マーレひとりでできるかな   作:桃色は赤と白で出来ている

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一一 怒れるニニャと詰め所の騒動

 マーレとエンリと、その他一名の旅は続いていた。好天に恵まれた草原は歩きやすく、それでいてエンリの着る魔法の服は初夏の暑さを感じさせない快適性を維持していた。マーレの装備には遠く及ばないものの、陽光聖典隊長のニグンが作戦行動時に着用していただけあって、その防御効果も快適性も一級品だ。

 しかし、それでも旅慣れないエンリやもう一人の少女では冒険者のようにはいかない。さらに戦いの緊張と疲れで眠りが長くなれば、街への道のりはさらに遠くなり、それが次の遭遇を呼び込んでしまう。

 

 

 新たに現れたゴブリンと狼の群れを撃退したのは、二度目の野営の明け方のことだった。

 前日の話し合いが効いたのか、何故か狼使いのゴブリンが最初から敵意を剥き出しにしてくれていたおかげかはわからないが、今度はエンリ一人での戦いとはならなかった。

 

 それでも狼の習性なのか、何か臭いでもついていたのか、殆どの攻撃は隙を感じさせるエンリに集中した。その牙で魔法のかかったエンリの服を貫くことができないまま、あるものは小手で殴られて転がりながら、あるものは服を噛み締めて裏返ったところで、マーレの魔法で爆散した。

 狼使いのゴブリンは、魔法で植物に締め上げられているところをエンリが短剣で止めを刺しておいた。髪型や雰囲気が前に突撃してきたゴブリンに似ていた気もしたが、攻撃方法も装備も違うので特に関係はなさそうだ。

 

――噛まれる前に魔法使ってくれればいいのに。

 

 水を含ませた襤褸(ぼろ)布で血を拭き取りながら、感じた不満をしまい込む。

 思っても言い出しにくいのは、ガゼフから聞いていた話のせいだ。先手を取るように頼んだ場合、間違って人間相手にトラブルがあった時に取り返しのつかないことになりかねない。話し合いの時に本当に危ない時は先手をとると言っていたので、不本意ながら今回も危なくなかったということなのだろう。

 また、実際のところエンリはあまり危険を感じなくなっていた。

 恐ろしかったオーガも冷静に振り返れば動きは遅く、その棍棒も思ったよりずっと軽かった。ゴブリンの武器や狼の牙に至っては、仕立ての良い丈夫なものとはいえエンリの服さえ貫くことができなかった。その速度もたいしたものとも思えなかったので、落ち着いて対処すれば次は服で受けることもないだろう。

 戦いになると不思議と身が軽くなり力が湧いてくるのは、生まれて初めての戦いがそうであったから、きっと戦いとはそういうものなのだと理解していた。

 

 子供の頃であれば、農具や刃物を使う際も間違いが起こらないよう大げさに注意をされていた。今のエンリにとっては、魔物の恐ろしさについて大人たちから聞かされていたことさえも、それと同じようなことのように思えていた。

 カルネ村付近には魔物が現れず、怪我をする大人も殆ど居なかったこともその思いを裏付けてしまう。巨大なオーガはともかく、ゴブリンや狼であれば気性の荒い家畜程度にしか思えず、その解体にも躊躇が無くなっていた。

 

 草原の魔物についてはその戦い方などは聞いていないが、採取する場所だけは全て覚えている。これは薬草や換金作物の収穫方法のようなもので、少し聞いただけでもしっかりと記憶には残していた。

 それでも、経験の無さは如何ともしがたいものだ。狼から切り取る部位は鼻だと聞いてはいたが、顔の突き出た部分のどこまでが鼻かわからない。

 

 少し考えてから、牙があればわかりやすそうなので上あごを丸ごと切断することにした。薬草であれば深く採りすぎると次が生えてこないが、狼は植えても生えてこないので多めに取っておくことに問題はない。

 そして短剣で挑んでみたが、これが骨があってなかなか難しかった。力がみなぎっていた戦いの間であればどうにか出来たような気がするが、安全になって気が抜けたのかもしれない。

 

 結局、言う通りに他の狼の上あご全てを処理してくれていたマーレに任せ、エンリが削いだのはゴブリンの耳だけだった。マーレの仕事があまりに早かったので良いナイフでも持っているのか聞いてみたら、刃物は使っていないらしい。本当に魔法というのは何でもありだ。

 

 

 何でもありついでに、エンリはガゼフの紹介状のことを思い出した。

 ガゼフのような信用ならない人間の書状を、内容を確認せずに他人に見せることなどできるはずがない。エンリは書状を取り出すと、血の染みなどが無いことを確認してからマーレに渡した。

 

「これ、読んでもらえる?」

 

「……読めませんが」

 

「へ? よ、読めないぃいぃぃ!?」

 

「はい、全然わかりません」

 

――ガゼフでも書けるのに。

 

 エンリは読み書きの全くできない自分のことを棚にあげて驚いた。マーレとの出会いでだいぶ薄れてしまったが、魔法詠唱者(マジック・キャスター)といえば、教養があって賢いが気難しい、そういうイメージを持っていた。

 そして、強力な魔法詠唱者(マジック・キャスター)であるマーレが、戦士のガゼフでさえ可能とする知的作業をできないということは、容易に受け入れられることではなかった。

 

魔法詠唱者(マジック・キャスター)だから、魔法を勉強する時に文字とか使ったんじゃないの?」

 

「勉強? 魔法って、この世に生み出された時から使えるものじゃないんですか?」

 

「ええっ!?」

 

 紹介状どころではなく、とんでもないことを聞いてしまった。冗談だと思いたいが、その目を見れば、嘘をついているようには思えなかった。少し首をかしげ、何を当たり前の事に驚いているのか、といった表情だ。

 

 エンリは闇妖精(ダークエルフ)の生態を想像し、頭が痛くなる。生まれた時から魔法が使えるという種族の暮らしは、いったいどんなものになってしまうのだろうか。

 子供の喧嘩で死人が出ないよう躾けはされるだろうが、その悪戯までは止めきれるものではない。

 もし魔法で炎が出れば、子供の悪戯で簡単に家くらい燃えてしまうだろう。水を出せる者もいれば大丈夫なのだろうか。村の子供が虫や蛙で遊ぶように、親の目を盗んで蛙や小動物を爆破するくらいはやるだろう。

 

 物語では、妖精族が侵入者を攻撃するからといって森の危険さを説明するものがあるが、きっとあれは間違いだ。妖精族の側は攻撃などしているつもりはなく、迷い込んだ人間は蛙や小動物のように子供の玩具として殺されているだけなのかもしれない。

 

 つまり、強大な力を持って生まれる妖精族という種が人間から見て非常識な性格になるのは、至極当たり前のことなのだ。特に目の前の闇妖精から見れば、人間など玩具でしかない。飽きられたら、蛙のように爆破されてもおかしくないということかもしれない。

 

 

――あの人たちも、怖くて当たり前か。

 

 エンリは理由もなく嫌悪の視線を向けてきた恐ろしげな森妖精(エルフ)たちと、そんなのを三人も連れて頑張っている天才剣士のことを思い出す。

 マーレと森妖精の力関係はわからないし、着ていたものなどを比べればマーレの方が単体では危険なのかもしれない。しかし、終始友好的に接していたはずのエンリに向けられていたのは、森妖精(エルフ)たちからの背筋も凍るような嫌悪の視線だった。

 あれらはまともではない。やはり、妖精族の類は人が関わってはいけないものなのだろう。エルヤーはそれを三人も連れ回して楽しくやっていると強がるのだから、本当に凄い。

 

――かなわないなぁ。

 

 並び立てる日が来ることなど想像もできない。しかし、いずれは互いに手を伸ばせば触れられるくらいの、こちらからも何らかの手助けや協力ができるような関係になれたらと思う。大きな差があるとわかっていても、ただ甘えたままの関係で終わりたくはなかった。

 

 唯一の心の拠り所である優しい剣士を想うことで前向きな気持ちになれたエンリだったが、マーレの小さな手で誰も読めない紹介状を返されたことで目の前の現実に引き戻された。

 手の内にあるのは、災厄の象徴ガゼフの手による、中身のわからない書状だ。こんなもの、とても気楽に使えるわけがない。どう考えても嫌な予感しかしなかった。

 エンリはできるだけ無難に街へ入る方法を考えながら、旅路を急いだ。

 

 

 

 日が暮れる頃、ようやくうっすらと巨大な城壁が見えてきて、決断の時が訪れた。エンリは熟慮の結果をマーレに伝え、マーレはそれを受け入れた。冒険者の登録についても人間の街で名前を出したくないマーレと意見が一致し、それらの費用や都市に入る際の税金も考慮してエンリがマーレの持つ金貨袋の半分を預かることになった。

 その後の話もしようとしたが、魔法があるので臨機応変に対応できるということだった。

 

「街ではなるべく人と関わらず、あまり目立たないようにね。あと、この子の格好は人に見せないようにして」

 

 エンリは、マーレの玩具ということになっている幼い少女の外套を掴み、やや大仰な動作で前をとめていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 リ・エスティーゼ王国の国境近くの街であるエ・ランテルは、壮大な城壁と強固な城門の威容を誇る城塞都市だった。平時においても、門の脇の検問所に立ち寄らなければ何者も都市に立ち入ることはできない。

 

 その検問所の脇に、兵士たちの詰め所があった。

 検問に携わる兵士の休憩所を兼ねるこの建物には、疑わしい旅人を取り調べる際に使われる部屋があったが、たいていは通行料の説明とか書類の不備とか、そういう込み入った話をする程度のものだ。

 

 しかしこの日、その部屋は控える兵士たちの緊張感で満ちていた。兵士たちの他には、ものものしい雰囲気の黒衣を纏う少女がひとりだけだった。

 

 

「カルネ村に登録はあるのに、通行許可書を持たず通行料を払うということで良いのだね」

 

 エンリは頷いた。訝る兵士の気持ちはよくわかる。現金収入の限られる開拓村出身のエンリの価値観において、ここで支払う銀貨は大金だった。

 そんなものを払っては街との取引も難しくなるから通行許可書があるのだが、それは村に一枚か、せいぜい二、三枚あるかどうかだろう。いつ戻れるかわからないエンリが持っていって良いものではなかった。

 

 もちろん、ここで紹介状を出せば支払わなくて済むかもしれない。

 しかし、信用ならないあのガゼフの書いた中身不明の書状を出すくらいなら、涙を飲んで銀貨を数枚支払う方がエンリにとってはマシな選択だった。それは普通に考えれば愚かな選択なので、怪しまれるのも当たり前だ。

 それでも、相手は亜人や獣ではなく、話せばわかる普通の人間だ。そしてここではエンリ・エモットという人間の登録があり、何も悪い事をしていないのだから、問題が起こるとも思えなかった。

 

「これから冒険者になるので、許可書を持ち出すわけにはいきませんから」

 

 兵士は少し顎を引き、目つきをさらに嶮しくする。

 

「こ、これから……そうか。腕のある冒険者が街に増えるのは喜ばしい事だが――」

 

 ジロリとエンリの姿を、持ち物を見渡す。その視線が時折――駆け出しの冒険者に買えるはずのない上質な服や、血の染みが目立つ金貨袋のあたりで――止まっていることに、エンリは気付かない。

 

「一応規則なので、身体検査を受けてもらうことになる。よろしいかな?」

 

「……わかりました」

 

 受け入れるエンリに、兵士は安堵の表情を隠さない。

 相手は少女だとはいえ、その格好は誰もが危険な魔法詠唱者(マジック・キャスター)として警戒するに違いないものだ。そんな少女が、これから冒険者になるなどと適当なことを、怪しまれていることをわかりきったような余裕の態度で言い放っているのだ。

 経験上、どう考えても問題が起こらないはずがない状況だが、この危険人物を怒らせて自分が真っ先に犠牲になることだけは避けたいところだ。

 

 エンリの方は、この時点では詰め所に満ちている緊張感をほとんど問題にしていなかった。周囲を観察していないわけではないが、そこから得られるのはむしろ緊張ではなく安らぎだった。

 

――規則とか、わたし、まともな対応をされてる。兵士のひとたちも目を逸らさず陰口も言わずにこっち見てるし、ああ、落ち着く。

 

 エンリは王国という組織の評価を一段上げるとともに、比較対象となる戦士団を率いていたガゼフの評価をさらに一段下げた。

 あれは人として問題があるからロクな部下が集まらない、エンリの中ではそういうことになった。

 

 

 その時別の兵士が連れてきたのは、魔術師組合から来ているという、見るからに魔法詠唱者(マジック・キャスター)という姿の男だった。指示を受ける前に連れてきたのは、少しでもこの部屋の戦力の足しにしたいという気持ちもあったのかもしれない。

 見るからに、という点では黒衣のエンリも同様だが、その質は全く違う。季節外れの黒いローブを纏う男は汗にまみれ、それ以上に重厚感のある服装に見えるエンリは涼しい顔をしていた。その服に魔法がかかっているのは調べる前から明らかだったが――。

 

 《魔法探知(ディテクト・マジック)

 《道具鑑定(アプレーザル・マジックアイテム)

 

 魔法を詠唱する声は随分としわがれていた。それはエンリの考える魔法詠唱者(マジック・キャスター)らしさにも合致するもので、マーレという存在の不条理さを見てきた身には、むしろ安心感さえ感じるものだった。

 汗だくで鋭い視線を送る魔法詠唱者(マジック・キャスター)と、それに優しい微笑を返すエンリ。兵士たちは二人の格の違いを見せ付けられたような気がしていた。次いで出る魔法詠唱者(マジック・キャスター)の言葉にも、もはや驚きは無い。 

 

「魔法の服とは思っていたが、これは並々ならぬ品だ……防御性能も、鋼の全身鎧どころではないぞ」

 

 先に対応していた兵士が何やら耳打ちすると、魔法詠唱者(マジック・キャスター)の視線がさらに鋭くなった。

 

「こんな装備を持っていながらこれから冒険者になるなどと、白々しい。お前はいったい、何を企んでいる!」

 

 詰め所の兵士たちがエンリの周囲に回り込む。

 

「いえ、冒険者になるのは仕方なくで、元々ただの村人だったんです。この服も、旅支度として貰ったもので……」

 

 マーレたちにこっそり街へ入ってもらった後ろめたさで、その名を出すこともはばかられた。仕方なく、を強調したのは正直な気持ちの表れでしかなかったが、そうは伝わらなかった。

 

「この街最高位のミスリル級冒険者をも上回るような強力な装備が、食い詰めて仕方なく冒険者になる村娘の旅支度か! 何故、そのような見え見えの嘘を吐く!」

 

「い、いや、嘘じゃ……」

 

 エンリは困惑した。相手はまともな兵士で、王国の都市を護る者として当然の対応をしている。それがわかっているからこそ、ガゼフの書状を出すのが怖かった。それが再びエンリをまともでない世界へ連れ去ってしまうかもしれないとさえ思えてくるのだ。

 

「ちょっと、その腰につけた金貨袋を全て見せてもらえるかな」

 

 その時、不意に横からかけられた穏やかな声は、先に対応していた兵士のものだ。

 疑いをかけられても、あくまでまともに扱われている。エンリはそのことに安心し、確認することなく腰のものを机の上に置いた。

 

 血染みの目立つ複数の金貨袋が、机との間で重みを感じさせる音を立てる。兵士たちはそれと、平然とそれを見せ付けたエンリの穏やかな顔を見比べ、戦慄した。

 そして――。

「幾つあるんだ……盗賊か!?」「集まれ! 集合だ!」「魔法もあるぞ! 散開しろ!」「北の盗賊団の幹部か?」

 

 結局、最初からまともでない世界へ連れ去られたままだったことを思い知った。

 

 エンリは呆れとも諦めともつかない表情を浮かべ、観念して書状を出そうとカバンに手を突っ込む。

 その瞬間、一斉に武器が抜かれるが、もはやその表情が揺らぐこともない。出てくるのはただ深い溜息だけだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 黒衣の少女が一通の書状を机の上へ放り出し、魔法詠唱者(マジック・キャスター)と兵士の一人がそれを見る。二人の顔色はみるみる蒼褪めていくのだが、窓の外からそれを窺い知ることはできない。書状を持った兵士が慌しく外へ走り、魔法詠唱者(マジック・キャスター)はコソコソと部屋の隅へ。集められた兵士たちは武器を収め、元の持ち場へ戻っていった。

 

「あれー、終わっちゃったか。つまんない」

 

 女は短い金髪をかき上げて黒衣の女を一瞥すると、残念そうに呟く。黒衣の少女の不思議な余裕も気になったが、騒ぎが起こらないのなら見ていても仕方がない。フードを目深に被り直すと、部屋の中の誰からも気付かれぬまま、滑るように詰め所から離れていった。

 

――どっかで見たことあるんだよねー、あの娘じゃなくて、服の方だったかな。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 慌しく身構えた者たちは、慌しく対応を改めた。

 そして、エンリは詰め所の奥にある簡単な応接間に通される。

 調度品などが揃っているわけではないが、一応仕立ての良いソファセットが用意されており、ここはそれなりの立場の相手を待たせるための場所らしい。

 

「大変、申し訳ございませんでした!」「申し訳ございませんでした!」「し、失礼致した……」

 

 エンリは、床に額を擦り付けて謝る人間というものを初めて見た。正確には、蒼い顔で部屋に飛び込んできた兵長と呼ばれる男が、先ほどまで対応していた兵士と魔法詠唱者(マジック・キャスター)の頭を床に押し付けていたのだが。

 

――みっともない人たち。

 

 エンリは幻滅していた。脳裏に浮かんだのは、ガゼフの取り巻きたちの姿だ。たかが村娘一人に対し、武器を持った大の男が群れをなして血塗れだ魔女だと驚き、戸惑い、うろたえる、あのみっともない連中。

 さっきの部屋で目を合わせないようにコソコソと出ていった兵士たちも、目の前で床に張り付いて震える三人も、まさにあれと同類だった。

 

――今ここで文句を言えば、面倒臭い人たちの相手をしないで街に入れるかも。

 

 エンリは軽く頭を振って、安易な考えを振り払う。

 これほど大きな街で、最初からならず者のようなことをして、変な目で見られるわけにはいかない。

 

 目の前の者たちを観察する。最初はまともな対応をしていた兵士たちも、一皮向けばガゼフの取り巻きたちと変わらないことになってしまった。

 問題は、どうしてこうなったのか、だ。

 

 頭ではしっかり話を聞いておかねばならないと思いつつも、心がそれを拒む。

 なかなかやる気が出ない。関わりたくないのだ。

 

 顔見知りばかりの開拓村で村娘として生きてきたエンリに、このような種類の我慢の経験など無かった。

 自然と、呆れたような表情は蔑みを含む冷たいものに変わり、滲み出る疲れが虚脱した全身を椅子の背もたれに放り出した。

 

「で、これはどういうことなんですか」

 

 突然の豹変がガゼフの書状によるものなのは、字が読めないエンリでもわかる。何が書いてあったか説明させることができるような雰囲気ではないが、どういう理由でここまで豹変するのかくらいは聞いておかなければならない。

 苛立つ気持ちを、関わりたくない気持ちを抑えつけて、どうにか言葉を搾り出した。

 

 目の前の兵士たちは既に、エンリにとってまともでない世界の住人になってしまった。本来なら視界に入れたくもないが、話をする以上そうはいかない。

 虚脱感に負けたエンリは背もたれに身体を預けたまま、目だけで兵士たちを見下ろしていた。

 

「はっ、エンリ・エモット様に対し、この者がとんでもないご無礼を――」

「そんなこと聞いてません」

 

「では、この魔法詠唱者(マジック・キャスター)が、くだらぬ詮索――」

「それが仕事じゃないんですか?」

 

「も、申し訳ございませんっ!」 

 

 話が全く噛み合わず、エンリは大きな溜息をつく。

 それに合わせて兵長の身体がびくりと震え、再び兵士と魔法詠唱者(マジック・キャスター)の頭が床に押し付けられた。

 

――もう帰りたい。

 

 豹変の理由を聞こうとするほど、まともでない世界のぬかるみに足を取られてしまう。

 エンリは出された果実水を口にしつつ、ここから脱出する機会を探ることにした。

 

 

 印象は最悪なのだろうが、せめて飲み物くらいは残さずに。

 そう考えてゆっくりと飲み進むと、その度に注ぎ足された。濃さがあって美味しい果実水で、もったいなく思えた。

 

 少し苛立って、これはもう要らないと断ると、琥珀色の飲み物が綺麗なグラスで運ばれてきた。

 グラスも中身もいかにも高そうで、残すのはもったいないので一気に飲み干し、おかわりを断った。

 

 

 それから、頭がクラクラしてきた。

 溜息が大きくなり、もやがかかったように、話が聞き取りづらくなった。

 

 なんだか身体が熱くなってきた。

 窓の外は夕闇が広がり、風に当たったら気持ち良さそうだ。

 

 

 そうだ、冒険者組合が閉まる前に行かなければならない。

 ちょうど、ここから出たいと思っていたところだ。

 向かい合わせのソファセットには他に誰も座っていない。

 一人で何をしていたんだろう。

 

 部屋を出る時、床にうずくまっていた男がいた。

 必死な様子で足に縋り付いてくる。

 気持ち悪い。

 振りほどく。

 足を必死に動かす。

 振りほどく。

 顔を蹴りつけてしまう。

 

 あんな所で床と仲良くしているなんて、きっと酔っ払いか何かだろう。

 

 謝ろうかと振り返ったが、何か騒いでるので足早に去ることにした。

 酔っ払いに絡まれると面倒だ。

 

――大きな街って、怖い。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「おれ、おれのあし、生えて……うわあぁぁぁっ!!」

 

 叫びながら、男は千切れたはずの足で地面を蹴って、狭い裏路地の壁に何度もぶつかりながら必死に逃げていった。

 マーレは不思議な反応に首をかしげる。あちらの方から用事があるのではなかったのか。結局、用事は何だったのか。

 人間というのは支離滅裂だ。

 

 エンリも人と関わらないように言っていたし、こちらからは特に用事はなかった。

 よくわからない呼びかけに構わず通り過ぎようとしたら、足を掛けようとしてきたから、避けた。

 蹴りつけるように追ってきたから、邪魔なのでつい踏み抜いてしまった。

 

 もちろん、人間が脆いことは知っていたが、今は玩具を使えば回復してやることができるから安心だ。

 元通り足も使えて痛みも無くなっただろうに、あの男は何を興奮していたのだろう。他に急用でも思い出したのだろうか。

 

 

 しばらくマーレが思案していると、不意に後ろから声をかけられた。

 

「その子は……その格好は何なんですか?」

 

 中性的なその声は、決して友好的なものではない。

 振り返ると、一人の少年がマーレの方へ厳しい視線を向けていた。短く切られた濃い茶色の髪の下で、広く空いた額には眉間の皺が深く刻まれていた。

 声の調子も質問というより詰問だった。

 

 皮の服という軽装に杖を持つ少年の姿は、一般的な魔法詠唱者のものだ。男の叫び声に引き寄せられてきたのは間違いないが、既に問題はそこではないようだ。

 

 少年の青い瞳から向けられる鋭い視線は、マーレとその玩具の間でちらちらと揺れ動いていた。

 マーレはエンリから言われていたことを思い出したが、今回は使う必要があったのだから仕方がなかった。脱ぎ捨てさせた外套を拾って玩具を覆い、前をとめてやる。

 

「答えてください! 目を塞がれ、裸同然の格好をさせられていた、その子は一体何ですか?」

 

 杖を構え、少年が語気を強める。そこには、正義感や義憤といった感情とは別の種類の、ドロドロと纏わりつくような敵対的な感情が含まれていた。

 

「この格好は、この玩具がそうやって使うものだからです」

 

 マーレは玩具と呼んでいる巫女姫の額冠に触れながらその性質の一端を簡単に説明するが、少年が納得する気配は無い。話をきちんと聞いているかも怪しい。

 それどころか、少年は憎しみに顔を歪め、身体を震わせていた。さらに、先ほどから物陰に潜んでその少年の方をうかがっていた男までするすると近づいてくる。仲間だろうか。

 

「い、今はそういう商売は許されることではありません。兵士の詰め所まで一緒に来てください。さもなくば――」

 

 マーレを睨みつける少年は剣呑な空気を纏っていた。たとえ街の中でも、攻撃魔法の使用に躊躇が無いほどに。

 

「ごめんなさい、なるべく人と関わらないように言われてるので」

 

 そう言って、マーレは無詠唱で集団転移を発動する。転移先は別の路地裏だ。

 街へ潜入した時、最初に確認したのがこういう人のあまり通らない場所だった。

 

――そういう商売って、何だろう。

 

 人間の街では、わからないことだらけだ。人間など取るに足らない存在だと思っていても、よくわからないことで面倒事になってしまう。

 

 マーレはこれ以上の面倒を避けるため、守護者としての仕事の時に使うことにしていた魔法による超知覚を発動しておくことにした。

 

 

 

 

「あのガキはヤバいぜ。関わらない方がいい」

 

「ルクルット!」

 

 目の前の二人が消え、行き場を失った怒りで杖を固く握り締めていた少年――ニニャの前に現れたのは、見知った仲間の姿。少し軽薄そうな雰囲気を漂わせる金髪の男、ルクルットだった。

 ニニャはつけられていたことにも不満はあったが、今はそれどころではない。相手が危険な存在であることも、今回に限っては優秀な野伏であるルクルットよりよく理解しているつもりだった。

 今の現象が魔法による転移であれ不可視であれ最低でも第三位階以上のものであり、ニニャより格上の相手であることは確実だ。

 

「でも、許せない。それに、助けられるかもしれない」

 

 その感情は、ニニャが冒険者になった理由に直結するもの。たびたび時間を作ってこうして色街やその付近の裏路地を歩き回る理由でもあった。

 ニニャの怒りを理解できるだけのものを見ていたルクルットも、それを無下にはできないことはわかっていた。それでも、仲間を危険に晒すわけにはいかない。

 

 ルクルットは、興奮のあまりニニャが気付いていなかった地面の不自然な血の跡も把握しながら、その意味をはかりかねていた。

 

「お前はやらなくちゃいけないことがあんだろ。この前の、安宿に泊まってたような相手ならともかく……」

 

 思い出したのは、冒険者としての依頼に関わるものではあったが、以前に仲間たちと関わった人助けの事だ。

 その時に懲らしめた流れ者のゴロツキは、街中を探し回った挙句、冒険者御用達の安宿で見つかったのだ。互いに顔を知らない駆け出しが泊まるような宿は、よそ者も多い。背後の組織もないようなワケありの者が潜伏するのにも向いているのだろう。

 

「そうですね。例の宿でちょっと張ってみませんか?」

 

 ニニャは真っ直ぐルクルットを見つめる。チームの目であり耳であるこの男はこういう場面では頼りになる。

 手に負える相手なら手伝ってほしい、そういう思いを込めての視線だったが、正面から受け止めてはもらえなかった。ルクルットは頭をかきながら目を逸らす。

 

「あー、今、二人きりでか?」  

 

「……あっ。いや、その……」

 

 ニニャは少し頬を染め、言葉に詰まる。そしてすぐに、躊躇する理由が無いことに気付いた。

 改めて二人で行くのかと言われてしまうと戸惑いがあるが、彼らのチーム”漆黒の剣”は男だけで構成されている()()()()()()()()。何の問題も無いはずなのだ。

 まとまらない思考を畳み込み、ニニャがよくわからない覚悟に至りかけたところで、助け舟が入った。

 

「ま、まあ荒事にするつもりはないが、何かあった時、皆が揃ってた方が安全だよな」

 

 ルクルットが弱気になるのも仕方ない。相手は格上なのだから、皆で行くべきということに異論は無かった。

 ニニャはそれ以外の込み入った余計な思考をどこかへ追いやる。

 

「そそそうですね。今は組合でしたか。急ぎましょう」

 

 二人は表通りへ出て、冒険者組合へ向かった。

 













正統派冒険者チーム『漆黒の剣』の過去話は独自設定です。ありがちな街での事件で、特に膨らみません。
応接室なども独自設定です。戦時中など他国の使者を街に入れたくないような時に便利かもしれません。

次回は、原作では勝てなかったエ・ランテルのあの人が、勝ちます。(※話の本筋ではありません)

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