血流は静かで我々には聞こえない。
いつもより低く見える天井が液体になって降りかかってくる気がした。太陽の光に照らされた白い壁紙の繋ぎ目が直角に交わっている。
ここはどこだったかな?
目が乾いている。喉も、鼻も。
脳ミソと目の奥、喉の奥が掻き混ぜられて濃厚で均一なスープになる感覚。
動け。身体中のイオンが言うことを聞かない。電気信号が脳ミソスープから出て行こうとしない。
動け。脳ミソはちゃんと働いてるぞ。息を吸う。肺が動く。そのまま内臓が動いてくれればいい。唾を飲み込む。胃袋を叩き起こせ。
腕が動けばいいのに。指は動く。伸びすぎた親指の爪で指を引っ掻く。
舌を噛む。
空気中の分子に脊髄を撫でられ押し潰されそうになる感覚。
「っぐぅ……」
咳のなり損ないみたいな音が出た。全部出てしまえばいいのに。
背骨が反る。それでいい。そのまま動け。全身が震える。それでいい、速く、動いて。
息を吐く。硬直が解ける気がした。
腕に力を込めようとする。右腕が先に言うことを聞いた。右から体を起こす。
ベッドに腰掛けた。右手の人差し指から血が流れていた。傷口を舐める。
スープになった脳ミソが首から流れ落ちる気がした。
股と膝と足首の関節に五寸釘を打ち込まれる感覚。
どうしてこんなことになった?
ドアを叩く音だ。
「瑞鶴? 入っていいかしら?」
翔鶴姉がどうして?
「あ……」
声が出しづらい。空気はいくらでも出る。
「瑞鶴? どうかしたの?聞こえてる?」
聞こえてるよ。入っていいよ。そう答えたいのに。
声帯が脳ミソスープと指から流れる血に汚染されたのかもしれない。
「瑞鶴? 大丈夫?」
翔鶴姉、どうして? 翔鶴姉の声は冷静なままだ。
また全身が鉛みたいになった気がした。α崩壊してくれれば水銀になれるのに。水銀になれば自由なのに。
ドアの向こうでため息が聞こえる。
「瑞鶴? 寝てるのかしら……」
「開いてる」
「え?」
は?
なんで? どうして声が出たの?
「入るわよ」
え?
「やめて!」
滑り出た。
「どうしたの?瑞鶴?」
「やめてよ!」
「まだ何もしてないわ」
「やめてよ! お願い、やめて!」
ドアが開くのが見えた。バネ仕掛けみたいに膝が伸びた。
「瑞鶴? どうしちゃったの? そんな怖い顔して、ねえ?」
「来ないでよ! 出てって!」
翔鶴の手が伸びてくる。喉元に。
胸倉を掴まれて、大きすぎる加速度が前向きにかかる。
翔鶴の顔が目の前3センチに迫る。
ちょっとだけ翔鶴の方が背が高いのに気がついた。
「聞いて、何があったの?」
「離してよ」
「瑞鶴、どうして泣いてるの?」
「え?」
翔鶴の吐息がかかって変な気分になる。
「離して」
「覚えてないの?」
「何の話?」
「答えてくれないのね」
「離して」
「やってみなさいよ」
頭突きする。
翔鶴が少しよろける。
右腕がムチみたいに動いた。バチンと音がして翔鶴が吹っ飛ぶ。
地面に倒れこんだ翔鶴は顳顬を押さえている。胸倉を掴む。
翔鶴の首がグラついている。焦点が合っていない。
「ぁ……」
翔鶴の口から音が漏れる。
もう一発殴ったら死んじゃいそうだ。右手が強く握られている。
殴れって? 誰が命令してる? 右手が殴りたいって悲鳴をあげている。誰だ?
「ぅあ……」
翔鶴姉、どうしちゃったの?
酸素が足りない。お願い、息を吸わせて。歯を食いしばる。ハンマー。右腕がハンマーみたいに振れた。
硬いものが手に当たった。それが砕ける感覚も。
翔鶴はまだ私の目の前にいる。鼻と口から鮮紅の液体を垂れ流している。何だろうこれは。
ボタボタ垂れる液体を右手で掬う。翔鶴の白い肌が、服がこの液体で汚れてるらしい。首筋と胸倉を掴んでいる左腕と乳房の膨らみに赤い曲線を作る。
目は完全に閉じられている。
溜池ができた右手を翔鶴の首にかける。
「細すぎるよ」
なんで声が出るんだ?
少し力を込めるだけで折れそうだ。折ったらどうなるんだろう。脈動と微かな筋肉の収縮と弛緩が神経を刺激する。
眼球の表面が融けたみたいに視界が滲む。頬を伝うものは何だ?
「ねえ」
何だ?
翔鶴の口から舌を引っ張り出す。翔鶴の涎と赤い液体が混ざり合って右手がぐちゃぐちゃになっている。
どうしてこんなに美しいんだろう。
あまりに白い姿に赤が映える。ドス黒くもなった翔鶴を離す。
翔鶴がしてくれなかったことだ。
糸が切れたみたいに。脚に縋るみたいに倒れこんだ翔鶴を廊下に蹴倒す。
肌も服も髪も紅白に染まる。誰か助けてあげて。
「ごめんね」
殺してあげられなかった?
どうして? なんでこんなことを言うの?
部屋の中に立ち尽くす。廊下に倒れる翔鶴と隔絶されて? おかしいよ。
ドアを閉める。
外の音なんて聞こえなければいいのに。
両手にベットリついた赤いモノを全部舐めとる。生臭いカタマリを胃袋に落とし込む。
「やってらんない」
足元に転がる小ビンの中の錠剤を口に放り込む。
「バカじゃないの」
極彩色の錠剤を噛み砕いた。
「バカだ」
脳ミソの輪郭が形作られた気がした。頭蓋骨の内側にこびり付いている。
引き出しを開ける。金属の小皿と色々な小ビン。それとプラスチックの注射器。一番小さいビン、どれだ?
ビンの中身を机にばら撒く。結晶を指で摘んで皿に乗せる。指に残った白い粉を舐める。痺れるような、苦いようなものが喉の奥を湿らせる。
食道と気道の境目がなくなる感覚。
結晶を摘んで舌の上に乗せる。さっきより少し強い刺激が喉の奥を引っ掻き回す。
金属の上の結晶に涎を垂らす。結晶はすぐに見えなくなる。
左腕を革のベルトで締め上げてから赤が少し残った手で泡立った水溶液を注射器に吸い上げる。
翔鶴は血を流してたんだ。
浮き出た血管がいつもより細く見える。息を止める。針が皮膚に埋もれて、シリンダーに赤い液体が流れ込んでくる。赤黒くなった溶液を静脈の中に押し出す。
一つ息をついた。注射器を引き抜いた痕から血が滲み出す。注射器をゴミ箱に放り込む。
「ぅあぁ……」
喉から声が漏れ出る。腕の血流を解放する。
全身の器官が内側から修復される感覚。左腕を伝う血を舐めとった。
元の形になった脳ミソが今度は破裂しそうになる。ほんとは縮んでくはずなのに。
滲み出す血が止まらない。私も血を流している。
目の奥が熱くなる。息が乱れる。血で喉を潤す。
鮮やかな世界が見える。あらゆる物体に焦点が合う気がする。
何してんだろ。
ベッドに座り込む。もう一度血を舐めた。深呼吸を繰り返す。
熱が引く。修復された器官の境界がまた薄れる。息を吸う。震えが脊髄を駆け上がる。
これだ、これなんだよ。これがなきゃ。
このためなんだよ。
血が止まらない。
全身を支配する外へ逃げ出しそうな官能に突き動かされて呻きにも喘ぎにも似た叫びを上げる。横隔膜が言うことを聞かない。
喉から漏れ出る「a」の音が耳をつんざく。
鳩尾を押さえる。涙が溢れる。口元が緩む。息が吸いづらい。涎が口から落ちる。
背筋を伸ばす。歯と目を強く締める。頭を抱える。目を開くと一瞬前と全く変わらない景色が横たわっていた。
あらゆる種類の物体に焦点が合う。そんな気がした。
血は止まらない。
腿を雫が伝う。指で掬って舐める。ほんの少しだけ酸っぱい。
タバコに火をつける。目一杯汚れた空気を肺に送り込む。
外に出よう。風に当たりたい。
風に脊髄を撫でられたい。
ドアを開けると翔鶴姉はもういなかった。血の跡がくっきり残っていた。
床に残る血の色と私の左腕の赤は違う色だった。
海に出よう。海にタバコを捨てるんだ。
その捨てたタバコが海に触れれば、タバコの小さな火が音を立ててほんの少しの海水を蒸発させるだろう。
安易な暴力、グロテスク表現は嫌いですが、しょうがない。
安易に救いある表現も嫌いです。
救いは果たして必要なのか?
この作品に救いは無いですが、最後の一文に明るい光景を思い浮かべていただければ。