真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百六十二話 信頼するということ

 一か八か、破れかぶれという表現さえ生温い。無数の偶然と運が織りなす都合の良い結末――総じて奇跡と呼ぶそれ――を信じさせるため、はったりを塗布して全員無理やり巻き込もうとしている。一つでも見誤っていれば死だ。それも全軍必滅の定めである。

(だが、けど、しかし……それでも!)

 思いつく限りの全ての逆接の語を念じて李岳は駆ける。

 膝を屈してしまうくらいなら、嘘で世界を塗り固めた方がまだましだ。李岳は餌を垂らしたのだ、希望という餌を。人は希望を求めるならば走ることが出来る。そして走らなければ望みなどどこにもない。

 全てを吹き飛ばす爆炎のような怒りと、貧者の哀願をない交ぜにしたような襤褸が如き希望。重くのしかかるが、しかし屈すれば優しく抱きとめてくれる柔らかい絶望との対比。

 どちらを選ぶかはとうに自明である。李岳は心で叫んだ――絶望にひれ伏すな、希望にすがりつけ。お前が共に戦う仲間を信じている限り!

 

 

 

 

 

 一方、夏侯惇もまた戦場の高揚の中にいた。

 討ちも討ったり二万の兵。ここまで鮮やかな奇襲が決まるとは! 予想を超えた戦果に夏侯惇は興奮を抑えきれずに爆笑した。恐らくこれまで李岳が戦場でこうむった被害のうちでは最大のものだろう。そしてその記録は今はまだ途中経過に過ぎない。

 郭嘉が言う。

「春蘭様、時間との勝負です……袁術軍に手こずっているようでは、本当の標的を逃します!」

「わかっている! 稟、お前の指示が頼りだ! いくぞ秋蘭、柳琳!」

「応、姉者!」

「は、はい!」

 夏侯惇自ら最前線を行った。健気にも立ちはだかってくる黄金鎧の袁術兵を片っ端から斬り捨てていく。確かに装備は頑強だが動きは遅い。夏侯惇ほどの手練であれば鎧の隙間を狙って斬りつけることは造作もなかった。

 そして姉の行く道を露払いせんと射込まれる夏侯淵の矢。切り開いた血路をこじ開けるように押し込んでくる曹純率いる虎豹騎――なるほど、これは確かに戦いやすい。曹操はこの連携を見越してこの三人を別働隊に振り分けたのだ。その慧眼、やはり乱世の覇王にふさわしい!

 とにかく今は袁術軍を斬り潰し、その先の李岳を目指さなくてはならない。李岳軍の指揮系統が回復してしまえば挟撃の憂き目にさえ遭う。グズグズしている暇は一瞬たりとてなかった。

 それが十分にわかっている夏侯惇でも、決して無視できない相手がいた。袁術軍本営と(おぼ)しき場所に翻る『張』の旗。

 静止する味方を無視して夏侯惇は大喝した。

「張勲、出てこい! 貴様、ここで会ったが百年目!」

「あらら、夏侯惇さんこんにちはー。奇遇ですね、こんなところで」

「舐めた口を!」

 過去の屈辱が蘇り、夏侯惇の血液は一気に沸点に達した。

「忘れていないだろうな、張勲! 貴様と袁術のせいで我が軍は反董卓連合軍との戦いで大損害を被った! 貴様らの裏切りのせいで真桜は片腕を失い、季衣は死んだんだ!」

 あの時の絶望と失意の苦味は、今でも容易く口の中に蘇る。曹操軍全体を逃がすために殿軍として残った許褚。目を瞑れば焼きついているあの子の屈託のない笑顔――

 確かに李岳も許せないが、その直前に袁術軍が寝返っていなければあの結末はあり得なかった。我が身可愛さに立場を翻した袁術郎党を、夏侯惇は絶対に許すことができない。

「他人を利用してのらりくらりと……卑怯者ども! そのツケを支払う時が来たんだ!」

「……美羽様のためなら、どのような(そし)りを受けようとも構いません」

「だったら、華琳様の野望のために朽ち果てることにも文句は言うまいな!」

 夏侯惇は馬腹を蹴り、張勲目掛けて突進を始める。張勲は動けなかった。腰が痺れ、膝が震えた。立ち向かう兵も全く時間稼ぎにならない。人を木の葉のように振り払って夏侯惇は迫ってくる――美羽様、と漏れ出た声が願いを叶えることはない。

 その張勲をかばうように、袁術軍の実戦指揮官である紀霊がいつもの雄叫びのような笑い声を上げて前に出た。

「張勲! 姫様にお伝えを乞う! この紀霊、所用ができたようでございますれば! 再び相見えるはいささか難しくなり申そう、と!」

「……紀霊さん!」

 死ぬ順番を譲り合う様を夏侯惇は一笑に付した。元より紀霊も張勲も生かして返すつもりはなかった。命を斬り払いながら夏侯惇は復仇の予感に笑い続ける。夏侯惇にとっては己への足止めが一人だろうと二人だろうとさしたる違いはない。斬り捨て、主を玉座に導く血道を舗装するだけに過ぎない。

「いいぞ! どちらでも構わん。遅いか早いかだけだ。後できっちり袁術も送ってやる……不埒な造反者同士、あの世で慰め合うが良いわ!」

 馬蹄の音。歓声。迫り来る気配。

 張勲は着実に距離を詰めてくる夏侯惇から背を向けた。心臓が無様に高鳴って仕方ない。到底前など向いていられなかった。

 夏侯惇が恐ろしかったのではない。後ろを向いたのは別の理由だった。聞こえてはならない音が聞こえてきたからであった。馬蹄も歓声も背後から聞こえたのだ。まさかと思う。バカかとも思う。同時に、やっぱり、と心のどこかによぎる想い。

 はっきりわかることはただ一つ――李岳は三千の騎馬隊を引き連れ、再び鉄火場に自らやって来たということ。

 張勲にわずかに視線を投げたことを除けば、李岳はただ前だけを見据えて進んだ。呂布と趙雲が続き、公孫賛の遺した白馬の軍団が付き従う。

 それを迎える夏侯惇の表情は激怒にも歓喜にも似た。あるいは泣き顔にも。

 途端、張勲も紀霊も視界から消え失せた。夏侯惇は己自身に先を見通す智謀はないという自覚はあるが、同時に理屈はなくともはっきりとわかる時がある。夏侯惇にはわかった。曹操の覇道を狂わせた者こそ、この李岳であると。

「……良い根性だな李岳。のこのこ首を差し出しにくるとは」

 李岳はきょとんと首を傾げた。夏侯惇が何を言っているのか心底理解できないという風に。

「別に? お前らの間抜け面を拝みに来ただけさ。それに俺はこう見えて礼儀正しいんだ、いくら無作法な馬鹿どもだからと言って顔も見せないのは無礼だろう?」

「……勝てるつもりか?」

 李岳は笑う。

「お前も曹操も俺には勝てない。お前たちは俺には勝てない、決して。身の程を思い知れ、痴れ者め」

 気合いでとうにはち切れていた夏侯惇である。李岳の挑発は爆発させる刺激にしては余計に過ぎた。

 両者の間によぎる僅かな静寂。次の瞬間、愛剣・七星餓狼を奮って夏侯惇は弾けるように飛び出した。

 その人馬一体の動きは呂布に全力で対応させるものだった。大木をへし折るような音を立てて両者馳せ違う。ただちに二度目の激突。舌打ちをして呂布が武器を構え直す。夏侯惇の気勢はそれほどまでに高い。

 呂布が全力を覚悟し、したたかに柄を握ったその時だった。絹を裂くような悲鳴が上がった。それが飛来する矢羽の音だと明瞭に知れ渡ったのは、呂布が地に叩き落としてようやくであった。夏侯淵の放つ矢は、呂布をしてようやく見咎められる程の速さ。しかも狙うは李岳の喉元。

 それが呂布に火をつけた。意を察した赤兎馬が躍り出る。戦場に勇躍する紅蓮の刃! 無造作に立ちはだかった曹兵が四散してさらに艶やかに破壊と残忍さを彩る。

 しかし夏侯惇は臆さない。血飛沫を上げる兵の死体を踏み越えて呂布に挑んだ。正面! 七星餓狼の軌跡が呂布の視界を往復する。間合いは夏侯惇有利。それを鑑みても呂布は圧倒されていた。夏侯惇の背後でちらつく夏侯淵の射線が呂布の精彩を、躍動を奪う。

 まさに姉妹一体――血の通う肉親ゆえになせる業! 夏侯姉妹にのみ成し得る姉妹の陣に、呂布は生まれて初めて戦場で後退した。

 

 ――この連携は……!

 

 曹操の志、その完遂の責を背に負う夏侯惇と夏侯淵。流星のような趙雲の槍撃がなければ、呂布の体に滲んだのは冷や汗にとどまらなかったであろう。

「無理をするな、恋! 安い相手ではないぞ!」

「……チッ」

「姉者も止まれ!」

「わかっているわぁ!」

 呂布と趙雲を前にしてさしもの夏侯惇も動けない。戦況は一転膠着の様相を思わせたが、指をくわえて見ているほど曹操軍は怠慢ではなかった。

「逃しません! 虎豹騎、前へ! 今こそ勇気と忠誠を示すのです! 宿敵李岳の首を討て!」

 両翼から夏侯惇を追い越す騎兵たち。三人に一人しか残らないという凄絶な訓練を経て鍛え上げられた、曹操軍屈指の精鋭部隊である。

 それに白馬義従は正面からぶつかった。李岳が指揮し、それに喜んで服する白馬の軍団。負けられない理由があった。主君との、友との誓いがあった。守らねばならない約束。恐ろしいのは敵ではない。想い出さえ捨てて背を向けること。

 公孫賛は戦場の人だった。戦っている間、白馬義従は戦場の風の中に失った主を取り戻すことが出来るのである。

 そしてそれは李岳もまた同様であった。

「……て、手強い」

 曹純が呻くほど、李岳と白馬義従の奮戦は強烈な印象を残した。時間にしてみればわずかの間、それも虎豹騎の方が数も多く押し込まれたわけでもない。それでもこちらを呑むような戦意の高さが、束の間であれ虎豹騎指揮官、曹純の決断を惑わせた。

 その困惑、間隙を見逃す李岳ではなかった。

 李岳は自ら騎射を繰り返しながら先頭を行き、白馬義従を率いて敵を押し込んだ。態勢を立て直した袁術軍も加勢する。夏侯惇を守らんと押し出してきた虎豹騎と束の間激戦になる。血が飛び、倒れ伏す騎馬の悲鳴で山間がこだました。

 しかし初撃の勢いが(なら)されると、趨勢は徐々に曹軍有利に傾き始めた。数も違えば態勢も違った。奇襲の攻め手と受け手で気勢に差があるのは当然のことだった。時間が過ぎれば過ぎるほど李岳軍が劣勢になっていく。夏侯姉妹の猛攻と、郭嘉の指示を受けた虎豹騎を同時に止めるのは至難であった。

 やがて戦いが一刻を過ぎた頃、呂布が先頭に立って曹操軍に突っ込む姿勢を取った。応じる構えの夏侯惇。夏侯淵の矢は既に三桁の命を奪い、さらに執拗に李岳の眉間を狙う。

 来い、来てみろ――曹操軍の多くがそう念じた時だった。

「離脱! 離脱する!」

 李岳の声が響くと同時に、騎馬隊は掌を返すように反転しては隊列とは別方向に抜け出した。

 背を向けて一目散に逃げ出すそのその振る舞いは、この戦いに飽きたとでも言うようであった。距離を取って再び向かって来るというわけでもない。確実に、躊躇なく、そのまま逃げ去ろうとしているのである。

 わずかな間を置いて、夏侯惇のわななくような声が響いた。

「ふ、ふ、ふ、ふざけやがって! あんの野郎……!」

 迷うことなく追おうとする姉を妹が引っ掴んだ静止する。

「姉者、罠だ!」

「罠なら踏み潰す!」

「華琳様に叱られるぞ!」

「それはまずい! なんとかしろ!」

 激しやすいが、曹操の名前を出せば一旦冷静になるのだから夏侯惇もまるっきり猪武者ではなかった。

 だが、と夏侯淵でさえも思う。罠があったとしてもこちらを仕留め得るものなのか? この奇襲は完全に虚を突いた。備えなどあるわけがない。

 李岳に備えがあったとしても、襲撃を開始して今に至るまでに思いついた付け焼き刃のものでしかない。それに怯えて手を緩めるのは合理と言えるのか?

「どうする、稟! 李岳を追えばいいのか! 秋蘭の言う通り罠なのか!?」

 郭嘉の計算は夏侯惇が呂布とぶつかっているうちから始まっていた。李岳の陽動はあまりに見え透いていて、途中で撤退するのは明らかだったから。

 答えを弾き出した郭嘉は、再び夏侯惇の背にしがみつき言う。

「追います! そしてここで決着をつけるのです……李岳に思惑あるは明白。私はそれを見定め、出し抜き……必ずや、必ずや!」

 一時よりもわずかに体調を持ち直した郭嘉が、眼鏡の奥で鋭い眼光をたたえて唸った。満足げに頷き、夏侯惇は獰猛な笑みを浮かべて馬腹を蹴る。

「ぃよし! いくぞ!」

 逃げる李岳軍も追う曹操軍。取り残されたのは死を覚悟したはずの袁術軍だった。

 まるで嵐が過ぎ去った後のよう。張勲は茫然としかける気持ちを奮い立たせ、戦線の立て直しと負傷者の救護、殿軍との連携再構築を矢継ぎ早に指示した。

 張勲は既に去った馬群の方角を見やりながら、らしくない不本意な胸の高鳴りを覚えていた。

 

 ――ほんっと、好きになんてなれない。

 

 通り過ぎざま垣間見せたあの憎たらしい顔……信じたいと思わせる横顔。

 李岳は逆転の策をきっと思いついたのだと、張勲は抗いようもなく信じた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 こちらを追い始めた曹操軍を確認して李岳は安堵した。釣れた。これで場が立った。場が立たなければ博打も何もないものだ。

 張勲の命を救えたことも大きいが、まず第一の危機を乗り越えたことが最大の成果と言えた。重要なのは分断された部隊同士の連絡網を回復させることなのだから。そのためには自らの命を賭けるなど当然過ぎて賭け金としても最低額である。

 正面から夏侯惇を相手にすれば、時間を追うごとに曹操軍本隊が距離を詰めてくる。残されたままの殿(しんがり)部隊は状況もわからないまま孤立、殲滅されるだろう。それだけは回避しないといけなかった。

 夏侯惇というくびきが外れた以上、司馬懿が張勲らを救援しつつ統率の復旧に動くだろう。殿軍に残された部隊との連携もじきに修復される。後は追ってくる曹操軍別働隊であるが……

「逃げ切る当てがあるのか? このままではいずれ追いつかれるぞ!」

 隣に寄せてきた趙雲が言う。鍛え抜かれた白馬義従とはいえ、曹操軍最精鋭に寡兵でぶつかることは相当な負担になったはず。緒戦からの疲労も考えればこれ以上正面から当たることは容易ではない。趙雲でさえまずは逃げることを考える程だ。

 李岳は首を振った。

「逃げ切る当て? んなもんないさ」

「ほう? ならば我らは……哀れ! 首級と共に天下を曹操に献上するというわけだな」

 趙雲は軽口をやめた。飄々としたいつもの顔の奥にある、揺るがせにしない決意が滲む。

「……たとえそうなるとしても、お前だけは生かす。守るべき盟友を死なせるという地獄、一度でさえ多すぎるくらいだからな」

「その心配も無用。白蓮殿にする言い訳なんて、まだ思いつきもしないから……逃げ切る当てはなくとも、仕留める当てならあるという意味さ」

 驚く趙雲に李岳は付け足す。ただし、その手に現実味があるかどうかはいま懸命に司馬懿が検証し、手を打っている最中だと。

「どんな手だ?」

 李岳は肩をすくめた。

「もちろん、伏兵さ」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「もちろん、伏兵でしょう」

 騎馬隊の速度に懸命に追随しながら郭嘉は言う。

 身を晒してこちらを釣る以上、必ず逆転の手札を隠している。敵が強ければ強いほど合理で動くはずという倒錯した信頼の結果、郭嘉は李岳の真意に迫った。

 郭嘉は脳裏で李岳が行く道と李岳軍が兵を伏せうる隘路や森林、茂みまでを思い浮かべた。そして本隊が動き得る範囲と照らし合わせ、伏兵の有無や危険度を類推していく。

 伏兵の手配は本営に残った司馬懿の仕事だろう。郭嘉は思う。侮るな、どれだけ貴様らの戦略分析に時間を割いたと思っている。

「全て見抜いているぞ司馬懿!」

 ゆめ忘れるなかれ。この郭嘉、生まれ育ちは豫州潁川である。生地に近しいこの陳で遅れを取るはずもない。軍を伏せるにしても手口は無限ではないのだ。

「春蘭様……次の分かれ道を右へ」

「李岳は左に行くようだぞ!」

「それは罠です……ここは右へ!」

 一度張勲を救うために移動してきたこと、そしてすぐに逃げずにあえて立ち向かってきたことを考えれば、兵を伏せるに十分な時間を李岳は稼いだと考えるべきだ。

 李岳が行った左の道は真っ直ぐだが隘路で挟撃には理想的。一目散に追えば惨い結末が待っている。右に道を違えても遠からず合流する。郭嘉の脳裏に浮かぶ経路は最新の地図よりなお鮮やかに最短の追撃路を指し示した。

 

 

 

 

 

 

 

 司馬懿が兵を伏せた地点という地点を、曹操軍はことごとく躱しきる。距離は稼げても一兵も損じさせることが出来ない。

「引っかからんな」

「……軍師がいるな。多分郭嘉だろう」

 趙雲の言葉に李岳が答える。

 荀彧は本軍を離れまい、程昱は軍参謀というより情報将校として動いている。ならばここは郭嘉が有力だ。

 姓は郭、名は嘉。字は奉孝。豫州潁川郡の人。曹操を支えたいわゆる『穎川閥』の代表的な一人である。荀彧、荀攸、程昱らと肩を並べる……いや、ある意味それら英才を凌が得る軍師と言えるだろう。こと戦場の機微を読むにおいて、臥龍と鳳雛さえ及ぶだろうか。

「郭嘉はここが地元だ。地理には長けている。付け焼き刃の策では逆手に取られるのが落ちだ」

「……相変わらずどこで人の素性を仕入れるのやら。コツを教えてほしいものだ」

「書物に書いてあったのさ」

「……フン! 教えるつもりはないということか」

 思わず軽口を叩いてしまうほどの苦境とも言えた。

 白馬義従からも脱落が増え始めている。限界が近い。黒狐でさえ息を荒げている。産後とはいえ他の馬よりも未だ走るあの黒狐が、である。

 さすがの李岳も抗いがたい不安に襲われた。もし、全てを見抜かれていたら、逃げきれなかった、計算が間違っていたら――

 伝令と思しき影が李岳の元まで馬を寄せてきたのはその時だった。

「兄上!」

「珠悠か!」

 徐庶であった。その顔は紅潮し、息を荒げている。溢れ出すような期待が胸を叩く。

「どうだった!?」

 徐庶は拳を突き上げると、それをブンブンと振り回した。何よりの答えである。李岳の読みが通った。

「よくやった……よく!」

「兄上、まさに兄上のお考えの通りでした」

「偉いのは俺じゃない。わかるだろ」

「これに関わる全員が、そう言うでしょう」

 偶然の産物。しかしそれが生まれうる必然があったと李岳は思う。

 それこそ仲間を思う気持ちなのだと。

「で、あとどれくらいだ? 正直余裕は全然ない」

「一刻」

 厳しい。行き先に光明が見えたとはいえ、至難の道が険しいことに変わりはない。

「またそのような顔を。なぜ私がここに来たか、おわかりにならないのですか?」

「……珠悠?」

 徐庶は笑って鎧の上から胸を叩いた。

「ここからは私が先導を。ご不安は承知の上で、されど案ずるなかれ。豫州は我が生地でもあります。虎は寝ぐらを荒らされるのを何より嫌う。睡りを妨げる者どもにはそれ相応の代償を支払わせますゆえ!」

 

 

 

 

 

 

 

 郭嘉は李岳軍の驚異的な粘りに舌を巻いた。

 夜明けの襲撃から追撃を経てどれほど経ったか、李岳軍はまだ逃げ続けている。ある時は軍を分け、ある時は立ち向かう素振りを見せながら戦いつつ逃げる。軍師がそばにいるとしか思えない。思い浮かぶ名は一つ。睡虎――徐庶だろう。

 だが郭嘉は安堵もしていた。李岳軍は途中から挟撃を諦め、逃げ切ることに徹しているかの様子で、警戒すべき地理ではなく走りやすい道を選択するようになった。惑わされたとしても逃げに徹すればこちらは楽だ。もはや伏兵も反撃もない。疲れ果てるまで追うだけだと割り切る事ができる。

 夜間の襲撃から時も経ち、既に翌昼となっている。曇天の林道で、曹操軍は再度李岳軍の後背を補足した。

「稟!」

 夏侯惇の声に郭嘉が懸命にうなずく。終焉の時は近い。

「追い詰めました……この先は川です。もはや逃げる道はございません」

「伏兵はないんだな!」

「ございません」

 幾度計算しても誤算はない。この先に李岳の伏兵はない。兵も騎馬も一刻あたりに移動可能な距離は決まっている。空を飛ばない限り、兵を先回りさせることは出来ない。

 確信と共に曹操軍は林道を突き抜け、そしてその先に広がる戦場に飛び出た。

 次の瞬間、衝撃は下から来た。

 もんどりうって引き倒される馬と、宙に投げ出される兵。そして射込まれる矢にこだまする悲鳴。完全な不意打ちに曹操軍はなす術もなく隊列を乱した。なぜ自分が死んだのかわからないまま、冥府に送られた兵がほとんどだろう。

 李岳は先に逃げている。新手の仕業であった。

「バカな! 伏兵はないんじゃなかったのか!」

「そ、そんな」

「姉者、稟! まずは態勢を立て直すぞ!」

 しかし夏侯淵の号令も間に合わない。いるはずのない伏兵はあまりに周到に味方を殺していく。曹操から預かった対李岳のための精兵たちが、前進も後退もままならぬ中で腹を裂かれ首を斬られていく。

 ようやく後退し、態勢を立て直した時にはおびただしい死者に夏侯惇、夏侯淵、郭嘉に曹純の誰もが現実を受け入れられなかった。一万のうち、三千を超える兵が死んでいた。負傷者を含めれば戦力は半減どころではない。虎豹騎は期待される戦力のかなりの割合をたったわずかの間に喪失したのである。

 郭嘉は茫然自失の心境からなんとか脱し、苦痛と羞恥を振り払って前を見た。

 

 ――そこにはあるはずのない、あってはならないものがあった。

 

 郭嘉は戦慄ともに唾を飲んだ。しかし乾いた口蓋に舌先がひりつき、喉さえ満足に潤すことが出来ない。

 翻るは見慣れぬ旗。

 それは個人の姓を表すものではなく、だというのに誰が見ても誰が来たかわかる標。

 翻るは()の位を除けば許されぬ金地に紫の刺繍の牙門旗。

 それを掲げるは開府を認められ千将万官を率いる者。万石(まんごく)(あずか)り佩剣での昇殿を許されし者。

 帝を除けば天下にただ一人のみ許されし特権を振るう者。金印紫綬を天子より授かりし位人臣(くらいじんしん)を極めしただ一人の人。 

 四頭立ての馬車の上、豪奢な傘蓋を取り払い、立ち上がり、腕を組み、睥睨し、指をさし、彼女は万の兵に号令した。

 それは底意地の悪い、眼鏡の似合う李岳の戦友。

 少女は高らかに謳う。

「大漢帝国丞相、賈文和である!」

 

 

 

 

 いるはずのない援軍、あるはずのない伏兵。

 答えは明白。内になければ外に頼るまで。

 曹操が李岳を模倣し、李岳は曹操のそれを再び模倣した。

 李岳の考えた起死回生の策とは、発生した叛乱を鎮圧するために梁まで出陣していた賈駆を導き、そして彼女が率いる羽林軍一万による奇襲だったのである。

 賈駆は日輪を預かるように五指を天に掲げると、掌に受け取った熱と光を解き放つように曹操軍に突き出した。

「さぁ、丞相直々のおでましよ! 天下に仇なす奸賊曹操の手下ども、ボクの智謀にひれ伏すが良いわ! 者どもかかれい! 叩き潰してしまいなさい!」

 天子宸襟を守護せんと洛陽宮中に備える羽林軍が惰弱なはずもなし。その数無傷でなお一万。形勢は完全に逆転の様相を呈した。

 突撃、と鬱憤を晴らすような丞相賈駆の声が曹操軍の背中をしたたかに叩いた。賈駆の有頂天はまさに天にまで届く程だった。

 

 

 

 

 

 

 初撃があまりにも上手く行きすぎたこともあるのか、曹操軍の撤退の決断はあまりにも早かった。李岳の手勢ほど機動力に長けたわけではない羽林軍。無謀な追撃は危険にさらすだけだとした戒め、李岳は司馬懿のもとへ早馬を走らせた。夏侯惇らの執念は本物だ。これで断念したとは思えず、警戒を厳にすることを命じた。

 一段落したところで李岳は賈駆の幕舎に向かった。はためく丞相位の荘厳な旗はどこか現実味に欠ける。

「助かったよ、詠」

「冬至……死ぬところだったのよ!」

 掴みかかってきた賈駆の迫力に李岳は一瞬気圧されたたらを踏んだ。

「いつも、いつも無茶な作戦ばかり立てて!」

「すまない」

「本当に悪いと思っている!? たまたま梁で反乱が起きたから、たまたまボクが鎮圧に出向いていたから、たまたま楊奉がボクにまで知らせを届けてくれたから間に合っただけ! こんなたまたまに頼るなんて、貴方ねぇ……あとついでに言っておくなら、ボクは貴方が心配だからわざわざ来たんじゃないんだからね! 月のために来ただけなんだから!」

 強がりと事情の説明を同時にこなす腕前において、賈駆の右に出る者はいない。

 

 ――そう、李岳の賭けとは賈駆が述べた通りであった。

 

 持ち場を任された楊奉が眼前で離脱する騎馬隊をみすみす見逃すはずはないという賭け、追撃することは出来ないにしても狼煙台を駆使して知らせを届けようとするという賭け、それがままならなくても梁で発生した反乱鎮圧に向かった賈駆に早馬を飛ばすだろうという賭け、そしてきっと賈駆は状況を見抜き援軍に来てくれるだろうという賭け、賈駆の来る道を永家の者なら必ず読み切りここまで先導してくれるだろうという賭け……

 列挙してみれば一つ一つが神頼みに思えるような博打である。しかし『最善を尽くす』と信じた仲間をあるがままに頼ったに過ぎないと、そう考えを変えればもはやそれは必然に転ずる。

「綱渡りね。勝てるの?」

 賈駆の声は厳しい。撤退も選択肢ではないかとほのめかすような声だった。

「いや……豫州を渡せば勝てない。次は荊州も取られる。そうなれば益州も旗色を変えるだろう」

「じゃあ、勝ちなさい」

 賈駆の言葉が嬉しかった。李岳が頷くと、フンと鼻を鳴らしてあさっての方を向いた。頬がわずかに赤らんでいることを指摘するのは、野暮というものだろう。

 やがて追ってきた司馬懿率いる本隊と合流し、李岳はようやく死地から脱した実感を得て大樹の根本に腰を下ろした。座ると膝が笑った。疲労と緊張が今になって限界を超えたのだ。

 李岳はしばらくそのまま寝た。雑兵だと思ったのだろう。うなだれていてもほとんど誰も声をかけなかった。だが時折、敬意を含んだ一礼を捧げて去りゆく男、女がいたことも確かだ。

 目を覚ました時には、もたれかかって小さないびきをかく呂布が左、そしてちょこんと座ってこちらを見ている徐庶が右にいた。

「……どれくらい寝てた?」

「半刻でしょうか。まだ大丈夫ですよ」

「流石に疲れたか。指示は」

「間に合ってます。休むのも仕事です」

 徐庶の声は有無を言わさない響きだった。やがてあらたまった様子で言葉を続けた。

「兄上……お見事でございました。あらゆる人の心と動きに対する明察、史上のいかな名将とて敵うものではないでしょう。徐元直、感服つかまつりました」

「すごいのは俺じゃない。楊奉殿に、詠、そして駆けに駆けてくれた兵たちみんなだ。俺はみんなを信じただけだよ」

「……始まりはどちらであるか、論ずることに意味はありますまい。けれど兄上、一つだけはっきりしていることがあります。兄上は皆を信じた。皆もまた、兄上を信じた。この二つがあったからこそ、我々は生きているのです」

 敬意、感謝、信頼、誇り。思い上がりかも知れないが、李岳は徐庶の瞳からそれらを余すことなく感じた。

「ですから兄上、ひけらかす必要はありません。けれどどうか少しだけでも、ご自身をお(いたわ)りください」

 信賞必罰ですよ、と呟いて徐庶は行った。右手に握らされたのは寒さを塞ぐ毛布。李岳はしばらく悩んだ後、呂布を抱き寄せ二人ですっぽりとそれにくるまると、再び眠りに落ちた。

 

 

 

 

 

 

 

 生きた心地がしなかった。ここで死ぬのだと覚悟までした。それほどまでに、司馬懿の狡猾さは悪辣揃いの曹軍参謀を並べてみても遜色がないと思えた。

 司馬懿は元から賈駆という伏兵に追い散らされることを見切った上で兵を配置していたのだ。逃げる先、逃げる先に先ほど躱した伏兵が現れてくる。郭嘉がいなければ全滅していたことは疑いの余地がない。

 まさに這々の態で逃げ出す夏侯惇以下別働隊に、必勝を確信して奇襲を仕掛けた時の勇姿は残っていなかった。敗残。それも反董卓連合で苦渋を舐めたあの時を彷彿とする程の屈辱。

 束の間の夜営。周囲にはたった三千にまで減った虎豹騎。火を囲む夏侯惇、夏侯淵、郭嘉、曹純の表情はどこまでも暗い。

「姉者……作戦は失敗だ。それは仕方がない、まさか賈駆の援軍が来るとは……誤算だ。華琳様もきっとわかってくださる」

 妹の慰めも、夏侯惇には逆効果だった。

「こんなザマでおめおめ戻れるわけがないだろう! 私は誓ったんだ、李岳を討つと! この手で斬りますって、華琳様に約束した!」

「しかし姉者」

 夏侯惇の入れ込みは冷静さを欠いているように周囲には見えた。しかし夏侯惇には強い予感があった。ここで斬らなければ、ここで殺さなければとんでもないことになる――曹操軍は敗北するかも知れない。曹操は負けるかも知れない。あの男を殺す機会を決して見失ってはならない!

「稟、打つ手はないのか」

 郭嘉は小さく首を振った。拒絶、諦念、無力感。しかしそれらを夏侯惇は重ねて拒絶する。

「ダメだ! 華琳様と約束したんだ! 李岳の首を取ると! 夜襲でもなんでもいい、案を出せ!」

 しばらくの沈黙の後、郭嘉は絞り出すような声で言った。

「軍師というのは……常に次善の手を考えておくものです。失敗した時にどう動くか、どう逃げるか、どう逆転するのか。この奇襲に私が参加している以上、華琳様が期待される仕事でもあるでしょう」

「まだるっこしい。はっきり言え」

「……危険極まりませんが、もし一つ許されるのであれば」

「策があるんだな!? 何でも構わん!」

「五百……いえ、二百だけのさらなる別働隊を組織し、森を突っ切るのです。その先の李岳本営にとって返すのです。残りの兵は陽動として真っ直ぐ逃げ出す。残った兵だけで、夜明けと共に襲いかかります。そして李岳を斬る……」

 それが策と言えるのか。たった二百で特攻をかける。しかし続く郭嘉の説明は夏侯惇はさておき、夏侯淵にも曹純にも可能性を感じさせるものだった。李岳軍の死体なら転がっている。その服を奪って偽装する……

 残された問題はただ一つ。

「脱出は?」

「運任せです」

 にべもない。しかし夏侯惇は笑った。

「そういうのを待っていた」

 

 

 


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