夕刻の空をカラスが飛んでいく。
ああ、帝都にもカラスがいるのだ、と思って翠は茜差す空を眺めていた。
「日下部少尉……、こう連続じゃ俺も参っちまう」
シゲもすっかり疲れた様子でコーヒーをちびちび飲んでいる。翠も機械油のようなコーヒーを飲みつつナナツーを見やった。
一日も早く乗りこなさなければ、と言っても身体に覚えさせるのだけで必死だ。操縦のいろはも未だに成っていない。
「オレも、疲れちゃいましたね……」
「おやっさん、こっちのほうが大変だって分かっていてやったんじゃないか?」
シゲは布巾で顔を拭ってぼやいた。
「すいません。付き合わせちゃって」
申し訳ない気持ちでいっぱいになる。そんな翠にシゲは手を振った。
「いや、いいって事よ。俺だってナナツーをいじるのは好きだし。……ただ、馴染まねぇなぁ」
翠は正座を組んで謝った。
「すいません……。姿勢制御がやっとですね」
ナナツーで出来るようになったのはとりあえずよろめかないように立つ事だけ。走ろうと思って姿勢を変えるとまだ転んでしまう。
「まぁ、現場でナナツーの中身も分かって操縦している俺達と、昨日今日現場に来たばかりの仕官さんじゃ、やり方は違うかもしれんが……」
「オレ、役に立っていませんよね」
ため息混じりに肩を落とす。シゲは煙草をくわえて火を点けた。翠へと一本手渡す。
「あっ、どうも」
火を点けてもらって吸うと、煙いものが喉の奥にひりついた。まだ酒の痛みが残っているのだ。
「痛っ……! ていうか、苦い……」
咳き込んでいるとシゲが顔を覗き込んでくる。
「煙草やらないの?」
「あんまり、得意ではないです」
というか、女であった頃には酒も煙草も男の文化だと思ってやった事はない。父親が所持している煙草をくわえて姿見の前でポーズを取った程度だ。
「そんな人間がおやっさんと飲み比べか。相当だったろう?」
「ええ、まぁ……。山城さん、いつもあんなに?」
「飲むよ、あの人は。うわばみだな。それと飲み比べて突っ伏したんじゃ世話ないけれど」
やはり山城が宿舎まで運んでくれたのだ。女だという事がばれなかっただろうか、と困惑する。
「オレ、酒も煙草もやっぱり得意じゃないんですかね」
「そういうのは大勢いるさ。ただ、この閉鎖された空間でガス抜きの場所を求めれば自然と、趣味とかそういう類に走る。俺は機械いじりが好きだからいいけれど、そうでない奴は苦行かもね」
「整備班の人達は、基本的に地下格納庫で?」
「一日中、小難しい図面と睨めっこさ。好きで配属された奴はいいけれど嫌な奴にとっちゃ地獄だろうな」
自分は人々の苦行の上にモリビトを動かしていたのだ。それなのに大破したのでは皆が怒るのも分かる。
「……すいません。壊しちゃって」
「直すのも俺達の仕事さ。どうせ急ごしらえの弐号機の躯体だったし、次はもうちょっとましなのを用意出来ると思う」
「爆砕ボルトがなければ、オレ、死んでいたんですよね……」
呟いて翠は目をきつく瞑る。あの時、赤い光が瞬いた時に、もし爆砕ボルトが作動していなければ兄の後を追っていた事だろう。
「難しく考える事はないと思うけれど。爆砕ボルトが作動して、めっけもんくらいに思っておけば」
「でも! あれがあったお陰で、オレは生きて……」
「それもこれも、運、だよ。生きるか死ぬかなんて、結局天の運任せ。そういう場所で動いているんだ、俺達は」
運任せ。兄が死んだのも、運が悪かっただけだというのか。
――そんなのってない。
翠は拳を握り締める。運が悪い程度で、兄が死んだとは思いたくなかった。兄は、幽鬼に立ち向かい、その末に自決を選んだのだと。
「日下部少尉。大尉のようになろうとか思わないでいいと、俺は思うけれど。大尉は大尉だったんだ。あの人の目指す先にはそれしかなかった。でも少尉は違う。選択肢は広がったんだ。大尉のお陰で」
兄のお陰。
兄が自分を守ってくれているのか。
翠は紫煙をたゆたわせるシゲの横顔を眺めた。そうと決めた男の顔だ。自分は仕事に忠実にあるだけ。
それ以外の事は多分、考えないようにしているのだろう。
「……羨ましいな」
思わず呟いてしまっていた。シゲが問い返す。
「羨ましいって、大尉が?」
「ううん。シゲさんや、山城さん達が。自分のやるべき事と、やれる事を分かっている。オレには出来ないよ。分からないんだから、何も。ここに来て、激動のうちに何もかも行き過ぎて、何も決断出来ないまま、オレは……」
膝を抱えそうになった翠の肩にシゲが手を置く。
「何だかなぁ……。日下部少尉、まるで女みたいだぜ? いや、それが悪いとか言っているんじゃないけれど、後悔先に立たずって言うでしょう? 男なら、どしっと構えなよ。そうしているうちに見えてくるものもあるもんだって」
「見えてくるもの……」
繰り返して翠は自分の掌を眺める。操縦桿を一心に握ったせいでまめが出来ている。
「このまめが潰れる頃には、分かっているものなのかな」
「分かるだろうさ。何の成長もない人間なんて居やしない」
そう考えられれば、少しでも明日を前向きに出来る。
翠は立ち上がった。
「シゲさん。もう一回、お願い出来ますか?」
「いいけれど……、もう日暮れだ。あと一回やったら飯にしましょうや。腹ぁ減って……」
シゲが腹を押さえて肩をこきりと鳴らす。翠はナナツーの操縦席に飛び乗った。
「行きますよ」
シゲもナナツーに乗って応対する。
「よっし。こっちも準備出来た」
翠の操るナナツーが立ち上がり、車輪を疾駆させてシゲのナナツーと組み合う。
ここまでは出来るのだが、この先の姿勢制御がおぼつかない。シゲのナナツーが翠のナナツーの腕を払う。
まるで相撲取りだ。
シゲのナナツーは間断なく張り手を見舞う。対して翠のナナツーは必死に転がらないように姿勢制御に努めるしかない。張り手をいなす事は一回二回程度ならば出来るようになったが、問題はその後。
後部に体重が移動し、ナナツーは後ろにすっ転びそうになる。翠はとっさの判断で車輪を回転させた。
前進する動きで重心を前に傾けさせる。
ほとんどよろめくように、ナナツーが姿勢を取り直した。
しかし、シゲのナナツーは手を緩めない。すぐさま払われた一撃が翠のナナツーを捉え、横に転がってしまった。これで勝負ありだ。
「日下部少尉……。手を」
シゲも相当集中力と体力を使うらしく、息を切らしている。翠も息も絶え絶えにナナツーの手を伸ばして立ち上がらせた。
互いに操縦席から降りて健闘を湛え合う握手をする。
「これで二十戦常勝」
「こっちは全敗、ですか……」
「しょげる事はないって。まだまだ伸びしろありますよ」
全勝の相手に言われると慰めじみている。翠は乾いた笑いを浮かべながら感慨にふけった。
――田舎の村では、負けた事なんてなかったのに。
「飯食いに行きましょうや!」
シゲが手招く。応じつつ、黄昏の空に帰ってゆく小鳥達を目にする。
「飛べれば、少しは違うのかな。高く、もっと上へ……」
「少尉?」
怪訝そうにするシゲに翠は追いつく。
「何でもありません。食べましょう」
陰陽師達が、喝、と声を張り上げる。
錬鉄の分野では整備班の許しを得なければならない。火の粉が舞い散る中で陰陽師と時雨、高木と同席しているのは山城であった。
「困りますねぇ、准将殿。うちのモリビトに勝手な装備つける、だなんて呼び出されたかと思ったら」
山城がくいっと頤を突き出す。
その先には祈祷する陰陽師達がいた。錬鉄されてゆくのは呪符を基にした新たな基盤である。当然、基盤の組み込みに関しては専門職である山城の許しが必要だ。
「許可をもらえて感謝している」
その言葉に山城はけっと毒づく。
「てこでもこれを入れるって言うんでしょう? ……確かにあのくそ忌々しい幽鬼の基になっているのがこれかもしれない、って聞けば、モリビトに組み込む事に一家言はありますよ」
「だが、山城班長の柔軟な対応があったから、こうして精製している」
「俺も知りたいんでさぁ。あの幽鬼の、大元ってのが本当にこんな矢じり一つなのか、ってね」
山城も疑問に感じているはずだ。
どことも知れず出現する幽鬼。その正体を。山城は専門職、ならば質量をまるで感じさせない幽鬼の存在を独力で探っていてもおかしくはない。
「矢じり型のこれを呪符、と呼称する事にした。よろしく頼む」
「呪符……嫌な響きさね。呪いのお札ですか」
「これが呪いかどうかは、モリビトに組み込んでみてからしか分からないよ」
喝、と陰陽師の声が高らかに響き渡り、錬鉄されたその矢じりに輝きが宿った。薄い赤の光だ。
「反応した?」
時雨の言葉に陰陽師の一人が呟く。
「何かが、入ったようですが……」
「おいおい、完成間際からこの調子かよ」
山城の言葉をよそに時雨は問い質す。
「何が入ったのだ?」
「こちらとしても分かりません。ただ、赤く発光したのは一瞬だけのようですね」
もう輝きは失せている。時雨は顎に手を添えて考えを巡らせた。
「幽鬼への反応か、あるいはこれ自体の完成か」
「わけの分からないもんを造ったんですから、それなりの対価、はあると思ったほうがいいんじゃないですか。俺はこれに関しては手を触れていない、という体でいいんですね?」
山城の声に時雨は首肯する。
「無論だ。むしろ、反対の姿勢を貫いてくれた、と言ってくれてもいい」
「俺としちゃ、こんな不確定要素をモリビトみたいな精密機器に入れる事さえも反対なんですが、上からの命令じゃどうしようもない」
山城からしてみれば、モリビト弐号という完成されたものに余計な手を加えられるようなもの。いい気がしないのは無理もない。
「才能機は悪くはならないよ。こんな部品程度で」
そうは言ってみたものの、幽鬼を動かす根源かもしれない部品である呪符。何もないと高を括るのも間違いだろう。
「頼むから、これ程度で高くつく代償だけはやめてくださいよ」
「整備班の頑張りは知っている。わたしはそれを過小評価しているわけではない」
時雨の言い分に山城は鼻を鳴らす。
「それにしちゃ、坊ちゃんの操主は放任主義ですかい?」
山城と何かあったのか。その言葉尻には前日までの棘が少しばかり弱くなっている。
「日下部少尉が、何か?」
「准将のご命令ではなかったんで? では、本当にあいつがやってのけた、って事なのか」
どこか感嘆さえも含む声音に今度は時雨が怪訝そうになる。
「何か、失礼でもしたかな」
「失礼というか、何というか……。まぁ、操主って言うのはあれくらい豪胆なほうがいいのかもしれませんがね」
山城との軋轢があるのならば翠に注意を促しておくか、と考えていたが山城はふっと笑みを浮かべた。
「何か、面白い事でも?」
「いやね、あの坊ちゃん、なかなかにいじり甲斐はありそうです。操主として一人前に成るかどうかはさておき、ですがね」
山城の言葉はどこまで本気と取っていいのか分からない。時雨とて持て余す部下の一人や二人はいる。
「整備班に失礼があったのなら、わたしが詫びよう」
「いいですよ。それこそ、見当違いって奴だ」
サングラスの奥の瞳を細めた山城に、時雨はひたすら解せない感情を持て余すだけであった。
陰陽師が高く声を張り上げる。
再び発せられる喝。
山城と時雨が同時に目線を振り向けると、矢じり型の鉄部品が出来上がっていた。
窪みも完全再現されており時雨は満足そうに頷く。
「これで、呪符は完成された」
「これ、どこに埋め込むんです? 場所によっちゃぁ、無理ってもんもある」
「一番に分かりやすい場所だよ」
時雨はつんつんとこめかみを突く。山城は理解したのか眉をひそめた。
「操縦席に? 何です? 安産祈願ですか?」
冗談めかした声に時雨も肩を竦めた。
「神頼みのようなものを操縦席に貼り付けておくのは何ら間違いではないだろう? ブルブラッドエンジンは一切手を触れないし、その他の部品の弊害になる場所にも置かない。設置箇所は、操主の股下だ」
山城は解せないのか顎に手を添える。
「操主の股下……? 何でそんな場所に?」
「操主、血続の影響下を最大限に受ける場所が好ましいからね。本当ならば操主に付けておいて欲しいのだが、それは叶わないだろう」
操縦のいろはもまだろくに出来ていない翠にこれ以上負担をかけても仕方あるまい。山城もそれには賛成のようだった。
「ですな……。あの坊ちゃんに持たせると壊しちまいそうだ」
「設置検討、してもらえるか?」
「検討ではなく決定でしょう。分かりましたよ。操縦席に組み込みます」
「助かる」
時雨は再び呪符に視線を向ける。光沢のある矢じりの先端が、鋭く輝いた。
げっ、と声を詰まらせたのは食堂に岩倉がいたせいだ。
地理を叩き込まれたっきりあえて会わないようにしていたのに鉢合わせとは。
相手もばつが悪いらしく、少年のかんばせをぷいと背ける。
「岩倉さん……あの……」
「言い逃れや言いわけは、ご飯の間は聞きたくありませんね」
ぐうの音もでない翠を差し置いて岩倉は一人で席につく。シゲが声をかけてきた。
「おっ、岩倉のチビじゃんか。飯食う?」
「チビじゃない!」
岩倉が明らかに激昂してテーブルを叩いた。どうやら岩倉にとって背丈はあまりにも繊細な事らしい。
「んだよ、背が小さい分、許せる範囲も狭いのかね」
「うるさいぞ、整備士。僕にはきっちりと役目がある。お前らみたいに機械いじりに精を出してればいいってわけじゃないんだ」
「おうおう、言うねぇ」
シゲは半分相手にしていないらしい。適当にあしらって翠を呼んだ。
整備班が集まっており、全員で食事を囲んでいる。まるで大家族だ。
「こんなに、整備士の皆さんっていたんですね……」
ざっと二十人。しかし、これでも半数程度だという。
「半分はもっと早くに飯を食ってもう作業だよ。俺達はちょうど休憩ってわけ」
シゲの言葉に翠ははぁと生返事を寄越す。
「あの、オレのせいで、モリビト、壊れちゃったんですよね……」
「あんまり気にする事はない……とまでは楽天的にはなれないけれど、まぁ壊れたのが急造部品だったのが幸いしたかな」
「急造?」
「モリビトの、操縦区画より下は壱号機の予備部品で構築した急造品だったんだ。だから、壊れてもさほど痛くはない。ま、だからって壊してくれないほうがよかったにはよかったんだけれどね」
快活に笑うシゲと他の整備士を前に翠は肩身が狭くなる。
「その、操縦区画は……」
「ああ、大分頑丈さ。壱号機の失敗点を活かしてかなり頑強に造ってあるから。ただ、その代償として重いのはあるか。あとは着地時の衝撃を和らげるための緩衝材が必要かな」
「川本、それなら接地と同時に緩衝材の出てくる方式を用いないのか? あれはやはり便利だと思うぞ」
「俺も思うんだが、あれだと一部分しか囲えない。全包囲を鑑みるならば、やっぱり部品一つ一つの強度増しだろうな」
「だが操主の安全性を考えるなら」
「いや。そもそも脱出を前提とせず、爆砕ボルトにかかる電圧を低くしてブルブラッド活性に充てたほうが」
「馬鹿。それじゃあ壱号機の失敗の意味がないだろが」
整備班の言い合いに翠はより一層居辛くなる気がした。
「あの……オレ、邪魔ですかね?」
持ってきた丼もあまりおいしく見えなくなってしまう。シゲは手を振って、「やめだ、やめ」と打ち切った。
「操主様に腹ごなししてもらわなくっちゃ、俺達の作業も意味ないんだ。食堂くらい静かに行こうぜ」
「だな」
整備班はそれで納得したらしく、全員が夕食に戻った。その様子は少し可笑しい。
「何だか、整備班っていう一つの人間みたいですね」
「まぁ、死ぬ時は布団の上より鋼鉄の砂利の上のほうがいいって言う連中の集まりだからな。みんな、似たり寄ったりなのさ」
「でも、シゲさん。何でナナツーの操縦まで? 兄に教えていたのもあるのでしょうけれど」
「ナナツーは……まぁ、その、あれだ」
「シゲの道楽だよ」
口を挟んだ整備士にシゲはしーっと指を立てる。
「ど、道楽?」
「いやはや、何ていうかその……」
「本当は操主になりたいんだよ、こいつ」
囃し立てる声にシゲは、おいおいと参っているようだ。
「言ってくれるなよ……現役操主様の前で」
「操主に……? なればいいじゃないですか」
自分よりもモリビトもナナツーも理解している。なれる素質はあるだろう。
「駄目なんだって。ほら言ったじゃない? 血続ってのが必要なんだって」
そういえば初日にシゲに聞かされた。兄もその血続であったのだと。
「結局、血続だからってそういうのは学んだもの勝ちっていうか、好きこそ物の上手なれみたいな部分はあると思いますけれど」
「まぁ、日下部少尉は着任したばかりで分からないかもしれないけれど、意外とあるんだな、その差って奴が」
他の整備士が得意そうに言うのをシゲは苦々しい表情で聞いていた。
「好きこそ物の上手なれ、ね……。それで操主になれるんなら、ここにいる全員にその資格はある。でも、何ていうかな、素質ってのは一部の人間にしかない。資格と素質って似ているようで違うんだよ。別に条件だとか、そういう高尚なものがあるとも思っていない。でも、やっぱりなぁ……。血続を前にすると違う、ってのがあるわけ」
シゲの諦観に翠は首を傾げた。
「そんなものなんですかね?」
「おやっさんはよく分かっているよ。あの人操主にすればいいじゃん、って案も一時あったらしいけれど」
「ああ、おやっさんが言ったんだっけ? 〝いいか、こういうのを動かすってのと、極めるってのは違うんだ。極め人には、極め人の仕事。動かす人間にはそれ相応の仕事と責任がある。だから、何でもかんでも一括りにしちゃあ、いけねぇ〟……って具合にね」
山城の真似をしたシゲに整備班から笑いが飛ぶ。
「似てる! 似てる!」
「そんな感じだもんな、おやっさんは!」
当の山城が出てくれば怒鳴り散らしそうな場であったが、翠は自然と和んだ。
あの寒村で、友人達と一緒に弁当を食べたのが思い出される。まだ一月と経っていないのに、あれはもう何年も前の出来事だったかのように懐古された。
そういえば自分に御守をくれた青葉はどうしただろうか。錦翔子は今でも威張り散らしているのだろうか。教員は、自分という一番のいじり甲斐のある生徒を失ってどうしているだろう。
随分と遠い場所に来てしまったような気分だ。あの日々が決して色褪せたわけではない。むしろ、輝きは依然としてある。
ただ、あまりにも遠い、というのは歴然であった。
今の自分は男だ。
日下部翠少尉なのだ。
軍人であり、帝都を守るための操主。
過去は捨てたと思ってもいい。もう戻れる日々ではないだろう。自分から切り捨てた。
兄の真実を知るために。最後の最後まで、足掻き続けると。
「おーい、少尉殿。眉間に皴、寄ってますよ?」
指摘されて翠は思わず額を押さえた。シゲを含む整備班が笑い転げる。
「何だか間の抜けた人だよなぁ、日下部少尉って。大尉も似たような人だったけれど」
「あの人はほら、戦闘の時と普段ではまるで人格が違ったもんなぁ」
兄の話だ。翠は思わず食いついていた。
「どういう風に? どんな感じだったです?」
「まぁ、あれは俗に言う、昼行灯って奴だね」
思わぬ評価に翠は目を見開いた。兄を指して昼行灯とは。
「でもそうなんだよ。普段は滅茶苦茶、ぼーっとしてるんだ。何考えているのか全然分からない。で、話しかけると朗らかに笑って応対してくれるんだけれど、やっぱり何を考えているのか分からない人だったなぁ」
自分の知っている兄は、日下部孝雄は、どういう人間だっただろうか。思い返して目頭が熱くなったので今は堪えた。
「弟なんだし、やっぱり似てるところあるよ」
「まぁ、兄は優しい人でしたから」
「軍人気質じゃなかったよなぁ」
笑いが飛び交う中で翠はふと、岩倉に目を留めた。岩倉はその言葉を、その様子を、どこか忌々しげに目にしていた。箸を握る手に明らかに力が篭っているのが分かる。
何か、兄とあったのだろうか? 翠がそれに集中していると整備班が呼びかけた。
「日下部少尉もそうかもな」
「いやいや、日下部少尉は何ていうか、生真面目だよ。ナナツーの操縦したいって言い出したり、おやっさんと飲み比べしてまで張り合ったりとかさ。そういうところ、本当に律儀だよ」
「あの、皆さん。日下部、ではその、兄と区別がつかないので、名前で呼んでいただいても結構です」
「でも、少尉相当なんだから、苗字で呼ばないと失礼だろう?」
だが翠からしてみれば堅苦しい上に少しこそばゆい。
「オレ、少尉言ってもそれらしい事なんて全然ですし、皆さんに教えてもらう立場ですから」
「じゃあ、翠少尉って呼べと?」
「そっちで呼ぶとこっちが痒くなっちまう」
場が華やぐ中、岩倉が食べ終わり、席を立った。翠は慌てて丼を平らげ、食堂を後にする。
「あれ? 翠少尉? 早速、わけ分からないなぁ」
背中に声を受けながら翠は岩倉の後を追った。岩倉ともよく話しておかなければ。そうでなければ対策室の士気に関わる。
追いついた翠は岩倉を呼んだ。岩倉が眉根を寄せて立ち止まる。
「何ですか。お仲間達と馬鹿騒ぎしないでいいんで?」
やはりそれを気にしているのだ。翠は覚えず聞いていた。
「何で……。整備班の皆さんは仲間でしょう?」
「仲間、ですか。しかし僕と彼らは相容れません。だって、戦略担当と整備担当は別の部署ですから。僕はあなたに地理を教え込まなければならない。来る幽鬼との戦闘を前に、お喋りをしている場合ではないんです」
「別に、楽しく食事したって」
「幽鬼は、待ってくれません。それに楽しく、と言いましたね。先日の幽鬼襲来で、何人もの軍人が死にました。重傷者もいます。それを分かっての言葉ですか?」
翠は言葉が出なかった。重傷者、死者、いるのは分かっていても意図的に目を逸らしていた部分だ。
「それは……」
「楽観的に笑える状態ではないのは明らかでしょう。だって言うのに、あんな連中とつるむなんて」
「でも、戦い以外では、そんなのを持ち出す事はないんじゃ」
「戦い以外、と。この軍事施設で戦い以外、と言ったのですか? 軍人は遊びのために集っているわけじゃないんですよ。戦うために、帝都防衛の任を帯びてここにいるのです。だというのに、整備班とじゃれているあなたは子供か、女のよう」
急に言い澄まされて翠は口ごもる。女子供のようにただ楽しければいいように映っているというのか。
思わず言い返した。自分は女を捨てたのだ。だというのにその指摘はあんまりだ。
「何がいけないんですか。毎日むすっとしていたほうがいいとでも? 悲しんでいたほうがいいとでも?」
「操主として、自覚がないと言っているんです。散っていった命に報いるくらいの気持ちがないと、あなたはその犠牲の上に自分がいることも忘れているようだ」
「忘れていません!」
思わず大声になる。
ここにいるのも全て、散っていった兄に報いるためだ。命を軽んじているわけがない。死んでいった者達の無念を集めて、その上で戦う。それこそが一番のはずだ。
「……忘れていないというのなら、証明してくださいよ。あなたがどれほどまでに、仲間の命を思っているのかを」
詰め寄られて翠は困惑した。証明する手段などない。だが……、言い負けたくなかった。
「だったら、次の幽鬼との戦闘で勝ってみせます。それが一番に分かりやすいでしょう」
「口では何とでも言えます。戦術指導も受けずに、操縦技術だけ上げても帝都では勝てませんよ? 幽鬼の出現地点すら頭に入っていないのに」
「頭に入っていれば偉いんですか。どこに現れるのか分かっていても何も出来なければ一緒でしょう」
売り言葉に買い言葉の体で翠は言い放つ。岩倉は眉間に皴を寄せた。
「よく言える……。新米操主が」
「あなただって、ろくに教えもせずに決め付けてかかって」
一歩も譲らないでいると岩倉が鼻を鳴らして踵を返した。
「そんなので、モリビトを動かせるとは思えません。動かせたとしても、どうせ勝てないでしょう。また壊して、それでもお優しい整備班の人達に甘えて」
「甘えてません」
憮然と言うと岩倉は捨て台詞を吐く。
「せいぜい、吼えておくんですね。……どうせ実戦では、弱音なんて誰も聞かないですから」
翠は拳を握り締めた。
――負けない、負けたくない。
その思いが翠の胸中を満たしてゆく。
「勝ってみせる……」
行き交う人々を、その男は検分していた。
黒い仮面も、顔を伏せていれば気づかれない。
腰に提げた刀も、模造品だと思われているのか雑踏の中では目立たなかった。
狙うのは一人になった獲物だ。
男はゆらりゆらりと、公園のほうに向かってゆくサラリーマンを見つけた。その背中を追っていくとベンチに座り、寝息を立て始める。
男は刀の鯉口を切って、すっと切っ先をサラリーマンの首筋に当てる。
今から殺される事を微塵にも知らないサラリーマンに、男は言い放つ。
「これでは、無念が足りんか。持って一時間ほどか」
男は獲物を再検討する。
酔ったサラリーマン程度では駄目だ。この世に無念があればあるほどに、自分の構築する駒は有効になる。
次いで目に留めたのは女だ。
少しばかり夜遊びを覚えたばかりの頃合の女が一人、帰路についている。
男は刀を片手に女の後をついた。女は自分がこれから死ぬなどまるで思っていない。
こいつにするか、と男は足音も立てずに肉迫し、背筋を斬りつける。突然に迸る血潮に、彼女自身が驚愕しているようだった。
男はさらに一撃、肩へと加える。倒れ伏した女は仮面の男を見上げようとする。そのまま刀で顔を斬った。ああ、と呻く女に男は懐から御符を取り出す。
「無念に散っていった魂。それこそが最上の素材。二時間、と言ったところか」
事切れた女の上に御符を翳すと御符から光が漏れた。三つの線から放出された光が一つの巨躯を構築する。
「さぁ、存分に暴れるといい。常世を壊し尽くせ」
鍵穴の筒先から赤い砲弾が発射され、帝都の夜を染め上げた。