マーレひとりでできるかな   作:桃色は赤と白で出来ている

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五七 恫喝外交とジルクニフの秘策

「――陛下! 御避難を!」

 

 そんな声で、皇帝ジルクニフは我に返る。

 

――むしろこの状況、この因果から避難する道筋を誰か示してはくれないだろうか。

 

 ジルクニフが英雄として迎えるよう厳命した客人は、果てしない恐怖と嗜虐を携えて現れた。

 牢の中で奴隷繋ぎとなった皇室空護兵団(ロイヤル・エア・ガード)のありようは、まるで見せしめだ。

 

「逃げてどこへ行く。それ以前に、逃げてどうなるというのだ!」

 

 帝都を捨てて逃げれば、いい笑いものだ。まして、その災厄は皇帝自ら呼び込み、英雄として迎えよと厳命したものなのだから。

 そうなれば皇帝の求心力は失われ、貴族たちの一斉蜂起さえありうるだろう。

 求心力の背景にあるのは騎士団という軍事力であり、それを辱め踏みにじるような客人をわざわざ歓迎するため呼び込んでしまったのだ。

 

 かといって、戦えば――その結果は、もはや想像もしたくないものになる。

 クレマンティーヌを超えるという『漆黒』だけでも四騎士が壊滅しかねない上に、巨大なドラゴンがいる。さらに背後には、囚われた皇室空護兵団(ロイヤル・エア・ガード)を助けた――いや、実際には何もさせずに捕えた漆黒の塔の勢力もいる。

 

――戦うも逃げるも破滅しかない。つまり、これは……。

 

 ジルクニフは苦虫を噛み潰したような顔で、儀典長に計画の続行を指示する。

 鷲馬(ヒポグリフ)を利用した開放型空挺馬車の準備があることを聞かされると、その顔は怒りに紅潮する。

 その理由を問い詰めれば、『漆黒』と個人的にも交流があるというフールーダの助言に行きつく。

 

――当初の予定通り、歓迎するしかないということか。

 

 ジルクニフは冷静さを失った。

 まずフールーダの裏切りの可能性を考えたが、『漆黒』が巨大な飛行騎獣で帝都に乗り付けることを聞かされていただけと考えることもできる。

 それは捕虜輸送の必要性を考えれば無理もないことで、捕虜があのような状態で運ばれてくるということを知っていたわけではない。

 

 そもそも、冒険者である『漆黒』がバハルス帝国に正面から喧嘩を売ることなど想定外なのだ。

 漆黒の塔の勢力――魔導王モモンガと名乗る存在の名代として手紙を届けるなどと通告はあったが、所詮は冒険者、単なる手紙の運搬人と軽く見ていた。

 むしろ、そこで冒険者などを使うすることは、恐ろしい軍事力を持つであろう魔導王にもつけ入る隙があるのではないかと思わせた。

 だから、相手の手がかりを持ち、力もある『漆黒』を取り込むことを考えていた。

 

 それさえも、巧妙な罠に絡めとられ、誘導された思考であるように思えてくる。

 

「魔導王モモンガ……何者……いや、それはこれから見定めていくことだ」

 

 国を背負った使者――外交官には本来、国を背負うに足る威厳と優れた弁舌が必要で、そうでなければ国家が軽んじられてしまう。アダマンタイト級でも屈指の強者とはいえ、若い冒険者などに務まるものではない。

 しかし、それは背負う国の姿がある程度見えている場合の常識なのだろう。

 底知れぬ存在である魔導王モモンガは、その正体を見せることなく、既知の存在としては人類最強のアダマンタイト級冒険者を使者し、それを竜の背に乗せて派遣した。

 これは、情報を抑えたまま示威行為(デモンストレーション)を行う、一挙両得の手だ。

 

 だが、何もわからぬからといって、相手の思うがままに振る舞うわけにはいかない。

 

 少なくとも、魔導王モモンガは『漆黒』との繋がりがある。

 そして、『漆黒』は帝国の敵である王国と繋がりの深い『蒼の薔薇』と敵対している。

 世界を俯瞰すれば、『漆黒』を抱き込むという当初の計画を進めることにまだ意義はあるはずだ。

 

「……空挺馬車を出せ。皇帝が客人を見上げるのでは恰好がつかん。それと、最上級の歓待準備を整えておけ」

 

 ジルクニフは、『漆黒』の手を取らざるを得ない。

 たとえその背後に存在する悪魔の手を取ることになろうとも。

 

 ジルクニフがどう対応しようと、帝都にドラゴンが現れ、帝国はそれに対し何もできなかったことは変わらない。

 バハルス帝国の喉元に突き付けられた刃は現に存在していて、その事実は変えようがない。

 

 ならばそれと対峙するのも、もちろん手を結ぶのも、皇帝以外ではあってはならない。

 

 内向きの発想だが、(ドラゴン)に乗った無法者に怯える皇帝の排除は容易でも、(ドラゴン)に乗った無法者を抱え込もうとする皇帝ならば、その排除は難しくなる。

 皇帝の権力を象徴する騎士団を辱められ、その威信を傷つけられたのは大きな痛手だが、その力関係を覆しようが無いのであれば、それを成した者をも皇帝の力の背景として取り込むしかないのだ。

 ジルクニフは勝てない戦いに挑む男ではない。そうやって国内を抑えながら相手を見極め、必要ならば他国の力も結集し、反撃の時を窺うつもりだ。

 

――クレマンティーヌは、『漆黒』に関して伝えていない情報はあるとしても、嘘をついている雰囲気はなかった。

 

 幌の無い豪華な空挺馬車は、足の悪い場所への視察などで皇帝の所在を示すことができるものだ。

 防御の手段を持たないため、これで味方以外の前へ出る際は腹をくくることになる。

 

 ジルクニフが空挺馬車に乗り込み、建物に隠れてやや上方に回ってから竜の背に接近するよう指示する。

 竜は賢い生き物なので、騎獣とされているならば危険は無いという判断だ。

 せめて少しでもペースをつかみたいがゆえの行動だが、ジルクニフが前へ出ていく直前に先手を打たれてしまう。

 

「皆さん、聞こえますか!? 私は魔導王モモンガ様にお仕えする、『漆黒』のエンリです!」

 

 ジルクニフは耳を疑う。

 『漆黒』は王国出身の冒険者のはずだ。

 かつて中央との繋がりの深い『蒼の薔薇』と揉めた直後という最高のタイミングで帝国へ呼ぶことができたため、実質は根無し草に近い状態だと考えていた。

 魔導王モモンガと接近して帝国を威圧するような暴挙に出たとはいえ、それでも冒険者は冒険者。魔導王とやらとは別個の存在と考えていた部分がある。

 

 しかし、このエンリは「お仕えする」と言った。

 ジルクニフの前提が、また、崩れた。

 

「この騎士たちは、モモンガ様のお住まいの近くで魔獣の群れに襲われ囚われていたため、その慈悲により救出されたものです。私たちはそのモモンガ様の使者として――」

 

 エンリの口からは、何か聞かされた内容をそのまま読み上げているような、白々しい言葉が続く。

 これは、事情を知らない冒険者の言葉ではありえない。

 救出に関わっていても、あるいは輸送だけを請け負ったにしても、ここまで白々しい読み上げとはなるまい。

 

 そして、その内容も聞くに堪えない。

 これだけの圧倒的な示威行動に出ておきながら、慈悲だ救出だと並べ立てるのだから。

 

 ジルクニフは、エンリの言葉を遮るように大声を張り上げる。

 

「皇帝、ジルクニフ・ルーン・ファーロード・エル=ニクスである! 話がしたい! 使者殿、足場の良いこちらへ来てもらえるだろうか!」

 

 同時に、御者には接近を促す。

 交渉では弱腰にならざるをえない可能性もあるため、通りに居並ぶ騎士たちにあまり話を聞かせるべきではないからだ。

 

「……話をするつもりはありません。私はただ手紙を届けに来ただけですから」

 

 一転して口をつぐみ、書状を差し出してくるエンリ。

 届け物がそれだけなら、今頃和やかな雰囲気で迎えていたのだが。

 ジルクニフが巨大な牢獄の中に詰め込まれた手紙以外の重要な届け物と差し出された書状とを見比べると、視線の動きに気づいたエンリは気まずそうに目をそらす。

 皇室空護兵団(ロイヤル・エア・ガード)の惨状について思うところがあるのかもしれない。

 あるいは、手紙の内容が、届けた者が長居することに危険を感じるようなものなのか――。

 

――これが宣戦布告であったら、帝国は終わりだ。

 

 逆上して使者を殺すような時代でもないが、今回は使者に怒りをぶつけてしまえば最低でも帝都の半壊は免れない。

 

 ジルクニフは臓腑を締め上げられるような不安に苛まれる。

 魔導王モモンガなる者と接点があるのは、この『漆黒』だけだ。

 手紙がそういう最悪のものでなくとも、その接点を失うのは危険すぎる。

 

「それでは、報酬を出そう。冒険者を留め置くには必要なものだ。仕事の依頼を出すので留まってはもらえないだろうか」

 

 もはや、エンリがその気なら一刀のもとに斬り伏せられてしまう距離に近づいている。

 皇帝のなりふり構わない態度に、会話が漏れないよう配慮した側付きが促して距離を詰めさせたのだ。

 

「申し訳ありません。依頼主の元へ戻るまでが仕事ですので……」

 

 ジルクニフは諦めない。

 最後の手札が残っている。

 

「そうだ、クレマンティーヌに会っていかないか。彼女は今、私の後宮にいる。元仲間なのだろう」

 

「いえ、結構です。彼女と話すことはありません」

 

 何か彼女の前で話をすると都合の悪いことが起きるかのような、明確な拒絶感。

 クレマンティーヌに絡めれば誘い方も色々あると考えたが、これでは話も広がるまい。

 もしかしたら、魔法でクレマンティーヌと連絡を取るなどしていて、同時に会って話をすれば口裏が合わせにくくなるのかもしれない。

 それならば全てが裏目に出ることも当然だが――さすがにそれは悪い方へ考えすぎだろうと、ジルクニフは軽く頭を振って不穏な考えを追い出す。

 

 全ての手札を失っても、ジルクニフは諦めない。

 ここで帰られてしまったら帝国は負け犬も同然だが、現実に戦いを挑めば国が傾く。

 『漆黒』を引き留めることこそが、今のジルクニフの戦いなのだ。

 ただ強者に侮辱されて終わるのと、強者と何らかの密約を結んだと周囲に思われるのとでは、その後の皇帝の求心力が全く違う。

 

「用が無くとも、義理として会わねばならぬ用事があるとすれば、どうだろうか」

 

「ぎ、義理ですか?」

 

 そんな用事など無いのだが。

 これは、エンリが義理を重んじる性格らしいという事前の情報から出たジルクニフの先走りだ。

 

「クレマンティーヌの元仲間として、さすがに帝国に留まらざるを得ない話というか――」

 

 繰り返すが、そんなものはない。

 クレマンティーヌという手札を持つ手の震えを隠しながら、ブラフをかけているだけだ。

 唯一の手札の使い道を、必死に考えながら。

 

「あの、今回の手紙は友好目的のものと聞いていますから、また日を改めて来ることもできますので」

 

 ありえない。

 側付きに渡した書状をひったくるように見るが、確かにそう書いてある。

 しかし、やっていることは明らかに恫喝外交だ。

 ここで『漆黒』を帰せば、恫喝を受けて何もできなかった弱い皇帝ということになって求心力を失う。

 

――それが狙いか! 弱り切ってからじっくり喰らおうという魂胆とは、魔導王モモンガ、忌々しい奴だ。

 

 つまり、いずれにせよ『漆黒』を返すわけにはいかない。

 

「むしろ、魔導王殿の使者として訪れたのであれば、残ってもらわねばならない理由があるのだ」

 

 だからそんなものは――。

 

 ジルクニフは必死に考える。

 友好国の使者が残るべき行事を。

 

 同盟に関わる外交儀礼はどうか――。

 同盟と呼ぶなら、この手紙では無理だ。

 新たな書状を用意して届けさせる形になるが、魔導王の所在を聞かされれば済むことで、ある程度の期間引き留めておくには弱い。

 他に、他国の使者の参加を求めるような出来事――。

 弔事などはない。

 慶事も――無い。皇帝の身辺では、せいぜいクレマンティーヌが後宮入りしたくらいだ。

 これが正妃であったなら、『漆黒』としては元仲間の慶事であり、魔導王の名代としても友好国の皇帝の慶事でもあるということで、引き留める理由にはなったのだが――。

 

 現状は八方ふさがりだ。

 しかし、ジルクニフはバハルス帝国の絶対者であり、あらゆる現状を変える力を持つ。

 あらゆる選択肢と、その道筋にあるものを検討することができる。

 

 ジルクニフは周囲の状況が見えなくなるほど、懸命に思い悩んだ。

 

 現在より未来に繋がるあらゆる因果の糸に思考を集中して。

 そして、とうとう望みの道筋を引き当てて。

 

 

 

 空挺馬車の上へ招いた『漆黒』のエンリの手を取り、帝都に引き留めることに成功した。

 

 誤算があるとしたら、魔法複写や画家の存在を忘れていたことくらいだろう。

 『闇に堕ちる青年皇帝』もまた、この時代の絵画・複写芸術の世界を彩る有名な題材の一つとなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 クレマンティーヌは、最近は皇帝から昼のお仕事(騎士団)の訓練参加を許され、それなりに充実した日々を過ごしていた。

 純粋に戦士としてであれば、自分より少し前から騎士となっていたブレイン・アングラウスとの訓練くらいしか有意義なものはないが、クレマンティーヌには他にも楽しみがある。

 少し猫を被って「特別扱いは困る」と自分の過去を伏せさせて新入り用の鎧一式を用意してもらったら、予想通り、色々と()()()のだ。

 

 騎士団は実力社会だ。育ちの悪い寵姫がお遊びで騎士団に入り、新入り扱いとはいえ様々なお偉方と一緒にいる所を見ることになれば、面白くなく思う者も多い。

 実際には将軍どころか四騎士クラスが相手でも、帝国最強の戦士であるクレマンティーヌにとっては格下の訓練に付き合ってやるような関係なのだが、鎧の質も違えば貫禄も見え方も変わってくるのだろう。周囲からはそれが逆に見えてしまう。

 

 クレマンティーヌは人間の負の感情が大好物だ。正確には、感情そのものではなく、それがもたらす愉しみを好んでいる。

 わざわざ人目の無い場所へ向かう姿を見せておけば、ありがたいことに先輩騎士たちが“居残り訓練”と称して遊びに来てくれるのだ。

 最初は我慢してビギナーズラックを装って痛手を負わせるようにすれば、少しずつ人数も増えて手ごたえもマシになってくる。

 命まで取れない上、訓練で考えうる最悪の重症程度に留めなければならないのが残念なところだが、一応の戦闘訓練を積んでいる集団で遊べるのはクレマンティーヌとしてもそれなりに気分の良い時間なのだ。

 

 この日もそんな上機嫌な“訓練”をこなし気分よく休んでいたクレマンティーヌだが、後宮にある自室で少々難しい顔の皇帝を迎えた時は少し嫌な予感を覚えた。

 

「儀礼的な場に出てもらうことが無いわけではないと以前にも説明があったと思うが――」

 

 やはり、面倒ごとだ。

 

「何というか、近々そういう機会があるのだ。もちろん、面倒は省けと言われた通り、手続きなどはこちらでやらせてもらうので心配はいらないのだが」

 

 嫌だが、仕事なら仕方がない。

 もちろん、仕事以外の部分で楽をさせてもらえるように釘は刺しておく。

 

「わかってますよ。難しいことを覚えろとか言わなければいいです。私が一番近くで護衛すれば、相手が魔法以外で来るならだいたい大丈夫ですからね」

 

「それは心強いな。私のパートナーとして少々面倒な式典に出てもらうことになるが、それが済めばクレマンティーヌの身分や待遇も今より良くすることができるだろう」

 

「身分や待遇とか、どーでもいいんですけどね。面倒ってのはどんなもんなんですか?」

 

 クレマンティーヌの言葉を聞いて、ジルクニフが少し安堵したような。

 皇帝などという地位にありながら、無欲な女が好みなのだろうか。

 

「時間はかかるし、服装も華美な、お前にとっては煩わしいものになるかもしれない。しかし、段取りは全て側付きの者の指示に従っていればよいようにしよう」

 

「それなら別にいいですけど。……でも、ダンスなんかはまだ無理ですよ」

 

 習わされているのだが、無理ではない所まで向上する気がないのだからお察しである。

 知識や教養の座学などは免除されても、皇帝と同伴して恥をかかせないための最低限の教育までは回避できなかった。

 そのため、クレマンティーヌでも華美な服装といえば舞踏会という程度の発想はできるようになっている。

 

「はは。最高の護衛とダンスで距離を離してしまうわけにもいくまい。私たちは上から見ていられるようにするさ」

 

 ダンスに参加すれば、二人で踊るだけではなくなる。

 護衛としての価値を認められているクレマンティーヌには、やはりダンスの練習など必要ないのだ。

 

「お願いしますよ。恥をかくのは陛下もなんですから」

 

「そうだな。皇室としても大事な式典だが、クレマンティーヌが無難にこなせるよう調整させよう」

 

「陛下……そんな大事な式典に私なんかでいーんですか」

 

「いや、お前でなければ駄目なんだ。だから、よろしく頼む」

 

 クレマンティーヌでなければ駄目ということは、よほど危険な場だということになる。

 しかし、ジルクニフにとって危険でも、クレマンティーヌが護衛を務めればどうということもない。

 やや硬い表情のジルクニフに対し、クレマンティーヌはその緊張を解きほぐすように微笑みかける。

 

「私でなければって……結構恨み買ってるんですね。ま、そっちが本来の仕事なんでしょーから、どんな危険な式典でもお付き合いしますよ」

 

「よくぞ言ってくれた。クレマンティーヌも多くの貴族に恨みを買うかもしれないが、そこは覚悟しておいてくれ」

 

「どーでもいいですよ、そんなの。それに暗殺の首謀者とか、判明したら即取り潰しできるんでしょーに」

 

 この時のジルクニフの笑いは、どうも苦笑というな雰囲気のものだった。

 宮廷の常識などはわからないが、何か的外れなことでも言っただろうか。

 この苦笑の意味を、この時のクレマンティーヌは理解できなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 帝都に滞在することになったエンリは、空いた時間で念願の下着を買いなおしたことでようやく落ち着くことができた。

 その時に勧められ断り切れずに試着購入した夜着の滑らかな肌触りは感動ものだったため、宿へ戻ったらさっそくンフィーレアを廊下に追い出して着替えてしまう。

 

 確かに良いものだ。だが、高品質なマジックアイテムである陽光聖典隊長の黒い法衣と比べればそれほど差があるわけではなく、裸の上に法衣を着ていた頃と快適度においてそう変わるものではない。

 それでも、アルシェに腰回りから脚の間の付け根までべたべた触られて奇異なものを見る目でみられたり、アルシェやフールーダから妙に鋭い視線を向けられ見えただ見えないだのと不穏なことを言われたエンリは、下着を付ける文化に目覚めてしまったのだ。今さら後戻りはできなかった。

 ついでに部屋用の楽な下着は無いのかなどと口にしたことで、その答えとして店員より提示されたのが一枚だけで済ませられるこの夜着である。

 

 繊細な薄布ながら一応大事な所は透明度が低く、伸縮性があって動きやすく寝心地が良い。それは身体のラインが丸みから小さな突起に至るまで完全に出てしまうということでもあるが、帝都という大都会の店員が「貴婦人の寝室での正装」とまで言っていたという絶大な安心感を前にすればそれは些細なことだ。

 すなわち、エンリの感覚では極めて健全な部屋着ということになる。

 身体のラインが丸出しの薄布であっても、その上に“都会人の正装”という分厚い概念のガウンを羽織っているから恥ずかしくないのだ。

 

 都会であろうが田舎であろうが、貴婦人の寝室には夫以外の異性が出入りしないなどということも、誰かに教えて貰わなければ最初から知ることもできないのだから。

 

 だから、着替えを終えて呼び戻したンフィーレアがちらちら見てきても、エンリには気にならない。

 

 そういえば、今日は色々なことがあった。

 話をしなければならないことが沢山ある。

 ンフィーレアも話がしたいことが沢山あるのだろう。そう考えた。

 

 話題はすぐに、皇帝との会話の内容に至る。

 

「ねえンフィ、ケージって何だろう?」

 

慶事(ケージ)っていうのは、めでたいことっていう意味だよ」

 

 それは、友好の使者が帝都に居残るだけの理由となるものだ。

 

「それならンフィ、セーヒっていうのは?」

 

正妃(セーヒ)っていうのは、正式な皇妃様っていう意味だよ」

 

 それは、その慶事に背を向けるのは失礼になりかねないということでもある。

 

「だとしたらンフィ、クレマンティーヌって誰なんだろうね?」

 

「僕たちと一緒に旅をしていた、ちょっと怖い人、のはずなんだけど……」

 

「こ、この国って、大丈夫なのかな」

 

「えっと、ほら、ここでは義の人クレマンティーヌだからね。そういうことなんだよ。僕らの知っていることは黙っていて、素直に祝福してあげるしかないんじゃないかな」

 

「……なんかンフィ、寂しそうじゃない?」

 

「そ、そんなことないよ! エンリこそ、命の危険が減った割には嬉しそうに見えないけど?」

 

「そうかな……うん、そうだね。この国ではクレマンティーヌのオマケみたいに見られていたはずなのに、いつの間にかそうじゃなくなっていたことも気になるし――あの時、すごく嫌な視線がいっぱい集まったんだよね」

 

 エンリは帝都にドラゴンで乗り付けた時と、皇帝と握手した時、二つのタイミングで、その場に永遠に縫いとめられるかのような無数の強い視線を感じていた。

 たとえ記録目的であれ、今のエンリのような高レベル冒険者を魔法で偵察すれば気付かれずに済むはずがないのだ。

 もちろん、エンリの側が群衆の中に敵がいるかもしれないと認識していなければ、それまでなのだが。

 

「視線くらいで済んで良かったと思うべきだよ。皇帝陛下が空挺馬車に招いてくれなかったらと思うとぞっとする。たとえ罪人扱いされなかったとしても、今後はこの街ではとんでもない極悪人か闘技場の大型モンスターを見るような目で見られたかもしれない」

 

 そんなンフィーレアは高速飛行するドラゴンにしがみつきながら意識を手放しかけていたため、大事な所では何の助けにもならなかった。

 身体能力を考えれば仕方のないことかもしれないが。

 

「きっと、全てモモンガ様が望んだ通りのことなんだと思います。準備は完璧に決まってますし、予めクレマンティーヌに何か命じていたんだと思います」

 

 そんなマーレは目立たないように、エンリに追従する弱い仲間か従者のようにふるまっていた。相変わらずエンリを使い減りのしない盾か何かだと思っている。

 力関係を考えれば仕方のないことかもしれないが。

 

 ともかく、エンリは自身の悪名を決定づける魔法複写の違和感について、ここで意識の中から外してしまう。

 エンリにとって、大切なのは過去や知りもしない悪名より、具体的にわかっている未来だ。

 皇帝との接触やクレマンティーヌの栄達などの非日常を語って現実逃避したい気持ちもあるが、何より目前に迫る非日常に対処しなければならない。

 

――モモンガ様が望んだ通り……準備は完璧……。それなら、やっぱり私は()()に出なくて良いはず。

 

 エンリはモモンガの名代として帝都に留まることになった原因――皇帝ジルクニフと正妃クレマンティーヌの結婚式という現実と向き合わなければならない。

 問題となるのはただ参列していればよい結婚式そのものではなく、その後の舞踏会だ。

 

「それで、結婚式の後の舞踏会だけど、踊り方を知らない田舎者の私が出ても、モモンガ様の恥になってしまうだけだと思うの」

 

 田舎者として、上流階級の貴婦人に見下されるだけなら仕方がない。分相応として受け入れられる。

 しかし、あのクレマンティーヌが皇帝の正妃などという遥かな高みに収まり、高所から田舎者の自分(エンリ)のぶざまな踊りを見下ろすというのはいかがなものか。

 あの大口をこれみよがしに扇子などで覆ってクスクス笑っている姿を想像すると、よくわからない薄暗い感情に支配されそうになってしまう。

 マーレに従って結婚式には参加すると返答してしまったが、舞踏会があると聞いたことで様々な感情が募ってきて、勇気を出して意見を翻してみた。

 

「わかりました。既に決まっているとは思いますが、モモンガ様に対処を聞いてみます」

 

 マーレはそう言い残すと、宿の部屋から消えてしまう。

 残されたのはエンリとンフィーレア、そしてミコヒメだ。

 

「はぁ。なるようにしかならないよね。……寝よっか」

 

 エンリは脱力して、自身のベッドに身を預ける。

 考えたり話をしてもどうにもならないから、身体を休める。それだけのことなのだが。

 静かな寝息を立てるミコヒメの向こうで顔を真っ赤にして硬直しているンフィーレアにとっては、違う響きを持つ言葉に聞こえたのかもしれない。

 

 彼にこの部屋でベッドを与えたのは、部屋を用意した帝国側の手違いだ。

 ローブを目深に被り長いさらさらの前髪で顔を隠し、さらにドラゴンの背に張り付いたままぐったりしていれば、元気なエンリや平然と付き従うマーレより虚弱な女性だと思われるのも仕方のないことだ。

 

 エンリは細かいことを気にせず、ぐっすりと眠る。

 貴婦人の夜着に身を包んでいても、中身は田舎育ちのエンリだ。

 着るものが上品になったところで、寝相まで上品になるわけではない。

 そういう問題を予測し、強烈に意識することができるのも、街で育った者(ンフィーレア)だけなのだが。

 

 翌朝。

 目の下に重々しい影を湛えたンフィーレアは、移動中の消耗もあって、朝食後にベッドに戻って寝込んでしまった。

 

――ひどい顔。そんなにダンスが心配だったんだ。

 

 ンフィーレアは都会育ちだが、薬師としての研究一筋だったのでそういうことには疎いのだろう。

 エンリは大切な友人を守ることを決意する。

 万一、舞踏会に挑むことになっても、大きなストレスを感じて倒れてしまったンフィーレアを抜きにするなら――エンリのパートナーはマーレしかいない。

 普通に考えれば嫌な予感しかしないのだが、それを緊張ととらえることでよりポジティブな思いに昇華してしまうのがマーレと出会ってからのエンリだ。

 マーレがモモンガの“対処”を携えて戻る頃には、エンリは様々なリスクに目をつぶり、マーレとともに踊る自分の姿を思い浮かべてにへらと笑みを浮かべていた。

 




●身分や待遇とか、どーでもいいそうなので

 黙って正妃にしてあげたようです。
 無欲な子っていいですよね

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