たいへん長らく放置してしまいました。楽しみにしてくださっていた方々には申し訳ありません。
まだ本格的に更新を再開できるわけではないのですが、二期開始の喜びを表すには更新しかないような気がしたので少しだけ続けてみました。
「その役目、是非このシャルティアにお任せいただけないでしょうか!」
意外な申し出に、モモンガは軽い驚きの表情でシャルティアを見る。
ナザリック地下大墳墓で尋問といえばニューロニストの専売特許であるが、一人で旅をしていた時にマーレも相当なことができるようになったとは聞いている。
しかし、シャルティアにそのような設定があった記憶は――。
――ペロロンチーノ……。そうか、守備範囲広かったよな。
記憶は無いが、おそらく可能であろうと思われた。
ただし、シャルティアの創造主ペロロンチーノの好んだエロゲー的な手法でということになりかねない。
身代わりの死体を配達してもらう際、シャルティアはあの娘のことを見ているのだ。
モモンガは無い眉を顰めるような表情になり、本音を聞いてみる。
「それは、もしや何らかの性的な楽しみを見出しての事なのかね?」
「いえ……実は大きな声で言うと心得の無い者も名乗り出てしまいかねないため、モモンガ様だけにお聞かせしたい理由があるのでありんす」
顔を赤らめるシャルティアを見れば期待はできないが、大切な友人の子供たちの話には耳を傾けるべきだ。
「ほう。では、こちらへ寄って、聞かせてみよ」
「では、失礼しんす」
モモンガが魔法の結界で音を遮断すると、シャルティアがほんのり赤く染めた顔を結界の中へ寄せて耳打ちする。
冷たい唇で紡ぐ言葉には、熱い情熱が篭もっていた。
「――ふむ、よかろう。いつ必要になるかわからないし、シャルティアが担当するのが妥当な理由もあるということだな。あの娘――アルシェに関しては好きにするがよい」
こうして、師であるフールーダより捧げられた哀れなアルシェ・イーブ・リイル・フルトの身柄とその尋問は、シャルティアの手に委ねられた。
――まあ、無茶はしないだろうし、大丈夫だろう。
不肖の弟子の命も捧げるが、せめて苦痛は最低限にしてやってほしいとフールーダから言われている。それだけは言い含めておかなければならない。
モモンガは伝え聞くマーレの拷問やニューロニストの設定を思い出し、軽く頭を振る。
たったそれだけの条件を叶えてやろうと思うだけで、「シャルティアで悪くなかったかも!」と思えてしまうナザリック地下大墳墓のNPCの陣容は、もしかしたら相当に偏っているのかもしれない。
シャルティアがアルシェを獲得した理由は、もちろんニューロニストやマーレが行うような過酷な拷問とは違う手段で尋問ができるということもあるが、それだけではない。
もちろん、尋問自体を愉しむのが主目的ということでもない。人間の娘ごとき、そこらに落ちていれば拾って玩具にすることはあっても、至高の御方に願い出てまで欲しがろうとは思わない。
本当の理由は、ダンスだ。
――わらわが、いつの日かモモンガ様と、ダンスを……!!
シャルティアは蕩けそうになる表情を引き締めつつ、小脇に抱えたアルシェを持ち帰った。
その姿は吸血鬼としては通常の御馳走お持ち帰りと大差なく、ある種の競合関係にある智者アルベドさえも不審を感じさせなかった。
そして、この日のシャルティアは冴えていた。
アルシェは帝国の貴族令嬢であり、ダンスを教えることができる可能性は高い。
そして、モモンガはいずれ自分もダンスをするかもしれないとして教えられる者を求めていた。
これは千載一遇のチャンスだ。
モモンガのパートナーを務めるべくダンスを習うのであれば、守護者としての仕事の合間にやらねばならない。となれば、不眠不休で行動できるアンデッドのシャルティアこそが適任ということになる。
もちろんダンスというのは舞踏会などに出るためのものであるから、ナザリックを留守にしてしまう。守護者統括のような重い責任を抱えた者には絶対に任せられない。
多忙なモモンガとの訓練の段階となれば、転移魔法を駆使して神出鬼没なシャルティアの特性がより強く活きるのだ。
そんな熱い主張を「あ、ハイ」と暖かい相槌をうちつつ優しく受け止めてくれた至高の御方に全力で報いねばナザリックの守護者として失格であろう。
もちろん、その前に本来の目的――任せられている尋問を済ませなければならない。
このアルシェは脆弱な人間だが、高度な幻術を看破してモモンガ扮するモモンの正体を見破った、油断ならない存在だ。
魔法の位階を見破るだけでなく、幻術まで見破る
あるいは、他の手段でそうなったのか。
それは絶対に判明させなければならないが、後で本人の
吸血鬼化についても、元のユグドラシルのゲーム世界には存在しなかった
一応、実験用の人間を探してもらうことになるが、時間もかかるだろう。
ならば、今は自分らしく、できることをするしかない――。
自室の一つである拷問道具の散乱する玄室に着いたシャルティアは、端のソファに置いた
「……塩味」
「――んっ……ここは……?」
「おや、起きんしたか。では、まずはお風呂にでも入りましょ」
「綺麗……。…………っ! あなたは、誰?」
ぼんやりと呟き、周囲を見回すと、アルシェはソファの上で半身を起こして後ずさる。
「お前の主となる者、シャルティアよ」
「そうか……私は先生に……。ここは、何処?」
「ここは栄えあるナザリック地下大墳墓の第三層、階層守護者たるわらわの部屋よ。……何を泣いてありんすの? 悲しいことがあったんでありんすか?」
シャルティアは、アルシェの心に刻まれた絶望を知らない。
「なざりっ――墳墓? もしかして、あのエルダーリッチと関……け……い……」
言いかけて、青ざめる。玄室に満ちる冷気じみた気配に、アルシェは震える。
「……あ゛ぁ?」
シャルティアの美しい顔が怒りに歪み、瞳に紅いものが広がる。
目の前には、至高の存在をエルダーリッチなどと呼ぶ無知蒙昧で愚劣な存在――その首を刎ねずに堪えるのは、ナザリックの守護者として相応の苦痛を伴うことだからだ。
傷を付けずに尋問せよという命令を発したのが至高の御方その人で無ければ、既にアルシェは醜い肉片となり果てていただろう。
「ひっ……これも吸血鬼!」
五体満足なアルシェは、至高の御方の慈悲に後ろ足で泥をかけるようにこの場から駆け出す。
シャルティアの住居は幾つもの玄室からなっており、それらを隔てる重々しい扉はシャルティアの性格を反映して多くが半開きであったり開けっ放しだ。
「おぉや、まずは鬼ごっこ? これから色々と遊びましょうねぇ。あはははは」
逃げるアルシェの背中を撫でつけるのは、吐息に血の混じったようなシャルティアの無邪気な声だった。
「キーノよ。冒険者を辞めて、私のところへ来い」
その言葉は、幾百、幾千とイビルアイの桃色の世界の中で繰り返されていた。
むしろ、何も邪魔の入らない真っ暗な世界で桃色の妄想に包まれながら、ただ極上の言葉を噛みしめていられるという幸せが、いつまでも続けば良いとさえ思う。
その身を幾重にも包んでいるどこかの大魔法使いのローブから発せられる強烈な防虫ハーブの香りと僅かに残っているかもしれない
それどころか、毒無効という体質でなければ、このハーブで朦朧とすることで幸せな妄想の世界により深く入り込めたのではないか、などと惜しんでしまう気持ちさえあるくらいだ。
この日、イビルアイは失態を犯した。
理由はわからない。不用意に誘いに乗って、単独行動を取ったのが間違いだったのかもしれない。
バハルス帝国の、よりにもよってその皇城の中で吸血鬼の正体が露見してしまった。大勢に追われ、そして逃亡のためとはいえ騎士たちを傷つけてしまった。
多くの人間に顔や体格を覚えられた。これが帝国において記念すべき日であったことを考えると、自分の姿が入った魔法複写さえ残されているかもしれない。
こうなっては、人間に混じって冒険者をするのを諦めるよう言われても、反論のしようが無い。自分がモモンの名声を傷つけるくらいなら、ひっそりと人間の領域から去る方がマシだとさえ考えた。
しかし、冒険者を諦めても、モモンを諦めずに済んだのは幸いなことだ。
「世界じゅうの人間に追われても、私の家から出なければ絶対に大丈夫だ」
事ここに及んでも、モモンはイビルアイを護る騎士であり続けた。
その腕に抱かれたまま連れて行ってもらえるなら、二人の愛の巣に着くまでに身体が蕩けて愛するモモンの腕からこぼれ落ちてしまうかもしれない。そんなことさえ心配した。
だが、現実はこの簀巻きだ。
お姫様抱っこの状態でモモンの言葉に蕩けている間に、間に合わせに大魔法使いのクロゼットから調達されたローブでくるくるくるくると手際よく巻かれてしまったのだ。
僅かな寂しさもあるが、これはイビルアイが蕩けてなくなってしまわないように包んでいるのだと考えるしかない。
簀巻きの中は、イビルアイの脳内で繰り返される言葉を除けば、しんとした静寂に包まれていた。
この静寂をもたらしたのは、モモンの仲間ナーベか、あるいは、モモンとなぜか協力関係にあったフールーダの仕事かもしれない。
イビルアイは呼吸などしないが、身じろぎの音が漏れないよう、わざわざ魔法で音を遮断する結界を作ってあった。
現実的に考えれば、全てを覆うのはイビルアイの正体を看破した幻術への対策だろう。荷物のように担がれるのは残念でもあったが、仕方のないことだ。
だから、外の世界のことは何もわからない。
イビルアイは桃色の妄想に包まれながら、ただモモンとの愛の巣に運ばれていく幸せをかみしめていた。
「冒険者に未練があるなら、数十年か数百年経って、忘れられた頃に一緒にやればいい」
布が視界を覆う直前、そんなことも言われた。
そんな冗談を言う男だとは思わなかったが、不思議とふざけている雰囲気は無かった。
モモンは、自分が先に逝ってしまうことをわかっていて、それをイビルアイが気に病まないようにそんなことを言ったのだ。
少なくとも、モモンの優しい声に頬を染めたイビルアイの中では、そういうことになっていた。
そうなってしまえば、イビルアイの桃色の希望の中に、一つの不安がわだかまる。
イビルアイは不老である。いくら幸せに暮らしたところで、数十年もすればモモンに先立たれて一人になってしまう。
それでも自分の人生の中で、一度くらいは女としての生き方があっても良い――当初モモンと会った時はそう思うことで恋の炎を燃え上がらせたのだが。
実際にこうしてモモンに手が届いてしまうと、果たしてその時の喪失感に耐えられるのか、自信が持てないのだ。
自分はもう冒険者になることはできない。モモンの傍らにはナーベやソリュシアという優秀な冒険者が居続けるのだろう。それは仕方のないことだ。
自分は子供を孕めない。それも、他の女に作ってもらったって構わない。ナーベやソリュシアの態度を見れば、彼女らのいずれかが、あるいは両方がその役目を担うことさえ考えられる。それさえも――いつか一番の愛情を勝ち取るつもりではあるが――モモンの幸せのために受け入れるべきことだろう。
しかし、モモンを失うということだけは、どう考えても受け入れられる気がしない。
いつか訪れるその別れが、自分自身をどのように引き裂いてしまうのか。考えるだけで恐ろしいのだ。
桃色の思考に身をゆだねても、これからも続いていく偉大な戦士モモンの
それを考えてしまってからのイビルアイは、桃色の盾や鎧を幾重にも繰り出して身を護る、激しい戦いの中に身を置いているようなものだった。
それは、悲劇的な結末以外ありえないとわかっている、絶望的な戦いだ。
だから、どこだかわからない瀟洒な部屋で、布を解かれてモモンと再会した時――。
いつものヘルム付き全身鎧で表情が見えないながらも、どこか気まずそうな雰囲気で、
そこから漂う、不死の気配――それだけで、イビルアイは感極まってしまった。
――「数十年か数百年経って、忘れられた頃に一緒にやればいい」
それは、冗談でもなければ、慰めでもなかった。
隠し事を咎めようとか、何者であるか確かめようとか、そういう発想は出てこなかった。
モモンが言い訳めいた言葉を口にする間もなく、イビルアイはその胸の真ん中にぼすんと飛び込んで、声をあげて泣いた。
イビルアイ――キーノ・ファスリス・インベルンの二百五十年に及ぶ孤独は、この日、終わりを迎えた。
黒塗りの額縁に収められた二枚の情景は、絵画ではなかった。
何者かが悪意を塗りこめたかのようなそれらは、油彩の凹凸も水彩の滲みも無い、正真正銘の魔法複写だ。すなわち、現実に存在した情景を写し取ったものということになる。
共通の被写体は、周囲を蔑むように見下ろす黒衣の女。その人こそ、彼らが見間違うはずもない『漆黒』のエンリであった。
それは、王都郊外の小さな村から始まった。
やんごとなき身分の者であろうと、人を使って組合も通さずに冒険者を雇い、このような場所へ呼び出す――普通に考えれば、そんな危険な依頼に関わろうという馬鹿は居ない。
しかし、介在したのが面識のある元オリハルコン級冒険者チームの面々となれば、『漆黒の剣』のメンバーの四人としては他の依頼を押しのけてでも受ける価値のあるものになる。
そして、出会ったのは平民に多大な慈愛をもたらしてきた黄金の姫だ。若き冒険者たちは
依頼の経緯の胡散臭さを最も強く感じ取っていたルクルットは
ラナーは帝国で開催される舞踏会の使者として帝都を訪れる。各国から国賓が訪れるのは普通のことだが、例年なら戦争が近いこの時期となるとリ・エスティーゼ王国からは欠席となるのが通例なのだが。
曰く、帝国で恐ろしいことが起きているかもしれない。
曰く、この身を犠牲にしてでも、正しい情報を持ち帰りたい。
そのために、レエブン侯の優秀な護衛たる元オリハルコン級チームの面々を借り受け、さらに『漆黒』の過去を知る『漆黒の剣』には帝都での情報収集を依頼するというのだ。
遠距離で拘束時間もかなり長いが、報酬もそれに応じたものが提示される。
しかし、彼らにはそんなことは関係なかった。
「もちろん、やります!」「是非ともやらせてください!」「姫様にお近づきになれただけで頑張れる気がします」「必要以上に近寄ろうとしないのである!」
『漆黒の剣』は途中でエ・ランテルを迂回して、帝国に入ってから帝都手前の街で落ち合うことになった。
ニニャは悪い噂のあるカルネ村の調査を主張し、なぜかダインが追従するが、ニニャと同じくらい村を怪しんでいたルクルットが止める。
「待ち合わせがあるのに仕事に関係ない危険を冒すわけにはいかねえだろ。俺たちがメインの仕事じゃねえんだ」
「疑いを解いておきたかったのであるが……」
ダインは噂によって周囲から白眼視される村人たちの方を心配していたが、憧れの先輩冒険者たちに迷惑をかける選択肢をとることはできない。
帝都では、あの『漆黒』絡みということで細心の注意を払った『漆黒の剣』だが、表面的な情報は容易に集まった。
最低限の情報として、魔法複写に間違いがないことが確認され、
より深い情報を目指して情報屋に接触すると、『フォーサイト』のアルシェやフールーダといった名に繋がってくる。
「国の機密に近づくことになりますから、くれぐれも気を付けてください」
ワーカーでも
ラナーのそんな気づきが『漆黒の剣』を危険へと誘うものであるなら、口先だけで薄っぺらい注意を促してどうにかなるものでもない。
しかし、その場にいた者たち――『漆黒の剣』の四人と、ラナーの護衛クライムはそのような邪推とは無縁だ。
レエブン侯の配下たちは、あくまで舞踏会の供としてレエブン侯から貸し出してもらったという立場もあってラナーが遠慮し、この件に関わっていない。
そして、『漆黒の剣』が帝国魔法学院に関して調べ始めると、学費に困って情報を売りに来たことがあるという女子学生、オーネスティ・エイゼルを紹介される。
ニニャと歳の頃も近い少女とは、セキュリティ万全の学院から出てきたところで待ち合わせた。そこから出てくること自体が、帝国でも最高レベルの身分証明だからだ。
オーネスティはおどおどした大人しい雰囲気の少女で、一人で情報屋のようなことができるようにはとても見えない。
四人はオーネスティから学院の学生や卒業生がやっている情報屋的な集まりがあると聞き、無防備に路地の奥の建物の地下へと付いていくが――。
「帝都に
口調は何も変わらず、大人しそうな無表情もそのままだが、オーネスティはそれまでと決定的に違う空気を纏っていた。そして、周囲に満ちる別の気配。
次の瞬間、ルクルットがオーネスティに、そしてオーネスティがニニャにナイフを突き付ける。
「てめえも、『漆黒』とつるんでやがるのかよ」
「…………別につるんでは、いませんが」
そして、出口からも奥からも、ガラの悪い男たちが現れる。
「おい、その程度の奴らに見透かされてんなよ、役立たず」
「う、動くな!」
ルクルットはオーネスティに突き付けたナイフを見せるが、男たちは意に介さない。
「その役立たず、別に殺っちまってもいいんだぜ。学院生を殺した犯罪者が相手ならこっちもやりやすくなるしな」
そう言ったのは、街の治安を維持する騎士隊と同じ格好をする男だ。見れば男たちの恰好は多彩で、騎士にオーネスティと同じ学院生、そして冒険者風の男までいる。
「そういうことを言うのなら、情報源も一人減らしてあげましょうか」
役立たずと言われたオーネスティが暗い笑みを浮かべ、ニニャの首にナイフの切っ先を少し食い込ませる。
「俺たちの負けだ! ルクルット、やめておけ」「命よりは情報をやりとりする方がマシなのである」
ペテルが場を収め、ダインはその場に座り込んだ。ルクルットがオーネスティを放すと、オーネスティはニニャを放して男たちの側へ。
「こちらも『漆黒』の情報が欲しいだけなんですよ。お付き合いいただけますね?」
「……『漆黒』の仲間でないのなら、僕たちの敵だとは考えません」
オーネスティから投げられたハンカチで首筋の血をぬぐいながら、ニニャはあくまで目の前の者たちとは違う所へ敵意を向ける。
情報を集めるという名目で乗り込んだ帝都だが、相手が何者であれ、おぞましい『漆黒』の告発に躊躇は無い。
舞踏会を終えたラナーは、いつもと変わらず美しく、そして慈悲深かった。
クライムが『漆黒の剣』からの定時連絡が途絶えたことを報告すると、ラナーの美しい顔貌は悲しみに曇る。
「彼らを見捨てるわけにはいきませんが、私の立場で彼らを待って留まると言うことはできません。なので、クライム。皆さんには体調を悪くしたと伝えてもらえますか?」
「畏まりました。では、しばらく出立は無理とお伝えしておきます」
クライムは恭しく頭を垂れる。
戦争の近いこの時期に帝都に留まる王女ラナーの判断は危険なものだが、その慈愛の心に意見することなどできはしない。
万一の場合もレエブン侯がつけてくれた最強の護衛たちもいるし、クライム自身も命を賭けてラナーを護れば良いだけのことだ。
だが、最悪のケースにおいては、『漆黒の剣』からも一気にラナーまで辿られてしまう。
クライムは反対したのだが、ラナーは冒険者たち一人一人に直筆の手紙を渡してある。
そこには、充分な身代金を支払うので速やかな解放を望むとの内容と、リ・エスティーゼ王国第三王女ラナー・ティエール・シャルドルン・ライル・ヴァイセルフ直筆のサインがしたためられていた。
――「私は人を使うとはそういうことだと考えております」
そう言い切るラナーに対し、冒険者たちは目に涙さえ溜めてそれを拒み、最終的には依頼者の命令ということで押し付けられていた。
義理堅い者たちなので簡単に手紙を使うとは思えないが、捕まって持ち物を探られれば同じことだろう。
要人警護という観点では確実にマイナスとなるその手紙の存在を知るのは、当の冒険者たちを除けばラナーとクライムだけだ。
「……クライム? 大丈夫です。あなたも居ますし、彼らもいます。私が病にでも臥せっていて、誰も動かずにいるのが一番安全なのです」
クライムは王女によって迷い込んだ思考の海から引き揚げられた。
そうだ。できることは何もない。
自分は王女を護るのが仕事だ。
クライムは知っている。
レエブン侯の部下である元オリハルコン級冒険者チームの面々と『漆黒の剣』の間には面識がある。
ただ囚われたとなれば、彼らは救出に向かってしまうかもしれない。
しかし、例の手紙の存在がある。
警備が手薄になった所で、彼らを捕えた者たちがラナーに近づけば、クライム一人ではひとたまりもない。
金級冒険者である『漆黒の剣』の一人一人の実力はクライムとそう変わるものではないから、それを捕えるような勢力が相手ならばレエブン侯の部下たちの存在は必須なのだ。
だから、クライムは密かに手紙の存在を明かし、頭を下げる。ラナーの安全のためとはいえ、秘密を明かす後ろめたさに耐えながら。
吸血鬼侵入騒動で苛立っていたジルクニフは、厳選された報告書の束を無慈悲に投げつけた。
厳選というのは、情報局としても皇妃クレマンティーヌに惚れ込んでいるジルクニフの不興を買わぬよう、問題のある部分を丁寧にそぎ落とし加工し、厳選に厳選を重ねた経緯があるということだ。
それも皇妃の醜聞を単純にそぎ落としたわけではなく、情報としての価値を損なわないよう、多くをエンリなどの同行者に押し付けてリアリティを損なわないよう務めた会心の仕事だった。
それがたった一つの名前によって、全て無価値なものとされてしまった。
「あの女のことだ、わざわざ捕えさせる目的で撒き餌をしてきたに決まっている!」
あの女とは、リ・エスティーゼ王国第三王女ラナー・ティエール・シャルドルン・ライル・ヴァイセルフ。
まるでこちらを挑発するかのように、冒険者全員にこれ見よがしに直筆の手紙を持たせていた王国の要人だ。
「では、解放せずに殺しましょうか」
「馬鹿を言うな。そいつらはおそらく、『漆黒』の悪い噂を作り出していた者とも繋がっている。この時期に殺せば、婚礼自体についても悪評を立てやすくなるであろう」
情報局の女は口をぱくぱくさせる。
婚礼の主役たるクレマンティーヌの悪評など今さらこの場で言及できるはずもないのだが、そんなものは報告書を作る段階で手控えさえしなければ元々大量にあるのだ。
寵姫として一応置かれただけかと思えば、身元調査している間に正妃に成り上がってしまい、焼却処分にした報告書だってある。
「…………では、しばらく身柄を確保して向こうの出方を」
「要らん! 一刻も早く解放しろ! これ以上あの女にひっかき回されてたまるものか!」
この瞬間、『漆黒の剣』の一刻も早い解放が決まった。
「――そうだ、この件であの女に攪乱されるのも腹が立つからな。その報告書や、付随する情報は後で指定する箱に封印して俺の書庫に保管しておけ」
「…………はい」
書庫行き――それは、仕事の成果が無に帰して、顧みることも許されないという意味である。
情報局の女は落ち込んだが、その日のうちに命令を実行した。
その後、ラナーは冒険者たちを心配するあまり食が細くなり、『漆黒の剣』が解放される頃には病と心労によるものだとして床に伏せってしまった。
その回復を待ちながら少しずつ移動し、エ・ランテルへの到着予定は戦争の直前にまでずれ込むこととなる。
両国の緊張の高まる中での移動だが、優秀な護衛たちの存在がそれを支えている。
●塩味
吸血鬼的には、まだお食事的な意味での味見ですよね。
もちろん、一線を越えた描写をすることがあったらその時点で赤いタグが増えます。
勘違いでなくソッチ方向に行くのは珍しいのですが、原作(WEB版)と同じ組み合わせなので……。
モモンガさんの幸せ(なダンスレッスン)の肥やしとしては必要な犠牲なのでした。
●アルシェ+α死亡(?)ルート
追い詰められ、化け物のおぞましい口の中を見たアルシェは、ふと学院でのモンスター学の授業を思い出す。
――『ヤツメウナギなど顎をもたない無顎類には、生きていくうえでギリギリの脳の機能しか無い。無論、同形状の口を持つモンスターも同様であると推定して戦術を組み立てるべきである。そもそも脳の複雑化、巨大化といった大進化は我々人間を含む有顎類に特有のものであるからして……』
つまり、もう少しでも頭を使えば、ここから逃げられたかもしれない。
アルシェは薄れゆく意識の中でそんなことを考え――。
「ちょ!! 生きていくうえでギリギリの脳て、いくら回想でもそれはあまりに失礼すぎでありんしょう!! やり直しを要求しんす!!」
シャルティアはあさっての方向を睨みつけ、口をありえない大きさにカパァァと開く。
「こいつ殺そう……これ書いてる奴も捕まえなきゃ……殺したぁぁい……バラバラにして血をあびたぁぁぁぁぁぁい!!!!」
※更新が数か月途絶えたのはシャルティアさんのせいではありません
※これの元になったヤツメネタ(フォルダ漁ったら転がってた)は活動報告の方にも
●……仮病?
いくら医者(神官医)の威力が絶大でも、王族が仮病もできないほどシャキーンとした体育会系の世の中にはならないと信じたいです。
ラキュースくらいの関係ならズカズカ入り込んで回復魔法ぶち込みそうですが、幸い慎み深いナイスミドルの神官様しか居ませんので。
●クレマンティーヌに関する報告書
「ええ、幾つかは早い段階で陛下に見ていただきましたよ。でも、『お前たちもクレマンティーヌにたばかられたか』などと上機嫌で笑うばかりなのです」
「もちろん、たばかられたつもりはありません。それでしっかりと根拠を補強した報告書を作りなおしてたら、いきなり正妃ですからね」
「その報告書? 当然暖炉にポイですよ。聡明であってもまだ若い陛下の初めての大恋愛に真っ向からケチつけるようなもん、情報局程度が出せるわけないでしょう」
●痛恨のミスをしていました
恥ずかしながら、この話の最後の部分に内容の修正を入れました。
今後はこのようなことがないよう気を付けます。