ジンキ・エクステンド 翠聖の翼   作:オンドゥル大使

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第六話「墓標」

 

 応接室で緑茶の香ばしい匂いが運ばれてくる。

 

 翠はソファに腰かけていた。顔を伏せ、膝に置いた手を凝視している。

 

 高木が緑茶を注ぎ、心労を口にする。

 

「……あなたにとっては酷な事であったと思います。お兄さんの事、それにモリビトの事」

 

 自分の前に湯飲みが置かれ、翠は目礼する。

 

「すいません……。あたし、混乱しちゃってるみたいで」

 

「無理もないです。時雨准将の考えを聞いたのでしょう?」

 

 高木も予め聞いていたのか。翠は目をきつく瞑る。

 

 ――男になってもらう。

 

 その言葉の意味が最初、咀嚼出来なかったが、時雨はこう説き伏せた。

 

 ――軍服を女が着る事は出来ない。だが君には確かな才能がある。操主としての才覚が。その凛々しい眼差しも、男になるのならばちょうどいい。

 

 ふざけているのか、と翠は思った。だが時雨の言葉にはいささかのてらいもなかった。

 

 本気なのだ。

 

 本気で、自分を男に仕立て上げ、操主にしようとしている。

 

 その考えに怖気が走った。

 

 時雨という一人の男の傲慢さだけではない。自分が、この帝都で文字通りたった独り。誰にも経歴を明かせないまま、男として振舞う。

 

 そんな事が出来るだろうかと不安になってしまう。

 

 ただでさえ孤独の強い帝都で自らを偽り、戦場の矢面に立つ。今の今まで薙刀を振るい、男勝りだと言われた事はあれど、本当に男になれとは無論、言われた事などない。

 

「無理は、しないでいいですよ」

 

 高木が胸中を慮ってか、声にする。翠は顔を上げた。

 

「あなたにとって、それが無理ならば時雨准将の言葉であれ、すぐに切り捨てて、田舎に帰りなさい。そのほうがいい。極秘文書を目にした事は誰にも言わなければいいだけの話。モリビトの操主もこちらで探しましょう」

 

 だがそれでは、と翠は口を開こうとする。

 

 十日経つか経たないかの間に、次の襲撃がある。

 

 帝都を襲う黒い影。

 

 あんな化け物を相手にして冷静でいられるものか。きっとモリビトを製造している人々とて必死だ。命をかけている。だというのに、自分だけ全てを知った上で逃げ帰ろうなど、許されるはずもない。

 

「……あたし、どうすればいいんでしょう」

 

 本当に分からなかった。どうすれば正解なのか。どうすれば兄の死に報いれるのか。

 

 モリビトの操主になれば、戦って勝てばいいのか。しかし、そのためには全てを偽りの上に糊塗してそれでも勇ましく立たなければならない。

 

 何より、男になどなれるものか、と翠は頭を振る。

 

「あなたは、日下部翠です。日下部孝雄にはなれない」

 

 ぽつり、と高木が喋り始める。翠は顔を上げた。

 

「高木少佐……?」

 

「日下部孝雄大尉は彼だからこそ出来た。彼だから幽鬼と戦えた。誰でも彼になれるわけではない。彼個人にしか出来ない戦いがそこにあった。だから彼の代わりになろうだとか、そういう事は思わないでいい。彼の死に報いるだとかも、それは軍人の仕事です。あなたは違う。妹だ。彼のただ一人の、妹であったのです。だから、それを忘れないで欲しい。彼は、無茶無謀をやれと言う人柄ではなかった」

 

 自分の知る限り兄はそうであった。強制された事など一度もない。穏やかで、こんな人に軍人は出来ないであろうと、家族や親戚も笑ったものだ。

 

「……でも、兄は討ち死にました。それは何より、軍人以前に、譲れなかったからだと思います」

 

「日下部さん……」

 

 譲れなかった。

 

 負けられない。負けたくなかったのだ。

 

 敗北は死よりも恐ろしい事を分かっていた。自分一人の敗北が帝都の人民の平和に関わっているとなれば、兄は温厚であった事など関係ないと思ったに違いない。穏やかな性格を捨て、鬼となって幽鬼を討つ。

 

 そのために孝雄はどれだけ犠牲にしてきたのだろう。どれだけ、自分を削ってきた事だろう。それに比すれば、男になる事など――。

 

 だが、何度か決断しかけてやはり、一歩踏み止まる自分がいた。

 

「……ごめんなさい、にいにい様」

 

 嘆く事しか出来ない。戦いたいのに、その一歩が踏み出せない。誰かに背中を押して欲しかった。お前が戦うのだ、日下部翠、と。

 

 高木は逡巡の後に、一つ言葉にした。

 

「……行くべきところに、まだ案内していませんでしたね」

 

 立ち上がった高木に翠は当惑する。

 

「行くべき、ところ……」

 

「辛いかもしれないが決めるためには見ておいたほうがいいでしょう。お兄様が死んだ場所、その墓標を」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 工場の一つは固く門扉を閉ざされ、関係者以外を固く拒んだ。高木は鍵を開けて暗い工場内へと入ってゆく。どこか湿っぽい空気が漂っており、翠は自然と忌避されている場所なのではないかと感じ取った。

 

「モリビトを見たのでしたね」

 

 高木の声に翠は応じる。

 

「ええ、まぁ」

 

「どう思われました?」

 

 質問されても答えられる事は少ないだろう。翠は率直な意見を述べる。

 

「あんなものが、実在する事にまず、驚きました」

 

「でしょうね。帝都防衛の要とはいえ、一般人にとってしてみれば信じられないほどのものだったでしょう」

 

 灰色の機械の塊。鋼鉄の檻。

 

 あのようなものに包まれて、孝雄は死んでいったのか。

 

 孤独の強い帝都で、ただ一人、誰にも知られる事なく、幽鬼と戦闘し、その命を散らしたのか。

 

「あれをただの機械だと、思って欲しくはないのです」

 

 どういう意味だろうか。翠は問い返していた。

 

「ただの機械ではない、と」

 

「あれの動力源は血塊炉と呼ばれています。南米で採掘された青い岩石に火を灯し、電気反応でエネルギーに転化するのです。ただの岩石にただの機械では、幽鬼に遠く及びません」

 

 何が言いたいのだろう。翠には分からない。

 

「あたし、機械はてんで……」

 

「それでも、特別なものを感じたのではないですか? あのモリビト弐号に」

 

 驚くべき事に高木は翠の胸中を看破していた。モリビトを見た時の血の沸き立つような感覚。心臓が収縮し、鼓動が早くなったあの感じ。

 

 間違えようのなく、モリビトは何かを訴えかけてきた。ただの機械ではない、何かを。それを解明するには、モリビトがあまりにも自分との隔絶があったが。

 

「……兄は、あれに乗って死んだんですよね」

 

「日下部大尉はモリビトの正式操主でした。当然の事ながら危険性も加味して、搭乗されていた」

 

「でも、あんなの……。あんなのに乗って死ぬなんて人間の死に方じゃありませんよ……!」

 

 覚えず吐露した内面であった。鋼鉄の中で死んでいくなど、まともな人間の死に様ではない。それとも、この高木でさえ、軍人とはそういうものだと諭すだろうか。

 

 翠の考えに高木は用意していたランタンを点ける。ぼう、と湿った床が映し出された。

 

「そうでしょうね。私も、日下部大尉の死に様には納得していません。彼には、何が見えていたのか。一体、どうして、撤退命令を無視したのか」

 

 足元を照らし出すランタンの光に細くしなやかな鉄線が映る。翠はその鉄線の続く先を目で追った。

 

「見てください、あれが」

 

 ランタンを掲げた高木の声に従い、顔を上げる。

 

 その目に映ったのはモリビトの頭部であった。黒ずんでおり、形状がひしゃげている。赤い強化硝子が割れて眼窩の奥が覗いていた。窺えた操縦席が底知れぬ闇を抱えて翠を睨んでいる。

 

 覚えずその場から後ずさった。

 

「これ、は……」

 

「日下部大尉の墓標です。彼はこのモリビトに乗って、死んでいった」

 

 つまりこれが、兄の死の直前まで乗っていたモリビトだという事なのだろう。翠は息を詰めて、今一度それを凝視する。

 

 高熱が押し包んだのだろう。鋼の表皮が融解している。階段が続いており、近くまで寄る事が出来た。

 

 高木が先導し、翠は後に続く。真正面まで来ても、まだ現実味のない。本当にこの中で兄は死んだのだろうか。黒ずんだ装甲をさすっていると、不意にその指先が鋼鉄ではないものに触れた。紙切れのようなもので、翠はそれを引き剥がす。

 

 一葉の写真であった。兄が軍籍につく前に一度だけ軒先で撮った写真だ。まだ自分も幼く、兄の軍務にいささかの疑問も挟んでいない。笑顔の自分に、どこか緊張気味の兄の顔。

 

 翠はそれを手で包んで顔を伏せた。

 

 ――ああ、兄は死んだのだ。

 

 その写真を見た途端、それが実感させられた。

 

 今まで何度も兄が死んだ、と聞かされ、自分でも感じてきたが、その悲しみが胸を占めたのはこの瞬間が初めてであった。

 

 孝雄は帝都の守り人になった。帝都を守り、帝都のために戦い尽くした。

 

 ならば、自分は?

 

 自分には、何が出来る?

 

「大丈夫ですか」

 

 高木の言葉に翠は涙に濡れた頬に手を当てる。熱い涙が止め処なく溢れる。

 

「兄は、本当に死んだんですね」

 

 高木も言葉を彷徨わせたようであった。きっとこの場所に導いたのは翠に決意させるためだろう。

 

 操主になって死ねば、このように誰も知らない工場に格納され、そのまま朽ちゆく。人が生きていた証明でさえも奪われてしまう。だが兄は、それでもなお操主である事にこだわった。こだわって戦い続けた。

 

 だからこの場所にモリビトの頭部があり、今、自分の手には写真がある。

 

「高木少佐。あたし、決めました」

 

 その声に高木は最終確認の声を振り向ける。

 

「……言っておきますが、軍籍を得る、という事はいつ死んでもおかしくない、という事です。御国のために死んだ、とされ、家族親戚にさえもその内情は伏せられます。死んだという事実のみが伝えられる」

 

「それでも、あたしは」

 

 兄のようになりたい。

 

 守り人になれるのならば、その道を歩みたい。

 

 それが、何よりも兄を想う事になるだろうから。

 

 墓標を前にして高木は自分が故郷に帰る、と言い出すと思っていたのだろう。これだけの絶対的な死を前にして、怖気づくだろうと。しかし、翠は高木の予想よりも強かった。

 

 強く、誰よりも強くあろうとした。

 

 高木は瞑目する。

 

「もう、戻れませんよ」

 

「分かっています。兄も、戻る気はなかったでしょうから」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鏡を前にして、翠は言葉を口にしようとする。

 

 ――さよなら、日下部翠。

 

 ――さよなら、あたし。

 

 何でもいい、自分へと別れを告げる言葉を。

 

 しかし、存外に言葉も出ないものだった。

 

 しっかりとした別れも告げられないうちに、結果だけを迫られる。それがきっと、現実というものなのだろう。

 

 片手にはハサミがある。翠はハサミで思い切って結い上げた髪を切った。

 

 長かった緑色の髪が床に落ち、一回ハサミを使うごとに「日下部翠」としての経歴が削れていくのが分かった。

 

 髪先を整え、短髪になった髪を鏡が反射する。

 

 ――これが、明日からの日下部翠だ。

 

 同時に、昨日までの日下部翠はここで死んだ。

 

 翠は袴を脱いでから、用意してあった軍服に袖を通す。

 

 偽の階級章に、偽の軍服。

 

 全てを偽りの上に佇む。ただ一つ、胸のポケットに入れておいた兄と自分の写真だけが、偽りではなかった。

 

 翠は着替えて廊下に出る。

 

 高木が待っており、軍服姿の翠を認めるや挙手敬礼してきた。

 

 翠も返礼する。

 

「日下部翠少尉。貴君の入隊を歓迎する」

 

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