真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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第百六十四話 生涯の嘘

「ほうほうそれで!?」

 馬車の御者は振り返り、身を乗り出してまで耳を傾けてくる――陳寿はあわてて手を振った。

「前見て、前!」

「こんなだだっ広い草原ですれ違うやつなんかいるわけねぇ。うちの馬っ子も賢いんだから心配しなさんな。それよりよ、嬢ちゃんの話の続きが気になってこれがいけねぇ」

 まぁ確かに、と陳寿は納得した。先ほどから人っ子一人見当たらない。遠くに放牧されてる羊だの馬だのだけが見えるだけで、後は緑の草原と地平線しかない。

 陳寿はとうとう雁門関を越え、匈奴の領域に踏み入っていた。晋陽で『李岳浴』という名前を聞いてからこちら、曖昧な願望は強い確信に変わり陳寿を突き動かしていた。李岳はいた、洛陽を去った後で北に向かったのだ。晋陽で聞いてまわってもそれ以上の手掛かりは得られず、陳寿は匈奴の地に向かう理由を重ねて得ることになった。

 しかし代県から北は中華の版図に代々組み込まれているとはいえ、実態は支配下とは言い難い。地理に詳しい案内人の手配は必須だった。

 頭を悩ましていたところ、晋陽で見つけたのが荷馬車を引いて北に向かうという男だった。目的地は雁門関を超えてまだ北の朔州だという。これに乗らない手はなかった。朔州は匈奴の地である。陳寿の目的地とぴったり符号した。

 そして旅すがら道すがら、その御者に『史実を収集している』という目的を話したのが運の尽きだった。男は次々と昔の戦記物語をせがんだのである。陳寿も興に乗り、心付けと暇つぶしを兼ねて書き記している史書の内容を反芻するように話し続けて早二日。数十年前に起こった群雄による華々しい戦乱も、とうとう最終章に至ろうとしていた。

「わしにも字が読めたらなぁ。嬢ちゃんはいま話したことを書物にするのじゃろう? だったらいつでも読み返せたのになぁ」

 帝室に上梓する書である、字が読めたとしてもおいそれと目にすることは出来ないだろうが、それについて直截指摘することはしなかった。

「学び舎には通われなかったので?」

 御者は笑った。

「行きたかったがね! 暮らすのに精一杯な身の上だ、物心ついた頃には親の仕事の手伝いをしてた」

 数十年前、府より全ての民に学ぶ場があれかしと触れが出た。それから大都市を中心に読み書きと計算、国の成り立ちを学ばせる公の場が設けられることになった。普及は全国津々浦々まで浸透したと考えられていたし、陳寿もそう思っていたが、設備はあってもこうして制度からこぼれてしまう人もいる。この御者に限らず何万とそういう人はいるだろう。だが彼ら彼女らが過ちを犯したとは言えない。食うか学ぶかであれば食うに決まっている。制度の隙間を埋めるのが現場の人為であり、地方の役人の仕事である以上罪科は政に属する。

 司馬懿が打ち出した『全ての人に学と医を』という方針は未だ道半ばであることを陳寿は痛感した。目の前の御者はただ一人の人ではあるが、まさに国家に求められる不断の努力が未だ途上であること、その現実の象徴であるとも言えた。

「読み書き出来なければ仕方ありませんね、このまま全て語り尽くして差し上げるもやぶさかではないと申し上げましょう」

「いいってことじゃな? こいつぁいい」

「そうとなれば本腰を入れて語りますよ! 酒もほしいところです! 今日の宿まであとどれくらいですか」

 御者はそうさなぁ、と前置きして答えた。

「ほれ、遠くに川が見えるじゃろ? あの近くに匈奴の旦那らの集落がある。今日はそこに邪魔するつもりだ」」

「なるほど。あと一刻程度ですね」

「んだな」

 のんびりとした旅程であるが、いく先々で北の民たちの宿や集落があるからこその日程なのだと陳寿は気づいていた。急いだところで意味もなく、遊牧民特有の相互扶助にあやかって初めて実行できる旅なのである。御者は地理も正確に把握しており匈奴との関係もしっかりと構築している。陳寿はあたりを引いたのだ。

「そういえば聞いてなかったんですが、匈奴の人たちは定住しないって聞いてます。こんなに物を持っていってもいるかどうかわからないんじゃ」

「んなこたぁない。朔州の近くに塩山があってだな、そこで物のやり取りをさせてもらっとるよ」

「塩山!? 塩はご禁制品ですよ! 官の許しがなければ重罪です!」

「姉ちゃん知らんのけ? わしが言うとる塩山はとうにお国の許可をもらっとるよ。何十年か前かな、匈奴のお人らが偶然見つけたとか何とかで」

 あ、うっかりうっかりと陳寿は頭をかいた。そういえば司馬懿の政治改革の際、匈奴との国交を緊密にするために塩の往来を許したという話があった。御者の男が言うのはそのことである。

 とはいえきっと――この男は塩の密売に多少は関わっているだろう。大々的なものではないだろうがおこぼれに預かる程度には、であろうが。そうでなければここまでの人脈が築けたろうか? しかし陳寿は指摘をしなかった。皆、生きるのに必死なのだ。人を傷つけたわけでもない。ここで糾弾したとして何になろう、何より自分の身も危うくなる。

「勉強になりました。それでは話の続きを進めたいところですが……どこまで話しましたっけ?」

「華雄将軍の大往生までだ! ええい、涙が出るわい……武人かくあるべし!」

 御者は拳を握って雄叫びを上げた。華雄の大活躍は河北では寝物語にもなるくらい有名な話だが、少し離れれば知るものも少なくなる。だから歴史を書き記し、後世に伝えていく必要があるのだと陳寿は思う。そして何より――陳寿も華雄の孤軍奮闘の場面は大好きだった。同好の士が増えることは何よりも喜ばしいことだ。

「ではその続きですね……曹操軍の奇襲で大打撃を被った官軍、別働隊を当代丞相である賈駆の機転で何とか退け、態勢を立て直すことになります。陳からさらに西に後退し、舞台は豫州の最西端である潁川。もうこれより後はなく、追いすがる曹操と孫権も退くに退けません。まさに乱世の決着となる最後の戦いこそが、潁川の戦いなのです」

「おお! それじゃ! 聞かせてくれ!」

「……ですが、それはあの集落に到着して酒を入れてからにしましょう。それまでの間、目先を変えて冀州は劉備の動向について一つ挟ませて頂きます」

「もったいぶるんでないわい!」

 御者の声を無視して陳寿は話し始めた。どうせ聞けば気に入るに違いない、という確信があったからである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 雨に濡れながら劉備は戦況を見守っていた。

 本陣を下げて幕舎にいろという苦言は再三受けていたが、劉備は無視して前線のすぐ近くから動かなかった。戦うのも逃げるのも一緒だ。血を流さないのならせめて共に濡れるくらいは許してほしい。

「姉上」

「愛紗ちゃん」

 関羽が劉備の肩に手を置きながら頷いた。

「それでは行って参ります」

「うん。気をつけてね」

「……はい」

 抱きしめ、送り出した。一瞬照れ臭さそうにして、次の瞬間には戦士の顔に戻ると関羽は騎馬を駆って前線に向かった。早く来いと、そして同時に劉備に元気いっぱいであることを示そうと張飛が遠くで手を振りながら飛び跳ねている。

「ご心配なさいませぬよう、劉冀州様。我が軍が青州の弱兵、臧覇がごとき田舎者に遅れを取ることなどありません」

 かたわらに控える許攸が言う。

 

 ――李岳曹操連合と袁紹劉虞の間で勃発した冀州戦役。その終結後いつの間にやら劉備軍に居着いてしまったのが元袁紹軍参謀であった彼である。聞けば諸葛亮が人脈を活用するために引き入れたらしいが、皆の当惑を裏切り大きな活躍を見せた。元々名家の出でありながら縁故を繋いで生き延びてきた人である。豪族、名士といった類の人材を味方に引き入れることは得意中の得意であった。これにより劉備勢力が早くに冀州で安定的地盤を築き上げたと言っても良い。

 

 しかし功績があるからといって、横柄な物言いや態度を劉備は決して許さなかった。

「許攸さん」

「はい劉備様!」

「次、臧覇さんと青州の皆さんの悪口を言ったら許しませんから」

 にっこりと笑って劉備が言うと、ヒグッと喉をつまらせて許攸は黙った。怒れば怒るほど笑顔になるという李岳。その真似をしてみたが、上手くいったろうか?

 すわ失態かと許攸は汗を拭きながら言い訳を募らせる。

「わ、悪口などと……そ、そのようなつもりでは。し、しかし……敵なのですよ!?」

「確かに今は敵です。けど明日もそうかはわかりません」

 平和のために戦っている。戦う以上、勝利のために最善を尽くすし油断などしない。けれど目先の勝利のために怨恨を残し続けることが正しいとも思えない。そして劉備に与えられた使命は、まさにその怨恨を解きほぐすところにある。

 

 ――冀州戦役のあと、劉備は洛陽に足繁く通い、膝詰めで李岳と何度も夜通し語った。北方四州の状況、戦いの結果、これからの未来、公孫賛の残した思い……それ以来一度たりとて隠し事、嘘、誤魔化しのたぐいを持ったことはない。盟友と今なら誓って言える。なぜか頬が熱くなり、妙な気恥ずかしさで真名を交わせてはいないが。

 

 その李岳の目指す未来と劉備の目指す理想は今やピタリと重なり合っていた。まずは戦を手段の一つとしつつも争いをなくす。そして一つずつ融和を目指す。民族も、生まれも、処遇も、性別も、人の価値を決めつける根本的で決定的な要因ではないのだから。

 そのためにも全ての戦を平定させる。そして民に尽くし、なお小揺るぎもしない国に作り直す。少なくともその理想を打ち立てる。そうでなければ国を取り替えたところで何の違いもないだろうから――永続する国家はなくとも、永続する理想はあるはずだから。

 

 その行く末を左右する戦いが李岳と曹操の間で勃発することも伝え聞いていた。劉備の役割は四つあった。冀州から南方への戦略的支援を行うこと、曹操が北方への攻勢に備えること、そして劉虞への崇拝に汚染された民たちを黄巾三姉妹の助力を得ながら少しずつ立ち直らせていくこと。

 特に三つめの仕事が重要だった。劉虞と田疇が染み渡らせた毒を塗り替える。民に信頼され、愛されることが己の力であるのなら、劉備はそれを甘んじて引き受けようと覚悟している。

 それは己が否定した皇族の末裔であるという役割を自ら演じ、そして死ぬまで舞台に上がり続けるという意味に他ならない。

 劉姓の者たちが(ないがし)ろにしてきたそれらを、劉姓である劉備だからこそ再び正す意味があるのだと信じた。

 誰もが笑って暮らせる世界。それを得たくて向きもわからぬままがむしゃらに走ってきた劉備だったが、ようやく明確な方向を見つけることができたのだ。

 戦い、勝つ。けれど宥和する。それこそが目指すべき道だと劉備は考えをあらためていた。これまで以上に『夢物語』なのかもしれないが、夢を目指さずして戦など出来やしない。夢を見させることが指揮官の役割なのだ。

 だからこそ、劉備は許攸に繰り返し言った。

「許攸さん。貴方とも敵でした。けど今は友達です。それを続けていきたいだけなんです」

「りゅ、劉備様ぁ……」

「大丈夫です。怒ってませんから」

 許攸は感涙にむせびながら劉備にしがみついてはひれ伏す。

「で、では! この戦が終わった暁には、そろそろこの許攸とも真名の交換を!」

「ん。それは考えておきます」

「ご、ご無体な……!」

「それより、始まりますよ」

 許攸はハッと身を起こして前を見た。押し迫ってくるは青州に残った最後の黄巾軍残党五万、そして臧覇率いる曹操軍五万の連合である。李岳憎し、そして李岳に与した劉備憎しの気迫が凄まじい。

 劉備はいつもの通り、不安も心配も押し殺して平静を保ったまま劉旗の下で直立した。作戦に疑念なく、勝利の確信しかないとばかりに。血も流さず剣も振らないがそれもまた戦いであった。

 龍鳳、関張らにとってはそれが何よりの信頼の証であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ――幽州牧である公孫越から一万、楼班率いる烏桓族一万、劉備直属の冀州兵が五万、そして軻比能率いる鮮卑族五千。これが劉備が率いる手勢の内訳である。

 

 四つの陣営からかき集めた連合は指揮統率の不安を諸葛亮、鳳統の軍略で糊塗して青州からの攻勢をしのいできた。兵力の数的優位を持つというのに意外と慎重な用兵を駆使する臧覇の前に、諸葛亮と鳳統は未だ決定的な勝利を掴めずにいた――今日までは。

 この冀州と青州の境での戦闘は主戦場ではない。あくまで主となるのは李岳と曹操が争っている豫州である。まず第一に敗北しないこと。ここで曹操の配下である臧覇が冀州に拠点を得てしまえば、曹操は持久戦略を選択することが可能になる。豫州戦役の要点は両軍ともに決戦を急いでいるというところにあるのだから。

 ゆえに、冀州の第一の命題は敗れてはならないという点にあった。

 

 ――その前提を実は臧覇も共有している。仮に劉備が青州に領城を確保するようなことがあれば、曹操は青州どころか兗州と徐州の統治さえ危うくなる。臧覇もまた曹操から無謀な攻めを厳に戒める指示を受けているだろう。

 

 つまり両軍とも多少の後手は許容される特殊な状況なのである。

 そして諸葛亮と鳳統が突くのはまさにそこであった。

 二人が立てた作戦は極めて単純なものだった。攻め続ける……それに尽きた。指揮系統の異なる軍を無闇にまとめることさえしなかった。とにかく順番を決めて波状攻撃を繰り返す。兵が一丸となって戦うためには、戦法は単純な方が力を発揮しやすい。

 決まり事は二つだけ。撤退命令には絶対に従うことと、攻撃箇所は劉備軍参謀の指示に順ずるということ。

 全体の戦況判断を担う諸葛亮だったが、攻撃指示についての判断を鳳統に一任した。信用も信頼も無上のものである。能力にも不安はない。

 しかし、それでも心配してしまうのが、友達だった。諸葛亮は開戦の直前、いっとき持ち場を離れて鳳統の元へ向かった。

「ひ、雛里ちゃん……」

 一声かけたくてやって来た。しかし諸葛亮はいざ顔を合わせると何も言えなくなってしまった。鳳統は逆撃を試みる。

「朱里ちゃん……え、えいっ」

「ひゃふぁふぁ!?」

 ぎゅっ、と鳳統は諸葛亮の鼻をつまんだ。持ち場を離れた諸葛亮への私心なき処罰である。声にならない声ではわわ、はわわと繰り返す諸葛亮。やがて鳳統は手を離すとそっと諸葛亮を抱きしめた。鳳統には全てがわかっていた。

「大丈夫だから……朱里ちゃん」

「雛里ちゃん……」

「私が……私が一緒に、背負ってるから」

 鳳統は理解していた。諸葛亮の心にまだ晴れることのない闇があることを。

 太平要術の書という人知を超えた力によって操られていたとはいえ、諸葛亮は愛すべき仲間たちに矛を向けた。途中で真実に気づいて抗おうとしたものの、それさえ書の所持者である田疇に利用された。

 その結果、世界は公孫賛という人を失った。

 誰もが言う。諸葛亮の責任などなかったと。致し方なかったと。やむを得ないことなのだったと。

 だがその言葉が一度たりとて諸葛亮を癒やすことはなかった。自責の闇からすくい上げることなどなかったのである。

 いつもそこにいて当たり前だった公孫賛。彼女を失って初めてその大きさに触れ、失意のうちに涙を流す人がどれだけ多かったことか。

 そこには当然旧知である劉備もいた。劉備もまた書に操られ公孫賛を不利な立場に追いやる動きに加担させられていた。

 諸葛亮はまだ己を許すことができない。自責から解き放たれる日が来たとしても、それはただの忘却であると己を責め、新たな戒めの日が始まるに過ぎない。

 鳳統はその永遠(とわ)を共に歩こうと誓った。劉備も諸葛亮も、操られることになった発端は鳳統が害されたのだという虚報を信じ込まされたことに他ならないのだから。だから二人と共に歩く義務が、自分にはあるのだと鳳統は信じた。

 これはこれからの世界の命運を決める戦いであると同時に、守るべき誰かのための戦いでもある。誰かのために戦うとき、人は本当に強くなる――それは鳳統が、公孫賛と李岳が受け取った人生の指針であった。

「雛里ちゃん……心配なんか、何もないから」

「うん。勝って、帰る……みんなで」

「――うん!」

 名残惜しげに本陣へと戻っていく諸葛亮から視線を切ると、鳳統は精一杯腕を伸ばして天を指さし、両断した。

「――参ります」

 鳳統の声に呼応して太鼓が鳴った。銅鑼が響いた。人が行く。大地が揺れる。天が見ている! ならば時代も瞠目するに相違ない!

 鳳統は思う。死線をくぐった。勝利も、敗北も味わった。失ってはならないものを失い、手に入れるべきものの価値と尊さを再認識した。李岳という男に出会ってからこちら、鳳統に起きた事件は彼女の考えと能力に大きな変化を与えた。羞恥と煩悶の先。決死と献身を第一に考えるようになった鳳凰にもはや死角はない。

 開戦、激突。関羽、張飛の猛進が目に見えるようだった。大局を見渡している諸葛亮から逐一情報が届く。反撃を試みる臧覇の用兵は的確で戦意も高い。しかし戦場の機微を肌に感じながら、全ての情報を統合した鳳統は小さく呟いた。

「あわわ……読み筋です」

 突如攻勢に出た劉備軍に対し、狼狽する臧覇の挙動が鳳統には手に取るように理解できた。握った先手を手放さず、回避策を講じる敵軍の退路を断つは鳳統の最も得手とするところ。

 

 ――この日、臧覇は軍を散々に分断され、手勢のうち五千までも捕虜として奪取されることになる。

 

 

 

 

 

 去りゆく兵を見送りながら、劉備は目を細めた。捕虜にした青州兵五千。その全員を釈放した。寝返る者はいなかった。全員揃って曹操の元に戻っていく。それはわかっていたことだったが、不安が皆無になることはない。

「桃香さま」

 振り返ると諸葛亮が息を切らして立っていた。冀州、幽州の実質的な文官の筆頭になっている諸葛亮にとって、もっとも重要な仕事は戦が終わってから始まる。常人では担いきれないほどの量の差配と判断を、諸葛亮は戦場の関羽のような千人力でこなすのだ。

「朱里ちゃん、お疲れ様。青州兵の皆さんはどんな感じだった?」

「……不安そうでした。何かの罠だと思っているのでしょう」

 劉備の考えと一致していた。

 戦い、虜囚になった後に裁かれることなく解放されるなど前代未聞である。救われた、などと安易に喜ぶ者は皆無だった。怪訝そうに顔をしかめ、または罠ではないかと疑う者がほとんどだった。それでいい、と劉備は思った。これこそこの国が真に分断されているという証拠。信頼や道義が失われた世界で苦しむ人たちの当然の態度なのだから。

「臧覇さんはまた向かって来ると思います。血気盛んな方だと聞いてますから。今日は思惑の隙を突いた奇襲のようなものです。次は本腰でしょう」

「次も勝って、次の次も勝って、解き放ち続ければいいんだね?」

「はい、少なくとも五度。あるいは七度か」

「違うよ。何度でもだよ。百回でも千回でもだよ」

 劉備の言葉に諸葛亮はハッとして目を細めた。振り向きさえしない劉備の背に向けて、自然と拱手していた。

 虜囚を解放するという案は諸葛亮と鳳統の考えだった。いま必要な戦は殺し合うだけのものではなく、戦後にいかに速やかに宥和を果たすかを念頭に置くべきだという劉備の意向に沿った発案。圧倒的な勝利と繰り返し施される温情によって、何とか軋轢を解きほぐしたいという、成功の見込みなど見えるはずもない賭け。だがその途方も無い方針は、劉備が行うと不思議と違和感がない。こればかりは李岳や曹操でも不可能な方策だろうと思う。

 去りゆく青州兵の背中を見つめ続けながら劉備は言った。

「私、口に出してちゃんと言いたいことがあったの」

「お聞きします」

「私はね、この国の悲惨な状況をたくさん見てきたよ」

「はい……」

 洛陽だけを見ていてはわからない無残さがそこかしこに当然のようにはびこっている。飢え、略奪、賄賂、差別、暴力に殺戮。実りの大半を収奪する国家と、残ったわずかなものを奪い合う悲惨な民たち。その民たちを救いたくて劉備は立ち上がった。その理念、理想に間違いがあったとは一切思わない。

 けれど、違う視点から見て違う方法もあったことを、もはや劉備は十分に理解していた。国家中枢を支配しているというのに権力争いに耽溺した者たちの罪は果てしないが、それを内から変えようとして戦う者たちもいた。

 それが李岳であり、ともに歩いた董卓。そして帝。さらに彼ら彼女らに付き従った文武百官と幾万の兵たち。

 調略が介在したとはいえ、劉備はそれに矛を向けた過去がある。

「私は、間違ってたんだね」

「桃香さま! 私が、私が」

「でも、今からでもきちんとできるよね」

 もう少し早く会えていれば、という当てこすりのような気持ちもなくはない。けれど今からでも遅くはないという気持ちを恥ずかしげもなく大事にしたいとも思う。

 人々の疑念を取り去り融和を構築する。そのためには善なる為政者である必要がある。苛烈な施策から民を守る人として、劉備は人徳の化身として劉虞に取って代わろうと心に決めた。

「私は、立派な嘘つきになるよ!」

 諸葛亮は返答をしない。賢さに傷つき、罪悪に苛まれながらも戦う少女の肩を劉備は抱く。

 

 ――いつまでも、ずっとずっと、嘘をつくと決めた。醜い自分を隠しながら、義と道徳の体現者であるというにこやかな仮面をかぶり続けるという嘘。

 

 虚栄と欺瞞。それで救われる人がいるならば、一択であろう。

 追い立てられるように劉備は諸葛亮を伴って陣幕へ戻った。関羽や張飛、そして兵たちを労わないといけない。

 諸葛亮が言う。

「ところで桃香さま……豫州の戦況について一報が届きました。曹操軍は伏兵を用い李岳軍に大きな打撃を与え、豫州は最西端の潁川まで戦線を押し上げたとのことです。その過程で……華雄将軍が犠牲になられたとのこと」

「……」

 華雄の面影が浮かぶ。あの破天荒ぶりがどこか末妹の張飛に通じると常々思っていたから、劉備は一瞬で感情移入してしまった。李岳の心痛、いかばかりか。それでも戦うことをやめられない、やめる立場にはない人。

「いざというときには」

 諸葛亮の言葉を劉備は制した。そう言わなければならないという軍師の仕事を責めるつもりはないが、より重要な確信が劉備の中にあった。

 李岳と打ち合わせた四つの施策のうちの最後の一つ……それは李岳が敗れた際には洛陽におわす帝を救出し、漢帝国存続のために尽力することだった。だがその約定を劉備は守る気はなかった。その役割を担う日が決して来ないことを劉備は確信していたから。

 李岳はきっと勝って戻ってくるだろう。傷だらけで、多くを失いながら。

「私は、信じて待ってる」

「……はい」

 手をつないで二人は幕舎へと戻っていった。

 まさに李岳に救われた二人だからこそ、その信頼は揺るぎない。けれど恐怖と不安を押し殺すほどに強くない劉備は、諸葛亮を先に行かせて足の震えが止まるまでしばらく一人で立ち尽くしていた。恐怖も不安も、全部全部嘘にする。 

「白蓮ちゃん……私、頑張るから」

 声が聞こえた気がした。錯覚だった。風が頬をなでただけである。目にたまった涙もパッと散る、そんな爽やかな風だった。

 

 

 

 

 


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