真・恋姫†無双〜李岳伝〜   作:ぽー

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異伝 風のレギオン

(一)

 

 点々と放牧された山羊のいる丘。

 秋の名残りの枯葉。

 まばらに植わった低木とオリーブがまだ青々しい、いつものつまらない故郷の眺め。

 生まれた時から見飽きた景色をしばらく見つめたあと、青年は不意にトーガの裾をなびかせて天を仰いだ。

 誰かに呼ばれた気がした――確かに誰かが自分の名を呼ぶ声がしたのだ。

 しかし頭上にはただ高い空と、強く吹く風があるだけだった。

「どうした? ルシウス」

 先を行く壮年の男性が言った。

「叔父上、聞こえませんでしたか? 私の名を呼ぶ声がしたのですが」

「どんな声だね」

「風が、僕を呼んだかのような……」

 叔父上と呼ばれた男、マルケルスは穏やかなシワをさらに深めて、にっこりと微笑んだ。

「気のせいではないかもしれない。ルシウス、男であれば誰もが一度は運命に呼ばれるものだ」

「運命?」

「モイライの呼び声だ」

 運命を紡ぐクロートー、その長さを測るラケシス、断ち切るアトロポス。彼女たち三姉妹の女神を合わせてモイライと呼ぶ。

 であるのなら――ルシウスと呼ばれた青年は自らに声をかけたのがクロートーであって欲しいと願った。まだ自分の人生には何も起きていない、きっと今からでも運命との出会いがあるのだと信じたかった。

「呼び声であるのなら、応えたいものです」

「ならば運命の呼び声に見合う立派な男にならんとな。お前も二十五歳になった。早いもので、もう成人なのだ」

 たくましい腕を強調しながらマルケルスは再び笑った。

 

  ――ここは皇帝属州パンノニア、その州都であるシルミウムの郊外である。

 

 ローマ帝国の中でもギリシアに近いこの土地は、西の首都ローマ、東のビザンティウム、南のテッサロキケを繋ぐ交通の要所であった。

 その重要性がゆえ、シルミウム近辺は異民族による侵攻を度々受けていた。今回もまたゴート族と見られる騎馬隊が国境を超えてきているという知らせを受けての出動である。ルシウスは辺境部隊の副官として戦地に赴く途上なのであった。

 ルシウスは叔父であり軍人であるマルケルスの影響を受けて早くから軍に属し、二十五歳の若さで副官の地位にまで上り詰めていた。

 ルシウスの父はいやしくも元老院議員であり、その息子が軍務に就くのは当然のこと。ルシウスは己の選択に迷いを感じていない。

 だが彼の心のうちは晴れなかった。

 

 ――異民族をその都度打ち払ったとて何の意味もない。ローマ帝国の無様な惨状、それ自体を解決しなくては未来はないのではないか。

 

 ルシウスに対し、父は元老院への跡目を推しているが全く気乗りがしなかった。元老院とはもはや名ばかり。押し寄せる異民族に対策を打ち立てられぬまま、ゴート、ゲルマン、ペルシスといった外敵に近年ローマは防戦一方なのである。

 国家の頂点である皇帝を取り巻く環境もまた混乱の坩堝にあった。

 第二十四代皇帝アレクサンデル・セウェルスが戦地で軍に謀殺されて以後、国家は軍人により支配されるようになって久しい。以降軍事力を背景に暗殺と擁立、僭称という異常事態が日常化する有り様となり、複数の僭称皇帝が相争うことさえあった。

 結果政情不安はとどまるところを知らず、とうとうローマがその身を三つに分たれたのが数年前のこと。

 偉大なるカエサルが切り拓いた広大な土地、ガリアとブリタニアを手中におさめたマルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムスはガリア帝国建国を宣言。

 さらにセプティミウス・オダエナトゥスとその娘ゼノビアによって東方小アジアはパルミラ帝国と名を変えローマの残る半身を裂いたのである。

 

 ――偉大なローマは身を捩り、苦しみ、断末魔を上げようとしているのだ。

 

 それを指をくわえて見ていることは、ルシウスにはできない。けれどこの手に力を込めたところで、どこに振り下ろせばいいのかすらわからない。ただこうして僻地で無為に戦うだけの日々。

 モイライが呼ぶのであれば、この一身を運命の火事場に投げ込んでも良いと青年ルシウスは心から思っていた。

 心は燃え上がれど、しかしその熱波を向ける先はまだルシウスはわからないでいる。

 丘陵に吹く風が彼の黄金の髪を巻き上げるだけだった。

 

 

(二)

 

 シルミウムを出て五日、部隊はそろそろ敵を捕捉するであろう地点まで進んだ。

 かなりの強行軍であったが、麾下の二千の重装歩兵に疲れは見えない。首都ローマを守る軍団兵にも劣らないほど鍛え上げた、とルシウスは自負している。

 惜しむらくは騎馬の数が乏しいことだった。ローマの騎馬隊はそのほとんどが異民族である。つまり傭兵なのだ。彼らを十分に雇用し、育て上げるにはパンノニアの財力では限界があった。今回も市から割り当てられた予算では百騎揃えるのが精一杯だった。

 ルシウスも騎馬を駆る。重装歩兵はローマの誇りではあるが、騎兵の優位性はハンニバルとスキピオを引用するまでもない。

 何より幼い頃からルシウスは馬が好きだった。今もまたがる愛馬の名はフルメン。稲妻の意。黄色い肌を表しているだけではなく、その速さこそまさに稲妻だった。

 

 ――そのフルメンが不意に嫌がるように首を振った。

 

 いつも素直でわがままを言うことはないというのに、右手の森をしきりに気にするのだ。

 はっ、とルシウスが気づいた時、マルケルスはすでに剣を振り上げていた。

「総員! テストゥド!」

 マルケルスの怒声に軍団兵が機敏に従った。

 テストゥドはローマ軍伝統の戦法で、大盾を組み合わせて敵の攻撃を全方位から防ぐ防御陣形だ。この大楯と槍、そして一糸乱れぬ連携でローマ軍は地中海の覇者に君臨した。マルケルスとルシウスも瞬く間に馬体ごと大楯に包まれた。

 盾が戦列を覆ったのと矢が飛来したのは全く同時だった。大楯が矢を弾く、頼もしくも恐ろしい音が立て続けに鳴り響く。

 ルシウスは盾の隙間から前を見た。やはり報告通り異民族、そして全員が騎兵だった。

 生まれた時から馬に親しむ彼らは、馬上で矢を射るという離れ業を当たり前のように行う。

 機動射撃はローマ軍重装歩兵の天敵であり、何度も煮え湯を飲まされている。そして対策も難しい。農耕に勤しむことが生活の基盤であるローマ人にとって、遊牧の民の技術を後天的に身につけることは決して容易いことではなかった。

「叔父上!」

「こらえろ。敵は精々数百。焦らずとも良い」

 確かに遠巻きに射撃を繰り返してくるが、そのほとんどを盾が防いでいる。彼らも寡兵を自覚しており無茶な攻めはしない。接近して来ない限り、本格的な会戦にはなりようがない。

 来るか、来ないか。

 二呼吸ほど待った後、敵は攻撃を選択した。正面から攻め込んでくる。地響きのような馬蹄の音が迫ってくる。重量一千リブラ*1を超える生き物が全速力で突入してくる恐怖は、鍛え上げたローマ兵であっても全身がこわばるほど。

 ルシウスは自分の恐怖を振り払うように叫んだ。

「来るぞ、ローマの意地を見せよ!」

 喚声を上げ、馬体ごとテストゥドで受けた。何人もの歩兵で押し留め、そして槍を突き出して馬を狙う。

「焦るな! 一騎ずつだ!」

 マルケルスの声にルシウスを含めた全隊員が応える。

 血飛沫を浴び、敵兵をなぎ倒してとどめを刺す。戦場の高揚の中で、しかしルシウスは妙な違和感を覚えていた。

 敵の工夫が乏しすぎる。

 ここは小規模な丘陵が続く地帯で、見晴らしは決していいとは言えない。だというのにこんなにも正面から突っ込んでくるだろうか。

 テストゥドも全方位に無敵ではない。攻撃に転じた時に側面から攻め込まれれば容易く押し込まれてしまう。

 きっと伏兵がいる。

 ルシウスは、叔父上、とそう呼んで振り返ろうとした。

 しかしルシウスの目に飛び込んできたのは、ゆっくりと地に倒れ伏す叔父だった何か。頭には見覚えのない矢が真っ直ぐ貫き通っている。

 側面から飛び出してきた伏兵の一矢がただちに叔父を殺したのである。

 ルシウスは悲鳴の代わりに、咄嗟に声をあげていた。

「レギオン!」

 軍団を意味するレギオンは傾注をうながす。

 指揮官の死で動揺する前に、軍団兵は身に染み込んだ習性に従い耳をそばだてた。

「指揮官は敵の奸計により名誉の戦死を遂げた――軍団はただちにこれに報復しなくてはならない! これより私が前線指揮官(ケントゥリオン)として隊を指揮する! 軍神マルスの加護は我らとともに!」

 なけなしのクソ度胸を振り絞る。部隊を二つに分け、側面の伏兵に半分を突っ込ませた。正面の騎兵は傭兵に任せ、残る半分は負傷者とマルケルスの遺体を回収、そして再びテストゥド陣形を組ませ後退を指示した。

 ルシウスは心の底から渇望した――運命よ! 私はこのようなところでは死ねない。

 叔父はアトロポスの気まぐれに触れて、その運命を断ち切られた。

 だが自分はまだだ、まだ何もなしていない! 心の中から地響きのような叫びが轟いた。

 そうだ、まだ何もなし得ていない。

 クロートーの呼び声さえ聞いていないのだから。

 

 

 

 

 

(三)

 

 鎧の重みで立てない。

 疲労が全身を覆い尽くし、座り込んだまま地面に沈み込んでいくのではないかと思えた。

 あれから半日、ルシウスの指揮のもとで軍団兵はまさに死に物狂いで戦った。結果大きな被害は出したものの何とか敵を押し返し、林を野営地にして夜を迎えることができた。

 惨敗といっていい。指揮官が開戦直後に戦死したことを考えれば善戦だと称えるものもいるかもしれないが、敗残に変わりはない。

 しかしその賞賛も生きて帰ることができればこそ、だった。

 このまま無策で朝を待てば、まともに追撃を受けた挙げ句に全滅であろう。

 自分が指揮官なのだ。どうするか、決めなくてはならい。

 レギオンを率いる者としてまさに正帝(アウグストゥス)のように考えなくてはならない。

 だが、それでも体の重みに頭がついてこない。

 小一時間、身じろぐこともせずに自分の内面と戦ったルシウスは、何とか立ち上がると近くの池まで行った。

 頭から水をかぶる。秋の夜の風が濡れた体に冷気をもたらした。少しだけ冷静になれた気がした。しかし答えがない。答えがないまま冷静になったところで、敗北への予感で震え上がるしかなかった。

 

 ――その時、声をかけるものがあった。

 

「いたいた! おー、生きてる。賭けは俺の勝ち!」

「賭けてない。適当言わないでお兄」

 振り返ると二人の少年……いや、少年と少女がいた。

 片方は肌の浅黒い赤い髪の少年で、もう片方は白い肌に黒い髪の少女だった。少年の方が長い髪を結んでおり、少女は短く切り揃えている。

 妖精でも現れたのかと思ったが、その出で立ちは明らかに東方の異民族のもの。それもペルシスより以東のもののようだ。小アジアの者はもっと肌が浅黒い。さらに東方、最近よく名を聞くエフタルの者かもしれない。

 おそらく双子だろう。十五歳は行くまいが、東方の民は若く見えもするからはっきりしなかった。

「君たちは……」

「俺はアエスタス」

「私はウェル」

 

 ――それぞれ夏と春を意味する言葉だ。

 

 ルシウスは心の中で繰り返した。浅黒い赤髪の少年がアエスタス。色白で黒髪の少女がウェル。

 忘れてはならない名前だという予感がした。

 アエスタスは槍のような長物を背負っていた。刃は皮の鞘で封印されているが、不釣り合いなほど巨大である。一方のウェルは箱を備えた弓のような不思議な形状のものを腰に下げている。まるで見たことがない器具だった。

「兄ちゃんはさ、あいつらを倒したいのか?」

 少年アエスタスが目を爛々と輝かせて聞く。その言葉の機微に、ルシウスはこの二人が例の敵を既知であると判断した。 

「あいつら? 君はやつらを知ってるのか?」

「パルティアの残党」

 ウェルと名乗った少女の方が答えた。

「彼らは滅びゆくペルシスから逃れ出たものたち。残っていればペルシスの尖兵としてエフタルとの戦で捨て駒にされることがわかっていた。だから略奪を繰り返しながら西に逃げている一団」

「そして、俺たちが追っている連中さ」

 アエスタスの赤い目は燃えるように輝き、ウェルの声は極寒のような冷気があった。

「……君たちの敵、というわけか? 君たちの部族は彼らを倒そうとしているのか?」

 ウェルが首を振って答えた。

「私たちは旅団。一つの民族、一つの部族ではない。私たちは旅をする。私たちは友誼を見捨てない。やつらは私たちの友の村を襲った――父は怒った。母も。彼らは無事では済まない」

「どれぐらいの戦力を持っている」

「万の騎兵」

 内心叫び声を上げた。

 この二人はクロートーが遣わしたのだ、とルシウスは思った。

 あるいは戦神マルスでも、この際なら悪魔神でも構わない。

 この二人との出会いは運命だ。ルシウスは意を決して言った。

「助力を願いたい」

 うーん、と二人は値踏みするように同時につぶやいた。

 アエスタスは面白がるように、ウェルは利害を判定するように。

 ルシウスは運命が遣わした二人の妖精を手放す気はなかった。

 アエスタスを向いて言った。

「勇敢な少年よ」

「ん?」

「先ほど聞いたな。あいつらを倒したいか、敵なのかと――答えよう。やつらは敵だ。我がローマを襲い、そして叔父を殺した仇だ。必ずや報いを受けさせなくてはならない」

 続いてウェルを見た。

「賢明な少女よ。奴らは再び我らを追って牙を剥くだろう。君たちの雪辱を晴らすには格好の機会と思わないか? 我らはいま助けが必要だ。パンノニアのシルミウムは……いや、ローマは諸君に最大の感謝を惜しまないだろう!」

 アエスタスの目が一層輝く。

「春蓮! 助けようぜ!」

「真名で呼ばないでお兄! ……指揮官さん、条件があります」

「聞かせてくれ」

「戦うかどうか、決めるのは父です。貴方を父に会わせます。父は貴方に問うでしょう――戦う意味を。その答えによって父が決めます」

 いよいよ神話じみてきたぞ、とルシウスは思う。

 しかし面白い。負け犬の敗残兵が言うことではないだろうが、この巡り合いは天啓以外の何ものでもない。

 ではその父をどう呼ぶ、と聞こうとした時だった。さく、さく、と軽い足音を立ててやってくる人影があった。

「二人とも、無礼を働かなかったね?」

 ウェルとアエスタスが同時に元気よく頷いた。はい、父上、と。

 黒い髪、低い背丈の少年だった。いや、よく見れば童顔なだけで年はそれなりに行っているはずだ。なにせこの二人の子どもの父なのだから。しかしどうにも若い。

 服装は明らかに異民族のもの。丁寧な発音だったが東方の癖は抜けきっていない。しかし卑屈さやおもねったところはなく、高貴ささえ感じる。

 不思議な男だった。

 ルシウスは初めて名乗っていない非礼に気づいた。

「辺境部隊、臨時指揮官のルシウス・ドミティウス・アウレリアヌスと申します」

 名乗りに小柄な男は目を細めた。

 軍の指揮官と信じなかったのであろうか。ルシウスの年齢では確かにありえないことではある。

「そうですか……私は今はヒエムスと名乗っています。本名は別ですが、こちらの地域では発音が難しいようなので」

 ヒエムス。冬。

 笑顔であるというのに、その名の通りの冷徹さを兼ね備えていることがよくわかった。

「お困りのようですね」

 ルシウスは思わず笑った。傷だらけの軍団を率いて異民族の騎馬隊に怯えているのだ。ローマ全土で誰よりも困っているだろう。

「見ての通り、敗残の軍だ。控えめに言うのであれば死ぬほど困っている」

「なるほど」

 ルシウスの冗談を、ヒエムスは至極真面目に受け取っていた。

 どうやら息子と娘の会話を後ろで聞いていたのだろう。初めからそこにいたように、ヒエムスは言葉を続けた。

「昼間、皆様方が戦ったのはペルシスの略奪部隊です。彼らは村落を襲撃し、避難民を追い立て、物資を調達しながら西を目指しています。目的はローマの地を奪うこと」

「その二人から聞いた。私たちの利害は一致しているように思う」

 不思議なものだ。対策を打つために幾度もローマの元老院に手紙も送ったが、まともな返答が返ってきた試しはない。しかし眼前に立つ初めて会った異民族の男に対し、元老院など比較にもならないほどの期待がこみ上げている。

「勝てる、としたらどうします?」

 予想を超えた答えだった。ルシウスは冗談として受け取ろうとしたが、失敗した。

 ヒエムスはやはり至ってふざけた様子はなかった。彼は言葉を続けた。

「……彼らの行いは目に余る。我々を見ると逃げる一方で、ようやくここまで近づけたのです。もう逃がすつもりはない。ルシウス殿の協力を得られれば、我らもまた目的を達成できる」

「彼らを討つのが目的なのですか?」

「少し、違います」

 では何なのだ。そう続けるべきところをルシウスは黙ってしまった。ルシウスが思いもよらないような洞察があるのだと、なぜか理解できた。冬と名乗った男からは、きっとそうなのだ、と思わせる何かがあった。

「質問に戻りましょう。勝てるとしたら?」

「勝ちたい。勝たなくてはならない」

 ルシウスは躊躇いなく応えた。しかしヒエムスはその答えだけで許そうとはしなかった。

「そして? 追い払っただけでは再びやってきますよ」

「何を聞きたい? 私の戦う意味を問うているのか?」

(クレド)。私が聞きたいのはそれです」

 口の中でつぶやいてみた。

 志。

 胸のうちにあったもやもやとした思いに、やっと名がついた気がした。

 ルシウスは自分でも驚くほどにスラスラと語った。

「何の見栄えもしない丘に羊がいて、オリーブがまばらに植わっている。そんなつまらない故郷を守りたいと思っていた……はじめは。今はその先のことを成し遂げたいと思っている。この国の無様に乱れた有り様を正したい。私的な野心で国を裂くような愚か者どもを倒し、本来あるべき安寧の姿に戻したいんだ」

 ヒエムスはしばらく黙ったまま、ルシウスの瞳を見つめ続けていた。

 荒唐無稽な夢物語を語った。酒場で言えば一年は笑い話の肴にされるだろう。しかしルシウスは一つも気まずくならなかった。言葉にした自分の思いに感動さえして、生まれて初めて口に出した志なるものがきっと伝わったのだという確信に震えていた。

 やがてヒエムスはこくりと頷いた。

「明朝、部隊全員で南にまっすぐ走ってください。無様に逃げ帰っているのだ、そう思わせるように」

「思わせるも何も、事実その通りの姿ではあるがな」

「いえ、軍団の皆さまの戦意は落とさないでください。決着はあなたたちがつけるのですから」

「……つまり、援軍が来るのか? 騎兵一万の?」

 ヒエムスはじろりと娘のウェルを見た。少女は自信満々にたじろぎもしない。

「……実数は二千です。が、一万の騎兵に劣らない自信はありますよ。娘を嘘つきにしないためにも、そう答えておきましょう」

「信じたい。さて、どうすればいい?」

「七百から千パッスス*2程度で追いつかれるでしょうが、そこでこらえて下さい。この二人も残していきます。きっとお役に立つでしょう」

 ヒエムスが頷くと、少年がとびきりの笑顔で、少女が怜悧な瞳でルシウスのそばに立った。

「二人とも、気をつけるんだよ。ルシウス殿をよく助けなさい」

「はい、父上」

 二人同時に答えたがため、美しく響き合う音色になっていた。

 そしてそのまま、まるで買い出しのお使いを頼むかのような気楽な口調で頑張れと言い残し、あっさりと背を向けてヒエムスは消えた。

 ヒエムスが去ると、急に夢から覚めたような気になった。実際神話の神々が悪戯をしているのかもしれない。

 しかし振り返ると二人の妖精――ウェルとアエスタスは実在しており、ルシウスの瞳を興味津々に覗き込むのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(四)

 

「ルシウスさんはいつ隊長になったんだ? 若いよね、いくつ? やっぱ強いの? 一回俺と戦おうぜ!」

「すぐ戦う戦うはやめてよお兄。ルシウスさんは……きっとお父上がお偉い方なんだよ。御本人の資質はあったとしても、このお歳で指揮官におなりになるのは早すぎるから。もしかすると元老院かも」

「元老院ってなに」

「皇帝を除けば、ローマの政治の頂点だよ。ただ……諮問機関みたいなもので、昔はかなりの力を持ってたんだけど、今は形だけみたい」

「ふうん。力を削がれた宦官みたいなもんか」

「昔は元老院が承認しないと帝位の継承も承認されなかったらしいんだけどね」

「春蓮はそういうのどこで覚えるんだ?」

「父上」

「出た!」

「あと何度も言うけど真名で呼ばないでったら、夏月お兄」

「お前も言ってんじゃん。引き分けだろ」

 少年アエスタス、少女ウェルはこの調子で行軍中ずっと話しっぱなしだった。これからどういう戦に向かうのか本当に理解しているのだろうか? そう疑ってしまうほどに。

 少年アエスタスは何事にも興味津々、軍事に興味があるようで質問はそれに偏っていた。

 それに対して少女ウェルは博識と言ってもいいほどの知識量で、彼女の質問はローマの一級市民と遜色ないように思える。

 ルシウスは彼らの見た目にも注目した。

 ルシウスはもちろんローマ伝統のトーガを身にまとっているが、二人共遊牧民特有の足を包む袴下を着ている。そして当たり前のように見事な馬に乗っていた。

 アエスタスは赤馬、ウェルは黒馬。

 ルシウスの目から見ても、手に入れるためにはデナリウス銀貨を山と積まなくてはならないほどの名馬に見えたが、二人とも同じように感心しながらルシウスの愛馬であるフルメンを褒めてくれたので妙にむず痒くなった。

「……先ほど聞いた君たちの名は」

「待った。兄ちゃんが言っていい名前じゃないんだ」

 アエスタスが殺気じみた迫力でルシウスを止める。ウェルが間をおかず説明した。

「私たちの文化では、本当に心を許した大切な人にだけ伝える真の名があるのです。アジアから西ではあまり馴染みがないと思いますし、混乱を避けるためにギリシャ・ローマ風の名前を名乗ることにしているのです」

「理解するよ。異民族は少し馴染みにくい時代だ」

 けれど彼らの真の名をいつか聞きたい、と思ってしまった。

 そうこうしているうちに部隊は丘陵地帯から街道をいだく平地へとさしかかってきた。

 林から千パッスス。襲ってくるのであればここだろう。軍団兵から緊張と覚悟が伝わってくる。

のんびりしているのは双子の兄妹だけだった。

 朝日が東の空を塗り始めた頃、兄妹がほとんど同時に言った。

「来たぜ」

「来ました」

 夜明けの地平線から現れたように、騎馬隊が土煙を上げてこちらに向かってくるのが見えた。

 ルシウスは片手を上げて兵に待機を命じた。

 援軍が来る。兵には伝えてある。だが本当に来るのか? その確証はどこにあるというのだ。

 ヒエムスが自分を信じさせるために、双子の兄妹を同行させたのは理解している。だがそれでも援軍を連れてこられるか、何の保証もない。

 騎兵は見る間に数を増やしていく。

 土煙はローマ全体を覆うほどではないかと。

 ルシウスが抜剣を命じた。

「あーあ、ずるいな父上。とっくに始まってるよ」

「見て。お母様もいる」

「ということは……もう終盤じゃん」

「何を呑気なことを言っている」

 アエスタスが肩をすくめて指をさした。

「ルシウスさん、よく見てくれ。あれ、もう始まってるよ」

 目を凝らした。朝日の逆光と土煙でよくわからないが、確かに土煙が多すぎる。

 アエスタスの言う通りすでに戦闘は始まっている。

 敵の騎馬隊に、後方から騎馬隊で食らいついているのだ。

 練度も勢いもまるで違う。一糸乱れぬ連携で動く騎馬隊はまるで一匹の獣のようで、それも賢く強い、優れた狼のようだった。

 そして何よりも風のごとく敵兵を追い散らしていく。

 羊の肉を食らうように敵兵を破砕し続けていく様は、まさに万の数を揃えているかのようだった。特に先頭を行く巨馬に乗った戦士が見事だった。赤い髪をたなびかせ、巨大な槍のようなものを振り回しては血しぶきを上げている。

 敵兵は見る間にこちらに殺到してきた。寄せ手ではなく、逃げ惑う者として。見とれている場合かとルシウスは自らを叱咤した。決着をつけるのはローマ兵だとヒエムスは言った。見惚れていては叔父上の仇討ちの機会を逃してしまう!

 ルシウスは腹の底から声を上げた。

「レギオン! 約束通り援軍が来た。我らもこれより前面に押し出し、敵を殲滅する! そして指揮官の亡骸を故郷に戻してやるのだ。戦友の仇を存分に討て!」

 敗残とはいえ意気軒高のローマ軍兵士は、歓声を上げて前進を開始した。

 待ってましたとばかりに飛び出していくのはアエスタスとウェル。勇躍するように戦場に飛び込んでいった。

 アエスタスの持つ長物から布が弾け飛ぶと、そこには巨大な刃が現れ無惨な破壊力で敵を馬体ごと破壊し始める。ウェルの腕に仕込まれていたのはからくりで飛び出る矢のようで、目まぐるしく乱射しながら一騎また一騎と撃ち落としていく。

 そして二人からも避けるように敵兵が進路をずらした先には、我がローマ兵がいた。とっくに抜剣していたルシウス以下のローマ軍団は、大盾で殴るように正面から敵と激突した。

 

 ――決着は昼を待つまでもなかった。ただの一騎も取り逃すことなく、敵兵のほとんどを討ち取ってしまっていた。少数の捕虜は今後本拠地についての尋問が成されるだろう。

 

 まだ興奮冷めやらぬ中、ルシウスは眩しいものを仰ぎ見るようにヒエムスの騎馬隊を見た。

 黒馬にまたがった彼を先頭に、部隊がこちらに向かってくる。

 朝日を背にやって来る不思議に満ちた異郷の騎馬隊。

 無数の民族が混じり合う、まさに旅団。彼らの眼差しがすべてを物語っている。彼らは皆、ただ一人の男に心酔して付き従っているのだ。

 羨ましい、と思った。そして欲しい、と。そう思ったのはルシウスの軍人としての本能だった。

 この騎馬隊があれば、異民族に圧倒されることもなくなるだろう。いや、ローマをおびやかす悪しき者共を打ち払う剣になるはず。

 やがて陽光に旗が翻った。

 ルシウス・ドミティウス・アウレリアヌスにはその旗に刻まれた文字の意味はわからなかった。

 濃紺地に刻まれたその意匠は、彼の目にはただただ星に見えた。鮮烈な光を放射する極星。

 李。

 後で読み方を教えてもらおう、とルシウスは心に誓った。

 到着したヒエムスにルシウスはまっすぐ伝えた。

「ヒエムス殿。ご助力感謝します」

「いえ、何ほどのこともなく」

 心からそう思っているように、彼の言葉には何のてらいもなかった。これまでどれほどの激戦地をくぐり抜けてきたのだろうか。

「……この部隊はあなたの私兵なのですか?」

「私兵? うーん、定義としてはそうですが……」

 困ったように頭をかく。そこにはどこか少年のような趣があった。

「付いてくるなと言っても付いて来たがった変わり者ばかりで。エフタル、ペルシス、カスピ海周辺国にゴート、ガリア、ゲルマン……出身地さえバラバラの寄せ集めの集団です」

 後ろから野次が飛ぶ。ヒエムスへの罵倒だったが、それは心を許したものへの親愛の言葉でもあった。

「まぁ共通点は馬好き、戦好き、というところでしょうか。ここに至るまでも傭兵稼業で糊口をしのいできたようなものです」

「なるほど。費用は後でシルミウム市に請求して頂きたい」

「感謝申し上げます。ところで息子と娘はお役に立てましたか」

「まだ十代でしょうに、お見事でした」

「生意気なところがありますが、親の目ではかわいいもので」

 見ればアエスタスもウェルも、騎馬隊最強に違いない赤毛の戦士のもとに駆け寄っていた。

 驚いたことにあの戦士は女性だった。もしかすると母親なのか? だとするとヒエムスの妻か。

 根掘り葉掘り聞きたくなる衝動をルシウスは何とかこらえた。

「さて、これからどうされますか」

 どうする。帰るだけだ。そう答えようとしたが、なぜか急に羞恥に襲われルシウスは黙った。

 何をなすのか、それを聞かれているのだとわかったからだった。

 (クレド)。それに基づく行動を問われている。

 まっすぐ見つめてくるヒエムスの黒い目に、ルシウスは吸い込まれるような錯覚を覚えた。

 ルシウスは自分でも自覚していなかったであろう言葉を発していた。

「このローマの混乱を収めたい。勝手気ままに皇帝を自称する輩ども、国を名乗ってローマを裂いた者どもに思い知らせてやりたい。国はお前たちの玩具ではないのだと。人々の苦しみを何と心得るのか、と。私は軍団を手に入れ、敵を討ち、このローマを一つにまとめたい」

「――お見事です」

「そのためにも、お力添えを頂きたい」

 ヒエムスは静かに頷いた。答えを出してやってきていたのだ。ということはルシウスの気持ちを知っていたということだ。

 それはまた別種の羞恥をルシウスに与えた。

 悪い気はしなかったが、反撃を試みたい程度には悔しかった。

「ヒエムス殿。あなたの志もお伺いしたい」

 ヒエムスは陽光に背を向けた。眩しさにではなく、どこか遠くを見つめるように。

「私には誓いがあります。友を助けるという誓いが」

「友、ですか」

「はるか遠くに置いてきてしまいましたが、何よりも大切な友です……そのためにできることをします。ペルシスではアルダシールの息子、シャープールが即位して急速に西に勢力を伸ばそうとしている。それは私も望むところではない。そのためにもローマがこのままではだめなのです。どうやら想定より大きな影響を受けていて、見積もりが甘かったという他ない。蝶の羽ばたきが嵐を呼ぶという例えは嫌いなのですが、しかしこんな早くに割れるはずではなかった」

「申し訳ない、なにをおっしゃりたいのか……」

「単純なこと。これもまた、私の運命なのです」

 この男もまたモイライの呼び声にいざなわれた。

 ならば遠慮することはない。志を同じくする、馬鹿な夢を共に描く友の資格があるはず。

 しかしルシウスは急に気恥ずかしくもなった。壮大な夢を描くには、あまりにも小さな己に思えたから。照れ隠しの言葉を思わず吐いてしまった。

「……けれど過酷な道ですよ。三つに分かれた国を一つにまとめ直すなど」

「ああそれは……まぁ大変ですが、経験はあります」

「経験、ですって?」

「きっと何とかなるでしょう」

 何でもないことのように男は言う。ルシウスはいよいよ笑うしかなかった。

 いつの間にそばにやってきたのか、アエスタス、ウェルが言葉を続けた。

「父上がいれば大丈夫! それに母上もいるから負けるわけない」

「はい。敵の皆さんに同情してしまうくらい、ひどい策略で陥れてしまうのですから」

 勝つ、か。ならば勝とう。

 しかしもし三国を統一するとなれば、それはもはや皇帝に名を上げるのと同じことになる。

 皇帝――アウグストゥス。

 ならば副帝には彼を指名すべきか、とルシウスは考えた。

 副帝――カエサルとして。

 異郷の騎馬隊、風のレギオンを率いる冬の男。

 ルシウスの全身に熱い血が駆け回っていた。

 

 

*1
※1リブラは約320グラム

*2
1パッススは約1.48メートル




ご無沙汰しております。去年の冬コミでコピー本で発表した作品を改訂した作品です。
全然小説を書く暇もなくコピー本はひどい不出来で失礼しました…なんとか形にし直した感じです。
というわけで、ローマ編、完!

ちょっとだけ補足すると、ローマが割れたりするのはもう少し後なのですが、性格の悪いちびがやらかしすぎて異民族が早めに流れ込み、政情不安からローマ大混乱、ということを想定しています。
そう、全部お前が悪い。お前がなんとかしろ。そんな感じです。
パルミラのゼノビア女王も史実と違ってかなり若くて、きっとなのじゃなのじゃ、な感じなんでしょうね。しらんけど。

しかしまぁ……本業があまりにも忙しくて小説趣味が全くおろそかになり、非常に苦しい感じです。皆様のご健康を祈りつつも、まずは自分だな……と自省して筆を置きます。
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