マーレひとりでできるかな   作:桃色は赤と白で出来ている

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六〇 帝都を救った大賢者(舞踏会/後編)

 フールーダは湧き上がる興奮に小さく身を震わせていた。

 騎士たちから事情は聴いている。同時に懇願されたのは『ザ・ダークウォリアー』の足止めのための、面会。

 奇しくも、フールーダがマーレから依頼されて舞踏会の招待状を出すよう手配させたアダマンタイト級冒険者チームの一つである。

 そして、最も気になっている冒険者チームでもある。

 

 フールーダは魔導の深淵を語り合える者を常に求めている。

 帝国を本拠としていたアダマンタイト級冒険者チームについては、全て自分の“目”で魔法の位階を確認する機会を作って把握済みだが、それほどの実力者は居ない。

 だから残る一つ、『ザ・ダークウォリアー』こそがマーレの関係者であろうと、期待は大いに膨らんだ。

 

 だが、『ザ・ダークウォリアー』は、()()()()()()のだ。

 高弟に得させた情報でフールーダの“目”で見ることができる魔力系魔法詠唱者と確認していたはずのナーベさえ、全く魔法の力を持たない者であるかのように、力が感じられなかった。

 使いの者が招待状を渡す際の僅かな時間、離れた場所より覗き見ただけだが、フールーダの“目”に狂いはないはずだ。

 あるいは、探知防御か。よそ者であるはずの彼らに舞い込んだ突然の招待に、警戒させてしまったのかもしれない。

 だから、彼らにせよ他の何者かにせよ、自分の居ない場所で何かが見えればと考え、同じ“目”の能力を持つアルシェを使って会場を調べさせていたのだが。

 

――まさか、あのとき居なかった幼い少女が第五位階とはな。

 

 それが吸血鬼などと言われれば、さすがに何者かは理解できる。

 変装などをして正体もマジックアイテムで隠していたのだろうが、考えてみればマーレが捕えていた第五位階を使う吸血鬼と背格好も近い。

 となれば、『ザ・ダークウォリアー』は騎士たちが言うように吸血鬼のしもべなどではなく、逆に吸血鬼を従えるだけの力を持っているはずだ。

 

――さて、これで良いか。

 

 フールーダは出るつもりのなかった舞踏会のため運び込まれた最高級品のローブを身に着け、身だしなみを整える。

 立場上、自身の身だしなみは帝国の威信に繋がるが、今日に限ってはそんなことはどうでもいい。

 礼を尽くせばこそ、探知防御をしたまま人と会うことの非礼を指摘することも許される。そう思うのだ。

 

――探知系の能力を行使するのも礼儀知らずだが……私の生まれながらの異能(タレント)は広く知られているからな。

 

 フールーダは扉をノックし、中へ。

 

「お待たせ致しました」

 

 すぐに視線は『ザ・ダークウォリアー』の“美姫”ナーベに固定される。

 残る一人について話をするべきなのだろうが、フールーダとしてはまだ見えていない方が重要なのだ。

 

「……魔力系魔法詠唱者(マジック・キャスター)と、聞いておりましたが」

 

「あぁ、なるほど。……ナーベよ、ここでは指輪を外しても良いのではないか」

 

「畏まりました」

 

 指輪が外れると――力の奔流がフールーダの視界を染め上げた。

 

「な、な……」

 

 信じがたい感覚。フールーダにしか見えない世界で押し寄せるのは、見たことも感じたこともない強大な圧力。

 マーレの集団転移という異次元の力を見てより、期待はしていた。

 己を超える力の存在についても、覚悟はできていた。

 しかし――。

 

「この強大な力は……第八位階……か……」

 

 フールーダの第六位階さえ、前人未到の領域だ。

 人智を超える神話の領域の力を持つのがこのような若く美しい女性だという現実を前に、フールーダは驚愕に身を震わせる。

 それが、マーレのような長命の種族でさえないのだ。

 

――この者もまた、見た目通りの存在ではないということか。そういえば、吸血鬼がどうとか言っていたな。

 

 第五位階を使う吸血鬼――そんな帝都アーウィンタール存亡の危機も、今のフールーダにはどうでもよいことだ。

 どうせ目の前のナーベが使役している下っ端であろう、という程度にしか思えない。

 

 そんな時、部屋の裏口がノックされる。

 

 来訪者は、至福の出会いのきっかけを作ってくれた、かつての優秀な生徒だ。

 

――そういえば、この世界は私だけのものではなかったのだな。

 

 この世界とは、“目”を持つ者の世界ということ。

 扉の向こうのアルシェこそ、その世界を共有できる存在であり、ここで彼女に閉ざす扉は無い。

 この出会いに貢献してくれた彼女には、この至福を共有する権利がある。

 フールーダはそう考えた。

 

 

 

 

 

 アルシェは、困難な仕事に挑もうとしていた。

 ジエットが言うからには、あのモモンが死者の大魔法使い(エルダーリッチ)であるのは間違いないはずだ。

 ならば、なぜアルシェの“目”で魔法の位階が見えなかったのか。

 それではフールーダの“目”によっても同じ結果となるはずであり、真実を伝えても説得力は得られない。それが、あの場で死者の大魔法使い(エルダーリッチ)に言及しなかった理由だ。

 ジエットを帰したのも、彼の能力を証明する方法が無く、連れてきたところで説得力が増すことはないからだ。万一の場合を考えれば、真実を知る者を安全な所にも残しておいた方が良いという考えもある。

 とはいえ、魔力系魔法詠唱者(マジック・キャスター)であるはずのナーベもフールーダからは()()()()のだから、その不審さを直接に指摘して危険性を説くくらいは可能なはず――。

 

 そう考えて急いだが、既に先客が居た。

 当然だ。

 フールーダは第六位階魔法を使う帝国最強の存在であって、第五位階を使う吸血鬼のしもべとなる程度の相手に不覚を取ることはありえない。

 また、帝都の中枢でフールーダに狼藉を働く愚か者が居るわけがない。普通ならそのように考える。

 具体的なことを言えなかった以上、アルシェの“重要な情報”を待たせる必要など無いのだ。

 

――駄目だ。私もジエットのことを言えない。

 

 当人たちを前に危険性を指摘するのは難しいが、今さら悔いても仕方がない。

 戦いになれば自分は生き残れないだろうが、この場でそれはありえないという考えもあった。

 

 アルシェは意を決して、扉を叩く。

 

「――先生、人払いをお願いします。大至急お伝えしたいことが」

 

「構わん! 今すぐ入ってくるといい」

 

 部屋の中には、圧倒的な力が渦巻いていた。その元は、魔法詠唱者(マジック・キャスター)のナーベだ。

 アルシェは荒れ狂う圧力に魂を揺さぶられたような気がして、身をすくめてしまう。

 

 ガントレットの片方を外し、なぜか手持ち無沙汰のように頭を描いている黒鎧の戦士(エルダーリッチ)の動きも不審だが、元々アンデッドの考えることなど理解できないし、今はそれどころではない。

 

「……ぅ……ぅぅっ」

 

 アルシェは両手で口を押さえ、ガタガタと震える。絞り出さなければならない言葉があるはずなのに、出てこない。

 ナーベの位階は力としては嫌というほど感じられるが、想像もつかない領域だ。第六位階のフールーダと見比べることで、どうにか認識できる。

 

「アルシェよ、わかるか? このお方は、第八位階に到達しているのだよ」

 

 フールーダさえも震え声だ。

 

――先生でさえかなわない存在なんて……でも、どうせ駄目でも何もしないよりは!

 

 あの吸血鬼は確かにアルシェの方を見ていた。今さら逃げ隠れしても遅いだろう。

 アルシェは奥歯を噛みしめ、力の奔流に抵抗して口を開く。

 

「先生! そこの戦士は死者の大魔法使い(エルダーリッチ)です!! おそらく吸血鬼とともにその女が、使役、をし、て……」

 

 刹那、膨れ上がった強烈な憎悪、いや、明確な殺意とも呼ぶべきものにさらされ、アルシェは声を継げなくなる。  

 フールーダさえも、出かかった言葉とともに息を飲む。

 殺意の出所は、ナーベと、隣の金髪の美女だ。

 

「言うに事欠いて、エルダーリッチ、だと」

 

 ナーベから発せられたのは、その美貌からは想像もできない、底冷えするような声だ。

 そこにあるのは、秘密を暴露された怒りだろう。

 

「待て、ナーベ、ソリュシア。そう怒るな。今回はこちらが視野を塞いでいるせいなのだから、見せてやればいいさ」

 

 対照的に、戦士(エルダーリッチ)は状況を楽しんでいるかのような余裕を見せる。

 そして、ガントレットを外してあった手を少し大仰な動作で前に出し、嵌めている指輪の一つをゆっくりと外した。

 

「――――!」

 

 一瞬、閃光が全てを満たした。

 次に襲ってきたのは悪寒と極度の恐怖――そして、吐き気だ。

 

「――ぅおげぇぇぇぇ!!」

 

 人智を超えた存在が不快げに首をかしげる。

 

「どうした? 人の顔を見ながら吐くとは、失礼ではないかな?」

 

「あ、ありえな――おえぇええ!」

 

 酸っぱい汚液が服を汚すが、構ってはいられない。

 頼みのフールーダを見ても、ただ震え、はらはらと涙を流しているだけ。

 

――逃げないと。逃げるしかない。今すぐ!

 

 膝がカクカクと笑い、立っていられなくなってその場に崩れ落ちてしまう。

 未曽有の恐怖がアルシェの心を圧し潰していく。

 

「桁が違う! 死者の大魔法使い(エルダーリッチ)なんて範疇で収まる存在じゃない! もう駄目! 何もかも終わり!」

 

 発狂したように頭を振るアルシェは、剥がれゆく正気の部分でフールーダから向けられた視線に驚く。

 それは、帝国中の魔法使いの敬意を一身に集めてきたフールーダがおよそ他人に向けたことが無いような、忌々しい虫けらを見るような目だ。

 

「うるさい! 黙っておれ! 獅子のごとき心(ライオンズ・ハート)

 

 フールーダの魔法により、アルシェは恐慌状態より強制的に回復させられる。 

 しかし、回復しない方が良かったかもしれない。

 

「……神よ」

 

 杖に掴まって立ち上がったアルシェが見たのは、額を床に叩きつけて平伏するフールーダの姿だった。

 

「――貴方様がどのような存在であろうと、私にとっては神にも等しい存在でございます。愚かな弟子が無礼を働いたことをお許しください」

 

「……ぅ……そ」

 

 油断を誘う言葉か――そう思いたかった。

 しかし、何を犠牲にしてでも教えを乞おうという師の言葉、その姿勢には、一切の偽りは感じられない。

 アルシェはより深い絶望が全身を満たしていくのを感じた。

 

「ところで、娘よ。お前はいったい、何を見たのかな?」

 

 幻術で作り出しているであろう戦士の顔が問う。その偽りの顔に優しい笑みを浮かべて。

 

「アルシェ! 知っていることを全て言うのだ!」

 

 厳しい声を向けてくるフールーダの顔は、アルシェの知る偉大な大魔法使いとは似ても似つかぬもの。

 魔導の深淵を覗き見るためならいかなる者をも食い散らす魔物のようにさえ見えた。

 

 アルシェは全身を侵食する絶望と震えを抑え込み、最後の気力を振り絞って駆け出す。

 入ってきた扉に手をかけ、引く。

 しかし、視界の端に滑るように急接近してきた金髪の女を認めると、すぐに腕を掴まれてしまう。

 そのまま押さえ込まれ、不思議な柔らかいものに視界を塞がれると、それに丸ごと飲み込まれるような不思議な浮遊感を感じた。

 

「とりあえず、それは眠らせておけ。もうすぐ――が来る」

 

 それが、遠のく意識の中で最後に聞いた声だ。

 

 

 

 

 

 この日、フールーダの執務室は皇城において最大の戦場であったとされる。

 いくつもの火球(ファイアボール)の焼け焦げや内装の傷が、大賢者が帝都を救ったとされる戦闘の激しさを物語っていた。

 そこではフールーダとその手で精神支配を解かれた『ザ・ダークウォリアー』の三人が共闘し、『ザ・ダークウォリアー』を魔法で支配して皇城へ侵入した恐るべき吸血鬼を撃退したということになっている。

 戦闘についての記録にはアルシェ・イーブ・リイル・フルトの名は無いが、状況証拠と遺品により、室内に残された半ば灰になって身元の分からない遺体がそうであると判断された。

 関係者によれば、少女は特別な才能を持った優秀な魔法使いで、かつての師フールーダに危険を知らせるため単身で戦場に飛び込んだという。

 フルト家には少なからぬ謝礼が支払われ、その家系の才能に期待をかけられた二人の妹はフールーダの推薦する特別試験奨学生として帝国魔法学院に入学することとなる。

 もっとも二人はすぐに東の魔導国へ“留学”することになるのだが、それはまた別の話。

 

 

「お嬢様……俺は、どうすればいいんですか」 

 

 後にアルシェの訃報を聞いたジエットは、途方もない真実を飲み込んだまま、アルシェの墓の前で一日中座り込んでいた。

 幸い、それを監視する存在は無かった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 式典の後の宴は、皇帝主催の舞踏会に近い形で行われていた。

 裏では様々な戦いがあったが、表向きはあくまで平穏無事を装うことができた。

 舞踏会の形式をとるのは、有力貴族どころか、少し前は臣民でさえなかったクレマンティーヌを正妃に迎えるにあたり、少しでも貴族社会の反応を確かめておきたかったのと、同時にその反応を緩やかなものにしておきたかったという二つの理由からだ。

 

 舞踏会ならば、皇帝や正妃、あるいは国賓が現れるまで長く時間をとることができる。

 もちろん衣装直しやら休憩やらの都合もあるが、多くの貴族だけが出揃った状態で歓談の輪を広げてもらうことが狙いだ。

 皇帝への不敬が許されないような場ではあるが、それでも人の口には戸は立てられない。様々な不満が噴出するだろう。

 むしろ、それは必要なことなのだ。

 そういう不満を全体で共有してもらうことで、不満の程度は舞踏会で口に出せる程度のレベルに収斂していく。

 元々正妃の地位に手が届かないような地位の貴族たちが「陛下ほどのお方が下賤の女に」などと呆れてみせれば、今回のことを覆したい大貴族が国家の一大事であるように喧伝するのは難しくなる。自然と、舌禍にならない程度の陰口でガス抜きをしてくれるだろう。

 特に今回の結婚はクレマンティーヌ本人さえ気づかないほどの性急さで行われたため、貴族社会にも青天の霹靂だ。大貴族さえ気付いてから自前の会合を持つ時間も無かった。そんな状況で舞踏会を迎えることができたのは幸いなことだ。

 

 始まってみると、広間での話題は意外にばらけた。

 クレマンティーヌが竜王国への援軍の指揮官となったとき、『漆黒』という名は伏せつつも冒険者上がりであるという情報は広く知られていた。そのため、冒険者上がりごときがとんでもないという常識的な反応も少なくないが、そこかしこに漏れていたスレイン法国との関連性から外交問題を危惧する声も大きくなった。

 また南方に領地を持つ貴族を中心に、かつてそのクレマンティーヌが指揮官として派遣された竜王国の動向が不安定に過ぎることから、援軍派遣時の不透明な勝利について様々な憶測が広がってくる。

 さらに、当然ながら亜人領域の魔導王なる存在や、人類領域の冒険者でありながらその圧迫外交の使者になった『漆黒』についての否定的な感情も渦巻いてくる。

 

 だが、『漆黒』とクレマンティーヌの関係に触れる者はほとんどいない。

 直前に貴族たちが情報に飢えているところへ、スレイン法国や援軍絡みの不確定情報を次々と放り込んでおいた帝国情報局の手柄である。

 

 そんな順調な状況の報告を受けても、ジルクニフは不機嫌だった。

 その理由は、招かれざる客――意外な国賓の登場だ。

 

 

「皆様、リ・エスティーゼ王国使者、ラナー・ティエール・シャルドロン・ライル・ヴァイセルフ殿下とそのお付きの方々のご来場になります」

 

 ざわりと微かな困惑のあと、会場に大きなどよめきが広がった。

 

 困惑は、魔導王モモンガなる者の使者という不透明な位置づけの『漆黒』が、隣国の国賓よりも優先されたこと。

 これは、帝国が魔導王なる者の勢力をリ・エスティーゼ王国より上と見なしているというメッセージになる。

 

 しかし、その後のどよめきはそれを上回るものだ。

 もちろん、それは彼女の“黄金”の二つ名が示す圧倒的な美貌に向けられたものではない。

 例年ならば宣戦を済ませ、軍編成を行っているこの時期。明日にでも王国へ宣戦布告の書状が届くような時期に、慶事とはいえ第三王女の訪問というのは型破りに過ぎるのだ。

 大貴族たちは互いを探し合ってその顔を見合わせるが、すぐに全員が狐につままれたような表情になる。王国に縁のある貴族も含め、誰も事前に聞いていない。

 つまり、根回しも何も無しに、本来の国賓と入れ替わるように現れたということになる。

 もし彼らがその報告を受けた皇帝ジルクニフの顔を見ることができたなら、驚いたのはお前もかと安堵したことだろう。

 

 

「本当に……本当に気持ち悪い女だ。慶事の一報だけで、どうやってこれを察知した? いったい何を考えているんだ……」

 

 ジルクニフは苦い顔で吐き捨てた。

 そもそも今回、王国の使者は欠席の見込みと聞いていた。

 かつて『蒼の薔薇』を手駒としていた王国の第三王女は、今やろくに外の情報を得る手段を持たないはずだ。 

 

 名簿をひったくって見れば、やはり王国の使者としては外交担当のイブル侯などではなく王国六大貴族のレエブン侯の名がある。

 欠席を見込む場合、このように外交の場面には通常出てこず、しかし非礼にもならない格の高い大貴族の名を入れておくのがセオリーなのだ。

 実際には外交担当者が欠席を判断したとしても、事前の招待の段階で断るのは角が立つ。そして直前の欠席ならば自分より大物が欠席したことにした方が後に非礼を詫びやすいからそういう名前を入れておき、招待した側も欠席見込みと察しておくという、面子を重視する貴族社会らしい慣習である。

 この慣習には、こうした場では事前に伝えた名より格下の者を出席させることは非礼にあたるため、外交担当者自身は出席したくともできなかったという言い訳が立つという利点もある。

 逆に予定より使者としての格が上の者が出席する分には何の問題もないが、そのような前例は全く無く、誰も考えた事さえなかった。

 

 そして、ラナーはそれを逆手に取ったということだ。

 そこまでして来なければならない理由は何か。

 名前を貸したか、下手をすると使節団まで貸し与えたであろうレエブン侯とは、どこまで近づいているのか。

 既にラナーは実行力を持つレエブン侯と近づき、以前のような手も足も持たない思考力だけの存在ではないと考えるべきなのか。

 

 ジルクニフは、考えれば考えるほど自分が蜘蛛の巣に絡まっていくような不快感と閉塞感に囚われていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 エンリは華やかな会場に圧倒されていた。

 いざ入ってみれば、クレマンティーヌどころか皇帝さえもどこにいるやら、何もわからなくなる。

 内装の上質さではモモンガの漆黒の塔に劣るが、着飾った貴族の群れを見るのも人生で初めてのことで、その雰囲気に圧倒されてしまう。

 

 ダンスの訓練は恐ろしいものを見て卒倒したことで自分では積んでいないが、死の宝珠が着実に習得してくれたおかげで最低限の動きはできるようになっている。

 当然、マーレの方が上手いのだが、合わせるだけならどうにかなるという状態。

 本当は訓練もマーレと一緒にやりたかったが、本番を味わえるだけでも幸せだ。

 曇りひとつない魔法銀の髪飾りをつけ、可憐な水色のドレスに身を包んだ完璧な美少女マーレ。

 その手を取れば子供らしい柔らかさと高い体温が伝わってきて、上目遣いのおどおどした視線とともにエンリの頭の中をピンク色の幸せで満たしてくれる。

 今は、そんな幸せで蕩けているべき時だ。

 

 頭の中をピンク色で満たしておかないと、あの名状しがたい黒い頭部を思い出してしまうから。 

 エンリはひたすらマーレの手をふにふにと握り、ダンスに集中していた。

 

 

 

 そんなとき、エンリは華美な装いの女性たちの中でも群を抜いて美しい王女ラナーに呼び止められる。

 マーレに比肩しうるほどの美しさに圧倒されながらもピンクの色の幸せは一気に吹き飛び、失礼のないよう必死に応対することに神経を大きくすり減らすことになった。

 だが、その王女が口にした話題は、そんな小さな苦労など吹き飛んでしまうような深刻なものだ。

 

 

 帝国と王国の間では、毎年戦争が行われている。

 今年はこの慶事で遅れているが、おそらく開戦はそう遠くは無いはずだ。

 そんな状況で、今、王国側ではエ・ランテルを中心に奇妙な噂が蔓延しているという。

 

 帝国と接近した『漆黒』のエンリは、もともと帝国側の謀略のために王国に潜り込んでいた存在なのではないか。

 エ・ランテル近郊の多くの集落を滅ぼした襲撃は法国の仕業ということにされているが、やはりエンリと帝国が画策したことなのではないか。

 唯一助かったカルネ村は、エンリと通じて帝国と繋がっていたのではないか。

 

 そういう話が広がっているというのだ。

 

「あのときに滅びて離散した中に、かつて蒼の薔薇に危機を救われたことのある集落があったそうです」

 

 カルネ村以外の集落は襲撃によって消滅したが、法国兵たちは住民を殺し尽したわけではない。

 暗殺対象の王国戦士長ガゼフ・ストロノーフをおびき寄せるため、襲撃の情報が伝わるようあえて何割かを逃がしていたのだ。

 そして、その住民の多くはエ・ランテルで暮らしている。

 

 『蒼の薔薇』をおぞましい力でねじ伏せた『漆黒』が、帝国と手を結んだ――そんな情報が恐ろしげな魔法複写とともに伝われば、そうした者たちが元々『漆黒』に感じていた違和感を口にするのは当然のことだ。

 悪いことに、それは(ドラゴン)の背に乗ったエンリと手を結んだ帝国への警戒心に後押しされ、王国内の幾つかの貴族にまで広まっている。

 

「戦争の際には、何か大変なことが起こってしまうかもしれません。私はそれが恐ろしくて、恐ろしくて……。場合によっては、敵と見なしたカルネ村への出兵なども――」

 

「そんな!」

 

 エンリには、目の前の慈悲深い王女が自分の故郷を心配して伝えてくれたことがよく理解できた。

 王女ラナーには、自分への偏見が全く見られないからだ。

 

「私には何の力もありませんが、私のメイドたちまで噂が回ってくるのはよほどのことだと思うのです」

 

 実際には情報の動きは正反対なのだが、それを知ることができる者はラナー以外にはいない。

 王宮にメイドとして潜り込んでいる女たちは、それを主人のもとへ迅速に届けることだけが仕事なのだから。

 第三王女の身辺に転がる情報など本来ならば価値が低いものだが、英雄級の存在であった『蒼の薔薇』の不祥事に関わることならば話は別なのだ。

 

「き、貴重なお話をありがとうございます」

 

 エンリは純粋な感謝を込めて頭を下げる。

 自分に何ができるかはわからないが、故郷の人々を見捨てるという考えだけはありえない。

 

――貴族や王族の世界なんて魑魅魍魎だらけだと思ってたけど、こんなに素晴らしい人もいるんだ。

 

 帝国貴族の強引な歓談の誘いによってエンリから引き離されるラナーを見送りながら、エンリの思考は一人次元の違う暖かな領域にあった。

 エンリが時々自信なさげに隣の美少女を見る視線をしっかり確認されていたことなど、気付くはずもない。

 まして、遠方に居た皇帝ジルクニフがラナーとエンリの接近にやきもきして「あの女を『漆黒』から引き離せ!」などと息のかかった貴族を送り込んだことにも、気付きもしないのだ。

 

 エンリが自覚するものといえば、周囲の偏見に満ちた視線だけ。

 それも無理もないことだ。

 

 女の身でありながら、舞踏会では男性の衣装と考えれば遜色のない漆黒の法服に身を包み、芸術品のようなドレスを身に着けた最高の美少女マーレをエスコートしているのだから。

 極度の緊張により自然と目つきが険しくなりながらも頻繁にマーレに視線を送るエンリの姿は、パートナーというより美少女を一方的に所有する者の雰囲気を漂わせていた。

 帝都ではごく一部にしか知られていなかったエンリの特殊な性的傾向についての噂が広まるのも、もはや時間の問題かもしれない。

 

「おおぉ!」

 

 去りかけたラナーがパタパタと戻ってきて、身を屈めてマーレの手を取って何やら挨拶をすると、幾人かの貴族たちがうめき声をあげた。

 帝都アーウィンタールにて奇跡的に交わった、完璧な二つの美の競演である。

 会場の魔法複写官などは、その瞬間の映像を逃したことを生涯後悔したことだろう。

 

 エンリは、無垢な子供を演じていたマーレの表情が一瞬だけ素に戻ったような気がしてドキリとしたが、周囲の声のせいで何を話しているのかは聞こえなかった。

 結局は何事も起こらずに済んだので、気のせいだと思うことにした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「……くは。頭が痛い」

 

「おいおい、病み上がりなのは皆同じだろ。それであのエンリはどうだったんだ?」

 

 仲間に答えを急かすのは、漆黒聖典第七席次“神領縛鎖”エドガール・ククフ・ボ-マルシェだ。

 病み上がりなのは漆黒聖典の大部分がそうであって、正確に言えば“死に上がり”ということになる。

 

「その前に、隣の少女だ」

 

 それは、エンリの舞踏会のパートナー。幼いながらも誰しも目を奪われる美貌の少女だ。

 普段は冷静沈着で、能力が露見しないよう振る舞う仲間が、その少女に限っては吸い込まれるように凝視し続けている。

 

「ほほぉう? お前、まさか惚れたか? 人の色恋にどうこう言う気は無いが、俺たち漆黒聖典の血は人類の財産であって、子供が産めないような年齢のガキにっていうのは――」

 そこまで軽口を叩いたところで、色を失っていく仲間の顔に気付く。

「――あれが、どうした」

 

「あれは、隊長並みに、強い」

 

「……おい! それはさすがに……いや、それがお前の力だよな。にしても、そればっかりは……信じたくはないんだが」

 

 エドガールは再び仲間の目を覗き込み、そしてうなだれる。

 

「――なんだよ……それは……」

 

 漆黒聖典の隊長は失踪中ということになっているが、人類を超える神人と呼ばれる存在で、スレイン法国の切り札だ。

 それに勝る存在が現れるということはそれだけで衝撃だが、さらに大きな問題がある。

 隊長は破滅の竜王と対峙してから行方不明ということになってはいるが、破滅の竜王の正体がわからない以上、それを追っているなど生存に期待する声が根強い。

 そんな時に、破滅の竜王との関係が疑われる『漆黒』にそのような強者が存在するとなると――隊長の現状について、最悪の可能性さえ疑われてしまう。

 

「エドガール。少しだけ注意してほしいんだが――」

 少女と隊長、どちらが強いかまではわからない、ということを言い添えてくる。桁外れの存在については正しく比較できないのが、彼の能力の限界だ。

 口下手な男だが、やはり最悪とは違う可能性を考えたいのだろう。

 

「それで、まさかあのエンリまで隊長並みとか言わないよな」

 

「それは無いが……それでも私たちよりは上だ。あと、それ以上の強さで冒険者の少女が一人居てな。役人に連れられて奥へ向かって行ったが」

 

「またガキか。他に……ガキの居る冒険者となると、『ザ・ダークウォリアー』か。他のメンバーはどうなんだ?」

 

「それが……全然強さを感じなかった。この会場はわからないことが多すぎる」

 

「マジックアイテムという線もあるだろう」

 

「神々の残せしアイテムが、三人分というのは考えられない」

 

 それくらいの品でないと、この仲間の持つ能力を妨げることはできない。つまり――。

 

「やばいのは『漆黒』だけではないってことになるな」

 

「……最後にもう一人の本命だが、とりあえず本物であることには間違いがない。以前より少し強くなっている程度だ」

 

 元々、今回は『漆黒』のエンリの強さと、クレマンティーヌの真贋を見極めるのが目的だった。

 

「今さらあれが本命などと言われても微妙な気分になるが、あのクレマンティーヌの奴が白いドレスを着てしおらしくしているのを見ていると変な笑いが出てくるよな」

 

「まあ、見ものではあったな」

 

 生真面目な友の珍しい笑顔を見て、エドガールはにやりと口の端をつり上げる。

 人選を誤っていたら、息が止まるほど大笑いをして潜伏が露見しかねないところだったかもしれない。




●かわいい少女たちの運命は

 次回、明らかに(もう見えているかもしれませんが)

●以前更新が予定より長く止まっていたのは

 だいたいラナーのせい

 連休あたりから書き始めて、ラナーの関わらせ方が決まる頃には書きかけの話が幾らか溜まっていた、というのがムラのある更新速度の正体です。

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