真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百六十三話 散華雄壮

 まだか、と絶影がせがむように曹操の背中を鼻面で押した。黒鹿毛の愛馬の、鼻から額までの毛並みを強くかくように撫でてやりながら、曹操はただ夕日を眺める。

「まだかと思っているのは私も同じよ」

 深夜、奇襲が成功して一日弱が過ぎようとしている。今はもう夕暮れが垂れ込み始めている。しかし未だ何の知らせもない。

 曹操軍本隊もまた追撃の態勢にあったが、夜間の進軍を警戒したせいで間が空いた。返す返すも馬超の反撃が余計であった。

 全力で追っているがまだ三里はある。兵を休ませなければ追いついたところで無残な結果になることは理解しているが、それでも気だけは急いた。

 軍略に則って考えても当然の選択だったが、曹操は悔いていた。遮二無二攻め込んでいれば奇襲が成功した時の戦果を拡大できたはず。赫昭、張郃といった防戦の名手が殿軍にいると察して警戒したこともあるが――いずれにしろこうして気を揉むだけの時間を過ごすことはなかった。

 その時だった。戻ったぞ、という声が響く。曹操は期待が裏切られるのを恐れて平静を装った。しかし黙ってじっとしていることは出来ずに絶影に騎乗する。李岳考案の鐙を踏みしめ、曹操は報告を待った。

 西日を背負い、現れたのはあまりにも少ない兵たちだった。成否は問うまでもなかった。

 夏侯惇、夏侯淵、曹純、軍師に郭嘉。無傷の虎豹騎一万。備えがなければ対処など出来るはずもない。李岳……奇襲を読んでいたのか! 曹操は敵を不要に過大評価してしまう心境に抗いながらも、総毛立つような歓喜と恐怖、焦燥を合わせた興奮に襲われていた。

「まことに……申し訳ありません」

 報告に現れたのは曹純だけだった。夏侯姉妹も郭嘉もいない。最悪の想像、それがもたらす激怒をこらえながら曹操は馬上のまま聞いた。

「何があったの?」

「……奇襲は成功いたしました。討ち果たしたるは二万から三万」

「雑兵などどうでもいい! 李岳は!?」

 思わずこぼれ出た怒声に、顔を蒼白にしながら曹純が続ける。

「み、自ら現れました……わ、我々は全力で追いました! そしてもう少しというところで伏兵に遭ったのです。甚大な被害を受けました……」

「稟は何をやっていた! そうさせないための軍師ではないの!」

「ふ、伏兵に現れたのは……洛陽にいるはずの丞相賈文和と、羽林軍一万あまりだったのです!」

 曹操はそれ以上追求出来なかった。失態とは言えない。賈駆の存在など全くの慮外であった。己でさえ回避できなかったろう、どうして部下を責め立てる事ができようか。

 曹操は下馬し、曹純を抱きしめてその背を撫でながら言った。

「……柳琳、謝罪を受けてくれるかしら。私の策が甘かった。貴女たちの戦いぶりを称賛することさえあれ、責め立てるいわれなどどこにもない。ごめんなさい」

「い、いいえ! いいえ! 私が、私たちが……! 仲間を、兵を失って……! お姉様、申し訳ありません!」

「春蘭、秋蘭、稟の三人は作戦を継続中?」

 ぐすっ、と鼻をすすりながら曹純が答える。

「は、はい……残兵二百で奇襲をかけると。李岳軍の装備を鹵獲、略取し本陣付近まで接近。賭けに打って出るとのことです」

 わかったわ、と言い残して曹操は曹純と生きて戻った兵らを労った。そしてそれ以外の全兵に出陣を命じる。賭けの成功に資するため、さらに成否に関わらず夏侯惇らを生きて戻すためには混乱が必要だ。ここで指をくわえて見ていることは出来ない。

 出陣の支度を始める将兵の声を聞きながら、曹操は己の中に沸き起こった恐怖心をねじ伏せるのに多大な労力を費やした。この奇襲も通じないとなると……後は何の打つ手がある。李岳の備えに際限などないのか、それともこの曹孟徳が掌中で踊っているに過ぎないのか。

 いや李岳も人間だ、と曹操は思い直した。掌にいるのなら、手を伸ばせば喉元なのだ。口を近づければ喉を食い破ることの出来る距離まで近づいているのは確か。

 そう想像して、曹操の忍耐に限界が来た。

「急げ! 先に出る! 遅れた者は処罰する!」

 絶影だけは、無邪気に夕陽でもかじろうとするかのように疾駆する。

 

 

 

 

 

 

 

 曹操軍本隊接近の報に接し、李岳軍のしんがり部隊はその対応に迫られた。

 曹操軍別働隊の奇襲、袁術軍の壊滅、李岳の逃走と追撃する夏侯惇、賈駆の来援による撃退――飛び込んでくる情報は混乱をもたらすには十分に過ぎ、赫昭や張郃をしてなお判断が分かたれ激論に発展した。

 結局、李岳を信じて当初の任務を貫徹、曹操軍本隊への警戒態勢を維持という結論に至った。そしてそれは正しく全軍に資することとなる。

 西日も落ちてほぼ夜襲と言える時間帯。曹操の攻勢は奇襲が斥けられたことに起因するものだろう。李岳軍でさえ苦慮させた撤退戦の名手である張郃に指揮を一任し、部隊は遅滞戦術を展開する。軍師参謀として策を講じる法正の智謀も冴え渡る。会戦で押し切られ奇襲を受けたものの、それを殲滅したと聞けば士気も高い。兵はよく戦い曹操軍の猛攻に対して跳梁を許さなかった。

 そして夜。部隊損耗の様子を確認しよう張郃が見回りを行っている時だった。愛馬のそばでうずくまる一つの影。

 高順であった。

 張郃は慌てて膝を突き、様子を窺った。

「将軍、ご無事か! まさか、手傷を」

 孫権軍の攻勢に全軍をかばうように立ちはだかり、打撃を引き受けた高順隊である。あるいは曹操の攻撃に流れ矢でも当たったのか。

 高順はいや、と首を振って言った。

「年なだけだ。この連戦は老体にはこたえる」

 顔色も声音も確かに常と変わらない。すっくと立ち上がった仕草にも張郃の目には違和感などなかった。

「……であればよろしいのですが。ご無理はなさらず」

「うむ」

 怪訝そうに去っていく張郃を見送り、高順は鎧の下に当てていた布を引き抜いて捨てた。とうに乾いてごわつく、出血で赤く染まった布を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 華雄が本営に怒鳴り込んできたのは、曹操が再び夜襲をかけて来たと知らせが届いてすぐであった。地団駄を踏みながら拳を振るう。

「李岳! 私に突撃の許可を出せ! 曹操のやつ、舐めやがって! この私が一瞬で踏み潰してやる! 袁術の弔い合戦だ!」

「わ、妾は死んでないのじゃ……」

 細かいことはいい、と理不尽に叫びながら華雄は続ける。

「兵を貸せ、李岳!」

 李岳は首を振った。

「駄目です。袁術軍は甚大な被害を受けたのです。白馬義従も無傷とは言えません。それに撤退中に散り散りになった兵たちも懸命にここに辿り着こうとしています。それを置き去りには出来ない」

「我が重装歩兵部隊は健在だ! それに洛陽の援軍があるだろうが!」

 特に後半の言葉には説得力があった。ほとんど無傷の羽林軍であれば確かにと思わせる。

 しかしそれを却下したのは率いている賈駆自身だった。

「ボクは戻るわよ」

「なぬぅ?」

「洛陽をいつまでも空になんて出来ないわ。いつまた叛乱が起きるかわかったものじゃないもの」

「まさに、私が曹操なら仕掛けられる謀略の数を数えて歓喜するでしょう」

 徐庶が説明を引き継いだ。

 曰く、賈駆の援軍は緊急の措置である。今、洛陽の防備はかつてなく薄い。曹操を相手にするという視野から対局を見誤れば、首都失陥という最悪の事態を呼び込みかねない……

「まさにぐぬぬ、という状況です」

「くそったれ! けれど今まさに曹操が来てるんだぞ!」

 煮湯を飲まされさらに撤退し続ける屈辱は、口には出さないが前線の将の共通する思いでもある。一理なくもない。暗に決断を求められた李岳ははっきりと言った。

「……殿軍に任せます」

「李岳!」

「華雄殿お待ちを。我々は穎川まで引き、そこを決戦場とします。今ここで曹操に軍を差し向ければ殿軍部隊の働きを無にします。夜です。混乱も呼ぶでしょう。ここは仲間を信じましょう」

「……穎川で決戦と言ったな。正面からやるのか」

 華雄に限らず、その言葉は確かに皆の耳目を引いた。正面決戦を再びやる。李岳は将兵の力を見損なってなどいない。

「手立てがあるんだな、李岳!」

「もちろんです。我が軍は地上最強。敵の手も知れました。次は必ず勝ちます。曹操はやりすぎた……俺を本気にさせた」

 ぞっとしたのは華雄だけではないだろう。知ってか知らずか、にっこりと笑って李岳は華雄の手を握った。

「ですから、独断専行は厳禁ですよ、華雄さん。貴女の力が必要ですから」

「……わぁかった! わかったから離せ!」

 手を振り払って幕舎を出ると、華雄は鼻を鳴らして部隊に戻った。腹が立つ。突撃するから準備しておけと言ってあったのに、誰一人用意していないのも腹が立つ!

 しかし李岳は決戦、と言った。将兵の力を信じているのだ。そう思えば悪い気はしなかった。華雄は機嫌を直して部隊を見て回ると、肩を落としてため息を吐いている徐晃を見つけた。

「不安か、徐晃」

「……華雄さん」

 奇襲を斥けたとは言え、李岳軍の受けた打撃は相当なものである。客観的に見れば、李岳軍は曹操の攻勢に何とか耐え忍んでいるというだけに過ぎない。曹操の長槍に正面からぶつかる歩兵部隊、彼と彼女らを率いる徐晃の不安ももっともだった。

「安心しろ。決戦だ! 穎川で決戦だと李岳は言ったぞ」

「……じゃあ、またあの曹操の長槍部隊とやりあうんですね」

「そうだ。次は勝つ! それによく聞け、あいつらに絶対に勝てる方法があるぞ」

「本当ですか!?」

「ああ。私とお前で何とかするんだ」

 喜び立ち上がった徐晃だったが、なぁんだ、と意気消沈して再び座り込む。

「何をがっかりしている。私は至極真面目に言っているのだ。いいか? やつらの長槍は確かに長い、そして数も多い。だがそれだけだ」

「それだけって……それが大変なんですけど……」

「だったらお前ももっと長くしろ!」

「そんな無茶な……」

 徐晃の長槍も李岳考案の兵器であり、常識はずれに長い。だが曹操のそれはさらに長いのだ。真似たところで訓練しなければまともに運用出来るとも思えないほどの長さ。そしてあの数――徐晃は戦闘を思い出しゾッとした。まるで巨大な針山が押し迫ってくるような絶望的な光景。

 もし李岳が早々と撤退を選ばず抗戦を選択していたのなら、相当の被害が起きていただろう。徐晃は身震いを抑えられず自分の肩を抱いた。

「何を恐れることがある? ああん?」

「だって、だって華雄さん!」

「まぁ聞け」

 よいっしょと尻を詰め、華雄は声をひそめて秘策を伝える。

「いいか……曹操の超長い長槍は確かに手強いが、ずっと長槍を使ってきた貴様の経験の方が上だ」

「こ、根拠は」

「勘だ」

「……」

「よし、納得したな? で、だ。長槍使いのお前であればその弱点も知り尽くしているはず。そこを私が突く!」

 ドン、ドン、と拳を突き出しながら華雄は鼻息を荒くした。そして自慢の『軍略』をとめどなく披露する。まずは徐晃の動きで長槍の動きを止める。そこを華雄隊が叩き潰す。中に入ってしまえば長槍は自由に振り回せない。華雄隊を止められる者は誰もいない。そのまま曹操のところまでまっしぐらだ!

「……いやいや。無理でしょ。ごめんなさい」

「かもな。だが! 戦場では自分の力で全てを決着させるという気概が大切なのだ! それを忘れるな! 私が言いたいことはそれだけだ!」

 励まされているのだと徐晃はその時はじめて気づいた。確かに不思議と徐晃の震えは止まった。今の話も気を紛らわせるために無理やりひねり出した話だろう。

「本当なら今すぐにでも取って返して攻め込むべきなのだ! しかし李岳め! 私の話を一向に聞きやしない!」

 …… 気を紛らわせるために無理やりひねり出した話だろう、と徐晃は再度己に言い聞かせた。

「勝てるんでしょうか」

「まだ不安か? それとも李岳では頼りないからか? あのへたれめ、自信がないなら総大将を私と変われというのだ」 

「前から聞きたかったんですけど、華雄さんは冬至さんのことが嫌いなんですか」

「ぎぃぃぃ!」

 突如両拳を握り腹の底から声を上げる華雄。

「嫌いだ嫌いだ! 大嫌いだ! そもそもあいつ、この私に何をしたか忘れてるんじゃないのか!?」

「な、何をしたんです?」

「ぃよーし、少し昔話をしてやろう。いいか、李岳がまだ洛陽でまともな軍勢も持っていない頃だ。その時最強の軍を率いていたのはこの華雄が先頭に立つ涼州董卓軍! それをある晩のことだ――」

 それから話された長い話は徐晃の知らないものも含まれていた。李岳の無茶、無謀、誇張されているだろうが華雄の勇猛さ、かなり誇張されているだろうが華雄の獅子奮迅ぶり、もはや嘘としか思えないような華雄の大活躍。

「華雄さんは、冬至さんを信じているんですね」

「ああん?」

「すみませんごめんなさい……でもそうとしか思えないなって。だってこんなに嫌いなのに一緒に戦っているし」

「大嫌いと信頼するというのはだな、私が思うに両立するのだ」

 何を当たり前な、という顔で華雄は続ける。

「だから何も全く問題ない。私は李岳を嫌いなままだし、李岳はそれを屁とも思わん。あれほど性格の悪い男はいないし、この華雄ほど勇猛な戦士もいない。この二つが噛み合うんだ、最強と言わずなんと言う?」

 徐晃の背中をバンバン叩きながら、華雄は力こぶを見せつける。

「だから我々は勝つのだ。疑うな」

 徐晃はようやく得心し、ぎゅっと華雄の腕を抱いた。はてな、と華雄の頭に疑問が浮かぶ。なぜ妙に心臓が高鳴るのか。

 そろそろ持ち場に戻れ、そう言おうとした時だった。金剛爆斧を手に立ち上がる華雄。東南の風が吹く静かな夜。何の気配も予兆もない。虎を警戒する山野の鹿とて心穏やかに寝静まりそうな夜。

 それが妙だった。

「……少し、出歩くぞ」

「華雄さん?」

「ほんの少しそこまでだ」

「何か異変でも?」

 確信などない。少し迷いながらも華雄は誤魔化すことを選んだ。

「まだまともに戦っていない。体がなまりそうだ。この金剛爆斧で木でも伐ってやろうかと。兵も暇そうだからな、調練代わりだ」

「部隊を引き連れて!?」

 徐晃はむっとして立ち上がった。

「華雄さん……勝手なことはだめだっていつも言われてるじゃないですか」

「わかってる、わかってる徐晃。だが」

 しかし華雄はなぜか、突き動かされるような思いでいた。功に焦っているわけでも暇を持て余してるわけでもない。ただ正体不明の確信に近いものがあった。魂がそう叫んでいるとしか言いようがない。

 徐晃の言い分もわかる。この戦場は今後の天下の趨勢を決する一大決戦場だ。曖昧な判断で独断専行が許される他愛のない場所ではない。ましてや暇つぶしに木を伐るなどと言われればそう言い返したくもなるだろう。

 だが、それでも、それでも! 動かねばならぬと華雄の心は叫んでいた。うまく説明できないことがもどかしい。

「頼む。ちょっとの間でいいんだ」

 その華雄の様子を察した徐晃が強い口調で続ける。

「じゃあ、私も行きます。すみません、ごめんなさい! でも絶対引きませんからね! 大げさだから手勢も五十でお願いします! そして半刻だけですからね!」

「……好きにしろ」

 そして二人は五十名の随伴を連れて陣を出た。徐晃はこの時、見つかった時にどう言い訳するかに腐心していた。

 

 

 

 

 

 ――元来、華雄は勘に優れた類型の人ではなかった。

 

 戦闘における才覚はずば抜けていたが、それは鋭敏な感覚でというよりも、鍛えぬかれた力で全てを打ち壊す腕力によるものだった。

 李岳が歴史の流れを読み、荀彧が万端の準備を整え、徐庶と司馬懿が修正を加え、しかしその裏をかいた曹操が知略をほとばしらせた。郭嘉が苦悩し、賈駆が決断し、程昱が暗躍した。偽兵と伏兵を、罠と陽動を折り重ねた史上稀に見る高度な戦場の中で、華雄の知略は自身も含め誰からも期待されていなかった。

 だが人は誰もが人生に一度くらい、天啓というべき常ならぬ才覚を発揮することがある。

 決して許されてはならない独断専行。

 根拠のない歩み。

 半刻だけという極めて短い時間の中――両軍合わせて華雄が最初に敵戦力を発見した。

 

 

 

 

 

 初めは本隊に集まろうと動いているはぐれた友軍なのかと思った。しかし不自然なまでに機敏なその動きを華雄は訝しんだ。李岳軍の装備であるのに中身は違う? しかもこんな森の中で? 華雄はただちに全員に伏せるように命じた。状況を理解した徐晃が隣で震え上がっている。

 曹操軍。数は百から二百程度の騎兵隊が静かに雌伏している。敵は夜明けを待っている。追い散らされ逃げ帰ったはずの騎馬隊を囮に兵を伏せたのか。友軍の振りをして本陣を攻め、李岳を直接討ち取ろうとしている。李岳軍の警戒のほとんどが曹操軍本隊に向かっている現状、敵の目論見はかなりの確実で成されるように思えた。

 徐晃は鳥肌を我慢できなかった。ここから本陣までは騎馬隊で駆け抜ければ半刻もかかるまい。監視の目をかいくぐりどうやってここまで進んできたのか見当すらつかない。森の中を無理やり騎馬で進軍してきたのか……

 このままでは負ける。李岳も死ぬ! 徐晃の頭の中は真っ白になった。

(何て、馬鹿!)

 ここに連れて来ている兵で食い止めるのは不可能に近い。華雄が心配であればどうして百人でも連れてこなかったのか! そうすれば敵兵を後ろから急襲して壊滅させることができたはずだ。

「夏侯惇か……やつら本気だな」

 夜目を凝らした華雄が派手に舌打ちする。確かに徐晃の目にも流れるような夏侯惇特有の黒髪が見えた。不安に駆られて華雄を見るとその口元には笑みが浮かんでいるが――同時に玉のような汗が浮かび顎先からしたたり落ちてもいた。

 その汗のしずくが、どんな言葉よりもはっきりと現状の危機を徐晃に理解させた。

「か、華雄さん! 私、私! す! すみ! すみま――」

「謝るな」

「わ、わ、私!」

「落ち着け、バカモン」

 ゴチンと徐晃に拳骨をくれてやると、華雄は鼻を鳴らした。

「フン! 李岳の馬鹿め。たまには私の方が正しいことだってあるんだ。そうだろう?」

「か、か、華雄さん……」

「なぁにが『独断専行は厳禁ですよ、華雄さん』だ! 吠え面かくぞあいつ。見ものだな。これで貸し借りなしだ。いや、私の方が多く貸すことになるな。ペコペコ謝らせてやる。私はあいつが嫌いなんだ、これでようやくスカッと出来る!」

 状況にそぐわぬ笑顔を浮かべながら、華雄は腕を組む。徐晃は叩かれた頭の痛みとその横顔に勇気づけられ何とか落ち着きを取り戻した。

「ど、どうすれば」

「徐晃、貴様は戻れ」

 華雄はためらわずに言った。

「指揮官は私か貴様だ。どちらかは戻らねばなるまい」

「そんな……一緒に戻りましょう!」

「もう一発殴られたいのか? ここで見逃せばやつら本陣に殺到するぞ」

「で、でも……こんな兵力差、助かりません!」

「よし。不安な方が戻ることにしよう。これでわかりやすくなったな」

 責めるわけでもなく、華雄は見たこともないほどに穏やかに微笑んでは徐晃の頭をそっと撫でた。徐晃は死にたくなるほどに恥じ、咄嗟に唇を強く噛んでしまいいたずらに出血した。

「何やってる」

「か、華雄さんが戻ってください! 正指揮官が戻らないと」

「……もう一つ条件がある。この場であいつらを食い止めることが出来るかどうかだ。あわよくば全員吹き飛ばせるんじゃないかと自惚れているくらいが丁度いい」

 たくましい二の腕をパンと叩いて華雄は徐晃を睨む。

「徐晃。貴様が私よりも強いというのならば、言うことを聞いてやろう」

 答えを返すことなど出来なかった。華雄はこの場を譲るつもりなど毛頭無いのだ。

 黙りこくった徐晃の言葉を待たず、華雄は兵に向き直ると言った。

「やれるやつだけ残れ……と、言いたいところだがダメだ。徐晃以外は全員この華雄に続いて突撃と洒落込むぞ」

 爛々と輝く百の光は闇の中でもなお明白だった。

「将軍、俺ら華雄隊、伊達にここまで付き従って生き残ってきたわけじゃないっすよ」

「そうです。李岳軍は騎馬隊を売りにしてますけどね。最強は華雄隊だって俺らみんな思ってます。甘っちょろい騎馬隊の中に、あの地獄の特訓をやりきれるやつが一人だっているもんか」

「恐れ知らずの重装歩兵は敵に背を見せて逃げたりせんのです。居残り組が可哀想なくらいだ」

「曹操軍の度肝を抜けると思うとワクワクしますわね」

「ここでいっちょド派手な軍功ブチ上げて、目にもの見せてやりましょうよ」

「華雄将軍は最強です。だから我ら華雄隊も最強なんです」

 兵たちは笑顔を浮かべて口々にそう意気込んだ。華雄はニタリと笑い、フンと鼻を鳴らして徐晃を見る。

「オラ、とっとと行け。戻ってきた時には、もう敵を蹴散らしているかもしれんがな?」

「や、約束ですからね!」

「ああ、慌てて戻ってくるお前を大笑いで出迎えてやる」

 泣きながら駆け去っていく徐晃を見送ったあと、華雄は残った戦友たちを車座に並べた。そうは言ってもこの兵力差。強がるにしても無茶があったか、と思わなくもない。それでも華雄の闘志は焔々(えんえん)と燃え始めていた。

 華雄は言う。

「我ら華雄隊の仕事は、貧乏くじを引くことである! つまり今、私たちは最大級の仕事に取り組もうとしているわけだ」

 敵にはばれないように、全員こっそり笑い声を上げた。

「今まで一日たりとも休むことなくこの華雄にしごかれまくって来たお前らに特別な褒美をくれてやるぞ、喉から手が出るほど欲しがっていた休暇だ……ただしくれてやるのはあの世で、になるがな。嬉しいだろう? この私と一緒に死ねるのだ!」

 ひどい、ひどすぎる、あんまりだ――苦情はやはり笑いを噛み殺したような響きを伴って、夜闇の中で共有される。

「誇り高き李岳軍重装歩兵部隊、その選りすぐりの貴様らに最後の仕事を伝える。戦って、戦って、そして死ぬのだ! 死ねばみんな一緒だ! この華雄も、貴様ら兵卒も、死ねば同じになる! つまり、貴様ら兵卒も、この華雄と変わりのない最強の武人となるのだ!」

 感涙にむせび泣くほど情緒的ではない。しかしせせら笑うにはあまりに多くの苦楽を共にしていた――古強者の五十一人。彼らが等しく思い浮かべるのは、共に戦場に在り続けた小柄な少年の横顔。彼が決して逃げないから、重装歩兵は一歩も退かずに敵の正面で戦い続けることができた。

「フン……守ってやらんとな」

 恐らく口に出すつもりはなかったであろう華雄のその言葉は、全員の心にしっくり来た。立ち上がる。ひとかたまりで進む。今にも出立しそうな曹操軍、悪いがその思惑を成し遂げさせるわけにはいかないのである。

 金剛爆斧を振りかざし、華雄は絶望の戦場に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 最後の休息を終えた。郭嘉が考え抜いた経路は無茶の一語だったが、結果的には闇を抜いて接近に成功した。木立の隙間から遠くに夜営の光が見える。夜明けは間近、すでに全員騎乗の態勢である。

 後は号令をかけるだけ。その間際に夏侯惇はまぶたを擦った。

 火が見えた。あるはずもない火が。

 

 

 

 

 

 

 

 

「どんどん運べ、手当たり次第に燃やせ!」

 木を伐り倒しながら華雄は叫んだ。火攻の指示がなくとも常に用意だけはしておくようにという規則があり、当番を割り当てられた一部の兵は革袋に油を詰めて持ち歩いている。幸運なことに割り当ての兵が五人も含まれていた。華雄が戦斧で伐りまくった木に片っ端から火をつけて斜面を転がしていく。あっという間に林は火に舐められ、曹操軍の軍馬のいななきが響き始めた。

 敵は騎馬隊だ。馬は火を恐れる。何も敵を全部倒す必要はない。時間稼ぎさえできればいいのだ、ここに来るまで半刻。半刻だけ耐えれば徐晃が戻ってくる。火をつければ本隊への異常を知らせる狼煙にもなるだろうし、ひょっとすれば徐晃が知らせるより早く騎馬隊が到着するかもしれない。

 もし生き延びることができたのなら、兵卒どもには早とちりだったと頭を下げてやろうと華雄は斧を振り回す。

 

 ――華雄の考えは決して間違ってはいなかった。敵将が夏侯惇だけだったならば。

 

 次の瞬間、無数の矢が雨のように華雄隊に降り注いだ。火をつけていた無防備な兵士たちが田の稲のように矢を生やして倒れていく。夏侯惇だけではない、もう一人将が来ていることを華雄は瞬時に理解した――神速の射手、夏侯淵。

 本隊を指揮統率する夏侯姉妹の二人までも別働隊に、しかもこの二百人ばかりの奇襲部隊に身を置くとは、李岳に向けられている曹操の殺意が本物であることをいよいよ華雄は肌身に感じた。

「ええい、クソッタレが……私も前に出る! 全員行くぞ、突撃だ!」

 絶叫とともに駆け下っていく。華雄は斧を背にくくりつけ、抱えた木を振り回し、夏侯淵の射線を塞ぎながら突っ込んだ。腹の底から燃えたぎる闘志が、華雄の背中を音を立てて叩く。

 誰かのために戦う。華雄に自覚はなかったが、これまでにない初めての感情が彼女の全身に力を満たした瞬間だった。

 華雄は射込まれる矢を払い除けながら、とうとう最前線に立った。火焔に舐め上げられる森を背に、華雄は火傷するような闘志を滾らせる。

「姉妹揃ってお出ましとは、いよいよあの金髪クルクル娘の必死さが知れるというものだ!」

 華雄の姿を目にして夏侯惇と夏侯淵の姉妹、そして郭嘉までもが血相を変えて叫ぶ。

「貴様!?」

「そんな!」

「貴方は華雄! なぜここに!」

 華雄は大斧を構え直し、大喝して応えた。

「知れたこと……なんとなくだ!」

 なんとなくだ、という声が森に響き渡る。ややを置いて華雄隊の爆笑がはじけた――どうだざまみろ! なんとなくだぞ! うちの隊長最高! 愉快愉快!

 拳を震わせながら夏侯惇が抜剣する。

「姉者……」

「心配するな秋蘭……私は華琳様と約束したんだ! 華雄ごとき今すぐ斬り捨ててやればいいだけだろう。瞬殺すれば何の問題もない!」

 主君は我が身さえ囮にして決戦の兵を預けてくれた。その期待に応えられずに兵を失った。このままおめおめ引き返すなど、武人の魂に賭けてありえない!

 夏侯惇の結論は一つ。己が一騎討ちで華雄を斬り捨て作戦続行! それ以外には考えられなかった。夏侯惇は愛刀を抜いて単騎で飛び出す。チッ、と華雄は舌打ちする。たじろいで足踏みしてくれれば時間を稼げたものを。野生の如き勘に優れた夏侯惇だからこそ苦々しいほど正しい選択を選んだ。

 奇しくも両雄、相対する敵同士の中でも最も似た二人。そしてお互いに最強の武を目指す乙女同士、意識していた者同士だった。

「華雄! ここで決着をつけてやるぞ……!」

「おーぅ、夏侯惇。ようやくその首をすっ飛ばせる日が来たな」

「抜かせ、華琳様の野望が貴様ごとき猪武者に止められるはずがない!」

「フン! どれほど自慢げにしたところで……この華雄様の勘働きにケチつけられるとは、お前の主人とやらも大したことないということだ。貴様の首を曹操に突きつけて、情けない泣き顔を拝んでくれる!」

 曹操への侮辱は夏侯惇にとって最も許さざる大罪である。しかも己の敗北をもって泣かすと来た。これは夏侯惇から理性を奪うに十分な侮辱であった。

 隻眼を爛々と輝かせて夏侯惇は叫ぶ。

「お前は……殺す!」

「気が合うじゃないか……残りの目ん玉一つで済むと思うなよ!」

 立ち会いの呼吸は示し合わせたようにピタリと合ったが、気力が充溢している華雄は夏侯惇に気構えで半歩先んじた。手番を譲るつもりは毛ほどもなかった。初手で押し切り圧倒する!

「出し惜しみはせん。この華雄の奥義を喰らえ!」

「笑わせるな。貴様ごときの技など」

「吠え面かくなよ? はぁっ!」

 大地を踏みしめ戦斧を振るう、華雄の代名詞が如き一撃――初手、武神豪撃である。

 夏侯惇の左肩から(はす)に軌道を描こうとした斬撃は、しかし夏侯惇のさばきによって空を切った。

「甘く見るな、その程度の技がこの夏侯惇に通じると思ったか!」

「もういっ……」

「――なにっ!?」

「ぱぁつ!」

 空を切った戦斧は荒れ狂う暴風の最初の一薙ぎに過ぎなかった。

 まるで鉄風の竜巻と化した華雄の勢いは夏侯惇を木偶へと貶める。夏侯惇はただひたすら受けに回ることしか出来ない。城門さえ打ちこわしかねない驚異の必殺技が、回転の理を活かしながら息つく間もなく夏侯惇に襲いかかる。

 受ければ痺れ、避けるには最早間合いが近すぎる。夏侯惇でなくば武器ごと粉砕されていたに違いないが、では誰であればこの鋼の煉獄から脱出できるというのか?

 華雄にとって必殺技と言えた武神豪撃。しかし天下の英雄たちに届ける技としては未熟であることを華雄自身ひしひしと感じた。最強に至る――揺るぎなき憧憬に支えられたたゆまぬ克己は、ついに彼女にかつての必殺技の無限連射を許した。

 縦、横、(はす)と三方から襲いくる無限軌道の必殺技――その名も武神豪連撃!

 太史慈に敗れ、張飛の後塵を拝してもなお止めることのできなかった努力。愚直とも言える鍛錬の果てに至ったのが、全力の一撃をとにかく当たるまで叩きつけるという洗練とは程遠い技だった。しかしその純粋な爆発力は太史慈や高順でさえ圧倒しうる――練度を確かめるにこれほどの基準があろうか!

 今や華雄の武力は以前の彼女の比ではなく、曹操軍最強と名高い夏侯惇を真正面から圧倒するに至っていたのである。

「我が金剛爆斧の錆と散れい!」

「舐めるな、この……!」

 

 ――事ここに至って夏侯惇は全ての雑念を捨てた。華雄は本物だ!

 

 夏侯惇と華雄はとても近い種類の武人である。その夏侯惇だからこそ瞬時に獣の勘ともいえる判断を下せた。華雄の攻撃に対して膂力での抵抗を放棄したのである。

 それは無手の構え。だらりと武器を下ろして死に体を晒したのである。

 華雄に寸暇の迷いが生じるのを夏侯惇は見逃さなかった。地を転がり必殺の鉄の嵐から(から)くも逃げ延びたのである。

「フン! 無様に地面を転げ回るのが精々か?」

 言葉とは裏腹に華雄は必勝の機を失ったと思った。夏侯惇は半端な相手ではないことは十分理解している。千載一遇の好機を逃した今、攻守の逆転を予感した。

「華雄、貴様は我が全身全霊をもって倒す――」

 漆黒の長髪を翻し、夏侯惇は剣を天に捧げて祈るように瞑目した。

「七星餓狼よ、我に力を……曹武の大剣、其は我なり!」

 祈りの終わりは必殺の始まり。夏侯惇は獣の如く体勢を低くすると、掘り返すほどの力を込めて地を蹴った。

 夏侯惇の武の秘は脚力にある。剛力に裏付けられた瞬発力は、猛進と急停止を瞬時に行き来する天与の瞬動を許し、それが相手の目に残影となって正体を見失わせるのだ。猛烈な突進は実はただの直進などではなく、細かく刻まれた左右の揺さぶりと上下の浮き沈みを同時に纏うものだった。無類の挙動は、生来の性である獰猛さも相まってそれだけで夏侯惇の奥義と為した。

 己こそが曹操の剣であるということを全身で表すような突進技――自身、矜持猛進と名付けた必殺技である。

「いい度胸だ、この……!」

 華雄もためらわずに戦斧を繰り出した。しかし先程とは違い嵐のような武神豪連撃がことごとく空を切る。一度距離を取れば夏侯惇の目と勘、速度が優った。華雄の連撃の隙間を縫うようにして、曹操から下賜された七星の宝刀を振るって軌跡を描く。華雄の戦斧が夏侯惇の影を裂いた時、夏侯惇は既に華雄の後背に駆け抜けていた。

「ぐっ……」

 華雄は肩に一撃を受けたことに気づく。どくどくと脈を打って血が溢れる。華雄は両手で金剛爆斧を握り直した。握れる。持てる。まだ、叩ける!

 敵は強ければ強いほどいいと常に思ってきた。強者に勝てばその分最強に近づけるからだ。そう思うだけで力があふれてくる。流れた血と鋭い痛みがなおも華雄に力を与えた。

「まだまだ行くぞ!」

「来い!」

 再び鍔迫り合う両者。しかし夏侯惇はもはや完全に華雄の動きを見切っていた。そして華雄には夏侯惇の突進を止められない。振るった戦斧はかすりもしない。急所は守ってはいるが、夏侯惇が折り返してくる度に華雄は出血した。腕が割かれ、腿が斬られる。指が飛び、耳が千切れ、脇腹が裂かれた。しかし華雄は一瞬たりとも怯まずにただただ戦意を上げ続けることが出来た。

 うねるように迫ってくる夏侯惇、それは肉薄する死。痛みと血の予感。目の端に映る倒れ行く部下たち。そして天下国家の命運。自分を案じて手を握った李岳の顔――馬鹿野郎!

 自分を取り巻く世界のすべてがこの身にかかっているという一生に一度の大舞台。だからこそなのか、この極限の状況が華雄の心技体を激怒を伴って完全に合致させた。

 出血とは裏腹に、華雄は剛力そのままに心だけが静まっていくのを感じた。それはいつか高順が己に説いた静けさの境地に相違なかった。

 突進してくる夏侯惇に対して、戦斧を振らずに華雄は常よりさらに一歩深く踏み込む。踏み込んだ足はまるで(いわお)のように地を固く固く踏みしめる。それは奇しくも眼前の夏侯惇が自ら最もたのみにしている脚力の模倣であった。

 華雄は全身の力を一点に集約、同時に全身に拡散させるという矛盾を達成した。腰から背中、肩にかけて生み出される回転はこぼれ落ちることなく力を運ぶ。血を吐くほど磨いてきたこの肉体。練磨に費やした全ての刹那が礎となり、鍛え上げた体幹が暴力の操縦を十全と為したのである。

 完全な一撃は体内に霹靂を走らせる。心臓の鼓動さえ長く感じるわずかの時、華雄は全身に痺れを感じながら悟った――我が武、成れり!

 連撃は道半ばに過ぎなかった。華雄が追い求めたのは、やはりどこまでいっても最強の一撃必殺。場所も理由も相手も、必要となる条件すべてが今ここに揃った。華雄は迫りくる夏侯惇に感謝さえ抱いて技の名を唱えた。

 

 ――超武神豪撃!

 

「はあああああああああっ!」

 過去類を見ない速さで振り抜かれた軌跡は、もはや華雄でさえどう動いたのかわからない。ただそこには閃光があるのみだった。戦斧は叩き、戦斧は裂いた。肉体は約束通り最高の働きをし、華雄の眼前に流星を散らしたのである。

 まさに! 七星餓狼はその名の如く無数の星屑と砕け散り、華雄の戦斧『金剛爆斧』は夏侯惇の顔面から胸までを真紅の流星が如く疾駆した。

 見紛う余地は微塵もなし。華雄は正面から夏侯惇を叩き伏せたのである。

 だがあと一歩が動かなかった。肩、右目、腹。三本の矢は瞬きの差もなく華雄の体に突き立っていた。姉の討ち死にを傍観するわけもなく、技を放つは夏侯淵。さらに追い討つような鈍い痛みが華雄の胸に走る。砕け散った刃を素手で掴み、吹き飛んだはずの夏侯惇がもたれかかるように華雄の胸に切っ先を突き刺していたのである。

 夏侯惇に与えた傷は深手ではあったが致命傷ではなかった、七星餓狼はその身を盾に主を守っていたのであった。

「華雄、お前……! わ、私は……!」

 確かな手応えを手に、しかし夏侯惇は呆然とした表情で一歩二歩と後ずさる。それを見送る華雄は傲然と胸を反らして仁王立ち。

 よろめく夏侯惇を妹の夏侯淵が慌てて抱きとめる。全身を包む激痛と敗北感。果たして勝ったのは誰なのか? 夏侯惇には何もわからなくなった。

 こみ上げてきた血を霧のように吹き出しながら――華雄は笑う。

「……私たちの、勝ちだ!」

 そう叫ぶのと背後から喚声が響くのは同時であった。全速で戻ってきた徐晃隊の突撃である。この瞬間、曹操軍の奇襲作戦が完全に瓦解したことを意味する。

 屈辱の炎を目に宿らせながらも、もはや自力で立ち上がる事のできない夏侯惇。ただ一人の双子の姉を支えながら戦略の敗着を悟り唇を噛む夏侯淵。黎明の青白い光を背に浴び、突き刺さった矢と刃を抜きもせず、腕組みしたまま哄笑する華雄。

 華雄は思う。これまでの人生、実のところいつ死んでもおかしくなかった。きっと祀水関あたりで甲斐もなく死ぬのが関の山だったはず。今はなぜだかそれがよくわかる。

「私たちの勝ち……私たちの勝利、か……」

 私ではなく私たち。初めて心に浮かべたその響きは不思議な音色で華雄を満足させた。

 隣で戦った仲間たちと、そして一人の男に生かされ続けてきたのだということを今こそ華雄は深く理解した。

 

 ――小生意気で気に食わない嫌な男、李岳! あの男に借りがあるなど考えるだけで腹が立つ。だが奴は面白い戦場をいくつも与えてくれた、そのおかげで何物にも変えがたい境地を得ることができたのだろう。

 

 薄れゆく意識の中で華雄はひねくれた笑みを浮かべた。決して口にはしないが感謝をくれてやってもいい。おかげでどうやら、自分が至ることのできる最高の強さを手に入れることが出来たようだから。

 天下泰平とやらが成し遂げられることを拝めないのはちくと気になるが、戦がなくなればどうせ暇になるのだから構わない。後はあの男が、何とかするだろう。

 借りもまた、十二分に返せたに違いない。

「フン、これが最強の気分か……悪くは、ないな」

 曹操軍の撤退が完了するまで華雄は血煙を吹きながら大声で笑い続けた。

 徐晃率いる騎馬隊が到着するまであとどれくらいだったか、しかし友軍の到来を待つことなく、無邪気に芝生に寝転ぶように華雄はゴロリと仰向けに倒れた。彼女が立ち上がることはもう二度となかった。武人としても将としても勝利を確信し、華雄は逝ったのである。

 戦場に立てば百花繚乱の血花を咲かせ、戦斧を手に命の限り猛り狂った武人――

 

 ――姓は華、名は雄!

 

 余人と軽々に真名を交わすを潔しとせず、ただ一個のもののふであり続けた漢朝が誇る戦乙女。

 華々しく、雄々しく、全身全霊で乱世を駆け回った彼女も今はただ静かに眠る。

 その手に握りしめたるは『最強』の手ごたえと勝利への確信。

 満足げに浮かべた豪快な笑顔を、いずれ来迎する朝陽が満天下に誇るように照らすであろう。

 一握の未練すらなし。

 華雄、大満足の一生であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




華雄さん、今までありがとうございました。貴方の頼もしさは書き手としても凄まじいものでした。
こういう結末でしたが……持てるだけのありったけの筆力で大暴れを表現させて頂きました。
ゆっくりとお休みください。

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