警笛が発せられ、翠は飛び起きた。
そこいらで投光機の光が交差している。
有事であるのは言うまでもない。翠は軍服に袖を通し、部屋を出る。宿舎からそう遠くない場所で火線が瞬いている。
どうなっているのか、問い質すにも全員出払っているようだった。翠はそのまま宿舎の階段を駆け降りて、呆然と突っ立っている仕官に質問を浴びせる。
「何が?」
「あ、ああ。あれは……」
要領を得ない声に翠はその視線の先を追う。
覚えず息を呑んだ。
視線の先には鍵穴の形状を持つ巨大な異形の姿があった。写真で見たそれと合致する。
「あれが、幽鬼……」
しかしどうして? 何故軍の基地内に? その疑問を氷解する前に警笛が鳴り響く。
「戦車大隊を前へ! くそっ! 何で軍の基地内部に」
悪態をつく通信兵に翠は取り次いだ。
「時雨准将は?」
「准将? 分からない、命令系統がいかれちまっていて……」
どうやら混乱の只中にあるらしい。
翠は思いつく限りの対抗策を考えた。
戦車での戦闘も、銃を持っての戦いも、恐らくは無為。ではどうするか。翠の向かう先は一つであった。
工場へと駆けて行き、地下へと続く階段を駆け降りてゆく。考え通り、モリビト弐号の整備班にも混乱が伝わっていた。
「幽鬼が出た? 軍の基地に? ふざけやがって! おい! どこからでまかせ拾ってきやがった? 即行、モリビトの秘匿を! ここに奴を近づかせるな!」
山城の声が響く中、翠は声を張り上げる。
「山城さん! オレが出ます!」
翠に気がついた山城が舌打ちする。
「許可出来るか! モリビトはようやく頭部と胴体を引っ付けたばかりだ! こんな状態で出せるかよ!」
「でも! 戦車大隊は出ていますよ!」
「あいつらの防衛が効いている内にこいつを逃がす。それが定石だ。不完全なモリビトでは幽鬼を倒せねぇ!」
「ここに!」
翠は階段を降りるなり、山城に駆け寄った。山城は眉根を寄せる。
「操主なら、います!」
「……お前さん、正気か? 一日二日で操主名乗れるもんじゃねぇんだぞ!」
「でも、出ないよりかはましなはずです!」
睨み合いに水を差すように整備班の声が響く。
「モリビト、格納庫に隠しますよ!」
「おう、頼む! 絶対に外に出させるわけには――」
その言葉尻を裂くように翠は駆け出していた。頭部操縦席に続く階段を上がり、整備班に声を振り向ける。
「オレは、出るように命じられました」
「えっ、そうなんですか?」
困惑する整備班に山城が怒鳴りつける。
「うそこけ! いくら准将様が命令したところで今のモリビトは出せる状態じゃねぇんだ!」
「それでも! 軍の基地内部で起こった事です! 何もしないわけにはいかないでしょう!」
何よりも、兄の命を奪った幽鬼が手の届く範囲にいる。翠には静観など出来るはずもなかった。
「おやっさん……。本当に、出すんで?」
「馬鹿を言うな! 一朝一夕で操主が務まるか!」
「でも、ここでじゃあ、誰が操縦出来るって言うんです!」
振り向けた声に整備班の誰もが言葉を呑んだ。整備班では操縦出来る人間はいない。それは何よりも分かっているはずである。
「……でも、日下部少尉。あなたならば出来ると?」
「やってみます」
無理やり操縦席に乗り込み、翠は安全帯を身体に巻きつける。
「どうなっても知りやせんぜ!」
整備班のやけっぱちな声が聞こえ、翠は操縦桿を握り締める。ナナツーよりも固い操縦桿。ペダルは教えられた通り、三つある。夕刻、ナナツーで練習し尽くした。まだ立つ事も儘ならないが、このモリビトの足はキャタピラだ。走る事、それだけを考えればいい。
「上げますか! おやっさん!」
「馬鹿言うな! どう考えたって今のモリビトじゃ幽鬼には勝てねぇ。許可は降ろせないって言ってるんだ!」
山城の声に翠は怒鳴り返す。
「だったら! 全部オレのせいでいいから、上げてくださいよ!」
その言葉に整備班の人々が息を呑む。中にはシゲの姿も見えた。必死の形相になっている事だろう。自分の覚悟に全員が無言のうちに問い返していた。
――お前のような奴に任せられるのか?
否定の言葉が飛んでくるかに思われたが、山城は帽子を目深に被って手を上げる。
「……上げてやれ」
「おやっさん? でも……!」
「いいから、上げるんだよ!」
整備班長の声に全員が従うしかない。格納庫のシャッターが開き、緩やかな坂道になっている隠し通路が眼前に開いた。
オレンジ色の常夜灯が点灯しており、地面には染められた明かりがついていて足元を照らす。
整備員がモリビトを誘導した。
「オーライ! オーライ! 出撃準備!」
翠は山城を説得出来ると思っていなかったので確認が遅れる。整備員が声を飛ばした。
「操主! 聞こえていますか?」
慌てて翠は伝令管に声を通す。
「はい! 聞こえています!」
「言っておきますが、伝令管で声が届くのは敷地内だけです! まだ発令所も動いていないので我々整備班の指示に従ってください!」
繰り返される言葉に翠は乱暴に返答するしかない。
「はい! 分かっています!」
「……日下部少尉」
シゲの声だ。翠は肩を強張らせる。
「言っておきますが、今のモリビトじゃ勝てる確率は二割を切っています。右腕に無反動砲が取り付けられているのは分かっていますね?」
翠は確認する。左腕には人間の腕の機構を模した腕が備え付けられているが稼動するようには出来ていない。固定式の腕であった。鉤爪が二本、並んで付けられているだけだ。
右側には無反動砲と呼ばれる砲身の長い装備が付けられている。それだけでモリビトの全長ほどもあった。
「基本戦術は一つです。無反動砲で拠点防衛線を行ってください。決して、幽鬼に接近戦など挑まないように」
「でも、既に軍の基地内部に被害が――」
「今は! 絶対にモリビトを傷つけちゃいけないんです!」
昼に交わした気安い声音とは打って変わったシゲの厳しい声に翠は声を詰まらせる。
思わず何も言えなくなった。
「……いいですか? 絶対に、動かずにその場で無反動砲を撃ってください。弾数は三発しかありませんが、それを撃ってから安全圏へと避難を」
避難? と翠は疑問を挟む。どうして最前線を切り拓くこの機体が避難などせねばならいのか。
「でも、モリビトが前に出ないと、兵士の皆さんの被害が……」
「繰り返しますよ、日下部翠少尉。絶対に、モリビトを傷つけないでください」
脅迫めいた声音に翠は小さく頷くしかなかった。
「……了解」の声もか細くなる。
「モリビト弐号、出撃準備! 誘導! 誘導!」
整備班の声が反響し、地上へと通じる坂道の明かりが点滅する。
「モリビトの操縦権を日下部少尉へと委譲! 武器最終点検、よーし!」
「蒸気計算機起動! 出撃の契機を、日下部翠少尉へ。どうぞ!」
蒸気計算機が動き出し、数々の機器の数字を動かす。算出される数字の意味も分からず、翠は操縦桿を握り締めた。
「日下部少尉! 出撃の声を!」
迫られて翠の声が上ずった。
「く、日下部翠。モリビト弐号、出ます!」
うろたえ気味に発した声には躊躇と困惑が見え隠れする。しかしここで退くわけにはいかない。翠はペダルを踏み込んだ。
思っていたよりも重いペダルの感触に思い切り踏み抜こうとする。キャタピラが唸り声を上げて空転し、一拍後にモリビトの機体が前進した。圧し掛かる重力に臓腑までも引き千切られそうになる。
離しかけた手で操縦桿をきっちり押し込み、前進を促す。
天蓋のような地上へと続くシャッターが開き、坂道を上り終えたモリビトの眼窩から翠が目にしたのは、ところどころで上がる火の手であった。
「こんな……。こんな状態で……」
おっとり刀で対応した軍を嘲笑うかのように、炎上する工場を見下ろしているのは、鍵穴の形状をした怪奇であった。
――幽鬼。
翠はその姿を改めて目にして震え上がる。
砲門の筒先をこちらに向けており、地上では金属の触手が戦車を貫いていた。まるで玩具のように、戦車が放り投げられる。
モリビトの足元へと投げられた戦車からは人の腕が覗いていた。
それを目にした翠は幽鬼を睨み据える
――このようにして、兄を殺したのか。このようにして、人の命を嬲ったのか。
怒りで思考が白熱化し、翠はペダルを踏み込んだ。
「よくも……! よくもぉ!」
張り上げた声にモリビトの脚部が唸りを上げる。キャタピラが前進し、モリビトの機体が一挙に幽鬼へと接近した。
幽鬼が下段から触手を振り上げる。
胴体部に突き刺さった触手の攻撃にモリビトが傾いだ。
思っていたよりもずっと、モリビトへと伝わる衝撃が強い。
立ち止まったモリビトへと幽鬼が砲門を向ける。その筒先が赤く輝き、翠は思わず目を瞑った。
砲弾の一撃がモリビトの左肩を穿つ。固定されていた左肩の武装が焼け落ちた。
――もし、操縦席に当たっていたら……。
冷や汗が伝い落ちる。
鼓動が爆発しそうであった。
こんな敵に勝てるのか? こんな機体と乗り手で、相手を倒す事など出来るのか?
今さらに恐怖が渦巻いて翠は立ち往生した。歩みを止めたモリビトへと続け様に幽鬼が砲弾を放つ。
胴体部へと損傷が至り、みしりと嫌な音が連鎖した。
蒸気計算機が赤い警告を響かせる。瞬く間に赤く染まった操縦席で翠は引き金を引こうとして躊躇った。
――もし、この砲弾が間違って他の場所に当たってしまえば。
引き金が引けない。思考を満たしているのは最悪の想定だ。
『日下部少尉! 撃て!』
伝令管を響かせた声に翠は目をきつく瞑る。
引き金を引くと右側の砲門から無反動弾が放たれた。激震が伝わってくる。無反動とは名ばかりで、操縦席にまで伝わってきた振動に翠は肩を縮こまらせた。
「こんなの……。こんなの……!」
砲弾は幽鬼に命中したらしい。幽鬼の下腹部が赤く焼け爛れていた。
「当たった……?」
その感慨にふける前に、幽鬼の反撃が来る。赤く染まった筒先から放たれた矢継ぎ早の砲弾がモリビトへと衝撃を見舞う。
一撃ごとに翠は叫んでいた。操縦席が吹き飛ぶのではないかと思うほどの衝撃波に動く事さえも儘ならない。
「……嫌、嫌……。助けて……。にいにい様……」
咽び泣く翠にはもう戦闘の気力などなかった。
肩を震わせ、熱い涙が頬を伝う。
幽鬼はそれでも手を緩める事はない。砲弾がモリビトの胴体部を貫いた。火災が巻き起こり、モリビトを焼き尽くさんとする。
火災警報が操縦席に木霊する。しかし、翠には何も出来なかった。操縦桿を握るだけ、という一動作さえも忘れた翠はただの少女であった。
「どうすればいいの……」
虚無が身体を満たしてゆく。何も出来ない、という感覚に支配されそうになる。
幽鬼の触手が迫り、螺旋を描くそれがモリビトの胴体を掻き回した。煙が棚引き、灼熱がモリビトの胴体を焦がす。
火炎が巻き起こり、火災警報に切り替わる蒸気計算機の表示に翠は圧倒されていた。
――どうすればいい?
――どうすれば、戦える?
行き場のない思いが目の前を真っ暗にする。
幽鬼の放った砲弾が、頭部を掠めた。それだけで強化硝子に亀裂が走る。
――死。
――圧倒的な、死。
それが足音を立てて迫っている。
翠は涙に濡れた顔のまま操縦桿を無茶苦茶に引いた。モリビトが右腕の砲門から弾丸を弾き出すが、それは掠めもせず幽鬼の後ろの建築物を破壊する。
逆に幽鬼の撃ち出す弾丸はモリビトへと嬲るように命中した。翠は泣き喚く。自分でも意識せぬほどに涙と嗚咽が溢れた。
――死にたくない。
ただ単に、純粋に、死ぬのが怖い。
ペダルを踏み締めて操縦桿を引いて後退しようとするが、後退の仕方すら間違ってしまう。
翠とモリビトはそのまま、幽鬼へと突っ込んだ。
キャタピラが地面を引き裂き、モリビトの左側の兵装である鉤爪が深々と幽鬼へと突き刺さる。
ハッとして、翠は顔を上げる。
眼前にはゼロ距離の幽鬼の筒先。
その奥が赤く輝き、射撃の姿勢を取る。
翠の意識は完全に死を意識した。
「相対するのはまたモリビトタイプか。因果かな」
帝都の建築物の森林に囲まれた陰で、一人の刀使いの男と、その男を掌に乗せる巨人があった。
巨人には文様が刻み込まれており、刻印された部位が赤く光っている。
男の手にある矢じり型の御符が輝き、その黒い仮面の前に持ってきた。
「さぁ、この時代の人機もどこまで人を狂わせるのか、見せてくれよ」
第一章了