ザニスと言う男がいる。
ソーマ・ファミリアの元団長にして、彼のファミリアを暴走させた原因の一人でもある。
より正確に言うならば、神酒ソーマを原因として無軌道な暴走状態にあったファミリアを乗っ取り、己の私腹の為にその暴走を助長し利用してきた人物だ。LV2へと上り詰めることで自らは神酒の呪縛を免れ、他の幹部を蹴落として団長の地位を手に入れ、そして神酒を盗んで団員たちへと配り飲ませることで、その味に目が眩んだ団員たちを言いなりの搾取対象へと変えて来た男。そしてリリはそのザニスに神酒を飲まされ、操られ搾取され続けてきた団員の一人だった。
その男が今、変わり果てた姿をこのヘスティア・ファミリアのホームに晒している。
「ど、どうしてここに……」
リリの思考が疑問で埋め尽くされる。
彼女にとってザニスはこんな所に居るはずのない、そして居てはならない人間であった。
リリの口から漏れ出したその声を耳ざとく聞きつけたザニスが、犬歯をむき出しにするように嗤った。
「今教えてやっただろうアーデ、お前を探していたとなぁ?」
「な、何故リリなんかを……いえ、そもそも貴方は団長の任を解かれ投獄されていた筈……」
疑問を口にしながらリリは必死に思考を回転させる。
ザニスは自分を探して居たと言うが一体何が目的なのだろうか? 派閥の正常化、その復讐だろうか。しかしリリは確かにそのきっかけにはなったかもしれないが、実際に行動を起こしたのはベルであるし、最終的にファミリアの正常化を決断し実行したのは神であるソーマ本人だ。
それに今のリリにはあのソーマがベルの事を団員に吹聴するとは思えなかったし、事実先程出会ったばかりのザックらソーマ・ファミリアの団員達はベルの事を何も知らなかった。
あるいは、ザニスなどの元団長や幹部にだけその話はされたのだろうかと考えるも、それも改めてリリは否定する。自分が訪ねた時、ソーマは自分がベルの仲間であることを知らなかった事に思い至ったからだ。
その事実を知らなかったソーマからリリの名前が出る筈がない。もしザニスがファミリアをかえた原因を恨んで探していたと言うなら、その相手はベル・クラネルでなければならない筈だった。
「そうだ、お前の言う通り俺はあの忌々しい
そう言って彼はみすぼらしい自分の姿を誇示するように両腕を広げて歪んだ笑みを浮かべた。その腕の片方に握られた長剣からは僅かに血が滴っていて、このホームの床に静かに血痕を作っている。
「そう……そのようですね。それについてリリのような末端の一員だった者からどうこう言うことはありませんが、それなら何故今は自由にされていらっしゃるのでしょうか?」
リリは会話を続けながら、チラリと壁にも垂れ込んで咳き込むベルへと視線を走らせる。そして身につけた衣服に所々の切断と出血。しかし致命傷になるほど大きな傷はなさそうだと判断し、一先ず安堵する。
(口ぶりからするとリリやベルさんに対する恨みで行動しているわけでは無いようですが……)
それならばまずは会話を続けて事情を把握しながらベルの安全を確保することが優先だと彼女は考えた。しかし、その彼女の問いに答えたのは、ザニスではなく、彼女の思ってもみなかった人物であった。
「そいつは俺らが一働きさせて貰ったからよぉ」
「あ、貴方は!?」
階段からぞろぞろと出てきた3人の男、その先頭に立っていた人物の顔を見てリリは炭の塊でも噛み砕いてしまったかの様に表情を歪めた。彼女にとって忘れもしない顔。下卑た笑みを貼り付けたその中年の狸人の名はカヌゥ・ベルウェイ。リリを傷つけ、搾取し続けたソーマ・ファミリアの団員の中でも特に悪質な者たち、その筆頭とも言える相手であった。
「何故貴方が……」
痛ましい過去の記憶を刺激され戦慄くリリに対し、カヌゥは常ながらの下卑た笑みを浮かべて得意げに語りだす。
「へへっ、あれ以来俺らも冷や飯を食わされて来たからよぉ……そんなのはどう考えても間違ってるよなぁ。やっぱよぉ、団長であるザニスの旦那を信じてお助けするのが、正しい団員のありかたってもんだろ? ま、言うなれば俺らと団長は一蓮托生の忠実なる関係ってやつさ」
ベラベラと心にもないようなお題目を囀るカヌゥだったが、ザニスの苛立ちを含んだ声がそれを制止する。
「おい、あまり調子に乗るなカヌゥ。お前たちは余計なおしゃべりではなく言われたことをこなしていれば良い」
「へいへい団長ぉ、ですから約束通り謝礼はたんまりお願いしますぜぇ?」
「ふん、首尾よくアーデが手に入った後は、望みの額を支払ってやる」
「へへへ、それさえ保証して貰えれば了解でさぁ」
そんな彼らの会話を聞きながら必死にリリは考えを巡らせていた。
どういう経緯かはわからないがザニスとカヌゥ達は協力関係にあるようで、彼を牢から出したのもカヌゥ達の手引きの様だ。そして彼ら――ザニスの目的が自分であることも、何故だかはわからないが本当の事らしい。
「リリに、手を出すな……」
「ベルさん!」「ベル君!」
脳震盪を起こしているのか、震える足を自分の腕で無理やり押さえつけながら、ベルが4人の侵入者達を睨みつけながら立ち上がろうとする。リリとヘスティアの声が思わず重なった。
しかしそうして立ち上がろうとする彼の眼前に、即座に冷たい鋼の切っ先が突きつけられる。
カヌゥの後ろにいた二人の男たちがにやにやと笑いながらベルを取り囲んで剣を向け、彼を動けなくしていた。
「おーっと、てめーはそこで大人しく黙ってみてろや」
「余計な動きを見せたらいつでもぶっ殺してやるからなぁ?」
「くっ……」
全身傷だらけの上、やぶれかけた部屋着を身にまとっただけのナイフ一本すら身に着けていない状況では、ベルとて何をどうしても即座に斬り殺されるしか無い事がわかり、悔しそうに口をつぐむしかなかった。
「べ、ベル君を傷つけるのはやめてくれ! そもそも、キミたちは一体何が目的なんだ!」
たまらずヘスティアが声をあげるとザニスが理知的を気取っていた昔のように慇懃な態度をとってそれに答える。
「いやいや、お騒がせして申し訳ありませんね女神様。そこにいるうちの団員を大人しく返してくだされば、すぐにでも退散させて頂きますとも」
「大人しく返せだって!? いきなり強盗の様に押しかけてよくもそんなこと! だいたいリリルカ君はもう―――」
「待って下さい!」
リリは慌ててヘスティアの言葉を遮る。
口ぶりからしてザニス達はリリがヘスティア・ファミリアに
「何の為かはわかりませんが、リリが大人しく付いていけば……お二人にはこれ以上手を出さないで頂けるのですか?」
「ふむ……」
にやにやと笑い、口では女神様などと言いながら微塵も敬意を感じさせない嘲りを滲ませてザニスがリリとヘスティアを見比べながら自分の顎を撫でた。
「そうだなぁアーデよ。お前にはこれからある仕事をやって貰いたいと思っていたんだが……お前がそれを素直にやり遂げてくれるのならば、そうしてやっても構わないと思っているぞ?」
言外に、素直に従わないのであれば二人を害する……その意図を含ませながらザニスが嗤った。そしてリリもその意図を察する。二人は既に、人質。ザニスが浮かべたその笑みは、自分を脅迫するための新しい材料を見つけたことへの喜びを表しているのだと。
「リリ、そんなこ――ガッ!?」
「てめーは黙ってろって言っただろうが!」
「ベル君!」
看過できないやり取りに思わず口を開きかけたベルだが、男が即座に彼のみぞおちに靴先をめり込ませる。
地下室に、ヘスティアの悲痛な声が響き渡った。
それらをゆっくりと視界に収めたリリは、胸中に浮かぶ様々な思いを……静かに諦め、言う。
「……わかりました」
「おいっ、君がそんな――!?」
口を開きかけた女神をリリは片手をあげて押し止める。
諦観と覚悟がないまぜになった彼女の瞳に見つめられ、ヘスティアは言葉を失った。
「リリなら……なんでも、しますから……どうか……」
彼女はそう言いながらゆっくりと頭をさげる。その小さな姿を見下ろしながらザニスは満足そうに頷いた。
「いいだろうアーデ。事こうなった以上、補充の利かない
「そ、そんなふざけた約束を!」
「ヘスティア様」
激高するヘスティアに対し、リリは静かに問いかけた。
「ザニス様は、嘘をついていらっしゃいますか?」
リリの感情を押し殺したその言葉に、ヘスティアはまるで雷に打たれたようにビクリと震える。
その問いの意味に込められたリリの覚悟を、彼女はどれほど本意ではなくても蔑ろにすることは出来ない。
ヘスティアは声を絞り出すようにしてその問に答える。
「そいつは、嘘は……ついてない……けどっ!」
「はい、ありがとうございます、ヘスティア様」
リリはヘスティアに向かって小さく礼をし、続く言葉を黙殺する。
「ふん、疑いは晴れたようだな? アーデよ」
「確認のためですが、失礼を致しました」
「……まぁ、いいだろう。お前がしっかり働いてくれさえすればなぁ」
「はい、リリは大丈夫です」
―――これで良いんだ。
自分の口から出る無機質な声を聞きながら、リリは自分にそう言い聞かせていた。
こんな筈じゃなかったのに。
どうしてリリ達がこんなことに。
湧き上がる様々な思いを、リリは胸中で握りつぶしていく。
(元々、リリには出来すぎだったんです……)
彼女は静かに首を振り、瞳に悲しみを滲ませて押し黙るヘスティアと、咳き込みながら悔しさに握りしめた拳から血を流すベルを見た。こんな自分の為に心から悲しんでくれている二人。それを見て、やはり釣り合いがとれていないとリリは自分を嘲笑った。
自分は決して善人ではない。どんな事情があったとはいえ、人を陥れ、騙し、奪ってきた事実は変わらないのだ。直接手にかけたことはなくても、リリの行いが原因でその後命を失う事になった者がいたとしても、おかしくはない様な行いをしてきた。
自分は、二人とは違う。
だから……これは報いなのだ、そう彼女は思った。
でも、そんな自分も最後には二人の為に自分を差し出す決断ができた。
それだけで、良いのだ。
(それだけで、リリは……)
リリが、肌を晒すことも無頓着に、上着を着直してベッドから降りる。
そしてつとめて表情を凍らせながらザニスの横に立つのを見て、彼は鼻を鳴らしながら顎を回した。
「おい、行くぞ」
「えぇ!? そんなんで良いんですかい旦那ぁ? 人質ってんなら、こいつら攫っちまった方が――わ、わかってますさぁ。言われた通りにいたしやすよ……」
拍子抜けだと言う表情で問いかけるカヌゥを、ザニスは視線だけで黙らせた。
彼はカヌゥのくだらない口車にのって余計なリスクを犯すつもりなどない。下界のものが神々をその手にかけるのは絶対の禁忌。その様な危険を
彼にしてみれば、現状は相当の綱渡りなのだ。
罪状を認め、大人しく牢に入り、素直に罪に服する様子を見せて
そして手駒にするためとは言え信用など欠片もできないカヌゥ達をかばい、諸共に投獄されぬように手を回してリリルカの居場所を探らせながら忍耐を続けて来た。
そしてやってきたこのチャンスも、遠からず
もしも神々が自分に逆らった眷属に与えた
一応の保険はかけて来たとは言え、しかし現状の優位はとても安定したものとは言えないことを彼は知っている。それ故に、何よりも速やかにリリルカを手に入れ事を終わらせる事をザニスは優先した。
彼女を従え手土産としてあるファミリアを訪ねさえすれば、ソーマ・ファミリアなど捨て去り落ちぶれた状況から返り咲くこともできる。その思い……その渇望だけが、今のザニスを突き動かしていた。
「お前たちは黙って言うとおりにしていれば良い……そうだな、武器だけは奪っておけ。馬鹿げた考えでつっかかられると面倒だからな」
「へい。おい、お前ら!」
どこか不服そうにしながら、カヌゥは連れの男たちに声をかけた。
ベルを取り囲んでいた二人の男が、剣をひきながら彼に対してツバを吐き捨て口々に念押しをする。
「おい、今度こそてめーはそこで大人しくしてろよ?」
「団長はああいったが、お前が余計なことをしたらすぐぶっ殺してやるからな」
そう言って彼らは物色を始めた。
さして広くもない地下室に隠していたわけでもないものだ。
リリの振るった戦鎚が、椿から受け取ったベルの剣が、あっさりと奪われてゆく。
食いしばったベルの口元から、一筋の血が流れた。
するとその時、別の場所を見ていたカヌゥの口から、喜色を含んだ声があがる。
「お、こいつは……
「――っそれは!」
リリはとっさに声を上げ手を伸ばす。その腕の先には、棚に仕舞われていた薬酒の瓶を手にとったカヌゥの姿があった。酒瓶を見て舌なめずりをしている彼に向かい思わず腕を伸ばしたリリを、ザニスがギラついた目で睨む。
「アーデ……なんだ、その手は?」
「あ、これは……その」
ザニスの言葉に、リリの伸ばした手が震え、そして空を掴むようにきつく握られる。彼女は何かに耐えるようにその手を胸元に寄せ、唇を強くかんだ。やがてゆっくりと握られていた手のひらを開き、それが地面へと降ろされていく。
リリは両の手のひらと額を床にこすりつけ、ザニスの足元にすがりついた。
「あの……どうか、そのお酒だけは……ここに、残してくださいませんか……」
下手な嘘やごまかしは、すぐに見破られて彼らを激高させるだけ。リリにできることは、ただただ伏して慈悲を乞う事だけだった。
カヌゥ達が懇願するリリを見て、指差し口々に嘲笑う。
「どうか……どうか、お願いします……」
それでも懇願を続けるリリに、その頭上から冷ややかな声が降り注がれた。
「アーデ、顔をあげろ」
「……はい」
両手を床につけたまま、ゆっくりと顔だけをあげてザニスを見上げようとしたリリの顔面に―――勢いよく振り抜かれたザニスの足が打ち付けられる。
「ギャンッ!」
鼻血と折れた歯を空中に撒き散らしながら、リリは棒で打たれた犬の様な叫び声をあげて床を転がった。
そしてのたうち回るリリの腹に、ザニスの靴底が振り下ろされる。
「げぇふっ!?」
「リ、リリ……」
「リリルカ君!」
倒れ伏すベルがかすれた声でリリの名を呼び、ヘスティアは堪らず声をあげながら立ち上がった。
男たちの一人が剣を突きつけ彼女を止めようとするが、ヘスティアはぎらついた白刃を恐れもせずに足を進める。
剣の切っ先が彼女の柔肌に突き刺さる。
「うおぉっ!? おいっ、何を考えてやがる!?」
「うるさいっ! どいてくれっ!!」
その無謀な動きに、剣を突きつけていた当人の方がが神殺しの禁忌に対する恐怖から逆に剣を引いてしまう。
珠肌に出来た切り傷から血が染み出す事も無視して進むヘスティアの前に、リリの腹から足をどけたザニスが立ちふさがった。
「キミもどくんだ!」
「それは聞けない相談だなぁ、女神よ」
「なんだとぉ!?」
怒りを込めてヘスティアがザニスを威圧する。
その身にまとった神威が圧を増し、部屋を物色していた男達が気圧され無意識に後ずさる。
だが、ザニスは涼しい顔で逆にヘスティアに対し警告を発した。
「おっと、女神よ……この地上でそんな風に神威を強めて良いのか?」
「う……ぐ……」
その言葉に悔しさをにじませヘスティアは押し黙った。
神々とは地上のあらゆる生き物と隔絶した特別な存在だ。
その力を封印した地上にあっても、神々は『神である』ことを直感的に悟らせる威光を常に身に纏っている。それが故に、神々がどれほど奇矯気軽に振る舞おうとも地上の存在から神への畏敬を失われることはない。
漠然とした畏敬の念……だが逆を言えば神は神威の影響がその程度に収まるように、抑えているのだ。
明確な意図をもって敵対する相手がいればそれを翻すほどの影響はない……その枷、ヘスティアは今外しかけてしまった。
それは地上における神の禁忌。
逆に自然と身に纏った以上の神威を発するということは、
その閾値を超えて神威を発する事、それこそ神が天界へと強制送還される条件。
ヘスティアが今やりかけた事……それは地上における神の自殺と変わらない行いだった。
それを理解した彼女は、歯ぎしりをしながら押し黙るしかなかった。
「ぐぎぎぎ……」
「ヘスティア……さま……」
倒れ伏したままのリリの口から、己を心配して駆け寄ろうとしてくれた女神の名が漏れる。
「ふん……おい、その女神をきちんと抑えておけ」
「へ、へい……」
ザニスは鼻をならし男に指示を出す。
「や、やめろ! 離せっ!」
「女神様よぉ、いつまでも暴れるなら面倒だが縛り付ける事になりますぜぇ?」
「く、くそぉ……」
男に羽交い締めにされるヘスティアを横目に、ザニスは振り返り倒れたままのリリを見下ろした。
「アーデ、お前はほんの一瞬前に自分がなんと言ったか覚えているか?」
「…………え?」
リリは鼻と口元から流れる血で胸もとを真っ赤に染めながら、弱々しくザニスを見上げた。
「お前はなんでもする、素直に俺に従う、そういった筈だろう? そのお前が俺に懇願などするのは……話が違うんじゃあないか?」
「そ、れは……」
言い訳をさがそうとして、しかしリリの言葉は形にならずにかすれて消えてしまう。
「次にお前が勝手なことをしたら、あのガキの腕を片方斬り落とす」
ひう、とリリの口から悲鳴にもならない音が漏れた。
「お前は黙って俺にただ従え……良いな、アーデ?」
「……はい、わかりました」
今度こそリリは全てを諦めて、ただザニスの言葉に盲目的に頷いた。
それを見て、彼は満足そうに笑い彼女に立て、と命令する。
言われたままにのろのろと立ち上がるリリを背に、ザニスはヘスティアとベルを交互に見て口を開いた。
「アーデは貰っていくが……邪魔をすれば、アーデが更に苦しむ事になる事は理解したか?」
ベルとヘスティアの視線に、呪われよとばかりの怒りが込められる。
しかしその言葉通り、彼等がどれほど怒りを抱いていても不用意に動くことは出来ないと理解させられてしまっていた。
それを確かめたザニスは、口元を歪め小さな嘲笑と共に男達に命令を下した。
「行くぞ」
ザニスを先頭に5人が階段をあがってゆく。
その時男の一人が持っているものにカヌゥが目を止めた。
「おい、お前なんでそんなもん持ってこうとしてんだ?」
「あぁ? ザニス団長が武器は全部取り上げとけって言っただろ」
それは、あの日ベルを助けた女剣士が持っていた、刀身の折れた剣だった。
「バカかお前、そんなガラクタ二束三文にもならねえだろ。 それとも何か、刃物だったら包丁だのフォークだのまで武器だっつって持ってくつもりか?」
「まぁ……そりゃそうか」
流石の男達も、調理器具の様な物までわざわざ漁っていく気にはなれなかった。
「ったく余計な荷物持ってくるんじゃねえよ。捨てとけそんなゴミ」
「うるせーな、わかったっての」
そんな会話とともに、男はそれをどうで良いとばかりに投げ捨てる。
乾いた金属音を響かせて、ベルの命を救ってくれたその剣が床に転がった。
「おい、くだらんことでいつまで遊んでいる?」
「へいへい、わかってまさぁザニスの旦那ぁ」
つまらなさそうにそれを見ていたザニスの言葉に促され、その5人の姿がヘスティア・ファミリアのホームから立ち去って行く。
そうして嵐が去った後の空の様にぽっかりと空いた静寂の空間の中、ベルとヘスティアだけがただ取り残されていた。
しかしガラクタ同然と打ち捨てられたその剣に、彼は再び手を伸ばした。
ベル・クラネルは、剣の柄を握りしめる。
痛みも不安も振り切って、彼は折れた剣を手に立ち上がる。
「べ、ベル君……?」
「はい神様」
ベルはそう返事をしつつも、カヌゥ等に荒らされていた棚に近寄ると、中に残されていた薬瓶を取り出す。
「ねぇ、ちょっと待ってくれよベル君。そんな物を手にして、キミは一体何をするつもりなんだい……?」
ベルがそこに入っていたポーションを飲み干すと、彼の体についていた大小の傷がゆっくりと癒やされていく。そして全身の傷が癒えるのが待つのも惜しいと、そのまま転がっていた防具の中から小手や具足、胸当ての上部など手早く身につけられる部分だけを選別し急いで身につけていった。
その戦いに備える手を止めないままに、彼はヘスティアに宣言する。
「リリを、助けに行きます」
そう言うと予想していた……しかしその予想が外れて欲しかった言葉を耳にして、ヘスティアのその可憐なかんばせが青褪めた色に染められる。
「ま、待ってくれ! そんな……無茶だよ!?」
足をもつれさせそうになりながら、ヘスティアは必死でベルのもとへ駆け寄った。
必要な防具を身につけ終わったベルは、ふらつくその小さな女神を慌てて受け止め支える。
「無茶なのはわかっています……心配かけて、ごめんなさい。でも、僕はリリを助けにいかなくちゃ」
「だ、だから待ってくれってばベル君っ!!」
ヘスティアは彼の右腕にしがみつく。そして決して離すまいと強く抱きついた。
「い、行かせない! 今のキミは冷静じゃないよ! たった一人でその折れた剣だけで、どうやって彼女を助けるっていうんだい? ここは一度頭を冷やして助けを探すとか……」
そうやって自分の腕にすがり必死で説得を試みる己の主神に対し、ベルは寂しそうに微笑んで首を振った。
「そうですね……僕はきっと今冷静じゃ無いんだと思います」
「そうだろっ? だったら―――」
「でも、だめなんです。今リリを見捨てたらたぶん、
その言葉に、ヘスティアは思わず息を飲んだ。
「予感がするんです。ここで退いたら手遅れになるって。そうしたら僕は一生、後悔を引きずって生きることになるって」
「そ、それの何が悪いんだよ!」
思わず、ヘスティアはそう言ってしまっていた。
彼女は自分の口から出た言葉に後悔を感じながら、しかし一度流れ出したその言葉はとまらなかった。
「後悔なんて、誰でも抱えているものだろ? そんなの、仕方ないじゃないか。そんなの……キミの命とは釣り合わないよ!」
そう叫ぶ女神に、ベルはどこか困ったような顔で問い返す。
「それなら、リリの命なら良いんですか?」
聞きたくなかったその言葉が、ヘスティアの胸をえぐる。
「そんな……そんな事、言ってないだろっ!? ボクはただ、キミのことが心配だからっ!」
しかしそれは、リリとベルを天秤にかける行いに他ならないことを、彼女自身がわかっていた。
何かの幸運が起こって、ベルが今危険を犯さずともリリは無事に帰ってくるかも知れない。しかしそれを言うならば、ベルが彼女を助けに行ったとしても、悪い結果に成ると決まっているわけでもなかった。
彼女は2つの可能性を天秤にかけ、そして決断も出来ず、ただ……怯えたのだ。
「だって、仕方ないだろう? 彼女は連れ去られた……もうそれはおこってしまった事なんだ。なら、残ったキミを惜しんで悪いのか! キミまで失うことにおびえていけないって言うのか!」
ヘスティアの蒼い瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「ボクにだってわかるんだ。キミが抗えば、アイツ等は躊躇なくキミの命を奪うよ! だからお願いだ、ベル君。行かないでくれ……頼むから、ボクを一人にしないでくれ……」
ヘスティアは、
リリとベルを比較することなど、彼女にはできなかった。男と女、先と後、一番長く一緒にいた眷属と、ほんの一瞬前に眷属になったばかりの相手。それでも、その二人を選ぶようなことはできなかった。
(二人共、ボクの大事な
ヘスティアとてリリを助けたい……むしろ、なんとしてでも助けたいと思っている。そのためなら誰に迷惑をかけてでも、他者をどれほど危険に晒し、そして責められることになっても、躊躇はしない。何の力もないこの身を白刃に晒すことすら厭わないだろう。
もし仮に彼女が唯一の眷属であったなら、リリを救うためならばヘスティアは思いつく限りのことをしただろう。
(家族になると約束したんだ! 共に生きると誓ったんだ!)
それほど、ヘスティアの
悔しさに涙を流すヘスティアを、ベルが自由になる左腕で優しく抱きしめる。
「ごめんなさい神様、意地悪な事を言ってしまって」
「……うん」
「僕だってわかってます。神様は僕もリリのことも、どっちも大切に思ってくれてるんだって」
「ぐすっ……」
ヘスティアが鼻を鳴らしながら顔をあげる。
そして彼女は見たのだ。自分を真っ直ぐに見つめる、そのルベライトの様に赤い瞳の煌めきを。
「心配かけてごめんなさい神様……それでも、僕はリリを助けに行きます」
彼女は、その瞳に込められたベルの心を感じた。
否応なしに、その想いを受け取ってしまったのだ。
「止めても、無駄なんだね……」
「はい、神様」
ヘスティアは胸の痛みをこらえるように、しばし瞑目する。
「まったく、ずるいよキミは」
「ごめんなさい。でも、僕はまだ戦える。まだ、リリを助けられると思ってるんです……だから、諦めることはできないんです」
「……うん」
ヘスティアは、ついにベルの意思を認め頷く。
彼女は今でも彼まで失う事に怯える心は変わっていない。けれど、見つめ合ったベルの瞳に……確かに小さくとも希望の心が宿っていたのを、ヘスティアは感じてしまったのだから。
(キミにそんな瞳を見せられたなら、ボクが信じて送り出さないわけにはいかないじゃないか)
ヘスティアの背中に回されていたベルの腕が静かに解かれる。
その感触を名残惜しく思いながらも、ヘスティアもまた、彼の折れた剣を持つその右腕を、ゆっくりと解き放った。
「ほんと、キミはずるいよ……ベル君」」
そして彼女は、そう小さく呟いたのだった。