両親に、その日のうちに翠は宣告した。
帝都に行く、と。
止められるかと思われたが、父親はどこか諦観したように認め、母親は咽び泣いた。
親不孝者、となじられても仕方がない決断であったが、翠の決意は固かった。
「一つだけ、約束してくれないか」
父親の声に翠は沈痛に伏せていた顔を上げる。
「生きて帰ってくれ」
様々な感情を込めた精一杯の言葉だったのだろう。翠は静かに涙した。
帝都行きが決まると学校にも届け出を出した。
途中退学、という形になってしまった。無期休学は出来ないとの事だ。
翌日は生憎の雨で、翠は傘を差して学校に向かった。
いつもと同じようにおどけ、いつもと同じように青葉と接した。
しかし、いつもと同じではなかったものもあった。
錦翔子が、自分に絡んできたのだ。
彼女は単刀直入に言った。
「帝都に行くんですってね」
「ああ、うん。そう。ちょっとあってね」
「お父様が言っていらしたわ。帝都行きを決めたのはお兄様の事だったのですってね」
まさかこんな時まで嫌味を垂れようというのか。翠が警戒していると錦翔子は言葉にした。
「……何でです。帝都なんて、普通に過ごしている分には一生行かなくともよいところなのに」
悔恨の混じった口調に翠はハッとする。
彼女の顔が沈痛に歪んでいた。まるで何か、大切なものを失うかのように。
「錦翔子の気にする事じゃないでしょう」
「気にします。私は、あなたの事を対等な、競争相手だと思っていたのですから」
「競争相手って。大げさだよ。あたしの事、目の敵にしていたじゃない」
「そうしないと、あなたはこっちを見てくれないから……!」
錦翔子の意外な告白にも、翠は冷静だった。冷静に、自分の心境を吐き出す。
「錦翔子の気持ちはありがたいよ。でも、あたし、もう決めた事だから」
「でもあなたは、そうでない道もあるはずでしょう!」
覚えず、と言った様子で彼女は声を荒らげる。
そうではない道。
兄の死を素直に受け止め、これからも謙虚に、真っ直ぐに生きて行く道。
だがそんなもの、真っ平御免であった。
何かがあった事は疑いようのないのに、そこから目を背けるなど。
人間であるのならば、人生が一回しかないのならば、自分に正直に生きたい。
「あたしは、あたしらしく、生きていきたい。それだけだから」
「この場所でも出来ないの、それは」
翠はゆっくりと頭を振る。
錦翔子は顔を伏せて、罵声を吐き出した。
「あなたなんて嫌いよ! 大嫌い! 日下部翠!」
「うん」
「ああ! せいせいするわ! これでその小憎たらしい顔も見なくて済むのね!」
「うん」
「帝都にでもどこにでも好き勝手に行きなさい! あなたの勝手よ、そうするといいわ!」
「うん」
「……でも、それでも、立派にせめて胸を張って生きなさいよ。それが、私が唯一、競争相手として認めてあげた相手なんだから」
「……うん。ありがとう、錦翔子」
「帰ってくるって約束はしてくれないのね」
「ごめん。それは約束出来ないんだ」
父親に言った生きて帰ってくるという約束も、恐らく違える事になるだろう。分かっていて、翠は自分を偽った。
錦翔子が駆け出す。
その背中を呼び止める術を、翠は持たなかった。
いつも薙刀の授業を受けていた中庭に出る。
雨が地面をぬかるませて、翠の頬を伝う涙を隠してくれた。
激しい雨が顔を叩く。
叱責しているようにも、突き放しているようにも思えた。
「日下部さん。風邪を引きますよ」
声をかけてきたのは教員である。いつも翠を叱っていた教員だったが、今日はそのつもりはないようだった。
いっその事、いつものように叱ってくれれば逆にありがたかったのだが。
「先生。薙刀はありますか?」
その質問に教員は首をひねる。
「何故?」
「勝負してください。最後に、いつもやっているように、あたしを本気でのしてください」
それが別れの合図になるのなら、と。
教員は立てかけてある薙刀を二本取ってきて、翠へと片方を投げた。
受け止めた翠は下段に薙刀を構える。教員も同じ構えを取った。
「日下部さん。あなたは、大馬鹿者です」
「知っていますよ」
「本当に、何故あなたはいつもいつも……。真面目になれないのですか」
「あたしはいつだって真面目です」
呼気一閃。
翠の放った一撃と教員の放った一撃が交錯する。
泥を踏み締め、足を取られそうになりながら、翠は即座に回り込んだ。
教員も真剣だ。
真剣にこの立ち合いを終わらせようとしている。
「あなたはいつも、反抗してきましたね」
「それは先生の教え方が古いから」
「そんなでは、立派な淑女にはなれませんよ」
「なれませんよ。……もう、なれないんですよ」
諦めた声音に切り込むように、教員が鋭く攻撃する。翠は薙刀の握り手を返してその一撃をいなした。
再び距離を取り、二人がお互いを見据える。
「一つだけ。あなたに教えておく事があります」
「何ですか。まさか正しい淑女としての在り方でも?」
こんな時でさえもおどける。そうする事でしか自分を保てそうになかった。
今もまた、打ち付ける雨が流れる涙を掻き消す。
「――強く生きなさい。女らしくなど、関係のない、強く、自分を誰よりも信じて」
教員の発した言葉とは思えなかった。今まで形式ばった事しか教えてこなかった教員の本音であったのだろうか。
それを確認する前に声が放たれた。
翠も声を発し、打ち込む。
パチン、と決着の音が弾けた。
帝都行きの鉄道の駅舎で、青葉が渡してきたのは御守だ。
「何の御守?」
「一番は交通安全みたい。他にも何でも利く御守だって」
「何でもって」
翠は微笑む。
青葉は鉄道を見やって口を開いた。
「すごいね。これで帝都まで行くんだ?」
「ああ、うん。半日ほどかかるみたいだけれど」
両親は来なかった。母親は泣く事が分かっていたが父親は翠が必ず帰ってくる事を信じているのだろう。
青葉は翠の手を取る。
「帰って来る、って言うのは、言えないんだよね……」
「ごめん。あたしにも分からなくって」
「いいよ。翠、ずっと持っていてよ、その御守。多分、翠をいいほうへと導いてくれるから」
「安全運転が?」
冷やかしてやると青葉はむくれた。
こんな時でさえも同じように接してくれる友人がありがたい。
「錦翔子は?」
喧嘩別れのようになってしまったな、と翠は思い出す。
「いつも通りだよ。幅を利かせて。……でも、翠が学校に来なくなってから、少しだけ前よりも大人しくなった、かな」
あの日、自分に投げてくれた言葉を忘れはしない。
「そろそろ行かなくっちゃ」
翠の声に青葉は呟いた。
「……寂しくなるね」
「あたしも、出来れば一緒にいたいけれど」
もう決めた事なのだ。
帝都に行き、兄の死の真相を確かめる。それまでは帰れない。
「お土産話、期待しているね」
帰ってくる事を彼女も信じている。裏切る気にはなれずに、翠は首肯した。
警笛が鳴り響き、鉄道が静かに発車する。
翠は席について青葉から受け取った御守に視線を落とす。
よくよく目を凝らせば、赤い安全運転の御守なのに裏には安産祈願とある。随分といい加減な神様だ。
「そそっかしいんだから」
微笑み、翠は遠ざかってゆく故郷の町並みをその視界に据えた。
――もう二度と帰れないかもしれない。
ともすれば、軍人になった兄はこのような心境で数年前、旅立ったのかもしれなかった。それを自分も追体験するとは思わなかったが。
「……にいにい様。あたしは、何でにいにい様が死んじゃったのか、それを知りたい。だから今は、今だけは」
泣くのを許してくれますか?
言葉にならない叫びと共に、翠は御守を握り締めた。
「日下部翠が本日、故郷を離れたそうです」
電報で知った事実を述べると、執務机についた影が身じろぎする。
「そうか。よくやってくれた。君が彼女にそう促してくれたのか」
「いえ。彼女自身が決めました」
そう応答するのは数週間前に翠に名刺を渡した男であった。
彼は格式ばった軍服に袖を通しており、面持ちには緊張が浮かんでいる。
「そう、か。日下部大尉の妹らしいな」
そう口にするのは自分の直属の上官であり、なおかつこの事件の渦中にある人物であった。
「時雨准将。本当に、彼女を帝都に寄越してよかったのでしょうか」
浮かんだ疑問を口にすると時雨と呼ばれた男は眉をひそめる。
「何故、そう思う?」
「確かに、遺伝上は適任者……日下部孝雄大尉に極めて近いのかもしれません。ですが、彼女は乙女です。彼女に、日下部大尉にしたような事は出来ないでしょう」
何よりも日下部孝雄は軍人であった。
だからこそ命をとせた部分もある。だが彼女は一般人だ。
時雨は頬を掻いて聞き返す。
「それは、つまり、日下部翠の処遇に反対、と受け取っていいのかな」
「反対、と言いますか……。彼女は何も知りません。何も知らないままでも、よかったのでは?」
「それは不可能だよ。誰かが帝都の守り手になるしか、この混乱を止める術はない」
時雨は立ち上がり、窓の外から帝都の街並みを望む。
男には納得出来ない事が多過ぎた。
日下部翠を駆り立てる。それだけでも自責の念があった。
「あの少女は、何も知らぬまま、あの町で過ごしてゆくだけの未来があった。我々が奪ってしまったのかもしれないんですよ」
「では、兄の死を報せず、帝都で何が起こっているのかも知らず、ただただ無垢な少女のまま、過ごさせればよかったと?」
挑戦的であるが、彼の意見はそれに集約されていた。
「……極論ですが、そのほうが随分とましであったのかもしれません」
「意見は曲げぬよ、高木少佐」
高木、と呼ばれた男は改めて緊張に肩を強張らせた。
「何故なのです。確かに、血続でなければ動かせないとありますが、それは部分的証明に過ぎません。我々軍人でも訓練次第では動かす事が――」
「その訓練で無為に死んでしまっては何の意味もない。血続は、意識的か無意識的か、あのじゃじゃ馬を制する事の出来る能力の持ち主なんだ。軍人が制すれば、なるほど、それは確かに戦力にはなろう。だが真の意味で、あれを動かす事の出来るのは血続のみ。七二式簡易型ならば普通の人間でも動かせるかもしれない。だが七二では力不足であるのは自明の理。訓練用のみ、七二を用いる、というのは決定事項のはずだが」
高木は歯噛みする。
この男の意見を覆すだけの結果論をまだ軍部は示せていない。
「七二式でも、戦力にはなります」
「だがブルブラッド活性炉を時間制限なしでの運用には七二では足りんよ。あれでなければ、幽鬼には勝てんのだ」
――幽鬼。この帝都を脅かす敵の名前が紡がれ、高木は声を詰まらせる。
幽鬼に勝てるのは今のところ、あれしか存在しない。その事実が歯がゆく、自分には何も出来ないのだと思い知らされる。
「せめて彼女が来た時に困らぬよう、あれの運用方法でも書面で纏めたまえ」
「……彼女は、もし乗らないと言えば」
「乗るよ。彼女はね」
時雨の妙に確信めいた声音に高木は言い返す。
「その論拠は何です?」
「日下部孝雄大尉は逃げる事も出来た。幽鬼を前にして、脱出する事も出来た。それをしなかったのは、彼が義に走ったからだけではない。義勇など、彼は求めてはいなかった。血続には逃れようのないのだよ。――人型特殊才能機の魅力にはね」
極秘とされてきたその名前が口にされ、高木は身を強張らせる。
人型特殊才能機。
帝都が威信をかけて製造している決戦兵器の名前。
だがその搭乗者として想定しているのはまだ二十にも満たない少女。その矛盾に、高木は反発の声を上げたかった。
だが時雨は許さないだろう。
血続にのみ動かせるとされている人型特殊才能機の最新型。その製造には既に莫大な資金が動いている。今さら開発中止も出来なければ、その搭乗者の抹消も不可能。
「帝都の〝守り人〟に彼女を据える事にいささかの躊躇いもないのですか」
「ない。話はそれだけか? 下がっていい」
「失礼します」
高木は部屋を後にしてから歯軋りを漏らした。
何よりも、無力な自分が腹立たしい。
一日二日以内に、日下部翠はこの帝都に着くだろう。彼女を待ち受けるのは残酷な未来だ。兄の死よりもなお深い闇へと、彼女は浸らなければならない。
「日下部翠は……笑顔の素敵な乙女であったのだぞ」
自分に言い聞かせてやるように忌々しく告げると、何も出来ない無力さが余計に浮き立つようだった。