真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百四十三話 白馬の戦い

 官渡水、陰溝水、濮水――河南より広がる官渡水系ともいえる河水(黄河)の支流群は、西方の最果てから冬に溜め込んだ雪解け水を悠々と運び込み、冬にはか細く細らせていた流れを再び丸々と肥やしていた。

 だがどれほど分身(わけみ)を増やしたとしても、小揺るぎもしない巨人のように河水の流れは未だ滔々たる。

 そしてその流れを背負い、袁紹軍は己が威容を天下に知らしめつつあった。

 李岳は徐庶を伴って袁紹軍の河水渡河の模様を高台から見下ろしていた。

「水を絶ちて来たらばこれを水の内に迎うることなく、半ば渡らしめてこれを撃つは利なり」

 徐庶が孫子の行軍篇の一節を皮肉を利かせたように諳んじた。

「敵の渡河作戦への迎撃は敵軍の半数が渡り終えた頃を待って攻撃を開始せよ、という教えだったな。だというのに俺たちはまごついている」

「孫子だってこれは想定していませんよ」

「……だよな。なぁこれ、どこからが半数だと思う?」

「さぁ」

 息を合わせたように二人で視線を眼下に送った。

 

 ――正規兵二十五万、民兵四十万人による渡河作戦。都市が一つまるまる引っ越してくるような威容であった。これほどの規模の移動は古今稀だろうが、状況と整然さを加味すれば史上初と言っても差し支えないかも知れない。これ自体がもはや一つの大事業である。

 

「相当準備してたって感じだな」

「ええ、見事です。一点の瑕疵もありません」

 徐庶が唸るほどに袁紹軍の動きは良かった。複数地点で同時に大船団を往復させ、兵をひっきりなしに運び込んでいる。渡河を果たした兵から速やかに行動を開始し瞬く間に防御陣地を構築していく。袁紹はまさにこの時を待っていた、というような緻密さで大軍を御していた。決戦の機を伺っていたのは何も李岳と曹操だけではない、ということが白日の元に明らかになったのだ。袁紹もまたこの時を今か今かと飢えたように待ち望んでいた。

「みすみす渡河を許しているが、正しかったかな」

 この時点で先手を打つという案ももちろんあったが、李岳は早々と見送ることにした。中途半端な攻撃であれば意味がなく、本腰を入れた場合は容易に包囲されてしまう恐れがある。初戦で大敗することだけは避けなくてはならない。

 往生際が悪い、とばかりに徐庶が口を尖らせる。

「何度も話し合ったではありませんか。三年間準備したのは我々とて同じです。自信を持ってどんと構えていてください」

 威勢のいい言い回しに感動した李岳は褒美代わりに義妹の頭を撫で回してやった。わ、わ、と声を上げる徐庶に笑い、李岳は大軍に背を向け本陣へと歩き出した。敵の大軍に感心している場合ではない。こちらも精鋭十万を引き連れているのだ。

「それに今さら兵力差に困る立場ですか?」

「そうだったな。兵力差に困るのは生来のことでござった」

 冗談めかして歩き始める李岳の後ろを徐庶が続く。兄、と呼ぶようになって数年。生まれた時からそうだったのではないかと思える程にもう違和感はない。兄上、ともう一度徐庶は呟いてみた。ん? と李岳は何の気なしに答える。戦地だというのに、このやり取りが徐庶には少し嬉しい。

 兄である李岳には必勝の自信がある。それがひしひしと伝わってきた。たとえ敵が実際に百万人いたとしても、この自信は揺るぎなかっただろう。

 こうなることはわかっていて、そのための期間もあった。思えば李岳が戦に携わるようになり、初めてまともな準備に徹底した時間を費やすことが出来た機会でもあった。その様をつぶさに見てきた徐庶は、必ずや勝利という結果で報いたいと思うのであった。

 徐庶と李岳は丘を下り本陣へと戻った。滞陣中も問題は起きていない。敵の大兵力に恐れを抱いていないのは将のみならず兵も同じであった。

 本営の幕舎に入ると趙雲がいた。ここに彼女がいる意味を徐庶は間もなく知る。

「星」

 李岳の声に、幕舎の柱にもたれたまま瞑目していた趙雲が片目を開けた。

「開戦はおそらく五日後くらいだろう。緒戦は君に任せる」

「……その言葉を、三年間待ち焦がれたよ」

 趙雲は颯爽と着物を翻して幕舎を出ていった。徐庶が気を揉んだように李岳に耳打ちする。

「よろしいのですか?」

「何が?」

「少し危険では……確かに星様は歴戦の勇士ではありますが、気負いが見えるかと」

「仕方がない」

「し、仕方がない、ですか……」

「必要なことなんだ。けじめというか……儀式だな。星は真っ先に戦わなくちゃ行けないんだ。吹っ切れないし、自分を悔い続ける。だからここで何も考えず全力で戦って、息切れしてもらった方がいい。こういうのはな、最初の方がいいんだ」

 幕舎の外から趙雲の気勢と、それに答える兵の掛け声が聞こえてきた。両軍合わせて最も高い士気を誇る部隊だろう。

「それに十分対策は打ってる」

「対策?」

「俺がここに残ったままだろ?」

 徐庶は李岳の意味を一拍置いて理解した。

「兄上……」

「同行してれば引き際なんて見えないと思うから、さ」

 

 ――それでは兄上は、いつまでも己の悔いを消せないではありませんか。

 

 徐庶は終ぞその言葉を口にできず、李岳の隣で唇を固く引き結んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――五日後。

 

 六十五万を数える袁紹軍に、十万の李岳軍、そして五万の曹操軍が対峙した。

 もはや宣戦の儀も両軍終えている。無駄な言葉の応酬は元より念頭になかった。ただ押し潰して勝つ。あるいは粉砕して八つ裂きにする。戦意は高く、開戦は済んでおり、残るは戦の端緒を切って押し拡げるだけだったが、まるで大河に小石を投げ入れられたようにかすかなさざ波が沸き立った。

 両軍の距離、およそ五里。その中間、青海にたなびく白雲のような一団が現れる。

 それは整然と並んだ白馬で揃えられた騎馬隊であった。

 冀州戦役で無残にも壊滅したはずの幽州の騎馬隊。軍団は破れ、率いた将に先んじて非業の結末を迎えたはず。しかしそれでも這うようにして一人、また一人と噂を聞きつけ洛陽へと集まった者たちがいた。それは必ずや幽州を再興したいと決意した郷土の男と女たち。

 彼ら、彼女らは今再びここに義を(とな)えようと思っている。正義のために震えながらも立ち上がった、今は亡き主君である彼女の面影を覚えている限り、決して潰えぬ剣が世にはあるのだと知らしめるために。

 

 ――主を失った白き龍は、三年の月日を経て大地に再臨したのである。

 

 趙雲は立ち上がり、男たちと女たちは従った。馬蹄を響かせ北に戻ると互いに約束した。失った物全てを取り戻すと、もはや取り返しのつかない人以外の、あらゆる全てを取り戻すと誓った。

 騎馬隊は走るだろう。決して違えられぬ約定を成し遂げるため。描いた夢を戯れ言と笑わせぬため。

 戦場(いくさば)の名は白馬津(はくばしん)。趙雲はこの地名に奇縁を感じざるを得なかった。愛した親友もきっと困ったように苦笑いしていることだろう。

 馬上、槍を手にした趙子龍は腹の底から吼えた。

「白馬義従、見参――いざ! 北斗七星を掲げよ!」

 趙雲が雄叫びを上げて飛び出す。遅れることなく牙旗が続く。隅に小さく白い蓮華の刺繍を縫い入れた、北斗七星を守護とする幽州の旗。公孫賛は破れて死んだが叫んだ意志はここにあり、郷里再興のために全霊を賭せる同志を残した。

 三千の人馬で造形された白い龍は、六十万を超える敵に寸毫も恐れを抱かず飛び出して行ったのである。

 

 

 

 

 

「は、白馬義従です! 公孫賛の騎馬隊です!」

 袁紹軍陣内にただちに動揺が走った。公孫賛は確かに死んだはず。しかし誰が死体を確かめたのか。この三年音沙汰などなかったのだぞ。洛陽に身を寄せていたというのか――飛び交う推論を袁紹は一喝して切って捨てた。

「落ち着きなさい、来るはずがありませんわ。公孫賛は死にました。これが事実なのです。これ以上動揺する者は斬りますわよ?」

 静まり返る幕僚を睨めつけてフン、と袁紹は再度豪奢な革張りの椅子に座り直す。たかが白馬を揃えた程度でどうしたというのか。

 袁紹は李岳が率いる騎馬隊の恐怖は十分すぎるほど知っている。同時にその限界もまた知っている。三千程度の騎馬隊ではこの大兵力の壁を破れるはずもない。狙いは動揺だ。李岳はまず気持ちを揺さぶり、隙を作った後に本命の戦力を投入する。だからこそ公孫賛の生存を匂わすような白馬の部隊を投入した。ここで重要となるのは冷静さだ。たじろいでは術中にはまるだけ。

「盾を構えて備えれば何ほどのこともありませんわ。押し込まれたとしてもここまでは来れません。弩兵隊用意! 撤退する敵の背を狙い射ちなさい!」

 袁紹の指示が伝わってしばらく、白馬の部隊は一切の躊躇もなく突進を敢行してくるのが見える。斉射の合図が響く。矢が雨のように飛んだ。しかし白い騎馬隊は大地を跳ねるような異常な素早さで矢の群れをかいくぐった。

 直後、接触。白い騎馬隊はどう守備陣形を攻略したのか、わずかの膠着もなく浸透した。袁紹は目を疑った。これは練度や士気の高さでは説明がつかない突破力のように思えた。沮授、田豊らの指示が怒号に等しい荒々しさで飛び交う。

 先頭は趙雲、小憎らしくも幽州の旗を掲げていた! 趙雲が手にする赤い槍はあまりに早く旋回するため、もはや真紅の円にさえ見え得た。それが右に左に動くたびに血煙が吹き荒れるのである。

 袁紹の思惑をさらに超えて敵の騎馬隊は踏み込んでくる。まるで退路を絶ったかのような前進ぶりに全軍に動揺が走る。

 公孫賛の仇討ちのつもりなのだろうが、しかし袁紹は李岳の弱点を知っていたので気を揉まなかった。一つ、二つと数を読み上げ始める。幕僚が怪訝な表情を見せるがフンと鼻を鳴らす。

 騎馬隊の勢いは相変わらず凄まじく、やがて歩兵の損害は二千を超えて第二段まで抜かれた。さらに左方に転進しては陣内をズタズタにえぐり始める。止まる気配は微塵も見えない。先頭を修羅の如き表情で迫りくる趙雲の顔がはっきり見え始めた頃、袁紹の数え上げる声は百を超えていた。

「今です、射ちなさい。弩兵隊!」

「だけどまだ射線上には味方がいるぜー?」

 文醜の声に袁紹は哄笑しながら答えた。

「敵騎馬隊の侵入を阻止できなかった弱兵への処罰ですわ。構わず射ちなさい!」

 袁紹の怒声にすぐさま太鼓は打ち鳴らされ、雲霞の如き矢が放たれた。空をかき曇らす程のおびただしい量の矢は、味方ごと射抜きながらも白馬を一騎また一騎と仕留めていく。損害は軽微だろうが趙雲の舌打ちが袁紹には聞こえるようだった。そしてたまらずとでも言うように李岳軍本陣から撤退を促す銅鑼が鳴らされる。

 これが李岳の弱点ですわ――と袁紹は内心声高に叫んだ。味方を殺せず、捨てることもできない。しかし自分は違う! 死兵も使えば敵ごと殺しもする。王者は人を死なせるほどに強くなる。死を見せつければ見せつけるほど人は裏切らなくなるのだ――劉虞も閨でそう言っていたではないか!

「深追いは不要。続いて波状攻撃が来ますわよ、今みたいな醜態を見せれば同じく射ち抜かれるものと心得なさい」

 袁紹の言葉を復唱して幕僚が動き兵が走る。包囲を抜け出た趙雲は未練などないとばかりに自陣営に戻っていく。そして入れ替わりというように新手(あらて)が飛び出してくるのが見えた。

 袁紹は荒らされた自陣を見ながら眉根を寄せた。そして参謀陣営を呼びつけて囁いた。

「……馬とは、あれほど機敏に動くものだったかしら?」

 

 

 

 

 

「銅鑼が遅かったか」

「いえ、間に合ってます」

「……俺は怒ってるよ、珠悠」

「はい、私もです。全軍がそうです」

 徐庶の慰めにも構わず李岳は唇を噛んだ。味方を殺してでもこちらを討とうという袁紹の采配は、あわや白馬義従全体を矢で針山にしてしまうところであった。袁紹の決断には一筋縄ではいかない手強さを感じると同時にあまりに許しがたかった。

 だがそれでも趙雲率いる白馬義従の機動力が優った。それは李岳がなし得た成果の一つでもある。

 張遼、高順、馬超の騎馬隊が趙雲と入れ替わるように飛び出していく。この三年、調練に調練を重ねて練り上げた連携に加えて新たに手配された新装備によって全ての騎馬隊がまるで一つの生き物のように動くことを可能にした。大地を蛇行し鋭く交叉、さらに緩急自在に敵陣を翻弄する騎馬隊の勇躍は、間違いなく史上初の規模である。

 やがて返り血に染まった趙雲が馬を寄せてきた。手拭いで顔を拭きながら、どこか溌溂とした表情で話し始める。

「固さが出たかな。少し気負っていたようだ。しかしあんな手で来るとはな、予想してなかった」

 損害は軽微だが悔しさもあるだろう。それでも趙雲の表情から険は取れていた。

「迷惑をかけた、冬至。それに心配もな。すまない、これからは指示通り動く」

「うぬぼれだなぁ、星。俺は心配なんてしていないぞ」

「フフフ。そういうことは後でじっくり珠悠から問いただすさ」

「兄を売ることなどいたしません」

「今度こいつの恥ずかしい過去を話してやる」

「実はですね……」

「おい!」

 ははは、と笑って趙雲は部隊に戻っていった。損害を確認し再度の出撃に備えるのだ。さしたる間もなく白馬義従は飛び出して行った。

 戦況全体は局所的には優勢である。曹操軍の動きも素晴らしく、敵の左右の連携を完全に分断していた。だが当然のことながら兵力差が凄まじい。どれほど兵を削っても雨滴で石を穿とうとしているようなものだ。四倍の戦力差を与えて初めて五分という不利にしても甚だしい。

 あらためて見ると途轍もない兵力差に目眩を覚える。雁門関とも祀水関とも異なり、単純な野戦でこれほどの戦力差で向き合うのは初めてであった。李岳は思わず身震いした。ただの一つでも(あやま)てば、その瞬間には押し潰されてしまうだろう。

 

 ――なればこそ作戦通りに行く。緒戦で正面から押し勝つ。量を上回る質というのが存在するのだと、敵兵に恐怖を染み渡らせるのだ。

 

「歩兵隊には前進の用意を」

「総指揮は華雄殿ですよ? 言われるまでもなく準備万端です」

「だったな。よし、命令無視して突撃を始める前に進んでもらうか」

 見る間に敵は兵力の優位をかさに押し包もうと前進を目論でいる。出鼻を叩くならここだ。

「曹操軍に合図」

 旗が振られる。曹操軍は打ち合わせの通り機敏に躍動した。夏侯惇を先頭に、鋭く一本の槍のように突き進み敵左翼をえぐり取っていく。さらに張遼、高順、馬超、趙雲の各隊が訓練通りに陣形を整え始めた。自軍からはさらに黒馬で揃えられた呂布隊が動き出す。

 緒戦は全力で叩く。いずれ撤退戦になるとしても、その方針は変わらない。

 新兵器の試金石にしても十二分であろう、と。

 李岳はこの数年の己の所業を思い出しながら、騎馬隊が巻き上げる砂塵を見守った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――冀州戦役の終結後、洛陽に戻った李岳は自室にこもって考えにふけっていた。

 

 公孫賛の死の悲しみは一向に癒えない。癒えることはないし、どこか癒えてほしくないとさえ思う。前に進むのであっても痛みを抱えたままでいる方が自分の性に合っている、と李岳は思う。

(やること……やることはたくさんある。まずは袁紹軍との戦いに備えないと。二年か、三年……そのくらいか)

 自分に出来ることをあらためて考えるにはちょうどいい時間なのかもしれない。李岳は病気と言い張って丞相府への出仕も辞してしばらくゆっくりと過ごすことにした。

 思うことは、自分がこれまで状況に対して動いてきた、ということだった。

 起こることに備え、対応策を練る。それ自体は歴史を知る自分の有利性を活かすには適した考え方だったと思う。

 しかし自分の知る時代の流れとは既に大きく変化し、これまでの考え方ではうまくいかないだろうという事が十分に予見できた。

 今のままでは曹操には勝てない。いや、袁紹にさえ押し潰されてしまうかもしれない。

 自分に出来ること全てを実行する必要がある――歴史を知るという価値を、再び見つめ直す必要があった。

「そうか、そうだよな。そうするしかないよな……」

 李岳はそれから洛陽中の職人を召し出し、自宅に工房を設けた。そして誰が訪れようとも緊急の用件以外は全て断った。それは董卓であろうと賈駆であろうと司馬懿であろうと同様だった。李岳はただただ工房にこもり続けたのである。

 それからおよそ二ヶ月。初めて訪問の要請を受けたのは高順だった。

 元より並の人とは変わったところのある息子である。冀州での顛末も聞き及んでいた母としてはしばらく放置するに限ると思っていた。高順に限らず呂布や張遼もそれがいいと直感していたくらいである。

 それからの呼び出しとなれば、いよいよ吹っ切れて一つ剣で揉んでほしいとでも言うのだろうか、と予想していたが――その予想とはだいぶ異なり、李岳は笑顔で高順を出迎えた。どうやら吹っ切ることはとうに吹っ切っていたらしい。嬉しそうに笑顔を浮かべているのは何やら成果を披露したいようだった。案内されたのは例の異様な工房である。

「母上、ご心配をおかけしました」

「何やら作っていることは聞き及んでいたが」

「これです」

 李岳の差し出したものが何なのか、高順にはすぐにはピンと来なかった。

「何だこれは」

「新しい鞍です」

「鞍だと? それが私を呼んだ用事か?」

「少し試して頂けますか」

 こんなもんを作るために引きこもっていたのだろうか、と思うがどうせ余人の思いつかない仕組みがあるのだろうと思い直して高順は念入りに回し見た。そして通常と異なる部品に気づく。

「なんだこれは」

「足置きです。馬上で踏ん張りを利かす細工です」

 鞍の本体は木板と牛皮で出来た一般的なもののようだが、李岳の言う足置きは金属で出来ている。

「意味があるのか?」

「まぁ試してみて下さい」

 高順は言われるがまま、愛馬の(げい)の鞍を載せ替えまたがってみた。尻の収まりは使い慣れている鞍よりは悪かったが、それでも良く出来ている。高順は深く考えずに李岳が新しくこしらえた足置きに足を入れてみた。体を支え、馬腹を蹴る。庭を一周する。そして手綱を握ったまま立ち上がってみた。

 次の瞬間、高順は目を見開き身震いした。

「恋を呼べ!」

「そう言うと思いまして」

「もういる」

 いつからそこにいたのか、呂布が赤兎馬を引いて現れた。

「騎馬で立ち会え。早くしろ!」

 珍しく興奮している己に驚きながら、この程度の動揺は驚くに値しないとも同時に思った。それほどの予感がこの馬具にはあった。

 高順は槍に見立てた木の棒を手にすると、同じく鞍上の呂布に向かって馬腹を蹴った。呂布は新式の鞍ではない。

 二度、三度と馳せ違った。その度に高順は震えた。馬上の勝負で呂布を圧倒したことはこれまでない。だがこの鞍を付けただけで五分以上の押し合いを演じることが出来ている。

「そこまで」

 李岳の制止の声でようやく高順は力を緩めた。慣れないために少し手間取りながら足を外して下馬する。体は未だ感動で痺れている。

「冬至、なんだこれは」

(あぶみ)、と名付けました」

「素晴らしい。言葉にならない」

 思えばなぜこんなにも簡単な仕組みを今まで考えつくことが出来なかったのか、不思議なほどだ。それほどに単純で難しい仕組みなど何もない。鐙、と高順は自らの口で呟いた。

 これまでの馬具には鞍の他に下半身を固定させるものは何もなかった。馬の体にしがみつくには両足で馬の胴を強く挟むしかなかったが、これには技術も体力もいる。長駆し戦闘も行うとなればなおさらだった。それがこの鐙をつけるだけで断然容易になる。現に鐙を付けていない呂布と行った野試合では、装備の差で実力差を大きく詰めることが出来たように思える。

「恋、貴様も使ってみろ」

 霓から解いた鞍を呂布に投げてよこすと、呂布はぎこちない手付きで赤兎馬にくくりつけてまたがった。高順は息を呑んだ。ただでさえ人馬一体と思えた呂布と赤兎馬が、さらに美しく融合しているように思えた。一切の無駄も隙もそこには見受けられない。

 呂布は言う。

「悪くない」

 それはきっと最高の賛辞だろう。

 高順が再び鐙付きの鞍を試してみようとした時、李岳はさらにもう一つ見せたいものがあると何かを取り出した。

「実はこんなものも作ってみたのです」

 それも高順が見たことのあるものだったが、やはり細部が少々異なった。

「これは、連弩か?」

「まだまだ改良中ですが、ね」

 李岳がそう言うとやおら連弩で射撃を始めた。驚くべきことに連弩の扱いを片手で行っている。これまで高順の知るものは片手で構え、もう一方の手で掴みを引っ張ることで矢を撃ち出していた。それが李岳の持つ新式のものでは把手(とって)になにやら引っ掛けがあり、それを指で引き絞ることで矢を撃ち出すことを可能にしている。

「これであれば連弩を片手で扱えます。矢の補充は矢の束を十本ほど一気に供給できるように束を箱につめて、まるごと入れ替える仕組みにしています」

 もしや――高順が考えを次の段階に移した瞬間、息子李岳の顔を見た。悪巧みをしている時ほど優しく微笑む悪い癖。高順が思いつくのならば当然李岳もそう考えていた。李岳はこの装備を騎馬隊全てに転用するつもりなのだ。

 馬上の射撃は難易度の高い技量であった。李岳は鐙と連弩を使うことによって、ほぼ全ての騎馬隊に射撃能力を授けようとしているのだ。

「……この連弩と鐙は、戦の形を一変させるぞ」

「そのつもりです」

 李岳の答えがあまりに恐ろしく、高順はたまらず愉快になった。この子を見よ、枝鶴!

「まぁもう少し改良が必要ですが。連弩に関しては威力が通常の弓より低くなるのはやむを得ないので、弓が得手なものにはそのまま現状通りにすると思います。ただし鐙に関しては全騎馬隊共通の装備とするつもりですが」

「嫌がる者などおるまい。これがあれば弓の扱いも相当に楽になるぞ」

「ですよね。匈奴兵にも伝えるつもりですが、あの人たちは馬を乗りこなすことを矜持にしてるから受け入れ難いかなぁ。でも連弩は喜ぶかもしれませんね」

 照準よりも少しずれるな、矢にも工夫が必要か――などと言いながら連弩をいじり始める李岳。

 高順はふとこの息子が流星と共に宿した子だということを思い出していた。

「冬至、貴様はいつからこれを考えていた」

「……なんといいますか、思いついたのは結構前なんです。けど連戦続きでそれどころではありませんでした。ようやくこういった物に手を回す余裕が出来たところです。それに出来ることは全部やろう、と……まぁ当たり前のことなんですが」

 鐙と連弩に目を向けながら高順は思う。当たり前のこと? これがそうだというのなら、常人との基準が大いに違うのだろう。

「それに、鐙に関しては確かに私の考えですが、連弩は諸葛亮殿に助けを借りました」

「諸葛亮? 劉玄徳の軍師か?」

「ええ。幽州とは可能な限り連絡を密にしています。劉備殿は袁紹の後背を扼すことになる重要な戦力ですから。永家の者も頻繁に往復させています。その際、諸葛亮殿に連弩改良の相談をしたのです。素案はすぐに上がってきました。それに対してこちらの要望を付記して何度か書簡の往復はありましたが、ようやくここまで形にすることが出来ました。さしづめ、諸葛弩、といったところでしょうか」

 李岳は頑なに己の勇名を馳せることを避ける時がある。今この連弩に関してもその癖が出たのだろうと高順は思う。

「騎馬隊五万騎にこれを装備させます。我が軍最大の兵器となるでしょう」

 前代未聞の軍団になることは間違いがない。古来より新たな武器の発明、戦術の開発が敵に対して圧倒的な優位となって戦局を決定づけてきた。李岳は今まさに戦史の潮流を変えようとしている。

「見事だ、冬至」

「母上。これは人を殺す道具です。私はこんなものばかり熱心に作っています」

 バシン、と音を立てて矢が飛び出た。それを繰り返す。やがて矢が撃ち尽くすまで李岳はそれを続けた。

「けれど出し惜しみはしません。このように撃ち尽くす所存です」

 自らが撃った矢を一本ずつ拾いながら李岳は呟く。

「武器の改良も、灌漑工事も、屯田制も全てやります。私は私の持つ全てのものを差し出すことにしました」

 李岳の構想の一端なりとも高順にはわからない。しかしその気持ちだけは痛いほどわかった。

「取り戻したいのだな、冬至」

「……はい」

 それが何なのか、問うつもりはなかった。李岳もきっと、答えないだろう。

「お前の考えで味方が助かり、戦は早期に終わり、結果として助かる者が多くなる。恥じるな」

 李岳の弱々しい笑みを見て、高順は思わず抱き寄せた。最後にこうしたのはいつだったか記憶にない。厳しいことばかり言ってきたし、強いてきた。その全てにこの子は応え、気付いた時には乗り越え、そして今や圧倒している。

 人が死ぬという不安についても、高順の説明程度の理解はとうに済ませていただろう。ただし頭の理解とは別に、心の虚しさだけはどうしようもないことがある。

「恋、どうした。お前も来るか?」

 物欲しげに指をくわえていた呂布が、コクリと頷いてしがみついてきた。前から後ろから挟み込まれた李岳は恥か照れか、苦しそうにイヤイヤともがき始めたが、高順と呂布は笑いながら断固手をほどかなかった。

 どれほど嫌がっても手を離すまいとする者がいることを、この子はもう少し思い知るべきなのだ、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――時は戻り白馬津。後年『白馬の戦い』と呼ばれるこの戦は、単なる戦以上の意味をもって語られることになる。史上初めて鐙を搭載した騎馬隊が、給弾式の連弩を装備して一方的に大軍を圧倒したものとして戦史に残るのであった。

 袁紹軍六十五万に対して李岳軍と曹操軍は合わせて十五万。

 初戦、袁紹軍の損害は五万を超え、李岳軍の損害はまこと軽微であったとのみ記録されている。




内政チートでまるで異世界転生主人公じゃないか!
異世界転生主人公だった。

《参考文献》
王達来『北方民族の馬具についてーホルチン伝統属具の製作技術を兼ねて』

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