第拾九話「戦いのあと」
暖かい空気だ。
ふわりと宙に浮かぶような柔らかさを伴った空気が辺りを満たしている。
自分はその中を手探りして、暖かな空気を掻き分ける。どこまで続くのだろう。どこまであるのだろう。地に足もついてないように身体が軽い。どこまでも行けそうだった。
「ここは……」
声を震わせる。まさか死後の世界だろうか。
だが地獄のような冷たさは存在しない。ならばここは極楽か。それを判じるためにも歩き続けると、一人の男が背中を向けていた。
振り向かなくとも分かる。幾度となく見てきた馴染みのある背中だったからだ。
「にいにい様!」
声を上げると、その背中が僅かに身じろぎする。歩み寄ろうとして、遮ったのは灼熱の炎の線であった。
その炎を境にして、自分と兄とが区別される。兄は立ち上がり、そのまま離れていこうとした。
「駄目っ! にいにい様はもうどこかに行かないで!」
虚しく叫ぶも兄の背中は遠ざかるばかり。思い切って炎の線を跨いで踏み込む。
その瞬間、紅蓮の業火が自分を押し包んだ。
――熱い。
骨の髄まで焼かれた気分だ。一瞬にして肉体を引き裂いた炎の勢いにその場に蹲る。
「あたしは……、にいにい様に行って欲しくないのに!」
声を上げると喉を炎の蛇がのたうって焼き切った。喉元からよだれと一緒に血が迸る。
「あ、ああ……」
呻く声は断末魔の響きを伴わせた。
兄の背中が遠ざかる。だが、これ以上、手の届かない人になって欲しくない。
死に物狂いで駆け寄って裾を掴んだ。
「行かないでっ! 翠は! そのために帝都に……」
そう口にした瞬間、兄の影が振り返る。
――息を呑んだ。
その顔は人のものではない。悪鬼羅刹の赤く血走った瞳と、牙の覗く裂けた口元であった。翠が仰け反ると、孝雄の姿をした悪鬼が翠の肩を引っ掴み、服飾を引き裂いた。
裸体の翠へと孝雄の影が手で触れる。その掌は灼熱であり、触れられただけで身悶えするほどの熱量であった。
「熱い……、にいにい様、やめてっ!」
口の端から灼熱の息を吐き出しながら、兄の幻影は左手を掲げる。
その左手には鉤爪が装着されていた。
ハッとして翠は兄の幻影を注視する。
その姿とだぶったのは灰色の装甲を持つ無機質な機体。
「モリビト、弐号……」
次の瞬間、モリビト弐号の装甲が全て裏返って展開し、血潮を撒き散らした。その血潮でさえも地獄の炎のように熱い。翠は全身を焼け爛れさせられて悲鳴を上げる。
「いやっ! にいにい様! あたしは、こんな事のために」
機械油が翠を澱んだ川面へと押し付け、そのまま沈めようとする。
窒息の気配を感じ、翠は絶叫した。
夢の声を現実に持ち込み、翠は身体を上げる。
酷く喉が渇いていた。
ひりつく喉と指先に巻かれた包帯を目にする。現実の認識までしばらくかかった。
「ここは……」
「目が覚めたようだね」
叫び声を聞いて駆けつけたのか、医者が声をかける。翠は全身に包帯を巻かれている事に気がついた。その時に咄嗟に自分の身体を庇う。
「オレの、身体を……」
「ああ、その点については心配ない。もう知っている」
既に女である事はばれているのか。翠が顔を伏せていると何かを勘違いしたのか、医者は白衣に手を突っ込んだ。
「安心するといい。僕以外は知らない」
まだ秘密は守られている。だが、と翠は自身に巻かれた包帯と、痛む節々を自覚する。
「……また、失敗したんですね、オレ」
「いや、今回は迎撃成功だと聞いた」
医者の声に翠は呆然とする。
「そんな馬鹿な。オレ、モリビト弐号を起こす事さえも出来なかった。それであの後、操縦席に乗って安全帯をつけて、それで、えっと……」
そこから先が浮かんでこない。必死に記憶を手繰ろうとするとモリビト弐号の影とだぶった兄の姿が網膜をちらついた。
頭を振ってその像を振り落とす。兄がそんな事をするはずない。モリビト弐号もどうしてあんな状態が頭に浮かんだのだろう。
「少しばかりの打撲と、後は切り傷。なに、前と同じく軽症さ。あんな決戦兵器に乗り込んでよくいつも軽症で帰って来れるものだと思う」
医者の弁に翠は顔を伏せた。暗に何も出来ていないのだと糾弾されているようだったからだ。
「やっぱり、幽鬼迎撃なんて、オレ、向いていないのかもしれません」
「だから、今回は迎撃成功したって」
「でも! それ、多分オレの手柄じゃないですよ」
何が起こったのかは分からない。ただ、自分の手柄ではないという自覚だけはあった。医者は後頭部を掻いて首を傾げる。
「何をそんなに迷う? まさか自分の意識が昏倒している間に起こった事は、全部自分のものではないとでも?」
「そりゃ……そうなんじゃないですか。だって、オレ操主なのに」
「操主ってものはそこまで意固地に自分の手柄をこだわるものなのかな。別に偶発的に敵を倒した事だって立派な迎撃だろうに」
「……先生は、軍務について何年ですか?」
問われた言葉に医者は疑問符を浮かべる。
「四年くらいかな。対策室付きになったのはここ一年だけれど」
「だったら、もし自分の意識のないところで患者を治してしまったら、それは信用出来ますか?」
翠の問いかけにようやく理解したのだろう。医者は手を打った。
「なるほど、それは納得出来ないね」
「だったら! オレの甲斐性のなさがよく分かるはずです……! 操主なのに。二回も、モリビトの中で意識を失うなんて」
「それほどまでの極限状態、という事なのだろう。僕には操主がどれほどの気苦労に塗れているのかは察するしかないが、日下部翠少尉。君は僕の患者だ。だから治す、という義務がある」
「……治っても役に立たないんじゃ」
「そう卑屈になるなよ。いつまでもここのベッドを占領されていても困るんだ」
翠は医者の指示に従い、負傷箇所を見せる。他の患者や医療従事者の姿は見えない。どうやら完全に隔離されているらしい。
「こんな特別扱い……」
「じゃあ今すぐ、女である事をばらして操主から降ろされるかい?」
「それは! ……困りますけれど」
「面倒な事まで引き受けているんだ。それに僕だってきっちり報酬金はもらっている。口に戸を立てる努力くらいはしているさ」
その努力の結果が特別扱いか。翠は自嘲気味に口を開く。
「オレ、こんなのでいいんですかね」
「こんなの、とは?」
「怪我したら特別に治してもらえて、操主だっておだてられて、戦って、その最中に意識を失っちゃうんですよ。そんなの、軍人としては失格でしょう」
「かもしれない。でも君は望んで軍属になったわけではないだろう」
「いえ、望んだんです。自分の知りたいもののためには、軍属にならざるを得なかった」
男になった事も然りだ。しかし、医者は納得していないようだった。
「自分の意志で男になるって? そんな個人の意思程度で上が許すわけがないだろう。大方、時雨准将辺りにそそのかされたか」
上官への陰口に翠は忠告する。
「あの、准将の悪口は」
「これは悪口じゃないよ。あの人のやり方を全て是とする人間ばかりじゃないって事だ」
それは、悪口と大差ないのではないか。翠の抗弁を医者は聞き届けない。
「僕は患者に死んで欲しくないし、看る以上は治す。それだけ。だから、准将のやり方が間違っていると思えば口にする。恐怖政治というわけでもあるまい? あの人だって一軍人だ。神様じゃない」
意外であった。時雨の言葉に対して是と言うだけの人間で対策室を固めているわけではないのか。
「……時雨准将は、先生みたいな人も含めて、対策室を?」
「あの人は自分自身でさえも試す。そういう人柄だよ。当然、自分の命だってかけ金なものだから他人の命もなんのその。他人を駒としか思っていないんじゃないか」
「そこまでは……。准将だって怒るんじゃ?」
「こんな事にいちいち目くじらを立てる人ならば、上に立つ人間は務まらない」
そうかもしれない。時雨は失敗を取り立てて人の揚げ足を取るような人間ではないだろう。だが、自分はもう二回、失態を犯した。これ以上、時雨の目も、他の対策室の人々の期待も裏切るわけにはいかないだろう。
「でもオレ、制限付きなんです。何度も失敗出来るわけじゃない」
「誰だって同じだろうさ。何度も失敗を許されている人間なんていないよ。背中見せて」
翠は服をはだけさせて背中を見せる。どうやら背中にも怪我があるらしい。鈍く痛い程度なので打撲だろうか。
「あの操縦席、相当固いみたいだね。そこいらに打撲がある」
「操縦席……」
思えば随分と無茶な事をした。対策室の人々の声も仰がず、独断で照明弾を撃ち、戦場で生身を晒した。あれは危険な行為だったのだろう。よくあんな決断が出来たものだ。
「安全帯はしっかりつけないと、あの椅子じゃ気楽に一服もつけないだろうな」
「気楽にって……。モリビト弐号は戦いのための兵器です。そんな、気楽にやるような場所じゃないでしょう」
「お堅いな、君は。それを動かす当の人間が誰よりも肩肘張っているんじゃ仕方ないだろうに」
言われてしまえばそこまでだが、幽鬼との戦闘に緊張を持ち込まないほうがどうかしている。
「相手の正体も分からないんです。だって言うのに、気楽、なんて言葉は出ません」
「日下部大尉にそっくりだ」
唐突に出た兄の名前に翠は困惑した。対策室の医療班ならば、兄の事もよく考えれば知っているはずなのだ。
どうして思い至らなかったのだろう。この人物は兄の診療もしたはずである。
「その、兄は、どうだったんですか?」
「日下部大尉は、戦いに向いていなかった」
「戦いに、向いていない?」
「肉体的にもどちらかと言えば細身で、それに肉付きもよくなかった。筋肉質でもないし、もやしと他の仕官に笑われる事もある、とこぼしていたな、そういえば」
もやし。自分の敬愛する兄にそんな呼び名をした士官が許せなかったが、同時に理解も出来た。兄はやはり軍に入ったからと言って変わったわけではなかったのだ。
「毎回、モリビトに乗る度に怪我を作ってきたのは同じだ。まぁ、お兄さんは男だからある程度我慢が利いたが、君は女だ」
女である事が露見しているとここまで面倒なのだろうか。医者は自分を女だと判じて侮っているようにも思える。
「あの……オレは男のつもりでいるんです。そんな、女扱いしないでください」
「ああ、悪いね。生物学上女なのに、男の振りしているほうが不自然で」
それは医者の目線だろうか。翠は服飾を戻して襟を正した。
「オレは、男なんです。だから、先生でも、女扱いはやめてください」
「そういう風に断じれる間はいいが、もし、本当に重篤な場合は責任は取りかねるぞ。人の口に戸を立てるって言っても、僕個人は口が固いってだけだ。他の人間まで責任取れない」
モリビトに乗る以上、いつ重症化する危険性があるか分からない。この医者だけの秘密に留めるのにも限界が生じる場合がある。
「それなら……。いっその事、怪我も治さないで――」
「馬鹿。怪我も治さずにモリビトに乗せたら、それこそ僕の不手際だ。准将からお叱りを受けるよ」
遮って放たれた言葉に翠はこの医者がとことんまで患者として扱ってくれている事が分かった。自分の患者に無責任な事は出来ない性質なのだろう。
「……すいません。でも、モリビトに乗れない操主なんて」
「そういえば対策室でモリビト含む才能機の呼び名が変更になったらしい。准将の一存で決まったらしいが、どうせ人型特殊才能機の略称だからいいと通ったそうだ」
才能機の呼び名の変更? 翠は小首を傾げた。
「なんて?」
「ああ、何でもその名前は――」