真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

120 / 184
第百十七話 一番を目指して

 青い空があった。白い雲もあった。そして遠からぬ先に夏の終わりを予感させる涼風。張貘は息を呑み、眼下に広がる大地を見た。

 雄大に横たわる中華の平原が、ただ茫洋と城壁に立つ張貘を見つめ返している。己の小ささを思う。何のしがらみも障りも感じることなく生きてきたが、しかしそれは己が無自覚だっただけで、何となれば容易く縛られ、身動きを奪われてしまう弱き人に過ぎなかった。

「けれど、それでも貴方の終生の友としてありたいの、私は……いえ、貴方にとっての一番でありたい」

 呟きもまた涼風に誘われ、去った。

 やがて地平からかすかな砂塵が立ち昇ると、見る間にこちらに向かって来るのが見えた。張貘は城門へと向かった。門が開くのと同時に転がり込むように飛び込んできたのは、弟の張超である。

 狼狽しながら指示を投げまくる自らの弟に無造作に近づくと、張貘は張り手をくれてやった。

「あ、姉上」

「負けて戻ったのね、黎明」

 敗残ということは一目見ればすぐにわかる。ようよう戻って来たのは五千の騎馬隊のみ。中核である歩兵はそのことごとくが粉砕されてしまったのだろう。

「わ、私は、姉上、私は!」

「華琳は強かったでしょう?」

 心底嬉しそうに張貘が笑うものだから、張超も呆気に取られて固まってしまっている。

 呆然としている弟を引き継ぎ、張貘は指示を繰り出す。固く閉門すること。見張りを倍にすること。哨戒部隊の構築。負傷兵の介抱。

「あ、姉上……」

「黎明。貴方に曹孟徳の相手は荷が重い。これより私が先頭に立つ」

 張超は我が耳を疑った。確かに姉の張貘が曹操に戦いを挑むことを願っていた。しかしそれがこんなに急に現実になるとは?

「不思議そうな顔ね」

「……はい」

「いいの。私にもよくわからない所があるから。でもね、今は戦わなければならない、という気になっている。それが私の務めなのだと。むしろ晴れ晴れとしているのよ?」

 間を置き、にわかに大喜びする張超には目もくれず、張貘は続いて軍の指揮所に向かった。すぐ後ろを弟が仔犬のようについてくる。可愛いと思う。そして愚かである。だがその愚かさは、肉親の情を覆す程のものではない。

 

 ――これは物語なのだ。曹操と張貘という二人の乙女の物語。その結末、幕引きにふさわしい人物足らんとすることこそ、友への絆の証のはず。

 

 戦意をたたえる張貘の横顔。その真意を弟の張超が見抜くことは永遠に来ない。

 指揮所には主だった将兵が輪になっていた。その表情に事態の深刻さが表れている。張超が大声を張り上げた。張貘が大将であり、これより先頭に立つことを宣言した。ようやくか、と意気込む者。今更遅い、と表情を一層曇らせる者、沈黙を守る者、まちまちである。見知らぬ顔もある。張貘は一息置いて口を開いた。

「聞いた通りです、諸将。これより私が全軍の指揮をとります。全身全霊をもって曹孟徳を倒します」

 張貘の覇気は涼やかで凛、かつ静謐。そして湖面に垂れ落ちた(しずく)のようでもあり、諸将の心を波立たせるには十分であった。

 皆を見回し張貘は言う。

「二人に任を与えます。まず呂曠(リョコウ)

「はっ!」

「これより手勢を連れて離脱しなさい。そして私の地元である寿張に行き、決起を企てるのです」

 呂曠の瞳が、恐らく意外さで揺れ動いた。

「この城はいずれ包囲される。そうなれば麗羽が来るまで単独で向き合わざるを得ません。打つ手が少ない状況は良くないわ。寿張はこれより東にある。華琳は背後を脅かされることを警戒するでしょう。今は見えないけれど、うまくいけば新たな一手になる」

「必ずや」

「竹簡をしたためました。離脱後、中身を改め指示に従いなさい」

 張貘の指示をうやうやしく受け取ると、呂曠は一礼して去っていった。

呂翔(リョショウ)

「はっ!」

 呂翔は呂曠の従姉妹にあたる。面立ちもよく似た二人である。

「貴方は豫州へ向かうこと。潁川(えいせん)には未だ旗色を明確にしていない名家名族がいる。袁家のいずれにも与しないその者たちに、張家の正当性を訴え参集を呼びかけなさい。同じく文をしたためました。任せます」

「任、全ういたします」

 その後も矢継ぎ早に張貘は指示を放った。籠城戦の用意に、曹操が繰り出してくるであろう戦術への対処などである。曹操のことなら誰よりもよく知っている、と言わんばかりの詳細さであった。

 張貘の声を胸に抱えるようにして、慌ただしく人が出入りしていく。誰一人疑問を差し挟む余地などないほど的確な命令。才覚と経験に裏打ちされた確かな方策は、それに付き従う者たちに自信を植え付けその力をさらに引き出す。遅咲きとは言え、将の将たる者の資質がここに開花した。

 やがて部屋に取り残された最後の一人に向き直ると、張貘は緊張を解いて柔和な笑みを浮かべた。

臧洪(ゾウコウ)

「はっ」

 姓は臧、名は洪、字は子源。歳は張貘の十は上で、短く刈り上げた髪には歳に似合わぬ白いものが既に多く混じっている。男である。仁義に厚く豪胆な人物として、姉を除けば張超が最も頼りとする人間であった。

「麗羽にはすぐに連絡が取れるのかしら?」

 臧洪は不意に青ざめると、たたらを踏むこともままならずに立ち尽くした。

「怯えなくても良いのです」

「……いつ、気づかれましたか」

「まぁさして難しい話ではないでしょう。張超が親しく交わる者くらいは把握しています。種を明かすとね、あと二人か三人に同じ話をしようと思っていただけなの。大本命の一人目が貴方だっただけ。ごめんなさいね?」

 臧洪はそれ以上深く問い詰めることは出来なかった。全てを見透すかのような張貘の瞳! ここまで切れる者だとは。名家の生まれであるがゆえに、必死さを欠落させたあの余裕。それは時に愚鈍ともなるが、今や鉄針のように研ぎ澄まされた才覚は以前の彼女のそれではない。控え目に、懐に隠していた張貘の本気。それは決してなまくらではなかった。

「貴方が黎明をそそのかした?」

 張貘の問いに臧洪は平伏して首を振った。

 臧洪は二君に仕える者ではない。ただ己の主君と仰いだ姉弟に最善を尽くさんとして、あらゆる手練手管を用いているのみである。その一つが袁紹と密接にやり取りを繰り返す、というものであった。

(それがし)はただ袁紹殿とおつなぎしたまで。やり取りの内訳までは存じ上げませぬ」

「……そう」

 

 ――事実、臧洪は冀州からの間者ではない。張超の謀反を助けたのも命に応じてやむなく、である。その野心を焚き付けたのは、他ならぬ田疇。曹操から張家の力をそぎ取り、北方戦線を瓦解させることが彼の戦略の骨子である。李岳、曹操、公孫賛が連携して冀州に当たらんとすることは目にみえていた。それをただ指をくわえて見ている程、田疇は甘くはない。臧洪はただの繋ぎとして選ばれた。そして張超は袁紹と繋がったのであるが、やりとりのほぼ全ては田疇の命であったことを知る者はほとんどいない。

 

「貴方の造反を疑っているのではない。ただ任を申し伝える前に確認しておきたかっただけ」

「して、任とは」

「これより麗羽の元へと向かいなさい」

 竹簡を受け取りながら、臧洪が躊躇いがちに口を開く。

「……目的をお伺いしても」

「袁曹和平」

 目を見開く臧洪に張貘が続けた。

「難しい任だとは思います。けれどこの張貘がそう述べていると言えば、麗羽も聞く耳は持つはず」

「持ちますか?」

 臧洪の問いには二つの解釈がありえる。袁紹が聞く耳は持つか。もう一つは袁紹を説得するまでこの城の防備が持つか、である。

「持ちます」

 張貘はただそう答えた。臧洪は束の間躊躇ったあと、頷き、張貘から受け取った竹簡を大事に懐に抱えたまま退室していった。臧洪は主君の思いを汲み、必ずやこの任を全うする決意であった。

 

 ――だが悲しいかな、張貘の試みが届けられることはなかった。臧洪が鄴へと辿り着くことが出来たのであれば、確かに袁紹は張貘の名代として耳を傾けたであろう。だが冀州の勢力が一枚岩でない。魔の書を携えた男がみすみす謀略の崩壊を見逃すはずもなかった。李岳以外には未だに無敵。臧洪は鄴を目指す道中、田疇が放った手の者によってあえなく射殺され、張貘の悲願の書と共に、その遺骸さえも誰かに届けられることはなかったのである。

 

 議場でただ一人となった張貘。解き放った使者たちの去りゆく背中を見送り、ようやく一息ついた。死ぬ用意は全て済ませた。これで存分に戦うことが出来るだろう、と。

「華琳、ごめんなさい。私は貴方の心に、誰よりも一番えぐい爪痕を残すことにしたの」

 張貘には他にもいくつかの選択肢があった。弟の張超を斬って曹操に降る。ただ無力さに嘆きながら戦の推移を見守る。あるいは単身脱出する……だがそのいずれも英雄の振る舞いとは言えない。覇王の右腕を目指した者の生き様ではないだろう。

 曹操の中で一番になる――思い返した時、それが自分にとって最も優先される野心だった。想像するとあまりに愚かで、愉快で、張貘はこみ上げる笑いに耐えられず部屋の中でしばらく、らしからぬはしたなさで笑い続けた。

 最早右腕ではいられない。ただの友でもいられない。残された道は、一番の敵となること。最も辛く悲しい思い出を、曹操の中に刻み付けること。

「……華琳、怒るかしら」

 うなだれた張貘の、額とうなじから、輝くような黒髪が垂れた。曹操の愛した黒髪。よく触れられ、張貘は決して嫌ではなかったけれど、()らすようにわざと嫌がる仕草で振り払っていた。それでもめげずに曹操の手がさらに伸びてくると、仕方がないと眉を寄せて耐える振りをする――そんな洛陽での甘く憐れな日々。

「悪い女ね、私」

 そっと自分で触れてみたけれど、やはりあの小さくて細い、熱い指には程遠い感触だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 鎧袖一触といえる。が、全滅させるほどの余力はない。まさに追い散らすというような形で、曹操は袁紹から張超への援軍を蹴散らした。降兵一万を先頭に、張軍と見せかけ突っ込む――それだけで決着は容易くついた。

 北に逃げ帰っていく軍勢が再び隊伍を整え南下するまで、どれほどの時間がかかるだろう。半月。いや、と曹操は思い直した。袁紹ならば張貘を救うために間髪入れずに兵を向かわせることもありえる。残された時間は短い。曹操は速やかに濮陽城を陥落させ、北への戦線を再構築させなければならない。

「華琳様、濮陽城が見えて参りました!」

 荀彧が元気よく声を出している。曹操と久しぶりに行動を共にできて嬉しいのだろう。曹操もうきうきと指示を飛ばす荀彧が可愛く、束の間この先で待つ運命を忘れ、心穏やかに馬上を過ごした。

 やがて到着した濮陽には、精一杯の虚勢を誇示するように『張』の旗が翻っていた。健気なもの。逃げ帰った張超は半べそをかきながら兵を焚き付けるに違いない、と曹操は考えていた。

 だがそこには曹操の予想を覆すものがあった。

 曹操は全軍に停止を命じた。総勢五万に膨れ上がった自軍が曹操を先頭に土ぼこりを上げて立ち止まる。

「……まさか」

 荀彧の声は確かに聞こえていたが、曹操が答えることはなかった。

 

 ――城壁に輝く白銀の鎧。たなびく黒い髪を、見紛うことなどあるものか。

 

 張貘が総指揮として、陣頭に立っているのだ。

「桂花、陣の構築は任せる」

「……華琳さま?」

「少し駆ける。春蘭、供をせよ」

 周囲の者たちが振り返るような嘶きを上げ、絶影は走りだした。また先陣切って突入か! と慌てふためく兵をなだめる夏侯惇の声。絶影の全速は凄まじく疾く、あわや夏侯惇を置き去りにしかねない程。陣地の外縁を抜け、曹操はようやく手綱を緩めた。

「京香様でしたね」

 曹操の答えを待たず、夏侯惇は続けた。

「美しい人です、相変わらず。私も同じ黒髪なんだけどなぁ、なんだかあの人は艶が違うんですよね。キラキラしてるというか」

「貴方の髪も綺麗よ、春蘭」

 しかし張貘の輝きに比することは出来ない、という一言は口には出さなかった。それでも何かは伝わったのだろう、夏侯惇は小さく口を尖らせ、ちぇーっと悔しそうにこぼした。

 曹操は再び濮陽城を見た。あそこに立つ張貘に、どのような心の変化があったのかはわからない。報告では張貘は謀反に対して本意ではなく、張超の独断専行であると聞いていた。だがあそこに立つ以上、なし崩しや消極的な理由なわけがない。

 確かなことが一つ。張貘の野心に火が点いた、ということである。

 己が頂点に立とうという気概を持つ者のみが決断できる、勇気と覚悟の英断。凛とした張貘の佇まいにはその全てが充溢していた。

 あの張貘が、全てでもって己に挑戦してきているということを曹操は実感していた。

「春蘭。私は全力で京香を倒す」

 親友と雌雄を決する機を得る。それを喜ばずして果たして乱世の奸雄と言えるだろうか。

 夏侯惇が答えを呟く前に、曹操は再び絶影を走らせた。夏の空がやけに深く、目に染みる。

 声に出さずに言う――私は曹操。曹操の、最も曹操らしい戦いぶりを、その目に焼きつけよ!


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。