真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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李岳


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李 岳(り がく)は、『三国志演義』等に登場する架空の人物で字は信達。後漢の泰帝期、并州の人とされる[1]。登場する作品や伝承ではいずれも後漢泰帝(劉弁)の治世において天下平定のために尽力したとされている。正式な史書である『後漢書』などには登場しない。

 

目次

1 概要

2 三国志演義

3 民間伝承の定着

4 遊牧民の記録

5 西方への伝来

6 日本での受容

7 実在説

8 参考文献

 

概要 編集


後漢霊帝の治世下、黄巾の乱によって天下は大きく乱れた。霊帝没後に若くして即した泰帝(劉弁)に天下を抑える力はなく、やがて益州の劉焉、冀州の劉虞らが自らの正統性を主張して即位を宣言、中華の歴史上初めて複数の皇帝が存在することになった。事実上国が三つに分裂することになり、この時代を三国時代とも呼ぶ。

天下を再平定した泰帝の没後、後を継いだ平帝(劉協)は陳寿に命じ、この特異な時代を史書とは別に特別に列伝を記録するよう命じた[2]

後年、乱世に現れた群雄らの物語を娯楽小説としてまとめたものが羅貫中による『三国志演義』であるが、基本的には歴史に沿いつつも、列伝には存在しない人物も中にはおり、その代表が李岳である。

架空の人物でありながら、并州以北の当時匈奴支配地域(現在のフフホト市付近)には李岳が発掘した塩山(現在は枯渇)とされる「信達山」や、浴室設備を「李岳湯」と呼ぶなど李岳の名を冠する地名や名詞が各地に存在している[3]

また唐代の玄奘(三蔵法師)は『大慈恩寺三蔵法師伝』において、西域への旅の途中で通行した河西回廊の一部が「岳路」と呼ばれていることを記している。[4]

 

三国志演義編集


李岳の初出は巻之一『十常侍謀殺何進』である。董卓配下の華雄の副将として陳留王(当時)劉協の誘拐をみすみす許してしまう人物として登場する。

その後李岳は北方騎馬民族である匈奴の右谷蠡王香留靼の副将として部隊を率い『汜水関の戦い』に参加する。

香留靼が匈奴の地へ戻っている間は呂布の副将として騎馬隊を率いることから、匈奴が漢に供与した武力集団の指揮官と見られてもいる。

以上のように董卓を中心とした洛陽勢力の一員として作中に度々登場するが、いずれも強力な騎馬隊を率いて戦場で決定的な活躍を演じるため人気が高まった。

なお『三国志平話』『英雄記』などにも登場していたとされているが、現存している『三国志平話』の版には記載がなく『英雄記』の該当箇所は散逸している。[5]

 

民間伝承の定着編集


李岳の存在は文献には乏しいものの、物語や伝承では広く親しまれ定着している。

京劇では冷酷無比な性格、義理堅い将軍の二面性を持つ人物として描かれており、演者は仮面を入れ替えることでそれを表現する。(三国志演義『祀水関』『洛陽炎上』など)

道教の代表的な仙人である八仙のうち、李鉄拐が俗化し、転じて李岳として受け入れられていったという説がある[6]

その出自を前漢代の李陵の子孫とする伝承も存在する[7]

 

遊牧民の記録編集


李岳にまつわる伝説は当時の匈奴、烏桓などで子孫への伝来があり、その一部が口伝として残っている[8]

李岳は天狼星(シリウス)から大地に降り立った部族を導く狼であり、不可思議な能力を用いて繁栄をもたらすというのが主な内容。チンギス・カンの逸話に代表されるモンゴル部族の「狼祖伝説」(『ボルテ・チノ』参照)の類型と考えられる。

当時、匈奴と烏桓は漢および鮮卑との関係が悪化し苦境に立たされていたが、漢の董卓と結ぶことで関係を回復させた。その仲立ちに立ったのが李岳であるとされ、部族中興をもたらしたことがきっかけとなり祀り上げられたと推定される。[要出典]

 

西方への伝来編集


後漢期の混乱と回復は、漢と中央アジアのエフタルの間でシルクロードが整備され始めた時期と重なり、李岳についての逸話は騎馬民族の移動とともに西方へと広がった。

イランの地ではエフタルの初代王であるトラマナが、天狼の導きに従ってクシャナヴァースデーヴァを撃ち破り、ペルシアと戦ったと記された石碑が出土している[9]

当時のローマ帝国は内乱にあえぐ軍人皇帝時代であり、若くして帝位に就いたアウレリアヌスは騎馬民族の武力集団を味方につけて自らの地位を確固たるものとした。当時のローマの記録には騎馬民族集団に対する賛辞として『冬の狼』『シリウスの剣』といった単語が綴られており、いずれもそれを李岳伝説の亜種として伝わったという指摘がある[10]

 

日本での受容編集


三国志演義の伝来は平安時代にまで遡るとして吾妻鏡などにその影響が見られる。

国の混乱と再平定の物語は武士に広く受容され、日記を始め様々な記録にその影響を窺い知ることが出来る。

織田信長本多忠勝を勇猛ぶりをもって『今張飛』だと褒めたが、『赤備え』で名を馳せた井伊直政を小柄な体つきで顔立ちも少年のようであり『今李岳』と評した(李岳は黒備えの部隊を率い童顔であると伝えられている)。[要出典]

薩摩島津家久は『中書家久公御上洛日記』の中で、三国志演義における李岳の評価を家中で吟味、議論したという記録が残っており、後年『戸次川の戦い』では李岳の戦術を参考にした形跡があり、のちの島津義久らも騎馬隊の運用を参考にした可能性がある。

 

実在説 編集


三国志演義において李岳の最期は描かれておらず、曹操との決戦以降の去就は不明である。その不足を補う形でいくつもの小説や講談が残されている。洛陽を去り西方を去ったという、一種の貴種流離譚として語られる物語もある。

エフタル建国に関わった、アウレリアヌスの側近として活躍したなどという荒唐無稽なものも多いが、いずれも李岳実在を期待する願いの反映と受け止められている。

しかし学術的にも李岳実在論は根強く残っており、現在でも議論が盛んに行われている。

陳寿は上梓したもの以外にも、李岳の列伝を書き記していたという説もある。[要出典][独自研究?

 

参考文献 編集

『伝承から見る匈奴』(ユーラシア遊牧民族史学会、1975)

『後漢書』列伝91

『長城近傍史』(ユーラシア遊牧民族史学会、1990)

『シルクロードが伝えた風』(狼顧社、2000)

『失われた中華史――散逸と注』(民明書房、2022)

『フィクションの源流(道教編)』(民明書房、2004)

『中島敦が読んだ史記』(狼顧社、2000))

『ホーミーというフォークロア』(民明書房、2006)

『風の民、または中央アジアの遊牧民族国家の興隆』(狼顧社、2001)

『ユーラシア大陸東西交流の起源を追って』(パンゲア出版、1999)




このページのノート、めちゃくちゃ荒れてそう。編集合戦はほどほどに。



というわけでskebでご依頼を頂いた内容をこちらにも投稿させて頂きます。

『李岳伝を読み返していて感じたのが
「李岳伝世界の後世(現代)の評価を見てみたい!」という思いでした。
本編中に宋の時代の見解なんかは記載がありますので、日本にもその活躍が伝わり「今李岳」なんてのが戦国時代やらに現れたりしてたのかな~
日本でも三國時代のマンガや小説にも登場するのかな~
なんて妄想が捗っております。
あえて伏せている部分もあるかと思いますので、記載できる範囲での
ウィキペディア的なまとめなんかリクエストさせていただきます!』

以上のご依頼への回答です。ありがとうございました!
李岳についての箝口令は行ったけれど、人の口に戸は立てられぬということで物語は口伝として伝わったんじゃないかなと。このあたりは妄想し甲斐があって私も書いてて楽しかったです。
しかしウィキペディア的文章は難しかった……ページに寄せるために特殊タグを打つのは楽しかったですけど。内容変なところは皆さんで編集してください。(できません)
(もちろんですが参考文献はすべてジョークです)

続いて告知ですが、同人書籍計画も順調に進んでおります。

【挿絵表示】

表紙すごい。
なお本文もかなりの割合で書き直しています。今読んだら耐えられない箇所が結構あったので……決定版として届けてやるぜ(という気合い)
ちなみに、まだ何もお出しするものはないのですが、通販用のBOOTHは開店いたしました。

狼顧社
https://roukosya.booth.pm/

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最後に、ウクライナが大変なことになってて胸が痛いです。
国連UNHCRの難民支援ページは下記ですので、もし可能でしたら千円からでも…
ウクライナ緊急:避難を強いられる家族に人道支援が急務です

戦記ものなんて、現実が平和だからこそ心から楽しめると思うんですよ。

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