真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百五十五話 月と花

 ――并州太原郡晋陽。

 

 街に到着した頃にはすっかり積もり始めていた。洛陽から北に向かっただけで途端にこの降雪量である。陳寿はうんざりしながら雪を払い落とすと、宿屋の戸をくぐり湯を所望した。

「どっひゃぁ! しみしみぃ〜!」

 冷えた体で一気に湯に入ったものだから手足の先がビリビリと痺れた。それでもこの寒さの中でちんたらしているよりは一向にマシである。

「ぶっふぅ。ぷはぁ」

 行儀が悪いことは重々知りつつも、陳寿は湯に頭のてっぺんまで潜ってぶんぶんとしぶきを散らした。ようやく人心地。今年の冬は容赦なく底冷えする。

 この『浴槽に湯を張る』というのは并州の伝統で、近頃は洛陽や冀州などでも、主に士大夫ではあるが導入している家が増えているらしい。寒い冬にはこれが欠かせないと并州の者はこぞっていうが、厳寒の地ならではの合理的な仕掛けだと体験してみて陳寿は思う。定かではないが、五十年以上前からの風俗とのこと。

 湯桶につかりながら陳寿はぼんやりと史書に思いを馳せた。李岳の正体を暴かんと宮中での地位を危うくさせてまで没頭し数年、陳寿はいま最後の旅中であった。

 河北から荊南に至るまで己の足で旅をして記録を集めて来た。陳寿は記録から読み取れる改竄に対してほぼ完全な形で反論できるだけの根拠を積み上げてきた。李岳はいた。巧妙に隠されているだけなのだ!

 最後に必要なことは証言である。李岳を知る人を求め、陳寿は北を目指したのだった。

 何らかの理由で一切の記録が抹消され、その名前さえみだりに口に出されることはなく、やがて風化し忘れられていった男……しかし、匈奴の大地ではそうではないだろうと陳寿は考える。

 洛陽の箝口令も北の雁門関を越えれば効力を持たない。漢との関係を再構築した人物であれば匈奴の記録に残っててもおかしくない。匈奴は元来文字による行政記録を残さない民族であるが――独特の文字自体はあるらしいが――漢との交流が盛んな昨今では漢字で記録を残すよう単于が指示しているという話も聞いたことがある。

 匈奴の者なら、きっと李岳を覚えているだろう。

「これに当たらない手がありますか!? いやない!」

 湯船の中で拳を突き上げる陳寿。しかしやがてよろよろと体勢を崩すと湯桶からぷうぷうと這い出た。

 熱い湯に入ったまま気焔をあげたせいか、少しのぼせてしまった様子。ふらふら着替えを済ませると下男に頼んで湯上がりの冷えた茶を所望した。宿のおかみが軽い食事と一緒にニコニコと運んでくる。

 腹が減っていたことを思い出し、陳寿は無我夢中で平らげた。

「んー、満喫した。ありがとう」

「いえいえ」

 特に羊の串焼きが絶品であった。セリか茴香(ういきょう)か、独特の香辛料がたまらない。

「湯はいかがでしたか」

「生き返った気分ですよ女将。しかしなかなかのこしらえですねぇ。水は別で沸かして外で運んでくるんですか?」

 湯の周りに火を焚く設備はなかった。しかしわざわざこの老婆が手桶で溜めたわけではないだろう。陳寿にはその仕組みがついぞわからなかったのだ。

「水が通る道があるんですねぇ。それで運ぶんです。仕組みさえ整えりゃ簡単なものですよ」

 おかみの説明はたどたどしかったが、陳寿はなんとか理解した。つまり配管なのだ。

「これを考えたのは相当の知恵者でしょうね」

「さてねぇ、李岳という方がですねぇ、初めてこしらえたそうですよ。昔は李岳浴と呼んだようです」

 へぇと茶に口をつけながら陳寿はまだ少しのぼせた様子でうなずいた。

「ああなるほど、李岳ね――どこかで聞きましたね李岳……李岳かぁ。なんだっけ? 聞いたことある。李岳、李岳……? ん? ほ?」

 り! が! く! 最後は驚きのあまり一音ずつ全力で発音しながらあわてふためき、思わず足をすべらせ脳天から着地した陳寿。しかし何やら嬉しげに両手を突き出してはワハハと笑うものだから、宿の店主は厄介な客を泊めてしまったものだと後ずさりしたという。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 本隊集結を経た李岳軍は豫州梁国の下邑にまで陣を進めた。豫州までは二日の距離である。否が応でも緊張感は高まった。ひどく青い空だけが穏やかで、呑気なほどだ。

 李岳は司馬懿と徐庶だけを伴い小高い丘の上にいた。

 季節は夏からだいぶ進んでいるというのに蒸した。汗ばむ額を拭い、李岳は彼方を見ていた。砂塵が舞い、風にたなびき山を造形するように空を染めた。地平が沸き立つように蠢いている。天に届くまでの砂埃を巻き上げるとは、まさに人の群れである。

 曹操軍八万。英雄が鍛えた、嘘偽りなき精鋭だろう。

 曹操はここまで小規模な都市、村落には目もくれずに直進してきた。目的が領土の拡大ではなく李岳軍の打倒と殲滅にあるということは明白だった。

 孫権軍の動きも随時届き始める。黄忠ら別働隊との距離もまた近づいているが、まずは北上して沛国付近で曹操軍との合流を優先している動きだ。しかし曹操軍の展開が早い。このまま行けば孫権を待たずに豫州へと踏み入るだろう。

「孫権の到着を待たないとしたら、少し不思議ですね」

 首を傾げる司馬懿に李岳は苦笑を漏らした。馬鹿にされたと思ったのか、ムッと口を尖らせて長い髪をさらりとかき上げる。

「……なんです。私が何か見落としていますか?」

「馬鹿にして笑ったわけじゃないんだ。わからないのも当たり前だなと思っただけさ」

「ではお分かりになってるのですね、理由」

「そんな怒るなよ。大したことじゃない――」

 らしいな、と李岳は思っただけなのだ。本当は一人で全てをねじ伏せたいのだ。それが曹孟徳という女なのである。

「まぁ良いのですが……さて、このまま行けば沛国の城塞を奪い合うことになるでしょう。方策を決めねばいけません」

 微妙なところである。沛国を死守せんとすれば籠城が必要になるが、造りが籠城に向いていない。周囲も沼沢地でまさに泥沼の展開になりかねない。ただし手放すには惜しい点もある。沛国は太祖劉邦の生地なのだ。儒学者に意見を伺えば死守せよと口を揃えるだろう。

「どうされますか兄上」

「ん、放棄で」

 結論はもとより出ていた。悩んでみただけに近い。徐庶も当然という顔をしている。

 守るに難しいのならば与える方が良い。曹操も孫権もそう考えているからこそ沛国付近を合流地と定めたのだろう。無駄に争うよりも住民への被害は少なくて済む。

 あとは方法の問題であるが、ここで意見が割れた。

 司馬懿は曹操軍との衝突を避けて譙まで撤退することを提案したが、徐庶はまずここでぶつかるべきだと主張した。

「決戦の地は譙です。磐石の態勢で備えることが肝要かと愚考します」

「兄上、まずは一当てすべきかと。みすみす引いては武門の名折れのみならず、曹操を勢いづかせることになります」

 勝負は沛国から西、譙に至るまでの間だという読みは一致している。

「引くにしても決戦を視野に入れたやり方が必要というわけだな」

「譙の周辺は街道が整備され戦うに向いた平地であり、なおかつ豫州の中心でもあります。ここを奪われれば豫州の東半分が伐り取られることになるでしょう」

 徐庶の言葉に司馬懿が付け足した。

「沛と譙を立て続けに掌握したとなれば、曹操は英雄としての正統性までも得ることになりかねません」

 二人が何が言いたいか李岳にもわかっていた。譙は曹操の生誕地なのだ。

 

 ――漢を興した劉邦の生地である沛国と、魏を建国した曹操の生地である譙は隣接している。史実において曹操は魏王に即位した後、沛国の支配領域のほとんどを削減して譙に組み入れた。曹操の性格からして故郷に錦を飾ることは建前でしかなく、歴史が転換していることを明確に表すために行った処置だろうと李岳は考える。

 

 この時代、群雄が敵を倒しながら生まれ故郷を支配下に置くということは侮ることの出来ない成果である。民は英雄の帰還に歓喜し、こぞって助力を申し出る可能性がある。曹操は手抜かりなく戦力を整えるはずだ、渡せば豫州の勢力図は一気に傾く可能性がある。

 司馬懿は慎重策か、徐庶の積極策か。

 李岳が選んだのは剣だった。

「一度当たる」

 司馬懿も徐庶も同時に拱手した。

「曹操の手の内を探る。騎馬隊にどう対応するか早めに把握しておきたい。その上で例の作戦の見極めも行おう」

「初手はどうされますか」

 司馬懿だった。既に切り替えてしまっている。それにここで当たるのも読み筋の一つだったか。

 李岳は少しだけ考えて言った。

「匈奴兵をぶつける」

 にわかに色めき立つような雰囲気になった。李岳は匈奴兵を温存し、決戦で用いるだろうと誰もが思うところ。そこを初手。面食らうのも当然と言えた。

「まずは匈奴兵の騎射で曹操軍の損害を判定してから次の手を決めようと思う」

「それで崩れたら兄上はなんと手を打たれるおつもりで?」

 李岳は肩をすくめた。

「隙が生まれるならもちろん総攻めで押せるだけ押す。ただし一度痛い目を見せられた拒槍馬も警戒しなければ。あちらに備えがなければ一方的な展開になるかもしれないけど」

 期待薄ではあるが、という言葉は口に出さないが言外に滲み出ていた。反董卓連合での拒馬槍に加え、連弩、鐙まで導入していると調べがついている。他にも備えがないと誰に言えよう。

 それがどの程度のものなのかを早めに掴んでおきたい。騎馬隊をひと時押し留められる程度のものなのか、正面から拮抗する程度なのか、完全に無効化するほどのものなのか――

「兄上、あまり深くご心配召されるな。我が軍は強いのです。それを信じ、戦いましょう」

「睡虎先生に言われると、百人力だな」

 徐庶はにっこりと満面の笑みを浮かべた。

 幕舎に戻ると、編成は速やかに実行された。

 中央本陣に赫昭が鶴翼で半円を描き、その前曲に華雄と張郃の重装歩兵、最前線に徐晃の長槍隊。騎馬隊は左右に分割し、右翼に張遼と呂布と趙雲、左翼に高順と馬超と馬岱。そのさらに左翼に匈奴兵を並べる。全体的に左方に膨らんでいる形だが、左右の意味は特になく匈奴兵を独立させるのが狙いだった。

 編成は強力無比だ。史実の曹操が知れば嫉妬さえしたろう。

「これで負けるなら、指揮官の差だな」

 李岳の小さな呟きを、めざとい軍師が聞き流すはずもない。

「ご心配なく。その時は我々参謀が無能なゆえです」

「そうです兄上。デンと構えていてください」

 司馬懿と徐庶の励ましである。李岳は面白がって苦笑いを浮かべた――司馬懿と徐庶! 二人の言葉がより一層李岳の気持ちを強めたとは思いもよるまい。

 その夜、激突前の最後の夜営は静かな夜になった。

 李岳は眠りにつくことが出来ず、陣幕の外で月を眺めた。己がよく月見をするということに李岳は近頃ようやく自覚的になった。これまで何度無意識に見上げたろう。また見てやがると、月も呆れているに違いない。

「また見てる」

 月ではなかった。現れたのは呂布だった。

「……驚いた。待ち伏せしてた?」

「別に」

 呂布が心外だという風に首を振った。

 二人並んで座りこみ、言葉もなくただ静かに時を過ごした。

 やがて呂布が言う。

「強くなるって決めた」

 過去の話をしているのだと、李岳には察しがついた。

「夜空を見た」

「ん?」

「星と……白蓮がいた。匈奴の時。北に走って野営した」

「そうか」

 対匈奴の戦の時、呂布は公孫賛と趙雲と共に匈奴の本拠地を目指して長征の途についていた。こんな夜を過ごしたこともあったのかもしれない。

 寂寞。公孫賛の面影が脳裏にちらつく。

 不思議なくらい、いつまでも経っても忘れがたい人だと思う。

「冬至」

「ん?」

「恋も戦うから」

 李岳の肩の小さな震えを呂布は見逃さなかった。

「……恋はいつも戦ってるじゃないか。いつもたくさん頑張ってるだろ」

「あれは死なない戦い」

 刃を突きつけられた気がした。

「恋が戦ってるのは死なない戦い」

 呂布を遠ざけてる。それを見透かされた気がした。

 そうではないと李岳は首を振って答えた。誰もがそうだ。誰も死なせないために全力を賭している。区別なく。その点にだけは胸を張れる。

 しかし呂布はその目で、追及の手を緩めなかった。

「恋はもっと戦える」

「無理させたくない。誰にもな。作戦で勝てればいいことだろう?」

「白蓮をまもれなかったから?」

「それとは関係なく」

「それで曹操に勝てる?」

「……さあな」

「――ばか」

 強烈な衝撃を受けて李岳は地に転がった。

 呂布の張り手が李岳の背中を襲ったのだ!

 李岳は死にかけている!

「ちょ、この感じ……地味に久々だな……!」

「手加減している」

 呂布が本気で打っていたのなら、李岳の体は四分五裂して大地を赤く彩っていただろう。

「思い出した?」

「何がぁ!?」

 痛んだ腕をさすりながら涙を拭う李岳に、呂布は悲しいまでに朗らかに微笑んだ。

「恋は武器。恋は花じゃない」

 腰を抜かしたまま言葉を失った李岳、呂布は覗き込むようにして言った。

「ばーか」

 

 ――曹操とは死力を尽くす戦いになるだろう。誰も失いたくないと思うのは夢を見ているのだろうか。戦争だから死ぬこともあると割り切れるものなのか。

 

 李岳は差し出された呂布の手を握った。いつの間にかすっかり荒れて固くなった手だった。李岳と共に生きるために傷つく体……この人が無残に死ぬと想像するだけで、李岳は叫び出しそうになる。

「お腹すいた。何か食べて寝る」

 柔らかく、温かい声だった。穏やかに微笑み、くるりときびすを返す呂布。先に歩き出すはずが、李岳を待つようにその歩幅はゆっくりと小さい。

 李岳は悔い、泣きたくなった。

 君は花でもあるのだと、どうして言えなかったのかと。

 

 翌朝、戦鼓が大地に轟いた。


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