逃亡したブレインが帝国に仕官。『漆黒』について、盗賊団をほぼ一人で壊滅させたクレマンティーヌでもっているチームだと告げてしまう
皇帝による招待。「血塗れの魔女などいない。クレマンティーヌは正義の戦士」……決めつける皇帝の体面を考え、それっぽく行動して気に入られる。
「見も知らぬ他国の民衆を救うために自らの地位を捨てて国を出奔した」ということになった。エンリの実力を否定する根拠が『義の人クレマンティーヌ』を作り上げていた。
その後、聖女のような装いで帝国から竜王国への援軍の名目上の指揮官とされる。
竜王国から援軍を離れ『漆黒』に合流するもモモンにイビルアイを奪われる。マッチポンプだとクレマンティーヌは知らない。
怯え切った状態で漆黒の塔のモモンガ(骸骨丸出し)から帝国潜入を命じられ、帝国軍とともに帰国。それが単にその服装やマーレとの爛れた関係(勘違い)が性教育に悪いと判断されたからだとは誰も知らない。
帝都アーウィンタールにあっては、既にフールーダを通して話が伝わり、『漆黒』を迎える準備が進められていた。
東方国境の先へ突如出現した漆黒の塔――そこへ偵察へ向かった不可視の精鋭、
そこへ入ってきたのが、囚われの帝国騎士たちが“救出”されたという話だ。
バハルス帝国より東は亜人の領域だが、漆黒の塔はそこにあるミノタウロスの王国を支配している魔導王モモンガなる者の拠点だという。
そして、その勢力は他の勢力に囚われた帝国騎士を“偶然に救出”し、これを送り返すとともに国交を結ぶことを希望している。
その使者として騎士たちを送り届ける役割を担うのがアダマンタイト級冒険者の『漆黒』であったために、以前交流のあったフールーダへ連絡が入った。
それらを打ち払って、囚われの帝国騎士たちを“救出”したとする魔導王モモンガの勢力。
その二者が別々に存在し、貴重な空挺部隊が偶然救出されたと考えるのは都合が良すぎる考えに過ぎる。
実態としては間違いなくその魔導王モモンガの勢力が
しかし、皇帝ジルクニフは表向き相手の言い分を受け入れなければならない立場にあることを自覚していた。
フールーダの意見を聞くまでもなく、争うべきでない相手である。
知らなかったとはいえ、強行偵察を可能とする部隊を送り込んでおいて、敵対せずに済むだけでも僥倖というものだ。
「それで、なぜ捕虜を送り届けるような重要な仕事を受けたのが、お前のいない『漆黒』なのだ」
「だから、私なんて弱っちい方だって何度も何度も言いましたよね」
ジルクニフは渋い顔をこの部屋の主――クレマンティーヌへと向ける。
強いだ弱いだという本来この場にそぐわない会話は、この部屋で幾度も繰り返されたものだ。
帝国四騎士と連続で試合をしてその全員を叩き伏せるような女が『漆黒』の中では弱者で下っ端だったなどと、ジルクニフが信じられるはずもなかったのである。
そう、ここはジルクニフの後宮の一部屋だ。
ならばクレマンティーヌがいつジルクニフの寵姫になったのかといえば、その答えはまだ確たるものとして存在していない。
そのことを知るには、少し時を遡る必要がある。
バハルス帝国においては、先進的なスレイン法国には劣るものの、戸籍や結婚などの制度も一応は整備されつつある。
帝国では奴隷の所有が認められているが、それさえも戸籍制度の恩恵を受け、偽の奴隷などの心配をせず安心して取引できる環境が与えられているのだ。
五年や十年、二十年といった有期奴隷など、身分と期限が戸籍に記載されるからこそ成り立つ制度であるといっていい。
しかし、この後宮だけはそうした制度の外側にある。
その根底にあるのは絶対君主として権力を強めていくべき皇帝の下半身事情を役人風情に安易に晒すべきではないという専制国家特有の感覚だったが、安定した権力を保有し、様々な制度の穴を埋めて帝国の統治体制を完成に近づけた皇帝ジルクニフの代においても、この状況が変わることはなかった。
それは何故か。
想像してみてほしい。皇帝ジルクニフが、かつて寵姫ロクシーを後宮に招いたときの姿を。
男としては、うやむやのうちに後宮に部屋を用意しておく方が気楽なのだ。求婚とか結婚の手続きとか、そういう話題を口にせずに済む方が相手を招き入れやすくなる。
それは、この青年皇帝としても同じことだ。権力や財力など、この世界で男性に求められる全てを兼ね備えているその身では、わざわざ愛を囁いたりロマンティックな求愛の手続きを踏もうとは思えないのも仕方のないことだ。
かといって、いくら身分の違いがあるにしても、「私のものになれ」とストレートに言える相手ばかりとも限らない。
それでも、貴族の美しい令嬢を求めるのは容易なことだ。直接口説く必要さえ無い。
あの娘は独り身だったか。どういう娘か――そうやって娘の親に、あるいは人づてにでも示唆するだけで向こうから売り込みが来て、それを受け入れるだけで娘が運ばれてくるのだ。
もちろん、後宮で女同士が派閥を作れば国が乱れるから、あまり確固たる地位の差などが生まれないよう、形式的なものを整備しない方が良いという理屈も成り立たないわけでもない。
だが、そんな面倒な言い訳よりも、ジルクニフがロクシーを手元へ置くときの経緯こそがこの状況が手つかずになっている理由である。
決して華やかとはいえないロクシーの器量では、その親に皇帝の意思が正しく伝わらないのも仕方のないことだったのだろう。
うやむやのうちに後宮へ迎えるような道筋が無ければ、ジルクニフはわざわざ求婚の意思表示をしなければならなかったのだろうから。
その結果、両親が現実を理解して望外の喜びに打ち震えた後も、ロクシー自身は皇帝が口にした言葉――理想の母親像――だけを自らの仕事だと言い張って譲らない状況にあるのだが。
それでも、バハルス帝国の宮殿においてロクシーは何の問題もなく一人の寵姫として扱われ、舞踏会などの場では皇帝のパートナーさえ務めている。
後宮というものに形式的な秩序を持ち込んでいれば、ジルクニフはロクシーという逸材を得るのに余計に苦労したかもしれない。得たとしても、世継ぎの教育係のような名目で遠ざけられ、気軽に話もできなかったかもしれない。
そう思えば、形式的な秩序を整備しようと思えるはずもなかった。
普通に口説けば良い――などという発想は無い。帝国の絶対者にそのような選択肢は存在しない。
女の口説き方を覚えるくらいなら、為政者として挑むべき課題を一つでも二つでも片付けたいのがジルクニフの本音だ。
国政のあり方を定めるのが皇帝の理性だとすれば、後宮のあり方を定めるのは皇帝の現実である。
そして、同じようによくわからないうちに後宮の端の部屋を与えられたのが、このクレマンティーヌだ。
帝都への帰還時、以前のような
実際にはクレマンティーヌの側が恐ろしい主の主から命令された恰好にふさわしい演技をしていたに過ぎないのだが、そんなことは知る由もないことだ。
見た目はそれなりに美しく、帝国では最高峰となる武力を持ち、正義のために法国の最強部隊を出奔し、皇帝の前でも物怖じしない女。
ただ、一度は仕官さえ断られている。『漆黒』への義理を果たして戻ったと聞いてもなお、召し抱えられるだけで上出来だと思っていた。
そのため、謁見の際にまず交わされたのも仕官の話で、それで終わるはずだったのだが。
「常に帝都に置いていただけるなら、陛下にお仕え致しましょう」
帝都への潜入を命じられて戻ったクレマンティーヌだが、すぐに仕官を求められたことで気が緩み、思わず口を滑らせた。
仕官する者が皇帝を相手に任務地を指定するなど、ありえないことだ。
「……帝都に?」
「い、いえ、この帝都アーウィンタールの気候が肌に合うと感じたまでで、その……」
誤魔化しの言葉も、ろくなものが出てこない。
聖女然とした恰好はしているが、ベースはへその出た鎧であって、実は少し寒いくらいだ。仕事を言いつけられていなければ、路地裏でチンピラでも殺して温まってから今の恰好に合う外套でも買いに行っただろうか。
あるいは、そもそも今の恰好を強いられていなければズーラーノーン時代から使っている刺々しい雰囲気の黒の外套に身を包んでいたかもしれない。
クレマンティーヌは柄にもなく緊張を覚えていた。アンデッドであるモモンガから与えられた仕事を失敗すれば、次は生きた人間でいられるかさえわからないからだ。
マーレの主であるモモンガという絶対者は高い知能を持ち、一般的なアンデッドのように生者を憎むような雰囲気は持たない。
しかし、クレマンティーヌの洞察力は、モモンガが時折クレマンティーヌの身体を煩わしげに見ていたことを確認している。
それが、服装がマーレの性教育に悪いなどという理由であったなどと、クレマンティーヌが気付けるはずもない。
クレマンティーヌとしては、半端な生者などアンデッドの材料にしてしまった方がマシだとか、そういう目で見られているのではないかと怯えるしかないのだ。
「ふむ、法国のエリートが帝国へ仕えるとなれば、それくらいの我が儘は聞いてやらねばならんということか」
愉快そうな皇帝の声に皮肉の響きを感じ、クレマンティーヌはびくりと震える。
帝国も法国同様に実力社会だと聞いて甘く見ていたが、当然ながら皇帝と臣下の間には厳然たる身分の差が存在する。
さすがに、皇帝を前に武官として非常識な要求を口にするのは緩みすぎだ。
皇帝への無礼を気にするクレマンティーヌではないが、この仕事の失敗は死か、死より辛い運命に直結する。
「も、申し訳ございません! 私ごときが陛下に対し、身の程をわきまえないことを考えておりました! どうか、聞かなかったことに!」
慌てて詫びるクレマンティーヌに対し、皇帝は何かに気付いたように目を見開き、歩み寄る。
――潜入の意図に気付かれたか?
クレマンティーヌは頭を下げたまま、一瞬だけ逃走のイメージを思い描く。
しかし、その後はノープランだ。モモンガやマーレからは何をしても逃げられる気がしない。
ここは、有能な人材に寛容だという皇帝の人格に賭けるべきだ。
少しくらい牢で暮らすことがあったとしても、最後まで諦めずにいた方がマシかもしれない。
「いや、顔を上げてくれ。実は、私も同じ考えなのだ」
お見通しではなく、同じ考えというのはどういうことか。
皇帝ジルクニフも同じ考えを――何かの仕事に失敗してアンデッドにされるのが嫌だとでも言うのだろうか。
いや、そんなはずはない。単に帝都の守りに使おうという程度の考えならば、何かに気付いたような皇帝の反応が不自然だ。
クレマンティーヌはわけもわからず、それでも潜入を諦めないためには友好的な態度を崩さない皇帝に追従するしかない。
「あ、ありがとうございます!」
表情を読まれないよう、クレマンティーヌはさらに深々と首を垂れる。
「ところで、今日の宿は決まっているのだろうか」
「い、いえ……」
このとき、クッ……と何かを堪えるように小さな声をあげたのは、存在感を薄めつつ近くに控えていたロクシーだ。
顔を歪めて堪えているのは笑いだが、それに気づく者は居ない。
「――もしクレマンティーヌがよければ、今夜からでも私の宮殿に部屋を用意しようと思っている」
「それでは、お仕えできるのですね。まだ宿はとっていないので問題はありません」
問題はないのだが――。
翌朝でなくわざわざ夜から拘束していったい何をさせるつもりかというのは、愚問だろう。
戦士としての価値しかないクレマンティーヌが仕官するのに訓練参加も力試しもできなければ、本来の仕事は何も始まらない。
「う、む? ……ああ、そうか。余計な手間が無いのは何よりだが。ん?――どうした? 浮かない顔をして」
「申し訳ございません。陛下にお仕えできるのは幸せなのですが、私のような田舎者には色々な段取りが煩わしく……」
全くもって本心からの発言には程遠い。スレイン法国の神都で暮らしていたクレマンティーヌにとっては、近年よく整備され規模も大きくなったとはいえ帝都アーウィンタールなど薄っぺらい新興都市でしかないのだ。
それでもこのようなことを言うのは、わざわざ夜のうちから宮殿に缶詰にする理由――そこで用意されるであろう、膨大な書類や手続を危惧してのことだ。
戸籍制度の整備されたスレイン法国では、国に仕える際に少なからず面倒な書類が存在した。クレマンティーヌはその殆どを共に仕える兄に任せることができたのだが、今回は兄は居ない。
そして、皇帝はわざわざクレマンティーヌを宮殿内の部屋に囲い込むと言っている。
帝国四騎士を一蹴する実力を示したクレマンティーヌには、相応の役職が、それも複数用意される可能性が高い。
役職の分だけ書類があって、それらの全てが皇帝の改革によって新旧の制度が混乱しているとしたら、無駄だらけ重複だらけの惨状を覚悟しなければならないだろう。
そんな感覚が、六大神の知恵の賜物だとして文明レベルを大きく超える書類仕事を抱えさせられているスレイン法国の公人限定のものだということを、クレマンティーヌはまだ知らない。
「ふむ、段取りが煩わしいとはどういうことか。遠慮なく申してみるといい」
「はい。立場上いろいろあるんでしょーけど、正直なところ私は頭より身体の方に自信があるんで、面倒なことはすっ飛ばしてほしいんですよ。皇、帝、陛、下」
仕官が確定した安心感もある。そこで皇帝が思ったより話がわかる相手だったことで、クレマンティーヌは少し調子に乗った。
柄でもないが、最後は少し媚びたようになってしまった。
それだけ、書類仕事が嫌なのだ。
法国に仕えるとき、書類から逃げるためには――当時は殺したいほど憎むまでには至っていなかったとはいえ――嫌いな兄にも少しだけ媚びたクレマンティーヌだ。
任務で取り入らなければならないジルクニフに媚びるくらいは何でもない。
「そ、そうだな。クレマンティーヌが望むなら、私は段取りなど飛ばしてしまっても構わない」
表情を変えないようにしているようだが、皇帝の顔がうっすらと赤みを帯びる。表情が動かないよう、抑えている。
そうだ、この国の多くの制度は、この青年皇帝自身が新設したもの。
まだ見ぬ書類の山を恐れるクレマンティーヌの態度は、彼が自ら手がけた制度を煩雑だと非難しているようなもので、少し苛立たせてしまったのかもしれない。
――でも、書類作業で一晩拘束とか最悪だから仕方ないかな。ここは一応、ご機嫌とっておけばいいか。
「ありがたきお言葉、感謝いたします。形式張ったことは苦手ですが、いついかなるときでも、陛下のお望みのままにお仕え致します」
「うむ、良い心がけだ。こ、今夜よりよろしく頼むぞ」
「――陛下」
脇に控えていた女が一歩前へ出る。
「ゴホン! 宮殿での生活については、このロクシーから説明があるだろう」
――何この皇帝、口だけ? もしかして書類減らないの? 宮殿で一泊どころか本格的に生活しなきゃならないほど書かされる?
クレマンティーヌは思わずロクシーと呼ばれた女に厳しい顔を向けるが、敵意のない優しい微笑みを返されて表情を隠す。
ロクシーというのは、以前に皇帝と会ったときも立ち会っていた女だ。後宮の住人としてはあまりに地味というか――。
――監視役、ってこともあるか。
そう考えると、気が楽になってくる。
そもそも法国の漆黒聖典出身の人間を取り込むのだ。スパイ行為を防ぐために監視をつけるのは当然といえば当然。
実際、クレマンティーヌの任務はまさにそれそのもので、マーレとその主のために潜入しているのだが、人智を超えた存在である主たちに対して監視など無意味だろうから何も問題は無い。
書類漬け一晩までは現実的な危惧だが、宮殿で生活するほどとなるとさすがに違うような気がするのだ。
後に調度品からベッドや寝具の希望まで聞かれたクレマンティーヌは、やはり監視であると理解して安堵した。
思いがけず華やかな部屋に、注文品待ちの代品ながら極めて快適なベッド。
書類などについて問えば、役人が勝手にやるから心配するなとの素晴らしいお言葉。
常に役職名無しの『クレマンティーヌ様』なので、単にまだ何も決まっていないのかもしれないが。
それでもここまで待遇がいいのは、戦力として見込んでいる存在を監視する心苦しさからとしか思えない。
あるいは手癖の悪さまで見抜かれているのかもしれないが、憂さ晴らしならいずれ訓練と称してそこらの騎士でもかわいがればいいことだ。
血はあまり見られないとしても骨の五本や六本は問題にならないだろうし、恐怖を刻みつけて遊ぶくらいはできるかもしれない。
とにかく、どのような形であっても潜入することができれば良いのだ。
それがまさかこのような形となるとは、夢にも思わなかったのだが。
皇帝ジルクニフは、以前何度かクレマンティーヌへの好意を漏らした際のロクシーの反応が芳しくなかったこともあり、クレマンティーヌに対しては臣下として一歩ずつ距離を詰めていくという姿勢になっていた。
しかし、それを漏らした相手はロクシーだけではなかった。貴族どころか臣民ですらない相手を、ということになると、話が具体的になるずっと以前より、何かと根回しの準備をしなければならないからだ。
もし相手が貴族の娘であれば、そのようなことをするだけで輿入れの日取りについての相談が始まってしまうのだが。
もちろん相手が臣民ですら無い冒険者であれば、そんなことは起こらない。
せいぜい気を回した誰かがクレマンティーヌ本人に意思確認を試みる可能性があるという程度だ。
当初、ジルクニフはそんな可能性まで思い至らず、クレマンティーヌが帝都に置けと言っていた意図を深く考えなかった。
仕官してもらうために最大限の便宜をはかるつもりはあったので、普通に要望を要望として受け取った。
もちろん、戦争や反乱鎮圧でこそ輝く武官が帝都から離れない条件を望むなど、興味本位でその意図を確かめたくなる状況にはあったので――。
我が儘という言葉を使って、反応を見てみることにしたのだ。
曰く、
以前は演技とはいえ不遜な態度を取っていたクレマンティーヌが、ここでは焦りを見せて大げさに謝ってきた。
最高クラスの冒険者としての地位もあり、雇われねば死ぬわけでもなかろうし、どのあたりが“身の程をわきまえない”発言だったのかと不思議に思ってしまう。
そうなると――さすがにジルクニフも、クレマンティーヌの背後にある状況と繋げて考えざるをえない。
おそらく、いや、間違いなく、皇帝の意を受けていた誰かがクレマンティーヌの背中を押してくれていたのだ。つまり――。
――帝都に置くというのは、私の後宮に置くということを言っていたのか。
ジルクニフも女を誘ったり娶る際に後宮という言葉を使うようなタイプではないから、回りくどい言い方をする気持ちもわかる。
実際に地方貴族の娘を迎えるときなど、「後宮に迎える」でなく、「帝都に迎える」「帝都に置く」などと言っていたこともあるのだ。
ロクシーのときも後宮や寵姫という言葉を使わなかったために、「乳母か教育係のような使用人とするおつもりかと」などと言われ続け、今の関係に収まった経緯がある。
そして、クレマンティーヌをそういう対象として考えていたことはそれほど多くの相手に話したわけではないが、誰かが気を回して彼女に示唆する可能性を考えてよいほどには広まっているはずだ。
そうした示唆まで考慮するのは迂遠に見えるかもしれないが、後宮入りに関してはそういうことまで察してやらないと臣下の家に恥をかかせてしまうこともあるため、皇帝は常にそういう可能性を考えておかなければならない。
ならば、ここで放っておいては彼女は遠ざかってしまうかもしれない。
数百の兵より個人の武勇が勝る世界において、クレマンティーヌの価値は後宮の秩序やジルクニフの心の準備といった些細な問題など吹き飛ばすほどに高い。
そのうえ、ジルクニフとしても異性として意識する部分はあったのだ。
あくまでジルクニフの主観においてだが、どこぞの器用で不気味な黄金の姫などとは正反対の印象を与える不器用な義の人クレマンティーヌは、嫌いな人ランキング1位の対極とまではいかないまでも、好きな人ランキングの中ほどくらいには入っていた。
ジルクニフは、クレマンティーヌが唐突に伸ばしてきた手を取ることにした。皇帝として、当然の選択だったと考えている。
ただ、少し焦りもあったかもしれない。「今夜からでも」というのは、気が変わらないうちにすぐにでも部下にしたいという意味では完全に本音だ。
すぐにでも迎えようと思い、彼女が冒険者であることを思い出し、皇帝の身でありながら無意味に宿の心配までしてしまった。
ロクシーは笑いをこらえていたようだが、ここで冷静になれという方がおかしい。
皇帝という立場にある者の人生には、断られるかもしれない状況で女を誘うという行動は本来存在しないのだ。
皇帝が女に後宮入りを断られるなど、帝国のメンツが丸つぶれになってしまう。
事前に臣下を通じてそれとなく意思を確認するのと同じように、根回し的に何かを確かめなければと考えてしまうのは、皇帝としての職業病と言っていい。
そして、ジルクニフはクレマンティーヌを迎えることに成功する。
自身の気持ちはもちろん、帝国の戦力充実のためにも、この選択は間違っていないはずだ。
そもそもクレマンティーヌは法国出身者で、経歴からすれば雇うなら絶対に監視は付けなければならない。
ならば、潔白を証明するにも近くに置くのが一番なのだ。
なお、これは他の臣下に向けての証明で、ジルクニフ自身は心配していない。
義の人クレマンティーヌへの信頼もあるが、そもそもこのレベルの人材については警戒するだけ無意味だ。
本気でその叛意を警戒するならば、四六時中ブレインかフールーダを側に置いていなければ安全は確保できない。
ブレインを雇ったときも同様だったが、信じないなら雇わない方がマシという状況なのだ。
そうであるならば、後宮に置くことについても特に警戒する意味はないということになる。
むしろ後宮に元漆黒聖典のクレマンティーヌありとなれば、フールーダの魔法的な防御とあわせ、皇帝の身の危険はほとんど皆無となるだろう。
男女の関係という部分については、ロクシーという例もあるので、判断を焦ることもない――。
そんな悠長な考えは通用しないようだ。
やはり皇帝という仕事は、何かと判断を急がされる。
「――正直なところ私は頭より身体の方に自信があるんで、面倒なことはすっ飛ばしてほしいんですよ。皇、帝、陛、下」
この性急で少し品のない甘え方には、違和感を覚えないわけではない。
しかし、このクレマンティーヌならば、それも仕方がないのではないか。
クレマンティーヌは人類屈指の強者ではあるが、義の人としての生き方を見るに、極めて不器用な人間だ。おそらく他者を助けるばかりで自分が甘えたことなど無いのだろう。
そんな女が、無理をしてまで寵姫としてのふるまいを見せているのだ。
元漆黒聖典、義の人クレマンティーヌ――彼女については今のロクシーが自ら決めつけているように、帝国のために必要な役割を担ってもらうことが主となって、寵姫であることが従となるのだろう。
ジルクニフとしても、そんなふうに考えている部分があった。
しかし、一転してこのアピールを聞けば、クレマンティーヌも女だということを考えざるを得ない。
受け入れたジルクニフとしても、貴重な戦力でもあるクレマンティーヌに恥をかかせるわけにはいかないところだ。
ロクシー風に言えば、子供が皇帝の聡明さとクレマンティーヌの強さを受け継いでいれば問題ない、ということにでもなるのだろう。
その女、名をクレマンティーヌという。
姓は法国を出奔した際に捨て去ったが、新たな生活の場ではもはやそれを問う者は居ない。
外戚が力を持つことを許さないバハルス帝国の絶対君主ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスの後宮にあっては、出自を表明しないことはむしろ美徳ともされるからだ。
クレマンティーヌはこの日、ただのクレマンティーヌのままで皇帝ジルクニフの寵姫となり、同時に、将軍格ながら役職を持たない騎士となった。
――どうして、こうなった。
皇帝の方に、思わぬ意図があったということだ。
そんな可能性には夢にも思い至らなかったクレマンティーヌは、話の行き違いで、それに応じてしまった。
それが、クレマンティーヌの理解だ。
だが、それをわかったところでどうしろというのか。
行き違いがあったとはいえ。今さら寵姫の身分から身を退くなど現実的ではないのだ。
このようなことでバハルス帝国皇帝に恥をかかせてしまえば、潜入任務を果たすことはもはや不可能となろう。
ちなみに書類の山など無かった。
代わりに人生の岐路がやってきた。
アンデッドになるか。
寵姫になるか。
気持ちの上ではほどほどの差で、しかし冷静に考えれば大差で後者が勝るのだ。
ロクシーの説明を聞き流しつつ、それでもクレマンティーヌは一応の覚悟を固めていた。
――どうせ末席だろーし、戦力としても期待してるって言ってたしね。そっちの方がメインで、女としての私なんか好奇心の対象でしかないでしょーに。
街へ出れば自身がそれなりに男たちの目を引く容姿であることを自覚しているクレマンティーヌだが、皇帝の後宮というのは世界が違いすぎる。
法国の諜報部隊である各種聖典においては貴族の愛人のふりをするような任務も無いわけではないが、クレマンティーヌはそういう訓練とは無縁だった。
ただ、実際に後宮へ案内されてみれば、元漆黒聖典の視線からは皇帝以外の男を排除した空間の無防備さばかりが気になってしまう。
そこには、確かにクレマンティーヌの居場所があった。
帝国最強の戦士が後宮で皇帝を護衛すると考えれば、偽装としての寵姫の身分も理にかなった選択となる。
クレマンティーヌでは後宮でありがちな皇帝の毒殺などは防ぎようがないが、そのような細かいことを知る者はそうはいない。圧倒的強者がいるというだけで大きな圧力になるのだ。
――三食、昼寝付き、殺し無し。あとは礼儀作法だ何だを叩き込まれんのかな。潜入の間だけの我慢だけど、めんどくさ……。
後宮に入ることになったとはいえ、クレマンティーヌにはその身分にふさわしい品位も品性も礼儀作法も何もない。
皇帝の前に出すに足る女となるまで数週間から数ヶ月、その手の女官からネチネチと指導を受けるだけの日々となるはずだ。
おそらく、面倒な指導を受けている間にマーレやその主から新たな任務が与えられるか、潜入任務が終わるかするのだろう。
もちろん、それが指導の期間を越えて長引いたとしても、クレマンティーヌには皇帝の護衛としての価値しかないという現実が変わるわけではない。
つまり、実際に後宮の女としての役割を果たすことは無い。
寵姫という身分でいるのはむず痒いが、形だけだ。そう考えていた。
そんなクレマンティーヌが急な皇帝の来訪に驚くのは、部屋を与えられてから僅か数時間後のことである。
礼儀作法の指導など無かった。
事前の連絡も、人を使った所在・意思確認なども無かった。
スレイン法国神都の娼館でも、もう少し段取りというものがあるのではなかろうか。
「面倒なことは飛ばしてほしいと言っていたからな」
クレマンティーヌに迫るのは、バハルス帝国の絶対者、皇帝ジルクニフ。
その発端は、仕官に際しての面倒事の省略を狙ったクレマンティーヌの発言で。
気がつけば、後宮で寵愛を受けるに至るまでの諸々の面倒事が綺麗さっぱりとなくなっていたのだった。
後宮では、皇帝に無礼が無いよう、寵姫たちはいわゆるOKサインとNGサインを使い分けなければならない。
それは寵姫本人の我が儘が認められるなどということでは決してない。
当然、皇帝が望めば月のものであろうが体調不良であろうが断ることはできないのだが、貴族の娘が多い寵姫というのは基本的に身体が強くはない。
途中で倒れたり皇帝の望むように動けなければむしろ無礼であるということで出来上がった体調申告のシステムだ。
あくまで皇帝が快適に世継ぎを作る行為を楽しめるように、そして露骨にならないよう、寵姫たちは後宮に伝わる教養に溢れた方法でサインを出す。
しかし、人類最強の戦士であるクレマンティーヌには、身体についての心配は全く無い。
そこへ、面倒は飛ばせという本人のお墨付きがあるのだから、これは本当にいつでも良いということなのだ。
『――正直なところ私は頭より身体の方に自信があるんで、面倒なことはすっ飛ばしてほしいんですよ。皇、帝、陛、下』
これが、先ほどのクレマンティーヌの発言だ。
指摘されて思い返してみれば、その意味はあらぬ方向へ明快すぎて、覆しようがない。
いつでも良いどころか、直ぐにでも抱きに来いと言わんばかりの、皇帝に向けた必死のアピールである。
クレマンティーヌは自身の発言が持つ新たな意味を理解し、顔が熱を持つのを感じる。頭を掻き毟って暴れ出したい気持ちになる。
目の前の男を血まみれの皮袋に変えてしまって、全て無かったことにしたい。そんな衝動にかられる。
しかし、クレマンティーヌはまだアンデッドにはなりたくない。
だから、ぐっとこらえる。
ぐぐぐとこらえる。
ぐぬぬとこらえる。
――柄じゃないし。そういえば、もう
クレマンティーヌは一つため息をつくと、卑屈な笑みを浮かべる。
こんな所で取り乱す必要もなかったのだ。
ここまで近づけたのなら、皇帝に恥をかかせない限りは一歩退いても軍には入れるだろう。
そして、それだけが自分の正しい役割だ。こんなのは違う。
クレマンティーヌは間近に迫るジルクニフの顔を正面から見据える。
そう、ここは皇帝が世継ぎを作る場所で、自分は――。
「少しはご存知と思いますが、私はこれまで平穏な人生送ってきてないんで、子供はできない身体だと思います。たばかったようで申し訳ありませんが――」
過去に酷い拷問を受けたため、使い物にならなくなっているかもしれないと思っていた。
クレマンティーヌの中では、それだけが真実だ。
しかし、実際のところ、つい先日にはそうでもなくなっていたりする。
たかがメイドと侮って険悪になったルプスレギナと内緒の“試合”をしてあっさり内臓ぶちまけて、そして聞いたこともない高位の回復魔法で証拠隠滅までされて。
実際にはいかなる古傷が残っていたとしても全快しているのだが、早々に意識を刈り取られていたクレマンティーヌに自覚は無い。
「全く問題は無い。実際、私が後宮で最も多く通っているのは、子供を作る予定のない女の部屋だ」
そう語るジルクニフの顔は、決して無味乾燥な交流を語る男のものではない。
そのことに王侯貴族にありがちな闇を幻視し、クレマンティーヌは絶句する。
過去に酷い拷問を受けたクレマンティーヌは、その女にも厳しい事情があるのではないかと考えてしまう。
武力があり護衛として意味のある自分は例外として、バハルス帝国皇帝の後宮で子作りを拒んだり、元々生殖能力に問題のあるような女が入るなどありえないからだ。
まして、後宮に入っておきながら野心も持たず「世継ぎを生むに相応しい見目麗しい女に産ませてこい」などと言い放つロクシーのもとへ皇帝が足繁く通っていることなど、想像もできない。どちらも皇帝と寵姫というものに対する世間の理解の範疇を逸脱しているのだ。
つまり、その女に子供ができないのは、皇帝自身が原因だ。そして皇帝はそれを望み、後宮で最も多く通うほど
クレマンティーヌの頭の中では、そういうふうに繋がる。
「……陛下は、その女のように、私には他の後宮の女ではできないことを求めていると」
「まあ、そういうことだな。子を成すだけが後宮での過ごし方ではない」
クレマンティーヌは大きなため息をつく。
生娘でもあるまいし、いまさら貞操がどうこう、相手の男がどうこうなどとくだらないことで悩むつもりはない。
しかし、これはあんまりではなかろうか。
最近は、あっちへ行っても拷問、こっちへ行っても拷問だ。そういう運命、そういう人生なのだろうか。
二人きりの場で皇帝をどうにかするのは赤子の手をひねるより簡単だが、潜入任務をこなさなければアンデッドにされてしまう。
アンデッドになるか。
皇帝の後ろ暗い欲望を受け止めるか。
――はぁ。そんなの、一度やられてから考えるしかないよね。
そう思える程度に色々と摩耗しているのが今のクレマンティーヌだ。
もちろん後者を選んだのは言うまでもない。アンデッドになったら考えることさえできないのだから。
「気を悪くしないでくれ。必要なら、それなりの神官医に見せることもできる」
ジルクニフの言葉は、まるで他人事である。クレマンティーヌの表情は晴れない。
――神官医に見せるとか、それ当然だから。子供ができなくなるよーなことするのに回復なしじゃ死んじゃうでしょーが!
自身の殺人衝動も特殊性癖だと言われれば認めざるをえないクレマンティーヌだが、だからといって他人の特殊性癖をぶつけられる立場になって笑顔でいられるほど人間ができているわけではない。皇帝の前で取り繕っていた態度や口調も、漆黒聖典の頃ほどではないが次第にぞんざいなものになっていく。
だが、抵抗を諦めていたクレマンティーヌに対し、その場でジルクニフの特殊性癖が牙をむくことはなかった。
普通にしていて目新しさを感じてもらえるうちは、後ろ暗い欲望の出番は無いのかもしれない。
その後、バハルス帝国最強の直接戦闘能力を持つクレマンティーヌが皇帝ジルクニフにだけ時折見せる怯えの表情は、その部屋へ皇帝を頻繁に通わせる原動力となった。
● ……めでたし?
いえいえ、まだまだ。
●“試合”の真実
ぷれぷれぷれあです(原作小説特典版)のアイキャッチと同様にたった数秒で意識を刈り取られていたクレマンティーヌには、やはり自覚は無い。
●六大神の知恵の賜物として文明レベルを大きく超える書類仕事を抱えさせられたスレイン法国人(独自設定独自解釈)
ファンタジー風世界で戸籍ですぜ。ほんと六大神様様ですよ(by代書屋@商売繁盛中)
国の偉い人が引退すると「お父さんはどうして働かないの?」と言われるなど、ファンタジー的世界らしからぬ雰囲気も併せ持つスレイン法国は転移者に歪められた現代風の要素を突っ込みやすいイメージがあります。
帝国もweb版にあった期限付き奴隷などは管理する手段が無ければ成り立たないので多少は先進的なイメージです。
●ジルクニフとロクシーさん(独自?解釈風味)
「皇帝陛下が私なんかに何の用ですか。かわいい子は他にいくらでもいるでしょう」
「り、理想の母親としてのお前が必要なのだ。皇帝の子には教育が云々……宮殿に部屋を用意した」
「そういうことなら行きましょうか」
「さて、寵姫ロクシーよ。少し話でもしようか(チラッチラッ」
「は? はよ子供作って持ってきてくださいよ種馬」
そんなんかなーと思ったりもします。
正妃に誘っても子作り仄めかしてもダメな感じですね。
マザコンを理想化した感じの嗜好を明かせず、遠回しに誘ったらこうなった的な。
あの世界、マザコン寄りの人が結構多い気がするので、そんなのもありかなーと思ってますよ
●だったら何でクレマンティーヌさん?
階級社会の皇帝だもの。中身のある女が好みでも、子作り拒まれてんのに一途とかナイナイ。そういう惰弱な教育されませんて。
結果的に皇帝の前でも折れず媚びず興味深いふるまいができる女がロクシーさんしかいなかっただけと考えます。
そんな陛下は、内政の一環としてバランス良く忠実な貴族から嫁を取るように、嫁一人増やして軍事的に役立つならもともと躊躇はありません。
嫌いなタイプは外面だけ良い器用な腹黒女ということで、正反対(と思われている)なら結構いけるかも、と適当に。
●Ifとのカンケイ
ソレがあるとすれば、確実にルートが分岐しています
あっちではどう考えても可愛いあの子の
主人公がやりまくる気ならば、サブカプ発生などありえませんよね
●で、おまえら、何がしたかったの?
クレマン「武官として潜入しようとしたに決まってるでしょーが」
ジル「騎士として雇用したかったが、後宮に入りたそうにしていたので、繋ぎ止めるためにそうした。全く気になっていなかったかと言われれば嘘になるが、まだそこまででは……」
クレマン「宮殿で一泊させられて書類漬けとか嫌だからね。頭脳労働より肉体労働向きだってアピールして面倒なことは飛ばしてもらおうかと思ったわけ」
ジル「後宮に入る女に、身体に自信があるとまで言わせたのだ。我が帝国の貴重な戦力でもあるし、こちらも後宮の女に対する務めを果たすしかあるまい」
クレマン「恥をかかせたら潜入できなかっただろうし、仕方なかったんだよ」
ジル「恥をかかせたら最強の戦士を逃してしまっただろうし、性急でも仕方ないな」
クレマン「皇帝がヤバい趣味のクソ野郎だとは思わなかったけど、しょーがないでしょ。諦めて、子供ができなくなるよーなことをされても我慢することにしたよ。アンデッドにされるよりマシだしね」
ジル「子供ができないことを気に病んでいるように見えたので、神官医に見せようかと提案したのだが……。何か嫌なことを思い出させてしまったのかもしれないな」
クレマン「今の所、普通。ちっともヤバい雰囲気見せないし、いつ豹変するかわからないのが気持ち悪いよね。不気味」