「准将。十日、と陰陽師が設定した期限、信用なるのですか」
高木は執務室で尋ねていた。時雨は窓に手をやり背中を向けている。
「何か疑問でも?」
「前回の幽鬼襲来、対策室の陰陽師の予想は外れました。そのせいで、日下部大尉はまだ整備途中であったモリビト壱号を駆って出撃。その結果は……」
言わずもがなだ。高木が沈痛に顔を伏せていると時雨は肩越しに視線を振り向けた。
「対策室の不手際だと?」
「そうではありません。陰陽班を信用していないわけでもないです。ただ……楽観が過ぎませんか? 前回、モリビトが大破した事を、連中は知っているはずです。ならば、こちらの弱っている時を狙うのは必定」
幽鬼に知恵があるのならば、モリビト大破を理解していれば襲撃は明日にでも来るかもしれない。それを十日、と言ったのは軽率ではないか、と高木は言いたかった。そうでなくとも余裕のない整備班に心の余裕を持たせるためだろうが、それにしては十日は中途半端だ。
「なるほどな。幽鬼に戦術があるのならば、弱っているこちらを叩かない道理がない」
「それに、モリビトの大破を向こうが理解しているのならば、です。日下部大尉の死を、理解されていれば……」
「今は、無用な心配を持ち込まない事だ。そうでなければただでさえ乱れがちな統率に亀裂が生ずる」
時雨の言葉は的を射ているが、本当に心配しているのは翠の事だ。
「日下部翠少尉にも、です。彼女……いいえ、彼にも切迫した要求を突きつけてしまった。彼は一日でも早く、操主になろうとしている。その背中を、追い込むような真似をしているのではないかと、不安で」
「君が背負い込む事ではあるまい。日下部翠が自ら志願したのだから」
その背中を押したのは自分と時雨に他ならない。彼女は、農村の少女でいられたのだ。だというのに、それを軍人に仕立て上げた。軍人になる、という意味を考えさせる前に、残酷な選択を迫って。
「……ですが、七二式でさえも十日前後では」
「確かに十日前後では操主に仕立て上げるのも難しいだろう」
時雨は何を考えているのだ。高木は首を傾げる。難しい、と分かっていながら彼の口調にはどこか余裕さえ感じさせる。
「准将、失礼ながら本当に分かっておられるので? 操主は替えの利く駒ではないのですよ。日下部少尉だって、兄の戦歴を追おうと必死です。十日で無理だと判じているのならばやはり、即席でも別の人間を充てたほうが……」
「いいや。日下部翠でなければならない。それは確定事項だ」
強い断定に高木は言葉を飲み込む。どうして、という疑問を差し挟む余地さえもない。確定事項。そう言われてしまえばこちらにはもう言いわけも立たない。
「……血続だから、ですか」
「それもあるが、日下部翠には早くに決意してもらう必要があった。操主になるか、それとも一生無縁の人生を選ぶか」
「その無縁の人生を選ばせるのに、我々が選択肢を減らし過ぎたのでは?」
考える時間を与えず、男になれ、だの。無理のある選択肢ではなかったのか。しかし、時雨は冷静であった。冷静に、その判断を下したとでも言いたげに声にする。
「この帝都に渡ってきた時点で、日下部翠は決意していたよ。わたし達はその背中に少しだけ言葉をかけてやったくらいだ。きっかけは何よりも彼女の中にあった。日下部孝雄大尉の死の真相を調べるのには、深く潜ってもらわなければならない。だが、深淵を覗く時、深淵もまたこちらを覗いている事を理解せぬまま、田舎に帰らせるのは不可能であった。それだけの話」
モリビトという深淵。幽鬼という闇。それを覗けばもう元の生活には戻れない。彼女を追い込んだのは他ならぬ自分達だ。
「……帝都に来た時点で、決断が出来ていたとするのは早計です。私達には日下部少尉に、まだ何も教えられていません」
「これから知ればいい。幽鬼の脅威に、才能機の力。それを知るのには、戦いしかあるまい。戦いだけが、彼女に、兄の死の真相を知るきっかけを与えるはずだ。血続であるのならば、戦いの中に意味を見出すはずであるとも言える」
どちらにせよ、時雨は翠を戦いに駆り立てる気であったのだろう。その部分で自分との差異がある。
自分は翠を戦わせたくない。出来る事ならば田舎の少女のまま、あのコスモスの園を守るような人間であって欲しかった。
少しばかり勝気で、少女というよりかは少年と言ったほうがいい快活さであっても、彼女は紛れもなく、少女なのだから。
「私は……、准将、まだ決断出来ていません」
「そのようなものだろう。一人の人間を軍人に仕立て上げた。我々はもう、戻れぬよ。その覚悟だけはしておくといい」
時雨も自分も、等しく人でなしだ。その事実が高木に反抗の言葉を言わせるのを躊躇わせる。
彼女はただ、兄に会いたいだけなのに。それを残酷な形でしか実現出来ない自分達の不実さよ。
翠の背中を押す言葉は分かっている。
――兄のようでありたくないのか。日下部孝雄ならばこうする。
だがそれは呪縛だ。
一度言い放ってしまえばもう、蚊帳の外には戻れない。彼女を、戦場に追いやる言葉になってしまう。
時雨は窓の外を眺め、呟いた。
「今宵は霧が出るな」
「雨か?」
基地の前で待機命令を帯びていた兵士がそうこぼした。手を掲げると僅かに湿っている。
「嫌な夜だ。幽霊でも出そうだな」
もう一人の声に、「脅かすなよ」と兵士は言いやる。
「後ろに立たれていたら、すうっと、冷たい風が吹くそうだな」
「だから脅かしっこなしだって」
兵士は小銃を手に周囲を警戒する。濃霧が広がっている。やぐらに立つ兵士に連絡を取るべきだろうか、と考えているとふと、ひやっとした空気が走った。
まさか、と覚えず小銃を構える。
もう一人は気がついていないのか。
その傍に、黒い衣を纏った男が佇んでいた。
腰には刀を提げており、顔は伏せっているが背格好からして男だ。
「何奴……」
警戒した声にもう一人の兵士が欠伸する。
「怪談は終わりだろ?」
「振り返れ! 何者だ! ここは軍の基地だぞ!」
詰めた声音にもう一人がようやく振り返る。
その目が見開かれた瞬間に、男の腰にあった刀が閃いた。
瞬間的な、一閃。
まさしく達人の域の剣術に兵士は声もなく倒れる。
小銃を構えたまま、唇が震え出すのを感じた。目の前で人が死んだのだ。恐怖しないほうがおかしい。
「何者だ!」
もう一方の腰に提げた照明弾へと手をやろうとすると銀色の光が煌く。
手首から先が切り裂かれていた。
落ちた手首に血が迸る。
「あ、あ……」と呻く事しか出来ない。実戦の経験のない兵士にとってしてみれば、目の前の男は圧倒的な死そのものであった。
「守りが手薄だな。これならば放つまでもあるまいか。いや、この感覚……。いるな。血続が」
男が懐から矢じり型の御符を取り出す。矢じりには窪みがありその部分が赤く煌いていた。武器とも思えぬその矢じりの御符の光に兵士は中てられたように動けない。
「血続の反応がある。どこから仕入れてきた? 前の血続は死んだはずだが」
兵士はぶつくさ呟く男へと、えいや、と声にして小銃を突きつけた。
まさしく決死の特攻。小銃の先端についている刃が男へと食い込んだ。
――取った、と兵士は感じたが男はまるで意に介していない。
「つまらない道具だな」
そうこぼして刀で小銃を切り裂いた。
目の前の現実に思考が追いつかない。
「馬鹿な……、小銃を斬るなど」
「こちら側ではもう少し発展していると思ったが。まぁいい」
振り向けた顔に兵士は息を呑む。
顔が、漆でも塗ったように真っ黒な仮面に塞がれている。眼光は赤く、悪鬼のそれである。
「ば、化け物……」
「化け物、か。呼ばれ慣れているが、馴染まぬものよ」
照明弾を手に取った兵士へと男が一太刀を浴びせる。
動かなくなった兵士へと男が矢じりの御符をそっと付ける。
「今日の贄はお前だ。とくと暴れるがいい」
瞬間的に光を放った御符が膨張し、鍵穴の形状を持つ巨躯へと変貌する。
男は刀についた血を払って身を翻した。
「さぁ、見せてもらおうか。新しい操主の性能とやらを」