真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百三十六話 敗れざる者たち(後編)

 どうやら偵察を走らせて情報を取りに行ってるらしい、ということくらいは呂布にもわかる。

 しかし二日は長かった。平静を装っている李岳を見ているだけで呂布の心は沈んだ。無闇に駆ける方がまだ心が軽くなる。

 

 ――二日の間、呂布は李岳とよく話をした。

 

 李岳は呂布の他愛ない言葉にも付き合ってくれたが、呂布はずっと怖かった。李岳は平静を装っていた。こういう時の李岳が呂布は一番怖い。李岳は怒っているのだ。とても強く怒っている。敵がいるのならばいい。李岳は全力で戦うだろう。その前に自分が飛び込み叩き潰せばいい。

 しかし今回は違う、ということに呂布は気づいていた。李岳は怒っている。ただしそれは己に対しての怒りだった。

 李岳は何度も言った。公孫賛と趙雲を助けなければ、と。呂布もそう思う。助けたいと本心から思っていたが、その気持ちは違う意味を含んでより強くなった。

 もし二人を助けることが出来なければ、怒りと悲しみで李岳が壊れてしまうのではないかと呂布には思えた。

 それが何より怖いのだった。

 

 

 

 

 

 

 

「偵察が戻ってきました」

 諸葛亮が言う。黒狐の世話をしていた李岳は弾けたように駆け寄った。

 二日での偵察で得られる情報など通常なら期待できそうもない。諸葛亮の的確な指示と運気に恵まれていなければ成し得なかったと思う。呂布は李岳と同じように息を飲んで報告を待った。

「まず白蓮さんですが、易京から離脱後やはり北平に向かったようです。軍は解散し、多くが袁紹軍に投降したとのこと。付き従ったのは星さんだけのようです。そして……北平では住民から受け入れられず西に逃げられたと」

「……北平の門は開かなかったんだな?」

「はい、重畳です」

 公孫賛は故郷の北平から拒まれた。それがなぜ良かったのか? ほっとした表情の李岳と諸葛亮が呂布には理解ができなかった。

「北平にまともな兵は残っていない。内部には袁紹の手の者も潜んでいるだろう……寡兵で防城するよりは逃げた方が生きる望みがあるんだ」

 その説明で呂布もまた得心した。李岳はいつも呂布にもわかりやすく説明してくれる。

「しかし西、か……ということは幽州を脱して并州に逃げるつもりだな」

「袁紹軍の包囲を抜け出せたのならば、ですけど……厳しい逃避行になります。それに星さんとたった二人ですから……」

「だから望みはある、と俺は思う」

「そうですね、下手に兵がいて目立つよりも落ち延びる可能性は高いかも知れません」

 李岳が地図に指を伸ばす。

「袁紹は田疇の最後の策に従って黒山に攻略軍を派遣しているはずだ。どこかでかち合うな……」

「その動きを予測して、先回りするしかありません……」

「……劉備軍の動向は?」

「袁紹軍の侵攻を受け止めながら逃亡を続けているようです。鈴々さんが単騎で敵兵を止めたとも、愛紗さんが封鎖された関所を何か所も撃ち破ったとも……捕らえられたという情報はありません。健在なのは間違いないと思います。聞いた限りでは、多分幽州に残るつもりではないでしょうか……」

 怯えを見せる諸葛亮に、李岳は楽観極まる声で言った。

「心配ないでしょう。この場合の劉備軍は最強です」

 不思議そうな顔の諸葛亮に李岳は困ったように首を振る。李岳はいつも説明をしてくれる。ただし、時折こうして漠然とした確信をつぶやく時がある。李岳はその時、遠い目をして今のように首を振り、どこかはぐらかしたように語る。ただしこういう時の李岳の言葉が外れたことを呂布はかつて見たことがない。

「寡兵で、逃げながら戦う劉備軍……説明は難しいけれど、一番厄介な勢力だと思う。袁紹に、今の彼女たちを仕留められるとは思えない」

 説明になってはいないけれど納得させる力のある言葉だった。固く強張っていた諸葛亮の表情も不思議とやわらいでいくのが呂布にもわかった。李岳の言葉には人を得心させる奇妙な力があるのだ。

「とはいえご心配なのは変わりないでしょう。我々の道はここで分かたれたと見るべきですね」

「……そうですね」

 諸葛亮は劉備の元へ戻るのだろうということくらい、呂布にはわかる。どこで手に入れたのか黄色い布を手にしている。李岳たちと行動をともにするよりも確実に移動できるだろう。

 李岳が兵の招集を命じたので呂布は麾下に指示を出し始めた。二日の休みなど訓練でもあったかどうか。その分これからの強行軍の厳しさを兵も覚悟している。呂布の声に従って機敏に動き始めた兵と馬たち。その最中、呂布が盗み見るように李岳と諸葛亮の方を振り向いた。

 そこには涙をこぼしながら頭を下げる諸葛亮と、ただ優しく見守る李岳の姿があった。

「何を話した?」

 二人きりになった時、呂布は聞いた。

「謝られた。誤解があったと。そしてありがとう、と」

「そう」

「すごいよな……あんなに小さな背中で……」

 去り行く小さな背中を見送りながら李岳は言う。

「もう仲間」

 呂布は劉備たちとも行動を共にした。動物以外に心を許せた初めての人間が李岳なら、李岳以外に初めて心を許せた陣営が劉備と公孫賛たちだった。皆が皆、変わり者でおっちょこちょいでとんちんかんだと思う。けれど強く逞しく、呂布にも色々なことを教えてくれた。

「さあ、俺たちも行こう。きっとどこかで助けが遅いと愚痴を言ってるはずだから」

 李岳と呂布の後に一千騎が続く。諸葛亮が去り、その速度はさらに上がった。

 幽州を切り裂くように西へ抜く。袁紹軍の兵はいたる所に現れたが、追随できる兵は全くいなかった。砦も陣地も全て無視して李岳はひた駆けた。必要以外の休息は寸暇もなく、時折情報を持っていそうな兵団を撃ち破る以外は走るだけに徹した。袁紹軍は緊密に連携を取っており、その目的は西に逃げた公孫賛を追うということで一貫していた。

 そうして数日が経った頃、奇妙な動きを見せる袁紹軍を見つけた。

 兵たちがただ一頭の馬を引き立てようとしているのだ。馬はひどく暴れ兵たちは手を焼いていた。遠目でもわかる白馬であった。白馬は嫌がり暴れ、苦しそうにいななきながら首を振っている。

 その白さが李岳の脳を焼いた。気付いた時には走り出していた。黒狐の馬体ごと敵兵にのしかかる。飛び降りた時に一人、返す刀で二人、三人目は遅れて踏み込んできた呂布が叩き潰しており、残りは手当たり次第に斬り捨てた。

 敵兵を蹴散らすと、李岳は弾けるように白馬に駆け寄った。

「白龍! 星の白龍だな!」

 そう声を駆けた瞬間、白馬はいななきを上げて李岳の腕に噛み付いた。慌てて飛び出そうとする兵を手で制する。本気で噛んではいない、力任せにどこかへ引っ張ろうとしているだけだ。

 呂布が駆け寄りその首を抱くと、白馬は静かに口を離して何やらささやき始めた。

「恋、どうだ」

「この仔は白龍」

 李岳の背に稲妻が走ったようだった。

「白龍! 二人は近くにいるんだな!」

「白蓮が怪我をした。白蓮の乗ってた馬は死んだ。二人は敵から逃げて山に入っていった。自分は追ってくる敵の囮になってここまで来た……星は悲しませたくない。守りたい。そういってる」

 痛ましく涙を流す白龍に共感し、恋もまた泣いていた。頬を何度も叩き労をねぎらう。

 李岳はその大きな瞳に食い入るように近づくと訴えた。

「白龍……俺は君の主人達を助けるために来た。俺たちを案内してくれ」

 白馬は――白龍は応えた。一声大きくいななき、棹立ちになると駆け始めた。

 この期に及んで疑う気も起きなかった。李岳は黒狐にまたがると疾駆する白龍を追った。その勢いは凄まじいの一語、背に誰も負うておらぬとはいえ黒狐や赤兎馬でさえ追随が危ぶまれるほどだった。何騎も離脱していったが李岳は後に続くことを許してただ先を急いだ。昼も夜もない。時折倒れるように休む白龍に付き合う以外はただ駆け通した。

 そうして何日が経ったか、李岳と呂布に付き従う兵は半数にまで減っていた。白龍の馬体はげっそり痩せ落ちてしまったように見えたが躊躇う素振りは見せない。にわかに降り始めた体の芯まで冷やすような雨を突き破るようにして駆け抜けた後、とうとう李岳は前方に人影を見た。

「星! 白蓮殿!」

 間違いない。間違いなかったが、怪我をしているのか趙雲が公孫賛を背負っていた。二人が極限にまで消耗していることは傍目ではっきりわかるほどだった。

 李岳が駆け寄ったがもはや意識がないのか、李岳だと認識できずに趙雲は凄まじい殺気を放って立ちはだかった。

「……て、やる」

 何やらブツブツと呟きながら槍を構える。頬はこけ、唇は裂け、目は息を飲む程に赤く染まっていた。しかし立ち昇る闘気は本物だった。龍である。手負いの龍は守るべき者を守りきり、ここまで歩き通したのだ。

「……白蓮は、わ、私が……ま、もる……のだ……」

 眼前に立ちはだかる敵を倒そうと、趙雲はもがくように身をよじっている。その気高さを除き、趙子竜の力強さはどこにも残っていない。ゆっくりと突き出された槍を握り、李岳はその体を抱いた。

「もういい、もういいんだ星! 君は、やりきったんだ!」

 李岳の声が聞こえたのかどうかはわからない。趙雲はふっと息を吐くと全身の力を失った。慌てて抱きとめた李岳はその軽さに驚愕する。命を形作る何もかもを吐き出して、趙雲は公孫賛を守ろうとしたのだ。

 しかし命に別状はないように思える。李岳は趙雲をそっと横たわらせると、背に負われていた公孫賛の元に駆け寄りその体を抱え――息を呑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 冷たさと温かさが交互に訪れた。凍てつくような――そう、厳冬の幽州のような――冷たさが全身を覆ったと思えば、目もくらむような光と共に激しい熱が全身を巡った。

 行きつ戻りつする冷熱の往来は、やがてさらに強い光にかき消され――公孫賛は目を覚ました。

「こ、こは」

 不思議な感じがした。長い旅をしていたことだけは覚えているというのに、その間のことは何も思い出せない。

 けれど公孫賛は深く得心する――ここは旅路の終着点なのだ、と。

 それを祝福して、いるはずのない男が目の前にいるのだろう。

「……白蓮殿!」

「やぁ」

「ご無事ですか、私です! わかりますか!」

 公孫賛は虚ろな瞳で天を見上げた。何かを呟くが声が小さすぎて聞こえない。口元まで耳を寄せて、李岳は初めて聞き取ることが出来た。

「ああ、わかる……馬を、運んできてくれたのでしょう?」

 李岳は束の間呼吸さえ忘れた。

「白蓮殿……」

「白馬を揃えて……北平に帰らないと……約束したんだ、必ず帰るって……」

「……何度でも運んできますよ。貴女は、上客ですからね」

「程緒にもさ、いい仕事しろって、あいつ死に際だってのに、まだ仕事しろって……」

「そうです、そうですとも……! 仕事を成し遂げないと、程緒殿に怒られちゃいますよ!」

 その時公孫賛が初めて李岳の方を向いた。そして不思議そうに首をかしげる。

「そんなに泣いてちゃ示しがつかないぞ……冬至」

 耐えきれず、むせび泣く李岳の頬に手を添えて、公孫賛は笑った。まるで力が戻ったかのようだった。

 その頬には緩やかに血色が戻り始め、呼気は確かに命ある者の息吹を伝えているように見える。

 しかし既に流れ出てしまった命の量は取り返しがつかないほどで、その体温が戻ることはあまりに難しい。

 李岳だけではなく、呂布もそれに気づいていた。呂布はその未来を恐れ、力任せに李岳にしがみつく。腕の力は信じられないくらい弱く、かすかに震えていた。李岳にとってはそれが少し疎ましく、泣きたくなるほどありがたかった。

 涙を拭って李岳は微笑んだ。そうですね、と。公孫賛も穏やかに微笑む。

「戻って……来たのか……田疇を倒して……」

「ええ。ええ! 田疇は倒しました。貴方は星が運んできたのです! 助かったんですよ!」

「星は……」

「無事です!」

 公孫賛が自慢するように小さく笑った。

 趙雲の無事を疑ってもいない仕草だった。

「冬至に会えて……よかった」

 昔話など聞きたくない。李岳は首を振りたかったが、精一杯言葉を紡ごうとする公孫賛を遮ることなどできるはずもない。

「お前に会えたから、戦えた。桃香と同じような夢を持てた。私はあいつと肩を並べられた……お前の言葉は私の人生を変えてくれた。でなきゃ私はとっくにわけもわからず死んでたと思う。でも今は違う。私は……私は……!」

 公孫賛の体が一度大きくはね、そして細かい痙攣が起きた。李岳は慌てて公孫賛の手をにぎる。その小さな震えの全てが李岳の手に伝わる。つややかな血色は苦しげに呻く中で急速に失われ、手の温もりもどんどん冷えていった。

 それでも公孫賛は言う。 

「た、たたかったんだ」

 そのことを確かめたいのだと、公孫賛は繰り返した。

「私は、戦ったよな? 星と一緒に、戦えたよな?」

 李岳は訪れようとしている事態が信じられなくて、握りしめている公孫賛の手に闇雲に力をこめた。

「ああ、もちろん! 貴方たちは立派に」

「風が」

「え?」

「風が吹いたんだ」

 公孫賛の言葉は意味を結ぶ前に飛ぶ。それは伝えるべき言葉を断片だけでも急ぎ投げつけるようだった。

 どうしてそんなにも急がなくてはならないのか。

「冬至に初めて会った時、楼班の仇討のあとで私に言ったよな? 飛躍できるって。たった一郡の太守でしかない、ただただ普通の私に、大望を持てって。大きく羽ばたける、って」

「ええ、言いました。懐かしいですね」

「あの時、私の中で風が吹いた。その風は……私に道を示して、疑いを払ってくれたんだ……」

「風、ですか」

「それは……とても爽やかな……温かくて……」

 握っている公孫賛の手に、一瞬だけ強い力がこもり、そして緩やかにほどけていく。

 公孫賛と過ごすほんの束の間の最後の時間、それが終わろうとしていた。

 終焉はあまりにも唐突で、取り返しがつかなくて、李岳は叫び声を上げたくなった。話すべきことがあるはずだった、聞くべきことがあるはずだった。嘘だと嘆き悲しむ時間など彼女に対する冒涜だ、いま一番大切な言葉は一体何だ、何を話すべきか!

 

 ――後ろにいる呂布が、李岳に回している腕にほんの少しだけ力を入れた。あまりにかすかで優しい力強さが、かけるべき最後の言葉を思い起こさせてくれた。

 

 李岳は両手で公孫賛の手を包みながら聞いた。

「その風は、まだ吹いていますか?」

 李岳は微笑み、そう聞き返すことが出来た。

 だからだろう、体の震えは治まりその表情に公孫賛らしさが戻った。

 ふふっ、と公孫賛はくすぐったそうに笑い返す。

「うん。とても気持ちのいいやつが、さ――」

 公孫賛は息をすっと吸い込んで、その味を楽しんでいるかのように穏やかな表情を浮かべた……

 李岳はもう問いかけることはしなかった。ただ呂布の腕に力任せにしがみついた。呂布は震えながらも、李岳の後ろで優しくあり続けようとしている。

 風は吹いた。そして公孫賛を羽ばたかせた。彼女は飛翔した。遠く、高く――

 李岳がいくら翔んでも、手の届かないところまで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 一刻が経った頃、趙雲が目を覚ました。

 手元に置かれていた水を飲み、息を吐くと不思議に力が戻ってきたように思える。

 少し離れたところに、ずっとそうしていたであろう李岳と呂布がいる。趙雲には全てが理解できた。李岳もまた説明などしなかった。李岳が立ち上がり趙雲に席を譲った。腰を下ろすと、目の前に親友がいた。横になったまま、かすかに微笑んでいる。

「謝りたいことが」

「やめておけ。くだらないことだ」

 趙雲は李岳を見ないまま続けた。

「冬至、お前は最善を尽くした。お前が白蓮を利用して田疇を斬らなければ、この世界は終わっていた。お前はすべきことをしたのだ」

「しかし、そのせいで白蓮殿が!」

「それは私が弱かったからだ!」

 血を吐きそうなかすれた声で、趙雲は叫んだ。

「私が弱かったからこんな有様になった。なのに、私が生き延びた? 逆ではないか……私が白蓮を守るはずだった。約束したんだ……! 見ろ、この体を……なぜ、傷一つないんだ? だというのになぜ白蓮の体には矢が……!」

 苦しそうに呻く趙雲だが、やがてハッとして落ち着きを取り戻した。

「すまん。みっともないところを見せたな」

 その言葉に李岳は答えなかった。趙雲の言葉が誰に向けられたものか、考えるまでもなかった。

 静かな時が過ぎた。趙雲は公孫賛の手をいたわるように撫で続けている。人生を駆け抜けた彼女を慰めるように。

「私は強くなったはずだった。守れたはずだった……そのために強くなったというのに、蓋を開けてみれば守られたのは私だ。本当に守りたい人をようやく見つけられたのに……私は弱いままだったのだ」

 呂布が大きな声を出して趙雲の嘆きを遮った。

「違う! ふ、二人は……つ、強かった!」

 泣きじゃくりながら呂布はなんとか言葉を続けようとしたが、喉からは嗚咽以外何も出てこなかった。

 呂布は大切な人さえ守れない己が恨めしくて仕方なかった。その何倍も自分を責めている趙雲が悲しかった。

「……そうだな。そんなことも忘れてしまっては怒られてしまうな。なぁ、そうだろ?」

 呟きながら公孫賛の赤い前髪をさらりと撫でた。くすぐったがって嫌がられることはもう二度とない。

 ふざけるな、いつも私を茶化しやがって、子供扱いするな――そう言われることがないのを良いことに、趙雲は公孫賛の髪をなで、鼻をつまみ、頬をつつく。怒り出して目を覚ませばいいのに、と思って。けれど公孫賛はもう決して怒り出すことはなかった。だからおしおきが必要だった。趙雲はうつむき、公孫賛に覆いかぶさるとその額に口づけをした。反撃がないのであればからかっても面白くはない。ならばただ慈しみ、愛してやるしかない。

 はぁ、と真っ白に染まる息を吐いて趙雲は呟いた。

「死に損なった者たちにできることはただ一つしかないんだろうな」

「それは」

「引き継ぐこと」

「引き継ぐ、何を?」

「夢」

 死者はもう寄り添わない。

 生きて帰るたび、戦士は孤独を深めその影を色濃くしていく。

 歩み続けるには光が必要で、それは天に去った者たちの軌跡以外にない。

 

 ――歴史を守るために田疇を討った。その代償が歴史通りの公孫賛の死として(あがな)われたのかもしれない。自分が殺したのだ、という拭い難い気持ちが強く李岳を責めた。

 

 だからこそ俯き立ち止まることは許されない。

 ここに魂があるのなら。継ぐべき夢があるのなら。

「……私には志などなかったのです。私には何もなかった。白蓮殿のような、あるいは田疇のような志はなかった。私はただひたすら今日しか見ていなかった……いや、過去を見ていた。過去を変えさせないがために、未来を諦めさせた。そんな私が今さら夢を見ようなどと、志を持とうなどと。皮肉ですね」

 複雑な比喩を理解できなかった、として趙雲はその言葉を深くは考えなかった。ただ李岳の切実な響きに打たれていた。夢、志という言葉だけが反響する。

「そんな私ごときにも生まれました。志なるものが。そして引き継ごうと思います。田疇の描いた夢、白蓮殿の描いた夢……みんなの夢。それがなぜか私の中にある気がして」

「敵の志もか。だが、わかる気もする。倒した相手の何かが自分の中に入ってくる感覚、私にもある」

 この男の持った夢は、己よりもなお重く遠いものだろう。この男のために死に行く者は決して数えきれない。戯れに指を折ってみる気にすらならない。

「この先辛くなるな」

「もう辛いのに?」

「ああ。夢は見ているときはいい。ふと後ろを振り向いた時の重ささえなければな」

 趙雲は天を仰いだ。夏に始まった戦がもう冬だ。天空の星も趣きを変えている。だからといってあんなに高く北斗を掲げなくても良いだろうに、と思う。

「お前はこれから死者の夢を背負う。千年の夢を。万民の夢を。死者はずっとお前の生き様を見ていることになる。もう休むことも、立ち止まることも出来ない」

「覚悟の上です」

「お前が救われるには」

 そこまで言って趙雲は言葉を飲み込んだ。

 趙雲はぼんやりとだが直感していた。自らのことさえ顧みず、他者や夢のためにあがき続ける男を救う者は、本当の意味で彼を理解し、全てを奪う者だろう。成功も栄誉も、地位も所属も、仲間さえ奪われて初めてこの男は救われる。そんなことが果たして出来る者がいるのか。いたとしたら、心の底から憎んでいて、なお深く愛している者に違いない。

「今さら救われようなどと、私は思いません」

 趙雲の言葉が言い切られなかったことを、彼なりに解釈したのだろう。李岳は寂しげに微笑んだ。後ろにいる呂布が苦しそうに顔をそむけていることに男は気づかない。

 この男もまた傷つき倒れていく気がした。あるいは男はそれを望んでいる節さえある。呂布はそれを恐れているのだ。

 もう二度と仲間を失いはすまい、と趙雲は未だふらつく体に精一杯の力を込めて言った。それに果たされるべき約束もある。

「李信達。この趙子龍を使ってくれ。この槍、貴様を物足りなくさせることはないだろう」

「……わかった」

「ただし一つ条件がある。冀州との戦では必ず私を一番槍とすることだ。私はこの手で冀州を討ち、幽州を取り戻す。白蓮殿の愛した北平の街を、必ずこの手で取り戻す。そして全土で私を使え。この中華のどんな戦乱にも私を送り込め。白蓮殿の志……それは北方四州を収めた後は、天下泰平のために全土を駆け回ることだったから」

 親友を決して嘘つきにはしない。亡き友のため、趙雲は駆け続けると心に誓った。

 趙雲は思う。本当に孤独になるのは死者ではなく生き延びた方だ。だから抗い走り続けなければならない。

 夢を追う限り、友はかたわらにいるから。想い出を不滅にするべく人は戦う。

 

 ――龍は天空を泳ぎ星を目指す。遥か高みに過ぎ去った友の残影を追い続けて。

 

 それでも一つでも多くの面影を欲するのは龍になりきれぬ人の(さが)か、と趙雲は自嘲した。

 やはり自分は弱い。公孫賛の声をこんなにも聞きたがっている。

「冬至。白蓮は、最期になんと言っていた?」

 李岳は一語一句を反芻しながら答えた。

「星と一緒に戦えた、と」

 途端、不意をうったように趙雲の胸の中で感情の波が高ぶり始めた。

 感情の波を押さえつけたいと思う。同時に思う存分飲まれたいとも思う。

 こんなにも心を揺さぶる人には、もう二度と出会えないだろう。

「あとは、なんと?」

「私と初めて会った時、風が吹いたと。とても気持ちのいい風だったと」

「気持ちいいからって、自分まで風のように去ってどうする。全くおっちょこちょいな」

「そしてその風は……最期まで吹いていたと」

 李岳は手を伸ばし、趙雲の袖を掴んでいた。その手が震えていることに趙雲は気付いた。

「私は恥ずかしいことに……その言葉に救われたような気がする。その言葉がなければ、私はどうにかなっていたかもしれない……」

「自分を許すことは、出来ないからな」

「ええ」

「死んではならない者ばかり死んでいく」

「星」

「冬至、泣いてみるか? 手向けにはなるだろう」

「君は、さっきからずっと泣いてるじゃないか」

「――そうか」

 波などない。既に悲しみの海に沈んでいた。

 ならば涙ごとき、せめて溺れる程に流れれば良い。全てを洗い流してしまえ。そうすれば残されるものは天空の輝きだけだから。

「未熟だな、私は。まぁなんだ。肩でも胸でも貸してみたらどうだ?」

 李岳の肩にもたれながら、号泣することなく、打ち震えることもなく静かに涙を流し続けた。

 李岳も泣いた。それは敗者の涙だった。自らに涙を禁じた意味などどこにもなかった。自分に対する戒めさえ満足に守れやしない者が、どうして不敗を誓ったのか。それでも何度でも誓う。二度と負けない。倒れ伏していった人々のために。

 呂布も寄り添った。戦う意味を教えてくれたのが公孫賛だった。自分を救ってくれた人がもういない。その喪失感の大きさは、支えがなければ立っていられなくなるほどだった。

 穏やかに波打つ三つの鼓動が、合わさったり、打ち消しあったりするたびに、亡き友の思い出が一つずつ交感される。

「いい仕事をせよ、か」

「それは」

「聞いたか? 程緒殿の最後の言葉だ。その言葉に従って、白蓮殿は私をかばった」

「恋が、もっと強くなる。みんなを守る」

「そうだな。本当に――なぁ、なぁ冬至、恋? 何も言わずに、あとで一杯付き合ってくれるか? 一杯だけで良いんだ、飲み干す必要はない……ただほんの一杯、飲むべきだったはずの酒を、一緒に……!」

 胸は去りゆく人々の言葉で刻まれ続けていく。

 人は心で血を流す。

 残された傷痕こそが絆の証なのだという錯誤を抱えていくために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――六十余年後、北平。朝焼けに染まる城門から姿を現したのは陳寿であった。

 

 幽州を巡った旅ももう区切りが付いた。北平を去る時が来たのだ。陳寿は感慨深げに街を振り返った。

 数十年前、公孫賛はこの街に拒まれもう二度と帰ってはこれなかった。

 それでもこの地で彼女について話す人、話す人、誰一人として悪し様に言う人はいなかった。あるいは悔しげに、あるいは申し訳なさそうに、あるいは誇らしげに、あるいは万感を胸に抱いて話した。街の中心に建つ馬上の公孫賛の像。そしてこの街では誰もが競って白馬を買い求めようとする。

 公孫賛は袁紹を倒すべく冀州になだれこみ、そして敗れた。戻る土地を失い、逃避行の末に死んだ。

 文字にすればこれまでだ。そして陳寿もそれだけを書こうと思う。これは歴史書なのだから、事実だけを記すべきなのだと思うから。

 しかし今まさに書き終えようとする『公孫賛伝』に収まりきらない物語も多数あった。真偽定かならず、しかし信じたくなるような無数の物語の破片たち。陳寿はそれらもまた別に書き記して収めていた。この物語たちが収まり行く先は未だ定かならずとも、陳寿自身がどうやって(まと)めていくか、その予感だけはあった。

 予感をあえて言葉にも形にもせず、陳寿は再び洛陽に戻るべく足を向けた。

 長い旅も終わりが見え始めていた。

 朝焼けを背負って西に長く伸びる影が、陳寿の心を表すように先を急いだ。

 

 

 




本当に悩みに悩んでこの結末に至りました。
言い訳をしようと思えばたくさんできると思います。
当初から白蓮はこの展開で命を終える構想でした。
ですが彼女の戦いを書く内に、彼女を助けようという人々を書く内に、そして救いを求めるような感想をいただく内に本当に揺れました。(感想返しも手が付きませんでした)
生存するルートも書き、見比べながら悩みました。
ですが結果的に、当初からの構想通りの展開となったのはお読み頂いた通りです。
ただし中身に関しては、当初よりも密度が上がったことは間違いないと思います。
それは李岳伝で描かいてきた、公孫賛=白蓮の生き様がそうさせたのだと思います。

この展開に納得が行かない方もいらっしゃると思いますが、叶うなら引き続きお付き合いいただければと思います。
次回より最終章です。よろしくお願いします。

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