第拾壱話「敗走」
気がつくと、暖かな空気の中を漂っていた。
自分より背の高い青年の影。自分は自然とせがんでいた。
「お話して、にいにい様」
兄は自分のわがままによく付き合ってくれた。女だから、男の話は分からないだとか、その逆もなかった。
「翠、この日本の外にはね、たくさんの国があるんだ」
兄、孝雄の好きな話は外国の話であった。日本が必死に追いつこうとしている諸外国の技術。時は大正へと移り変わり、日本は確実に変わりつつある事。
「むずかしいこと、翠分からないよー」
兄の前だと甘えてしまう。そんな翠に孝雄は優しく微笑んだ。
「いずれ分かるよ、翠にも。きっと、この国が何を目指しているのか」
「何を……」
そう口にした瞬間、暖かな空気が霧散した。
喉を焦がすのは、灼熱である。火炎がそこいらで巻き起こっており、赤い光の向こう側へと兄の姿が掻き消えた。
「にいにい様? どこへ行ったの?」
困惑する翠の前に黒々とした影が立ち塞がる。
――幽鬼。
屹立する幽鬼の影に翠は逃げ出そうとしたが、その時にはモリビトの操縦席に縛り付けられていた。
必死に逃げようともがくもモリビトの機械であるはずの操縦席から触手が伸びる。翠を雁字搦めにして離さない。
「いや! こんなの! にいにい様!」
喚いてもモリビトの束縛からは逃れられず、翠は眼前の幽鬼が砲身の筒先を輝かせたのを目にした。
やられる、と覚悟した瞬間、その赤い光の向こうに兄の影が翻る。
「にいにい様?」
兄は赤い大砲の前で身体を広げる。それを貫いたのは幽鬼のほうではなく、自分の、モリビトの保持する砲身であった。放たれた弾丸が兄の影を引き裂く。
翠は絶叫した。
息を荒立たせて翠は起き上がる。
前後不覚になった精神はまだ夢の中の恐怖を引きずっていた。
「あたしが……にいにい様を……」
いや、今のは夢だ。翠は頭を振ってそれを振るい落とす。
視界の中には包帯の巻かれた腕があった。それを目にしてようやく、これが現実なのだと思い知る。
兄は既に死んでおり、自分はその雪辱を晴らすためにモリビトに搭乗した。
しかし、結果は推し量るべき。
額に巻かれた包帯にも手をやる。腕と足、それに額と複数個所に傷を負った。
幸いにも大事には至らなかったが、それでもひりつくような痛みが恐怖を具現させる。
翠は自分の身体を抱いて呟いた。
「何も、出来なかった……」
モリビトに乗っておきながら、何一つまともな働きが出来なかった。宿舎へと差し込む陽の光からもう夕刻である事が分かった。
あの後の記憶は定かではないが、激動のように物事が行き去った。
頭の中を掠めてゆくのは強烈な炎の記憶だ。
幽鬼の赤い光が迫った瞬間、巻き起こった出来事に翠はため息をつく。
「あたしは……こんなにも無力だった」
幽鬼の放とうとした砲弾がモリビトの頭部に着弾する瞬間、爆砕ボルトが点火され、頭部操縦席を含む菱形の区画が射出された。これは完全に整備班側で操作した事であり、操主である日下部翠には何の責任もない。
だが何の責任もないと言っても、出した被害は甚大であった。
モリビト弐号大破。
その事は戦闘を撮影した写真が物語っている。一枚一枚がこの場にいる人々に平等に映写され、幽鬼との戦闘の苛烈さを伝えた。
全ての写真の映写が終わり、八ミリの活動写真が巻き戻される音が響く。
「これは、由々しき事態だよ、時雨准将」
そう語ったのは頭部だけ獅子の被り物をしている男であった。高官であるのは服飾から窺えるがこの場において顔を晒しているのは時雨と高木だけである。
他の者は虎や熊などの仮面を被っており、この場の匿名性を保っていた。
評議会、と時雨を含む全員が呼んでいるこの会合はモリビトの運営からその資金、それに幽鬼殲滅のために設立されたものだ。
評議会では具体的な幽鬼殲滅の作戦が取られるわけではなく、大抵、時雨がお歴々のおうかがいをするだけだ。それは彼自身理解しており、仮面の人々の語る口調には真面目にならざるを得ない。
「そうでしょうか。前回のモリビト壱号の大破に比べればまだましではないかと。頭部ユニットが残っております。復元は可能です」
「そういう問題ではなかろう。確かに、弐号機に脱出機構を設けたのは正解だったよ。こんなでくの坊だとは思いもしなかったからね」
熊の仮面をした高官の声に時雨は返す。
「善戦したほうですよ。砲弾の一発は当たっている」
「しかし、うち二発は外れて軍内部に被害を及ぼした。その事に関しての釈明もないのかな」
モリビトの放った砲弾のうち、二発は外れて軍基地をかき回しただけだ、と言いたいのだろう。時雨はゆったりと言い返す。
「あの至近距離に至っては操主の混乱もあったでしょう。それも加味すれば一撃でも命中したのは僥倖」
「時雨准将。我々は操主に、玩具を与えているわけではないのだ。一発当たればいいだけの軍兵器など存在しない。あの場合、至近まで近づいたのならば幽鬼を殲滅せしめなければならないのだよ」
「しかし、操主着任からまだ日が浅かったのもあります」
「日下部大尉の弟君、だったかな。日下部翠、と資料にはあるが」
既に弟、という情報を流してある。今さら女だと勘繰られる心配はなさそうであった。
「ええ。彼は優秀ですよ」
「優秀であろうとも、幽鬼を殲滅せしめなければ意味のない事。それにモリビトは何回でも替えの利く才能機ではないのだ。モリビトを失えば帝都決戦の要を失うと思え」
確かに今回、モリビトを前回に引き続き大破させてしまったのは大きい。それを槍玉に挙げて評議会の連中は声を荒らげている。
「承知しております。ですが、こちらとて慎重に慎重を期した結果、だと思っていただかなければ」
「慎重に慎重を期して、それで敗北とは、片腹痛いな」
ぐうの音も出ないが、時雨は別の話題に切り替えた。
「問題なのは、今回、軍の基地内部に幽鬼が出現したと言う事実、ではないでしょうか」
「それもある。幽鬼は、帝都のどこにでも出現する可能性があった。だがまさか軍の基地に現れようとは夢にも思うまい」
「今回、目撃者が少ないがあの人物かね?」
その質問に高木が写真を出す。映写された写真には粗い画質だが黒い仮面を被った刀使いの姿が映し出されていた。
「またしてもこの人物の仕業だと?」
「そうと考えられます。だとすれば、奴は基地に限りなく近づいた」
「近づいたのに、捕らえられもしなかったのか」
鼻を鳴らした声に時雨は続ける。
「油断している、と思われます。次はないですよ」
「次はないのは君も同じだよ、時雨准将。もし、今回のような失態を二度も三度も繰り返すのならば、その席には別の人間が座ると思いたまえ」
「承知しておりますが、何分相手が相手です。まだ、幽鬼発現の過程ですら分かっていない」
「諜報班は何をやっているのだ? 調べは尽くしているのだろうね?」
高木へと視線をやると口が開かれた。
「諜報班は対策室の中でも極秘の任を帯びています。なので我々の命令系統とは別の範囲で動いていると思っていただければ」
「命令違反も何のその、な部隊か」
獅子の仮面を被った高官の声に時雨は冷淡に返す。
「そういう部隊があってもおかしくはないでしょう。戦は兵役のみで出来上がるに非ず、とは昔からよくいいます」
「だが今回問題なのはその兵役すら基準値に達していない事実」
バンと机を叩いたのは虎の仮面を被った高官だ。
「どうなっているのかね。モリビトは帝都防衛の要。それを着任間もない操主に預からせて、それで大破だと? いい加減にしたまえ。これでも我々は我慢しているのだからね」
「幽鬼の出現は、その、全く予測出来ないものです。陰陽師達も首を傾げるばかりで……」
「言いわけは! 聞きたくないな!」
高木の必死の抗弁も彼らの神経を逆撫でするだけだ。時雨は手を上げて、提言する。
「では、どうなさいますか? モリビトを廃案して別の才能機の開発に充てますか」
「馬鹿馬鹿しい! それこそ意味のない事だ! 今までモリビトにどれだけの金を注いできたと思っている!」
「財閥や目ぼしい成金達から金を巻き上げたのは道楽のためではない。この国を防衛するという意志のためだ」
「では防衛のための戦いをしている我々にも言わせていただきたい。少しばかりいきり立ち過ぎではございませんか? 今回、被害は出たといっても軍の基地内部。民間に被害が出なかっただけまし、だと」
「まし、と言ったのか貴様。ふざけるなよ。軍の基地内部と言っても死人は出たのだ。民間に出れば確かに機密やら何やら面倒ではある。だが、相手がこちらの懐に飛び込んできたという事実には恐るべき、と考えろ」
「では恐るべき幽鬼のその真意とは? どうして今まで帝都の場所を選ばなかったのに、ここに来て軍の基地を?」
「知るものか! それこそ、何でもありな部隊に調べさせればどうかね?」
返す刀の声に時雨は息をつく。
いい加減にこの評議会も終わらせてしまいたいものだ。実のある会話ならまだしも徐々に感情論が占めてくる。
「ではどうなさいますか。モリビト弐号の修繕に予算を充てると言っても、肝心なモリビトに疑念があるのではわたしとて動かしにくい」
「何とかならないのかね。操主、もっとうまく使えないのか?」
「その通り。操主さえ優秀であったのならば何も言うまい。今回も事前の調べ通り、血続、なのだろう?」
その資料は行き渡っているはずだ。時雨は是と返す。
「ええ、血続です。それは間違いない」
「ならば何故、モリビトを手足のように動かせない?」
「手足がないじゃないですか」
ふざけた物言いに激昂した高官が立ち上がろうとする。それを制するように獅子の仮面の高官が声にした。
「モリビトを動かせない操主に、我々が金と時間を注ぎ込む価値はない。使えないのならば見切りをつける判断も必要だ」
「それはつまり……日下部少尉を更迭せよ、と?」
思わず、と言った様子で高木が口を挟む。獅子の高官は鼻を鳴らした。
「それも最終手段として取っておけ、と言っているのだ。いかに血続が優れていようとも、その結果を出せないのでは同じ。ならば軍務に長く就いている他の人間から操主を選出したほうがましなのではないかと」
「お言葉ですが、日下部少尉はまだ軍籍について日が浅いのです。そんな彼に、全責任を押し付けるのは酷というものでは」
「酷も何も、最初から我々は言っているだろう? 操主なる一人の人物に帝都防衛を任せている。この時点である種の賭けだよ。そんな危うい綱渡りの上にある防衛任務に許可を出したのは道楽でも何でもない。操主が! 血続が使えると、君達が判断したからだ! その責任を負うのは何も操主である日下部少尉だけではない。君らも、だぞ」
突きつけられた刃のような声音に時雨は首肯する。
「分かっておりますよ。幽鬼を倒せないのならば対策室の予算についても考える、と言いたいのですね」
「……しかしそれでは! まず対策室の維持が!」
「口を挟むでないよ、高木少佐。君とてまだ青二才であろう? 時雨准将に従うべきだ」
高木が口を噤んでいると、時雨は分かっていると目配せした。
「モリビトの戦果さえ出せれば、文句は言わない。そういう認識でいいのですね?」
「戦果を出すのは当然だよ。で? 出せるのかね? 今の操主とモリビトに?」
「整備班には優秀な者達が集っています。モリビトの改修自体は滞りなく出来るかと」
「問題なのは操る操主か……。どうしたものかな」
「我々で選出してもいいのだが、そうなると軍籍などのいわゆるお膳立てに時間がかかる。その点、君らの連れて来た日下部少尉程度がほどよいのだよ。死んでも、誰も文句は言わんからね」
高木が声を発しようとするのを時雨が手で制する。
「あまり陰口は慎んでいただきたい。死んでもいいとは、さすがに思っておりませんから」
「しかし、日下部大尉の弟、というところを見るとつい最近まで民間人であったのだろう? よく、帝都まで来たものだ」
「それをまず評価していただければ」
「おのぼりさんが帝都に来たところで、それは所詮その程度だよ。ロバが旅をすれば馬になって帰ってくるわけではないのと同じだ」
認めるつもりはさらさらないらしい。時雨はそろそろ会合も行き詰ってきたと感じた。
「ではまずは戦果を見ていただきたい。まだ彼はモリビトに慣れるどころか、幽鬼との戦闘も一回目。初陣を飾れるほど皆が皆出来ているわけではありませんよ」
その言葉に評議会の面々は文句を垂れ流す。
「初陣も飾れない人間が、勝てるのかね? 幽鬼に」
「そもそも、万全を期すのが君らの役割だろうに」
「承知しております。ですが、まだこちらも粗削り。これからですよ」
時雨の纏めにお歴々はとりあえず納得したようだ。この場を仕切っている獅子の仮面の高官が声にする。
「では、今次評議会を終了しよう。時雨准将、次は、期待してもいいのだろうね?」
念を押す声に時雨は軽く返す。
「次の次まできっちりと遂行してみせますよ」
鼻を鳴らし、評議会の面々が会議室を出てゆく。
明かりが点き、高木が強張った肩から力を抜いた。
「……考えられませんね。まだ幽鬼との実戦はそれほどないというのに結果ばかり追い求められても」
「仕方あるまい。人間にとって一番に分かりやすい指標は結果だ。お歴々は結果さえ出せれば資金面の援助は打ち切らないと言っているんだ。その面ではまだやりやすい」
立ち上がった時雨は写真を手にする。モリビトと幽鬼との戦闘を写し出したものだ。
「モリビト弐号は大破。だが相手方……壱号幽鬼もそのすぐ後に姿を消した。ある意味では、幸運であったのかもしれないな」
あれ以上戦場が長引かなかった。モリビトを出したのは正解だったのしれない。
「しかしどこから……。今回も諜報班に任せる事になりそうですね」
出現地点の不明な幽鬼の全貌。しかし相手はこちらに肉迫してきた。つまりそれだけ証拠を残した可能性がある、という事だ。
「なに、当てのないわけではない。それに我が対策室の諜報班は、言ってもそれほど無能ではないよ」
「どうなさいますか? 日下部少尉に関してですが……」
濁した語尾に翠の状態が窺えた。
「もう戦いたくないとでも?」
「……言ってもおかしくはありません。爆砕ボルトが作動し、直撃を免れたとはいえ殺されかけたのです。それにモリビトの操縦区画が切り離されたといってもそれは射出だけを考えていてその後の事は考えていませんでした。もし、彼女に傷跡でも残る事になったら……」
「彼女、とは、もう公の場では言わない事だ。高木少佐」
その言葉を制すると高木は思わず、と言った様子で口元に手をやった。
「失礼しました……」
「いや、いい。いかに君が日下部翠に入れ込んでいるのかがよく分かる。わたしとて、少尉に死んで欲しいわけではない。血続の代わりはいないし、何よりも人の替えが利くような現場ではないのでね」
「高官達は分かっていませんよ。現場が、どれだけの苦労をしているのかなんて」
「分からないよ、あの人達は。金を出しているだけだ。モリビトがどのような損耗具合なのかも興味はあるまい。あの方々にとって意味のある指標は、金が無駄になったか、それとも有効になったか、それだけだ。どぶに捨てている、と思わせなければいい。我々が上手になれば、向こうも何も言ってはくるまい」
時雨は会議室を出る。会議室から続きになっているのは小さな準備室で、ここで仮面の高官達は仮面を外してから出て行くのだ。
お互いの素性は声である程度分かるのだが、あまり干渉はしない。
それが評議会のやり方である。
「高木少佐。日下部翠はもう一度、モリビトに乗ると思うか」
その問いに高木は逡巡の間を浮かべた。
「難しい、かもしれませんね……。以前までならば、兄である日下部孝雄大尉の仇、で乗れたのかもしれません。ですが実戦を一度知れば、自ずと及び腰になるもの。もし、少尉が田舎に帰ると言っても私には止める言葉はありません」
「田舎に帰る、か。それは多分、ないと思うがね」
「ない? 何故ですか? あれほどの恐怖に晒されれば、誰だって」
「逃げたくなる、か。だが逃げないだろう」
その確信の意味が分からないのだろう。高木は首をひねる。
「その根拠は……」
「――彼が、日下部翠であるからだよ」