目が覚めてみれば、背丈よりも高い草むらの中に居て。
どうして僕はこんなところに居るんだろう? などと思いながら『四足歩行』で歩みを進めると、出た先は見ぼえがあったけれど、『目新しい』中庭だった。
視点が低い……僕の目線は、地面すれすれのところを見ている。匍匐前進しているとすれば、こんな視点になるんじゃないだろうか。だが、目が覚めると同時に匍匐前進して庭を彷徨くような趣味なんて持ち合わせていない。悪趣味を通り越して変人の領域だ。
視点が低いだけではなかった。何もかもが、大きいのだ。僕、滝沢司自身が小さくなってしまったのかもしれない。
「キャンッ!」
試しに声を出してみる。犬チックな……いや、現実逃避は止めよう。どう考えても犬の鳴き声だった。
凰華学院分校内で、思い当たる犬は一匹ぐらいだ。だとすると僕は、ゴンザレスになってしまったのだろうか?
なんでこんな事に……いや、原因なんて、一つぐらいしか思い付かない。
昨日の事を思い出す。
「あ~、疲れた疲れた」
この学院にやってきて日の浅い僕は、ちょっとばかり気疲れしていた。無理もないと思う。廊下とか、ロビー、ちょっとしたところに置いてある調度品は、値段を聞いてはいけないほど高くて……好奇心で聞いたら最後、歩く事ですら気を使うようになる。調度品は元より、身近で使う物だって細心の注意を払わなくてはならない。職員室で使われているカップは、僕の一ヶ月の給料よりも高いなんて、どう考えてもお金を掛けるところが間違ってるんじゃないかって思う。食事だって美味しいけれど、毎日がフランス料理のフルコースみたいな、初めてお目に掛かる料理ばかりが並んで……正直に、食べているだけで気を使ってしまう。今までの環境とはまるで違った。
しかし、これだけではない。
普通に生活するだけでも大変なのに、凰華女学院分校に在籍している生徒、先生とも一癖、二癖持った人ばかり。
唯我独尊、理事長は物凄く我が儘だし、授業になかなか出てくれない生徒も居たりする。
普段はいい人なんだけれど、暇さえあれば暁さんは僕をからかってくるし……情けない事に、仁礼の前では失敗ばかりで、彼女には怒られてばっかりだ。
隙を見せれば相沢には玩具扱い。三嶋には翻弄される毎日。
こんな感じで色々な要素が重なれば、ちょっとばかり疲れたりする訳で――
「ふぅ」
寮に辿り着く間もなく、体力が最低値になった僕は、ラウンジのソファーに腰を掛けた。
実は、ここのソファーの座り心地は最高だ。少し座っているだけで睡魔が襲ってくる、魔性のトラップなのである。
重くなる瞼を懸命に閉じないよう努力しつつ……教師がラウンジのソファーで寝ているのを見られたら、威厳台無しだ。見られただけならまだしも、相沢にでも記事にされた日には、想像したくない未来が待っている事だろう。
僕は眠たいけれど寝ないように努力しつつ、ソファーで体力を回復させていた。
「ん?」
声? 一体、誰だろうか……音の発信源を見つけると、一人の女生徒が通販番組を見ていて、これが声の発信源だったようだ。
何気なくテレビに視線を向けると、『エリャイクッサー』なんて名前の胡散臭い薬草を強く勧めている。なんでも、『飲むと一発で疲労が回復する薬』らしい。胡散臭いとは思うけれど、疲れ果てている今の僕からすれば、試してみたいと衝動に駆られるものだった。
「これは、前に買った奴だ」
「持ってるんだっ!」
「……」
いかん、思わず突っ込んでしまった。女生徒は振り向いて、僕の方をじとーと見てくる。
なんか、妙に居づらい。邪魔をしてしまったのかもしれない。
「ごめん。騒いじゃったみたいだね。すぐ、行くから」
「これ、欲しいんですか?」
僕がソファーから立ち上がろうとしたところで、テレビを指差しながら、女生徒が呟く。
「ん、もらえるとありがたい……かな。ちょっとばかり慣れない女学院生活に疲れていてね」
「欲しいなら、あげます」
たまたま持ち合わせていたのか、ポケットからテレビと同じ薬瓶を取り出して、僕に渡してくれる。
「ん、ありがとう」
「いえ……」
それだけのやり取りを最後に、彼女は再びテレビに視線を戻した。
映っているのは、ドラマでも、アニメでもない。通販番組……通販がよっぽど好きなのだろう。
僕は彼女に感謝して、ラウンジを後にした。
その後、自室に戻ってあの薬を飲んだ訳だけど……頭に激痛が走って、すぐに横になったっけ。
こんな不測の事態に陥るとすれば、思い当たる節は、あの薬ぐらいしかない。通販で入手出来るものに、そんな効果があるのか? なんて思わないでもないが。
あれぐらいしか、『変な物』を飲んだ覚えがないのだから。
原因の模索も大事だが、それよりも今は、どうすれば元に戻れるかを考えるべきか。
「何処に行ったんだろう」
「クゥ?」
八乙女梓乃――僕の受け持つ本校生の一人なのだが、彼女はきょろきょろと周りを見回している。
授業をボイコットしている生徒の常習犯……まあ、無理もないと思っている。彼女は対人恐怖症なのだから。
そんな八乙女が探しているとすれば、唯一の友人である鷹月か、犬のゴンザレスぐらい。時間的に考えれば、鷹月は室内にいるとして、そうなると……あれ?
探されているのは、もしかして、もしかすると……
「あっ」
八乙女と視線が交差する。八乙女は小走りで僕に近づいてきて、手を広げた。
「ダンテ、おいで」
探されているのは、やっぱり僕だった。
簡単に向かう訳にはいかない。
犬になってしまったとはいえ、生徒に抱きかかえられるのは、ちょっと問題があるのではないだろうか。
いつもならば、嬉しそうに鳴いて、すぐに八乙女の胸に飛び込んでいくゴンザレスもとい、ダンテ。
いつの間にか八乙女が涙目になっていた。
「ダンテ……ぐっすん。私、何か悪い事しましたか?」
いかん。八乙女が悲しんでいる。
このままではいけない、なんとかしなくては。
しばし悩んだ末に、僕はダンテ、僕はダンテ、僕はダンテ……三回繰り返して、脳味噌に言い聞かせる。
そう、僕はダンテなのだ。ダンテなら、八乙女の胸に突撃したっておかしくない。
「くぅん」
意識して走ろうとすると、四足歩行は難しかった。
『はいはい』しているような気分にさせられる。それでも、何とか八乙女の腕の中に収まる。
「ダンテ、行きますよ」
僕は八乙女に抱えられて、中庭を後にした。
生徒に抱きかかえられるなんて、一生の不覚だ。
辿り着いた先は、本校生用の寮である。時間を考えれば当たり前の事なんだろうけれども。
寮の入り口のところに三つ編みの少女、鷹月が立っていた。
合流した二人は、八乙女の部屋に向かって歩き出す。
「梓乃、ダンテは何処に居たの?」
「中庭のところで見つけました」
「無事に見つかって良かったね」
「はい。今日は、お風呂でダンテを洗ってあげようと思います」
「そうなんだ。綺麗になると良いね」
何気なく聞いていた二人のやり取り……ふと、気付いて驚愕する。
今、お、お風呂でダンテを洗ってあげるとか、八乙女は言ってなかったか?
その後の二人のやり取りを注意深く聞き直し、お風呂が間違いでない事を確信する。
不味い、非常に不味い事態だ。
僕はダンテと言い聞かせたところで、本性はやっぱり滝沢司の訳で。
生徒を謀り、一緒にお風呂に入るなんて行為、例え神様が許したとしても、自分自身許す事が出来ない。教師失格だ。
ジタバタと手足……犬に手はないから、前足と後ろ足を動かす。
「梓乃、ダンテが、逃亡を計ろうとしてるみたい」
「めっ! ですよ。ダンテ」
小型犬であるダンテの抵抗では、梓乃の腕から抜け出す事は叶わず――抵抗をしても無駄だと悟った僕は、目を瞑るしかないという結論に辿り着いた。
教師としての、せめてもの意地である。
八乙女の部屋に辿り着いた二人は、年頃の女の子として、汗くさいのに耐えられなかったのだろう。
真っ先に脱衣所へと入る。お風呂に入る気満々のようだ。
「ダンテが逃げないよう、私も梓乃と一緒に入るね」
「殿ちゃん、ありがと」
目を瞑っていても、音は聞こえてくるわけで……
背後から聞こえる布きれの落ちる音に、心臓の音だけが高鳴っていく。
見ていないのに、いや、見てないからこそ、想像力をかき立たせられる。
何をやっているんだろう、僕は。生徒を妄想するなんて、やってはいけない行為なのに。
う、うううっ……
それからは、生きた心地がしなかった。
八乙女の腕に再び抱えられると、先程まで違う、直に肌の感触が……胸の感触が伝わってきて。
タイルの上に降ろされると、まずはシャワーで表面上の汚れを落とされ、鷹月にシャンプーを掛けられる。そのシャンプーを泡ただせる為だろう。八乙女の小さな手が、ソフトタッチで全身をまさぐってきた。くすぐったいけれど、妙に気持ちいい。
「いつもはちょこまかと逃げるのに、今日のダンテ、良い子」
「ですね」
僕は目を瞑って、為すがまま、八乙女に洗われている。
本来であれば、ダンテの普段通りの行動を取るべきなのであろうが……そんな余裕は微塵もなかった。
頭がくらくらする。
頭の上で、悪魔が囁いた。
(見てしまえよ、今は犬っころなんだ。咎められる事はない。絶好のチャンスだぜ)
キューピーちゃんに似ている天使が、悪魔の隣に姿を現す。
(見てはいけません。あなたは聖職者なのですよ)
(うぜえ、てめえの本性なんて、一皮剥けばエロエロ野郎じゃねえか。素直になりなって)
(いけませんっ! 悪霊退散っ!)
(ぐがああああー!)
理性が負けそうになったところで、天使が槍を取り出して、悪魔を串刺しにした。
僕の想像した天使、ちょっと過激だ。悪魔は断末魔を上げて、滅び去る。
そこで、シャンプーが終わった。
「ダンテ、次はお風呂に入りましょうね」
(ふはははははー!)
悪魔、復活。
(今度こそ、エロエロな身体を堪能だー!)
(ていっ!)
(ぐがああああー!)
悪魔、消滅。復活、消滅、復活、消滅……
悶々とした空気の中、天使と悪魔の戦いは続き……
「ダンテ、良いお風呂でしたね」
八乙女の部屋に、無事、戻る事が出来た僕。
見てない、見てないぞ。僕は誘惑に勝ったのだ。
男として、この絶好のチャンスを見逃してしまったのは勿体ないような気がしないでもないけれど……人としては正しい道を選ぶ事が出来た気がする。
ドライヤーで全身を乾かされながら、八乙女に撫でられる。
「ダンテ、よしよし」
温かい視線が僕に……ダンテに何だろうけれど、向けられている。
いつもオドオドして、鷹月の後ろに隠れ、人の顔色を窺う事しか出来ない八乙女。
八乙女の顔は、十代の少女が浮かべるもので……ドキリとさせられた。
笑顔なのだ。こんな楽しそうな顔も出来るのかと感じ――自分の不甲斐なさを痛感する。
今、すぐとは言わない。それでも……
「ダンテ?」
妙に気持ちいい。
温かくて、まぶたが重たくなってくる。起きて、いられ……
目が覚めてみれば、自分の部屋だった。
「ふぅ」
八乙女の胸に抱かれたリアルな触感が忘れられない。現状を考えれば、どう考えても夢だったというのに、夢ではないような現実感があって。もしかすると、本当は夢でなかったのかもしれない。
いや、夢かどうか何て、関係ない。
この世界に八乙女は間違いなく居て、僕の勝手な想像の産物かもしれないけれど、あの姿こそが、笑顔を浮かべた八乙女こそ、本当の素顔だと思ったから。
「う~ん」
今、すぐには不可能だろう。それでも。
本当は優しい少女と、いつか心から触れあえる関係になれる事を望んで――
「さあ、今日も頑張るとしますか」
僕、滝沢司は腕を伸ばして、未だ慣れない凰華女学院分校で今日も頑張ろうと心に誓うのだった。