき現実に目をそむけて。
この言葉に妙な既視感を覚えたが、その時の私には些細なことですぐに気にならなくなった。
それから間もなくして、ついにドンレミ村にも敵の魔の手が及び――。
家が焼き払われ、破壊の限りを尽くされた。
ジャックとイザベルは子供である私たちを逃がすためにイングランドの兵に立ち向かっていって槍に胸を貫かれて殺された。
私はひたすら森の中を走っていた。
ほかの皆とは戦場の混乱で離ればなれになってしまった。
今はただ走って逃げるしかない。
逃げなければ――殺される。
殺されてしまう。
「アッ!」
小石に躓き転んでしまった。
慌てて立ち上がろうとするが、右足に焼けるような痛みが走り、地面に倒れこんでしまう。
見ると、そのふくらはぎには一本の矢が深々と突き刺さっていた。
「あ……いっつ……!」
痛みを感じた。電流が走るような今までに経験したことの
経験したことの
そんな私の刹那の逡巡は、瞬く間にかき消されることになった。
なぜなら、それ以上に目の前に迫りつつある大人の男たちが恐かったから。
「ああああああああ!」
涙が溢れた。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
死にたくない。
もはや頭の中はそのことしか考えられなくなっていた。
「許して……もう、許してよぉ……!」
一体誰に対する懇願なのか。そんなこともわからないままに。
そんな私の懇願も虚しく。
「あ」
再び私は死んだ。