なぜこんなことになったのか――袁紹はそれをずっと考えていた。
袁紹はこれまであまり悩んだことはなかった。名家に生まれ、思うがままに育ち強くなった。人も集まり自然と自分がその中心にいた。何不自由などないはずだった――これまでは。
全てが狂ったのはいつからなのだろう。この冀州を得て、反董卓連合を組織したあたりからだろうか。経緯はわからない。過程には興味がない。袁紹にわかることは唯一つ。曹操、劉備、諸葛亮は自分を裏切り、張貘、田疇は死んだということだ。
微動だにせず、本営の胡床で頬杖をついて座したまま袁紹は考え続けた。袁紹の心をかつてない喪失が包んでいた。喪失は埋める必要があった。何で
――先鋒の軍勢、劉備軍の張飛ただ一人を退けられず二日遅滞を強いられる。
劉備と公孫賛の首級を袁紹は欲した。その命題は最優先であるということを全軍が知っているはず。だというのに張飛一人に遅れを取った、しかも二日。詳細を聞くと橋に陣取った張飛が大軍を前にして大喝、近づく者たちを造作もなく切り伏せ続けたとのこと。数百人で押し寄せても蹴散らされ、遠巻きで矢を射てもどこから持ってきたのか、担いだ巨岩で防いでしまったという。やがて腹が減ったと言い捨てると橋を完全に破壊し河に飛び込み泳いで消えてしまった、とのこと。
「責任者を処罰なさい」
袁紹は表情を変えることもなくそういった。
腸が煮えくり返る思いだったが、屈辱はここしばらく飲み干し続けているがために食傷気味だった。
だがそのとき食傷するほど平らげた屈辱が、より大きな次元の何かへと変わっていった。
天啓のように袁紹の脳裏に言葉が焼き付いた言葉――処罰。そう、処罰!
「張梁さんを呼びなさい!」
慌てて飛び出していく伝令。さほど待つこともなく黄巾軍を統べる三姉妹のうち、末妹の張梁が現れた。
「御用と伺いましたが」
「聞きたいことがあるのです」
いつもと違う袁紹の様子に張梁は訝しみながらも、対面に用意された胡床に座った。
「黄巾の教えですが、どうやって広められたのかしら? 貴方たち姉妹が歌って踊っただけではないのでしょう?」
袁紹の言葉に険を感じ取ったのか、少しムッとしながら張梁が答えた。
「……伝道をする者がいるのです。黄巾には『黄耳』と言う諜報部隊がいますが、彼らが主に動いていました。細かいことは田疇さんが指示していたのでわかりませんが……」
「その結果、黄巾の民はいまどれほど増えてらっしゃるの?」
「……冀州ではかなり増えているとのこと。幽州でも増えておりますが……数となると」
「およそで構いませんわ」
「黄巾軍と呼べるものは別にして、その御旗を信じるものは冀州だけでも十人に一人くらいにはなっているかと」
冀州の人口は戸籍に記されているだけでも六百万近くに達する。十人に一人となると六十万である。このまま増え続けるのであれば、あっという間に百万を超えるだろう。
「幽州を制したあとは南下します」
「南下、ですか」
南下する。袁紹は張梁と言葉をやり取りすることによって考えをまとめ、そして意志を明確にし始めた。
「そう、そしてこの世界全てを平らげる。その時黄巾軍は百万を揃えなさい」
「……は?」
「私はこの世を処罰する。この袁本初を裏切り、報いぬ世界など、いらない……!」
さぁ、と袁紹は張梁を追い立てた。ただちに劉虞の元へ行き、行動に移すようにと。時はない。袁紹の胸の喪失はただならぬのだ。世界の滅びと等しいくらいに痛み、空虚なのである。この苦しみの報いを世界は等しく受ければならないのは道理なのだ。
袁紹はこの世界全てを壊したくなった。自分を受け入れず、裏切り続ける世界は壊されてしかるべきなのだ。
民の全てを戦にかりだせばどうなるか、薄々袁紹にもわかっている。しかしそれは袁紹の願いの通りであり何も矛盾しない。
袁紹の決意がなれば、自らの体を持ち崩しながら全てを潰して押し流す山崩れ――岩石の波濤のようにこの大陸を地ならしされてしまうだろう。
全てが滅び乾ききった世界に一人立ったとき、袁紹はようやく罪悪感と苛立ちに泣けるはずだ、と思った。
それが楽しみで仕方ないのだ。
袁紹はさらなる火急の追撃を指示し、立ちふさがる何某かは全て殺すようにと命じた。
不謹慎だと思うが、呂布は旅を楽しんでいた。公孫賛や劉備たちは呂布にとっても仲間だ。彼女たちを助けるために必死であることは間違いない。
しかし、それでも楽しいものは仕方がない。
冬の始まりを予感させる冷たい朝。草原の霜づいた芝を蹴立てて野道を行く時、巻き上げられた土の匂いが呂布の胸をくすぐる。白く煙る吐いた息が鼻の下で雫になると、むずがゆくて呂布は笑い出しそうになる――何より、隣に李岳がいるのだから!
千の騎兵に諸葛亮を連れているとしても、李岳とともに旅をしていることに変わりはない。呂布はずっとこうしたかった。洛陽の周りをウロウロするだけでは物足りなかった。李岳と一緒に、朝から晩まで夜から逃げるように日を追うことがずっとやりたいことだったから。
――だから、それを邪魔する者たちに対して呂布は容赦をしなかった。
「前方敵兵五千」
斥候の報告に呂布は苛立ちを覚えながら李岳を見た。
「冬至」
「恋」
真名を呼びあうだけで、目が合うだけで何を考えているのかわかった。呂布の心に巣食った苛立ちがかき消え、憤怒よりも少しだけ清い激情が燃えた。その感情に最も近いものはおそらく闘志だろう。だがそれよりもなお熱く燃え盛り、一片の情け容赦もない想いが呂布の心を覆い包んでは焦がした。
一瞬棹立ちになると、赤兎馬が全速力に転じた。全軍から選り好んだ馬だけで構成したのが呂布の騎馬隊である。が、赤兎馬は一騎たりとも追随を許さなかった。いや、ただの一騎だけ――李岳のまたがる黒狐だけが付いてこれた。敵兵発見から衝突までのたったわずかの時間だけ、呂布は李岳と二人きりになれるのだ。
敵兵は袁紹軍の捜索部隊だろう。五倍の数だからといって全くなんの恐れもない。むしろ餌だった。
補給も輜重もない軍勢は、ただひたすら敵陣地か城塞を破って食料を得る他ない。その無頼ぶりは徹底的な殺生を除けば匈奴の略奪とほとんど変わらない。伝令さえ置き去りにする黒い騎馬隊は情報網の全てを凌駕した。公孫賛の敗退、袁紹の逆撃で混迷している幽州の情勢もまた李岳らに利するのだ。
すなわち、敵は後背から襲われるなど毛ほども想定していないのである。味方が応援に来たとでも思っているに違いない。
呂布はのんきな五千の敵兵が目前に近づいてくると、方天画戟を掴み掲げた。
強くなりたい。そう願って戦い、再び李岳と走ることが叶ったいま、強くあることは呂布にとって単なる価値観の域を超えて、存在意義にまで高められていた。それはただ殺す力が強い、というような血生臭く単純なものではなかった。動じない心。決心が揺るがないこと。それを含めて強くあること。
それが、呂布にとっての志だった。
志を持った呂布を止める手立ては、もはや誰にも持ち得なかった。
焚き火の前、木の枝で李岳は頬杖をついたままあれやこれやと思考を巡らせていた。
今日遭遇した敵兵五千の大半は初動の一当てで潰走を始めた。鬼神の如き呂布の暴れぶりに恐れを成して逃げ惑ったというのが事実である。追い散らした、という表現が最も適切だろう。無為な殺生に意味はない。物資を奪取するとその日は野営となった。既に冀州を抜け幽州に入った。主たる街道を外して走っているが、目指す先は同一なのだ、いずれ袁紹軍本体に接近するだろう。さすがに数万の規模相手に兵一千では何もできない。何ができるか、それを狙いすますしかない。
枝で地に図を書きながら李岳は言う。
「田疇の言う通り易京城にすでに手が回っているとしたら」
図に書いた易、という字に丸を付ける。
「白蓮殿は厳しい状況に立たされているだろう」
ともに焚き火を囲う相手は二人しかいない。呂布と諸葛亮。呂布はぼうっと焚き火に見とれている、聞いてなどいないだろう。
李岳の落書きに、諸葛亮が横から指を伸ばして線を書き足した。
「易京要塞に入れなかった場合、脱出する先はやはり北でしょう」
諸葛亮の細く小さな指が北への道筋を書く。
「本拠地である北平を目指すでしょうね」
李岳の暗い声に諸葛亮は小さく首を振った。
「ええ、この勢いでは北平も……」
「やはり手が回っている、と?」
「そう考えた方が良いでしょう」
本拠地に立てこもり時勢の変化を待つ――劣勢の軍が最後の拠り所とする企てをすでに潰されているとなれば、公孫賛に残された道筋はもはや一つしかない。
「幽州軍の維持は無理だな……単独で出奔することに賭ける、と諸葛亮殿はそうお考えなのですね」
「他に道がないのです。その可能性はありえます」
「劉備軍は」
「……わかりません。雛里ちゃんがいるから、きっとうまく誘導してくれると思いますけど……」
手元に情報がないのが何より痛い。追撃する袁紹軍の挙動や、打倒した捕虜から聞き出して何とか把握に努めるのが関の山なのだ。
「敵地で状況がよくわからないのは……なかなか困ったところですね」
「もう少し進めば見えてくるものもあるかと」
「本隊と衝突しますか」
「その時はもう桃香さまや白蓮さんたちは目と鼻の先のはずです」
「ご無事です、きっと」
田疇は死んだが彼が最後に放った策はまだ生きている。逃げる公孫賛を殺し幽州を根こそぎ奪う策である。そして黒山を同時に攻略するという壮大さだ。一挙に幽州を掌握する脅威の策略である。恐るべきは『太平要術の書』である。が、もはやこの世にはない。策は放たれたがその真意を知る者もほころびを手当てする者もいない。黒山の元へは既に伝令を放っている。間に合えば被害は防げる。公孫賛が易京で死なずに済んでいることも合わせれば、付け入る隙は大きくなっていると考えていいだろう。
不安そうな諸葛亮を励ますように李岳はいった。
「大丈夫です。もっと悲惨な状況ならたくさん味わってきました。まだましです」
「もっと悲惨な状況、ですか」
「そうそう。なんたって人質もいませんからね。条件が絞れてて気は楽です」
「……はわわ」
笑いを取ろうとしたつもりがまずかったらしい、李岳は空元気のように笑い声を上げたが、呂布がじろりと睨んできたのでやめた。少女をいたわり励ますのは得意ではない。
他になにか話題はないものか、と李岳は頭をひねった。鳳統とは信頼を構築できた。諸葛亮とそうなれないとは思えない。本質的に李岳にとって諸葛亮は是が非でも仲間にすべき相手だった。
さて軍略の話でも、と口を開きかけた時、諸葛亮が先に言葉を発した。
「陳留王殿下が……反董卓連合軍に陳留王殿下がいらっしゃった時……私は、本意ではあられないことを承知していました……」
「謝罪は不要です。争いだったのですから」
「で、で、ですけど……殿下が毒を召されることも、わ、私は気づいてて……」
「金鳳花ですね」
諸葛亮がうなだれるように頷いた。
陳留王劉協が脱出を目論む際、服毒したことは聞き及んでいる。
そして諸葛亮はおそらく気づいていただろうということも、李岳は聞いていた。
「殿下は気にしておいでません」
「わ、私が……もっと」
「まぁいいではないですか」
そうとしか言いようがなかった。誰に何ができたわけではないのだから。
「まぁいいのです。全ては……全ては謀略でした。ここに来る道すがら、ご説明した通りです」
「……太平要術の書」
「はい。そして田疇。諸葛亮殿が気に病むことはないのです」
「せ、戦争が」
喉につっかえた物をようよう吐き出すように、諸葛亮は言葉を絞り出した。
「わ、私は……り、李岳さんが戦争を誘発したと……反董卓連合軍をあえて組織させたと思って」
「おっしゃる通りです。誘発しました。どうせ来るだろうと思ってたので、用意し、待ち構えました」
「私は、それが、それが! でも! でも……戦争を手段にすることは間違っています!」
李岳はただ頷いた。
「……私はそう思ってましたし、思ってます!」
「正しいことです」
李岳はそれぞれの手が支えを求めるように組み合わされた、震える諸葛亮の手を見た。
智は、時に残酷だ。聡き者は世の浅ましさを見抜き、憂い、悲しみ離れる。例えば三国演義で描かれた諸葛亮が草蘆に起居して晴耕雨読に隠したように、李岳と出会う前の司馬懿が窓際でただ雨を数えていたように。
しかし眼前の少女は知った上で戦いに身を投じた。弱き者のために立ち上がった劉備を支えるために。
諸葛亮はきっと詫びたいのだと思う。けれどそれは違うのだと理解してもいる。どうすればいいのかわからないが、彼女を形作る誠実さが、いま李岳の前に立たせて震わせているのだ。
李岳はちょいちょい、と手を振って呂布の注意を引いてから言った。
「馬ってね、諸葛亮殿」
「え」
「馬って、すごくあったかいんですよ。寝てる時は特に。知ってます? まぁ厩舎で寝たことなどありはしませんよね。でもほんとなんですよ、なぁ恋」
「寝れる」
とてもよく、呂布は首を激しく上下させた。ぴょこんと突き出たくせ毛が激しく暴れる。
「ご存知でした?」
「え、あの……いいえ」
「それはもったいない。なぁ恋」
「味わうべき」
「えっ? あっ、きゃっ! はわわ!」
呂布は諸葛亮をがばりと抱えあげると、そのまま馬たちの方に歩いていった。呂布を見つけると馬たちは一斉に駆け寄ってきて途端に渋滞した。いきなり敷き詰められた馬の布団にボヨンボヨンと転がされて、諸葛亮はとまどいながらも、しかしやがてクスクスと笑い始めた。年相応の少女の姿であった。
呂布と諸葛亮の二人を見ながら李岳は思う。人は間違う。田疇と交わした言葉を反芻する。星を見る。星もまた李岳を見る。剣を取って人を斬る者が完全に正しいわけなどない。間違いだと指弾されて否定してはいけないのだ、と思う。間違っている。それでも進む。背負って行く覚悟があるからこそ、剣を取ることが許されるのだと思うから。天空の星の高みから、人の営みを断じることは許されない。地を這うように生きる者たちは、星に憧れながらも一歩一歩を確かめていくことしかできない。
だからたとえどれだけ間違っていると思われようが、世界に罵られようが――公孫賛を救うと決めた。歴史では彼女はここで死ぬ。それを指をくわえて見ていることなどできない。公孫賛はいい人だ、ここで死んでほしくない。それ以外の理由を探す意味はない。
いつからか感じていた背後に感じる視線。それに決して目を向けないようにしながら、李岳はもうしばらく火の番を続けた。
――北平。
公孫賛は慣れ親しんだ街が見えた時、わざわざ数えた。
二人。
出立時にはあれだけの仲間がいた軍はもはや跡形もなく、全てを失い公孫賛は戻ってきた。美しい白馬の軍勢も、小うるさい侍従も、幼馴染の同盟軍も――全てを失った。
「けれど私がいる」
趙雲が心を読んだように呟いた。
「そして貴女もいる」
「まぁな」
「やり直そう」
うん、と頷いた。力なく頷いたと思うが、趙雲にはそれだけで十分だったらしい。ヒュンと槍を回すと愛馬の白竜を駆けさせた。それを追いかけて公孫賛も行く。命からがら逃げてきた道程の果てにたどり着いた故郷はみるみる近づいてきた。公孫賛の胸が高鳴る。不用意な期待と惨めな確信のために。
一点を除いて公孫賛が出立した時と何も変わらない南門の前にたどり着くと、公孫賛は号令した。
「私だ、公孫賛だ! この街に帰ってきた! 開門してくれ!」
自分の声が歓声を受けて応えられていた光景は夢だったのか。そう思わせるほど、公孫賛の声に答える者はいない。
「公孫賛だ! 開けてくれ……帰ってきたんだ!」
だが何度声を張り上げても門は開かなかった。いくら待っても微動だにしなかった。沈黙は雄弁よりなお強く公孫賛に意志を伝えた。
北平は既に貴方のものではないのだ、と。
公孫賛の隣、趙雲はただ馬上で黙っていることしかできなかった。どう慰めればいいのだろう。慰められるはずがない。治めた土地が、故郷が、自らを拒んだ。いま公孫賛は本当の意味で全てを失ったのだ。だが――再びおもてを上げた公孫賛は、泣きたいくせに歯を食いしばって強張った笑みを浮かべていた。
振り返り、乙女は叫ぶ。
「街を、しばし預ける!」
答えはない。しんと静まり帰った北平の街。しかし、やはり沈黙は雄弁よりなお語る。街は公孫賛の言葉に耳をそばだてている。
「私は負けた、だから去るけれど……必ず戻ってくるから、絶対にみんなの元に帰ってくるから!」
夕日を背負った公孫賛。長く伸びた影が口惜しげに北平の城門をなで続けているように趙雲には見えた。
「だから約束してくれ! 寒い冬、痩せた土地にめげずに生きよ! 撒いた種は必ず芽吹き、子は育ち、実りは訪れる! この公孫賛が彼方で悔しがるくらいに、目一杯豊かになってくれ……そして再び戻った時、おいどうだと自慢してくれ!」
おい、どうだ! 公孫賛は繰り返した。どうだ、すごいだろう! 幽州はすごいだろう! 北平の街は、こんなにも立派だろう!
失陥の果てに故里を追われるというのに未だ我々を思い慈しんでくれる……公孫賛の声を聞いた民たちはひざまずき、滂沱の涙に濡れた。
不器用で愛しい姫将軍。誰もが一度はおてんばなその姿を街角で見ただろう。彼女と、彼女に付き従う美しく揃えられた白馬の兵隊は街の誇りだった。彼女は街と民を守ろうとした。ただ街が彼女を裏切ったのだ。それでも公孫賛は哀れに思い、幸せを祈ってくれている!
公孫賛もまた肩を震わせていた。あまりにも容易く思い出が溢れ、こらえる間もなく一滴の涙が流れた。目に映る夕焼けは穏やかな朱色で、指でそっと伸ばしたような雲も美しい。この全てが自分のものだった。自分の街、自分の空、自分の国だった。それら全てを失った。力不足を悔やむと同時に、失ったものの素晴らしさに改めて気づき、誇りを感じてもいた。
馬上からは全てが一段高く見える。のぞむ街は綺麗だった。馬上から見る美しい北の町並みの見事なこと……公孫賛はこの景色が大好きだったのに。
「さらば、北平のみんな! 達者でな!」
公孫賛は手を上げ去った。これ以上の涙を見せまいと背を向け急いだ。故郷を失い、帰還叶わぬかもしれぬ旅路へと出立せざるを得ない不遇。だがそれ以上に取り残された民たちが哀れであった……同時に民の強さを信じてもいる。
「幽州の人間は、簡単にへこたれたりしないさ」
趙雲ではなく、自分に言い聞かせる声だった。
公孫賛は胸を張り、生きるために再び走り始めた。むせび泣く馬上、隣を走る趙雲とただ二人。壮絶な逃避行は未だ終わりが見えない。しかし諦めはすまい。自分もまた幽州の人間である、故郷を失おうとも未来永劫それは変わらないのだから。
袁紹の進駐を許し、公孫賛は幽州全域の支配権を完全に失った。だが民草は一人一人に至るまで彼女の声を子々孫々聞き届けることになる。
北平の人々は生きた。種を撒き、耕し、わずかな実りを分け合い、連綿と営みを紡いで繰り返される幸福と苦難の時を生きた。数多の飢饉、動乱、天変地異にもめげることなく……公孫賛の言葉はいつしか風化し、砂塵にさらわれ人々から忘れられたが、記憶よりもなお深い心の奥底にその想いは生き続けた。
やがて北平は世界に冠たる大都市の一つとして富み栄えていく。それはまるで街と人々が、公孫賛との約束を決して忘れていないということを、遠い過去と天下に示しているかのようだった。
公孫賛が愛した北平の街。
千を超えて幾星霜、悠久の誓いの果て――人は街を北京と呼ぶ。
この話の最後のあたりは、何年も温めていた場面です。
たどり着けてよかったです。
この章もそろそろクライマックスです。冀州戦役の結末をお待ち下さい。