この地区で褒められた場所なんてない。
名所もなければ、目を見開くような絶景もない。
だから、翠は庭園の裏にあるコスモス畑に招いた。コスモスの花が咲き乱れている。自分達の思惑など無視して、花は勝手なものだ。
「いい場所だね」
御仁は両手を後ろ手に組んでコスモスを眺めている。
「帝都では、コスモスは珍しいのですか」
「すっかり文明国の仲間入りをしようと躍起になっている帝都では、花に心動かされる暇さえもない」
御仁は自分から口を開く事はない。やはりこちらが詰問するべきか、と翠が悩んでいると不意に微笑んだ。
「びっくりしてしまったよ。日下部大尉の妹さんが、ここまでするなんて」
先ほどの恥が今さらに思い出されて翠はガラにもなく赤面する。
「……すいませんでした」
「いや、いい。私の言い分も悪かった。お兄様の死を、まるで隠蔽するような言い草だったからね。君がお兄様をとても大切に思っている事は伝わったよ」
この御仁は自分以上に兄を知っているようであった。翠は思わず激しい口調で返す。
「兄は……、軍務のせいで死んだのですか」
この国の軍部を憎めるならばそうしたい。だが、返ってきたのは意外な言葉であった。
「軍務、と言えばそうだが……。濁しても仕方がないな。はっきり言っておこう。お兄様が死んだのは、軍部が秘密裏に戦っている、敵のせいだ」
敵。その言葉が最初飲み込みづらかった。なにせ、もう仮想敵国は存在しないはずだ。戦争は遠ざかり、最早市民には無縁の代物となっている。
「敵、仮想敵国ですか」
「いいや、違う。我々が敵と呼んでいるのは、それではない。この説明は私の口からするべきではないが、大尉はそのために死んだのだ」
兄が死ななければならなかった要因。翠は問い詰めていた。
「教えてください! どうして、兄はそのために……。敵と玉砕でもしたのですか」
「玉砕……。そう言えなくもないが、これ以上の発言権は今の私には存在しない。日下部翠さん、あなたは真実を追い求めますか? たとえ残酷な未来が待っていようとも真実を。それを今、問いかけたい」
残酷な未来。
その言葉に躊躇するも翠の判断は速かった。
兄の死以上に残酷な未来など、自分にはあろうはずもない。
「教えてください。あたしは、真実のためならば、何でも賭けられます」
御仁はフッと深い笑みを浮かべて翠から視線を外す。
「何でも、か。君はお兄様を敬愛していたのだね」
孝雄の帰りを待っていた。
たとえ軍務に背いてもいい。
兄が帰ってきてくれるのならば、自分にとっては何よりも嬉しかった。だがそれが戦死という形でならば、自分は異を唱えよう。
何が起こったのか。
何のために、兄は死ななければならなかったのか。
粛々と、兄の死を受け入れるのが女としての正しい在り方かもしれない。御国のために散っていったのですね、と答えるのが回答としては正しいだろう。
しかし自分にはどうしても言えない。
兄の死を、立派だと飾り立てる事など。そのような虚飾を口にすると思うだけで反吐が出る。
「……兄の死を、あたしは一方的に突きつけられて、それで満足行かないだけなのかもしれません。納得出来ないと喚いている子供なのかも」
「子供、か。確かに先ほどのあなたの浮かれようは、まるで子供のようであった」
御仁の笑みに翠は恥じ入るように顔を伏せる。
御仁はコスモスの花に惹かれた蝶を認めて、すっと手を掲げる。すると蝶が指先に止まった。
「美しい庭だ。誇っていい」
「それはどうも……」
「日下部孝雄大尉はこのような環境で育ったのだな。だからこそ、あれほどまでに曲がった事が嫌いであった」
御仁は兄の事をどこまで知っているのだろう。
聞き質しても、この御仁は言えない、とかわすのだろうか。
「私がよくなかったのは、お兄様の遺骨の一つも持って来てやれなかった事だな。だから、あなたにこのような悲哀を招いている」
遺骨。
御仁の中で繰り返される兄の死という確定された事実。
だが翠はまだ、孝雄が死んだ事さえも認めたくない。
蝶がぱっと羽ばたいた。
その時には御仁がこちらに振り返って名刺を差し出してきた。
「帝都へ向かうといい。そしてこの人物を頼りとしなさい。彼はあなたを帝都に連れて来るように、と私に含めておいた、重要人物だ。お兄様の死についても、彼ならば詳細に口に出来るだろう」
翠はその名刺を受け取る。
御仁は帽子を目深に被った。
「私はこれにて失礼するよ。あなたの帝都行きを強制出来る立場ではないからね。……正直な話、お兄様が犠牲になったのにさらにあなたまで帝都に連れてこようとする彼には反発心を覚えている。これ以上、犠牲なんて要らないというのに」
その時初めて、御仁の本音が見え隠れした気がした。
誰も死なせたくないという思い。
この御仁はきっと最後まで、兄の身の上を心配してくれていたのだろう。
翠は名刺を手に、目をきつく瞑った。
「あたしは、帝都に行きます」
「そうか。予想されて然るべき事だったが、私はそれを推奨もしないし、止めもしない。あなたにこの名刺を渡す事だけが、私に出来る事だからね。これを渡さないのが、本来の抵抗だったんだが、やはり運命は無慈悲だよ」
御仁が歩み去ってゆく。
翠はその背中を呼び止めた。
「お名前は」
「いい。あなたが帝都に来るのならば、改めて名乗る事もあるだろう」
御仁は片手を上げてその問いを制した。