真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百三十三話 喧嘩

 禿げた男だった。冀州に攻め込む直前、北平の街で一度見かけたことがある。

 隊員であるので顔を見知ってはいたが、その時はまさかばったりと酒屋で出くわすとは思ってもみなかったから面食らった。男も驚いたようでどうすべきか戸惑っているのが顔によく出ていた。やがて出会った場所が酒屋ということを思い出し、お互いに名乗りもせずに酒を酌み交わした。なかなかに飲めるやつで、趙雲並の飲みっぷりを見せた。

 齢は四十、妻子は賊に襲われなくしたという。もう二十年も前の話だ、とかすかに笑った男の横顔を覚えている。名は最後まであえて交わさなかった。

 その男が無残に吹き飛んでいくのが関羽にはよく見えた。目が合ったようにも思えたが、気のせいに違いない。やがて馬蹄に踏み潰され男は大地と見分けがつかなくなってしまった。妻と娘の元へ急いでいるように関羽には思えた。

「――おおおおお!」

 関羽は雄叫びを上げて再び前を向いた。自らが斬り飛ばした敵の顔も、あの男と似たような表情を関羽に見せて消えていく。戦場では人の命はまるで沼地に浮かぶ泡沫(うたかた)のようだ。それらを踏み潰して何事かを成そうともがいている。

 

 ――死線となった包囲網を強引に押し切るように幽州を北上している。立ちはだかる兵の中には粗末な鍬を持った程度の雑兵も少なくなかった。黄巾兵というやつなのだろう。とにかく兵力を揃えるために袁紹は片っ端から徴発をしている……ただ公孫賛と劉備を殺すためだけに。

 

 いま追い散らしたのは二千程度の部隊だった。巡察隊だろう。似たような部隊とは既に十度以上ぶつかっている。損耗はわずかだが数が増えれば馬鹿には出来ない。袁紹軍は既に大軍を幽州に送り込んでいる。易京で逃した公孫賛と劉備を何としてでも殺そうと網を広げているというわけだ。

 逃げ続ける中、関羽はたびたび劉備の様子が気になった。死体の山をかきわけるようにして逃げているのだ。現状が劉備にとって相当な負担になっているのは明らかである。だがほとんど隣にいることが出来ていない。本来ならば四六時中でも隣に付き添っていたいところだったが、どんどん人手が足りなくなっている現状では望むべくもない。関羽自ら毎時の索敵を志願しているので休憩時であっても動き回っている。

 その夜も関羽は手勢を連れて夜回りに出かけた。敵が接近してくる気配はある。が、至近距離ではない。付かず離れず包囲網を狭めてくるつもりだ。当てずっぽうで一気に押し迫ってこられるよりよほど厄介である。易京を拠点に南西から網を手繰るような動き。どこかで決死戦を挑み囲いを破りたいところだが、袁紹軍は容易にその決断をさせない動きを取っている。こちらの精神の疲弊を待っているかのようだ。

「余裕の差、といったところか……」

 危機感を抱えながら関羽は自陣に戻った。無残に減らされた軍勢だが望みはまだ捨てていない。捨ててなければ望みは手元にあり続ける。大樹とて一粒の種から育つものなのだ。関羽はそう念じながら劉備の元へと戻った。

「愛紗ちゃん……」

 目尻に涙を浮かべた劉備が関羽を見るやすがりついてきた。火を囲んでいる公孫賛、趙雲、張飛、鳳統も沈痛な面持ちで下を向いている。

「ど、どうしたのです……」

「解散の話をしていた」

 趙雲が肩をすくめて言った。手を横に振っているのはサヨナラの手仕草のつもりなのだろうか。

 公孫賛は言う。

「袁紹軍への抵抗はもう難しい。このままでは果てしなく東に追われるだろう……だけどそれは出来ない」

「どうしてなのだー? 東に逃げて、逃げ切ったところでぶっ飛ばせばいいのだ!」

 張飛の言葉に公孫賛が力なく首を振る。

「確かに東の遼西には一族もいるが……だめだ」

「だーかーらー! なんでなのだ!」

「楼班をこのままに逃げ続けることは出来ない」

 ハッと張飛が息を呑む。全員の目が自然と奥の天幕に向いた。楼班の回復は思うように行かない。体を起き上がらせることも出来ず、これ以上の逃避行は無理だと公孫賛は判断した。

 楼班がかつてあれほど闊達で意気軒昂、溌剌とした少女だったことを思うと胸が締め付けられる。なんとか烏桓族の本拠地まで戻してやりたい、と思うのは公孫賛の嘘偽りのない言葉だろう。

「ここで烏桓を東に逃がして私たちが西に逃げれば、きっと袁紹軍は東を捨ててこちらに全軍を振り分けてくる。幽州平定に一番邪魔になるのは私だし、東の烏桓本拠地への追撃は中途半端な準備じゃ火傷するだけだ」

「つまり?」

「……軍を解く。私は星と二人で幽州を脱出するつもりだ」

 劉備の手が震えている。何を話さなくても彼女の気持ちがわかった。劉備は怯えている、恐怖している……罪悪感に! 自分がみすみす踊らされなければ公孫賛をここまで追い詰めることはなかったと考えている。幽州全域を支配していた若武者公孫賛。北斗七星とさえ言われた彼女が誇った白馬の威容は欠片も残っておらず、今や単騎で逐電するが関の山。その無残さを招いたのが己だと、劉備を胸を刃で裂くように己を責めている。

「劉備軍がどうするかは、桃香たちが決めてくれていい」

「……白蓮ちゃんは、軍を解いたらどうするの?」

「一度北平へ向かう」

「そ、それは!」

 鳳統が無残な未来を確信して声を上げるも、公孫賛はすでに全てを理解していた。

「けじめが必要なんだ、私には。たとえ去らなければならないにしても、戻ってくるべき故郷の街をもう一度この目に見なきゃ、だめなんだ」

 公孫賛はジッと焚き火を見ながら言う。趙雲が薪を足した。パチリと音を立てて火花が舞い昇る。その赤い輝きが公孫賛の表情につかの間激しい陰影を刻んだ。

「兵たちはここで白旗を挙げさせる。手酷い扱いは受けないだろう」

 公孫賛の言葉を鳳統が継ぐ。

「……袁紹軍にとって、幽州の平定は難事ですが速やかに遂げなくてはなりません。ですから……表向きは寛容な姿勢を取る必要があります。降伏した兵を殺すようなことはしないと……思います」

「今やそれに期待するしかない、か」

 自嘲するような声だったが目は一つも笑っていない。

 公孫賛の精神が限界なのは誰の目にも明らかだった。頼みにしていた易京の陥落、味方の裏切り、彼女を支えた程緒の死……逃げ行く先々で立ちはだかって来る黄巾兵、荒れ行く故里と山河、そして一人また一人と脱落して行く麾下の兵たち――そして全てを捨てる決心。

 その心にどのような嵐が吹き荒れるか余人にうかがい知ることなどできやしない。

 

 ――その心をわずかでも慮った時、劉備の心に一つの限界が来た。

 

 劉備は立ち上がり皆を見た。目線は高いというのに下に向かって哀願するかのような、泣き出しそうな顔で劉備は言う。

「あの、私……一つだけ方法があると思うの」

「桃香様……?」

「私が降伏して、袁紹さんにお願いをする」

 公孫賛が慌てて制止した。

「なにいってんだ桃香!? 普通の兵とは訳が違う! 受け入れられなかったらどうする、死ぬんだぞ!」

「その時は……し、死ぬんだと思う……」

「お前、なにを」

「……それくらいでしか、私はみんなに償えないから」

「何を言ってるんだ!」

「たとえ死んでも、私はみんなに償うから……」

 

 ――気づいた時、関羽は劉備を突き飛ばしていた。劉備に暴力を振るったことに他人事のように驚きながら、同時に収まることのない怒りの量にさらに驚愕した。劉備の瞳は絶望していた。真っ暗に澱んだ、街の隅のどぶのような、諦めきった色だった。関羽はそれが何よりも許せなかった。

 

 駆け寄ろうとした鳳統だったが、ピタリと突きつけられた刃物に身動き一つ取れなくなった。

 濃厚な血の匂いが香った。うねる刃――蛇矛である。

「そこを動くななのだ」

「り、鈴々さん」

「ここは大事なところなのだ。鈴々は頭はよくないけど、それだけははっきりと分かる」

「大事な、ところ……」

「動かば斬る、なのだ」

 張飛の目は本気であった。餓えた虎さえ愛いほどの殺気が鳳統を木偶に変えた。

 劉備と関羽を邪魔する者はもう誰もいなかった。

「いま、なんと言った?」

「命をかけて……償う」

 関羽の張り手が劉備の頬をしたたかに打った。竹を裂いたような凄まじい音がした。全身がしびれる程の痛みに、劉備は震えたが、倒れこむことを拒んでキッと関羽を睨んだ。しかし関羽は動じない。

「聞こえんぞ。もう一度言ってみろ」

「つ、償うの! 袁紹さんに、降伏する!」

「貴様!」

 先ほどの強烈な一撃は、しかし手加減していたことがはっきりする。今度の張り手では立っていられず、劉備は地面に吹っ飛び倒れた。口元から血が垂れた、口内を切ったのだろう。頬は真っ赤に腫れているが、関羽は容赦なく引きずり起こした。

「うっ」

「何を考えているか当ててやろうか? 自分一人犠牲になり、仲間を救ってやろう、自分のせいの戦いだからそれで全て終われる、と……どうだ、違うか?」

「わ、私は……」

「言ってみろ!」

「そ、そうだよ……わかってるなら……わかってよ……」

 関羽の大声に兵たちまでもが周りを取り巻き始めたが、構わなかった。

 全ての何事を差し置いてでも優先すべき戦いがここにあった。

「わかるわけなかろうが、貴様はいま全てを諦めてしまっているではないか……負けるならまだいい。逃げたっていい。しかし貴様はただ命を捨てようとしているだけではないか。それで何をわかれというのだ!」

「私は、他に方法がないから! これでも、苦しんでっ! ……もう、もうっ!」

 襟元を掴まれたまま劉備は無茶苦茶に拳を振るった。それは関羽の耳元に当たったが、関羽は微動だにせずに再び手を振り上げた。

「苦しんで? ……言葉が軽いぞっ!」

 関羽は今度は拳で殴りつけてきた。先ほどの比ではない量の血が口の中にあふれた。信じられないことに奥歯が折れている。こんなかすかな骨の欠片一つがなくなったことだけで、もう二度とは戻らない身体の欠損を実感して、痛みよりも前に劉備は呆然とした。

 その小さな骨の欠片が、どんなことよりも失われれば二度と戻らない喪失――つまり、死を体感させる。

 関羽はさらに劉備の襟元を掴むと容赦なく吊り上げた。

「無辜の民が何万人死んだと思ってる! どれだけの兵が土くれに還っていったと思っている! 苦しみ一つでこの命が慰められるのか? 民の国を作るために、多くの者が動乱に参加した! よかろう、皆が皆、覚悟を決めて戦うというのなら私たちには止める術はない。私たちだってそうだ! 一度でも想像したことがあるか? 死の覚悟を持った者の決意の重さを、これから人を殺すことを覚悟した決意の痛みを!」

「私にはわからない……わからないけど、ただ、死んでほしくないから……」

「だから全てを捨てるというのか! 一度間違えたから、身代わりに死んで終わらせると? だったら何一つ責任を負えていないのは貴様ではないか! 自分で決めてないのは貴様だけだ!」

 関羽は涙に濡れた。 

 それはずっとこらえていた言葉だった。叫びだった。関羽の声であり、兵の声、人の声……劉備に背負わせていた全ての者達の声。無責任なのは己もそうだ。劉備がどれほどの重圧に耐えていたことだろう? 夢中で戦うことで我を忘れることが出来た己など大したことない。後ろで見守り続ける者の苦痛は比ではないだろう。

 だが、それでも折れてはならないのだ。妖術書に狂わされたとしても、道を惑わされたとしても、折れることは許されない。劉備が死ぬといういうのなら自分も死ぬ。同年同月同日に死ぬ。だがそれは今ではない。こんなところではない。このような場面ではないはずだ!

 怒りの発露から、関羽の声はやがて懇願するようなそれに変わり行く。

「私達が人を山と殺してなぜ狂わないでいられる? それは信じられるものがあるからだ……綺麗なものがあるからだ……それが貴方だったのです。誰かのためになっているからと笑ってくれるから、私は私を許していられる……」

 ただ戦い血に濡れることしか出来ない、鉄、刃、凶器。そんな己たちが人であり続けることが出来た理由は一つしかない。

 笑顔で待つ貴方がいたからだと、関羽は涙でかすれた声で叫んだ。

「お前は何だ、何者なんだ! そして私は? 鈴々は!? お前にとって一体何なのだ? 理想を叶えるための駒か。戦に勝つための道具か? それともただ生きてそこにいればいいだけの犬猫か!?」

「違う、そんな、私は、私は」

「駒でもいい、いっそ道具でもいい! 私も鈴々もあの桃園の誓いから今日まで、私たち三人の理想のためならばいつ死んでもいいと思い戦ってきた――私たち三人の夢のためならば!」

 答えを知っているはずだ、劉備は答えを知っている。

 その答えを持ち出そうとせず、死に逃げることが関羽には許せなかった。

「これが貴様の答えか、劉玄徳! 私たちの夢とは一体何だったのだ! 追い詰められれば死んで詫びる、そんな簡単な話だったのか? ――民の国! よかろう。だがそれは誰一人血を流さずして成し遂げられる、たやすい話だったのか?」

「私は、みんなのことを思って!」

「みんなのことなど考えていないだろうが! 自分のことしか考えていないだろう! 罪悪感で苦しいだけだろう!」

「それでも、それが答えなら、それしか方法がないのなら、私はそうしなきゃいけない!」

「愚か者め……貴様の命は、私たちの夢とはそんな簡単に諦められるものだったとは、恐れいった! 本当の鉄火場から逃げ続ければ、誰もが笑える世が来るとはな! この世の苦難とはそんなにも浅はかに解きほぐせるものだったのか? ならば、私と鈴々は何のためにいる! あえて弱々しい劉備軍にその身を投げ入れ、理想のためにと戦陣に加わり、血反吐を吐きながら最後は母の名を叫んで死んでいく兵たちは、何のためにはらわたを切り裂かれたのだ!」

 あの男が、あの女が死んだ理由。それに答えることは出来なくても、答える旅路をこんなところで終わらせることは許されない。

「戦をなくすために戦をする、その大いなる矛盾の中で、しかし戦うことを選んだのが私たち義姉妹だったはずだ……地べたを這いずり、泥を飲み、血のあぶくをぶちまけながらも光を信じて前に進む覚悟だったはずだ。どうしてだ? どうして楽な道を選ぶ?」

「……一人でも多くの人を守るためには、必要なことだったんだ! そこに正解があるのなら、選ばなきゃ、嘘だって思ったんだもの!」

「ではなぜお前の目は死んでいる!」

 とうとう関羽はひざまずき、劉備にすがりつくように叫んだ。

「答えろ、答えろ劉玄徳! 貴様は何がしたい、貴様はどうしたいのだ! 田疇も劉虞も袁紹も関係ない。曹操も李岳も白蓮殿も、天も地も運命も、全てを捨ててお前の考えを聞かせろ。お前は今一体何がしたいんだ!?」

 すがりつく関羽の頭を劉備は叩いた。劉備もまた泣いていた。関羽が苦しんでいることが手に取るようにわかった。こんな声を上げさせる自分が情けなくて仕方なかった。しかし考えがまとまらない、なぜ? もっと賢くうまれなかった? 強くならなかった……劉備は関羽の頭を抱きしめながらやはり泣いた。

 

 ――愛紗ちゃんなんて嫌いだ。私がみんなのことを死なせたくないって、どれほど思っているか! 私のことなんて何もわかってない。私だって苦しんだ。たくさん我慢した。毎日減っていく兵たちのことを思って眠れなかった! 昨日挨拶したのに今日はいない時の気持ちがわかる? 何もできない自分がえらくなって、でも堂々としてなきゃならないこの気持ちがどんなだかわかるの!?

 

 劉備は思う――平気なわけがない! けど私は馬鹿だから、馬鹿なりにやっていくしかなかった。そして間違えた。それをいま正そうとしているというのに、それもまた間違ってるなんていう愛紗ちゃんなんて嫌いだ……そんな義妹なんていらない……

 再び立ち上がった関羽は、劉備の目を覗き込んで言う。熱い火が関羽の目から劉備の目に乗り移る。泣きはらす劉備は関羽の目をまともにみられないが、熱いものが流れ込んでくることだけはわかった。

「やってやる。何でもやってやる! 私と鈴々にはそれが出来る。姉のためならば、私たちはなんだって出来るんだ。たとえ今ここで全てを失おうともだ! 百人を斬り、千里を駆け、万難を排すことだって……貴女が本当にしたいことならば! 借り物ではない、本当の夢を、本当にしたいことを言え! もう一度私たちに聞かせてみせろ!」

 だってそれは願ってはいけないことだった。多くの人を裏切った自分にはその前にすべきことがあるはずだった。理想を叶える道筋が見えなくなった自分はもうただのホラ吹きだ。どんなに願いが温かくても、叶えられなければ意味がない。それでも願うことは自分の欲望を優先することだった。正しいことではなかった。間違っている方につくことだった。夢を遠ざけることだった。言ってはならないことだ。

「一番したいことを言え!」

 言ってはならなかった。

「答えろ、桃香――!」

 決して言ってはならないといつしか思い込むようになっていた思い。

 誰かのために戦うと決めたのだから自らに禁じた――自分のためという言葉。

 劉備はとうとうそれをこぼした。初めは絞りだすような声で。やがて絶叫を伴って。

「死にたくない……こんなところで負けたくない……私は、私は! やりたいことがまだまだいっぱいあるんだから」

 うわああああ! と大声を上げながら劉備は夜の闇に叫ぶ。

「お腹いっぱい食べたいよ! みんなでぐーすかしたい! 綺麗なお風呂に毎日はいって、美味しいお菓子でお茶したい! それをみんなでやりたいの……この国の人みんなで、そういう風に生きていきたいの! そうじゃないなんて、絶対うそだもん!」

「桃香様……」

「なんでこんなことになってるの!? 私を勝たせてよ! 誰にも負けないでよ! 敵を倒して、みんなを守って! そして死なないでよ! なんでも出来るっていうんだから、なんでもやってよ! じゃないと嘘つきじゃない! ばか、ばか! 愛紗ちゃんのばか! 口だけ、口だけだよ! 私とおんなじ、愛紗ちゃんは口だけなんだ! 嘘つき! ばか! なんにも出来ないくせに! 大嫌い、大嫌いだよ! 私は、私が嫌いだ! みんなのことが大嫌いだ!」

 不思議だった。劉備は自分がひどいことを言っていると自覚していた。決して言いたくない言葉を放っていた。だというのに関羽は罵声を浴びるたびに嬉しそうに笑っている。その笑顔はどんどん朗らかになっていく。やがてやって来た張飛も顔全部を鼻水でベトベトにさせている。鳳統はその張飛にすがりついて前さえ見れていない。

「愛紗ちゃんも、鈴々ちゃんも、雛里ちゃんもバカ! 大バカだよ! 大嫌い……大嫌い! 死ぬまで戦えばいいんだ! 私を助けるために、血を流して、走って、殺して……苦しめばいいんだ!」

「うむ」

「なんでそんなに嬉しそうなの? 本当にバカなの!? 本当にバカなんだ! 本当に、本当に!」

「そうだな、きっとそうだ」

「だって死んじゃうかもしれないんだよ?」

「――死ぬとお思いで?」

 その言葉が、劉備が本当に欲しい言葉だった。

 劉備がひぐっ、と声を上げて泣き止んだのを見て、関羽は腹の底から絶叫を上げた。そしてただちに張飛が続く。虎や獅子、狼でさえたじろぐほどの吠え声は、やがて軍全体を巻き込む鬨の声となっていた。気づいた時には公孫賛や趙雲までもが声を上げている。

 ひとしきり叫んだところで、鬨の声は途切れることなく笑いに変わっていった。ただ一人劉備を除いて全員が笑っている。

「はっはっはっは!」

「わああーーー! わあああああああ!」

「わっはっは、はっはっはっは!」

「みんなおかしいよ……何が楽しいの……」

「これがおかしくなくて、何がおかしいというのです! はっはっは、まったく傑作だ!」

「私の話聞いてた!?」

「いいえ、なんか忘れてしまいましたな、もう一度お聞かせ願いますか」

「死なないで……みんな生きてよ……たったそれだけが私の願いだって、って……みんな本当はわかってるんでしょ!?」

 はぁ、と息を吐きながら関羽は劉備の腫れた頬を撫で、血を拭った。謝らない。姉妹だ、喧嘩くらいする。詫びは行動で示す。そのことに何のためらいもなく。

「死にませぬ。私は」

「鈴々たちはっ! なのだ!」

「そうだな……私たちは!」

 声を揃えて言う――無敵、と。

 関羽は膝を突いて劉備に頭を下げた。張飛も口裏を合わせていたかのように同じ姿勢を取る。

「桃香様。数々のご無礼をお許しください。しかしようやく、私は貴女の本音を聞けた気がします」

「……うぐっ。ぐすっ。バカ」

「そうです。本当にバカです。私達は大バカだが、その中でも私は輪をかけて頭が悪い。今ようやく、貴女に対してこう呼ぶべきだということに気づきました――姉上、と」

 劉備にかしずいたまま関羽は少し照れながら言った。桃園の誓いからこちら、義姉妹になったはずがどこか主従の関係を優先してそう呼んではこなかった。もう一歩踏み込もう、と関羽は思った。死にはしないが、死ぬかもしれないのだ。思い残すことなどあってはならない。

 張飛も嬉しがって姉ちゃん、姉ちゃん、と呼んでまとわりついた。劉備はやがて再び泣き声を上げながら笑った。感情が入り乱れ、もはや心の置きどころさえ定まらないのだろう。

 

 ――誰よりも優しく、仲間想い。その人が戦乱に立ったのだ、付いていく以外の道があろうか?

 

 この想いを田疇に利用された、ということが今になってみればわかる。いつぞや感じた劉備の人徳、将の武力、軍師の才とは別のところで物事が動いているのではないかというあの感覚は正しかった。だからなお一層、この戦には意味があるのだ。

 関羽の覚悟は以前とは異なる境地に達し始めていた。より強固で、より柔軟なものに。

 自分たちは正しいかもしれないが、間違っているかもしれない。関羽には難しいことはわからないが、つまりは正誤などないのだ、ということだけはわかる。何を信じることができるか。何に寄り添えるか。誰のために命を捧げられるか、生き方の問題なのだ。そしてそれこそが志であり、魂なのだと思う。

「……みんな、死なないんだね」

「もちろんです。劉備軍のしぶとさを見せつけてやりましょう。そしてみんな笑顔でボサボサやっていける世にするのです」

 窮地である。厳しい戦いだ。だが真の絶望はないのだと、一握の希望さえ失われることなど決してないのだとでも言うように、鳳統はらしからぬ大きな声で告げた。

「一つだけ、一つだけはっきりしていることがあります!」

「……なんだろう」

「冬至さんが……冬至さんが! 田疇さんを、倒した……そのことだけは、はっきりしているのです」

 関羽は知れず口内の唾液を嚥下していた――李岳!

「『太平要術の書』と田疇さんが生きているのであれば、私たちが易京を無事脱出できたはずがありません。たしかに厳しい状態ですが……あわ、あわわ……私たちがまだ生きてることが、なによりの証拠なのです」

「冬至は、やったんだな」

 公孫賛が立ち上がる。わはは、と声を出して笑った。

「じゃあ、私たちも負けられない……こんなとこで死んでたまるか、ってな」

 公孫賛の言葉がその意味に比べて空虚に響いたのは、それがあまりに困難な決意に思えるからだった。四方から迫りくる敵の数は十万を優に超えるのだ。こちらは軍を解散させ、単騎で逃げようとしている。気合でなんとかなる差ではない。

 それでも希望はある。その素晴らしさたるや何たることだろう。李岳に出来た。ならば私たちに出来ないことがあろうか――この乙女らに不可能なことなど、あるはずがないのだ。

 李岳は好かん。しかし信用はできる。心に灯す火を分けてもらったような気になった。関羽は全身に力がみなぎっていることを感じた。

「白蓮殿!」

「お、おう」

 気圧されている公孫賛だがなんとか返答する。

「幽州軍の解散、おおいに結構! 必ずや落ち延び再起を遂げられよ! 殿軍はこの劉備軍が担わせていただく!」

「……お前たち」

「白蓮ちゃん、ごめんなさい。やっぱり私は袁紹さんの元にはまだ行けない。私は、私はまだまだ戦う! そのためにも、ここで戦うの!」

「……死ぬんじゃないぞ」

「うん。白蓮ちゃんもね」

 親友だった。お互いがお互いをとんちんかんだと思っている。凹と凸だと思っている。だからこそ仲良くなれた。お互いに良いところと足りないところがあった。だから気があった。だからきっと、もう会えないということはない。

 公孫賛はいつかそうしてやったように――塾で悪ガキからかばってやった時だろうか――ポンポン、と劉備の頭に触れながら抱擁した。劉備もいつかのように腰に手を回す。またこいつ胸がでかくなったな、と公孫賛は思う。白蓮ちゃんはあまり成長してないな、と劉備は思う。お互いがお互いにそんなふざけたことを考えているとは気づかなくて、真面目な顔をしたまま面映ゆく見つめあった。

「ごめんね、白蓮ちゃん……」

「桃香が悪いことなんて、一個もないさ」

 二人は親友だった。それをきっとこれからも何度だって確かめる。疑いようもないことだ。

「ところでお前、歯は大丈夫か? 愛紗に思いっきり殴られてたけど……どんどん腫れてきてるぞ」

「へっ、あ……あ、あ、あいたたた! いたいよー! 愛紗ちゃんの馬鹿力!」

「姉妹喧嘩なのです。歯の一本くらい飛びましょう」

「ひーん!」

 劉備に対して緊張し、割れ物を扱うように接していた関羽の態度がどこか改まっていた。鷹揚、余裕……とどのつまり、親しさだった。関羽は劉備と、もっと仲良くなれたのだ。本当の姉妹のように、主従を超えたなにかのように。

「……あわわ、桃香さんあとでお薬お渡ししますから」

「雛里、お前はいいのか?」

 はたと鳳統が立ち止まる。関羽の言下の意味を鳳統は正確に理解した。

「みなさん、私抜きで何とかなるのでしょうか……」

「こいつ、言うようになったな」

「あわわ」

 ふふふ、と笑って続ける。

「朱里ちゃんは大丈夫です。冬至さんもいる……きっとまた会えます。きっと、また会えますよね?」

「きっとまた会える。そのためにも私がいて、お前がいるんだ。そうだろ?」

 うん、うん、と鳳統は意気込んで頷いた。この半年、鳳統にとって過酷でない日など一日たりとてなかっただろう。その日々をくぐり抜けた少女には、以前にはないたくましさが宿っているような気がした。

「……この先に河があります。一軍を伏せるには絶好の場所です。そこで烏桓戦車隊と白蓮さんたちを逃がしきるまで時間を稼ぎましょう。解散した幽州軍はその先にある砦で白旗を掲げさせるのが最善かと考えます」

「よし、じゃあ私が先頭に」

「ちょ〜〜っと待った! なのだ!」

 親指で自分を指そうとした関羽の手をむんずとつかみ、張飛がその指を力任せに自分に向けさせた。

「愛紗の出番はもう十分なのだ……」

「鈴々」

「もう我慢できないのだ……!」

 腕を掴む手の熱さよ。張飛の爛々と輝く目の瞳は、気力充溢する関羽でさえ息を呑むほどだった。

 短躯に痩身、しかし宿る力は百人力。

 張飛は一言だけこう呟き、ケロリと表情を変えて劉備にじゃれつきに行った。

 

 ――鈴々一人でいいのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 滹沱河(こだか)の支流。渡りて北平に向かうはこれ一本という橋がある。幅は狭小、大軍であれば渡り切るのに三日はかかろうというものであった。

 もし幽州軍に大兵あらば、陣構えは対岸と決め防備を築いたであろう。あるいは逆転を期するのであればあえて背水を選び猛攻での一点突破を目論んだに違いない。

 しかし有する兵は数千に満たず、満身創痍の敗残兵とあらば一顧だにせず遁走する他道はなかろう。

 世の誰しもがそう考え、袁紹軍においても論をまつことはなかった。

 袁紹軍大挙し橋にまで至らんとしたその時、小さな人影が現れた時もそれを敵と見る者は誰もいなかった。

 だが少女は確かに敵であり、(つわもの)であった。

「ここは行かせないのだなぁ? 行き止まりというやつなのだ~」

 その声が聞こえることはなかったが、羽虫を払うように無礼討ちにせよとでも指示が飛んだのであろう。一本の矢が少女に――張飛に飛来した。

 矢は甲高い音さえ立てず、不思議な挙動でポトリと地に落ちた。

 軍一番の力自慢でさえ満足に振り回せぬという馬鹿げた重さの丈八蛇矛。張飛はその先端で優しく矢を止めたのであった。暴れ狂う力が膨張し、しかし静かに全身を満たしていた。はち切れるほどに漲った力が不思議と調和をもたらしていた。フッフッフ、と張飛は笑いをこぼした。目の前に袁紹軍およそ五万。手には矛。口は一つに目は二つ。三つの心が火のようで、抗う我は張翼徳!

「フッフッフ……ハーハッハッハ! 今日の鈴々は機嫌がいいのだ、誰であろうと一撃であの世に送ってやるのだ! さぁ、先を急ぎたい者からこの蛇矛をくぐるのだ! 桃園三姉妹が末妹、燕人張飛ここに在り! さぁ、存分に喧嘩するのだ、とことんまで付き合ってもらうのだ!」

 張飛の大喝が山河に響き渡り、やがて静まった。

 その侮辱とも取れる言葉が全軍に染み渡った時、やがて袁紹兵の先鋒が怒涛のように押し寄せた。相手は一人、それに対して向けられた兵は百人は下るまい。

 百人? 張飛は笑い、そして飛んだ! 先鋒で駆け込んできた哀れな兵たちが、松葉を掃いたように飛び散った。

 百人ではあまりに少なすぎるだろうと、張飛は言葉にせずに哄笑で訴えた。

 怒号はやがてどよめきに変わり、やがて再びおずおずと百人あまりが繰り出され、そして全く同じように吹き飛ばされた。

 同じことがさらに二度繰り返された時、袁紹兵は己等が最悪の運の悪さに見舞われていることを自覚した。

 

 ――この日、中華は伝説を目撃する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『三国志演義』の一節に曰く。

 

 張飛環眼(かんがん)(まる)(みは)り、隠々(いんいん)として後軍の青羅の傘蓋(さんがい)旄鉞旌旗(ぼうえつせいき)の来たり至るを見て、()れ袁紹心に疑い、自ら来たり()るならんと(はか)り得たり。

 飛、(たちま)ち声を激しく大喝して曰く、

「我、(すなわ)ち燕人張翼徳なり。誰か敢えて一つ死戦を決せん」と。

 声、巨雷のごとし。袁軍(これ)を聞き、尽く皆、股栗(こりつ)す。

 

 

 今やこの場面を後世の創作と疑わない史家は、一人としていないだろう。

 しかし覚えておくがいい。事実は時に、物語を凌駕することがあるということを。


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