真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百四十五話 幸福の黄色い巾を引き裂いて

 絶望を舐めた時、人の体は痺れて力を失う。膝は崩折れ額を地につけ立ち上がる力さえなくなる。

 次に絶望は体内で発芽し、やがて人に黒い力を与えることがある。もう二度とそうはさせないと、せめて我が子にはこの気持ちは味わわせまいと。

 そこにすがる(よすが)があれば、人は如何ほど細い藁であろうが掴むのである。

 黄巾を頭に巻く人とは、つまりそういう者たちなのであった。

 

 ――白馬から真っ直ぐ西に引いてきた李岳軍。八日をかけて河水に沿って延津を越え、南に転進した。南阪と酸棗の間を進軍したが、そこで李岳軍は曹操軍と進路を分かち部隊を反転、鶴翼に広げ袁紹軍を待ち受ける構えを取った。

 

 やけに朝焼けの眩い朝であった。

 李岳は白く(けぶ)る息をこぼしながら目を細めた。

「袁紹軍本隊は曹操軍がしっかりひきつけているようです」

 徐庶の言葉に李岳は頷いた。

 李岳は袁紹軍本隊と黄巾軍を分離するための些細な仕掛けを放っていた。曹操軍を追撃するよう袁紹を誘導しつつ、黄巾軍に対しては輜重隊を囮に使ったのである。張郃が指揮する輜重隊は黄巾の兵たちにあえて発見される危険を犯しながら、追跡を誘うように袁紹軍との分離を促した。

「張郃隊がいい仕事をしたな」

「少し、もったいないような気もしました。張郃将軍は決戦に用いられても良かったかと」

「まぁね。だがあの男なら死なない」

 徐庶はそれ以上言い募らなかった。何より危険な任務なのだ。不測の事態が起きれば指揮官は兵もろともなぶり殺しにされてしまう。その点、張郃は李岳からの信頼篤き将だった。

 張郃は見事任務を完遂し、こうして平原決戦まで持ち込んだ。李岳軍の背後三里の地点には陰溝水が流れている。渡れば陽武、さらに渠水を渡れば官渡城である。

 つまりここをしくじれば背水の陣の不利な点が全てのしかかる上、重要拠点の二箇所をなし崩しに奪われることになる。

「やっぱり危険な賭けになるな」

 未だ三十万を超える黄巾に対し、李岳軍は三分の一である十万。

「ですが、やると決められました」

「ああ。そして勝つ」

「では後は手はず通りに」

 李岳はうなずくと黒狐を前進させた。付き従うように全て黒馬に揃えられた呂布の騎馬隊が続く。その後ろに華雄率いる重装歩兵が従った。

 李岳は黄巾兵に対し無造作に接近した。それは反董卓連合軍を向こうに回して言葉を叫んだあの日を、多くの者に彷彿とさせた。

「前将軍、李岳である」

 漫然としたどよめきが返るのみで黄巾兵には統一された意志は返ってこなかった。

 しかし李岳は構わず声を上げた。

「皆様方のご苦労、察して余りある! 此度の随軍、冀州の苦難を逃れて参られたとお見受けする! 己は戦乱を鎮めるべしという任に従い軍を率いているが、皆様を無用に討ち滅ぼすことはその限りではないと考える! 今この時より剣を捨てれば罪はないものとし、全て穏便に事は済むよう取り計らうとお約束いたす!」

 李岳の声は兵による復唱によって一言一句余さず響いた。

 声が地面に染み渡るようにしんと静まり返った後、やはりざわざわとした散漫な空気が漂った。だがしばらく待つと、それまでと異なり一つに合わさった声が繰り返し流れてきた。それは李岳さえ驚かせるほどきれいに揃った調べであった。

 

 蒼天已死

 黃天當立

 歲在甲子

 天下大吉

 

 ただ唱えられるだけではなく、節を付けた歌であった。張角ら姉妹が戯れに付けた歌。それをまるで天への祈りのように捧げる三十万の群衆。その響きは掛け値なしに美しい音色で、李岳はクラクラと目眩を覚えた。

「あれが答え」

 李岳の側にピタリとついていた呂布が言う。

「恋……」

「言い返す?」

「……さあどうかな。全く思い浮かばない」

「時間」

 やれるだけのことはやった、と呂布は目で訴えている。そして悲しいことに時間がないとも。放っておけば袁紹軍本隊も分断を修復するためこちらにやって来よう。

「わかっている。無駄なあがきをした。でもさ、あがくこと自体は無駄じゃないよな、って」

「冬至、恋たちを信じて」

「そうだ。とっとと行かせろ。私の我慢も限界が近い」

 反対側から華雄が言う。戦斧を肩に背負ったまま、むせ返る程の戦意をたたえていた。

 頷き、李岳は剣を抜いた。天狼剣の黒い刀身にわずかに赤みが差している。李岳の感情が高ぶった時にそのように応える不思議な剣。ただしそれは怒りに限らないが。

 李岳は振り絞るように言った。

「……黄天とやらが立ちはだかるのであれば、斬り捨てるのみ。噴き出た血を浴び、遠く変わらぬ蒼天を皆で見上げよう」

 華雄が真っ先に笑った。

「かっこいいじゃないか! ならばこの華雄の働き、まずはその目に焼き付けることだ!」

「何も心配はしておりませんよ、華雄殿。厳しい戦いになるのは間違いありません。ご武運を」

「そんなに素直に褒められるとなんだかむず痒いが、他に言うこともない! 任された! 華雄隊突撃!」

 鬨の声を上げ、華雄率いる三万の部隊はほんのわずかな恐れさえ抱かずに三十万の敵に突っ込んでいった。重装歩兵が巨大な鯨に丸呑みにされるように敵のど真ん中に埋没していく。すかさず張遼、高順、馬超、趙雲らの騎馬隊が駆け出した。城攻めで外壁を攻略するように大軍の周囲を駆け回るが、軍の規模があまりにも違いすぎ李岳の目は遠近感が狂ったように錯覚を覚えた。縮尺をまともに把握できないほどだ。

 先頭で駆ける高順が小競り合いを繰り返しながら敵陣の弱点を伺う。既にその実力は全土に響き渡っており、陥陣営というあだ名で恐れられるほど。李岳はその眼力に賭けた。下手に指示を出すよりも、最前線で切り結ぶ者に任せた方がいい場合もある。

 しかし、それでももどかしかった。

(まだですか……母上……!)

 三十万の只中に歩兵を突っ込ませる作戦など狂気の沙汰だ。これで失敗すれば華雄の部隊は全滅から免れ得ない。練度は低くても人の数だけで全土最強の軍と言われてもおかしくないのだ。分の悪い賭けであることは事実なのである。

 四半刻が経った。もはや騎馬隊の姿さえ李岳の目からは見つけられない。反対側まで回り込んでいるのかも知れない。李岳は大声を上げて伝令を走らせた。慌てて徐庶が指示を出す。こうやって待つ時間が、何より苦痛だ。

 次の瞬間、敵左翼目掛けて駆け出していたはずの騎馬隊が右翼側に現れた。本当に一周していたのだ。そして鋭角に急旋回すると横っ腹を突き破るように敵のど真ん中に突っ込んでいった。間隙を発見したのだ――少なくとも李岳はそう信じた。

「全軍備えろ! 来るぞ!」

 待った。まだか! と声を荒げかけた瞬間、張遼が正面から敵陣を切り裂いて出てきた。続いて馬超の姿が見える。予備に控えている兵たちがどよめきを上げる。さらに重装歩兵が雄叫びを上げる華雄を先頭に雪崩れを打って溢れてきた。

 しかし李岳の手は痺れていた。高順がいない。まだ待った。出てこない。

「冬至……!」

「頼む!」

 痺れを切らした呂布が飛び出していく。黒ずくめの騎馬隊が矢のように先鋭化しては、巨鯨に銛を打つように正面から突っ込んでいった。

 李岳は意味もなく手綱を強く握りながら歯を食いしばった。徐庶の怒声が響き、張遼と馬超が再び突っ込んでいった。華雄が集団ごと敵兵をなぎ倒しながら陣構えを崩していく――しかし三十万の敵はいくら斬ってもびくともしないのだ!

(母上……母さん! うそだ、こんなところで、こんな)

 脳裏に浮かぶは凄絶な苦しみ、という予言めいた言葉。木霊のように何度もその言葉が響き渡る。

 絶望に背中が痺れ始めたその時だった。方天画戟を天高く突き上げた呂布が真正面から防御陣を突き破って現れたのである。そのすぐ後ろには全身を血で濡らした高順が確かにいた。

 李岳が声を上げる。徐庶も拳を突き上げていた。そしてすかさず指示を下した。

「後続!」

「後続、出ませい!」

 予備として控えさせていた兵が騎馬隊を吸収して敵兵の追撃を断ち切る。幸い高順に怪我はないようだった。主だった将は全員無事であることが確認された。

 敵は陣形が乱れている。大きな被害が出ているが、軍を立て直すか攻撃に転じるかの判断が曖昧なために戦列が大きく伸びていた。叩くのであればここしかない。

「珠悠、俺も出るぞ!」

「はい兄上、ご無理せず!」

 李岳は黒狐を真っ直ぐ匈奴隊に走らせた。先頭にいるは疑念の余地なくあの友である。

 友は大きくため息を吐きながら大喝した。

「なんて作戦だ! ひやひやさせやがる」

「全くだ。本当俺には才覚がない」

 よく言うぜ、と香留靼は眉根を寄せた。

 

 ――李岳が引き連れている匈奴兵は香留靼が長を務める部族の選りすぐりである。匈奴の常駐軍を李岳が望んだ時、一も二もなく手を上げたのが香留靼である。その数二万。鐙など幼児の治具だと全兵が先祖伝来の出で立ちである。

 

「天下にその名を轟かせる李岳将軍が、いよいよ我が兵を使う時がきたわけか」

「今は後続の兵が押し出している。敵兵の混乱を鎮めさせないためだ、このまま押し出して東の伏兵まで誘導する」

「お安いご用というやつさ」

 胸を叩く香留靼に李岳は申し訳無さそうに顔を伏せた。

「そんな顔をしてどうした、李岳将軍よ」

「香留靼……ずっと黙っていたことがあるんだ、それを告白させてもらっていいかい?」

「俺たちの仲だろ? 何でも言ってみろ」

「……髭、似合わんなあ」

 香留靼は馬上のまま器用に蹴りを繰り出した。

「来ると思ったぜ! お前こそいつまでもつんつるてんじゃないか!」

「童顔でかわいいと洛陽での評判を守りたくて」

 香留靼が手を上げると一頭の獣のように匈奴兵は動き始めた。

「落ち着いたか?」

「……おかげさまでね」

「心配するな。美男子ついでに、最強の将という評判も守ってやるよ」

「……大きすぎる看板だ」

「誇れ。多くの兵を生きて返すことができるという意味でもあるだろ。勇猛果敢に戦うことは望むところだが、それはそれとしてみんな死にたくない。俺だってもうすぐ子どもが生まれるんだ。顔を見ずに死ねない」

「……戦の前にそういうこと言うと、縁起が悪いんだ。頼むから死ぬなよ」

「漢族の風習だろそれ? 匈奴にゃ関係ないね!」

 騎馬はやがて全速となった。匈奴兵の勇ましく雄々しい叫びが風となる。

「李岳! 匈奴兵はとことん行かせて頂く。敵を一兵でも多く殺し、畏怖を刻み込むことこそが我が一族の習いであるからな」

「……わかっている。今回は俺もそのつもりだ」

「行くぞ!」

 李岳は頷き、己も弓を取り出した。香留靼から渡されたあの弓である。轡を並べこうして軍を指揮することになった。これがただの遠乗りで獣を追うだけであればどれほど気楽であったろう。

 しかし今ここは人と人とが殺し合う戦。李岳は惑いの全てを闘志で塗りつぶし、全速で駆け始めた黒狐の背で矢をひきしぼった。

 

 

 

 

 

 

 ――戦況は半ば一方的なものになった。

 

 道具に頼った射撃ではなく、生粋の遊牧民だからこそ為せる本物の騎射を匈奴兵はまざまざと見せつけたのである。ばたばたと為すすべなく倒れ行く有り様に恐れを成した黄巾兵は、巨体を這いずらせるようにして東に転じた。まるで予定されていたかのように、李岳軍の伏兵が潜む場所に向かってまっすぐと。

 黄忠、厳顔らが指揮する弓兵は逃げ惑う黄巾兵を格好の的として散々に射殺することになった。

 恐慌に陥った黄巾兵はやがて散り散りに逃走を始めるが、李岳は横に広げた騎馬隊で掃討を命じた。それは李岳には稀な情け容赦のない追撃の指示であった。

 夕暮れまで続いた追撃戦。地を埋める亡骸の数はもはや数える術さえなく、討ち取った数は五万とも十万とも言われた。残兵は未だ倍する兵力を有するというのに、恐怖のあまり全てが武器を投げ出し、李岳軍への降伏を誓うこととなった。

 

 ――全てが終わった頃、李岳は一人地に座り込んでいた。誰も近づくことを許さなかった。黒狐でさえ遠く離した。

 

 目に映るのは沈みゆく日、(うずたか)く積み上げられた累々たる死体の山、連れ行かれる血が流れるままの敗残兵、処置なくとどめを与えられる負傷者、死体でせき止められ染み出て行く血の河、払えども払えども消えない死体を焼く煙、引き立てられていく人、人、人。

 酸鼻の沙汰と評するに余りあった。言葉さえ失った李岳。なぜかいまとても、劉備と話がしたいと思った。

「これでまた勇名が広がりますね」

 背後からかけられた言葉に答えも返さず、李岳は自嘲した。

「勇名? 冗談だろ? 汚名だよ、これは」

「世はそうは思いますまい。三十万の黄巾兵を一日のうちに蹴散らし、そして二十万を帰順せしめた。偉業だと讃えるでしょう」

「反吐が出る」

 李岳からの合流せよという指示に従い、休む間もなく駆け続けてきたであろう司馬懿。彼女にねぎらいの言葉さえかけずに李岳は自嘲を続けた。司馬懿のひどく悲しそうな視線に気づかないまま。

「武装も中途半端。着の身着のままの者もいた。やせ細った者も、子どももいた。聞いたか? 母上が遅れを取ったのは、乳飲み子を抱いた幼い少女に驚き、とても手にかけることが出来なかったからだ」

「だとしても、です」

「何が言いたい、如月」

「あまりそうされておられますと、将や兵が不安になりますので」

 嘆き悲しむことさえ許されないという。李岳はしかし理解し、納得した。そして司馬懿に振り返り、肩をすくめた。

「……ごめん」

「いえ。ですが袁紹にしてやられましたね。上手い手です」

 司馬懿から出た言葉は意外な一言だった。

「……どういうことだ?」

「黄巾兵を押し付けられたのです。袁紹軍にとっての重荷になってたのですよ、それをこちらにそっくり渡してきた。袁紹は我々が黄巾兵を降兵として利用しないことを知っているのですよ。使えないことも知っている」

 司馬懿の言葉を李岳はようやく得心した。二十万人を急に預かることになった負担は、陳宮が居れば怒鳴り散らすでは済まない桁だ。

「……まんまと乗せられたわけか」

「そういうことです。後方に送致するにしても二十万、飲まず食わずというわけには行きません。それに護送のためには兵も必要です」

 少なくとも兵を二万、そして二十万人が数日は飢えずに済む分の食料を失うことになる。黄巾兵との戦いは李岳軍にとっても激戦だった。損耗が一万を下回ることはない。それも合わせて確かに状況は一挙に厳しくなったと言えるだろう。

「もし如月が作戦会議の場にいたら反対してた?」

「はい。ですが、いいえ」

「司馬仲達は難しいことを言う」

「主君と仰ぐ人が、難しい要求を出されますゆえ」

「俺の望みは二つだけだ。勝つこと。そして皆が生きて帰ってくること」

「……最初の望みだけは、お約束できます」

 どれほど全力を尽くしても、誰も死なずに全てを終えることが出来ないのが戦争だ。今日は実の母を殺しかけた。いつかまた誰か、公孫賛のように死なせることになるのかもしれない。貂蝉の予言した凄絶な苦痛とは、果たしてそのことなのだろうか。

「……もういい。ありがとう。少ししたら行くよ」

 司馬懿は深く頭を下げ、踵を返して李岳を一人にした。李岳は約束どおり、夕陽が紫紺の陰影を残して地平の向こうに沈みきったのを確かめると、腰を上げた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 袁紹の大きな声が天幕を叩いた。

「こうまで予定通りに行くとは! やはりこの袁・本・初! 天下を制する機運を掴んだとしかいいようがありませんわね!」

 おーっほっほっほ! といつものように哄笑する袁紹。沮授、審配、田豊らの練りに練った策が実を結んだ瞬間だった。

 元々意を同じくせず反目し合う三名であったが、こと黄巾兵への不満に関しては一致していた。

 黄巾軍を統合することでより巨大になった袁紹軍が、黄巾軍を放逐することで合一するとは皮肉としか言いようがない。

「……ほんと、すっきりしましたわ。大兵を募ったはいいものの、あの有様では使い道がありませんもの。食事もお持ちでないし兵としても役に立たないとなれば、とてもじゃないですけど面倒見きれませんわ」

 事実はやや異なり、そもそも袁紹の募兵の触れに従って集まったのがあの黄巾兵である。冀州の窮乏が悲惨なあまりに新天地を求めてきた者たちが大半だった。訴えを聞いた劉虞が袁紹の募兵をさらに推奨した結果、三十万もの人間が集まったのである。それはある意味冀州を見限る人間の数とも言えたが、袁紹がその考えに思い至ることはなかった。

 だがしかし幕僚は褒め称える。さすがの深謀遠慮、天運に愛されたお方、すでに勝利は明らか……

「後は兵糧の苦悩を抱く李岳らを相手に王者の戦を展開するのみ。万全の陣構えを敷いてじわりと押し出されませい。彼奴らの浅はかな機動戦術など全くの無意味だったと思い知らせるのです」

「それは素晴らしい。なんと痛快なことでしょう」

 満足気に頷いた袁紹は、そうだと思いだして話題を変えた。

「そういえば北の方はどうなっているのかしら。わたくしはそろそろ劉備さんを捻り潰したという知らせを聞きたいのですけれど?」

 途端に静まり返る幕僚たち。劉備の攻勢は神出鬼没、そして風のように消え去ることからその尻尾をつかむことさえ難儀している。見えている軍勢だけで数万だが、協力者を含めれば十万を超えるというのは満場一致の見解である。

「……劉備軍の規模は幽州支配に抵抗する程度にすぎません。しかしその勢いを侮れば冀州に影響を及ぼすは必死」

「うざったいですわねぇ。あの人さえいなければもう十五万は連れてこれたはず。そうなれば戦にもならなかったというのに」

 さしもの李岳とて八十万の兵力の前ではどうしようもなかっただろう。このような無駄な戦をすることさえなかったはずなのである。

 現在の袁紹の意欲は過去最高とまで言えた。この世に対する失望は、全てを壊してやろうという他愛ない気持ちに火を付けた。悲しいかな余人であればいざしらず、袁紹はそれができる人間だった。多くの人間を連れ、敵を潰し、洛陽を破壊する。全てを壊して服従させれば、この胸に空いた穴もいつかは埋まるのではないかと投げやりな気持ちのまま。

 

 ――しかし誰かを見限る者は、既に誰かから見限られているということは歴史が明かす通りである。

 

「大将軍閣下、この期に及んでは食料の備蓄は一挙に為すことが肝要。いかがでしょう。兵糧の集結地点を一つどころに決めてしまうというのは」

 進み出て進言するは姓は許、名は攸、字は子遠。洛陽育ちの一見風采見事な青年である。袁紹や張貘とは幼い頃より見知った仲であるが、陰謀に淫して官位を追われ出世の道を閉ざされた。袁紹に拾われて幕僚に甘んじているが、いずれ己が天下の舵を取るのだという気概は失っていない。

「……あら、許攸さん。珍しく意見されるのね」

「私とて軍の勝利に貢献するために付き従っているのです。大将軍のために何か仕事の一つでもせねば」

「……皆様はどう思われます? 許攸さんの意見を?」

 疑義を投げかけられた審配、田豊らは渋々という表情を見せつつも意見を否定することはしなかった。黄巾兵による内部の略奪を気にせずに良くなった今、兵糧を安定的に管理することは理にかなった。

「わかりました。ここから東のどこかに適した場所を決めて置きましょう。許攸さん、よく進言してくれましたわね」

「ははっ」

 膝をついて拱手する許攸。しかし袖で隠した下では内心ほくそ笑んだ。

 この許攸、既に李岳陣営と内通を試みていた。許攸は自らを評価しない袁紹を好いていない。ここで自らの力で李岳を逆転させることができれば、その功績は計り知れないものとなる。天下の舵取りは己の懐に転がり込んでくると考えていた。

(所詮教養もない匈奴の子どもにすぎぬ! この許攸を崇めさせ、たっぷりと指導してくれる)

 だがしかし、その許攸を静かに見つめる袁紹の瞳もまた、ひどく冷たいものであるということに許攸が気づくことはなかった。

 

 

 

 ――その頃、顔良は兵と共にいた。

 

 袁紹や参謀にはわからないだろうが、兵の疲労は大きい。分担を分けているとはいえ昼も夜も戦にかり出されているのだ。しかも相手にしているのは李岳軍と曹操軍である。大兵を揃えているとはいえ、渡り合うことは至難。その上、三十万もの黄巾兵を一挙に失ったのだ。袁紹らは荷物を押し付けたと考えているだろうが、部隊には不安と恐怖が蔓延しかねなかった。

 文醜や他の将軍と手分けしてでなんとか兵らの混乱を抑えた頃にはもうとっぷりと日が暮れた深夜。曹操軍に散々に振り回された後にさらに残務が重なった結果、顔良の疲労はかなりのものになっていた。

 それでも袁紹のためと思い、顔良は苦労を厭わなかった。悲しいことに自らの想いと袁紹の気持ちがもはや一致しなくなっていることに顔良は気づき始めていた。袁紹はこの頃、顔良を疎み遠ざけるようにまでなっていた。忠告や諫言を繰り返したからだろうが、その根幹には袁紹のためという揺るぎない想いがあることは伝わっていると信じていたのに。

 重い鎧兜を脱ぎながらようやく自室に戻った顔良、とにかく寝てしまおうと寝台に倒れ込もうとしたのであるが――

「お疲れ様です顔良さん~」

「……」

 少女の名は程昱。

 実はこれで三度目の来訪であるが、顔良は彼女からの接触を拒むことが出来ずにいた。腕力に物を言わせて捕えてしまい、袁紹に報告すればそれでいいはずなのに。

「困ります、私は……これでも袁紹軍の重鎮です。曹操軍の参謀である貴女といるところを誰かに見られたら……」

「何をお悩みになるのです? その時は私を突き出せばよろしいのですよ~」

「し、死ぬんですよ」

 自分で言っておきながら、あまりに的はずれなことを口走っている自覚が顔良にはある。やるならすぐにやればいいのだ。だがそれが何故かできない。

「仕方がありませんね〜。命よりも優先すべきことがありますから〜」

 おっとりと間延びした話し方でありながら程昱の言葉のなんと苛烈なこと。顔良はかっと熱を帯びて頬を赤らめた。自分にそれほどの覚悟があるかと問い返されたような気になった。

「わ、私は」

「はい」

「私は!」

 しかし続く言葉が出てこない。程昱は憐れむように目を細めた。

「言葉にすることが難しいこともございますよね……みんな、人ですもの」

「わ、私は……麗羽さまのためになりたいだけなのです……」

「前にも申し上げましたが、大事なものがおありで、それも守りたいと思っているのであれば……何かお手伝いできることもあるかもしれませんねー」

「……お帰りください」

「お疲れのご様子。今夜はゆるりとお休みください〜」

 程昱は躊躇うことなく、それではまた、と言い残して去った。

「わ、私はどうすれば……麗羽さま……」

 その呟きを聞く者は今はどこにもいない。

 寝台に腰を下ろして眠るでもなく、顔良は美しく一線に切り揃えられた前髪の奥の瞳に、あわれに濡れる光をこぼした。


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