マーレひとりでできるかな   作:桃色は赤と白で出来ている

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※第十七話のあと、拷問の表現が苦手な方はこちらをご覧いただければ、問題なく話は繋がります。
※勿論、こちらにもR-15程度の(過去話程度の)残酷表現が無いわけではありません。繋がりを考える以上、やむをえず。

マーレの意思としては、これは拷問回ではない。しかし、酷いことが起こらないとは限らない。


一九 クレマンティーヌの最初のお仕事

――どうして早く従わなかったのかな。

 

 反抗心を完全に磨り潰された後、マーレと話をしながら、クレマンティーヌは無駄な抵抗を続けていたことを心の底から後悔した。全ては不要だったのだ。何度も回復されながら身体の中身を撒き散らされ、身体を裂かれながら終わらない逃走を続け、最後は下腹部をあの白くて長いモノでドロドロに――。

 思い出すことで狂気の中に閉じこもろうとする心は、すぐに魔法で引き戻される。それを命じるマーレには、面倒だという以外の感情は見えない。

 

 クレマンティーヌには、捨て石としての価値すら無かった。マーレが欲しかったのは、法国の情報を持っていて、攻撃を仕掛ける時に案内ができるだけのシモベでしかなかった。

 魔法詠唱者が戦う場合、前衛が必要というのが常識だ。クレマンティーヌにはマーレの前衛として働けるだけの力などは無いが、その時が来れば当然に捨て石とされるものと考えていた。その上、マーレ一人では漆黒聖典の番外席次や隊長を含めた法国全体を相手にすればどうなるかもわからない。だからこそ、法国との戦いを恐れ、従うことができなかったのだ。

 しかし、マーレは慎重だった。法国のまだ見ぬ強者を警戒し、探している自分の主人や仲間と合流してから戦うという。クレマンティーヌが忠誠を誓うことになった『アインズ・ウール・ゴウン』というのがそれらが属する組織の名であるらしい。

 

「場合によっては、念のためぼくと同格の存在七、八人で当たって押し潰す感じになると思います」

 

 それを聞いた時、クレマンティーヌの時間が止まった。

 

 

「足りないですか? そういえば、さっき聞いた漆黒聖典の隊長とは召喚した魔獣が戦ったことがあるんですが、えっと、あれくらいの存在なら召喚以外で二十か三十は連れていけると思いますが……」

 

 マーレにとって、法国とはナザリックを踏み荒らした千五百人に連なる恐るべき敵だ。以前訪れた時はたいした強者が現れなかったが、元より自分一人でどうにかなる相手とは思っていない。

 

 

 止まった時間からクレマンティーヌが戻ってくると、世界は存亡の危機を迎えていた。

 法国の追っ手とか番外席次の恐怖とか、そんなものはもうどうでもよかった。

 

 

「ソんなものを支配すルナんて、マーレ様の主はマるで神かソれ以上の……」

 

「そうですよ?」

――この人間は何を当たり前のことを言っているのだろう。

 マーレはこの当然の話に驚くクレマンティーヌを心の底から理解できず、不思議そうに首をかしげた。

 

 

 クレマンティーヌは考えた。法国が弱すぎてはマーレ一人で対処することになりかねず、案内役の自身の危険も増してしまう。

 かといって、強すぎては偵察や情報収集などを強いられる可能性が出てくる。

 

 人類の守り手であるスレイン法国は、クレマンティーヌを危険に晒すことのない形で滅びるべきだ。それがクレマンティーヌが出した結論だった。

 

 結果、マーレにとって脅威と見なされるのは、番外席次と最高神官長の二人とマーレの召喚した魔獣を奪ったという『ケイ・セケ・コゥク』など数ある強力な神器だということになった。クレマンティーヌは法国をある程度は強く見せたかったが、マーレに明らかな嘘をついてそれが露見した場合の恐ろしさを考えると、自身の知らない神器がある可能性を誇張気味に指摘することと、最高神官長の強さを誤認したことにしておく程度が限界だった。

 マーレが焦って法国との戦いを急がないよう、それ以外の部分で有利な情報はうやむやな部分も必死に思い出し、勝手に補い、全て活用した。クレマンティーヌが動向を探る羽目になっても困るので、神人、特に番外席次が向こうから出撃してくることはないということもしっかりと納得してもらった。その理由を問われた際は法国が警戒する評議国と竜王のことを足りない知識で説明したが、味方でなくあくまで将来の敵の一つとして興味を持っているふうに見えて不気味だった。

 

 

 

 

 

 二人が工房の最初の部屋に戻ると、床はおびただしい量のクレマンティーヌの残骸で満たされていたままだった。回復によって身体に戻るものと戻らないものの差異を知ることとなった有意義な「実験」の結果だが、ここは協力者の所有する家屋であり、これは片付けなければならないものだ。

 

「ここをきれいにしてもらえますか」

 

「は、ハひっ……あのぉ、ドォやってこれを……」

 

 跪いた状態で、クレマンティーヌは途方に暮れる。

 

「わかりませんか?」

 

 マーレはきょとんとした顔で少し悩んでから、クレマンティーヌの髪を掴んで頭を押し下げ、土下座のような体勢をとらせる。

 クレマンティーヌの顔の前に、潰れた臓物の欠片が迫る。

 

「マさか、食べろトかいわ――」

 

「はい、食べてもらえばきれいになります」

 

 思わず顔を背け、マーレの顔色を窺う。その瞳には闇だけが浮かび、嗜虐も憐憫も、感情と言えるものは何も無かった。

 

「嫌、ですか? だったら――」

 

 その瞬間、クレマンティーヌは潰れた臓物の欠片にかぶりついていた。マーレの瞳の中の闇の向こうに、あの森での地獄を見たのだ。むせかえりながら、溢れる涙が床に零れ落ちるのが視野に入った。そこにおぞましい桃色の濁りがないのを見て、クレマンティーヌは透明の体液を出せる身体に戻ったことに安堵した。

 

 

 

「本当はもっとラクなやり方があるんですけど……」

 

 唐突なマーレの言葉に、口の端から濁った血を滴らせるクレマンティーヌが顔を上げる。

 

「エンリが、ラクしないで自分の汚した所は自分で綺麗にするようにって言ってたんです」

 

――血塗れの魔女、か。

 クレマンティーヌは必死に口の中の苦味から意識を逸らしながら、冒険者エンリの持つ大仰な二つ名を理解し、それに納得した。

 

「……らクなやり方って、魔法デすか?」

 

「一応、魔法も使いますけど、死んでる間に終わるからラクですよ」

 

 マーレはカルネ村ではじめてのおそうじに挑戦した時のやり方を説明する。ただし、復活に必要な金貨を出せれば、という条件付きだ。

 

 

 

 クレマンティーヌは食べ続けた。床に残った血糊についてはどうすればいいかわからないが、それを聞く気にはなれなかった。こみ上げてくるものがあり、部屋の端で見つけた掃除用の木桶を抱えて涙ながらに嘔吐の許可を求めたが、与えられたのは許可ではなく回復魔法だった。

 クレマンティーヌは食べ続けた。汚れの酷いものを巧妙に木桶に隠しながらも、マーレの目がある以上、大部分は食べるしかなかった。幾度かの心の回復を経て、食べることにも慣れて掃除が捗るようになった。

 

 掃除が順調に進んでいることにマーレは満足していた。わざわざ動死体にしなくても、人間はそのままでも意外に素直だということを学んだ。

 もちろん、食べるのが嫌なら何か別の方法を考えて掃除してくれてもよかった。しかし、掃除とは本来メイドがやるものであって、その技術を持たないマーレにも掃除のやり方はわからない。そして、クレマンティーヌも掃除のやり方がわからないようだったので、試しに動死体と同じやり方を教えてみたところ、こうして積極的に掃除をしてくれている。メイドの技術を持たない普通の人間であれば、能力的には動死体と大差がないのかもしれない。

 木桶に溜めているものについては、マーレが気付かないはずがない。ただ、マーレも人間と動死体の違いを知らないわけではない。人間は生食以外の方法で食事をすることが多いので、木桶に溜めている分は朝食なのかもしれないと考えたのだ。掃除が苦手なクレマンティーヌも、料理はそれなりにできるのだろう。

 マーレとしては、部屋がきれいになるのだったらどういう方法で食べてもらっても問題はなかった。もちろん食べなくても構わないのだが、人間のような下等生物とはいえシモベとなったものがその能力の範囲で頑張っているのだから、ここは好きにさせておくべきだろう。

 

「奥にいるので、掃除が終わったら声をかけてください」

 

 マーレが去ると、そこからクレマンティーヌによる掃除は臓物や肉片を拾って木桶に突っ込む作業になった。壁の一辺まで歩ける領域が増えると、戸棚の陰にモップを発見することができた。クレマンティーヌはしばらく逡巡してから、それを手にとって人間としての掃除を始めた。

 

 クレマンティーヌは独り、自らの血肉を掃除しながら、狂気をモップで抑えつけながら、木桶に溜まった血肉の分だけ少しずつ心の平静を取り戻していった。

 

 

 マーレは掃除をクレマンティーヌに任せ、死の宝珠と名乗るアイテムと会話をしていた。最高でも骨の竜程度の弱いアンデッドを支配できたり大抵の人間を操れるという程度の、物珍しさ以外にたいした価値は無いものだが、アンデッドを感知する能力に優れているという点に強い興味を持った。マーレの主についての知識はなかったが、それが偉大な不死者であることを説明すると、一も二もなくその捜索に協力することを約束してくれた。

 死の宝珠の側も、カジットとともに長い時間をかけて集めたものを上回るような強大な負のエネルギーを一度の魔法で生み出したマーレへの関心は高く、その主が偉大な不死者だと聞けば会わずともその期待は膨らみ、敬意と憧憬すら感じるほどだった。

 

 マーレは二名の協力者を得た翌日、早くも一名と一つのシモベを得ることができた。上機嫌なマーレは、死の宝珠の頼みを一つだけ聞き、宝珠に注がれるべきエネルギーの溜められている場所へ向かった。

 この日、エ・ランテルの巨大墓地の一部で局地的な地震が起こり古い霊廟が崩壊したが、それを気にとめる者は居なかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夜明け前、『漆黒の剣』は再び薬師の工房が立ち並ぶ通りを訪れていた。

 

 ニニャは昨日あったこと全てを話し、仲間たちはその全てを受け入れた。しかし、その全ての結果を受け入れようというわけではなかった。自分の手を汚さないとしても、他人をけしかけて他の冒険者を殺すような状況を看過するわけにはいかない。『漆黒の剣』としては、間に合えば命を狙われている冒険者――エンリに警告し、間に合わなければ脅されたという形で内容も薄めつつ関与を冒険者組合に報告するという方針を決めていた。

 

 そして『漆黒の剣』の四人は僅かに開いていた戸に手をかけ、薄明かりを残した血塗れの室内を確認する。漏れる臭気で状況はわかっていたため驚きは無いが、あまりの惨状に全員が顔をしかめる。

 

「ひと足、遅かったみたいだな」

「ここまで血塗れとは、異常なのである」

 

 声を聞いて、部屋の物陰から一人の女が姿を現す。

 

「命が惜しけりゃ帰――ああ、君かー。昨日はありがとうね。血塗れどころか臓物も転がってるから、踏まないでねー」

 

「こ、この人で……す」

 

 入口の手前で踏みとどまった四人は、その姿にうろたえながらも戦いの態勢をとる。言葉が出なくなりそうになったニニャも、他の三人もすぐに気付いたのは、女の鎧の異様さだ。そこには、彼らと同格のシルバーや格上のゴールドどころか、ミスリルやオリハルコンの輝きも含まれている。幾多の冒険者のプレートを張りつけたその鎧は、殺戮者である女のハンティングトロフィーとも言えるもの。四人は死を間近に感じながら武器を構えじりじりと後退する。

 女は先端に血肉の塊のようなものをつけた長い棒状のものを持ったまま、場違いなほど気楽な声で応じる。

 

「んふふ、この桶の中にもたくさんあるんだよ。これ、誰のだと思う?」

 

「あの女を、殺してしまったんですか?」

 

「だったらよかったよねー。私もハッピー。あなたもあいつらの死体を見に来たんでしょ」

 

「いや、私は……」

 

「ごーめんねー。せっかく情報もらってけしかけてもらったのに、私、あっさり負けちゃったんだー」

 

 気楽な間延びしたようなその声の中にも、女の持つ影の部分がゆらゆらと見え隠れしている。

 

「それじゃ、これはいったい……」

「住人も無事とは思えないのである」

 

 女に気圧されるニニャの背を、ダインが支える。

 

「誰のだろうねー、なかなか掃除が終わらなくて困っちゃう。……全部私のだけどな」

 

 気楽そうな声から一転、最後は低くささやくような、呪うような、その場の全員の背筋を震わせる声で女は言う。

 

「あなたの……どういうことなんですか?」

 

「一晩中嬲られたんだよー。いちいち回復されながら内臓全部ぐちゃぐちゃになるまで何度も何度も犯されて、私はあいつらの奴隷に成り下がったんだ」

 

 女の顔には亀裂のような笑みが浮かんでいる。笑いものにしているのは、自分自身だ。その高めの声には自嘲と畏れの入り混じった独特の揺らぎがあり、女の境遇に引き込まれそうなものさえ感じられる。

 

「奴隷……ですか」

 

「いい趣味してるよねー。あの女の指示らしいけど、てめぇの臓物はてめぇで片付けるってのが、哀れな奴隷クレマンティーヌの最初のお仕事なんだよ。私ってかわいそー」

 

 女は手に持っていた棒状のものを、にちゃり、と持ち上げる。四人は、それが血塗られたモップだとようやく認識する。

 

「そこまでされて、逃げようと思わないのか?」

 

 女の迫力から仲間を守るように、ニニャの前を塞いだペテルが問う。

 

「逃げたよー。ボロボロになるまで逃げても、駄目だった。相手は転移魔法も使うし、何でもありなんだよ」

 

「ごめん……なさい」

 

 仲間に守られながら、ニニャは自分でも信じられないような言葉を発する。奴隷という言葉、奴隷という状態は、たとえ殺戮者であっても背負わせたくないほどに、ニニャにとっては限りなく重いものだからだ。

 

「謝んないでよー、殺したくなっちゃうから。……でも、侵入者なら殺しても大丈夫かもしれないから、暇ならまとめて相手するよー?」

 

 女の殺気は本物だ。四人には、部屋の中へ踏み込めばすぐに自分たちも散らばる血肉の一部となるであろうことが、すぐに理解できた。それは女の持つオリハルコンやミスリルのプレートのせいばかりではない。

 

「……行こう」

「俺たちは、何も見てねーよ」

 

 ペテルがニニャを引っ張り、ルクルットが肩に手をかけて連れていく。ニニャは黙って二人に従い、歩き出す。

 善良で、勇敢で、正義感の強い者たちだが、それでも彼らは冒険者だ。命を賭ける場面を選べるくらいの分別はあった。

 女は自嘲気味に笑いながら、小さくなった四人の背中に関心を失い、作業に戻る。魔法によって遮断され、建物から離れた四人には届かなかったが、その笑い声はいつまでも止まなかった。

 

 

「まだ、関わりたいのであるか?」

 

 ダインの声に、ニニャは黙って首を振る。

 

「一昨日の小さな女の子のことだけ詰め所に通報して、全て終わりにします」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ンフィーレアは人生最高の夢から醒めて、人生最低の朝を迎えた。

 

 強引に腕を引くエンリの姿に、この日のために詰め込んであったあらゆる知識は吹き飛んだ。「ンフィー、ちょっと向こうを向いていて」そう言われた時は頭が真っ白になり、このままエンリに全てを委ねて天井のハーフティンバーの染みでも数えていれば終わるのだろうか、などと情けない考えにも至ってしまった。着替えの衣擦れの音を聞くたびに心臓が飛び上がりそうになり、柔らかいベッドが僅かに軋む音がその終わりを告げる。そして待ち望んだエンリの声――。

 

「今日は有難う。……おやすみなさい」

 

 大好きな人のすぐ隣のベッドで固まったまま、空が白んでくるまで眠れなかった。恋とは緊張であるという不条理も、その間だけは少しだけ理解できた。

 大好きな人の声で目覚めることができたにもかかわらず、ろくに顔も合わせないまま水場へ走らなければならず、一心不乱に洗濯をしたことは、おそらく一生忘れられない思い出となるだろう。

 

 僅かな睡眠ではあったが、夢を見ていたのは間違いない。それも最高の、極上の夢だ。ンフィーレアがそれを確信できるのには確固たる理由がある。目覚めた瞬間に頭に浮かんだのが、いつエンリがわざわざ寝間着を着なおして隣のベッドに移ったのかという疑問だったということ、それだけを鮮明に覚えているからだ。

 それでは、夢の内容はどうか。それは、起きた瞬間の自分自身の状態を自覚し、理解し、焦り、するべき事を考え、水場の場所を思い出し、そこへ走るという一連の慌しい流れの中で、跡形もなく吹き飛んでしまったらしい。

 下着を洗濯しながら苦悩しても、冷たい水に手を浸して呆けても、何度も水をかぶって自分の愚かさを呪い続けても、どうやっても取り戻せない。せめて寝間着姿のエンリだけでも思い返そうと気持ちを切り替えるも、ここまでの半狂乱状態の中でその記憶さえも曖昧になってしまっていた。今から戻っても間に合うとは思えない。そこで、このようなことでエンリとのかけがえのない時間を無駄にしている自分の愚かさに気付くと、堰を切ったように涙が止まらなくなった。

 ずぶ濡れのままなら涙を拭わなくてもいいと割り切って、ただその場に座りこんだンフィーレアは、その目を真っ赤に泣き腫らしていた。大事な記憶だけ何もかも失っておいて、妙にスッキリと冴えわたっている自分の頭が恨めしかった。

 

 宿の格は上がっても水場は共同の場所であり、占拠し続けるのは本来ならば迷惑行為だ。しかし、その場を訪れる者は皆、少年を憐れむような目で一瞥して去るのみで、咎める者はいない。文句は無くとも、普段なら早朝に下着を洗う少年など格好のいじりの対象となるはずだが、魔女に食われて心が壊れかかっているようにしか見えないその少年をからかおうなどという心無い大人は、この宿には一人もいなかった。かといって、慰めることも難しい。不用意に近づいて、もしその下着か下半身が血塗れだったりしようものなら、何と声をかけて良いかもわからなくなってしまうからだ。

 

 

 

 黒衣のエンリが相手でも、宿の一階での朝食はンフィーレアにとって幸せな時間だった。自分を待っていてくれて、体調を心配してくれたエンリは黒衣の天使と言ってもいいだろう。そこでの話題は周囲に聞かれたくないものが多く、自然とひそひそ話になってしまうのだが、顔を近づけて吐息がかかる位置でエンリと話ができるだけで傷ついた心も癒されるというものだ。

 もちろん、深刻な話も多い。マーレやリィジーの安全面については問題はないものの、エンリは拷問の残骸などバレアレ家の世間体を心配し、それを話し合う。そういうことを普通に話題にできてしまうエンリの変化には驚くが、それでもンフィーレアは男としてエンリを守る立場を貫き、先に戻って残骸があればどうにかすることを申し出た。

 

 結局、ンフィーレアが先に戻り、エンリは冒険者組合に立ち寄ることとなった。エンリは冒険者として一度くらいは実績を積まなければならない。簡単なものを見繕ってくれるという組合長の厚意があるのだから、毎朝顔を出しておいた方がいいというのがンフィーレアの言い分だった。ゴブリンや狼に対し戦いでなく屠殺程度の認識しか持たない今のエンリを守れるような力は無いが、せめて汚れ仕事くらいはやっておこうという考えによるものだ。

 

 

 白金やミスリルクラスが利用する宿ともなると、貧しさや分不相応な買い物のために食事を抜くような愚か者は居ない。一日の最初の食事は重要であり、さほど多くないテーブルは冒険者たちで満席に近い。充実した肉食と充分な睡眠で肌ツヤが良くなったエンリと寝不足でフラフラのンフィーレアが去ると、酒が入っている時間帯ほどではないがどうしてもその珍客の話題は外せない。

「だいぶ絞りとられたようだな」

「ああ、『血塗れ』は夜の方もスゲエんだろう。一人でピンピンしてやがる」 

「あの男、うめき声をあげながら何度も水をかぶってたな。よほどのことをされたんだろう」

「小声だったけど、血塗れの部屋がどうとか言ってたぜ」

「何があったか考えたくもねえな、飯がマズくなる」

「五体満足で終わっただけで、何よりだ」

 

「そういや、昨夜は戦士団が大挙して街の中を何やら探しまわっていたけど、ありゃ何だ」

「さあ。結局貧民街でごろつきを一人捕まえただけらしいが」

「あれだけ動員してそれかよ。そういうのは冒険者に任せればいいのにな」

 

 

 

 

 

――良くない笑いだ。

 

 工房に戻ってきたンフィーレアは、笑いの主が狂気と正気の境界線上にあることを悟る。

 

 確かに、エンリはきちんと掃除も頼んでおいたと言っていた。ンフィーレアはマーレに頼んだのだろうと考えていたが、部屋の状態も掃除をしている者も予想とは全く違っていた。

 血の汚れくらいは想像していたが、半分以上は掃除された部屋の残りには、血に塗れた臓物の破片のような不気味な肉片が大量に散らばっていた。そして、それを時折幽鬼のような笑い声をあげながらモップで掃除していたのは、襲撃者、すなわち肉片の元の主であろうクレマンティーヌその人だ。

 こうなってしまえば、相手が危険な襲撃者であろうと関係なく自然と身体が動く。ンフィーレアは精神安定・鎮静効果のある薬を用意し、半ば強引にクレマンティーヌに飲ませてしまう。無差別に治療するわけではないが、狂人ではマーレの情報源にもならないだろうという考えと薬師としての行動が半々といったところだ。

 

 クレマンティーヌは少しの間呆けてから、ンフィーレアを睨んで舌打ちを一つ。そして掃除を続けながら口を開く。

 

「余計なことするよねー。わざわざ正気に戻ってからこれを掃除しろとか、デリカシーなさすぎ。……それにしてもあの化け物、何なんだよ」

 

「知り合ったばかりなのでわかりません。……治療はあなたのためではなく、情報源として確保したと聞いているから回復しただけです」

 

「ふーん、ちょぉっとは心配してくれてたみたいに見えたけどねー。あ、モップ借りてるから」

 

 態度や雰囲気に似合わず、ひたすら掃除を続ける姿に疑問を持つ。

 

「掃除、やめないんですね」

 

「逆らっても床に散らばってるようなのが増えるだけだし。……あのエンリとかいう女の指示だってね。てめぇの臓物をてめぇで喰らって掃除しろとか、闇妖精もあの女も頭おかしいだろ」

 

 ここに戻った時のマーレの言葉を思い出し、クレマンティーヌは身震いする。話に聞いていたどころではない。まともじゃない。

 

 ンフィーレアは驚いたが、このことで揺らがなかった。エンリを盲信するわけではなく、クレマンティーヌが生きのこったことをうけて、別のことを考えていたからだ。

 

 クレマンティーヌは強い。冒険者を相手に商売をしてきたンフィーレアには、鎧にびっしりと付けられたプレートの意味くらいは理解できる。人間の世界においては屈指の実力者に違いない。そして、法国の関係者でマーレの知りたい様々なことを知っている。

――エンリが用済みになったら、そして、いずれこのクレマンティーヌが用済みになったらどうなるんだろう?

 そこまでの考えに至るのは、エンリだけが今の運命から解放されたらどうなるかというムシのいいことを何度か考えていたからだ。あの時の一つ屋根の下で暮らす提案のように思えたものについても、未練がないといえば嘘になる。むしろ未練しかないからこその着想だった。

 しかし、その先の見通しは決して甘いものではない。マーレにとってはあの王国戦士長さえ取るに足らない弱者だという。クレマンティーヌが用済みになった時は殺してくれれば後腐れもないのだが、こうして拘束すらせずに確保できるほどの相手であり、あっさりと解放されるかもしれない。その時、エンリは、自分たちはどうなってしまうのか……。殺した冒険者のプレートを鎧に飾るような女に対し、少々心証を良くしたところで安心できるとも思えない。

 

 もしかしたら、エンリもそれをわかっているのかもしれない。

 

 そうであれば、今の自分にできることは――。

 

「……少なくともあなたは、全てエンリの指示でそうなった。それだけは忘れない方がいい」

 

 もちろんハッタリだが、女の迫力に負けまいと少し強い語調で言う。エンリの立ち位置を考えれば、最も安易で効果的な方法であるように思われた。  

 

「ふん、てめぇとアホみてぇにデートしてた女が、私を内臓までグチャグチャドロドロになるまで犯しぬくよう指示したっての? イカれてやがるねー」

 

「エ……エンリはああ見えて、敵には容赦しないんだ」

 

――エンリ、ごめん。そこまでとは思わなかった。

 

 ンフィーレアは戸惑うが、今さら引き返すことはできない。

 

「掃除もだけど、人間の発想じゃないよね。あの血塗れを普通の女みたいに扱うてめぇもチャームでもかかってんじゃないのー? さっきの薬、自分で一度飲んでみたらいいよ」

 

「そうなる前から……好きだったんです」

 

 そこだけは、誰に対しても嘘をつきたくない部分だ。

 

「ふん、まあいいよ。私はあの闇妖精に従うし、それと繋がってる『血塗れ』にも逆らえない。それだけ」

 

――本当にこれで良かったんだろうか。

 ンフィーレアが黙ってその場に留まっているのを見て、クレマンティーヌが苛立った声で追い立てる。

 

「あのさー、てめぇの臓物を掃除させられてる女を眺めていたいような特殊な趣味があるんじゃなければ、ちょっとあっち行っててくれるかなー。でないと血塗れが帰ってきた時に、おなかの中まで全部この男に見られたーって言っちゃうよー?」

 

 

 

 工房にマーレの姿は無かった。ンフィーレアが工房の奥へ行くと、ちょうどリィジーの作業が一段落したところだった。

 それはンフィーレアのよく知るいつもの姿だ。祖母はひたすら研究に没頭し、クレマンティーヌの存在など忘れているかのようだった。ンフィーレアが声をかけると、鉱物を使ったポーションの溶液自体が劣化しない状態を目指すという研究の方向性と、一晩のうちに試したこととその結果までを足早に説明する。説明が終わると手に持っていた道具をンフィーレアに押し付け、マーレとの約束を果たすために魔術師組合へ向かうと言って出ていってしまった。きっちりと戸締りをしていったのは、入ってすぐの部屋の惨状からすれば仕方のないことだろう。

 エンリが戻ってくるまで少し眠ろうかと思っていたンフィーレアだが、工房の鍵は面倒な作りのため、エンリが帰宅したら出迎えなければならない。赤いポーションの特性から逆算された新たな研究の方向性にも強い魅力を感じたので、いったんそちらを引き継ぎながら待つことにした。

 









主人公に聞いてみた新キャラデータメモ

名前:クレマンティーヌ
職業:戦士
戦力:恐怖公級
料理:それなり New!
掃除:動死体(ゾンビ)級 New!

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