真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百四十八話 官渡の夜明け

 恐怖だ、と張郃は思った。恐怖が袁紹軍を駆り立てている。恐れを知らない兵も手強いが、恐れに狂った兵はより厄介である。引くか向かうかの判断もつかず、ただ狂奔するのみだからだ。

「そうは思わんか、呂布殿」

「さあ」

 血に染まった方天画戟を翻しながら、興味なさげに曖昧に首をかしげる呂布。張郃は己も愛剣・望天吼の血糊を拭いながら繰り返し笑う。

「相も変わらず掴みどころのないお方だ……祀水関が懐かしい」

「言ってることはわかる。恐怖が悪い?」

「まぁそういう意味だ」

 何度打ち崩しては引くことを繰り返したろう。十万は軽く超える袁紹軍の待ち伏せ部隊に、呂布と張郃は自軍の混乱を最小限に抑えつつ敵を翻弄している。呂布の武勇と張郃の軍略を合わせての遅滞戦術は確かに効果を表し、李岳軍本隊を遠く背後まで逃がすことに成功した。今はあえて本隊とは別の退路を進んで戦力を分散させている。

 しかし呂布は不満だった。こんな戦はさっさと終わらせてしまいたい。夕暮れに背を丸めていた李岳の姿がまぶたの裏に焼きついて離れないのだ。

 恐怖が悪い、と張郃は言う。ならばその恐怖を殺すのが早いのではないだろうか、と呂布は思う。

 必要なのは、より大きな恐怖。

「……呂布殿、どうした、単騎で出るつもりか」

 愉快そうな張郃の声はもう半ば届かない。呂布は行くことに決めた。それでこそよ、という張郃の声が背中を叩く。

 今ここに李岳はいない。呂布は自分には戦うことしか出来ないという思いがあるが、同時に李岳の前で戦うのは苦手でもある。李岳が悲しむことがわかっているから。一緒に駆けたいというのに、隣にいると苦しめてしまうという皮肉。

 だからこそ、呂布がもっとも強いのは李岳の命を受け、なお李岳がいない時だった。

 真紅の呂旗が翻る。万夫不当の乙女が往く。全力で握り締められた奉天画戟が、苦しみと喜びでもがく。呂布は友軍の誰より先んじた。赤兎馬は時を止めたかのように何よりも速い。人馬一体の紅蓮のもののふは抵抗する者たちのささやかな思いを全て無下にする。

 立ち塞がる兵の悲鳴を求めて、絶対的な恐怖を求めて染み込ませるために呂布は黎明間近の荒野を飛んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 どれだけ押し包もうとしても一向に崩すことが出来ない。むしろ部分的には一部押し返されてさえいる。

 顔良は歯噛みしながら友軍を叱咤した。

「こちらの策ははまったんです! 頑張ればもう少しで勝てるんです」

 しかし、と口ごもる配下の将たち。

 攻略が難しいのはわかっている。殿軍に控えているのは袁紹軍でも随一の用兵を誇った張郃と、李岳軍最強の将である呂布だ。特に呂布の突撃は凄まじいの一語で、気まぐれに飛び込んできては数百の兵を一瞬でなぎ倒して戻っていく。兵たちはすっかり恐怖に飲まれ、呂布に対しては攻めることが出来ずに遠巻きで距離を置いてしまうほどだった。

 夜闇の追撃という条件も相まって決定的な打撃は難しいかもしれないと予測してはいたものの、ここまでとは。けれど、と顔良は再び戦意を新たにする。大事なのは決してここで引かないことだ。とにかく押す。そしていずれやってくる袁紹軍本隊と挟撃を成すこと。ここで引いてしまえば敵に脱出の余地を与えてしまいかねない。

「とにかく、兵を鼓舞し続けて下さい。もうすぐ麗羽さまの本隊が追いつきます、そうすればこちらの勝利は決定的なのですから」

 そこまで一息で言い切った時、顔良の真名を呼ぶ者がいた。慌てて振り返った先にはなんと文醜。半数を率いて李岳軍本体を追っていたはずの文醜がなぜここに、と思う間もなく親友は顔良に駆け寄る。指揮をかなぐり捨ててでも自身が来なくてはならない異常事態が発生したことを、顔良は瞬時に理解した。

「文ちゃん! ど、どうしたの!?」

「斗詩! 烏巣から伝令が来た……!」

「う、烏巣!?」

 予想外の地名に顔良は背筋に怖気を覚えた。烏巣は袁紹軍の兵糧集積拠点である。急報が飛んでくる事自体ありえてはならないことである。

 次に文醜から出た言葉は、決して顔良が聞きたくないと思っていた言葉であった。

「兵糧が焼かれた……! このままじゃうちらは全滅だ! 姫がやばい!」

「そんな……」

「斗詩! 姫が挟撃に遭っちまう、こんなところでのんきしている場合じゃないぞ!」

 顔良は文醜に言われるがまま離脱を決断した。なぜ文醜がその情報に速やかに接する事ができたのかという、かすかに浮かんだ違和感に拘泥することさえ出来ず。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 同刻、袁紹軍にも急報が飛ぶ。

「袁紹様! 烏巣より伝令でございます!」

「……烏巣?」

 怪訝を装いながらも予感を覚え、だというのにそれを信じたくなくて袁紹は気怠げな姿勢に固執した。

「烏巣の部隊は全滅……兵糧庫は焼かれ備蓄は全て消失! 曹操軍による奇襲に相違ないとのこと」

「……は?」

 血の気が引いたのは袁紹だけではない、その場にいた全員が顔を蒼白にし、声もなく立ち尽くした。

「なぜ烏巣だと見抜かれたのです。なぜ!」

 袁紹の問いに答えられる者がいようはずもなかった。

 しんと静まり返る幕僚たち。袁紹が手にしていた剣を地に投げ捨てた時、ようやく田豊と沮授が進み出て進言した。

「お怒りはごもっとも……ですがまずは落ち着きを」

「左様。一度態勢を立て直すべきです。このままでは天下制覇の大業が頓挫することはもちろん、軍を維持することすら出来ません。李岳、曹操を追い詰めることはまたいつでも出来るのです」

 大軍にとって食料の維持は唯一の弱点であるが、それを見事に突かれた形だ。助言通りこのままでは戦線の維持さえ怪しいのは明白。とにかく全てを放棄して北に戻らなくてはならなくなるだろう。李岳挟撃のための進軍をそのまま撤退に切り替え、河水渡河を成し遂げれば最短距離で冀州まで戻ることが出来る――というのが参謀の総意であった。

 しかし袁紹は投げ捨てた剣をさらに蹴り飛ばしながらその言を却下した。

「このままですわ。このままです! みすみす撤退なんて、そんな馬鹿なことがあって!? この場で李岳さんを殺す……そして華琳さんも殺すのです! それまで撤退することは、絶対にありませんわ!」

「な、なんと……しかし大将軍」

「このまま、と申しましたわよ! 腹が減ったのなら、李岳軍の死肉でも喰らうがよいのですわ!」

 急転直下の戦況に動揺しているとはいえ、あまりにもあまりな発言に言葉を失う幕僚たち。しかし癇癪を起こした袁紹の言葉はせき止められることなく流れ出る。

「もう面倒くさいのです! 李岳さんも華琳さんも……飽きたのです。わたくしの人生に、あの二人の名前はもう出さないでくださいまし! ここで、ここで殺しなさい! ここで終わらせるのです! 犠牲などどれだけ払っても構いません! 兵などどうせ後からいくらでも補充できるのですわ!」

 実際、この袁紹の発案は軍略的には正鵠を射ていたかもしれない。曖昧な状況判断に基づく撤退よりは、初志貫徹の意志の元に現行の作戦を遂行することは将兵ともに迷わせずに済む。戦場において不利な情報を統制することは短期的には混乱を抑え軍務に与える支障を最小限にする効果が期待できる。

 しかし袁紹の破滅的とも言える意志を敏感に感じ取っていた幕僚たちは、その案を肯定することが出来なかった。信頼よりも不安が先立ち、期待よりも保身が働いた。死兵をためらわない袁紹の用兵をつぶさに見てきた幕僚たちだからこそ、今度は己が矢盾にされるのではという疑念に囚われることはある種の道理でもあった。

 ここに顔良と文醜がいれば袁紹の発案通りに作戦は維持されたかもしれないが、それは誰にもわからない。

 いずれにしろ幕僚たちは己の身命さえ危うくなっていることを察知し、心中冷ややか、袁紹を見限らんとする者さえ現れようとしていた。

 そして急報はさらに続く。

「背後より曹操軍接近! 先頭は曹純、夏侯惇、夏侯淵!」

 

 ――夜明けまでももう間もなくである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――狼の狩りは群れで行う。

 

 自らより大きな獲物に対しても恐れることなく威嚇し、爪を立て、牙を剥く。そして恐怖し、また立ち向かわんと蛮勇を発揮した相手を四方から取り囲んで噛み殺すのだ。

 曹操軍の追撃はまさに群狼の模倣と言えた。高速で機動する騎馬隊で背を撃ち、剥離するように固まった集団を後続の歩兵が順に斬り殺していく。大軍を解体する業師のような手捌き。曹操は寡兵でどう戦い抜くかの知見を大いに蓄え、それを軍全体で運用できるよう徹底してきたのだ。

 叩けば剥落する砂岩のように、曹操軍は袁紹軍を削ぎ落としては取り囲み打ち砕いていく。進めばいいのか戻ればいいのかすらわからないまま、兵団が一つまた一つと朱に染まっていった。

 だが袁紹軍は一向にまとまりを欠いたままで、統一した意志はどこにも見えない。曹操は敵の杜撰な有様に苛立ちさえ覚え始めた。

 その時だった。

「華琳さま」

 気配もなく聞こえた声に、珍しく肝を冷やして曹操は振り返った。

「はふぅ。追いつくのは大変でした。みなさんせっかちですねぇ~」

「……風!」

「はぁい、風でございます」

 隠密の諜報部隊を率いさせている程昱であるが、いよいよ本人の所作までもが影の者じみてきた。

「貴女がここにいるということは」

「はぁい、例の調略が完了いたしましたですね」

 大変だった大変だった、と頭の上に載せた人形で腹話術を演じながら程昱は頬を膨らませる。

「あとは華琳さまのご指示通り、となっております」

「よくやったわ風。この後必ずねぎらう」

「あらまぁ豪儀なことで」

 それではまだやることがありますので、と姿を消した程昱を見届けたあと、曹操は郭嘉を呼びつけた。

「稟!」

「ここに」

 郭嘉が懸命に馬を寄せてくる、息を弾ませてはいるがこの行軍には遅れずに付いてきていた。

「私は流琉と離脱する。指揮は任せても構わないわね?」

 熱の入った声をそう悟らせまいと押し殺しながら、郭嘉は士気高く答えた。

「袁本初など元より小物。それをここまでお膳立てされたのです。どうか私と、僚将たちの力をお疑いにならないで下さい」

「微塵も疑念はない。存分にその才覚を見せつけなさい」

「ぐむっ……くっ、はっ……か、かしこまりました!」

 曹操から完全な信頼という最高の栄誉を受け、郭嘉はとうとう鼻血を吹き出しながらなお意気揚々と拳を握る。

 隣にいた司馬懿が、曹操を探るように申し出た。

「私もお供いたしましょうか?」

 曹操の返事には予想を上回る強い敵意が込められていた。

「控えろ、貴様の出る幕ではないわ」

「……失礼いたしました」

「司馬懿。貴様の処遇は稟に任せている。不調法はすまい……また会いましょう」

 はっ、と気を駆って曹操は馬腹を蹴った。ペコリと頭を下げる典韋が、その背後に二千ほどの兵を引き連れて曹操を包むように戦場を離脱していく。

「ずずずっ……貴方、恐れ知らずにも程があるわね」

「危ういところでしたか?」

「……ありがと」

 手拭いを郭嘉の鼻にあてがいながら、司馬懿は首を傾げる。鼻血を拭った郭嘉は、やっと人心地ついたように嘆息した。

「華琳さまの怒りに接すれば誰であろうとその場で斬られてもおかしくはないわ。貴方は命拾いしたと思うべきよ。これに懲りたらもう少し慎重に振る舞うべきね」

「肝に銘じます」

「……で、どうするの?」

 端切れの悪い、含みのある口調で郭嘉は問う。

 司馬懿はほんの寸暇も考えることなく笑った。

「帰ります。我が主君の元へ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その黄色い旗を最初に発見したのは、張文遠であった。

「らぁあああ! 袁紹軍、見っけたでぇ!」

 張遼の声に全軍が気勢を上げた。袁紹軍には見てわかるほどの動揺が広がる。

 待ち伏せに遭い、殿軍に兵を割いて逃げ惑う軍にあるまじき士気の高さ。そしてなお速度を落とさず横に広がる騎馬隊。見ゆるは張遼の張、馬超の馬、高順の高、そして趙雲が掲げる北斗七星! 一団でさえ手に負えない騎馬隊が、総勢四つも横に広がり、全力で突っ込んでくる。

 袁紹軍の誰もが想定していた、傷つき怯えて逃げ惑う敗残兵の姿とは、あまりに程遠かった。

 事ここに至って袁紹軍は知る。挟撃に遭い、死生の危機にあるは己等であることを。

「ボケカスあほんだらぁ! うんこたれぇ! わはは! うちが張遼や! おしっこちびって逃げ回らんかい!」

 陣羽織を翻し、背に流れる総髪を豪快になびかせながら張遼は敵陣に馬体ごと乗り込んでいった。偃月刀を前後左右に振り回して血路を開く。続いて馬超、高順が噛み付いた。白馬義従は角度を変えて袁紹軍の横の連携を絶ちにかかる。

 張遼が狙うはただ将の首のみだった。雑兵を払い除けながら将の居所を示す牙旗を探す。そしてその最初の生贄となるは、追撃部隊の陣頭で指揮を執っていた袁紹軍の宿将・淳于瓊であった。

「その首ぃ、もろた!」

 はせ違いながら偃月刀が翻った時、淳于瓊に打てる手は何もなかった。かつて西園八校尉の左軍校尉を務め、袁紹軍内においても張郃に比肩すると言われた歴戦の名将は、張遼の一撃のもと為す術もなくその首と胴を分かたれたのであった。

 張遼は雄叫びを響かせる。

「ほんで、袁紹はどこじゃあ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 挟み撃ちにするはずが、挟み撃ちの憂き目に遭っている――袁紹軍の動揺は枯れ葉に放った野火のように広がっていく。さらに烏巣の拠点が叩き潰されたという情報までもが伝播し、混乱の度合いは土手を乗り越える大水のように激していく。

 その混乱はやがて幕僚にも感染し始めていた。

「離反、脱走する兵も出ております! このままでは……」

「裏切り者は殺しなさい!」

 袁紹の言葉に、とうとう田豊が声を荒げる。

「そのようなことをおっしゃっている場合ですか! このままでは李岳軍と曹操軍の挟撃を受け、この本陣まで侵入を許しますぞ!」

 歴戦の軍師といえる田豊の言葉は十分に説得力を持つものだった。しかしこの言葉でさえ現実を見誤っていたとしか言いようがない。田豊が小言を言い終えた頃、怒号と共に本陣に悲鳴が走った。

 

 ――曹操軍、曹操軍襲来!

 ――李岳軍、破られます! 先頭は張遼!

 

 あれほどの大軍を揃えたというのに、あれほどの威容を誇ったというのにこの脆さ……

 絶大な大軍というのはこれほどの多くの者がいるのだから、という慢心に容易に直結する。ゆえに一人一人の力と意志が問われる鉄火場では容易く瓦解するものだ。

 他人の背に隠れ、数を恃んで笠に着る者たちは敗勢を覆す胆力を持たない。袁紹軍はあっけないほどに四分五裂していく。

 そしてそれは名のある将や参謀たちも例外ではなかった。まるで追い立てられた羊のように、または蜘蛛の子を散らすように幕舎から飛び出していく。誰一人として袁紹を気遣う者はいない。

 ただ一人となった幕舎の中、袁紹は地にへたりこみながら嘆息した。もう体のどこにも力が入らない。立ち上がる気力すら全て溶けて流れていってしまったようだ。

「ふふふ……あーらら。誰もいないじゃありませんの。だーれもいない……わたくしは袁本初でしょう? だというのに何故かしら? 袁家の頭領、北方四州を統べる大将軍、四世三公……」

 口から漏れ出る肩書きのどれもがあまりにも空疎でむなしい。

 同時に本当に求めていたものは何だったのかと袁紹は薄ぼんやりと思い出そうとした。大陸制覇、袁家の頭領、曹操に勝利……思い浮かぶ言葉はいくつもあれど、そのどれもが本当の意味で袁紹の心を揺らすことはなかった。

 本当の望みが何なのか、それを思い描くことさえ諦めようとしたその時だった。

 

 ――姫、どこだ!

 ――麗羽さま!

 

 どこからか聞こえてきた声に袁紹はのっそりと顔を上げた。自分でも気づかないうちにこぼれていた涙が、ぱたぱたと膝を濡らす。やがて幕舎の扉を蹴破って飛び込んでくる二つの影。

「間に合った……」

「待たせたな、姫。あたいたちがかっ攫いにきたぜ」

 せり出した陽光を背負って影しか見えないが、袁紹がその二人を見間違えることなどありえなかった。

「……お二人とも」

 顔良、そして文醜は全身から汗と熱気を湯気に変えてそこに立っていた。どれほど急いでここまで来たのだろう。指揮を任せた軍はどうなったのだろう。袁紹の脳裏にはいくつかの疑問が浮かびもしたが、それが明確な考えとして焦点を結ぶことはなかった。

 ただ右と左からしがみついてきた二人の熱が、冷え切った心身を暖かく満たすだけ――

「……どうしてここに」

「姫を助けるために決まってるだろ!」

「麗羽さま……! ごめんなさい、お一人にしてしまって……私がもっと、もっとしっかりしていれば」

 抱きしめ返す気力はまだない。けれど袁紹の心には言葉が蘇り、それは繰り返し反響した――本当の望み、本当の願い。

「うっし、逃げるぞ」

「……逃げる?」

「ああ、逃げよう。ぜーんぶ、なんもかんもほっぽり出して」

「けれどここから逃げるなんて……」

「アテならあるさ」

 まごまご言い募る袁紹を強引に担ぎ上げ、文醜は愛馬にまたがりただちに駆け出した。慌ててしがみつく袁紹と遅れまいと続く顔良。文醜は自陣だというのにまるで攻め込むような勢いで袁紹軍本陣を駆け抜けた。

「どけどけぃ! 文醜将軍のお通りだぞ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 袁紹軍はほつれを引かれて一気に型崩れしていく布地のように、もしくは朝日と共に溶け落ちる氷塊のように崩壊していった。

 烏巣に蓄積していた兵糧を焼き払われ、策謀を巡らせていた李岳軍への待ち伏せ作戦に失敗、さらに南北から李岳軍と曹操軍による挟撃を受け、その最中に総大将の袁紹が行方をくらました。土壇場で統率さえ喪失した袁紹軍に打てる手は何一つ残されていなかったのである。

 とどめは官渡城から出撃してきた無傷の匈奴兵と黄忠率いる予備部隊。華雄を先頭に行われた攻勢は、袁紹軍残党をもはや体裁さえ整わぬ無残な末路に至らせた。

 

 ――その全てから目を背け、見捨て、袁紹と顔良と文醜は東に逃げた。

 

 文醜の体に手を回してしがみつく袁紹に先を見る余裕などどこにもない。どこに行くのか、これからどうなるのかすら想像する余力もなく、疾駆する馬上の揺れに身を任せるだけだった。

 やがて二騎と三人は、鶴翼の陣形で網を張る曹操軍が待つ地点へと吸い込まれるように近づいて行った。

 

 

 

 

 

 

 いつの間にかうつらうつらとしていた袁紹だったが、急停止したためつんのめるように跳ね起きた。周囲の異様な様子に危険を察知する。見ればゆうに千は超える兵に取り囲まれていた。振りかざされている旗は曹――

「そこまでよ、麗羽」

「か、華琳さん……」

 曹操が一騎供を連れて近づいてくる。袁紹の心に波が立つ――誰のせいで、こんな! 胸中に浮かぶのは、業火で苦しんだであろう愛した親友の張貘の横顔。

 騎乗時と同じく袁紹を力任せに担ぎ、文醜は地面に降り立つ。そして予想だにしていなかった言葉を叫んだ。

「曹操! 約束通り姫を連れてきた」

「……猪々子さん?」

「文ちゃん!?」

 振り返った文醜は、悪びれもせずに言ってのけた。

「ごめん、ふたりとも。裏切ってたのは許攸だけじゃない……あたいもなんだ」

 言葉を失う袁紹と顔良。まさか絶対に裏切ることなどあり得ないと断言できる一人だったのに。

「あたしはさ、負けるって思ったんだ。勝てないって……この先どうにかなるならわからないなら……いや違うな。一つだけわかってた。この戦い、勝っても負けても……このままじゃあたいたちは幸せになんかなれないって」

 

 ――文醜はずっと見守っていた。怒りに任せて孤独になっていく袁紹を。その袁紹を支えようとしながら無理して落ち込む顔良を。さして頭も良くない自分に何ができるだろうかと懸命に考え始めた矢先、接触してきたのが曹操配下の程昱だった。

 程昱は言った。袁紹は遠からず滅びると。この先もうダメだと確信した時、機を見て脱出せよ、逃げ出した先で必ず助けるから、と。

 

「あたいは賭けたんだ。博打は大きく張るに限る。種銭は袁紹軍六十五万と北方四州に全土制覇の野望。見返りは姫と斗詩の命。こんな迷う余地のない博打は他にないぜ」

 再び曹操に振り返ると、背負っていた斬山刀を投げ捨てながら文醜は言う。

「曹操。あたいは約束を守った。次はお前が守る番だ……」

「いいでしょう」

 曹操は一人で進んできた。顔良、文醜を気にもしない。本気を出せばこの場で絞め殺すことも羽交い締めにして人質に取ることも可能だが、顔良はそんな選択肢さえ脳裏に描くことが出来ずにただ座り込んでいた。

「袁本初。いえ、麗羽。かつての我が友」

「……華琳さん、わたくしは! わたくしは貴女が許せない! なぜ京香さんを殺したのです! なぜわたくしから全てを奪うのです! なぜ、なぜ!?」

「話すな。話すことなどない――麗羽!」

 曹操は抜剣し、そして誰もが一歩も動けないほどの素早さで剣を払った。黄金色の豊かな髪が風に舞い、その場にいた者たちの目を覆う。

「か、華琳さん……」

 袁紹はうつろな瞳で曹操を見上げた。曹操は泣いていた。いや、雪だった。いつ頃から降り始めていたのか、雪の欠片が曹操の頬を伝っている。朝日に照らされそれは容易くしずくになった。袁紹はなぜか、その一滴の水から目を離せなくなっていた。

「袁本初は死んだ……逃げ惑い、ここで無様に首を討たれた。この髪がその証よ……衣を脱ぎなさい」

 言葉を飲み込めず、固まっていた三人に向けて曹操は繰り返した――衣を脱げ!

「こ、この袁本初を辱めるとでも……?」

「いいから、早くしなさい!」

 有無を言わさぬ口調に何かを察したのか、顔良と文醜が袁紹の衣を脱がしながら曹操が投げて寄越した代わりの服を着せた。続いて自分たちもみすぼらしい民の服に袖を通す。豪奢な作りの美しく可愛らしい衣が地に投げ捨てられた。それと黄金の髪の房をまとめて抱え上げると、曹操は告げた。

「貴女たちから命以外の全てを奪う。口を固く閉じなさい。何も話すな。官位も衣も捨て、名も変え、別人としてどこか遠くで生きなさい。私に出来るのはこれくらいよ……後は勝手にしなさい」

「この、この袁本初に情けをかけるというのですか。貴女が全てを奪ったのに! 貴女が、貴女が京香さんを奪ったから……」

「……その京香の最期の願いよ。私に、麗羽のことを許せ、と」

 茫然と立ち尽くす袁紹。すっかり短くなった髪を振りながら、落涙するまではさしたる間を必要とはしなかった。

「次にもし会うことがあれば、麗羽、私は貴女を斬る。京香のかけた情けさえ裏切るというのなら、私は最大の怒りと憎しみをもって貴女を殺す……いいわね、二度目はない。絶対に、永久に姿を見せるな」

「何をしろというのです……どこに行けというのです……」

「……生きなさい。どこか遠くで」

 それ以上言葉が返ってくることはなかった。うなだれ、顔も上げないままの袁紹を両脇から支えつつ深く会釈をして去っていく顔良と文醜。

 

 ――愚かで馬鹿な女だった、と曹操は思う。悲しむな、と己に念じた。たかが親友、それを再び失っただけではないか。

 

 口の中に蘇るいつか楽しんだ茶と菓子の風味を噛み砕きながら、曹操は去りゆく三人の姿を見送り続けた。

 四半刻ほど経った頃、馬蹄を響かせてやってきたのは李岳だった。

「曹操! 袁紹は」

 そう問う李岳に、曹操は袁紹の髪を渡した。

「これは」

「私が切った」

「……そうか」

「いいのね?」

「何が? 袁紹は死んだ。それ以上の成果があるとは思えない」

 その後の戦況について細かいやり取りが交わされた。袁紹軍は散り散りに逃げ惑い、集団として組織的な抵抗は不可能であること。これからは順に降伏を受け入れていくことになるだろう、と。

 話すことを全て話した後、李岳が申し出た。

「一つ頼みがある。その髪を一房でいい、分けてほしい」

「なぜ?」

「洛陽の袁術殿にお届けする。叶うなら助命を、と言われていた」

「そう……ならばこの半分を。もう半分は、京香の墓前に供えるから」

 京香とは張貘のことであろう、と李岳は察した。袁紹、張貘、曹操の三人がどういう関係だったのか、それを聞けるほど李岳は恥知らずにはなれなかった。

 見上げると雪。空は晴れていて陽光も燦々と照るというのに妙にしっかりと雪が降る。しかしなぜか積もりはしない。大地をうっすらと濡らすだけだろう。

 

 ――風邪なんか引かなければいいけれど。

 

 それははっきりと李岳に聞こえた声だった。

 しかし曹操は確かに口をつぐんだままで、周りには誰もいない。口から声として出すことなく、願いや思いだけが伝わることがあるのだろうか。あるのだろう、と李岳は思った。よほど強い思いであるのなら。

 李岳は降り続ける雪を追って天を見上げた。寒さが、長くは続かないことをやはり口には出さないままに願った。

 

 

 

 ――陳寿は云う。袁紹、大軍を率いて南下をするも、李岳と曹操は烏巣を焼き、袁紹軍の兵糧を断つ。混乱に堕した袁紹軍二十万を殺した。顔良、文醜を始め主だった将を斬った。逃走した袁紹を捕らえ、首を斬り、それを晒した、と。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 降ったり止んだりを繰り返す雪の中、袁紹らは辿々しく街道を進んでいた。哀れな民は珍しくもなんともない。三人を不審に見咎める者は幸い誰もいなかった。

「寒い……寒い、ですわ……」

「斗詩、寒いってさ! もっとこっち寄りなよ」

「う、うん」

 左右から支える二人の体を火の代わりにしながら、袁紹は足を引きずり歩き続けていた。馬はとうに手放し路銀に替えている。すっかり軽くなってしまった頭、肌触りの悪いみすぼらしい服、ほとんど無一文、無位階、家門もなく、もはや人に名乗る名さえない――

 袁紹が悲しみに暮れようとする度、騒ぎ出すのが文醜だった。そして困る顔良。まるでいつかやっていた、いつものやりとりそのまま。

「元気ですわね、貴女方……全て失ったというのに」

 あれあれ、と文醜は袁紹の顔を覗き込む。顔良もいつの間にか生気を取り戻したような表情。

「死ななかっただけめっけもん! どうせ田疇とか劉虞とか黄巾とか胡散臭いのに頼らなくちゃならなかった勢力なんて、勝てるわけなかったんだ」

「それは言い過ぎだとしても……麗羽さま。私たち三人、生きてるんだから、もう一度……ねっ?」

 そんな前向きになれそうもない。元気になれる予感などかけらもない。とは言え否定する元気もなく、袁紹はどこか投げやりな気持ちで、二人について行こうとぼんやり思った。

「とりあえず南かなぁ。黄金郷ってのがどこかにあるらしいぜ、三人でそれを探しに行こう。いーじゃん! 麗羽さまは博打に強いし、あたいはそれに乗っかってどかんと賭けるんだ! 面倒ごとはきっと斗詩がなんとかしてくれる!」

「ま、また面倒ごとは私……」

「でも名前どうする? 袁紹って名乗るなって言われてもさ、会う人会う人みんなと真名を分け合うわけにもいかないし……ていうかあたいらも名前変えなきゃじゃん」

「……家族か姉妹ってした方がいいかもね」

「家族、家族かぁ」

 元は馬賊だった顔良と文醜。親の顔さえ覚えていない。人並みの暮らしが出来るようになったのは全て袁紹と出会ってからだった。

「家族、家族……」

 文醜は繰り返した。いつの間にやら泣きながら笑い、二人の肩を力任せに抱く。

「この三人は家族! だからさ、あたしら三人なら大丈夫さ」

「文ちゃんったら……もう」

「ブブー! はいドーン! 文醜じゃないのに文ちゃんっておかしいだろ! 斗詩、今夜の晩ご飯担当な」

「えっ、えっ! じゃ、じゃあどうすれば……なんて呼べば」

「……いい加減、真名で呼んでくれよ。斗詩」

「うっ、あっ、いっ――い、猪々子、ちゃん」

「うっひゃー! もうこれ結婚だ! 三人で結婚、みんな家族だ!」

 文醜が爆笑しながら顔良の頬に口づけをする。

「泣くなよ斗詩」

「猪々子ちゃんこそ」

「お二人とも、本当に泣かないでくださいまし……涙が濡れて、冷たいんです」

「じゃあ三人で競争。最初に泣き止んだやつが大将軍」

「意味がわかりませんし、その冗談は全く笑えませんわ……」

「てへへ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――後年、呉よりさらに南の越南に奇妙な人物が現れる。

 

 姓は士、名は(ショウ)。先祖代々この地を治めていたと大ぼらを吹きながら、大家族を率いては地元の者たちを束ねて商路を開いた。南は海路から遠く西方の品まで取り扱い、北は山道を通って洛陽にまで珍品を届けたという。多大な博才に恵まれ士燮は次々と金脈を掘り当て、一代で莫大な富を築き上げることとなる。

 士燮は尊大な態度に横柄な物言いだったが、持ち前の愛嬌で民には愛され地はよく治まったという。だがしかしその本当の姿を知る者はおらず、洛陽からやってきた袁徽という者が伝える事跡のみが後年記録されることになる。

 もちろん歴史書には、士燮の豊かな金の巻き毛や独特の笑い声など、記されようはずもなかった。

 

 

 

 

 




袁から口と衣を取ると……?

というわけで袁紹戦決着です。駆け足だった気もしますが、それはこれまでがあまりに大ボリュームすぎたからでして。
三人で南の黄金郷を目指すというのは無印恋姫のネタを援用してます。
そして最高に自然な形で斗詩に猪々子って真名で読んでほしい、という私の欲望は満たされました。答えは結婚です。
本作では仕様上大変しんどい思いをして頂き、割を食ってしまった三人ですが、この後はよい人生があるように願うばかりです。せんきゅー。

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